三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ2009年1~6月)

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Re: 認識階層方向の観測選択効果
投稿者:φ 投稿日:2009年 6月11日(木)20時52分59秒
> No.2274[元記事へ]

BTXさんへのお返事です。

>
> # というわけで「これだから複雑系は」という感想も
> # もちろん、目には目を、レッテル返しなわけですよね(笑)

 まったくです。
 しかし複雑系は、自然選択以外の自然な要因で生物が(しかも複雑で機能的な方向へ)進化しうる、という反適応主義の立場であると解すると、私はやっぱり懐疑的です。

 適応では説明しがたい生物進化のもろもろの謎(たとえば人間の脳の巨大化)は、
とことん適応主義で考えて、どうしてもうまくいかないときは、複雑系のいかがわしい自然法則で説明しようとするのではなく、ランダムな変異が観測選択効果によって選ばれたもの、と統計的な偶然論で理解するのが正しい道だと考えています。

 ただし、知性の進化とは関係ない系統において「飛躍」が認められたら、観測選択効果は使えず、複雑系に助けを求めねばならないことになるでしょうね。


Re: 認識階層方向の観測選択効果
投稿者:BTX 投稿日:2009年 6月11日(木)02時50分13秒
> No.2263[元記事へ]

φさんへのお返事です。

ご返信ありがとうございます。
本題もまだ考えてるのですが
バイオコスムをちょっと読みました。

人間原理についてはもどかしい限りですね。
「私たちは観測できる宇宙は私たちが観測できるようなものでしかない」
がトートロジーだからダメという言われ方をされてますが、
それがトートロジーだからこそ、それを後件においた
「かくかくしかじかだから、私たちが観測する宇宙は私たちが観測できるものだった」
の「かくかくしかじかだから」の前件部分はなにも必要ないのだ、
と言えるという、そっち外部の方が人間原理なのに。
しかも宇宙の性質に言及しているのは正しくは「強い」方なんですが。
「強い」方はさらに曲げられてます。

「人間原理」、正しい解釈、誤った解釈、いろいろあっても
なんか間違った解釈ほど反駁・引用しやすく普及しやすい
みたいな淘汰圧がある気がします。
それでいて正しく使ってエネルギー注入する人もいるわけで
用語としては自説展開するためのいい道具になるのでしょう。
間違ってるんですが。

# というわけで「これだから複雑系は」という感想も
# もちろん、目には目を、レッテル返しなわけですよね(笑)


Re: 『論理学入門』についてご質問させてください
投稿者:φ 投稿日:2009年 6月10日(水)02時28分32秒
> No.2272[元記事へ]

バサラさんへのお返事です。

冗談、皮肉、暗示、引用、挙例、発声練習、お習字、などと並んで、
虚構、仮定  なんぞも重要な例でしたね。

 細かいところをツツいていただけると、私も細かい部分に自覚的になることができ、助かります。
 またいつでもどうぞ。


Re: 『論理学入門』についてご質問させてください
投稿者:バサラ 投稿日:2009年 6月 9日(火)21時14分30秒
> No.2271[元記事へ]

φ様

早速のお返事、誠にありがとうございました。

>  御質問の趣旨が掴めていないかもしれませんが、次のようなことでしょうか。
>  すなわち、
>  A「これは主張されていない」 が書かれたか話されるかした時点で、すでにAは主張されているはずであり、「Aが主張されていないのなら」という仮定は事実に反する、――という趣旨でしょうか。
>
左様です。
質問時の表現の仕方が適切でなく、恥ずかしい限りです。

私はある文が発話されることと、それが主張されることを同一視していましたが、それがそもそもの誤りだったのですね。
また、提示という言語行為は認知していませんでした。(というか、語用論の勉強不足です)
勉強になりました。
φ様のお返事を受けまして、いつかAustinやSearleをしっかり読もうと決意しました。

私は言語学畑の学生なのですが、モンタギュー意味論に始まる形式意味論にも関心を持っており、必然的に論理学にも触れています。
『論理学入門』はI章を読み終えたところですが、命題論理だけであれだけ面白い議論ができるのか!と感動し、ロジカル・ハイの芳味を体験できました。また、同書で質量含意の言わんとすることが、大分鮮明になりました。

またご質問させていただくことになると思います。
ありがとうざいました m(_ _)m


Re: 『論理学入門』についてご質問させてください
投稿者:φ 投稿日:2009年 6月 9日(火)02時17分5秒
> No.2269[元記事へ]

バサラさんへのお返事です。

第16節p.133 A「これは主張されていない」の中の「これ」は、
A自身を指すものとして執筆しました。

>
>しかし、A「これは主張されていない」と書かれた、もしくは話された時点で、
>Aという言明は出現しているので、引用の中の“この文が主張されていないのなら、”
>という部分はそもそも出てくる余地がないのでは。
>

 御質問の趣旨が掴めていないかもしれませんが、次のようなことでしょうか。
 すなわち、
 A「これは主張されていない」 が書かれたか話されるかした時点で、すでにAは主張されているはずであり、「Aが主張されていないのなら」という仮定は事実に反する、――という趣旨でしょうか。

 とすれば、お答えは以下のようになりそうです。

 「これは主張されていない」と述べられただけでは、それが発話者によって主張されているかどうかは定かでありません。冗談で言ったのかもしれないし、皮肉、暗示、引用、挙例、発声練習、お習字などかもしれません。

 現に、いま、バサラさんや私がこうして書いている
  これは主張されていない
 そのものが(『論理学入門』の中の同文もそうですが)、言語行為としては単なる「提示」であり、主張されていません。

 こういった場合、「これは主張されていない」は主張されておらず、したがって、述べている内容そのものは真となります。
 主張されていないのなら真偽がないのではないか、とも言われそうですが、内容的に有意味なので真偽そのものは認めることができ、明らかに真です。

 「私はこの文を信じていない」も同様です。

 このような答えでよかったでしょうか?


『論理学入門』についてご質問させてください
投稿者:バサラ 投稿日:2009年 6月 8日(月)22時47分35秒
φ様

はじめまして、『論理学入門』を読ませて頂いております。
やっとI部まで読みきったのですが、1つ理解できない部分があったので、
ご質問させていただきたく思いました。

第16節p.133の2つ目の段落の、
「これは主張されていない」という前節で登場した語用論的前提の否定についての箇所です。
“この文が主張されていないのなら、この文は主張されていない真の文である。”と述べられています。「これは主張されていない」をAという名前を付けるとすると、Aの中の「これ」がA自身ではなく、Aとは異なる文を指示しているのならば、上の引用部分の内容は納得がいきます。

しかし、A「これは主張されていない」と書かれた、もしくは話された時点で、Aという言明は出現しているので、引用の中の“この文が主張されていないのなら、”という部分はそもそも出てくる余地がないのでは。
このように思いました。

稚拙な問題で申し訳ありません。
ひょっとして、当方が何か根本的なことを理解していない、何か誤解をしているのならば、ご指摘よろしくお願い致します。


Re: モードゥス・トレンス
投稿者:φ 投稿日:2009年 5月29日(金)01時58分57秒
> No.2267[元記事へ]

メタメタさんへのお返事です。

>
> ①太郎が花子を刺殺したならば、太郎の手には血がついている。
> ②太郎の手には血がついていない。
> ③したがって、太郎は花子を刺殺していない。
> は妥当な演繹になるようですが
> もしも、太郎が手を洗ったり血を拭き取っていたら
> 太郎は花子を刺殺したにも関わらず 手に血がついていないことになりますね。

 ①PならばQ
 ②Qでない
 ③したがって、Pでない

 ここで、Qは全体を通じて同じ命題でなければなりませんね。
 ①で言われているかぎりの「血がついている」は、メタメタさんの想定では、血を拭き取る前の描写でしょう。つまり、「血を拭き取る等しなければ」が省略されています。
 ★したがって正確には、2箇所のQの位置には、RならばQ(拭き取られなければ、太郎の手には血がついている)を置くべきです。

 ①Pならば、RならばQ
 ②(RならばQ)ではない
 ③したがって、Pでない

 ②の (RならばQ)ではない は、 R かつ Qでない の意ですから、
 太郎が血を拭き取ることをしなかったにもかかわらず手に血がついてない、ということで、太郎は刺殺していない、という結論で違和感ないでしょう。

 ★他方、前提を文字どおり読むもう一つの考え方。

 ①太郎が花子を刺殺したならば、太郎の手には血がついている。
 を正しいものと前提した以上、血を拭き取ろうが何をしようが刺殺者の手には必ず血がついているものだ、と前提したことになります。
 したがって、血を拭き取ろうが何をしようが関係なく、現に太郎の手に血がついていないならば(②)、太郎は刺殺していない、と結論すべきでしょう。


モードゥス・トレンス
投稿者:メタメタ 投稿日:2009年 5月28日(木)22時05分45秒
モードゥス・トレンスについて
①太郎が花子を刺殺したならば、太郎の手には血がついている。
②太郎の手には血がついていない。
③したがって、太郎は花子を刺殺していない。
は妥当な演繹になるようですが
もしも、太郎が手を洗ったり血を拭き取っていたら
太郎は花子を刺殺したにも関わらず 手に血がついていないことになりますね。
対して
①a星が恒星ならば、中心部で核融合反応が起こっている。
②a星は核融合反応が起こっていない。
③したがって、a星は恒星ではない。
は必ず結論が真になります。
前者と後者の違いは何ですか?
特称命題と全称命題ということですか?

そもそも 前者、後者とも 演繹の形式としては妥当ということですか?


Re: 数学、直観、言語、コンピューターについて漠然と
投稿者:φ 投稿日:2009年 5月26日(火)04時08分13秒
> No.2264[元記事へ]

余無さんへのお返事です。

>
> 一方において、囲碁のような高級直観芸道が、未だに東アジアの独壇場であるのも不思議です。
>
> コーカソイドでは、確かロシア人が日本棋院の初段クラスにいるくらいだったと思います。
>

 人種的な生物学的差異と、文字言語構造など環境による差異の、いずれが創造性や技能の差異をもたらしているのかについては、単純な興味を覚えます。日本の学者は、欧米の学者に比べて、学識そのものはまさっていることが多いのに(知識量とか外国語の読解力とか最新学説への目配りとか)、独創性では格段に落ちる、という一般的事実の原因は、是非とも知りたいところです。

 フィリップ・ラシュトンという人種オタク的研究をやってる人の調査では、

 知能の高さ(脳重量、シナプス密度)は
       モンゴロイド>コーカソイド>ネグロイド
 新奇性好みの遺伝子(創造性の源)の数量は
       モンゴロイド<コーカソイド<ネグロイド

 これを信ずるなら、コーカソイドは、ほどよい頭の良さとほどよいアグレッシブさを備えているために、ちょうどうまく創造的科学を発達させた、ということになるのでしょう。
 双子の出産率とか子どもの発育速度とか、実証的な人種差とリンクしているので、まるっきりトンデモとも言えず、参考になります。

 私は、人種の異なる女のヌード写真を並べて見るのが好きなのですが、
 たとえば同縮尺で(というより頭頂からかかとまで同じ高さになっている写真を比べると)、コーカソイドとモンゴロイドとでは、当然ですがはっきりプロポーションが異なります。
 モンゴロイドは顔(頭)が劇的にでかく、脚がこれも劇的に短い。けっこう萌える差異です。
 「こんな頭のちっちゃい人種が頭いいはずないな」と思いつつ、手足の長さを見ると、「攻撃力じゃこりゃかなわんよなあ……」とつくづく思うわけです。


数学、直観、言語、コンピューターについて漠然と
投稿者:余無 投稿日:2009年 5月25日(月)15時50分47秒
> No.2256[元記事へ]

御礼遅れ、失礼つかまつりました。

> 演繹的理性について、
> ゲーデルの定理は存在論的な側面から、チューリングの定理は認識論的な側面から、制約を明るみに出したものかなと漠然と解釈しております。

なるほど、「認識論」と「存在論」の違いですね。
その辺は、私も漠然と捉えておくことにしておきます。
ご指摘、ありがとうございます。

> それらの論文作成法は、一種の万能アルゴリズムですね。もちろん皮肉です。

「皮肉」であるとは、薄々とは思っていましたが…。すみません、馬鹿正直なもので…

むしろ、私自身が、「リーマン予想」は現場の数学であるがゆえに、解決は可能であり、
より基礎論に近い「P≠NP」予想が、ZFC独立であると漠然と思ったのが不思議です。
根拠に乏しい経験論であるといってしまえば、それまでですが。

コーヘン以来、基礎論学者はフォーシングの手法を洗練させてきたようですが、その使い方となるとまさに、直観以前の「万能アルゴリズム」に頼っているとしか思えません。

ゲーデルによる連続体の濃度は「アレフ2」という直観的言辞も、理解者がないままにどこかに追いやられた感じがします。

> 東アジアの言語は、アルファベットのように音素で区切られず、音節によって区切られているため、音声言語の自然的習慣に密着しすぎて、概念とシンボルの分離の意識を妨げ、分析的な思考を育むのに障害となったのだと。
> 確かに、創造性のためには、シンボル操作によって本能的思考を引き裂いてゆく必要があると思われます。

人種論的にこれを言われると、ちょっと悔しい気もしますね。
ハングルなどは音素文字じゃないんですか?

それはともかく、アルファベットによって「シンボル操作」が可能というのは、暴論には近いですが、現状を見るとある程度納得はいきます。

関孝和は同時代のライプニッツやオイラーの高みにまで達していたのにかかわらず、和算は高級芸道に落ちぶれて科学の地位を失いました。

そもそも、東アジアには「科学」が自然と育つ土壌がなかったのでしょう。

一方において、囲碁のような高級直観芸道が、未だに東アジアの独壇場であるのも不思議です。

コーカソイドでは、確かロシア人が日本棋院の初段クラスにいるくらいだったと思います。

この対照性も興味が沸くところではありますが、深みにはまるとあらぬ方向に行きそうなので、まだ議論に乗せるべきではないですね。

> アルファベットよりも暴力的にその仕事をしてくれるのが数学なのだと思います。

私自身は、「数学もまた然り」、さらにはコンピュータリゼーションこそが、大衆へのアナーキーな「知の解放」をもたらすものと信じています。

もっとも、言うは易しの原理で、大方の技術者が目前のプログラミングとデバッグで疲れ果てて、「解放」どころじゃないという悲しい現実もあります。

でも、「数学」というのは所詮は有限な記号列の構文の集積なので、コンピュータ展開するのは現状のチューリング・マシンでも不可能じゃないとは考えています。

そこから、私たち人類が思いもしなかった、数学の分野が拓ける可能性もあるのではないのでしょうか?

妄想かもしれません。

以上、お忙しいところ、失礼いたしました。

http://ameblo.jp/coredumped-turing/


Re: 認識階層方向の観測選択効果 投稿者:φ 投稿日:2009年 5月20日(水)13時14分50秒  
> No.2262[元記事へ]

BTXさんへのお返事です。

 観測選択効果と帰納的推論を組み合わせたような感じでしょうか?

>
> ★現在直面しているものは認識階層の真の淵ではなく、無限の認識階層の中の単なる技術限界である。
> ◎(宇宙を超えた)世界には地球人以外に生命体が存在する
> (=生命体は常に彼らの観測限界を「宇宙」、自分たちを「地球人」と呼ぶ)
> (=★の空間的ブレークダウン)
> ◎ここは現実ではなく無限シミュレーション階層の中の覚醒の単なる技術限界である
> (=★のシミュレーション階層的ブレークダウン)
>

 空間的◎の事前確率は大きい(宇宙が無限大なら確率1)のに対し、
  シミュレーション階層的◎の事前確率は不明ですね。
  ただ、私たち自身がシミュレーション意識を創れることが証明できれば、事前確率は飛躍的に上がるでしょう。

> 認識階層方向の観測選択効果によって、
> この★や◎が確率の高い事象であること、または真であることが言えたりしないでしょうか。
> つまり、階層全体の中の少なくとも1階層にでも "技術的" 観測限界が生じる可能性が高いなら、
> それだけで★は確率の高い事象だとは言えないでしょうか。
> (☆の条件節の証明が無理なのかも知れないですが)
>

 観測限界が生じる可能性が高いというだけでは、★の確率は高いと言えないでしょう。
 むしろ、観測限界が生じることが必然的だからこそ、われわれ(地球人)以外に知的意識生命体が存在する確率については何も言えない、というのが観測選択効果の趣旨だからです。
 つまり、単純にコペルニクス原理をあてはめれば銀河系に多数の意識生命体がいそうだが、意識生命体の多寡にかかわらず、観測選択効果により私たちは意識生命体でしかありえず、しかもただ一箇所の知的生命体でしかありえないので、多寡については何も推測できないことになるからです。

 ですから、
 「観測限界が生じる可能性が高いなら」
 ではなく、
 「複数の観測限界が成立していることがわかれば」
 ★の確率は高い、ということになるでしょう。

 ただし空間的◎の場合、「独立に成立していることがわかれば」というべきでしょうか。
 地球上の他の島や大陸に文明があることがわかった、ということでは、他文明は私たちと系統的に独立ではありませんから、地球外に文明があることの証拠にはなりません。つまり、他に一つ文明を見つけたことにより、水平的な(地球上の)多文明は推測できても、垂直的な(太陽系、銀河系……)多文明は推測できません。
 もちろん、DNAを持たない自然発生的知的生物が発見されれば(地球人と独立の宇宙人、あるいは地球上でも別起源の知的生物)、銀河系内に知性がたくさんある証拠になります。

 シミュレーション階層的◎の場合は、本質的に階層どうしが因果的に繋がっていますから、独立性条件は関係なく、複数の観測限界が成立していることがわかっただけで、★の確率は高まりますね。

 私自身の考えは、

 観測可能宇宙(半径137光年以内)に地球人以外の知的生物はいないが、宇宙全体には無数に存在する。
 私たちの現実が無数のシミュレーション階層の一つであるかどうかは、私たちがシミュレーション世界に意識生命体を創れるかどうかにかかっており、その確率は低くない。

 というものです。
 なお、
 シミュレーションアーギュメントの一種をジェイムズ・ガードナー『バイオコスム』(白揚社)という本が展開しており、期待して読みましたが、ろくでもない目的論系の本でした。
 複雑系というのはダメな学問なんだな、という偏見を強めてしまいました。


認識階層方向の観測選択効果 投稿者:BTX 投稿日:2009年 5月19日(火)23時50分13秒  
はじめまして。
初めて書き込みさせて頂きます。
三浦先生の著書をおおよそ一通り読んだ上での
宇宙人の存在やシミュレーション・アーギュメントの話題です。

・アフリカ人ははじめアフリカ人を「我々」と呼び、我々以外は存在しないと思っていた。
あるときヨーロッパ人がやってきたので、彼らはその考えを捨てた。
いろんな人種をまとめて、彼らは自分たち地球人類を「我々」と呼ぶことにし、
我々以外は存在しないと思った。
こうして現在に至るが、外の世界はまだ存在する。

・被シミュレーション体は、そのシミュレータ内世界を現実と呼び、
それ以上の現実は存在しないと思っていた。
あるときシミュレーションから目覚め、彼らはその考えを捨てた。
そして目覚めた先の世界を「現実」と呼ぶことにし、それ以上の現実は存在しないと思った。
でもそれは実はシミュレーション世界であって、
あるとき彼らはシミュレーションから目覚め、彼らはその考えを捨て…
これを繰り返してもう全然それ以上覚めない世界を「現実」と呼んだ。
こうして現在に至るが、外の世界はまだ存在する。

と、こんな議論は有益でしょうか?
観測選択効果が、「我々」「現実」に対する認識階層方向に働いて、
ある種の哲学が必要になる時には常に、必然的に、
「我々」は "技術的な" 観測限界の淵にいるのだ、ということです。

私たちも、一時は実際にロールプレイング・ゲームやさらにその中のミニゲームの主人公であったし、
ときには小説内の主人公であったこともあり、
それらのシミュレーションからの覚醒を何度も経て技術的な認識限界に達したから、
という理由でのみここが現実だと信じているだけなんじゃないか、
と思ったので書いてみた次第です。
(これが言えるためには一応条件節があって、
☆認識階層は無限に存在する、というのが必要かと思われますが)

別件をとなえるとすると、

★現在直面しているものは認識階層の真の淵ではなく、無限の認識階層の中の単なる技術限界である。
◎(宇宙を超えた)世界には地球人以外に生命体が存在する
(=生命体は常に彼らの観測限界を「宇宙」、自分たちを「地球人」と呼ぶ)
(=★の空間的ブレークダウン)
◎ここは現実ではなく無限シミュレーション階層の中の覚醒の単なる技術限界である
(=★のシミュレーション階層的ブレークダウン)

認識階層方向の観測選択効果によって、
この★や◎が確率の高い事象であること、または真であることが言えたりしないでしょうか。
つまり、階層全体の中の少なくとも1階層にでも "技術的" 観測限界が生じる可能性が高いなら、
それだけで★は確率の高い事象だとは言えないでしょうか。
(☆の条件節の証明が無理なのかも知れないですが)

p.s.
本ではサプリメント戦争が好きです。


(無題) 投稿者:ウイング 投稿日:2009年 5月17日(日)13時15分6秒  
ご丁寧にありがとうございます。

推薦図書をアマゾンで調べた所、どれもそれほど高くなく
安価な値段で手に入りやすいようで助かりました。
論理学の基礎の基礎から鍛え上げたいので
「新版 現代論理学」を購入しました。
三浦さんの著書も大変興味深いので
ぜひ購入させていただきます。
今回は本当にお世話になりました。
短文ながら感謝の意を表します。


Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2009年 5月16日(土)03時17分43秒  
> No.2259[元記事へ]

ウイングさんへのお返事です。

論理学は、自然科学と違って「最新の成果」を気にする必要はさほどありませんから、
古いものでも読む価値大の名著がたくさんあります。

 哲学的論理学のイチ推しは、

 ハンス・ライヘンバッハ『記号論理学の原理』(大修館書店)

 ↑が分厚くてタジタジの場合は、

 オールウド、アンデソン、ダール『日常言語の論理学』(産業図書)

 哲学に気をとられずじっくり練習問題を解いて実力向上するには

 坂本百大、坂井秀寿『新版 現代論理学』(東海大学出版会)

 その後も良書は出ていますが、以上3冊を超えるものはなかなか見つかりません。

(無題) 投稿者:ウイング 投稿日:2009年 5月16日(土)02時14分47秒  
早速の返信ありがとうございます。

>『論理学がわかる事典』は、日本実業出版から新装版が出る予定ですが、1年くらい先になるかもしれません。

おお…新装版は大変嬉しいのですが一年先となると厳しいですね^-^;
しかし、哲学にも大変関心があるので可能世界の哲学を読んでみますね。

推薦の現代論理学Ⅰ.Ⅱですが
Ⅰはなんとか安いのがありましたがⅡは高くて諦めます…。
近くの図書館にありましたので今度借りてみますね。
そして現代論理学Ⅰ.Ⅱ以外で推薦のがありましたら助かります。
参考図書で検索しても数が多くて
専門の方に聞くのがいいかと思いまして…。


Re: 論理学の本 投稿者:φ 投稿日:2009年 5月16日(土)01時00分43秒  
> No.2257[元記事へ]

ウイングさんへのお返事です。

 『論理学がわかる事典』は、日本実業出版から新装版が出る予定ですが、1年くらい先になるかもしれません。

 初級向けには『論理学がわかる事典』が最適なのですが、
 コンパクトに入門、という場合は『論理学入門』(NHKブックス)をどうぞ。ただし哲学の話題が多めです。
 哲学で使う程度の様相論理学の基礎の基礎なら『可能世界の哲学』(NHKブックス)でも十分です。

 論理的誤謬の具体例を解説したものとしては、最近作『戦争論理学』(二見書房)がありますが、記号論理学は含んでいません。

 あとは、論理学というよりも哲学の本になってしまいますね。

 すべての論理学の教科書の中から、ただ一冊お薦めするとしたら、断然

 ジョン・ノルト、デニス・ロハティン『マグロウヒル大学演習 現代論理学』(Ⅰ)(Ⅱ)

 でしょう。(ただしそれも品切れの模様)
 ↑は、哲学には立ち入らずに論理学の基本を平明に解説した超実用的な名著です。


論理学の本 投稿者:ウイング 投稿日:2009年 5月15日(金)23時55分13秒  
はじめまして。
論理学の入門書で
三浦さんの「論理学がわかる事典」が隠れた名著と評価されており
早速購入しようと思いましたがどこも品切れ状態で中古も高くて困っております。
その他の三浦さんの著書で論理学が一通り知ることができる著書はありますでしょうか?
(場違いだったら削除してもらっても構いません)


Re: 数学の問題の解き方 投稿者:φ 投稿日:2009年 5月 7日(木)04時49分27秒  
> No.2255[元記事へ]

余無さんへのお返事です。

>
> 私の理解の範囲内では、チューリングの停止性問題は、「不完全性定理」の同義、もしくは縮小版なので、数学者は常に己の抱えている問題が、「解くこと自体が不可能な問題」かもしれないという微妙な不安におびえていると思います。
>

 演繹的理性について、
 ゲーデルの定理は存在論的な側面から、チューリングの定理は認識論的な側面から、制約を明るみに出したものかなと漠然と解釈しております。
 ただ、この種の生煮えの言辞を弄するとポモの悪例に倣うことになってしまうので、まあ、論ずるよりは黙って使う、つまりよほど必要なときに必要な基礎的装置だけ(古典論理とかベイズの定理とか)に頼る姿勢を保つに越したことはないかもしれません。

>
> φ様の言っておられる手法は、データ・マイニング、ないしはテキスト・マイニングになるかと思われますが、それは網羅的帰納法の統計学的扱いでは?
>

 「数学以外の学問において、問題を解く(論文を作り上げる)万能アルゴリズムがあるような気もする」と言ったのは、たとえば文学系の論文を見ていると、ほとんど作品の粗筋の紹介に終始する代物が見受けられるからです。
 自然系でも、データを整理するだけ、というのがあるのではないでしょうか。
 それらの論文作成法は、一種の万能アルゴリズムですね。もちろん皮肉です。

 数学の論文なら、たぶん定理の一つも証明しなければならないでしょうから、その限りで万能アルゴリズムには頼れないだろうと。

>
> 演繹的論理を思考するという機能が人間にもたらされたのは、やはり言語が介在するところが大きいのではないのでしょうか?
>
> 生物の進化が原始的なデータ・マイニングとしての帰納法的思考法から、人類のもつ(あるいはボノボや鴉にもあるのかもしれませんが)演繹的思考法に発達したのも、言語という偶然の道具による作用が大きいと思います。
>

 言語と思考、言語と創造性についてはいろいろ興味深い研究がなされているようで、最近「う~ん……」と思ったのは、

Evolutionary And Neurocognitive Approaches to Aesthetics, Creativity And the Arts (Petrov Vladimir M., Martindale Colin, Locher Paul, eds., Baywood, 2007)所収の
 "The Alphabet and Creativity" という短い論文。
 副題が Implications for East Asia
「なぜ中国・日本・韓国は、経済発展は遂げても独創的な科学理論を作り出さないのか?」という内容。
 要は、アルファベットを使わないから、と。
 東アジアの言語は、アルファベットのように音素で区切られず、音節によって区切られているため、音声言語の自然的習慣に密着しすぎて、概念とシンボルの分離の意識を妨げ、分析的な思考を育むのに障害となったのだと。
 確かに、創造性のためには、シンボル操作によって本能的思考を引き裂いてゆく必要があると思われます。
 東洋医学の「気の流れ」のように、実感にもとづいた表現というのは意外と新味がなく、誰が言ってもみな似たり寄ったりなので、やはり記号的操作によって本能的思考を裏切っていかねば新境地へ至れませんよね。
 アルファベットよりも暴力的にその仕事をしてくれるのが数学なのだと思います。
 余無さんの

 >
 >学問が言語によって記述される以上、それは数学に帰着されるものだというのが、
 >私の現在の考えです
 >

 が、「数学こそ究極の創造性の源である」という趣旨だとしたら、その見方に私も賛成です。
 

Re: 数学の問題の解き方 投稿者:余無 投稿日:2009年 5月 6日(水)06時35分36秒  
> No.2254[元記事へ]

初めてこちらに投稿します。
生齧りの知識ですので、不適切な発言がありましたら、ご指摘ください。

>  数学の論証を形作る演繹推理そのものはアルゴリズム以外の何物でもないのでしょうが、どんなアルゴリズムで解けばよいのか、を教えてくれるアルゴリズムはない、というわけですね。

もし、このことが示されれば、ゲーデルの第二不完全性定理に反しているのではないのでしょうか?
メタアルゴリズムは存在しないというのが、第二不完全性定理の意味するところだと思います。
万能アルゴリズムが存在するとすれば、それはどのような定理に対しても、証明可能か否かを決定してしまうので、「体系の無矛盾性について証明できる」ということになってしまうと思います。

KONKONさんのおっしゃっておられる

>  あらためて停止性問題を丁寧に読みこんでみたところ、
>  僕はこれを正しく理解していなかったようです。
>  「解くこと自体が不可能な問題が存在する」ものだと解釈しておりました。
>  それだと、数学者は皆怯えながら問題に取り組まなければなりませんね。
>  これはこれで、別の問題として興味深いのですが。

という発言は、根拠のあるものだと思います。

私の理解の範囲内では、チューリングの停止性問題は、「不完全性定理」の同義、もしくは縮小版なので、数学者は常に己の抱えている問題が、「解くこと自体が不可能な問題」かもしれないという微妙な不安におびえていると思います。

もっとも「現場の数学」であるリーマン予想やナビエ-ストークス方程式問題が、そうであるだろうという可能性は非常に低いと思われますが。

基礎論に近い、P≠NP予想などが、もしかして連続体仮説と同じくZFC体系から独立であると示されるのではないかとも思っていますが、これは私が計算量問題を誤解しているだけかもしれません。

>  むしろ数学以外の学問において、問題を解く(論文を作り上げる)万能アルゴリズムがあるような気もします。ひたすらデータをとって統計処理したり、ひたすらテクストを読んで他のテクストと人名や地名を比較したり……、

学問が言語によって記述される以上、それは数学に帰着されるものだというのが、私の現在の考えです。

φ様の言っておられる手法は、データ・マイニング、ないしはテキスト・マイニングになるかと思われますが、それは網羅的帰納法の統計学的扱いでは?

>  数学とは、学問の中で(構造的には)最も論理的でありながら、(実践的には)最も直観の占める割合の大きい分野ではないでしょうか。

確かにそうですね。
私がその直観を失ってから久しいですが。

演繹的論理を思考するという機能が人間にもたらされたのは、やはり言語が介在するところが大きいのではないのでしょうか?

人間の言語は、共同体生活を維持するために、他者が何を考えているかを推測するものとして発達したものと思われます。

他者の考えを把握するのは一瞬の直観による暗黙知ですが、その思考法を共有化するのには外在化された明示知としての言語が必要であり、解釈に揺らぎのないものに洗練された結果として論理や数学があるのだと思います。

生物の進化が原始的なデータ・マイニングとしての帰納法的思考法から、人類のもつ(あるいはボノボや鴉にもあるのかもしれませんが)演繹的思考法に発達したのも、言語という偶然の道具による作用が大きいと思います。

人口知能が大きく足踏みしているのも、コンピューターが演繹論理をまず実装されてしまったという逆進化の所産でしょう。

以上、僭越ながら失礼いたしました。

不勉強な点、重々お詫びいたします。
http://ameblo.jp/coredumped-turing/


Re: 数学の問題の解き方 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月26日(日)04時07分7秒  
> No.2253[元記事へ]

KONKONさんへのお返事です。

>
> 僕は「√2が無理数であることを証明するには背理法を使うとよい」
> と言われると
> 「なんで背理法を使うと上手くいくのか、論理的に説明して」
> と問いたくなって、なかなか勉強が進みませんでした。

 「この問題には背理法が適している、いや数学的帰納法が適している、云々」といった判断自体、アルゴリズムではなく直観ですよね。(何かが「無い」ことを証明する場合は背理法で、等のアルゴリズムが漠然とあると言えるかもしれませんが……、)

 数学の論証を形作る演繹推理そのものはアルゴリズム以外の何物でもないのでしょうが、どんなアルゴリズムで解けばよいのか、を教えてくれるアルゴリズムはない、というわけですね。
 むしろ数学以外の学問において、問題を解く(論文を作り上げる)万能アルゴリズムがあるような気もします。ひたすらデータをとって統計処理したり、ひたすらテクストを読んで他のテクストと人名や地名を比較したり……、
 数学とは、学問の中で(構造的には)最も論理的でありながら、(実践的には)最も直観の占める割合の大きい分野ではないでしょうか。
 

Re: 数学の問題の解き方 投稿者:KONKON 投稿日:2009年 4月25日(土)20時58分57秒  
> No.2252[元記事へ]

φ様、

大変丁寧な解説をありがとうございました。

あらためて停止性問題を丁寧に読みこんでみたところ、
僕はこれを正しく理解していなかったようです。
「解くこと自体が不可能な問題が存在する」ものだと解釈しておりました。
それだと、数学者は皆怯えながら問題に取り組まなければなりませんね。
これはこれで、別の問題として興味深いのですが。

ナンセンスな質問でした。すみません。

僕は「√2が無理数であることを証明するには背理法を使うとよい」
と言われると
「なんで背理法を使うと上手くいくのか、論理的に説明して」
と問いたくなって、なかなか勉強が進みませんでした。
そんな中での『論理学入門』の例の一節や先程のお返事は、
上のような問いで悩まなくてもよいことが論理的に裏付けられていると教えてくれて、
なんだか宗教的な救いにも思えました(笑)

よく数学の先生は「よく理解して問題を解きなさい」
と言いますが、どこまで理解できて、どこから直感に頼るべきか、
はっきり示すべきですね。

>  数学については素人なので、根本的におかしなことを言っている可能性もあります。(『論理学入門』の論旨に影響がないことを祈りますが)
>  問題あればどうぞご教示ください。

もしこの定説を破る世界的な大発見を成し遂げたときは、
真っ先に報告に参ります。

それでは、ありがとうございました。


Re: 数学の問題の解き方 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月25日(土)03時16分16秒  
> No.2251[元記事へ]

KONKONさんへのお返事です。


> これを大学の先生に尋ねたところ、チューリングの停止性問題のことだと答えられましたが、
> 停止性問題の場合は「この宇宙上に、論理的に解けない問題が存在する」ことを示唆しており、
> 本の中にある「任意の問題を解くアルゴリズムがない」こととはまた違いますよね。
>

そうですね、チューリングの停止性問題を念頭に置いてました。

 「任意の(もしくはある仕方で定義されたクラスに属するすべての)数学問題を解くためのアルゴリズムは存在しない」というのが、ふつう、チューリングの停止性問題の言い表わし方ではないでしょうか。(たとえば今手近の本から選んだペンローズ『皇帝の新しい心』第2章でも、そのような表現法が多用されています)

 KONKONさんが認めるように「論理的に解けない問題が存在する」すなわち「アルゴリズムで解けない問題が存在する」のであれば、当然、「任意の数学問題を解くためのアルゴリズムは存在しない」ことになるのではないでしょうか。
 対偶を考えればこの含意は明らかです。任意の数学問題を解くためのアルゴリズムが存在するのであれば、(その)アルゴリズムで解くことのできない問題は存在しないことになり、テューリングの結果に反することになります。

 さてもちろん、「任意の数学問題を解くためのアルゴリズムは存在しない」からといって、「特定の問題(たとえば最大の素数があるかないかを決定する問題)を解くためのアルゴリズムが存在しない」ことにはなりませんよね。したがって、正確に言えば、p.63の記述には飛躍があります。
 ただしそれが不適切な記述かといえば、語用論的なレベルでは不適切ではないと考えます。というのも、
 執筆時の記憶はありませんが、だいたいこんな感じだったと思います。

 1.任意の数学問題を解くためのアルゴリズムは存在しない
        ↓
 2.解法が一見して明らかでない一つの問題をとりあげたとき、その解法がアルゴリズムで発見できる問題なのかどうかについて確信が持てない
        ↓
 3.あるかどうか不明の解法アルゴリズムを探りつづけるよりも、ヒューリスティクスで近道を探るほうが合理的である
        ↓
 4.演繹推理における直観の出番

 といった具合です。

 それとも、解法のアルゴリズムが存在する問題の場合、そのアルゴリズムを発見するためのメタアルゴリズムというものはあるのでしょうか。
 もしあるとすれば、2.→3.の段階で、そのメタアルゴリズムを機械的に適用して素数問題に解法のアルゴリズムがあるかどうかを決定し、あるとわかればそのアルゴリズムを適用して機械的に解き、ないとわかったときに限りヒューリスティクスに訴える、ということになりますね。しかし、まさにそういうメタアルゴリズムなど存在しないということも、テューリングの結果は意味しているのではないでしょうか。

 数学については素人なので、根本的におかしなことを言っている可能性もあります。(『論理学入門』の論旨に影響がないことを祈りますが)
 問題あればどうぞご教示ください。


数学の問題の解き方 投稿者:KONKON 投稿日:2009年 4月24日(金)12時08分26秒  

φ様、

はじめてお目にかかります。KONKONと申します。数学科の学部生1年です。
『論理学入門』を拝読いたしましたところ、p63の文章に大変興味を持ちました。

「最大素数は存在しない」ことを証明する際に、「1以上(最大素数と仮定した)N以下の
自然数を全部掛け合わせて、その答えに1を足した数Mを作る」という作業が必要だが、
なぜそんな作業をする気を起こさねばならないのか?
という問いに、
「機械的な手続きによって任意の問題を解くアルゴリズムはない、ということが数学的に証明されている」から、と答えていらっしゃいました。

このことについて、具体的に数学的な証明を知りたいのですが、何を参照すればよいでしょうか。

これを大学の先生に尋ねたところ、チューリングの停止性問題のことだと答えられましたが、
停止性問題の場合は「この宇宙上に、論理的に解けない問題が存在する」ことを示唆しており、
本の中にある「任意の問題を解くアルゴリズムがない」こととはまた違いますよね。


不躾なお願いではございますが、どうかご指南をお願いします。


Re: エスカレーター 投稿者:winef 投稿日:2009年 4月12日(日)23時46分22秒  
> No.2246[元記事へ]

φさんへのお返事です。

マナーに関しては、迷惑(実害)を防止するために一定の基準があるという見方では捉えきれない気がします。コミュニティごとの差も大きいでしょうし。日本では茶碗を持ち上げて食べるけれど、韓国では器を手に持って食べるのはテーブルマナーに反する、というように。
電車内の携帯も、マナー違反だと思えば気になるけれど、単に人が会話しているのだと思えば特別視することもなさそうですね。

質問にいろいろ答えていただいて有り難うございました。


Re: 続きです。 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月12日(日)01時37分29秒  
> No.2248[元記事へ]

報復絶倒さんへのお返事です。

>
>  カード交換の事は気付きませんでした。確かに交換した方が手を作り易いですね。ランダムさを表現する為に引用した例がそもそもまずかったようですね。例として持ち出すならまだ宝くじの方がよかったですかね?
>

 学習や進化やポーカーのように蓄積的効果のない、全カード交換を繰り返すポーカーを考えれば、何手目にロイヤルストレートフラッシュかはすべて等確率ですね。宝くじやサイコロもそうです。

>
>  ∃x(Mx∧Ⅲx)、 ∃x(Mx∧Ⅴx)と考えればMxにあてはまる自然数はないので2つの命題はどちらも偽になる。そしてⅢxとⅤxに同時にあてはまる自然数はない。
>  だからこれら二つも矛盾する偽なる命題同士といえる。
>
>  このように考えればよろしいですか?

 a=3はa≠5を含意するので、それとa=5が矛盾しますね。
 ただし、「aは最大の素数であり、かつ」が付いていますから、全体としては網羅的な矛盾にはなりませんが、互いに含意する命題どうしが矛盾関係にあるわけです。

>
>産まないことが義務である社会ならまず崩壊するだろうけど、
>産まないことが許される社会なら存続は可能だろう。
>それなら語用論的矛盾は犯してないことになる。

>という理解でいいですかね?
>

 だいたいそうですが、今やテクノロジーによって、誰も子どもを産まなくても、対外授精、人工子宮、クローンなどによって人間を増やせるので、産まないことが義務であるような社会も、存続できるのではないでしょうか。

 殺人のように他者の権利を侵す事柄は許容されるだけで社会は崩壊するが、自殺、自傷、避妊、非婚、売春、投票の棄権、などは、他者の権利を侵すわけではないので許容しただけでは社会に害はなさそうです。もちろん義務にされたら大変ですが、義務化したら大変だというのは、倫理的に悪でない多くの事柄にもあてはまります。
 (「みんながやったら大変」という基準でいうなら、「銀行預金をおろすこと」などもみんながやったら大変で、大多数の行為にあてはまるので、善悪の基準にはならない)。

 喫煙もドラッグも、密室で一人でやるかぎりは許容すべきでしょう。
 寿司屋での喫煙は、ラーメン屋でのセックスと同様、いやそれ以上に迷惑なので、許容できない倫理的悪と言うべきでしょうね。


続きです。 投稿者:報復絶倒 投稿日:2009年 4月11日(土)23時24分33秒  
> ロイヤルストレートフラッシュの「起こりにくさ」は、ランダムな組み合わせとしての確率的な起こりにくさですが、「生命の誕生」や「知的生命の進化」の「起こりにくさは、単に確率的に低いというだけでなく、ある蓄積的なハードルを越えれば起こりやすくなる類の起こりにくさです。ちょうど、壊れそうにない厚い鉄壁を何度も木槌で叩いて、1時間の期限内に貫通穴をあけられた、といったような感じですね。

 わかりやすい例をありがとうございます。納得できました。

> 正確に言うと、ロイヤルストレートフラッシュの場合も同じことです。ポーカーの実戦では何枚かずつカード交換していって手を作るわけですから。

 カード交換の事は気付きませんでした。確かに交換した方が手を作り易いですね。ランダムさを表現する為に引用した例がそもそもまずかったようですね。例として持ち出すならまだ宝くじの方がよかったですかね?

> 「矛盾」を網羅的な意味で用いればそうですが、単に背反的な意味で用いれば、偽なる命題どうしも「矛盾」することがあります。「最大の素数は3である」「最大の素数は5である」は、ともに偽で、しかも互いに矛盾しています。語源である韓非子の盾と矛の矛盾も、その種の「二つの偽なる命題どうしの矛盾」と言えるでしょう。

 ここの文脈ではこれら2つの命題をAと¬Aのように考えてないという事ですね。
「最大の素数は3である」と「最大の素数は5である」の例について考えるとこれらはAと¬Aの関係にはなっていない。しかし、これら2つの命題を

論議領域:自然数の集合   Ⅲx:xは3である
Mx:xは最大の素数である  Ⅴx:xは5である

 ∃x(Mx∧Ⅲx)、 ∃x(Mx∧Ⅴx)と考えればMxにあてはまる自然数はないので2つの命題はどちらも偽になる。そしてⅢxとⅤxに同時にあてはまる自然数はない。
 だからこれら二つも矛盾する偽なる命題同士といえる。

 このように考えればよろしいですか?


まだ考え中です。 投稿者:報復絶倒 投稿日:2009年 4月11日(土)03時36分54秒  
 φさんへのお返事です。

疑問に答えて下さってありがとうございます。

まだ考察中ではありますがとりあえず、


> これについては、この板の記事
 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2233
 以降、4つほどご覧いただければ氷解するでしょう。ヒントは「社会B」です。

 については、

 産まないことが義務である社会ならまず崩壊するだろうけど、産まないことが許される社会なら存続は可能だろう。それなら語用論的矛盾は犯してないことになる。

 という理解でいいですかね?


Re: エスカレーター 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月11日(土)01時59分59秒  
> No.2245[元記事へ]

winefさんへのお返事です。

>
> エスカレーターも、「片側あけがマナー」とだけ思っていると、2列に並んでいる人は、ただの「マナーを知らない人」に見えてしまいます。それでイライラ。
> 少なくとも「止まって乗る」理由があることぐらいは、ちゃんと浸透してほしいですね。

今日(10日)も帰宅途中、いつものように右側に立ったら、後ろから肘をポンポン。無視していたら二度、三度と肘をしつこく叩き続ける。振り向くと真面目そうな眼鏡背広男。「あなたはマナーに反してますよ」と諭しているつもりなのでしょう。
 ただ、マナーを知らぬと思われることへの羞恥心ということでは、片側空けは説明しがたいですね。電車内で携帯電話はしょっちゅう鳴ってますから。
 携帯の会話は車内放送があっても誰も注意せず、エスカレーター片側空けは駅放送などないのにみんなキッチリ守る。まことに不思議ですが、弱者よりも強者に気遣うという風潮の表れでしょう。みんな、ペースメーカー装着者のことなんか知ったこっちゃないが体力旺盛な急ぐ人には気遣うと。

 ただし、ペースメーカーに悪影響があるというのは今や虚偽なので、車内の携帯電話禁止というマナーはなくなるべきでしょう。私自身は携帯電話は使いませんが(持ってはいるが電源切りっぱなし)、携帯禁止の車内放送は百害あって一利なしだと思います。ペースメーカー装着者に根拠なき不安を与え続けるし、「ペースメーカー装着してるなら携帯なんか使うな」という差別的なメッセージとして働きます。
 いいかげん、あんな無意味な車内放送はやめるべきです。個人的には、携帯の会話がとくにうるさいと思ったこともないですし。用のある人は、電車内でもどんどん携帯を使って効率的に産業社会に貢献すればいいと思います。


エスカレーター 投稿者:winef 投稿日:2009年 4月11日(土)00時29分57秒  
> No.2244[元記事へ]

φさんへのお返事です。

エスカレーターの乗り方について。
単純なルールをひとつだけ作るとしたら、「歩行禁止。急ぐ人は階段で」がよさそうですね。「片側あけ」のメリットとデメリットを簡単に書くと、

<メリット>
 急ぐ人には都合がいい。
<デメリット>
 特にお年寄り、子供など弱者にとって危険、負担が生じる。平均の輸送効率は落ちる。

設計上は、そもそも歩いて乗ることを想定していないようです。
http://www.n-elekyo.or.jp/comf/esc_use_01.html
http://www.toshiba-elevator.co.jp/elv/p-public/contents/products/conservative/eles/02_08_eles.jsp#d15

もともとは止まって乗るのが常識だったのが、ある時期から「片側を開けるのがマナー」となっていったようです。(大阪万博がきっかけという説も)
最近は、本来の(歩かない)乗り方の啓発も行われてきているようですね。

とはいえ、がらがらのエスカレーターでも絶対歩くなというのは、杓子定規すぎるかもしれません。「現実にどんな危険があるんだ?」という反論が成立する余地があります。

・「歩行禁止、止まって乗る」が原則。急ぐ人は階段で。
・明らかに空いていて他の人への危険がないときは、歩くぐらいなら許容範囲。自己責任。

このあたりで落ち着けばいいのでは、と思いました。

余談ですが、ネットで検索していて興味深かったのが、「エレベーターの中に鏡があるけど何のため?」という質問。答えは「車いすのお客様が乗り込んだ状態で、かごの中で回転ができない際、後ろ向きで出るときに後方を確認するため」。これは健常者の視点だけでは分からないですね。

エスカレーターも、「片側あけがマナー」とだけ思っていると、2列に並んでいる人は、ただの「マナーを知らない人」に見えてしまいます。それでイライラ。
少なくとも「止まって乗る」理由があることぐらいは、ちゃんと浸透してほしいですね。


>残念ながら、生まれつき論理アレルギーの人間に対しては、論理および倫理での応対には限界があるのでしょうか。

人間は論理よりも感情の動物だとつくづく思います。Kさんの場合は極端ですけど(笑)
感情的に許容できるかどうかが基準だから、いったん心を開くと、驚くほど素直になったりするんですよね。
論理はもちろん大切。だけどいろんな意味で、心理的なアプローチはバカにできないなと思います。


Re: ありがとうございます。 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月10日(金)02時32分0秒  
> No.2243[元記事へ]

winefさんへのお返事です。

>
> そういえば、「…すべし(義務)」「…してもいい(許容)」には、最低でも2種類の判断基準がありそうですね。
>
> (1)法律を基準とした判断
> (2)それ以外の倫理的判断
>

そうですね。
 たとえば私は、エスカレーターでは(とくに階段と隣り合ったエスカレーターでは)なるべく右側に立って、歩く人々をせき止めるようにしているのですが、1日に一度は必ず苛立たしげに「すいませーん」とくる人がいます。手すりを叩いたり、私の肩を叩いたり。それでも私は動きませんけどね。
 「エスカレーターの片側をあけよ」というのは(1)の義務ではありませんが、(2)ではどうなんでしょうね。脇をすり抜けるオトナにぶつかって子どもが倒れて怪我する事故も発生しているし、老人がしぶしぶ歩かざるをえない羽目になっているのも何度も見ているし、渋滞の原因にもなる暗黙の片側空けマナーは(2)的に義務にはほど遠いと思うのですが。

 ところで、逃亡記をざっと拝見しましたが、ほとんど私の場合と同じだったので苦笑しました。残念ながら、生まれつき論理アレルギーの人間に対しては、論理および倫理での応対には限界があるのでしょうか。


Re: ありがとうございます。 投稿者:winef 投稿日:2009年 4月10日(金)00時32分32秒  
> No.2242[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  ∀x∀y((Fx∧Fy)⊃~◇Fy)
> よって、端的には ∀y(Fy⊃~◇Fy) となって、

なるほど。全称例化して∧を取ると確かにそうなりますね。
 ∀x∀y((Fx∧Fy)⊃~◇Fy)
 (Fa∧Fa)⊃~◇Fa
 Fa⊃~◇Fa
 ∀y(Fy⊃~◇Fy)
もし初期条件に x≠y があればFxも残るけど、「自殺ではなく他殺」ということなら、社会Cのメンバーが2人以上であることも辻褄が合います。


>結局は法律で認められているかどうかによって決まるのでしょう。売春は違法で、喫煙は合法というだけのことですね。

そういえば、「…すべし(義務)」「…してもいい(許容)」には、最低でも2種類の判断基準がありそうですね。

(1)法律を基準とした判断
(2)それ以外の倫理的判断

たとえば、「狭い中華食堂で隣の客に断りなく喫煙することは許されるか」という議題があったとします。一方が「合法であること」を盾に喫煙権を主張し、もう一方が健康への影響や世界的な潮流その他を理由に、喫煙を控えるべきだという主張をする。それではどこまでも擦れ違いのままです。

「売買春は許される」は(1)の基準では偽ですが、(2)では真偽両方の可能性がありそうです。
「売買春は許されるべし」は、最後の「べし」を(1)の意味で受け取ると偽ですが、ここは当然(2)で考えるべきケースです。

この手の議論では、(1)(2)の混乱が不毛な議論の一因となっている場合が多そうです。


Re: ありがとうございます。 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月 9日(木)02時13分37秒  
> No.2239[元記事へ]

winefさんへのお返事です。

>  ∀x∀y((Fx∧Fy)⊃~◇Fy)
> が導けます。

 Fxが残っても、べつに自由変項として残っているわけではないですから、問題ありませんよね。「すべての人間とすべての猫について、すべての人間は死ぬ」と言ってもかまわないのと同様です。端的に、「すべての人間は死ぬ」という意味になります。

 よって、端的には ∀y(Fy⊃~◇Fy) となって、
 社会Fに属することのできる人間はいない、ということになるわけですね。Fという述語が矛盾していたというわけです。

>
> 斎藤貴男(ジャーナリスト)は非喫煙者でありながら「喫煙者の権利を尊重すべし」という主張をしています。Kさんにとってはこれが心の拠り所になっているようですが……「売買春は許されるべし」と同じ構造だということは、たとえ教えてあげても心情的に受け入れられないでしょうね。
>

 結局は法律で認められているかどうかによって決まるのでしょう。売春は違法で、喫煙は合法というだけのことですね。
 迷惑度は売春より喫煙のほうがはるかに上ですから、もしも両方とも違法であれば、社会的に、喫煙者への差別的偏見のほうがソープ嬢への差別的偏見よりもはるかにシビアになるはずです。
Re: 丁度、関連した話題が出ているようなので 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月 9日(木)02時00分42秒  

> No.2238[元記事へ]

報復絶倒さんへのお返事です。

>
> > (中略)同じ論法で「子どもを産まないことは悪い」が証明できるって? みんなが子どもを産まなかったら、やはり人類は絶滅する。よって「子どもを産まないことは許される」は意味を失う。自らを無意味化する命題は真ではありえない。よって……。ふふ。
> 考えたな。だけどその論証にゃ飛躍があるよ。「人を殺すことは悪い」との違いを、ゆっくり考えてみてくれ
>
>   この論証のまずい点というのは結局どこだったのですか?
>

↑これについては、この板の記事
 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2233
 以降、4つほどご覧いただければ氷解するでしょう。ヒントは「社会B」です。

>
>
>    論理学入門―推論のセンスとテクニック
>    189p
>
> > 期限内にきわめて起こりにくい種類のことがたまたま起きてしまった場合、それは期限切れギリギリになって起こる可能性が一番高いからだ。
>
> どの時点についてもその出来事の起こりやすさは同じなのではないですか?
> ポーカーのロイヤルストレートフラッシュは滅多に出ない役であるけど、ゲーム開始直後にいきなりでたとしてもそれだけでは別に不合理なことではないように。(確かφ様のパラドックス関連の著作でも誤謬の例として扱ってたような?ダイスだったかな?)
>

 ロイヤルストレートフラッシュの「起こりにくさ」は、ランダムな組み合わせとしての確率的な起こりにくさですが、「生命の誕生」や「知的生命の進化」の「起こりにくさ」は、単に確率的に低いというだけでなく、ある蓄積的なハードルを越えれば起こりやすくなる類の起こりにくさです。
 ちょうど、壊れそうにない厚い鉄壁を何度も木槌で叩いて、1時間の期限内に貫通穴をあけられた、といったような感じですね。確率的には、ただの一撃によって運良く打撃部の全原子がたまたま一方向に動いて穴があく、ということも起こりえますが、それはあまりに確率が低すぎて論外でしょう。穴があくためには、一撃ごとの原子の移動が蓄積的に穴に変化しなければなりません。知的生命進化の起こりにくさも、その種の起こりにくさです。換言すれば、単なる偶然に任せていたら数十億年では到底起こりえないが、蓄積的な(自然選択の)プロセスでかろうじて起こりにくさが減り、銀河内で一個程度の惑星で生じうる、ということです。積み重ねですから、数十億年のタイムリミットをフルに使ってやっと生ずるだろう、というわけです。
 p.190の例――低学力の生徒が合格する、という例でも、受験勉強の効果は蓄積的ですから、合格すれば、まず間違いなく合格ラインギリギリとなるわけです。どの点数も確率は同じだからギリギリということはないだろう、というのは間違いです。

 正確に言うと、ロイヤルストレートフラッシュの場合も同じことです。
 ポーカーの実戦では何枚かずつカード交換していって手を作るわけですから。カードが配られたときにすでにロイヤルストレートフラッシュが出来ている、という場合よりも、1度のカード交換で出来る確率が高いし、二度目で出来る確率はさらに高いし……、というわけで、もしも「カード交換5回以内で作れ」という指令のもと、一万人が挑戦したら、成功した人たちのほとんどは、ギリギリの5回でロイヤルストレートフラッシュを作ることになるはずです。

>
> > 36■p.44 の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」と、p.45 の2~3行目「語る内容にはこだわらな
> い」とが矛盾している(ちなみに、どちらも間違い)。このような見え透いた言葉上の
> 矛盾を見逃している点で、担当編集者が厳しく責められねばなるまい。【自己矛盾】。
>
>  前後2つの両方とも偽になる命題だとしたらこの2つの命題は矛盾してない事になってしまうのでは?
>

 「矛盾」を網羅的な意味で用いればそうですが、単に背反的な意味で用いれば、偽なる命題どうしも「矛盾」することがあります。「最大の素数は3である」「最大の素数は5である」は、ともに偽で、しかも互いに矛盾しています。語源である韓非子の盾と矛の矛盾も、その種の「二つの偽なる命題どうしの矛盾」と言えるでしょう。


Re: ありがとうございます。 投稿者:winef 投稿日:2009年 4月 9日(木)01時09分38秒  
> No.2237[元記事へ]

>記号上の細かいことですが、上の二式はそれぞれ、
  ∀x∀y((Fx∧Fy)⊃◇Gxy)
  ∀x∀y(Gxy⊃~◇Fy)
 とすべきでしょう。

ご指摘ありがとうございます。実は、最初そう書いていたのに、ちょっと分からなくなって、書き直してしまったんです。

【社会C】
 ∀x∀y((Fx∧Fy)⊃◇Gxy)……(1)
 ∀x∀y(Gxy⊃~◇Fy)……(2)
 ∀x∀y(◇Gxy⊃Gxy)……(3)

(1)(2)に(3)を補足して、全称例化と全称汎化を施すと
 ∀x∀y((Fx∧Fy)⊃~◇Fy)
が導けます。ここでFxが残ってしまうのが何か変だなあと思ってしまったのです。
だけど、これは「その社会に殺す主体がいる」と解釈すればいいわけですね。(x=yなら自殺)


>むろん、一番すみやかに崩壊するのは、
社会D「無条件に殺人が義務である社会」
なのでしょうね。

これはまさに映画(小説)の「バトル・ロワイアル」ですね。悲惨です。


>以前、某評論家とメールで議論したさい、「売買春は許されるべし」という私に対して彼は、「自分で買わない人間が売買春許容というのは矛盾だ」と言ってきました。

Kさんですね。私は、会ったことないにもかかわらず、なぜか彼から「チンピラ民間人」と呼ばれています(笑)

斎藤貴男(ジャーナリスト)は非喫煙者でありながら「喫煙者の権利を尊重すべし」という主張をしています。Kさんにとってはこれが心の拠り所になっているようですが……「売買春は許されるべし」と同じ構造だということは、たとえ教えてあげても心情的に受け入れられないでしょうね。
丁度、関連した話題が出ているようなので 投稿者:報復絶倒 投稿日:2009年 4月 8日(水)22時10分32秒  

 お久しぶりです。この前はお世話になりました。最近、φ様の書かれたものを読み直していていくつかわからない所があったので再び質問しに参りました。

     ★「なぜ人を殺してはいけないのか?」(アンケート回答)
      『文藝』1998年夏号(4月)


> (中略)同じ論法で「子どもを産まないことは悪い」が証明できるって? みんなが子どもを産まなかったら、やはり人類は絶滅する。よって「子どもを産まないことは許される」は意味を失う。自らを無意味化する命題は真ではありえない。よって……。ふふ。
考えたな。だけどその論証にゃ飛躍があるよ。「人を殺すことは悪い」との違いを、ゆっくり考えてみてくれ

  この論証のまずい点というのは結局どこだったのですか?



   論理学入門―推論のセンスとテクニック
   189p

> 期限内にきわめて起こりにくい種類のことがたまたま起きてしまった場合、それは期限切れギリギリになって起こる可能性が一番高いからだ。

どの時点についてもその出来事の起こりやすさは同じなのではないですか?
ポーカーのロイヤルストレートフラッシュは滅多に出ない役であるけど、ゲーム開始直後にいきなりでたとしてもそれだけでは別に不合理なことではないように。(確かφ様のパラドックス関連の著作でも誤謬の例として扱ってたような?ダイスだったかな?)


   ●論理学に関する無理解のサンプルについて 68 の指摘●

> 36■p.44 の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」と、p.45 の2~3行目「語る内容にはこだわらな
い」とが矛盾している(ちなみに、どちらも間違い)。このような見え透いた言葉上の
矛盾を見逃している点で、担当編集者が厳しく責められねばなるまい。【自己矛盾】。

 前後2つの両方とも偽になる命題だとしたらこの2つの命題は矛盾してない事になってしまうのでは?


 すいません、どうかご教示下さい。


Re: ありがとうございます。 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月 8日(水)04時32分48秒  
> No.2235[元記事へ]

winefさんへのお返事です。

>
> 【社会C】
> モデルは社会Aと同じ。ただし、「社会A」→「社会C」。
>
> <社会Cのルール(倫理)>
> ∀x∀y((Fx∧Fy)⊃(◇Gxy∧◇Gyx)
> (社会Cに属する者は誰であれ即座に殺し合うことが許される)
> ∀x∀y((Gxy⊃~◇Fy)∧(Gyx⊃~◇Fx))
> (殺された者は、社会Cに属することは許されない)
>

記号上の細かいことですが、上の二式はそれぞれ、
  ∀x∀y((Fx∧Fy)⊃◇Gxy)
  ∀x∀y(Gxy⊃~◇Fy)
 とすべきでしょう。
 winefさんの元の形は誤りではありませんが、同じことを二度記すなど、冗長になっているようです。

> この場合も、実際の殺人がどの程度遂行されるかによって、社会Cの崩壊度が違ってきます。
> 以上の設定だと、社会が崩壊する可能性は「社会A」が一番強く、「社会B」「社会C」は、殺す権利がどの程度遂行されるかによって、崩壊の度合いが違ってくるので「社会A」よりも弱いモデルだといえそうです。
>

 そうですね。
 前回私が「社会Aが、他人を傷つけたり殺したりすることを許容しないでいるかぎり、社会Cよりも存続可能性は高い」と言ったのは、「社会が存続する」可能性についてで、「そのような同じ社会が存続する」可能性で言えば、社会Cのほうが社会Aよりも長続きするかもしれませんね。社会Aは、すみやかに自殺義務制度が失われて、別の社会になってしまいますから。たとえば子どもたちだけの社会になって義務が忘れられ、別の社会として再生する等。社会Cは、無秩序闘争状態として長く続きながら(それを社会Cであれ何であれ「社会」と呼べるかどうか疑問ではありますが)、再生困難な状況へ衰微してゆくでしょう。(もちろんポイントは、物理的に崩壊する以前に、理念的に倫理が自己崩壊するということですが)

 むろん、一番すみやかに崩壊するのは、
 社会D「無条件に殺人が義務である社会」
 なのでしょうね。

 なお、社会Aと社会Bの違いからわかるように、「義務」と「許容」を区別するのは重要なことですね。
 以前、某評論家とメールで議論したさい、「売買春は許されるべし」という私に対して彼は、「自分で買わない人間が売買春許容というのは矛盾だ」と言ってきました。憐れむべき錯誤です。「喫煙は(中絶は)許されるべきだ」と主張する人がすべて、喫煙したり中絶したりする義務を負うわけではありませんから。
 「許されるべきだ」というふうに、「許容」+「べし」の言い回しによって、容易に規範概念の混同が起こるのかもしれません。(実際、許容が義務づけられないと、真の許容になりませんし――)


Re: ありがとうございます。 投稿者:winef 投稿日:2009年 4月 6日(月)19時06分54秒  
> No.2234[元記事へ]

ああ、なるほど。それぞれの社会モデルの存続について、φさんの仰ることはわかります。我々人間の現実的な振る舞いを考慮すると確かにそうなりそうです。

ちなみに、昨日の書き込みで私が想定していたのは、もっと無機質な設定でした。
「『参加者全員がただちにゲームを降りること』というルールがあれば、そのゲームは成立しない」というようなことです。


【ゲームA】
D(論議領域):人間
Fx:xはゲームAに参加する。
Gxy:xはyを即座にゲームから追い出す。

<ゲームAのルール>
∀x(Fx⊃Gxx)……(1)
(ゲームAの参加者は即座にゲームAから降りる)

さらに前提として、
∀x(Gxx⊃~◇Fx)……(2)
(ゲームAから降りた者は、ゲームAに参加することは許されない。(◇は「許される」))

(1)(2)から
∀x(Fx⊃~◇Fx)……(3)
(ゲームAに参加する者は、ゲームAに参加することは許されない)

(3)を見れば、このゲームが成立しないことがわかります。
私が想定した社会Aについても、同様に考えてみました。


【社会A】
D(論議領域):人間
Fx:xは社会Aに属する。
Gxy:xはyをただちに殺す。

<社会Aのルール(倫理)>
∀x(Fx⊃Gxx)……(4)
(社会Aに属する者は即座に自殺する)

同じく、前提として、
∀x(Gxx⊃~◇Fx)……(5)
(自殺した者は、社会Aに属することは許されない)

ここでも、(4)(5)から
∀x(Fx⊃~◇Fx)……(6)
(社会Aに属する者は、社会Aに属することは許されない)

社会Aが成立しないことがわかります。


【社会B】
モデルは社会Aと同じ。ただし、「社会A」→「社会B」。

<社会Bのルール(倫理)>
∀x(Fx⊃◇Gxx)……(7)
(社会Bに属する者は即座に自殺することが許される)
∀x(Gxx⊃~◇Fx)……(8)
(自殺した者は、社会Bに属することは許されない)

この場合だと、たとえば、
∀x(◇Gxx⊃Gxx)……(9)
(自殺することが許された者は全員自殺する)
という条件を付け加えることで初めて社会Aと同等の崩壊が導けます。
逆にいうと、社会が崩壊する可能性でいえば、社会Bは社会Aよりも弱いモデルだと言えそうです。


【社会C】
モデルは社会Aと同じ。ただし、「社会A」→「社会C」。

<社会Cのルール(倫理)>
∀x∀y((Fx∧Fy)⊃(◇Gxy∧◇Gyx)
(社会Cに属する者は誰であれ即座に殺し合うことが許される)
∀x∀y((Gxy⊃~◇Fy)∧(Gyx⊃~◇Fx))
(殺された者は、社会Cに属することは許されない)

この場合も、実際の殺人がどの程度遂行されるかによって、社会Cの崩壊度が違ってきます。
以上の設定だと、社会が崩壊する可能性は「社会A」が一番強く、「社会B」「社会C」は、殺す権利がどの程度遂行されるかによって、崩壊の度合いが違ってくるので「社会A」よりも弱いモデルだといえそうです。


……というようなことを考えていました。

とはいえ、我々人間の現実的な性質を考慮すれば、普通は「死にたくない」という意識が強く働きます。
すると、「社会B」(全員が殺人を許可)は「社会C」(全員が自殺を許可)よりも崩壊度が高いといえるでしょう。
また、社会A(全員が自殺を遂行)は、そもそものモデル設定が非現実的です。実際には、このような形で社会が崩壊することはありえません。φさんの仰るとおり、社会Bの方がより崩壊度が高いと思います。

※長々と失礼しました。独学のため他に質問できる人がいないので、ここにいろいろ書き込ませていただきました。ありがとうございます。


Re: ありがとうございます。 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月 6日(月)01時28分0秒  
> No.2233[元記事へ]

winefさんへのお返事です。

>
> 「社会A=自殺が義務である社会」
> 「社会B=自殺する権利が認められた社会」
> 「社会C=無条件の殺人が許される社会」
> これは社会の存続という点ではAとBの間、Aに近い位置にあると言えそうです。
>

社会Aが、他人を傷つけたり殺したりすることを許容しないでいるかぎり、社会Cよりも存続可能性は高いのではないでしょうか。各人が自殺という義務を果たすまでに社会的な貢献をすればよいからです。
 もちろん、「12歳になったら自殺すべし」というような社会は社会として機能しませんが、そのような社会では自殺が義務であるという制度を維持する主体がいなくなり、制度そのものが遵守されなくなって失われ、別の社会として再生しそうです。

>
> たとえば、個人の能力からして1人が殺せる人数に限界があるとか、食欲や性欲と同じように殺人欲にも飽きがくるとか、殺人愛好者同士が淘汰し合うとか(懲罰的にではなく、たとえば強い者を倒したいという欲望によって)。
>

 社会Cは、結局、倫理ではなく防衛本能によって(報復によって)互いに殺人を事実上禁じあうことになるのでしょう。ホッブズ的自然状態でしょうか。そのとき、当然、「殺人は許される」という格率は消滅しており、やはりこの格率は自己否定的だったことになるでしょう。

>
> 「人殺しは無条件に許されるべきだ」という意見の持ち主は、その場で殺されても仕方ないでしょう。(もしその人が生きたいと思うのなら)確かに語用論的矛盾を孕んでいるのだと思います。
>

 「俺も含め社会はなくなるべきだ」という意味で「人殺しは無条件に許されるべきだ」といい、それが倫理的主張ではなく単に行動の一部である場合は、その人は語用論的矛盾を犯してはいませんね。倫理的に主張しているとしたら、語用論的矛盾を犯していることになるでしょう。


ありがとうございます。 投稿者:winef 投稿日:2009年 4月 5日(日)19時17分24秒  

> No.2232[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> winefさんへのお返事です。なるほど。丁寧な解説ありがとうございます。
ガン細胞が同時多発した人体になんの治療も施さなければ、遅かれ早かれ死にいたります。同じように、殺人行為を野放しにする社会は存続しえない。そんなイメージで理解してみました。

以下は余談。少し思いついたことを書いてみます。

この「語用論的背理法」は、仮定によって強弱がありそうですね。
たとえば、「社会A=自殺が義務である社会」は確実に消滅します。(義務が完遂されるならば)
一方、「社会B=自殺する権利が認められた社会」。これは十分存続が可能に思えます。現行の社会も、ある意味、これに近いかもしれません(自殺した場合には残された財産は没収とか、自殺未遂者は懲役、というようなペナルティーは特にない)。

「社会C=無条件の殺人が許される社会」。
これは社会の存続という点ではAとBの間、Aに近い位置にあると言えそうです。
社会Cはいま私たちが享受している社会と同じような形では存続しえません。個人的にも真っ平ごめんです。とはいえシミュレーションとして考えるならば、初期条件しだいで存続か否かの結論が違ってくるはずです。

たとえば、個人の能力からして1人が殺せる人数に限界があるとか、食欲や性欲と同じように殺人欲にも飽きがくるとか、殺人愛好者同士が淘汰し合うとか(懲罰的にではなく、たとえば強い者を倒したいという欲望によって)。

この場合の社会Cの存続モデルは、たとえば「弱肉強食だけどそれなりにバランスを保って成立している自然の生態系」や「ホッブズが想定した欲望と闘争に満ちた自然状態(非常に殺伐としているが、完全に消滅するわけではない)」といったイメージにも近いかもしれません。

そういう意味では、p127の主旨には概ね賛成であるものの、現実の理由としては、「やっぱり自分が殺されるのは嫌」とか、他の要素も絡んでくるのかなという気がしました。

>いずれにしてもこれは「厳密な論証」ではなく、語用論的な矛盾を導いて、仮定の「主張しがたさ」を示したモデルと考えていただければと思います。

そうですね。「人殺しは無条件に許されるべきだ」という意見の持ち主は、その場で殺されても仕方ないでしょう。(もしその人が生きたいと思うのなら)確かに語用論的矛盾を孕んでいるのだと思います。


Re: 「人を殺してはならない」の証明について 投稿者:φ 投稿日:2009年 4月 5日(日)02時41分18秒  
> No.2229[元記事へ]

winefさんへのお返事です。

 > 本文では「倫理」「殺人」の定義については省略されているので、このあたりが今ひとつわかりません。

 たしかにそうですね。
 まず「倫理」についてですが、
前提1の補足的括弧書きにあるように、
「倫理」とは、「許される」という概念を成立させる文化というのが作意でした。
前提1と前提2の両方とも「倫理」は同じ意味で、つまり仮定の「許される」を意味あらしめるような文化を指しています。
「許す」を有意味とする文化は、普通の意味での文化とほぼ同じとも言えますが、いずれにせよそのような文化は、殺人が許されると、成立しなくなるはずです。因果的にも、論理的にも。因果的のほうを強調した「論証」は、以下に掲示してあります。
http://russell-j.com/murder.htm

>
> どのような定義であれ、無差別に殺人が行われた結果、人類という言明主体が絶滅してしまうと、当然ながら「倫理」も成立しない。前提2をそう解釈すればいいのでしょうか。(語用論的背理法)
>

まさにそのとおりなのですが、
「殺人が許されると倫理が成立しなくなる」というのは疑問の余地があるかもしれません。つまり、

> だけどその場合は、その前の2つの証明と比べても、「殺人の許容」から「人類絶滅」までにいくらか飛躍があるように思えます。

確かに飛躍ですが、殺人狂が何人いようが許容され、対策がとられないわけですから(少なくとも、p127「仮定」のもとでは、対策に誰一人協力する義務もないわけですから)、社会の成立する基盤が失われています。

>
> 条件付きの殺人ということなら、「死刑制度」「安楽死」「凶悪犯の射殺」「正当防衛」「レジスタンス的な活動」などの例外、またはグレーゾーンの事例がいろいろ考えられます。
>

 修飾語なしで単に「殺人」と言っているので、ふつうは、無条件と考えてほしいところです。死刑執行人は殺人を犯したと言われませんし、正当防衛や緊急避難の場合も同様です。死刑、仇討ち、正当防衛などが「犯罪としての殺人」から区別されてきたのも、無条件の殺人を許すまじという社会的決意に基づいています。無条件の殺人が許されれば、殺人者に対する死刑やその他の刑罰は認められなくなるでしょう。「許容」に反していますから。

 ただ、
 修飾語なしの「殺人は許される」は無条件の殺人のことと解してくれとは言ったものの、むしろ論理的には、「少なくとも一つの殺人が許される」と解するのが自然だ、という反論も生ずるでしょう。その場合、仮定を真にするためには「理不尽な殺人」が許される必要はなく、死刑や正当防衛が許されるだけで十分かもしれません。その場合、確かに語用論的矛盾は出てこないでしょう。

 しかし、そのような反例をわざわざ持ち出すのは、この語用論的背理法の趣旨をただねじ曲げるだけです。
 「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う場合はふつう、なぜ死刑はいけないのかとか、なぜ安楽死はいけないのかと問うているわけではありません。「殺したいと思っただけで殺してなにが悪い」というのが、この種の質問の趣旨だというのは、暗黙の前提になっています。
 「なんとなく人を殺したくなった」という理由で街中で人を刺す、といった無条件の殺人が、ちょうど「なんとなく歩きたくなったから散歩に出た」という無条件の歩きが許されるのと同様の許容がなされたらどうなるか、という問題意識が背景にあることは共通の了解でしょう。

 いずれにしてもこれは「厳密な論証」ではなく、語用論的な矛盾を導いて、仮定の「主張しがたさ」を示したモデルと考えていただければと思います。(後半の人間原理的推論のマクラも兼ねています)


「人を殺してはならない」の証明について 投稿者:winef 投稿日:2009年 4月 4日(土)14時01分1秒

こんにちは。『論理学入門』(NHKブックス)を購入しました。
「入門」にもかかわらず(私にとっては)高度で刺激的な内容が満載。ワクワクして読んでいます。

ところで、p127「人を殺してはならない」という規範命題の証明について、ちょっと質問させてください。
この証明では、「前提1」と「前提2」に「倫理」が登場しています。
しかし、ここに登場する「倫理」の定義を厳密に一致させようとすると、中間帰結1,2のどちらかが成立しないのではないかという疑問が生じました。

たとえば、「倫理(1)="善悪の基準"という概念」だと定義します。仮定が主張されるためには、何らかの善悪の基準が必要であるということですね。この場合は「殺人を許す倫理」「殺人を許さない倫理」の両方が想定でき、前提2が成立しません。

「倫理(2)=具体的な善悪の基準の集合」とします。たとえば「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」といった規範の集合で、この中には「殺すなかれ」も含まれるとします。すると、前提1が成り立たなくなりそうです。(「殺人は許される」と主張することは許されても、現実に殺人することは許されない)

あるいは、どのような定義であれ、無差別に殺人が行われた結果、人類という言明主体が絶滅してしまうと、当然ながら「倫理」も成立しない。前提2をそう解釈すればいいのでしょうか。(語用論的背理法)
だけどその場合は、その前の2つの証明と比べても、「殺人の許容」から「人類絶滅」までにいくらか飛躍があるように思えます。
たとえば、江戸時代の「仇討ち制度」のような(条件付きで)殺人を許容する倫理も考えられそうです。

条件付きの殺人ということなら、「死刑制度」「安楽死」「凶悪犯の射殺」「正当防衛」「レジスタンス的な活動」などの例外、またはグレーゾーンの事例がいろいろ考えられます。

本文では「倫理」「殺人」の定義については省略されているので、このあたりが今ひとつわかりません。
大変お手数ですが、用語の定義と合わせて教えていただけると嬉しいです。


Re: アホ発見 投稿者:φ 投稿日:2009年 3月25日(水)21時32分14秒  
> No.2227[元記事へ]

アホ排撃委員会さんへのお返事です。

 あそこの仕組みは知りませんが、ベストアンサーってどうやって決めるんでしょうか?

 「強い人間原理」という語が誤解されてるのはよく見かけますが、さすがに「人間原理」そのものを「非科学的」と思ってる人なんてもはや珍しいと高をくくっていました。しかしなんとも、「人間原理」という語感が、しぶとく宗教的な連想を誘い続けるのでしょう(じつは正反対なのですが……)。

 宗教的といえば、実在全体がただ一種類のエレガント法則で決定されていると信じる方がよほど一神教的、というのがいまや識者の間では常識ですよね。

 「人間原理」はともかく「強い人間原理」という言葉に関しては、本家のイギリス・アメリカでも間違って使っている科学者が大勢いて(理系の人たちは原典など読みませんから)、私も最近はあきらめ気味です。誤用が慣用によって認められつつある勢いですね。
 科学者の中でも超一流の人たち、そして哲学者ならば二流三流くらいまでの人たちは、きちんとブランドン・カーターの述べた有意義な原義で「弱い人間原理」「強い人間原理」を語っています。強い人間原理は、反証可能性のあるれっきとした数学的・経験的理論枠組みです。

 サスキンド『宇宙のランドスケープ』(日経BP社)やドーキンス『神は妄想である』(早川書房)が出ても、まだまだ人間原理への無理解は続くのでしょう。
 ジェイムズ・ガードナー『バイオコスム』(白揚社)という本をいま読書中ですが、人間原理を微妙な線で間違って紹介してあり、溜息モノです。いちおう全部読んでみる予定ですが……。
http://green.ap.teacup.com/miurat/1875.html


アホ発見 投稿者:アホ排撃委員会 投稿日:2009年 3月25日(水)12時34分59秒  
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1016557025
人間原理を盛大に勘違いしているバカどもの集まり。
質問者は自分が望んでいた回答をベストアンサーに選ぶという末期的状態にある。


Re: 哲学的な問題? 投稿者:tosy 投稿日:2009年 3月11日(水)11時35分15秒  
> No.2225[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> tosyさんへのお返事です。

 ご返事ありがとうございました。

 『多宇宙と輪廻転生』を読み込む必要がありそうです。

 まずは、お礼まで。
http://www.tosy.sakukra.ne.jp/ap/

> No.2224[元記事へ]

tosyさんへのお返事です。

>
> #たしか「クオリア問題は1000年解けない」とどこかでおしゃっていたと記憶してい#ますが、こちらの超難問は何年くらいでしょう?
>

1000年は誇張だったかもしれませんね。クオリアが最難問の一つであることは確かですが。
 クオリア問題は、一般的には、ファインチューニング問題の特殊例だと考えれば、とりあえずの解決らしき体裁は確保できます。『感情とクオリアの謎』(昭和堂)所収の拙論「人間原理的クオリア論」をご参照いただければ幸いです。
 いずれにせよクオリア問題は、「なぜ宇宙はこうなっているのか」という一般問題の一例ですから、人間原理で解決できることは確かでしょう。

 一方、「私はなぜ存在するのか」という問題は、、「なぜ宇宙はこうなっているのか」という問題の枠内には入りません。この私が存在しなくても、物理的・精神的に全く同じ宇宙が実現することは可能だったからです。指標的特徴だけが異なることになりますが、指標性は宇宙の客観的性質ではありませんから。

 というわけで、「私はなぜ存在するのか」のほうが、クオリア問題よりも一段難しいのではないかと思います。
 しかし、この問題も、人間原理の発想によってかなりの程度解きほぐせるはずです。SIAという常識的前提を捨ててSSAを採用すれば解決がみえてくる、という粗描を、『多宇宙と輪廻転生』全編で展開したつもりです。

>  「『私』の準拠集団を意識の集合に限定する」の意味は、tosy以外のMTやBRら無数の意識の集合という風にとらえてよいですね?
>

 準拠集団を意識の集合に限定するのがSSA、もの全体の集合(あるいは時空点の集合)とするのがSIAです。SIAで考えると私が意識を持って生まれたのはとんでもない低確率の奇跡になってしまいますが、SSAのもとでは、「いつかどこかに意識が生まれる」確率と同じくらいにまで高まります。
http://green.ap.teacup.com/miurat/1875.html


Re: 哲学的な問題? 投稿者:tosy 投稿日:2009年 3月 9日(月)17時30分49秒  
> No.2223[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> tosyさんへのお返事です。

>  この私の観点から世界が開ける(視点の原点がこの私にある)確率はゼロに近いと思われるのに、なぜか私から現にこうして世界が開けているという事実は、絶対に説明が必要な事実です。
>  クオリア問題に劣らぬ超難問と言っていいでしょう。

#たしか「クオリア問題は1000年解けない」とどこかでおしゃっていたと記憶してい#ますが、こちらの超難問は何年くらいでしょう?

>  人間原理は、「私」の準拠集団を意識の集合に限定することでこの問いに答えています。

 「『私』の準拠集団を意識の集合に限定する」の意味は、tosy以外のMTやBRら無数の意識の集合という風にとらえてよいですね?
 とした上で、tosyだけや、MTだけ、ではこの問いに答えることは不可能なのでしょうか?

#いろいろ勘違いしているかもしれませんが。
#こうすると「独我論」などといったものになるのでしょうか?

>  『多宇宙と輪廻転生』の始めのほうだけでなく、ほぼ全編がこの問題にあてられていますので、どうぞご利用ください。

 はい、難解で読破できていないのですが、挑戦したいです。
 よろしくお願いします。
http://www.tosy.sakukra.ne.jp/ap/


Re: 哲学的な問題? 投稿者:φ 投稿日:2009年 3月 7日(土)01時06分43秒  
> No.2222[元記事へ]

tosyさんへのお返事です。

> >
> >  「私は、なぜ存在するのか」は、第一級の哲学問題です。
> >  これへの答えは、人間原理の中枢をなす前提を形成しています。
>
>  思い出しましたが、『多宇宙と輪廻転生』の最初の方にも出てきていましたね。
>  哲学的問題だということで私は救われました。
>
> #無用に悩んでいたわけではないと。
> #多くの人は、「そんなの理由はない」、などといって切り捨てるのです。
>
>

 この私の観点から世界が開ける(視点の原点がこの私にある)確率はゼロに近いと思われるのに、なぜか私から現にこうして世界が開けているという事実は、絶対に説明が必要な事実です。
 クオリア問題に劣らぬ超難問と言っていいでしょう。
 人間原理は、「私」の準拠集団を意識の集合に限定することでこの問いに答えています。

 『多宇宙と輪廻転生』の始めのほうだけでなく、ほぼ全編がこの問題にあてられていますので、どうぞご利用ください。
http://green.ap.teacup.com/miurat/1875.html


Re: 哲学的な問題? 投稿者:tosy 投稿日:2009年 3月 6日(金)17時32分43秒  
> No.2221[元記事へ]

φさんへのお返事です。

 tosyです。ご返事ありがとうございます。

> tosyさんへのお返事です。
>
> その電球の問題は、7.5秒ではなくて2.5秒という設定でしょうか。

 初めから7.5秒目と言いたかったのです。5秒目からしたら2.5秒で合っています。

 後は、感想文です。

> 『論理サバイバル』第9問「トムソンのランプ」と第10問「オースチンの犬」がそれに相当しそうです。

 購入しておきながら、既出のものを出してしまったようですみません。

>
> >  「私は、なぜ私なのか。」
> > は、哲学的問題ではないということは、φさんがいろいろなところでご指摘と思いますが、
> >  「私は、なぜ存在するのか。」
> > は、哲学的問題といえるでしょうか?
> >
>
>  「私は、なぜ存在するのか」は、第一級の哲学問題です。
>  これへの答えは、人間原理の中枢をなす前提を形成しています。

 思い出しましたが、『多宇宙と輪廻転生』の最初の方にも出てきていましたね。
 哲学的問題だということで私は救われました。

#無用に悩んでいたわけではないと。
#多くの人は、「そんなの理由はない」、などといって切り捨てるのです。

 また、人間原理との関連もあるということで、それもうれしいところです。

>
>  「私は、なぜ他の人間ではこの人間なのか」
>  という間違った問いを問うている人は、本当は「私は、なぜ存在するのか」を問うべきところを勘違いしているのだ、ということは、これまで私は口を酸っぱくして説いてきましたが、『多宇宙と輪廻転生』では超能力の例も用いてさらに説得してみました。
>
>  なお、
>  「私は、なぜ他の人間ではこの人間なのか」が有意味な問いだという立場に立つ代表的論客だった渡辺恒夫氏は、拙論にかなり説得されてきたような気配ですが(楽観的すぎるか?)その渡辺氏まじえた「人文死生学研究会」の案内を↓に掲示いたしました。

 ご案内ありがとうございます。
 実は、渡辺先生には10年くらい前に駿河台のあたりで、私は会った記憶があります。

 これからも、人間原理や(渡辺先生らの言う)自我体験のあたりは、
考えてゆきたいです。

 以上です。
 

Re: 哲学的な問題? 投稿者:φ 投稿日:2009年 3月 6日(金)00時44分15秒  
> No.2220[元記事へ]

tosyさんへのお返事です。

その電球の問題は、7.5秒ではなくて2.5秒という設定でしょうか。
『論理サバイバル』第9問「トムソンのランプ」と第10問「オースチンの犬」がそれに相当しそうです。

>  「私は、なぜ私なのか。」
> は、哲学的問題ではないということは、φさんがいろいろなところでご指摘と思いますが、
>  「私は、なぜ存在するのか。」
> は、哲学的問題といえるでしょうか?
>

 「私は、なぜ存在するのか」は、第一級の哲学問題です。
 これへの答えは、人間原理の中枢をなす前提を形成しています。

 「私は、なぜ他の人間ではこの人間なのか」
 という間違った問いを問うている人は、本当は「私は、なぜ存在するのか」を問うべきところを勘違いしているのだ、ということは、これまで私は口を酸っぱくして説いてきましたが、『多宇宙と輪廻転生』では超能力の例も用いてさらに説得してみました。

 なお、
 「私は、なぜ他の人間ではこの人間なのか」が有意味な問いだという立場に立つ代表的論客だった渡辺恒夫氏は、拙論にかなり説得されてきたような気配ですが(楽観的すぎるか?)その渡辺氏まじえた「人文死生学研究会」の案内を↓に掲示いたしました。
http://green.ap.teacup.com/miurat/1875.html


哲学的な問題? 投稿者:tosy 投稿日:2009年 3月 5日(木)09時05分9秒

 「私は、なぜ私なのか。」
は、哲学的問題ではないということは、φさんがいろいろなところでご指摘と思いますが、
 「私は、なぜ存在するのか。」
は、哲学的問題といえるでしょうか?
 言葉の説明も必要とは思いますが、「私」とは今投稿しているtosyのことです。
 ほかは、可能な限り説明は試みようと思います。

 よろしくお願いします。


パラドクス 投稿者:tosy 投稿日:2009年 3月 5日(木)09時01分47秒

 以前、φさんのご著書かどこかでパラドクスを募集していたと思います。学生時代に聞いた論理に関する問題を1つご紹介します。

「電球が10秒間点滅しているとする。そのルールは、5秒後に点灯(ついては消え)し、7.5秒後に点灯し、さらに残りの半分の時間に点灯する。10秒後にはついているか消えているか」

というようなものだったと思います。10年以上前なので、記憶があやふやなところもあるのですが、なんとかそれらしく再現してみました。
 そもそもパラドクスといえるのかよくわかりませんが、某大学の教養学部の論理学の講義で出てきたそうです。
 参考になれば幸いですが、そもそもこれをパラドクスといえるものに仕立て上げられるでしょうか?


Re: >Re: φ 様へ、お休みを 投稿者:φ 投稿日:2009年 3月 3日(火)03時34分38秒  

> No.2217[元記事へ]

みのるさんへのお返事です。

>
>  ご指摘で気がつきました。
>  科学界でも、複雑系やらカオスやら、バタフライ効果とやらで、確かに決定論だけでは解決できない時代に入っているようですね。
>

 存在論的には、
 カオスやバタフライ効果そのものは、決定論と両立可能なようですが、
 カオスとは別に、マクロな世界の決定論的現象は、非決定論的なミクロ現象の統計的相殺の結果にすぎないというのが、量子力学の定説のようです。

 経験的には、
 量子力学までいかずとも統計力学の定説として、
 極低確率ではあるが、湯が100℃で凍結したり、日食の時期が1日ずれてしまったり、地球があす蒸発してしまったりということはありうると。

 経験的にも、存在論的にも、決定論を維持するのは難しそうです。

 ただ、このあたりは、専門外の人間があれこれ言っても雑談の域を超えることはできませんね。
 哲学的な立場からすれば、決定論が正しい、非決定論が正しい、といった無条件の断定ではなく、
 「~~とすれば、……」
 「逆に――とすれば、・・・・」
  という具合に、命題間の論理関係を整合的に整理することに興味が感じられます。

Re: >Re: φ 様へ、お休みを 投稿者:みのる 投稿日:2009年 3月 2日(月)22時37分13秒  
> No.2215[元記事へ]

φ様へのお返事です。

>  天気予報も、百パーセント的中には程遠い状態です。

 ご指摘で気がつきました。
 科学界でも、複雑系やらカオスやら、バタフライ効果とやらで、確かに決定論だけでは解決できない時代に入っているようですね。
 尤も、決定論が生きている分野は依然として健在のようですが。
  (今頃になってで遅すぎますが、やっとこの掲示板へのカキコの仕方がわかりました。お恥ずかしい。)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31670170&comm_id=1178890


Re: >Re: φ 様へ、お休みを 投稿者:φ 投稿日:2009年 3月 2日(月)01時20分31秒  
> No.2214[元記事へ]

みのるさんへのお返事です。


>  でもそれに対して、原子、分子以上ではその挙動は現在でも決定しています。

 それは違うのではないでしょうか。
 ブラウン運動が予測できるとは思えませんし、
 天気予報も、百パーセント的中には程遠い状態です。


> 例えば、日本の陸地で46年ぶりの皆既日食が、今年の7月22日に見られるそうで、見られる各地での
> 皆既日食の継続時間まで秒単位で決定しているようで発表されています。その上、日本各地での
> 太陽の欠ける割合(食分)までも決定しているようで発表されています(4次元世界なのにどうやって
> 算出するのでしょうか?スゴイナーの感動の一言です)。
>

 天体の場合やビタミンの場合は、
 個々の非決定的現象が総合的に、統計的にある結果を生ずるというだけのことですから、非決定論には反していません。
 誰が何歳で死ぬかいちいち決まってはいないが、だいたい毎年、平均80歳くらいで死ぬ、というのと同じようなものですね。

 まあ、この件に関しては、詳細な議論が必要でしょう。
 多宇宙全体でみれば、決定論が正しいだろうと私も思っています。
 

>Re: φ 様へ、お休みを 投稿者:みのる 投稿日:2009年 3月 1日(日)23時34分56秒  
>いくつもの実験で非決定論はほとんど確証されているというのに、なぜこちらは信じないのでしょう。
>決定論は、ほとんど定常宇宙論と同じくらいに時代遅れだと思われますが。

 よくぞお聞き下さいました。その理由は簡単です。
 例えば電子の挙動は、入門書では電子銃の図示でその非決定性ぶりを説明しています。
電子以下での実験はそのとおりなのでしょう。素人がとやかく口を挟めるものではありません。
 でもそれに対して、原子、分子以上ではその挙動は現在でも決定しています。
例えば、日本の陸地で46年ぶりの皆既日食が、今年の7月22日に見られるそうで、見られる各地での
皆既日食の継続時間まで秒単位で決定しているようで発表されています。その上、日本各地での
太陽の欠ける割合(食分)までも決定しているようで発表されています(4次元世界なのにどうやって
算出するのでしょうか?スゴイナーの感動の一言です)。
 もっと身近な、先生に関係した例では、食物の栄養素についてみましても、例えばビタミン類は
ズーッとビタミン類として決定していて変化しませんよね。それ故にこそ、食物の栄養バランスを
工夫できるわけですね。効用が非決定であったらどう工夫できるのでしょうか?

 私は「生きる意味と目的」を求めている者です。可能世界や多宇宙の考え方が参考になるかと
期待して首を突っ込んでみた次第です。まだホンの入り口で口幅ったいですが、今の段階で
分かった事は私は原子、分子以上の決定した、必然性のこの現実世界@に住んでいることでした。
中島義道流の表現を借りれば「どうせ死んでしまう」ことが決定した必然性の世界、そして
「それから眼を離して生きていることが最も不幸である」世界で生活していることでした。
ですからこの現実世界@での私は非決定性理論に組することが出来ず、決定性理論に立脚して
大地に足をつけて生きていきます。たとえそれが、>時代遅れ、であってもです。三浦先生が
非決定性理論を金科玉条?とされておられるように、です。

 最後になりましたが、拙著をご高覧下さるとのこと、有難うございます。
三浦先生にご高覧戴けますことは光栄の至りです。(最も、ご高評が怖いですが^ ^)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31670170&comm_id=1178890


Re: φ 様へ、お休みを 投稿者:φ 投稿日:2009年 3月 1日(日)01時23分45秒  
> No.2212[元記事へ]

みのるさんへのお返事です。

ビッグバン理論が定説であるのと同様に、素粒子の軌跡の原理的予測不可能性など、量子力学にもとづく非決定論はもはや定説と言えますが、なぜかみのるさんは非決定論は認めないのですね。
 いくつもの実験で非決定論はほとんど確証されているというのに、なぜこちらは信じないのでしょう。
 決定論は、ほとんど定常宇宙論と同じくらいに時代遅れだと思われますが。

 この宇宙一個に限定しているかぎり、未来はオープンでしょう。ちょうど、この部屋だけに視点を限定して、外界を考慮に入れなければ、ニュートン力学的精度ですらこの部屋の出来事が予測できないのと同じです。
 ただし、量子論的非決定性は、因果的開放性にもとづくよりも統計的なものでしょうが(私の意識(視点)がどの宇宙に属しているかが決まらないことによる非決定性)。

 御著書は拝見させていただきます。
 人生論的内容を含むのであれば、学生の世代には受けるでしょう。
 

φ 様へ、お休みを 投稿者:みのる 投稿日:2009年 2月28日(土)23時21分8秒  

貴重なお時間を割いての、しかも夜遅く(朝早く?)何回ものご教示、有難うございます。

>私が他の誰でもなくたまたまこの人間として生まれたのが偶然であるのと同じ種類の偶然です。
>多宇宙説は、日常経験のレベルでは、必然論(宿命論)を否定し、偶然論を支持するのです。

 のあたりがよくわかりません。と申しますのは、ファイン・チューニングの数々の物理特性が、
まとまって出来れば当然に、つまり「必然的」に地球が生まれ生物が誕生するからです。
もっともその ファイン・チューニングの数々の物理特性がまとまってできるのが偶然だった、と
おっしゃるかもしれませんね。しかしファイン・チューニングの数々の物理特性の組み合わせは、
一つでしょうから、どんな偶然の組み合わせでもいいということはないでしょう。ある一つの組み合わせ
のはずです。勿論その一つが出来上がるまでには数々のいろいろの偶然の組み合わせがあったでしょうが、
そこからは地球は生まれなかったわけです。一つの組み合わせが偶然にもせよ出来て、そこからは必然的
に地球と生物が生まれたのではないでしょうか。
 そのことは、人間(生物)すべてに言えるでしょう。子供が偶然に出来るのであれば、親と全く違った
子供が出来てしまいます。極端な場合では、白人の子に黒人が生まれたり、黄色人種が生まれたりするで
しょう。そうではなくて、実際には両親の遺伝子の組み合わせが決定する遺伝子から必然的に創られれる
子供が生まれます。その桎梏から逃れる事は出来ません。
 ここから導かれる私の結論は次のとおりです。
例えば、私を決める私の遺伝体(私を決めるものは、DNAだけではなくて、もっと未確認のものもあると
想像して、それらをひっくるめたものを遺伝体と名づけました)が受精の結果できあがれば、この私が
「必然的に」生まれるのです。ですから「必然的に」過去にも生まれたでしょうし、将来にも生まれる
はずなのです。
 (もっとも、わたしの遺伝体を決めたのは誰で、どんなプロセスかと尋ねられるとまだ困りますが)
こう理解しえて始めて、私は私の「生きる意味と目的」を納得できました。だからと言うわけでは
ありませんが、「偶然」では、それこそ中島義道さんのように、近著『人生に生きる価値はない』(新潮社)
になってしまいますからね。

 ところで、まず肝心な事は先生の比較的近著であり、又お勧めの『多宇宙と輪廻転生』(青土社)を
読了、咀嚼することが礼儀だと感じるようになりました。そこで誠に勝手で恐縮ですが、暫くお休みに
させて戴きたいと存じます。よろしくお願い申し上げます。

 そして又厚かましいようですが、これも何かのご縁、こんな考えに基づきました最下段にあります
拙著を、先生の研究室付属の図書室の片隅にでも置いて戴きまして、時折は学生さん達の間で話題に
なるでしょう「生きる意味と目的」のご参考にして戴けましたら、幸いです。(何ですか?役にナンカ
立たないよ、ですか。マァ、そうおっしゃらずに、お願いしますよ)
 お差支えありませんでしたら、後日お届けさせて戴きます。

失礼しました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31670170&comm_id=1178890


Re: >Re: 夢想世界の遊び、について 投稿者:φ 投稿者:φ 投稿日:2009年 2月28日(土)00時09分34秒  
> No.2209[元記事へ]

みのるさんへのお返事です。

>
>  ビッグバン時代の名残とされる「宇宙マイクロ波背景放射」が、実際に観測された、ということ、
> しかもこの発見の業績で研究者達が'78,'06とノーベル物理学賞を受賞したとなれば、それを裏付ける
> とした定説を否応なく信じざるを得ないのではありませんか?間違っていますか?
>

もちろん、間違っていません。私もビッグバンは信じます。
しかし、ビッグバンを信じるための証拠は、きわめて間接的で、ビッグバンが実際起きたということを私たちが観測できないのも確かです。
観測できるのは(それも赤方偏移などから間接的に)宇宙が膨張していることだけで、そこから推測されたビッグバン理論が「宇宙マイクロ波背景放射」を予言し、その背景放射が実際に(これも間接的に)観測されたことで、ビッグバン理論は「やっぱり」と支持を得たのです。

>
これだけ
> 観測技術が進歩しているのに、観測・発見、ましてや映像の一つすらないのですから、その実在を信じ
> ようにも信じられないのは無理からぬ事ではないでしょうか。如何ですか?
>
>

 観測・発見の一つもない、というのは間違っています。
 多宇宙は、まずはじめに、ファインチューニングや、宇宙の平坦性・一様性といった不可解なデータを説明するために、インフレーション理論やひも理論などから要請されました(ビッグバン理論における赤方偏移の発見の段階)。
 そして、もしモデルどおりに多宇宙が実在するならば、宇宙定数はゼロではないだろう、という予言がなされました(ノーベル賞物理学者スティーブン・ワインバーグらによって)。そして実際、ゼロでないことが観測されました。(このあたりは、『多宇宙と輪廻転生』p.2に挙げた三つの文献や、新しい宇宙論の啓蒙書をご覧ください)
 宇宙定数がゼロでないことの発見は、ビッグバン理論における宇宙マイクロ波背景放射
の段階に相当します。ワインバーグをはじめ、かつて究極理論の支持者だった人々が、今やすっかり人間原理(そして多宇宙説)の支持者になっています。
 多宇宙説を支持する経験的データは、結構見つかっているのです。

 もちろん、多宇宙説の信憑性は、ビッグバン理論にはまだ及びません。
 背景放射の細かい揺らぎまでが今や観測されて、ビッグバン理論はますます確固たるパラダイムの地位を占め、定常宇宙論はすっかり過去の遺物となりました。
 それに匹敵する段階が、やがて多宇宙説にもやってくることでしょう。

>
>  姿・形のない子供が両親を選ぶとおっしゃると、三浦先生がいくら信じないとおっしゃられても、
> 必然的に生前・死後の「いのち」の存在を信じるいわゆる「スピリチュアル」と同類視されて、
> 三浦先生は江原啓之や坂本政道などの仲間扱いを受けて、命取りの誘因になってしまわないかと
> 余計な心配をしてしまいます。
>

 御心配ありがとうございます。

 観測者が宇宙を選ぶ、という場合、たまたまデータが心を持つ人間だったから誤解を生じやすいかも知れませんが、人間も万物の例外ではなく、宇宙にとっては(というより物理学にとっては)一つのデータです。宇宙が人間を含む各種のデータ(ただしまだ観測はされていない)を生み出し、そのデータのうちのいくつか(人間など)が自らの環境を観測することで宇宙の選択がなされる、というのは、通常の、データと理論の相互選択の図式となんら変わりません。

 ただ、前々回も申し上げたように、誤解を生じやすい表現にはこれからは気をつけようと思っております。

 必然論についてですが、
 多宇宙全体ひっくめるめれば、その総体で何が起こるかは必然かもしれません。
 しかし、多宇宙の中のどの宇宙に私が属しているかは、実際に時間を追っていかないとわからないでしょう。
 千年後までの地球上で一度でも核戦争が起きている宇宙もあるでしょうし、起きていない宇宙もあるでしょう。現在の私たちの知識は、そのどちらのシナリオとも両立します。現実にどちらになるかは(この宇宙がどちらの宇宙であると判明するかは)千年経ってみないとわかりません。この現在においては、地球は、その両方の重ね合わせであり(つまり私たちの心は、見分けのつかないすべての「地球(的惑星)」に現在は散らばっているのであり)、私たちがいかなる地球の住人として分岐(というよりむしろ収束)してゆくかは、まったくの偶然だと思われます。
 私が他の誰でもなくたまたまこの人間として生まれたのが偶然であるのと同じ種類の偶然です。

 多宇宙説は、日常経験のレベルでは、必然論(宿命論)を否定し、偶然論を支持するのです。


>Re: 夢想世界の遊び、について 投稿者:φ 投稿者:みのる 投稿日:2009年 2月27日(金)22時32分54秒  
>「定説」だから信じる、というのでは理由になりませんよね。
 ビッグバン時代の名残とされる「宇宙マイクロ波背景放射」が、実際に観測された、ということ、
しかもこの発見の業績で研究者達が'78,'06とノーベル物理学賞を受賞したとなれば、それを裏付ける
とした定説を否応なく信じざるを得ないのではありませんか?間違っていますか?

>整合的な理論形成上、不可欠の考えになりつつあります。
上記に対して可能世界とか多宇宙とかは「論理」というのには適っているのでしょうが、これだけ
観測技術が進歩しているのに、観測・発見、ましてや映像の一つすらないのですから、その実在を信じ
ようにも信じられないのは無理からぬ事ではないでしょうか。如何ですか?

 そう言えば、前回の2/25のご教示を改めて読み直してみました。

>たとえば数学では、関数が数値を「選び出す」というような言い方をします。構成主義的にみると、
関数の方があとに、数によって構成されるのに、関数が遡って数を選ぶのです。
>自然科学でも、「データが理論を選び出す」という言い方があります。真なる法則を映し出した
理念型が理論だと考えれば、偶然的なデータよりも理論は存在論的に先行すべきもので、理論によって
個々のデータが決定されるはずです。にもかかわらず、データが理論を選ぶ(多数の候補の中から
どの理論がこの宇宙にあてはまるかをデータが選び出す)、と言えるのです。

 ここでの「理論」は、人間に把握された理論の事でしょうから、その理論は「偶然的なデータ」から
築き上げられた後行のものなのでしょう?そして、その理論を適用すれば、新しいデータが生み出される
のではないでしょうか? つまり、偶然的なデータ→理論→新規のデータ の関係になるので、
どちらも主体になり得て他を「選択する」事になるのは不思議でもなんでもなく、当たり前になります。
数学でも同じ事でしょう。即ち、「選択する」は常識どおりの意味に使っているのです。
別に学術用語でもなんでもないことになります。補足;データ→ 理論→ 新規のデータ
                            実験  適用
 但し、以上の例は無機的な場合であって、生物、つまり「いのち」が絡んでくる生物の場合では適用できません。
 即ち、常に両親の間から子供が生まれるのであって(両親→子供)、逆は全くあり得ません。
つまり両親→子供→両親は、絶対にありません。
 同様に、環境が生物を選択する事があっても、その逆は、生物が移動可能の範囲を除いてあり得ず、
まして宇宙を観測して宇宙を選ぶなどということは金輪際あり得ない事です。

 姿・形のない子供が両親を選ぶとおっしゃると、三浦先生がいくら信じないとおっしゃられても、
必然的に生前・死後の「いのち」の存在を信じるいわゆる「スピリチュアル」と同類視されて、
三浦先生は江原啓之や坂本政道などの仲間扱いを受けて、命取りの誘因になってしまわないかと
余計な心配をしてしまいます。

失礼しました。

追記;
「偶然的なデータ」と先生はよく、「偶然」をお使いになりますが、私は森羅万象、起ることはすべて
「必然的に起る」と見ています。つまり、自然現象は勿論のこと、歴史上のことであれ、どんな社会現象
であれ、因果関係は必然的に結びついていると考えています。だからこと生じた現象の解析を通して、
真理に到達できるのだ、それ以外に真理に到達する道はないのだと愚考しています。以上
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31670170&comm_id=1178890


Re: 夢想世界の遊び、について 投稿者:φ 投稿日:2009年 2月26日(木)20時45分36秒  
> No.2207[元記事へ]

みのるさんへのお返事です。

>
> その先の外側は、人間には全く検証できない不可知の世界になり、幻想、夢想の対象になるだけに
> なります。
>

 ちょっと理解しがたかったのですが、つまるところ、みのるさんは、
時空的に人間の観測の届かないところにある物事については、真偽が確かめられる有意味な言説をなしえない、という立場でしょうか。
 しかしそれにしては、

>
>  この現実世界@は、約137億年前の昔、宇宙の物質とエネルギーのすべてを含んだ火の玉の
> 超強力な大爆発(ビッグバン)で生まれ、現在でも膨張し続けているという「膨張宇宙」が定説
> のようです
>

というふうに、ビッグバンの存在は認めておられるわけですね。
 これは解せません。「定説」だから信じる、というのでは理由になりませんよね。
 観測できない事柄を認めてはならない、という立場をとるなら、ビッグバンを信じることもできないのではありませんか? 誰もビッグバンを見た人はいないし、遡って観測することも決してできないのですから。

 結局、宇宙背景放射のゆらぎなど、間接的な証拠、および理論の整合性からビッグバンが推測されているだけです。そしてそれで十分なのです。
 私たちは日々、直接は経験できない「他人の心」の存在を推測していますが、これも、他人の外面的な言動という間接証拠と、推測の整合性に基づいています。

 多宇宙は、いまや複数の領域から定説となりつつあり(量子論、インフレーション理論、ひも理論、人間原理、……)、整合的な理論形成上、不可欠の考えになりつつあります。しかも、整合性だけでなく経験的データの点でも、検証の仕方がある程度確立しつつあるようですから、単なる思弁ではありません。

 遠い昔のビッグバンを信じられる人ならば、多宇宙を信じることなど朝飯前ではないか、と私は思うのですが――
 

夢想世界の遊び、について 投稿者:みのる 投稿日:2009年 2月26日(木)15時33分43秒  

再度のご懇切なご教示、有難うございました。

>自然科学でも、「データが理論を選び出す」という言い方があります。

 つまり、これが「学術用語」というものなのですね。
私の手の届くものではありませんでした。失礼しました。

 ところで、先生お勧めの『多宇宙と輪廻転生』(青土社)を読み始めたところです。
ここでも、すぐに壁にぶつかりました。ついでに、と申しては何ですが、こちらも
よろしくお願いしたいのですが。それは、

-----------------------------------------------------------------------------------
 この現実世界@は、約137億年前の昔、宇宙の物質とエネルギーのすべてを含んだ火の玉の
超強力な大爆発(ビッグバン)で生まれ、現在でも膨張し続けているという「膨張宇宙」が定説
のようです(それ以前は不明?)。そしてその膨張速度も測定されています。
 ところで、その膨張速度が光速度で遠ざかっている場合には、そこからは光や電波が我々には
届かず、そこが人間の観測可能な宇宙の限界、つまり「宇宙の地平線」となるわけで、その距離は
およそ百数十億光年あたりと、途方もない距離と考えられているようです。つまり現実世界@の宇宙の
その先の外側は、人間には全く検証できない不可知の世界になり、幻想、夢想の対象になるだけに
なります。何を言おうと勝手でしょ!の世界です。そして、又この実在の宇宙の中には、多宇宙や
可能世界の存在ナンテ観測されていないのです。

 それなのに、三浦先生は何故に、神の世界を信じた中世のヨーロッパに逆戻りした風に、
ファンタジー的な思弁、夢想物語の「多宇宙」に組したのでしょうか?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31670170&comm_id=1178890


Re: >Re: >Re: 「観測選択原理」について 投稿者:φ 投稿者:φ 投稿日:2009年 2月25日(水)20時36分28秒  
> No.2205[元記事へ]

みのるさんへのお返事です。

 因果的な主体的行為としてではなく、単にスクリーニングするという意味での「選ぶ」の用法は、さほど奇異ではなく、学問ではわりと一般的ではないでしょうか。
 AがBを選ぶ、と言う場合、みのるさんも認めるような(自然選択のような)擬人的な言い方が許されるので、AからBへの物理作用や因果関係は必ずしもなくてよく、AのBに対する存在論的な先行性も前提されません。

 たとえば数学では、関数が数値を「選び出す」というような言い方をします。構成主義的にみると、関数のほうがあとに、数によって構成されるのに、関数が遡って数を選ぶのです。
 集合論の「選択公理」などという場合も、集合が要素を選び出していますが、存在論的には要素のほうが先にあって、集合は要素から構成されるべきものです。
 自然科学でも、「データが理論を選び出す」という言い方があります。真なる法則を映し出した理念型が理論だと考えれば、偶然的なデータよりも理論は存在論的に先行すべきもので、理論によって個々のデータが決定されるはずです。にもかかわらず、データが理論を選ぶ(多数の候補の中からどの理論がこの宇宙にあてはまるかをデータが選び出す)、と言えるのです。

 以上のような言い方は、宇宙によって作られた人間が(遡って)宇宙を選んだ、という言い方とさほど変わらないのではないでしょうか。

 つまり、人間原理では、「選ぶ」を、因果的な意味ではなく、無時間的な論理的な意味で使っています。話題の焦点となる1つのものが、可能的な多数のうちの1つと結びつくことが「選ぶ」なのです。(「私たちがいるからこの宇宙だ」の「から」が因果関係の「から」ではないという注記は、p.185冒頭をご覧ください。)

>
> >私が、生を受けるために他のいつでもなく、父親の精子と母親の卵子が合体した瞬間を「選んだ」のも
> >同じ理屈です。
>
>  とあるのを拝見しますと、三浦先生のお立場は、死後や生前(文字通りに「生まれる前」の意)の
> いのちの存在を信ずる、いわゆる「スピリチュアル」と同類と解釈してもよろしいのでしょうか?
>

 私は、生前や死後における意識の存続や心霊体の実在を一切否定するので、いわゆる「スピリチュアリスト」ではないと思います。(ただし、記憶の連続性なき輪廻転生というものを認めるべきだとは思っていますが)
 肉体(具体的には脳)のないところに意識が宿りうる、という心霊説を論理的に否定する論証は、『多宇宙と輪廻転生』(青土社)第11章などをご覧いただく折があれば幸いです。
 

>Re: >Re: 「観測選択原理」について 投稿者:φ 投稿者:みのる 投稿日:2009年 2月25日(水)16時59分39秒  
φ 様、再度のご懇切なご教示、有難う有難うございました。
しかしながら、

>人間原理では 観測者(究極的には「私」)が選ぶもので宇宙が選ばれるもの
> という比喩が用いられております。

 は、残念ですが私には全く理解不能です。私はきっと、「人間原理」には縁なき衆生なのだと諦めます。

 ところでご親切に甘えて、ここでの最後の確認させて戴きたい事があります。

>主体として存在もしていない時点で「選ぶ」のは不可能だ、比喩としてもそんな言葉は使ってはならない
>――、というのはもちろん健全な言語感覚です。

 とありますが、

>私が、生を受けるために他のいつでもなく、父親の精子と母親の卵子が合体した瞬間を「選んだ」のも
>同じ理屈です。

 とあるのを拝見しますと、三浦先生のお立場は、死後や生前(文字通りに「生まれる前」の意)の
いのちの存在を信ずる、いわゆる「スピリチュアル」と同類と解釈してもよろしいのでしょうか?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31670170&comm_id=1178890


Re: >Re: 「観測選択原理」について 投稿者:φ 投稿者:φ 投稿日:2009年 2月24日(火)21時43分9秒  
> No.2203[元記事へ]

みのるさんへのお返事です。

 ご趣旨は了解しました。
 問題は目的論や擬人法ではなく、存在の文法だというわけですね。

 「自然環境が遺伝子を選ぶ」はOKだが、「遺伝子が自然環境を選ぶ」はNG。
 「宇宙が観測者を選ぶ」はよいが、「観測者が宇宙を選ぶ」はいけない。

 主体として存在もしていない時点で「選ぶ」のは不可能だ、比喩としてもそんな言葉は使ってはならない――、というのはもちろん健全な言語感覚です。

 ふつう、可能的な一対多対応が、現実的な一対一対応へ収束するスクリーニング状況においては、因果的方向は度外視して一般に、
 可能的一対多対応における一を選ぶもの、
 多を選ばれるものの属する母集団
 と捉える比喩が学界でまかり通っており、その具体例として、
 自然選択説では 自然環境が選ぶもので生物が選ばれるもの
 人間原理では 観測者(究極的には「私」)が選ぶもので宇宙が選ばれるもの
 という比喩が用いられております。

 このような、宇宙物理学で観測選択効果が論じられるときの「選ぶ」という言葉遣いを私も踏襲して書いたのでしたが、

 今後、読者に誤解を与える言葉遣いはなるべく避けるよう気をつけようと思います。

 御指摘どうもありがとうございました。
 

>Re: 「観測選択原理」について 投稿者:φ 投稿者:みのる 投稿日:2009年 2月24日(火)17時33分10秒  

φ 様、ご丁寧な長文のご教示、有難うございました。
しかしながらまず、最後にあります

>スピリチュアルな意味にとるのではなく、
 ここに突然「スピリチュアル」が飛び出してきたのが気持ち悪い印象を受けました。

さて、
>学術用語と日常用語のギャップには気をつけねばなりませんね。
 とありますが、学術用語とやらが日常用語とまるで反対では混乱して意味不明になります。
日本語の「選ぶ」の意味は、失礼ですが「能動詞」ですよね。主語が目的語を「選ぶ」のですよね。
>つまり、意図的に、目的を持って選ぶ、という意味ではありません。が、
>ダーウィン的自然選択は、結果論です。つまり「結果」として選ぶ、選択した、自然が人間を、ということですよね。

 即ち、自然(主語)が地球という自然環境を通して「人間」(目的語)を選択した、のであり、あくまでも
人間は地球によって選ばれた「受動」「受身」なのです。ですからおっしゃるように(おわかりのように)
>人類は自然選択の産物なのです。 であって、決して「人間」が「地球」を選んだわけではありません。
>多数の生物種から自然環境が選んでゆくという比喩が「自然選択」ですが、 とあって、そのことは既に
あなたは充分にお分かりのはずなのに、不思議ですねー。

私がビックリしたのは、
>私が、生を受けるために他のいつでもなく、父親の精子と母親の卵子が合体した瞬間を「選んだ」のも同じ
>理屈です。
 ヘーェ、あなたはご両親を選んだのですか? まだ合体もしていない時に、つまりあなたが全然姿・形も
ない時にどうやって選べたの?だいぶ前にベストセラーになった飯田史彦ばりですね。失礼ですが、
今時の子供だってこんなことは言いませんよ。
(ハハーン、ここに来て気がつきました。「スピリチュアル」とはこのあたりの事なのですね。としますと、失礼ですがあなたの方がよっぽどスピリチュアル系ですね)

 結論を申せば、「選ぶ」「選択する」の意味を取り違えて、「能動詞」を「受動詞」として解釈した
誤りなのであって、決して >学術用語と日常用語のギャップには気をつけねばなりませんね。 なのではありませんでした。
 ですから、
>その中にたまたま生命に適した宇宙があれば、結果的に生命として誕生した私たちはそこを「選ぶ」しかありません。
>生命の誕生に適した宇宙だけに、結果的に生命が誕生します。つまりそういう例外的な宇宙が「選ばれた」のです。
 これらが間違っている事はお認めになりますよね。


 さて、「観測選択」ですが、
>「観測選択」では、多数の自然環境から観測者が選ぶ、という逆の比喩になります。
>選ばれるものとしては、生物の多数の分岐系統に相当するのが、ここでは多数の宇宙です。
>その中にたまたま生命に適した宇宙があれば、結果的に生命として誕生した私たちはそこを「選ぶ」しか
>ありません。
  もう、縷縷とご説明する必要はありませんね。
>生命として誕生した私たち、 はどうやって観測し、選び、移動していくのですか?
 これから「月」を「選んで」移動する時のように。

三浦先生には、「論理」より前に日本語をご勉強して戴かねばなりませんね。

失礼しました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31670170&comm_id=1178890


Re: 「観測選択原理」について 投稿者:φ 投稿日:2009年 2月23日(月)21時39分29秒  
> No.2201[元記事へ]

みのるさんへのお返事です。

>
> どうやって遠い過去に原始単細胞の生命が、>観測したり、>自らに適した環境を選んでそこに実現する、
> ことができたとおっしゃるのですかね。
>

 ダーウィン的淘汰説を引き合いに出していますので、
 「選ぶ」という語を、「自然選択」という場合の、機械論的な意味で考えてください。
 つまり、意図的に、目的を持って選ぶ、という意味ではありません。

 「自然選択の結果、私たちが生まれた」というのは、脊椎動物の祖先が、私たち人類に繋がるこの道筋をとるように自然環境によって「選ばれた」ということですが、べつに、ナメクジウオが人類を目指して一方向に進化し始めたわけではありませんし、自然環境がナメクジウオに特別な配慮を賜ったわけでもありません。ダーウィン的自然選択は、結果論です。生物界の多数に枝分かれした諸系統のうち、たまたま生き延びて、子孫が絶えずに、大脳が発達して、自らのことを哲学的に考えるようになった末裔が「私たち人類」であり、その祖先がたまたまナメクジウオの系統だったというだけです。
 誰も事前に「人類になろう」と目的意識を持ってなどいませんでした。しかしそれでも、人類は自然選択の産物なのです。

 ダーウィニズムの言葉遣い(選択、適応、機能、など)は、目的論的にも読める比喩的な語が多いのですが、これは他の分野にも言えることです。
 学術用語と日常用語のギャップには気をつけねばなりませんね。

 さて、人間原理の「観測選択」ですが、理屈は自然選択と同様です。
 ただ、多数の生物種から自然環境が選んでゆくという比喩が「自然選択」ですが、「観測選択」では、多数の自然環境から観測者が選ぶ、という逆の比喩になります。
 選ばれるものとしては、生物の多数の分岐系統に相当するのが、ここでは多数の宇宙です。

 いろんな物理条件を持った宇宙がきわめて多数実現して、その中にたまたま生命に適した宇宙があれば、結果的に生命として誕生した私たちはそこを「選ぶ」しかありません。
 (いろんな生理的条件を持った生物がきわめて多数実現して、その中にたまたま環境に適した生物がいれば、結果的に生物を進化させた環境はその生物を「選ぶ」しかない、というのと類比的です)。
 ほとんどの宇宙では生命の誕生可能性は摘み取られてしまい、生物は誕生場所としてそれらの宇宙を「選ぶ」ことはできません。生命の誕生に適した宇宙だけに、結果的に生命が誕生します。つまりそういう例外的な宇宙が「選ばれた」のです。生命のひとつである私たちが、生命を代表して、この宇宙を観測して天文学や宇宙論を発展させているというわけです。
 視点を逆にすると、この宇宙(私たちが生まれた宇宙)が生命に適しているのは、当たり前だということになりますね。ファイン・チューニング(p.182)は謎ではなくなります。

 私たちが人間であるのはなぜか、という問いにも、同様の観測選択原理で答えられます。
 ゴキブリの系統、アンモナイトの系統、三葉虫の系統、ミツバチの系統、……に私たちが誕生せず、知的生命である人類として(人類を選んで)誕生したのは当たり前なのです。自意識を持つ「観測者」としては、ゴキブリやミツバチでは不適格ですから。
 私が、生を受けるために他のいつでもなく、父親の精子と母親の卵子が合体した瞬間を「選んだ」のも同じ理屈です。受精が実現したとき以外の瞬間は、生命誕生には(物理的に)適さない瞬間ですから。

 私たちが地球に存在し、液体の水を持たない月にいないのも同じ理屈ですね。この宇宙のほとんどの場所は、生命誕生の必要条件がそろっていません。水、空気、温度などの条件からして、地球のような例外的な場所を「選んで」私たちは生まれてくることしかできないのです。
 人類がこれから月に移住するとすれば、意図的に「月を選ぶ」ことになりますが、地球に生まれてきた場合の「地球を選ぶ」は、ダーウィン的な結果論の「選ぶ」です。多数の場所から、ここしか選べなかったのです。

 「選ぶ」を、目的論的な意味やスピリチュアルな意味にとるのではなく、ダーウィン的な結果論の意味にとるようにすれば、疑問は氷解すると思うのですが、いかがでしょう。


「観測選択原理」について 投稿者:みのる 投稿日:2009年 2月23日(月)15時31分27秒  
新参者で失礼致します。よろしくお願いします。

『可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』NHKブックス、'97 の184頁。

疑問点

「多世界論によれば、宇宙はたまたま生命に適していたのではなく、生命が宇宙を選び淘汰したのだ、
というダーウィン的淘汰説に導かれるでしょう。・・・生命は自らに適した環境を選んでそこに実現
するのみ。・・・生命は必然的に、生命に適した幸運な世界を、そういう世界のみを観測し不思議
がったりするのです。多世界論に結びついた人間原理は「観測選択原理」とも呼ばれ、生命の秩序の
不思議をうまく説明する事に成功しています」

人類はやっと月に到達したり、地球を周回できるようになったばかりなのですよ。人類は月にさえ
まだ移住していないのですよ。それなのに、

>生命は必然的に、生命に適した幸運な世界を、そういう世界のみを観測し、
>生命は自らに適した環境を選んでそこに実現するのみ。

どうやって遠い過去に原始単細胞の生命が、>観測したり、>自らに適した環境を選んでそこに実現する、
ことができたとおっしゃるのですかね。
お手数でも、どなたか教えて頂けませんでしょうか!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31670170&comm_id=1178890


Re: 量子力学と眠り姫問題 投稿者:φ 投稿日:2009年 2月11日(水)04時09分41秒  
> No.2198[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

>
> 量子論理についての研究の最近の流れでは、分配法則の放棄は必要がないとされているようです。といいますか、この放棄は間違っていると。

 そうなんですか。それは知りませんでした。

 しかし、そうなると量子論理はどの点で古典論理と異なるのでしょう。

 量子論の内部でいかなる論理が用いられようとも、その論理について語るときのメタ論理はあくまで古典論理でしょうから、やはり究極にはすべて古典論理での記述が望ましいという本音はつきまとうのでしょうね。
 で、その「自由意志定理」が載っているのは、2月号でしょうか?

 眠り姫問題をサンプルに量子論理の帰結を探るのは面白そうですね。ただ、古典論理で考えることがすでに十分面白すぎるような気がしていて、なかなか量子論理まで気が回りませんが――

 量子論理特有の帰結でめぼしいものがあったらお教えいただけると幸いです。
 

Re: 量子力学と眠り姫問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2009年 2月10日(火)17時18分3秒  
> No.2198[元記事へ]

…余談ですが、月刊数理科学の最新号で、自由意志定理というのが出ていまして、たいそうたまげております。 高度な知的生命体に限らず、宇宙の基本的存在にも選択が可能であるということらしいのですが。量子論理の追求から出てきているらしいのですが。私にはサッパリです。


Re: 量子力学と眠り姫問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2009年 2月10日(火)17時15分5秒  

> No.2197[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
>  他の問題に比べて眠り姫問題がとりわけ、量子論理に影響されると考える理由はあるのでしょうか?

ありません。むしろ私の身勝手な多世界解釈への連想によるものです。眠り姫問題に限ったわけではないのでして、無限定な可能世界にくらべてわれ等が宇宙の多世界のほうに興味があるという説明で、、、説明になっているでしょうか?

>  古典論理ではうまくいかないのでは、という懸念は、気にしだしたらすべての問題(すべての確率問題?)に均等に覆いかぶさるものであって、とくに眠り姫問題に特有のトラブルをもたらしはしないように思われるのですが。

いえ、眠り姫問題に限らず古典論理ではうまくいっているというように観じております。量子論理ではどうなるのだろうというのが主題です。その一例として眠り姫は?と考えた次第です。

>  少なくとも、マクロな出来事が構成要素になっている問題の場合は、古典論理で考えねばならないでしょう。

私にはわからない・・・という意味で同意しかねます。

>  量子論理は、マクロな基準では個体と言えないミクロの事柄を強引に個体と見なすところから、表面上、古典論理が破れているように見えるだけだと思います。ミクロな世界の「個体」が、実際に古典論理に反した「量子論理的運動」をしているわけではありません。

まったく同意しかねます。おっしゃられるところの「個体」の意味を取り違えているかもしれませんが。


>  量子論理は、人類がまだ正確に構造分節化する術のないミクロな環境に対して、仮の個体(「素粒子」など)を運動単位としてむりやり記述しようとするがために、辻褄合わせのうえで分配法則を放棄するなどしているだけでしょう。
>
>  ……と私は思っているのですが。
>

量子論理についての研究の最近の流れでは、分配法則の放棄は必要がないとされているようです。といいますか、この放棄は間違っていると。先生がおっしゃっていることがらはパットナム流なのですか?

>  マクロな世界でも、内包的対象のように恣意的な個別化をすれば、「個物」の間に成り立つ論理法則はいくらでも古典論理に反するように解釈できます。
>
>  少なくとも、量子論理学なるものは便宜的記述装置にすぎず、マクロであれミクロであれ、客観的世界の構造を記述しているのでないことだけは確かだと思います――。

激しく疑問です。我らが宇宙がユークリッド的である、と言われているような気持ちに近いかもしれません。上手な比ゆではなくてすみません。


Re: Re: 量子力学と眠り姫問題 投稿者:φ 投稿日:2009年 2月10日(火)00時57分41秒  
> No.2196[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

 他の問題に比べて眠り姫問題がとりわけ、量子論理に影響されると考える理由はあるのでしょうか?
 古典論理ではうまくいかないのでは、という懸念は、気にしだしたらすべての問題(すべての確率問題?)に均等に覆いかぶさるものであって、とくに眠り姫問題に特有のトラブルをもたらしはしないように思われるのですが。

 少なくとも、マクロな出来事が構成要素になっている問題の場合は、古典論理で考えねばならないでしょう。
 量子論理は、マクロな基準では個体と言えないミクロの事柄を強引に個体と見なすところから、表面上、古典論理が破れているように見えるだけだと思います。ミクロな世界の「個体」が、実際に古典論理に反した「量子論理的運動」をしているわけではありません。
 量子論理は、人類がまだ正確に構造分節化する術のないミクロな環境に対して、仮の個体(「素粒子」など)を運動単位としてむりやり記述しようとするがために、辻褄合わせのうえで分配法則を放棄するなどしているだけでしょう。

 ……と私は思っているのですが。

 マクロな世界でも、内包的対象のように恣意的な個別化をすれば、「個物」の間に成り立つ論理法則はいくらでも古典論理に反するように解釈できます。

 少なくとも、量子論理学なるものは便宜的記述装置にすぎず、マクロであれミクロであれ、客観的世界の構造を記述しているのでないことだけは確かだと思います――。


Re: Re: 量子力学と眠り姫問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2009年 2月 9日(月)16時17分34秒  
> No.1974[元記事へ]

ごぶさたしております。以前、こちらの掲示板で眠り姫問題についていろいろとご教示をたまわった者です。

さて、われらが宇宙のモデルとして多世界および輪廻が、心の片隅にあって常に気にしていたのですけれど、最近になって以下のようなことが気がかりになってまいりました。

1:眠り姫についての推論にあたっては古典論理を使っていてよいものであるのか。宇宙について考える以上、量子論理についても考えておく必要がありそうだが、量子論理の適用下では、一般的にはベイズ推定が無効なのではないか、いや、ベイズ推定が有効である保障はどこにあるのだろうか。ベイズ推定が有効であるケースとはどのような場合なのだろうか。

以上の疑問は、私には解決するにはかなりキビシク、路頭に迷っているような按配です。
眠り姫のコインを問題にしているわけではございませんが、量子的コインのもとでの論理展開はどうなるのだろうかと…


Re: ありがとうございます(Re: 我思う、ゆえに我あり) 投稿者:φ 投稿日:2009年 2月 6日(金)01時23分8秒  
> No.2193[元記事へ]

winefさんへのお返事です。

デカルトは、著書を公刊した時点で、「我思う」が他者にも納得してもらえると思ったのでしょうね。
(現象的に「思った」かどうかはともかく、機能的には「思った」。)

デカルト自身がゾンビだったか非ゾンビだったかにかかわらず、デカルトは読者が非ゾンビである(読者自身の「我思う」を現象的に確信できる)と信じていたわけです(少なくとも機能的に「信じていた」)。


ありがとうございます(Re: 我思う、ゆえに我あり) 投稿者:winef 投稿日:2009年 2月 5日(木)23時26分20秒  

> No.2192[元記事へ]

φ様

なるほど。命題単独で真偽決定を行うのではなく、命題が示される状況を踏まえた語用論的な問題になるわけですね。

>Fa∧(Fa→∃x(x=a))
>つまり、「我思う」が無条件で断定されています。そこから、「我あり」も無条件で断定できるようになっています。

そうですね。Fa→∃x(x=a) だけだと前件が偽でもトリビアルに成立してしまう。やはり、Fa(我思う)が無条件で断定されるところにこの命題のダイナミズムがあるのだと思いました。

>私たちが自分で一人称的にデカルトの懐疑を追体験するならば、自分が主観的内面を備えた非ゾンビであることは自分で承知していますから、「我思う、ゆえに我あり」は疑えない真となります。

「哲学的ゾンビ」という概念は面白そうですね。(『論理パラドクス』の「058ゾンビ・ワールド」を読み返してみました)

現実の他者を{b1, b2, b3, b4, …}と名付け、さらにその行動(動き・表情・発言…)を{b1-1,b1-2, b1-3, …, b2-1, b2-2, b2-3,…,b3-1,…}と並べて検証したところで、他者が「哲学的ゾンビではない」ことの究極的な保証は得られないようにみえます。
もちろん、デカルトが非ゾンビだという保証もない。

そう考えてみても、「我思う、ゆえに我あり」の意義はやはり「私たちが自分で一人称的にデカルトの懐疑を追体験する」ことにあるのだという気がしました。

どうもありがとうございました。


Re: 我思う、ゆえに我あり 投稿者:φ 投稿日:2009年 2月 5日(木)01時51分46秒  
> No.2190[元記事へ]

構文論や意味論では解けない問題ですね。語用論的に捉えないと。

「我思う、ゆえに我あり」は構文で考えると妥当ではありませんよね。
「神語る、ゆえに神あり」……こんなんで神の存在証明ができた、と納得できる人はいないでしょうし。
 しかし、
 Fa→∃x(x=a)は、標準論理では必然的に真と言うべきです。Faが原子命題ならばの話ですが。

 Faが原子命題でなければ、たとえばFaは「aは赤くない(aは赤である、のではない)」を意味するかもしれません。
 すると、「チュパカブラは赤いのではない→チュパカブラは存在する」は必然的真ではありません。(チュパカブラは個体ではなく種族でしたっけ? ともかく架空の個体名で考えてください)

 「我思う」が原子命題ならば、「我思う、ゆえに我あり」は必然的真でしょう。
 そして、「我思う」が原子命題というのは正しいかもしれません。
 しかし、デカルトはもともと、「絶対に疑えない真理」として、条件命題(仮言命題)は除外していたはずです。なぜなら、条件命題も入れてよいなら、大袈裟な方法的懐疑などに乗り出す必要はないからです。「これが石ならば、これは石である」という疑いようのない絶対的真理が簡単に手に入ってしまいます。

 というわけで、
 「我思う、ゆえに我あり」全体の真偽が問題なのではありません。
 条件命題でない命題、
 「我思う」と「我あり」の真理性が疑えないことが重要だったのです。

 しかももう一つ重要なのは、
 「我思う、ゆえに我あり」は、「我思うならば我あり」とは違うということです。

 winefさんは、 → を使って、
 「我思う、ゆえに我あり」が条件命題であるかのように扱っていましたが、「我思う、ゆえに我あり」は、あえて記号化すると、

  Fa∧(Fa→∃x(x=a))

 となるべきでしょう。
 つまり、「我思う」が無条件で断定されています。そこから、「我あり」も無条件で断定できるようになっています。

 つまり、「我思う」は一人称で述べられたときには必然的に「思い」なので、その思いは存在するというわけです。
 ただし厳密には、その思いの生じた一瞬を超えた持続的な「我」の存在は導けません。
 よって正確には、
 「いま思う、ゆえにこの思いあり(ゆえにいまあり)」となるべきでしょう。
 思いの灯った一瞬間そのものを「我」と表現すれば、「我思う、ゆえに我あり」でよいでしょうが……。

 こうして、重要なのは、
 Fa∧(Fa→∃x(x=a))
 という構造ではなく、 Fa が「我思う」の場合は自動的に肯定されねばならないという語用論なのです。
 「神語る、そして神語れば、神あり(神語る、ゆえに神あり)」は、「神語る」の真理性が自動的に保証されないため、神の存在証明になっていません。
 「我思う、ゆえに我あり」は、「我思う」が語用論的に真理保証を得ているため、我の存在証明になっています。

 ですから、

 >これらのやり方だと、
 >述語Pxがどんな述語(走る、遊ぶ…)でも成り立つので、
 >記号化としては不十分な気もします。

 という心配は御無用です。
 むろん、自らを証明してしまう「我思う」の語用論的構造を記号化するのは至難ですが……しかしいずれにしても、「思う」以外のどんな述語(走る、遊ぶ…)でも成り立つ、という心配は無用です。

 なお、
 「思う」を心の機能としてではなく、主観的現象(意識)として捉える場合(デカルトはそうだったはずですが)、
 一人称の「我思う」は自動的に肯定されねばならない、という認定には注意が必要でしょう。
 デカルトが哲学的ゾンビだった場合は、「我思う、ゆえに我あり」は偽だからです。
 デカルトが内面を備えた非ゾンビだという条件下でのみ、彼の「我思う」と「我あり」は真と認められます。

 私たちが自分で一人称的にデカルトの懐疑を追体験するならば、自分が主観的内面を備えた非ゾンビであることは自分で承知していますから、「我思う、ゆえに我あり」は疑えない真となります。
 ただし、ゾンビは、同じ追体験をしても、「我思う、ゆえに我あり」は彼にとって偽となります。「我思う」が偽だからです。ゾンビは、「我思う」と語って(機能して)いるだけなので、一人称的な「我思う」の真実性は獲得できないのです。
 

我思う、ゆえに我あり 投稿者:winef 投稿日:2009年 2月 5日(木)00時16分57秒  
φ様

こんにちは。以前何度か質問させていただいた者です。

デカルトの有名な命題「我思う、ゆえに我あり」を論理的に検証するとどうなるのでしょうか。
ひとりで考えていても結論がでないので、ヒントをいただけると嬉しいです。

原文は”Je pense, donc je suis.”
ラテン語訳は”cogito, ergo sum”
どちらも恐らく一人称単数形で、論点先取の形式にも見えます。

「Px:xは思う」「a:私」と置くと、「Pa」はそれ自体で「a」を前提しているように思えます。

Pa→∃x(Px∧x=a)
「私が考えるならば、考え、かつ、私であるものが存在する」は、たしかに妥当式になりそうです。

だけど、これらのやり方だと、述語Pxがどんな述語(走る、遊ぶ…)でも成り立つので、記号化としては不十分な気もします。

だとすると、これは様相論理、認識論理まで踏み込んで考えるべきなのか。
たとえば、「私は”我思う”を知っている」を「KaPa」と置いてみるというのは?
そうすると認識演算子「K」の主体である「a」をやっぱり最初から存在を想定することになってしまう?

…などと考えていて、このへんが自分の今の知識では限界だと思いました。
特に様相論理については、囓りはじめたばかりなのでどんな風に考えればいいのか、よくわかっていません。

いろんな解釈のできる問題なのかもしれませんが、よかったらφさんのご意見をお聞かせいただけませんか。


Re: 御著書について 投稿者:φ 投稿日:2009年 1月18日(日)00時15分34秒 
> No.2188[元記事へ]

katzeさんへのお返事です。

「インスペクション・パラドクス」ですね。
『論理パラドクス』第74問(p.149)です。

地球外文明のありさまについて間接推論できるところが、このパラドクスの面白いところです。


御著書について 投稿者:katze 投稿日:2009年 1月17日(土)21時54分14秒  

以前、先生の御本の中でバスの待ち時間に関する問題の解説を拝読した記憶があるのですが、それがどの本であったか、心当たりの本(「論理学がわかる事典」)をさがしても見当たりません。書名とページ数を教えて頂きたいのですが。よろしくお願い致します。