三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ2004年)

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主観的意識の難しさ 投稿者:φ  投稿日:12月27日(月)05時16分47秒

 そうですね、ぜひお話させていただきたいと思います。
 ただ、私の目下の主要研究テーマは意識・クオリアを掠りつつややズレておりますので、少し基礎知識を固めてから、参上したほうがよいかとも。そのおりは直接連絡とらせていただくことにしましょう。
 お立ち寄りの方々のために、良きアイディア(というか、説明法)を思いつかれましたらまた適宜ここへおいでくださると幸いです。

 さしあたり私の考えるポイント(機能主義の枠内でクオリアを理解するための)は――

 1 クオリアの個別的性質が機能であることが証明できるか?
 2 1→証明できない場合、クオリアの個別的性質と機能との必然的相関関係は証明できるか?
 3 2→証明できない場合、せめてクオリアの有無(性質はどうあれ)と機能との必然的相関関係は証明できるか?
 4 3→証明できない場合、せめてクオリアの有無と機能との事実的(恒常的)相関関係は証明できるか?

 人知が達しているのは今のところ4まで、というのが私の抱いている感じです。(超簡潔な私的メモのようなリストですみません)
 ――主観的意識はそもそも言語化不能なところがあるので、意識を科学的世界像になめらかに取り込もうとすること自体が間違いなのかもしれませんが。この関連で、ラッセルの私的言語論(論理的固有名・センスデータ論)が、クオリア解明の鍵になりそうな予感を私は抱いています。(ウィトゲンシュタインとは反対に、ラッセルにおいては理想言語は本質的にプライベートなものとされます)

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機能的・因果的な説明をしたつもりだったんですが・・・ 投稿者:maeno  投稿日:12月26日(日)22時40分51秒

パーセンテージの問題ではなく,やっぱり原理的な問題ですか。
でしたら,私の本の中で,心という情報世界は物理世界とは違うとか,物理法則ではなくシステム論で心を考える必要があるとか,ニューラルネットワークは原理的(理想的)には理論そのものを生成できる万能機械であるとか,理学ではなく工学が心を解明できるということの道筋を示したつもりだったんですが。どうも,哲学者の方にうまく伝わっていないようです。私の説明不足なのか,私の理解不足なのか…。
ここに書くのが適切でないような私の方の問題になってきましたし,文章でのやり取りでは細かいニュアンスをうまくお伝えしにくいですので,できれば一度お伺いしてディスカションさせていただき,いろいろとお聞きできませんでしょうか?よろしくお願いいたします。(公のメール→私的メール に移行してしまってすみません。)
http://www.maeno.mech.keio.ac.jp/Maeno/consciousness/

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100%かどうかということとは少し 投稿者:φ  投稿日:12月26日(日)19時07分57秒

 違うような気もします。90%でも5%でも、ある(不)確実性をもって理論付けられないうちは謎、と言いたかったのですが。
 5分前世界創造説によって化石の信憑性(情報価値)を疑うことはできるにしても、地質学に「謎」はありませんよね。なぜなら、微分方程式で表わされる物理法則さえ前提すれば、現在の物理的配置から過去・未来の地質を一義的に(確率的であれ)定めることができ、5分前世界創造説を否定できるからです。
 脳の機能についても、地質学の場合と同様です。
 ところが、意識(クオリア)の場合、微分方程式で表わされるどんな物理法則をいくら前提しても、現在の物理的配置から過去・現在・未来のクオリアを定めることはできないでしょう。定めるためには、物理と意識をつなぐ(因果関係か相関関係でつなぐ)アドホックな法則を仕立てるしかありません。しかし、かりに物理と色彩感覚をつなぐ法則を仕立てたとしても、聴覚感覚のありかたは演繹できないし、物理と聴覚感覚をつなぐ法則を設けたとしても、味覚に関しては何も演繹できないでしょう。ここが、素粒子の振る舞いを支配する物理法則ですべて演繹できる唯物論的世界観からクオリアがはみ出すゆえんです。
 パーセンテージの問題というより、原理的な問題ですね。機能的説明(or因果的説明)で進んでいけるのが工学者、理論的説明(or論理的説明)がなければ進めないのが哲学者、という違いのような気がします。ほんとうに生産的な対話のためには、「意識の理論」が整備されさえすればよいのだという気がします。
 ちょうど、「宇宙の微調整」という永遠の哲学的謎について、人間原理anthropic principleという形で物理学+確率論から光が当てられつつあるように、意識という究極の謎についても、工学から思いがけない洞察がもたらされるとしたら、こんなうれしいことはありません。

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哲学者と工学者の違い 投稿者:maeno  投稿日:12月26日(日)14時37分58秒

5分前に世界が丸ごと出現した,という仮説を論理的に反駁できないのは論理としてはわかるのですが,それが空虚なエピソード記憶と同じだというのがわかりません。いや,あ,なるほど,5分前に世界ができたのだとすると,5分以上前のエピソード記憶は確実に体験していない,ということですね。わかりました。
同様に,「いやぁ,あのときは本当に痛かったよ」と言うけれども本当にそのクオリアを過去に体験していない,ということは,ふつうはなさそうだけれど,その論理的可能性は否定できない,ということですね。
なるほど!哲学者と工学者の違いがよくわかりました。工学者というのは,いろいろなことに折り合いをつけてベターな解を求めるのが仕事なので,論理的に100%確実かということではなく,いかに100%に近づくかを問題とするのですが,哲学者は100%かどうかを問題にするのですね。なるほど,なるほど。哲学者から見ると工学者はいいかげん,工学者から見ると哲学者は重箱の隅,に見えてしまってなかなか対話できないのかもしれません。対話するためには,100%の証明をすればいいんですね。がんばります。
http://www.maeno.mech.keio.ac.jp/Maeno/consciousness/

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機能主義への(まだ単なる)希望 投稿者:φ  投稿日:12月26日(日)01時53分49秒

 エピソード記憶を持つほどの高等生物なら、自ずと意識を必要とする、というのが、前野さんの御著書の立場でしたね。しかし私は(そしてもっと専門的に「心」に専念している哲学者たちも)全然そう思っていないのです。素粒子レベルで物理的に全く同じ双子惑星AとBがあって、Aの住人はすべて意識を持ち、Bの住人は反射的無意識的に動いているだけ、ということが想像可能に思えるのです。「あの時は痛かった?」「いやぁ,本当に痛かったよ」、あるいはもっと複雑なエピソード記憶を前提とした会話は、意識がすっぽり抜け落ちた状態でも、十分可能であると。これはちょうど、ラッセルの「5分前世界創造説」に似ています。化石記録などの遠過去の記憶らしきもの込みで、たった5分前に世界が丸ごと出現した、という仮説を、論理的に反駁はできません。同様に、体験しなかったクオリアをあたかも体験したかのように振る舞う、空虚なエピソード記憶に満ちたゾンビというのは、可能だと思われます。
 もしも、詳細な機能があれば必然的に意識が宿る、と証明できれば、独我論やゾンビワールドは論理的に不可能ということになり、哲学と認知科学に革命がもたらされるでしょう。最終的には私も、機能の上に意識(クオリア)がsuperveneすることが証明されねばならないはずだと思いますが、まだ誰もその端緒すらつかんでいる人はいません。

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主体 投稿者:べネック  投稿日:12月25日(土)16時36分3秒

主体とは結果であって、また出力であって処理過程ではないと思います。詰り「主体」そのものが存在して外界からの情報を処理するのではなくて、maenoさんが仰るエピソード記憶のオペレーション機能が、「主体」の正体であると思います。
主体性を意識しながも、実体的な主体は存在しないと云うのは自己矛盾的な発言のようですが、それは主体が実体的に存在しているのではなく、機能として派生していると考えたなら、問題は無いように思えます。
そうしますと、ゾンビが人間と素粒子の一つ一つ同じ動きをして、エピソード記憶を有しているならば、同時に「主体」が機能として存在しているのだと思います。
従って、結論はmaeno さんと同じです。
尤も、徹底的な機能主義者としての見解ですが、主体が実体として存在することも厳密な証明はされていないのですから、僕のような機能主義者の立場が強ち間違っているとも思えません。

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ゾンビ 投稿者:maeno  投稿日:12月25日(土)09時05分11秒

哲学者の方がゾンビという存在を想像できる,という論理が理解できないので教えてください。
ゾンビとは,転べば「痛い」といい,客観的に見ると人間と同じなのですが,クオリアなどの主観的内面を持たない存在ですよね。
ではゾンビのエピソード記憶はどうなるのでしょう? 行動は人間と同じなのですから「あぁ,あのときは本当に痛かった」というクオリアの記憶を持っているけれども,しかしクオリアを主観的に体験しないのですから,体験しなかったことをあたかも体験したかのように記憶する,ということなのでしょうか?そのような状態はよく理解できません。
それとも,「あぁ,あのときは本当に痛かった」というクオリアの記憶(論理パラドクスの117ページの言い方だと知識)が欠落している,という存在なのでしょうか?もしそうでしたら,ゾンビは人間と同じように振舞うのですから,将来,「あの時は痛かった?」と聞かれたときに,定義上,人間と同じように「いやぁ,本当に痛かったよ」と言わなければならないはずなのに,そのような記憶(知識)がないため,そうはいえないように思えます。
したがって,ゾンビという状態は想定できない,というのが結論だと私には思えるのです。そうではないのでしょうか?
http://www.maeno.mech.keio.ac.jp/Maeno/consciousness/

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(無題) 投稿者:べネック  投稿日:12月25日(土)05時20分11秒

真摯に御回答を賜り、恐縮至極です。
物理学者が挙って「決定論的」というのは、初耳でしたが、、。
少なくとも僕の知人、カオスの権威堀田君(先生もご存知かも知れませんが)なんぞは、非決定論的な立場ですし、僕も工学の立場から非決定論の立場です。
波動方程式では幅が決定されるのであって、初期値(是も求められないのですが)に対する、値が決定的に一つの値として定まりません。
決定論は、過去の古典力学の世界にのみ成り立つものだと思いますが、それは暫く措いて。

意識(クオリア以外の)でさえ、格率的な方程式は存在してないですよね。
ただ脳との間に、因果関係が介在していると推測されているだけです。
意識と同様に、クオリアも脳機能の上にsuperveneしないとは断言出来ないのではないでしょうか?
いや、寧ろ脳との間に因果関係があると推測する方が妥当だと思われて仕方ありません。

「赤い」という認識は、光の波長を視覚が捉えて初めて、成し得るものですし、僕自身は、全ての認識は、脳内の過去のデータ(無意識に蓄積されている資料)の再認識だと思っています。

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観測はもちろん非決定論的 投稿者:φ  投稿日:12月25日(土)04時58分26秒

 べネックさんが言われるのは、観測結果が不確定ということのようですね。前述しましたように、波束の収縮による観測結果はもちろん非決定論的です。しかしそれは一世界の内部で見ているからであって、多世界を総覧すれば、波動方程式は、決定論的な全体を記述します。のみならず波動方程式は、線形だとのこと。つまり、量子的実在の全体には、カオス現象すらないわけです。この意味では、量子力学はニュートン力学よりもさらに、(俗な意味での)決定性が強いといえるでしょう(俗といったのはカオスももちろん決定論的だから)。
 波動方程式が「決定論的」というのは、物理学者がこぞって言ってることですので、その件については通説を参照されるとよいでしょう。
 ★本題に戻ると、クオリアの謎に、量子力学特有の問題は関係してきません。量子の不確定性がいかほどのものであれ、波動方程式で決定される範囲内にある。しかし、クオリアの有無・感触は、脳などの物理状態からは(いかなる範囲の不確定性をもってしても)決定されない。これが謎だというわけです。

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決定論? 投稿者:べネック  投稿日:12月25日(土)04時27分29秒

量子力学で、素粒子の運動量p=h/2Lである(hはプランク定数とします)。
最低エネルギー状態でも、有限の運動量をもつ振動が存在するということですよね。
(ニュートンの古典物理学論第二物理法則ならば、エネルギーも運動量もゼロになりますが、、)

そして最低エネルギーの状態では、粒子は運動量p=+(h/2L)とp=-(h/2L)の幅をもってます。
だから、運動量の平均値は{(+h/2L)+(-h/2L)}/2=0ですから、運動量の取る値の幅は(+h/2L)-(-h/2L)=h/Lです。
後者が、即ち運動量の不確定性(Δpです)
一方、波動としての粒子は何処の位置に存在するのか分かりませn。
その意味では箱の幅Lが、位置の不確定(Δxです)
すなわち、Δx=Lである。したがって、両方の不確定性をかけ算すれば(L×h÷L=h)  
ΔxΔp=h  となりますよね。
これを位置と運動量の関係が量子力学的粒子が一般的に持つ性質です。
仮に粒子の位置が精密に決まるような状態、Δx=0という状況では、運動量の不確定性はΔp=h/0であり
無限大になって仕舞って、確立も何もありません。
逆に、運動量の値が精密に決まっているΔp=0の場合、不確定性原理はΔx=無限大を与えますから、位置は
全く予測不可能です。

従って、運動量の値はまったく不確定であって、何故決定的だと仰るのか理解出来ないのです。
況して「決定論的」だというのは、現在の物理法則に矛盾しています。

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決定論・不確定性 投稿者:φ  投稿日:12月25日(土)03時52分38秒

 「シュレーディンガー方程式はニュートンの運動方程式と同じく完全に決定論的。ただし、1人の観測者が観測する結果は、波動関数の崩壊(波束の収縮)を必要とし、その崩壊のしかたは確率的」……と、適当にまとめてみましたが、この、★波動関数の決定論的性格★と★波束収縮の非決定論的性格★との矛盾が、多世界解釈以外の量子論解釈のネックとなっている――というのは、周知の話題ではなかったでしょうか?(ただ非決定論的というだけなら、量子力学に人を困惑させるものは何もないはずでしょう)
 私は物理学は素人なので、私たちがここで議論しても仕方ありませんから、量子力学の本を読むか、「波動関数 決定論」でネット検索するとかをお勧めします。
 いずれにしても、初期条件が与えられれば、量子論の不確定性の範囲内で決定する脳機能と、その不確定性の範囲すら特定できない意識(クオリア)とが類比的に考えられないことは確かでしょう。
 クオリアは、脳機能の上にsuperveneしません(少なくとも、superveneするかどうかわかっていません)。ゾンビとか独我論とかが意味を持つのは、クオリアが物理の上にsuperveneしない(かもしれない)からです。世界の物理的配置とクオリアの有無・種類との対応を定める法則は、発見されていないばかりか、想像すらできないのです。

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質問致します 投稿者:べネック  投稿日:12月25日(土)02時46分35秒

ちょっと、分からないので質問させて下さい。
波動関数に関していえば「決定論的」だと仰る意味が分かりません。
先ず一つに、初期条件は求められないと思います。
それから二つ目に、不確定なものが決定するならば、それは確率の上で決定的であるとしても、決定論的ではないと思います。
クオリアが意識の一種であるならば、脳機能の上に併発する現象でしょうから、物理法則に支配されているという推測は妥当だと思えますが、如何ですか?

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意識は「不確定」ですらない 投稿者:φ  投稿日:12月25日(土)01時56分25秒

 >>量子力学の観点から、a は不確定

 量子力学は、観測結果はともかく波動関数に関していえば決定論的でしょうから、前回述べたように「確率的に」初期条件+法則から物理現象を演繹できると言えるでしょう。とくに多世界解釈を採れば、全体がどう推移するかは確率1で決まります。
 ところが、意識(クオリア)については、どのようなクオリアが生ずるか、そもそもクオリアが生ずる必要があるのか、について、初期条件+法則から★確率的にすら★導き出せません。つまり「不確定」といえるような「不確定さ」すら定められません。そこが、物理現象や心の機能的側面と、意識(クオリア)とが★根本的に★違う点ではないでしょうか。
(そもそも、世界の物理的配置とクオリアの有無・種類との対応を定める法則が何も発見されていないので……)

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初めまして 投稿者:べネック  投稿日:12月24日(金)23時41分9秒

>>初期条件+法則からaを演繹できなければなりません

幾ら法則が発見されようとも、初期条件が決定されようとも量子力学の観点から、
a は不確定であると思います。
詰り、物質である脳から併発される意識のような繊細な性質の物は、素粒子と同等
な物理法則に支配されているのだと考えられるべきだと思います。

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クオリア 投稿者:φ  投稿日:12月21日(火)02時16分33秒

 前野さん、書き込みありがとうございます。
 多少批判的なことも書いてしまいましたが、大変面白く読み、大いに教えられました。
 さて、「心の唯物論的解明が進めば進むほど、意識の謎は深くなる」と私たち哲学徒の大多数は思っているのです(そうじゃない学徒もいますが)。
 なぜかというと、唯物論的に心が解明されない頃は、二元論の余地がありましたから、心は自律的システムとして、脳と大まかに連動しているだけだろう、で済んでいた。でも、脳生理学等によって心=脳の状態そのものであるらしいとわかってきたので、唯物論がどうやら正しそう。しかしクオリアは唯物論的に記述できないので、そこだけが唯物論的記述からはみ出してしまいますよね(ゾンビや、色覚逆転スペクトルに矛盾はないことからもわかる)。知・情・意などの「機能」はすべて唯物論的に決定できるのに。
 aを唯物論的世界観に組み込むには、初期条件+法則からaを演繹できなければなりません。物理現象および心の機能(とくに行動主義的に記述できる部分)は、少なくとも確率的に初期条件+法則から演繹可能ですが、「赤い感覚」は無理ですよね。無理なものがどうして現実に物理状態と正確に連動しているのか? 謎です。
 前野さんの御著書は、クオリア以外の心的作用を徹底的に唯物論的に論じきったがゆえに、唯物論的記述内に居場所を持たぬクオリアの謎がよけい深まっている、というのが私の印象でした。
 ★なお、輪廻転生風の「死の怖れからの脱却」を、「〈私〉の解消」によって説いておられますが、私はそれに全面的に賛成です。(……それゆえに、実は私は、平均より著しく不幸な人が自殺するのはきわめて合理的である、と思っているのです。前野さんはそうじゃないという意味の但書きをつけておられましたが――)

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書評ありがとうございます。 投稿者:maeno  投稿日:12月20日(月)16時05分25秒

三浦先生,はじめまして。慶大の前野です。
Amazonのランキングを見ると私の本の売り上げが伸びているのでなぜかと思ったら,先生の書評のおかげであることを出版社の人から聞きました。ありがとうございます。
「心の唯物論的解明が進めば進むほど、意識の謎は深くなる」んですか・・・。工学系の人間の頭は単純なので,よくわからないんですが,クオリアのことでしょうか? でしたら,解けちゃったよというつもりはないですが,わかっちゃったよという気にはなっているんですが・・・。でも本の記述では説明不足かもしれません。
書評の最後に三浦先生が書かれているように,楽観論の続編について考えていきたいと思います。
これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

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受動意識 投稿者:φ  投稿日:12月19日(日)19時20分40秒

先日、半分予告した書評は、本日、新聞に載りました。アップロードもいたしました↓
 「心の唯物論的解明が進めば進むほど、意識の謎は深くなる」という反比例関係(哲学者の間では常識化している最難問)は、工学系の人の目には見えていないのか、見えていてそれも解けちゃったよということなのか、『脳はなぜ「心」を作ったのか』の文面ではわかりませんでした。
 ところで、KeynesがスゴイのだということをBertrand Russellを引き合いに出して述べているあたり、ラッセルを「20世紀最高の知性」と呼ぶ常套句がまだ生きてるってことでしょうか? かりにラッセルがスゴイと言いたいときに「ケインズに影響を与えた」とかいう文句は使われそうにありませんが。「アインシュタインがどうのこうの」なら使えるか。
 アインシュタインよりフォン・ノイマンやエドワード・ウィッテンのほうが高IQであることは間違いないでしょう。ところでMarilyn vos Savantは数学をほとんど知らないのに、自信ありげな間違った発言を繰り返して世間を惑わしたらしいですね。3ドア問題ではたまたま正しかったのですが。
http://russell-j.com/brain-md.htm

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(無題) 投稿者:knowthyself  投稿日:12月19日(日)18時33分48秒

ラッセルよりもケインズの方が知的レベルは高いのでは?
IQ societyで調べればものすごい賢人たちがたくさん集まってます。
Paul Cooijmansはおそらく地球上で最高のIQの持ち主。ギネスブックのMarilyn vos Savantを超えることは間違いない。
先生も必ずPaulのIQ testを受けて下さい。

Category 10 - UBERMENSCH - IQ 172 - 188

Freakish. Keynes - who used to intimidate Bertrand Russell - was probably in this category. My guess is that Nietzsche and jurist Hugo de Groote were others. While still of primary school age only around 1 in 1000 professors can look them in the eye intellectually. They tend to read competently before they are 3 yr. old. They find even grand system building relatively easy. They are seldom understood or appreciated. Most feel profoundly isolated from society - even when they are appreciated. A large proportion of this group opt out of society and never make revolutionary contributions in the standard academic fields or professions. It seems to be very difficult to motivate them to play the academic/scholarly/professional game because they regard even the most venerable of traditions and institutions as absurd or silly. Consider that their intellect is as far above that of the average person as the average person's intellect is above that of a human メvegetableモ ミ see below. Even the mind of the average professor appears to him like the mind of the average brick layer would appear to the professor.

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ふむ 投稿者:φ  投稿日:11月21日(日)04時27分12秒

 ――力のこもった本のようですね。お教えいただきありがとうございます。
 無意識(物質)が意識を規定しているというのは、唯物論的な枠組みでは当り前のことではありますね。
 読んでみて面白かったら、新聞書評で取り上げてみようかな。読売の読書委員は12月で任期終了なので、最後の書評あたりになるか。

 なお、以前ここで予告した「フランク・ラムジーの「真理の余剰説」について」は、学会およびその後の質疑と討論を含め、↓にアップロードしてあります。
http://russell-j.com/suzuki-s.htm

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(無題) 投稿者:ラズロ  投稿日:11月20日(土)09時04分46秒

受動意識仮説
http://www.maeno.mech.keio.ac.jp/Maeno/consciousness/
というものを唱えた本を見たのですが、
<私>の問題に触れています。
けっこうおもしろい本でした。

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なるほど、 投稿者:φ  投稿日:10月 9日(土)01時29分0秒

 条件付き確率の、肝心の条件を無視したわけですね。結果だけたまたま合っていたと。

 かりに「金-金」「金-銀」「銀-赤」という3つの箱で出題しても、その御友人は同じように考えたんでしょうかね。もしそうならかなり一貫していますが。

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金銀ボックスの別の正当 投稿者:ラズロ  投稿日:10月 8日(金)01時39分26秒

以前量子進化の投稿をしたラズロです。
心理パラドクスの中に金と銀のコインが入った3つの箱の
問題がありましたね。友人に出題したら、おもしろい答え
がかえってきましたので報告します。
金のコインを見た後に、銀のコインを見る確率は結局
「金-銀の箱を選ぶ確率」ということになるから、箱3つ
の中でひとつだけしかなく、1/3です、という回答です。
回答の数値は当たっているのにロジックがおかしいという
面白い例になっています^^)。 一瞬、別の正当方法かと
思ってしまいました。

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「アフォリズム日記」の復旧 投稿者:φ  投稿日: 9月30日(木)22時48分20秒

阿呆理詰日記1121~1125も含め、「アフォリズム日記」を
http://www.at-diary.com/diary/diary.php?userid=tosi
に戻しました。
BLOGからもさしあたり(また障害が発生する等の時まで)「アフォリズム日記」は切り離しておきます。

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「アフォリズム日記」の移動 投稿者:φ  投稿日: 9月22日(水)16時58分55秒

 ここ一週間ほど、なぜか「アフォリズム日記」のページに行けなくなっております。
 さいわい9月8日までの分はhttp://members.jcom.home.ne.jp/miurat/d2004.htmに掲載してありますが、そのあとの5回分・阿呆理詰日記1121~1125は、現在、行方不明になっております。「日記屋さん@diary」に問い合わせ中なれど、これまでの経験から回答は期待できません。
 というわけで、「アフォリズム日記」を↓のBLOGで再開することとしました。  ――なお、記憶からの復元努力も実を結びがたいであろう「阿呆理詰日記1121~1125」をもし保存していたような方がおられたら(いないだろうな……)φまでお送りいただけるとまことに幸いに存じます(日記筆者が読者に問い合わせるというのも情けない話ですナ)。
http://green.ap.teacup.com/applet/miurat/msgcate4/archive

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再説明 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月16日(木)09時54分34秒

>「P」と「Pは真である」との同一性を説いたフランク・ラムジーの「真理の余剰説」

今回の話題と直結していて面白そうです。
同一性はともかく、従属関係も同じだといっているのでしょうか?

>思考より言葉が先行する非明晰主義の陥穽にはくれぐれも注意してください。

この痛烈な批判には耳が痛いのですが、今回の話題は説明が難しいのです。
ですが、再度説明を試みます。

Aが正しいという事象には、Aとその従属関係にあるBが含まれているはずです。
ですから、Aが正しいという事象は、もはやBの従属関係ではないはずです。

今回の論争を例にとると、
銀河クラブ外が存在するのが正しいということは、銀河クラブ外が存在し私が生れるという関係を含んでいます。
ですから、銀河クラブ外が存在するのが正しいという事象は、私が生れることの従属事象ではない。

黄身と白身は従属関係でしょうが、タマゴは黄身の従属関係ではない、ということでしょうか。

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「P」≡「Pは真である」 投稿者:φ  投稿日: 9月16日(木)04時24分48秒

 話が漠然化するばかりなので最早お答えできませんが、「P」と「Pは真である」との同一性を説いたフランク・ラムジーの「真理の余剰説」については、いずれ拙稿をアップロードする予定です(昨年の科学哲学会ワークショップの草稿)。
 あともう一つ注意すると、「私が生まれた」ではなく、「私は銀河クラブ外に生まれた」が証拠として採用され仮説検定に用いられていたことを思い出してください。
 ファッションとして「考えているかのような雰囲気」を楽しむフランス思想流の行き方はともかく、分析系の哲学ではあくまで好奇心にしたがって、論理によって対論を進めます。思考より言葉が先行する非明晰主義の陥穽にはくれぐれも注意してください。

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仮説が正しい仮説 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月15日(水)14時29分49秒

ある仮説と、ある仮説が正しいという仮説、の差です。
ある仮説がある事象の従属事象だからといって、その仮説が正しいという仮説も従属事象だとはいえません。

ある仮説が正しいという仮説が、「私が生れる」というような事象の従属関係になることはまれのはずです。

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出発点へ・OK 投稿者:φ  投稿日: 9月15日(水)11時32分19秒

 今さらの話になりましたが、当然、独立事象でないから問題になったのです。別の例でいうと、私の誕生は遺伝学の統計的事実Sの結果ではないが、理論的には独立でない。私が特定の遺伝子kを持つという仮説Kが正しい確率は、全人口の中のkを持つ人数比です。つまり一般に、P(K|S)≠P(K)です(Sが得られる前は手掛かり無しゆえP(K)=1/2とするのが関の山。P(K|S)=kを持つ人数/全人口)。

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独立事象 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月15日(水)08時46分46秒

AとBが独立事象であるならば、P(A|B)=P(A)となってしまいベイズの定理が成立しないのです。
(ただし、P(B)≠0)

ある「仮説が正しい」というのは、「私が生れる」と独立な事象だと思われます。
赤ちゃんは、仮説とは無関係に生れてきます。

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まだ 投稿者:φ  投稿日: 9月14日(火)15時54分44秒

 全然わかっておられませんね。
 P(A)+P(¬A)=1 であるかぎり、P(A)とP(¬A)にはどんな値(ただし0以上)を与えてもかまいません。どんな値を選んでも、両者の比は、証拠Bを考慮に入れたあとには(m+1)倍に変化する、ということです。全然難しい話ではないので、いくらなんでもそろそろ理解してくださいな。
 理解できていない場合は、まず思い込みを全部捨てて、言葉を文法どおりに読み直し、「まだここがわからない」という細部に絞って議論すべきだと思いますよ。

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やっと 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月14日(火)09時20分8秒

φさまの考え方が分かりました。
P(A)とP(¬A)はどちらかが1で片方は0だという設定なのですね。
とすると、ベイズの定理を適応することの是非に疑問がでてきます。
原因の確率なのですから、1か0が原因になりうるのか? です。

私の設定はこうです。
P(A)=「銀河クラブ」の比率=n/(n+n/m)
P(¬A)=「銀河クラブ」でない比率=(n/m)/(n+n/m)
これなら議論の余地なく私がどちらかに生れる原因になりえます。

ある仮説が正しいか否かが、私が生れるという事実の原因になりえますか?

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↓象→竜 投稿者:φ  投稿日: 9月13日(月)19時44分51秒

また誤解があるといけないので一つ修正。
   体長mメートルの象がいる確率→体長mメートルの竜がいる確率
 と訂正した方が誤解がないでしょう。
 (念のため、mというのは、銀河クラブ(あるいは竜)というモノがあるならばその値をとるはずだ、という「未知の定数」です。いろんな大きさの銀河クラブや竜を考えるわけではありません。有無だけが問題になっています。)

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きわめて重症? 投稿者:φ  投稿日: 9月13日(月)19時20分47秒

エーと……。
「全然何もわかっておられない」ことがハッキリしましたので、質問しますが……、

P(A)/P(¬A)=1/m とはどういう意味ですか。ご自分でわかっていますか。本当によーく考えてからお答えくださいね。

念のため、
 P(A)は、人口が銀河クラブ外のm倍である銀河クラブが無い、という仮説が正しい事前確率
P(¬A)は、そういう銀河クラブが有る、という仮説が正しい事前確率です。
 事前確率とは、Bという証拠を考慮に入れる前の確率です。
 冷静に考えれば、P(A)/P(¬A)は、mとは独立であることがおわかりでしょう(体長mメートルの象がいる確率が、mの関数になるなどという理論はばかばかしいと思うでしょう?)。P(A)/P(¬A)は、mではなく、生物や銀河の進化論、恒星間飛行の理論、社会学や政治学などによって推定される値です。これらの分野について何も知らない人は、P(A)/
P(¬A)=1としておくのが妥当です。

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何も 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月13日(月)18時24分8秒

私が1でなくてもいいんです。
「銀河クラブ」の誰でも私であれば、「銀河クラブ」に(で)私が生れる確率=1 になります。
そうすると、こうなります。
「銀河クラブ」に私が生れる確率=m/(m+1)

「銀河クラブ」でないところに私が生れる確率=1/(m+1) です。

であれば、
P(A|B)/P(¬A|B)=P(A)・P(B|A)/P(¬A)・P(B|¬A)
=m・P(A)/P(¬A)

となるはずなのです。
ところが、=(m+1)P(A)/P(¬A) だとおっしゃる。

+1は無視するとして、P(A)/P(¬A)=1/m です。
つまり、P(A|B)/P(¬A|B)=1 です。

これは、「銀河クラブ」で私が生れる確率=1 と考えることからくると思うのですが?

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正反対 投稿者:φ  投稿日: 9月13日(月)15時09分47秒

 比例の記号との混同を防ぐために念のため書き直すと(:を=に)
     「銀河クラブ」に私が生れる確率=m/(m+1) です。
ところがハムスターさんは
     「銀河クラブ」に私が生れる確率=1/(m×その他の人口)
 といいたいのでしょうか。全体に占める「銀河クラブ」の人口比率と、「銀河クラブ」に私が生れる事前確率が反比例するんですか?
 そんなことを支持する理論はどこにもありません。確率の分野に限らず、数値計算は理論の裏付けがなければナンセンスです。
  きっと、「「銀河クラブ」に私が生れる確率」という概念を根本的に誤解されているのでしょう。全然難しい概念ではないんですけどね。

 (なお、遺族云々は、ハムスターさんの言及例へのレスでしたが、意味は、事実関係と倫理規範は別、ということです)

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疑問 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月13日(月)12時46分23秒

どうも変です。
「銀河クラブ」に私が生れる確率の定義の仕方なのですが、

>「銀河クラブ」の人口/その他の人口=m とすると、

「銀河クラブ」の人口=m×その他の人口 となりますよね。
であれば、
「銀河クラブ」に私が生れる確率:1/(m×その他の人口) となるはずです。

>「銀河クラブ」に私が生れる確率:m/(m+1)

↑これの意味が不明なのです。

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安心 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 9月13日(月)10時40分47秒

おかしいなー と思ってました ^^ (銀河クラブの件)

遅くなりましたが、サールの件ありがとうございました

> 自然科学の命題には、実際には制度的事実を含んでいますが、建前上は(名目的には)含んでないことになっているので、規範命題を(常識ではともかく、論理では)導けないでしょうね。

自分の考えていたことと一致していたので嬉しいです
あと、前半の

>  「遺族には謝罪するが、問われた罪については争う」これは全く正しい態度ですよね。もし過失で人を死なせて故意の殺人で起訴されたら、謝罪はするが冤罪は晴らすべきです。

ここも私へのレスですか? 事実関係と倫理規範的な対応とは区別、というような意味でしょうか?

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名古屋より今帰宅して一言 投稿者:φ  投稿日: 9月13日(月)02時13分51秒

 なにやら混乱を生じさせたようですみません。出張の前に書いた「仮説検定」は、
「銀河クラブ有り」と「銀河クラブ無し」を単に逆に間違って書いてしまいました。正しくはこうです(★~★)。
★P(銀河クラブ無し|私が地球に生まれる)/P(銀河クラブ有り|私が地球に生まれる)=(m+1)P(銀河クラブ無し)/P(銀河クラブ有り)
 つまり、私が地球に(正確には、銀河クラブ外の任意のところに)生まれた、というデータに条件付けると、「銀河クラブ無し仮説」が「有り仮説」より(m+1)倍も確証されたことになります。★
 さて、計算法ですが、
ハムスターさんの計算が何をやっているのか完全に意味不明なので(というより意味がないことが明らかなので)、ちょっとここに私のを改めて書きましょう。

 「銀河クラブ」の人口/その他の人口=m とすると、
「銀河クラブ」に私が生れる確率:m/(m+1)
「銀河クラブ」でないところに私が生れる確率:1/(m+1)

銀河クラブは無い……仮説A
銀河クラブは有る……仮説¬A
私が銀河クラブでない惑星に生まれた……証拠B

P(A|B)/P(¬A|B)=P(A)・P(B|A)/P(¬A)・P(B|¬A)
=P(A)・1/P(¬A)・1/(m+1)=(m+1)P(A)/P(¬A)

以前私が書いたことを一応お読みになってからにしていただければと。まず、
■「「銀河クラブ」のメンバーは多くなさそうである」とはナンセンスです。銀河クラブの定義からして、m≫1です。m~1というのは、「銀河クラブは無い」という意味です。また、
■「私が「銀河クラブ」に生れる確率は1/2である」もナンセンスです。これは計算の便宜上の定義からして、m/m+1です。
「mの2乗倍も確証されたことになるわけですね」のところも意味不明です。
 P(A|B)/P(¬A|B)=(m+1)P(A)/P(¬A)
の式の意味はおわかりですよね。P(¬A)に対するP(A)の信頼度が、証拠Bを加味したあとには、前よりも(m+1)倍になった、という意味です。P(A)/P(¬A)に付与する値は任意。五分五分として、1と置きましょう。さて、地球は銀河クラブの一員でないという事実が証拠の一つであることに気づいた人は、無垢だった時期の1という信念比を、銀河クラブが無い方へ(m+1)倍も偏らせる形で改訂せざるをえなくなるわけです。

 これまで、「φさまの計算法」「φさまの定義」という言葉が出てきましたが、ランダムの定義にしろベイズ計算にしろ、私は自分の考えをここで述べているのではなく、標準的な教科書に書かれていることを繰り返しているだけです。

 投稿は大歓迎ですが、教科書に反する基本的な誤りは、ここを見ている人たちに迷惑がかかりうるので、なるべく、よく考えてから(あるいは、「これはただふざけて計算してみただけですが」と但し書きをつけてから)投稿していただけますでしょうか?
 もちろん、教科書も定説もない話題(哲学や価値の問題とか、計算についてもうんと細かい細部の意味とか)については何でも言ってくださって結構ですよ!

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訂正 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月12日(日)12時10分31秒

P(A|B)/P(¬A|B)の計算ですが、私の定義で計算すると1になり、何も確証できないことになりそうです。

=P(A)・P(B|A)/P(¬A)・P(B|¬A)
 n/(n+n/m)×1/n
=――――――――――――――――――――――=1
 (n/m)/(n+n/m)× 1/(n/m)

地球とか私が唯一の存在であることが、確率計算を難しくしているようです。
確実にいえることは、これだけのようですね。
・「銀河クラブ」のメンバーは多くなさそうである。
・私が「銀河クラブ」に生れる確率は1/2である。

銀河クラブがあるとすると、そのメンバーは多くなく、私が生れるかどうかは五分五分でしかない。
これだと、あんまり面白くありません。

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新刊楽しみです 投稿者:通り縋り  投稿日: 9月12日(日)00時44分15秒

出版社に勤めているので分かったのですがハリーポッターの影響で8、9月は書籍や増刊に関して仕入制限を行っている取次があるみたいですね。そのために良質な書籍があまり刷れなかったり、発売を遅らされたり色々あるみたいです。新刊楽しみにしています。

予断ですが互いに独立な事象を全て加えると確率は1になります。
掲示板も毎日楽しみにしています。

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整理します 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月11日(土)18時48分25秒

私も「銀河クラブがその他の文明のm倍」を導入して、私は「知的生命が生まれている惑星」にしか生れないとして解いてみました。
「銀河クラブ」の比率:n/(n+n/m)、
「銀河クラブ」に私が生れる確率:1/n、「銀河クラブ」でない惑星に私が生れる確率:1/(n/m)

ベイズの定理:P(A|B)=P(A)・P(B|A)/(P(A)・P(B|A)+P(¬A)・P(B|¬A))

P(「銀河クラブ」|私が生れる)=
(n/(n+n/m)×1/n)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― =1/2
(n/(n+n/m)×1/n + (n/m)/(n+n/m)× 1/(n/m)
またしても確率1/2です。

φさまの計算法は、P(A|B)とP(¬A|B)の比を取るわけですね。
そうするとこうなりますね。
P(A)・P(B|A)/P(¬A)・P(B|¬A)

そうして、P(B|A)/P(B|¬A)=(m+1)だというわけですね。
値を代入してみます。
(n/(n+n/m))/((n/m)/(n+n/m))=m

P(A)/P(¬A)も計算します。
(n/(n+n/m))/(n/m)/(n+n/m)=m

「銀河クラブ有り仮説」が「無し仮説」よりmの2乗倍も確証されたことになるわけですね。

ちょっと整理します。 ・「銀河クラブ有り仮説」が「無し仮説」より正しそうである。
・「銀河クラブ」のメンバーは多くなさそうである。
・私が「銀河クラブ」に生れる確率は1/2である。

要するに、銀河クラブがあると考えることは合理的ではあるが、そのメンバーは多くなく、私が生れるかどうかは五分五分でしかない。
変な結論ですが、すっごく面白いです。

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仮説検定 投稿者:φ  投稿日: 9月11日(土)00時19分25秒

「銀河クラブ」に私が生れる確率はn/a、というのは自明の所与ですから、ふつうはこれを定数として仮説検定をすることになるでしょう。仮説は、銀河クラブがある、ないの二つです。銀河クラブがその他の文明のm倍の人口を持つとして(つまりn/a=m/m+1)計算すると、
 P(銀河クラブ有り|私が地球に生まれる)/P(銀河クラブ無し|私が地球に生まれる)=(m+1)P(銀河クラブ有り)/P(銀河クラブ無し)
 つまり、私が地球に(正確には、銀河クラブ外の任意のところに)生まれた、というデータに条件付けると、「銀河クラブ有り仮説」が「無し仮説」より(m+1)倍も確証されたことになります。

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宇宙時間 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月10日(金)11時55分29秒

ありがとうございます。
でもそれだとベイズの定理を使うまでもなく、
「銀河クラブ」に私が生れる確率は、n/a となり何にも面白くないのです。
ただ、ヒントありました。
「知的生命が生まれている惑星の数」ですね。
もし面白い結果がでましたら報告します。

宇宙に知的な生命が少ないというのは、人間原理的論証でも、生物学等の研究でも、SETIの調査でも、確かなようですね。
ただ、考えてみますと「銀河クラブ」も「動物園仮説」も銀河クラブを作ったり、地球人を隔離したりするには何十光年以上もの時間がかかるわけで、そういう宇宙時間を考慮しないと真の結論はでないですよね。

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n≫a-n 投稿者:φ  投稿日: 9月10日(金)00時37分23秒

「銀河クラブ」に私が生れる確率:1/n
の心がわかりません。あえて値を当てはめるなら、

 「銀河クラブ」に私が生れる確率:n/a
 「銀河クラブ」でない惑星に私が生れる確率:(a-n)/a

 でしょうか。(ただしaは知的生命が生まれている惑星の数)

 「動物園仮説」では、銀河クラブに属していない惑星はきわめて少数で、n≫a-nです。n~a-nの場合は、銀河クラブが地球人の目から文明の形跡を隠し通すことは難しくなり(国立公園条例に縛られない(条例を知らない)独立ETIが闊歩してしまい)、地球は隔離されなくなり、フェルミのパラドクスが解けていないことになります。

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「銀河クラブ」の確率 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 9日(木)17時53分17秒

銀河系内の恒星の数は約2×10の11乗個だそうですがこれをa個とします。
恒星1個につき1つ惑星があるとします。
この場合、地球は1/aの比率で存在していることになります。
「銀河クラブ」の惑星の数をn個とします。
そして、私はランダム生れるものとします。
ここで、「銀河クラブ」に私が生れる確率をベイズの定理で求めます。

「銀河クラブ」の惑星の比率:n/a、
「銀河クラブ」に私が生れる確率:1/n、「銀河クラブ」でない惑星に私が生れる確率:1/(a-n)
ベイズの定理:P(A|B)=P(A)・P(B|A)/(P(A)・P(B|A)+P(¬A)・P(B|¬A))
P(「銀河クラブ」|私が生れる)=
(n/a×1/n)
――――――――――――――――――――――――― =1/2
(n/a×1/n +(a-n)/a×1/(a-n)

先の「銀河クラブ」の論証と違う結果になっちゃいました。
どこが変なのでしょうか?

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非独立試行 投稿者:φ  投稿日: 9月 8日(水)04時13分38秒

宝くじなら1回ごとに当たる確率が同じで希望が持てますが、SETIは1回空振りするごとに条件付き確率が減ってゆきます。何回はずれを引けば(全方向と全周波数の何%しくじれば)母数が0だと認めるのか、みものです。

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SETIは 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 7日(火)13時04分32秒

サンプル調査のような確率判断がキライなのでしょう。
だから全数調査を行っている。
まあ、宝くじを買い続けるようなものですね。
どういう結果にしろ、全数調査の結果は真実ですから、宇宙人論争に決着がつくはずです。

サールの論証ですが、あれ、意味がはっきりしませんでしたが、
>自然科学の命題には、実際には制度的事実を含んでいますが、建前上は(名目的には)含んでないことになっている

こういう前提があるのですね。
私など、守るべきでない約束に何の意味があるのか、などと思っていました。
あれはちょっと専門分野へ踏み込みすぎだと思います。

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P(n=0)≪P(n=0|SETI失敗) 投稿者:φ  投稿日: 9月 7日(火)03時33分9秒

 「遺族には謝罪するが、問われた罪については争う」これは全く正しい態度ですよね。もし過失で人を死なせて故意の殺人で起訴されたら、謝罪はするが冤罪は晴らすべきです。
 なお自然科学の命題には、実際には制度的事実を含んでいますが、建前上は(名目的には)含んでないことになっているので、規範命題を(常識ではともかく、論理では)導けないでしょうね。サールの考えは知りませんが。

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>SETIが興味を持つ知的生命体 投稿者:学ぶもの  投稿日: 9月 7日(火)02時25分15秒

返答ありがとうございました。

ちなみにSETIといえば最近
うお座とおひつじ座の方角から宇宙人の存在をしさする信号をキャッチみたいなニュースがありましたが、
どうやら誤報にちかかったようで。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040904-00000095-myc-sci

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すいません別件です 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 9月 6日(月)15時44分15秒

サールが論証したのは
「事実から価値が導ける場合がある」
だと思うのですが
こと自然科学的命題に関しては 
それが正しく自然科学的命題ならば、それらを演繹して倫理規範的命題を結論とすることはできない
ということは、サールによっても特に反証はされていない
と思いますが、この理解で正しいでしょうか?

今進行中の話題の後ででもいいですので、よろしくお願いします

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間違っていて合理的? 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 6日(月)11時25分32秒

> 結論は偽ですが、論証は合理的です。

こういう言い方に我々は引っかかり議論になるわけです。
なんか、三菱のリコール隠しの言い訳みたいなのです。
「遺族には謝罪するが、問われた罪については争う」

数学などでは結論が間違いで、論証が正しいことはありませんよね。
結論が間違っていれば、論証のどこかに間違いがあるはずだと考えます。

原因は確率的に正しい場合なのですよね。
そうなる確率が60%のとき、結果が違っていても、論証は正しい、というわけでしょう。

ですから、「銀河クラブ」の論証などは、確率で表現すればこういう誤解が防げます。
うまく工夫すれば、私が地球に生れたときn=0の確率は○○%という結論が導けるかもしれません。
それができれば、問答無用の完璧な論証ですよね。

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誰が行なっても論証は正しい 投稿者:φ  投稿日: 9月 6日(月)04時44分7秒

 かりに、日本人が、他の地域に人がいるかどうか無知であるという場合(そして実際は日本人の50倍もの人々が地球連合を作っているという場合)、日本人φが銀河クラブ否定論と同様の地球連合否定論証をしたとすれば、φの論証は正しい。結論は偽ですが、論証は合理的です。(演繹的推論ではなく確率的推論なので「妥当」という語は使えませんが)(もう少し正確に言うと、p.196-7の論証は、結論が蓋然的命題になっているので演繹的といってよく(第13節参照)、そのかぎりで妥当です)。
 銀河クラブ否定論は、誰が行なっても、正しい論証です。

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「銀河クラブ」の正しさ 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 5日(日)23時04分27秒

φさまのレスぶりは、我々にとってはありがたいのですが、これが負担となることは望みませんので、もっとゆっくりで結構です。

> 仮定というものは否定されることもある(背理法)
>nイコール0の場合が容認されている

地球人だけに通用する論証だと理解します。
この場合、論証内容の正しさは「ランダム」かどうかににかかってくるようですね。
ランダムかどうかは証明不能ですから、ランダムを仮定2と考えれば、問題は解消します。

あとはこの論証構造が正しいのかどうかですが、これを考えてみます。
例えば、日本人だけに通用する論証に直して考えて見ますと、これは正しくないようです。
この場合、この論証自体は正しくないといって間違いではないですよね。

ただ、逆に日本人外だけに通用する論証に直して考えますと、これは正しいことになります。
つまりこの論理構造の正しさは確率で表現できることになり正しい確率が高そうです。

であれば、この論証は論理ではなく確率で表現したらどうでしょうか?
そうすれば、我々が引っかかることがなくなります。

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(無題) 投稿者:φ  投稿日: 9月 5日(日)08時06分48秒

 前半にはお答えの必要はないと思います。私もレスの付けぶりから推測されるだろうほど暇ではないので。 
 後半については、仮定というものは否定されることもある(背理法)ことと、nイコール0の場合が容認されているというすでにお答えした趣旨を繰り返させていただきます。

 お間違いを1つだけ訂正させて頂くと、n個の母集団からn個選ぶとき、選択者の主観は入り込みようがありません。

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話を戻します 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 5日(日)05時22分43秒

確認してみましたが、サンプルが一つのとき、母数の推定ができるのは平均ぐらいのものですね。
母数の分散や比率等は推定不能です。
統計学の定理はサンプルが1個というのを想定していませんね。

ついでに、サンプリングの目的も調べてみました。
1.母集団が無限大のとき
2.労力、時間、経費を節約したいとき
3.破壊調査の場合(検査すると対象を破壊してしまう場合)

ランダムサンプリングの方法は、φさまが定義したことを行うために、乱数表などを使って自分の主観にとらわれないようにすることです。、

母集団が1個の場合、上記のサンプリングの目的を満たしませんし、自分の主観にとらわれないようにサンプリングすることができませんから、ランダムサンプリングは不可能ですね。

話を「銀河クラブ」に戻しますが、「銀河クラブ」での「私」が地球人のみだというのは、地球外知的生命が地球人口のn倍いるという仮定に反するはずなのですが、
まだ回答いただいていません。

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追伸 投稿者:φ  投稿日: 9月 4日(土)15時18分4秒

なお、教科書に書いてあるレベルでの議論はもう止めにしたいので付け加えておきますが、ランダムサンプリングの定義は不偏性と独立性で尽きることは以前書いたとおり。
 具体的には、
  ★母集団に属する全ての個体にとって選ばれる確率が等しい。
  ★各個体が独立に抽出される。
 この2条件を満たしていればランダムなサンプリングです。
 母数=1、サンプル数=1の場合、この2条件を完璧に満たしています。

 この件について異議のある場合は、どうか文献をご教示ください。
 もうちょっと別の面白い話題での議論を期待します。

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話が後退してがっくりですが、 投稿者:φ  投稿日: 9月 4日(土)14時42分18秒

 母数が始めから1だとわかっている場合は、もともと目下の話とは全然関係ないです。その場合はサンプルを1個入手した段階で議論が済んでおり、空虚な意味で「平凡なサンプル」が入手できたことになり、空虚な意味で(つまり完全な意味で)全サンプルの統計がとれたことになります(しかもそのサンプリングは作為や偏りがありえないのでランダムです)。ただしそれは銀河クラブの論証とは関係ありません。
 母数が未知で、サンプルが1つしか入手できない場合が問題になっていたのです。そこを混同しないように。
 唯一のサンプルからの推論の結果母集団数が1に違いないと結論される場合と、はじめから母数が1であるとわかっていてサンプルを1つ採れた場合とでは、全然話が違う。第23節の地球外知的生命否定論は前者です(24節の場合は、母集団のメンバーの分布についての推論にとどまりますが)。

 特に多宇宙論の推論に関して、宇宙のサンプルとして1個しか我々は入手できておらず、1/1かもしれないのだから、確率的推論が適用できない、と主張する哲学者や物理学者が多くて困るのです。母数が1かもしれない可能性は、1つのサンプルからの確率的推論を妨げるものではありません。

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母数が1です 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 4日(土)10時38分18秒

それは違いますよ。
「母数が1のときは」です。
「銀河クラブ」でいうn=0のときはランダムサンプリング不能だということです。

サンプルが1個のときでも母数を推定することは可能です。
これは点推定といいます。

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0<1/N≦1 投稿者:φ  投稿日: 9月 3日(金)21時09分56秒

 なにはともあれ、銀河クラブ論証もそこが引っかかるもとでしょうが、「サンプルが1個だけの場合は母集団について何も推測できない」と主張する哲学教師にときどき出会って閉口することがあります。
 今回の流れでは、「サンプルが1個のときは母集団も1個かもしれないからランダムサンプルと認められず、確率が評価できない」となるのかもしれませんが、そんなことをいちいち気にしていたら確率論の効用は半減以下になってしまいますね。その弊害は「単位集合」を集合と認めないことに匹敵すると思われます。
 「サンプルが1個のときは確率統計は使えず」と説いている文献なりなんなり心当たりありましたら重ねてご教示お願いいたします。
 ――なお、BLOGにモンスターホラー映画寸評を(ランダムサンプリングでなく)アップロードし始めました。

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何か 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 3日(金)13時03分17秒

場外乱闘に持ち込まれてドローにさせられた気分ですが、気のせいでしょうか。

>ランダムなサンプルでないものを「母集団を代表するもの」とするのは決して認められないでしょう。

この件ですが、なにもランダムサンプリングだけが「母集団を代表するもの」ではないです。
ランダムサンプリングなどの確率サンプリングの他に、非確率サンプリングがいろいろあります。
例えば、クォータサンプリング(割当法)、判断抽出法などなど、目的に応じて選択すればいいのです。

あと、確率ではもちろん1/1は何の問題もありません。

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1/1=100% 投稿者:φ  投稿日: 9月 3日(金)10時52分39秒

>数学で数が1しかない世界で数学しろというようなものです。

比喩が乱れてきましたね。この件はそろそろ切りあげる潮時ということでしょうか。

 最後に付け加えると、ランダムなサンプルでないものを「母集団を代表するもの」とするのは決して認められないでしょう。県代表やオリンピックじゃないのだから。

 ともあれ、確率論のどの部門でも、1の場合を特別扱いするということを明記してある出典が出てきましたら是非お教えください。「定義に合っているものはすべて一律合格」が論理です。定義に合っているのに「常識ではダメでしょ」という恣意的な態度は論理的にナンセンスと言うべきです。

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それは無理 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 3日(金)09時25分17秒

難題というものです。
数学や論理学は科学の基礎になる学問ですから例外はないのが望しいですが、それでも研究対象がなければ例外も何もありません。
統計学で対象の母集団やサンプルが一個しかないというのは、数学で数が1しかない世界で数学しろというようなものです。
統計学の公式などでも母集団やサンプルに1を代入しても有効な結果はえられないはずです。

ただ、考え方として、どう考えるべきかは議論可能でしょうが、不毛の議論になりますよね。

>母集団に実はたまたま入手したこのサンプル1個しかなかった、ということがあとから判明することがあります。

その場合は1個のサンプルから母集団を類推するしかないでしょうが、
その1個がランダムサンプリングされた1個だと仮定する必要はないですよね。
ランダムサンプリングでなくても、母集団を代表するものだとして考えればいいはずです。

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1/1=100%もダメ? 投稿者:φ  投稿日: 9月 3日(金)02時02分25秒

 > 1/1ですがこの場合、そもそも統計が成立していないのですよ。

だからお尋ねしたのです。母集団に一つしか含まれていない場合に統計が適用できないと定義してある出典を教えてくださいと。これも書名で教えていただけるとありがたいですね。

 1/1では統計が成立しない、という感覚は、失礼ながらセンスが悪いと私は思います。ちょうど、「任意の集合の部分集合として、空集合があるだって? バカな」「任意の集合の部分集合として、その集合自身があるだって? バカな」「確率ゼロというのも確率のうちだと? バカな」「1/1は確率100パーセントと認めろ? バカいえ。50/50とか、せめて2/2ならともかく、1/1が確率100パーセントだなんて」「毎日の交通事故死のこの統計表。この欄とこの欄にある0人とは何事だ。0人が人数だと思っているのか、馬鹿者」
 こうした態度と同じものですから。
 数学は統一性を重んじるので、特に定義によって除外されない場合はすべて適合例として含むのが原則です。
 とはいえ、万一、「統計は、母集団数が○○個以上の場合に限って適用されるものとする」という定義がないとは言えませんね。その出典を教えていただきたいと言っているのですよ。出典がないのに、ただ何となく気分で「1/1は統計じゃないでしょ?」という態度は数学的には認められません。

 なお、「1/1を、ランダムサンプリングだと無理やり考えることに何か意義があるのでしょうか?」というご質問についてですが、母集団に実はたまたま入手したこのサンプル1個しかなかった、ということがあとから判明することがあります。地球外文明否定論もそうですが、判明するまでは、1/1かどうかわかりません。しかし、判明する以前も以後も確率統計的推論は有効です。1/1の可能性は気にせず、他の場合と同列に扱ってゆくことには十分方法論的意義があるのです。そうしないと特殊例の可能性に対する留保につぐ留保に煩わされねばならず、推論が複雑になりすぎて、確率統計が機能しません。無理矢理どころか、必須なのです。

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ネットを 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 3日(金)00時29分38秒

探してみましたが教科書はないようですね。

一般にサンプル数を大きくすれば、その平均のバラツキはいくらでも小さくできて、母平均に近くなりますよね。
ただ、母集団の分布と同じ分布となるようにサンプリングすれば目的は達成できますから、サンプル数は適当な数で十分になるはずですね。
この点では、おっしゃるとおりだと思います。

1/1ですがこの場合、そもそも統計が成立していないのですよ。
母集団を全て調べられるのなら、統計学は不要ですから、この1個を直接調べればすむのです。
ですから、ランダムサンプリングもなにもないのです。
それを、ランダムサンプリングだと無理やり考えることに何か意義があるのでしょうか?

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乞教示 投稿者:φ  投稿日: 9月 2日(木)21時28分25秒

 ランダムという語に惑わされているのでは。ランダムは「デタラメ」という意味ではありません。
 無作為抽出と言った方がわかりやすいでしょう。
 1/1は母集団のメンバーすべてを調べた場合の特殊な場合であり、この上なく完璧なランダムサンプリングです。1/1に作為は入り込みようがありませんから。さらに、偏りを防ぐ操作が「無作為」であり、1/1に偏りは絶対入り込みませんからね。

 ランダムサンプリングの代表的などの手法の定義に照らしても、1/1はその条件を満たしているはずです。満たさないランダムサンプリングの定義の例があれぱ、教えていただけると幸いです。

 たった一匹のクロカナブンがたまたま飛び込んできたことに、なんの作為も偏りありません。

 なお、単に不用意に書かれただけかもしれませんが、「母集団数と選択数の比率」が信憑性に関係あるという御発言はよくわかりませんね。「比率」が重要だとは初めて聞きました。それ、どの教科書に書いてありましたか。書名を教えていただけると幸いです。私の認識では、ふつうに問題とされる大母集団からのランダムサンプリングの場合は、母集団:サンプル数の比率ではなく、サンプルの絶対数だけで統計の信頼度が決まるはずだと思っていましたが。

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ランダムの意味 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 2日(木)18時09分7秒

「ランダムに選ばれた」というのはランダムサンプリングの比喩なのですよね。
ランダムサンプリングというのは、全体を調べるために無作為に全体の代表を選び出す手段です。
母集団数と選択数の比率や回数によってデータの信憑性に影響があるのですよ。
例えば、私一人を調べて人類全体を類推するよりも、ランダムな多くの人を調べて人類全体を類推したほうが信憑性が高いのです。

ランダムサンプリングというからには母集団から無作為に選ばれたという意味は前提です。
母集団が一つでその一つを選ぶことをランダムサンプリングとはいわないし、一つのものをランダムサンプリングすることは不可能です。
誰でもその一つしか選べないのですから、常に作為的なサンプリングだということになります。
これは言葉の意味に関する事です。

ですから、ふと飛び込んできた一匹のカナブンが世界中でその一匹しかいないのであれば「ランダムに選ばれた」とはいわないのです。
そもそもランダムだと考える必要がないし、意味もないのです。
世界中にカナブンが沢山いるときに、そのカナブンが「ランダムに選ばれた」可能性がでてくるし、そう考える意味もでてくるわけです。

ですから厳密にいうと、n=0のときは、↓これは偽です
。 > 前提1 私はランダムに選ばれた知的存在である

>1/1は自動的にランダムであらざるをえないのです。

統計学の用語を誤用しています。
なぜ、1/1のときランダムだと考える必要があるのですか? その目的は?
1/1ならばそれを唯一の存在として考えればなんの問題もないはずです。

まあ、百歩譲って1/1でもランダムだと考えてもいいです。
比喩でおっしゃっているわけですからね。
その場合の私の疑問は、
>n=0の可能性がある以上、「地球人以外の視点」をとることは許されません。

これが何故か? ということです。
宇宙に地球人しかいない可能性があるとき、なぜ「地球人以外の視点」がいけないのですか?
宇宙人がいる可能性が残っているわけで、その宇宙人の人権無視ですか?

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ランダム性は母集団の規模と無関係 投稿者:φ  投稿日: 9月 2日(木)15時26分40秒

 ランダムの意味を誤解されていますね。
 今度の『心理パラドクス』の「ランダム・ウォーク」という問題では、「ランダムとは何か」を質問しました。答えを言ってしまいますが、ランダムとは、不偏性と独立性で定義されます(不偏性は必要なく、独立性だけでよいとする立場もある)。
 世界中にクロカナブンが百億匹いようと一匹しかいなかろうと、ふと飛び込んできた一匹のクロカナブンはランダムなクロカナブンに変わりありません。1/1なら偏りようも選り好みのしようもないので、最も完璧なランダムになります。選択者の意図に左右されない場合がランダムであり、母集団の大きさは全く関係ありません。
 私たちが全知的生命の中でどれであるかが問題になっていることにくれぐれも注意してください。岩や星や塵のような非知的無生物を含めたすべての存在の中でどれであるか、が問題になっているわけではないのです(私たちは非知性であることは出来ない)。
 1/1は自動的にランダムであらざるをえないのです。

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矛盾に近い 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 2日(木)09時33分50秒

どうもφさまの思考方法がはっきりしません。
問題はここですね。
>n=0の可能性がある以上、「地球人以外の視点」をとることは許されません。

もしこの主張が正しいならですよ。
nがゼロに近ければ近いほど、つまり「地球人以外の視点」の可能性が低ければ低いほど、「私」のランダム性が低くなるはずです。

「私」のランダム性はn=∞のとき最大ですよね。
n=0のときは最小です。
つまり、↓この前提と相反する関係になる。
> 前提1 私はランダムに選ばれた知的存在である

矛盾に近い主張ではないですか?

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SETIが興味を持つ知的生命体 投稿者:φ  投稿日: 9月 2日(木)05時41分45秒

 「未来の人類は全く違った意識状態になるので、今のこの私とは同じ準拠集団には入っていないのでは」として終末論法を解決しようとした Nick Bostrom, Anthropic Bias: Observation Selection Effects in Science and Philosophy, Routledge, 2002. に通ずるところがありますね。
 ただその戦略はだめでしょう。地球外知的生命は「自己と他者の意識について考えを巡らす」という程度には地球人と共通点はあるでしょうから。この思い巡らしだけが当面の必要条件で、他の意識構造などについては、実際自分の心がどういうものであるかは生まれてみて初めて私たちにわかったことなので、ランダムに与えられています。
 「自己と他者の意識について考えを巡らす」ことのできない存在は考慮外ですが(したがってそのような者たちがいくらたくさんいたとしても「第24節の論証」は成り立ってしまうわけで、その論証はそうした異質な者たちを排除できないのですが)、「自己と他者の意識について考えを巡らす」ことのできない者たちは、そもそも文明を持っているとは言えません。猿人のような者たちであればいざ知らず、銀河クラブに属するほどの者であれば、自他の意識を持っていなければなりません(かりに無私の超精神へと進化しているとしても、進化途上において自他を意識していたはずでしょう。進化の最初から無私の存在というものは、結局非知性ということであり、SETIの人たちも興味がないでしょう)。発見されても誰も興味を持たないような存在は、議論の中でも無視するべきです。

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私は誰でもありえた 投稿者:学ぶもの  投稿日: 9月 2日(木)03時53分9秒

ただ、銀河クラブの住人も含めて、私は誰でもありえたというとき、知的生命体の意識の構造の普遍性みたいなものが前提にされてはいるわけではないんですか。

人間の場合は、同じ進化の過程を遂げてきた生物学的に同種の存在ですから、
私は他の人間でもありえた(中国人としてうまれてくることもインド人としてうまれてくる
こともありえた、あるいは江戸時代のある日本人や明治時代のある日本人として生まれていた
こともありえただろう)といえても、銀河クラブの住人はおそらくは、それぞれ別の進化の過程を遂げた知的生命体なので、われわれとは意識の構造が違っているかもしれず、そうであれば、
私でありえたメンバーの中に銀河クラブの住人をいれることはできないと
考えるべきだみたいな議論もありえるような気もしますが。

あるいは、意識の構造がどう異なっていようとも自己意識、自分を意識しうる意識をもつ生命体であれば、すべて私でありうると考えるべきなのでしょうか。

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? 投稿者:φ  投稿日: 9月 2日(木)02時04分36秒

 意味がわかりませんが……。
 仮定0 は不要です。n=0の可能性が留保されていることはすでに述べました。ギリシャ人は、ペルシャ人やエジプト人の存在を知っていましたから、n=0の可能性はなく、ひとりよがりでない普遍的な論理を作らねばなりませんでした。(ひとりよがりの論理しか作れなかった民族もたくさんありましたが)

 「地球外知的生命は一人称判断をしない」などという仮定は銀河クラブ否定論のどこにも含まれていません。銀河クラブの人口が地球のn倍であることだけが前提されています。

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不完全 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 1日(水)23時23分32秒

論理学を生んだ昔のギリシャ人達は、「あくまでギリシャ人の視点からの論証を行なうことしか、私たちに許されてはいないのだ」とは考えませんでしたよね。
だから日本人に対しても普遍性のある論理学が創出できたはずです。
・・・まあ、そのことはいいとしてです。

そういうφさまの暗黙の前提は自明とはいえませんから、
「銀河クラブ」の仮定として明記すべきです。

仮定0 地球外知的生命は一人称判断をしない。

しかし、そうすると、
> 前提1 私はランダムに選ばれた知的存在である

これが偽になりますね。

これはちょっとビックリしました。
「銀河クラブ」の論証というのは、暗黙の前提を明記すると偽になる論証ですね。
つまり、この論証は不完全ですね。

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背理法 投稿者:φ  投稿日: 9月 1日(水)18時28分

 これは基本ですから、承服していただかないと困るんです。
 背理法はご存じですよね。
 仮定の、n倍のnには、当然、nイコール0の場合も可能性として含まれています。その上で、nはどのような数でありそうか、という推論なのです。
 n=0の可能性がある以上、「地球人以外の視点」をとることは許されません。
 あくまで地球人の視点からの論証を行なうことしか、私たちに許されてはいないのです。

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論理学の要請 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 1日(水)10時15分11秒

それはちょっと承服しかねます。

「銀河クラブ」の論証では、「いるかどうかわからない」地球外知的生命を、いる、と仮定したのですよね。
> 仮定 観測されていない地球外知的生命の数は、地球人口のn倍である。

であれば、この論証内では「地球外知的生命」がいるものとして論証しなければなりません。
つまり、「判断主体が地球人である場合以外の一人称判断」があるとして論証するべきです。

そうしなければ論証の普遍性が保障できないことになります。
これは論理学の要請ですよね。

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「私」は当然、一般名です。 投稿者:φ  投稿日: 9月 1日(水)06時40分14秒

 これはぜひ押さえてください。「私」は誰でもあり得たし、現にすべての人が「私」なのだから。
 「私」がいまここで、どの固有名と同一性で結びつけられているかというのは、完全にランダムである。これも重要。
 クロカナブンの例を思い出してください。
 「誰かの肩にクロカナブンが止まった」←これは、クロカナブンに接したことのない人を代入すると偽です。その場合はこの判断が「私」を主語として生じませんから、何ら問題ありません。
 そもそも地球人でない知的生命がいるかどうかわからないのですし、「私は地球に生まれた」は地球人の判断であることが前提になっています。人間原理は、判断主体を回復して確率判断を適用したゆえに、無人称的科学の及ばない革命的威力を発揮するのです。
 判断主体が地球人である場合以外の一人称判断があるかどうかは確証がなく、この「確証がない」という事実そのものが、地球人以外の判断主体は存在しないことの証拠だ、というのが、人間原理の地球外知的生命否定論の論理構造なのです。

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「私」は一般名? 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月31日(火)19時24分0秒

ということは、「銀河クラブ」での「私」は一般名の私だということですね。
ハムスターという名のこの私ではなく、誰でも私だと思う人のことだと。
だとするならば、「私」ではなく「誰か」とかに変えたほうが誤解がないと思います。

仮に「私」を「誰か」に変えてみます。 そうすると?
「誰かは地球に生まれた」←これが偽になりますね。

ということは、「私」とは「誰か」ではなく、ハムスターという名のこの私なのですか?
だとすると、ハムスターという名のこの私は固有名詞の私ですから、私の他に実在する可能性はゼロで、
「私はランダムに選ばれた知的存在である」というのが偽になります。

こういうのは矛盾ではなくって、不完全というのでしたよね。
たぶん「私」の定義に問題があるのだと思いますが、どこなのでしょうか?

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ランダムなら、当然、平凡 投稿者:φ  投稿日: 8月31日(火)14時47分11秒

 東京タワーが一つしかないと知ったうえで東京タワーの前に立った場合は、ランダムに出会っていません。
 ふと見上げたらたまたまこんなタワーがあった、という場合は、それはランダムな出会い方をしていますから、「これはあらゆるタワーの中で平凡である」と判断すべきです。それが東京タワーであってもです。ただし、偶然出会ったタワーがたまたま東京タワーである確率はきわめて低く、大半の人は、平凡なタワーに出会って「このタワーは平凡である」と考えることになります。従って、平凡の原理は大多数の場合に真なる結論に導きます。
 架空の、という設定がよくわかりませんね。地球外文明の場合は、架空ではなく、「あるかないかわからない」というだけです。東京タワーは固有名なので、「他の東京タワー」はハッキリ架空でしょう。多数の東京タワーの母集団が実在する可能性はゼロ。
 まあかりに、無理矢理「東京タワー」を一般名詞と考え、六本木から眺めることのできるあれは、いまのところ実在が確かめられたただ一つの具体例だ、という場合は、諸文明の中の地球と同じになりますが、その場合は、あの東京タワーは、ありうる東京タワーの中で平凡と考えるべきでしょう。ありうる東京タワーの中で一番高いとか、一番低いとか、一番太いとか、とにかくそういう特殊な東京タワーである確率は低いはずです。どの性質をとっても、真ん中の九割に属している確率が90パーセントであるはずですよ。

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唯一は平凡? 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月31日(火)13時20分48秒

確かに「ランダム」という言葉を比喩として使われたわけですが、それは「私」が地球に生れたことは無作為なのだと強調したかったからですよね。
無作為でなければ確率計算が成立しないですからね。
そして、部屋に投げ込まれたアルビノカナブンであっても、まずは平凡で無作為だと考えるべきなのでしょう。
だからといってです。
唯一の存在が自明である場合においても、平凡で無作為だと考えるべきだとはいえないと思うのです。

例えば、東京タワーを指示して、架空の無数の東京タワーの中では平凡で無作為な東京タワーだと考えるべきなのでしょうか?

この考え方は事実と相容れません。

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類比ゆえ方法不要 投稿者:φ  投稿日: 8月31日(火)07時19分45秒

ランダム「サンプリング」というのは比喩ですから(私はもともと「ランダム」としか言っていない)、サンプリングする行為主体がいなくても同じ数学的効果があります。
 たとえば、ふと外から部屋の中にクロカナブンが一匹飛び入ってきた。このクロカナブンは私であれ誰であれ「ある方法でサンプリングした」対象ではありませんが、その個体の体長と体重は、すべてのクロカナブンの中の真ん中の90パーセントに属していると判断してまず間違いないでしょう。90パーセントの確率でその判断は真です。
 これはあらゆる偶然の出来事についていえます。「クロカナブンがいきなり入ってきた」のような、ただ身に降りかかったことは、「方法」などありませんが、周到な方法でランダムサンプリングした結果と同様の数学的判断が可能なのです。
 気づいてみたら自分は地球に生まれていた、というのも、いつのまにか特定のクロカナブンに肩に止まられた、という出来事と同様です。

 >「地球」を「自分が生れた星」というように直したほうが良いと思います。

 「自分が生れた星」としたほうがもちろん論証は正確ですが、第23節で「地球以外の文明はありそうにない」という論証をやった直後なので。それに「自分が生れた星」などと一般化すると、「ある星では地球と違って銀河クラブを信じる確固たる哲学が確立しており、それに従うのがその星では合理的なのかもしれないじゃないか」等々、余計なことを考えなきゃなりませんからね。あくまで地球での合理的思考法を論じたかったので。
 第24節の銀河クラブ否定論は、第23節の論証よりも弱いということは(つまり、小規模な文明が宇宙に点在している可能性は否定していないということは)p.197の16~20行目に記したとおりです。

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方法の明示 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月30日(月)10時24分11秒
ランダムサンプリングが成立しているといえるためには、サンプリング方法を明示しなければなりません。
「私」が地球をサンプルしたときの方法が問題なのです。
これは明示不能ですから、厳密にはランダムに選ばれたと認められないのです。

もしかしたら、神の「意図」が関与しているかもしれません。
神の「意図」がないことを示す為にも、サンプリング方法を明示することは必要なのです。

>なお、地球以外の孤立文明βがかりにあるとして、そのメンバーの立場からは、「自分は多数派だ、よって、βを

大幅にしのぐ大規模な文明はなさそうだ」という推論が成立します。

なるほど、であれば、「銀河クラブ」の論証の「地球」を「自分が生れた星」というように直したほうが良いと思います。
しかし、だとすると、「銀河クラブ」が存在しないことの論証度は低くなりますよね。
何星人も「銀河クラブ」が存在しないと考えるだろうことの論証にしかなりません。

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何星人も皆同じ推論 投稿者:φ  投稿日: 8月30日(月)03時19分40秒

 ランダムサンプリングは、サンプリングのさいに不偏性と独立性が保たれていればよいので、さしあたり「意図」の介入がなければ合格でしょう。私がφという人間として生まれたことには誰の意図も関与していませんから、私がここにいることはランダムサンプリングと類比的に考えられます。
 なお、地球以外の孤立文明βがかりにあるとして、そのメンバーの立場からは、「自分は多数派だ、よって、βを大幅にしのぐ大規模な文明はなさそうだ」という推論が成立します。その推論はもちろん合理的です。私の推論と同じくらい合理的です。それは、彼もまたランダムサンプリングの結果だからです。

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唯一とランダム 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月29日(日)16時27分51秒

思索対象が多数派に属する、という考え方はコペルニクスの昔より正しい考え方だと認められています。
私も平凡の原理は正しいと信じています。

問題は「ランダムに選ばれた」なのです。
ランダムサンプリングが証明できれば別ですが、
唯一の存在に対して、架空の存在のなかで「ランダムに選ばれた」存在だという考え方には、私は疑問を感じます。

そもそも、ランダムサンプリングとは思想ではなく、方法なのですから、その方法を細かく検討しなければランダムだと認められない性格のものです。
ですから、架空の存在に対しては適応が不可能であるはずです。

これが、「銀河クラブ」の仮定2(前提1)が素直に容認できない理由の一つです。
もう一つだけ挙げさせていただきます。

地球人以外に「私」が選ばれる可能性が皆無だという暗黙の前提も問題です。
この論証の対象は地球外知的生命におよんでいますから、全地球外知的生命に対して普遍性を持つことが望ましいのですが、地球人以外に対して真となることはありません。

これらの点で、「銀河クラブ」の論証の正しさに疑問があるのですが、この論証の構造には興味を持っています。

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唯一なら平凡 投稿者:φ  投稿日: 8月29日(日)06時53分31秒

 「自分が何としてどこに生まれてくるか」ほどランダムな事実はないでしょう。もちろん、知的存在であることは必要条件ですが(そうでないと話が始まらない)、知的存在の中では、ほとんどの性質について、自分は多数派であると前提しなければなりません。生まれた場所についても同様です。
 もしも全宇宙に一人しか知的生命がいなければ、その知的生命は、知的生命として平凡です。比べる知的生命が他にないのだから、当たり前ですよね。
 同様に、全宇宙に地球文明以外の文明がないとしたら、地球文明は文明として圧倒的多数派であり、この上なく平凡です。これも当たり前ですよね。

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¬∃x(Ux∧Bx) 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月28日(土)18時44分58秒

ウンコの画像は失礼しました。m(_ _)m
つい悪乗りしちゃいました。
ただ、φさまが醜いウンコをお認めになったことに少し満足しています。
次は、美しいウンコが存在しないことを示したいと考えています。

「銀河クラブ」です。
>仮定2 私はランダムに選ばれた知的存在である (平凡の原理)

これが正しいかどうかは、結論がでないのではないでしょうか?
平凡の原理は正しそうな説明ですが、正しくなさそうな理由もいろいろあります。
一つ挙げてみます。

ここでいう「私」は地球人のみを前提にしてしまっています。
つまり、ここでいう「ランダム」が成立していないのです。
存在していないものを仮定して、唯一の存在をランダムな存在だとはいえないはずです。

まあ、存在は本来、奇跡なのかもしれませんが、ランダムな存在かどうかは分かりません。

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私たちは平凡 投稿者:φ  投稿日: 8月27日(金)01時41分18秒

 美しい○○と醜い△△を比較しただけでは○○と△△の比較としては公平ではありませんね。醜い○○と美しい△△を比較したり、平均値を比較したり、総合的に判断しないと。特にポイント制にすると、「インパクト」というポイントで差がつき、バラ説が不利になるのではないでしょうか。
 
 さて、
 前提1 私はランダムに選ばれた知的存在である (平凡の原理)

 は、仮定2ということでもかまいません。
 ただ、仮定2を否定するだけの根拠が皆無ですから、そこは動じず、仮定2以外の仮定部分(当初の唯一の仮定)の中の「n倍」のnが大きくない数である、という結論に変わりはないでしょう。

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分かりました>φ さん 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 8月26日(木)11時23分50秒

文脈的に銀河クラブ(的な多数派対例外的地球という図式)について話しているということが明らかな場合は、暗黙の前提としておいてよく、論証自体の中には、それを示す表現はなくていい ということなのですね?
きちんと論理学を勉強したことが無いので、そういう基本的なことが自分には分かっていないのかもしれません。

ハムスターさんの期待に反してこの件の私のはこれでおしまい ^^

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美しい花にはトゲがある 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月26日(木)11時00分50秒

>(ウンコに限らず)美にたどり着くためには、美を否定しなければならない。

ちっともお認めになっていないようですが、ご覧になれば一目瞭然です。
(注:ウンコのリンクは心臓の弱い方は決してクリックしないでください!)

美しいバラ:http://www.davidaustinroses.com/american/PhotoGalleryLarge.asp?Photo=A1L.jpg
醜いウンコ:http://www.ratemypoo.com/ratemy/poo?image=137059

ね♪
「ああ、5月のバラよ」(ハムレットより オフィーリアを称えて)
醜悪なもの、それはウンコである。(ハムちゃんより)

「銀河クラブ」ですが、この論証、
> 前提1 私はランダムに選ばれた知的存在である (平凡の原理)

ここにちょっと難点があるように感じます。
「私はランダムに選ばれた知的存在である」というのは自明ではないですから、仮定とすべきかもしれません。

パンさんへ

>其の流派に属する限り、美の規定も、其の流派の規定に基づく、と言うことになるのではないでしょうか?

じゃ、ウンコ流などという流派ができたらどうします?

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ということは・・・ 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月26日(木)07時22分31秒

>(ウンコに限らず)美にたどり着くためには、美を否定しなければならない。
> ――というわけでしょうかね。
φさまも、千利休と秀吉の衝突、
利休が咲き誇る朝顔をはぎとって、一輪のみ、のこした、に賛同するとして、
よろしいでしょうか?

>しかし、パンさん流でいうと全称汎化ができないわけです。
>私流でいうと、それが正しいのか、ということです。

個別者を見て、全称汎化が成立するのは、該当する個別者が限定なしの項
にならなければならないから、繰り返しになりますけれど、其の流派に属する
限り、美の規定も、其の流派の規定に基づく、と言うことになるのではないでしょうか?

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誰もがしょせん63億分の1 投稿者:φ  投稿日: 8月25日(水)03時07分13秒

 >バラのほうが綺麗だとお認めになりましたらお教え差し上げます。

 (ウンコに限らず)美にたどり着くためには、美を否定しなければならない。
 ――というわけでしょうかね。
 これを明日のアフォリズム日記としましょう。

 kotobazukuriさん。第一の疑問はたぶんそこかなと思っていました。確かに私の書き方が悪かったのです。ただ、文脈からして地球は例外的な保護区という趣旨なので、他の知的生命はみな(あるいはほとんど)銀河クラブに属している、という暗黙の了解をご理解頂いて。銀河クラブとはもともと、圧倒的多数(地球人口のn倍のうちの実質百パーセント)を占める種族連合でしょうから。

 >個々にバラバラの色々な星人の中に同等に地球人もいる
 >という全体図の場合だと・・

 その場合は論証は成り立ちません。が、個々バラバラに文明があるだけだとすれば、銀河クラブは無いことになります。文脈の趣旨に反しますので、さしあたり考えなくてよいということです。
 「さしあたり」をはずした但し書きは、『論理学入門』p.197の16~20行目に記してあります。ただちょっと誤解を生じやすかったですかね。

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ありがとうございます 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 8月25日(水)00時13分8秒

さっきは少し書き方が悪かったと思います
銀河クラブを否定する論証自体は納得できたのです。

我々が地球人の側に生まれているという事実と平凡の原則からすると、
銀河クラブという多数派の集合と例外としての地球人という少数派の集合に分かれているという全体図を描くのは不自然である
ということですよね。

疑問に思えるのは、
続いての

> 仮定 観測されていない地球外知的生命の数は、地球人口のn倍である。
>  中間帰結1 ランダムに選ばれた知的存在が地球に生まれる鈴木勝確率は1/(n+1)である
> 前提1 私はランダムに選ばれた知的存在である (平凡の原理)
>  中間帰結2 私が地球に生まれる確率は(n+1)だった (中間帰結1、前提1より、全称例化)
> 前提2 私は地球に生まれた
> 結論 nはあまり大きな数ということはありそうにない (広い意味での背理法)

この論証も「(銀河クラブのような)まとまったある集団 対 例外としての地球」という前提がなければ成立しないですよね?
個々にバラバラの色々な星人の中に同等に地球人もいる
という全体図の場合だと・・「地球に生まれる」と宣言しておいて地球に生まれた というように条件が付かないと・・
ともかく「地球人」が特別な存在であるのでないと、上の論証は成立しないと思うのですが・・
これは私の誤解なのでしょうか? まず、ここを確認させていただいて・・

えっと・・まず、ここまでで私の方に間違いがあるかどうか、よろしくお願いします。

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買収じゃありません 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月24日(火)15時14分11秒

パンさんへ

普遍性を持たない私的な命題などは、人の経験の数だけあります。
ですから、嘘をつくことは善に反する、ウンコがバラより美しい、と定義し論じることはいくらでもできます。
しかし、パンさん流でいうと全称汎化ができないわけです。
私流でいうと、それが正しいのか、ということです。

kotobazukuriさんへ

「銀河クラブ」に何かツッコミどころがありましたか?
興味津津です。

ウンコのほうがバラより美しいなどとうそぶくφさまへ

じつは私、アメリカのウンコサイトを知ってるんです。
アメリカ人のウンコが、またクサソーなのです。
バラのほうが綺麗だとお認めになりましたらお教え差し上げます。

世間一般では、バラはウンコより断然に美しいという認識がなされています。
φさまのウンコ美学とのギャップは、どのように折合いをつけるのでしょうか?

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動物園仮説 投稿者:φ  投稿日: 8月24日(火)13時50分39秒

 フェルミのパラドクスについては、先月刊の『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由――フェルミのパラドックス』(スティーヴン・ウェッブ著、青土社)がおすすめです。9月5日付読売新聞で書評する予定。
 拙著『論理学入門』に提示したのと同じような銀河クラブ否定論も出てきます。
 「動物園仮説」に限らず、地球外知的生命の実在は百パーセントありえないと私は確信してますので、疑問点はぜひ。もちろん、結論の正しさと論証の妥当性は別なわけですが。

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φさん 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 8月24日(火)09時27分36秒

NHKブックスの論理学入門を読んでいて、196.197ページの
フェルミの論証に対する「動物園仮説」
その「銀河クラブ」の存在を否定する論証 について、疑問を感じる点があるのですが・・・
今、質問を開始していいでしょうか?
進展中の話題と全然違うので、話題がとだえるのを待ったほうが良いですか?

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お久しぶりです 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 8月24日(火)09時21分48秒

φさん 8月 2日(月)の心理パラドックスについての問は
準正解と正解の重み付けについて自分が考慮していなかったのだと思います

ハムスターさん
こころよいレスをありがとうございました。

 両方とも期間あきすぎで、もう、お忘れでしょうね。

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そんなことありません 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月23日(月)21時10分34秒

>美とか善は論理的に考えると、とんでもない結論がでてしまう。
美とか善をあらわす原子命題が、そのままで、普遍性を求めようとする
からです。
φさまもいってたけれど、
>主体が志向的態度で関わっていれば、すべて命題的態度です。
よって、美とか善の価値命題を記述するときは、主体の存在自身の
価値を反映させた状態関数であれば、それでいいのです。
「嘘をつくことは善に反する」&「わたしは嘘をついてしまった」
ならば「今のわたしは悪い」・・・が導出される、でこれって単純な論理
ですよ。
「わたしは嘘をついてしまった」が事実だとして「嘘をつくことは善に反する」
と主観的に考えている限り、良心の呵責(自己否定)があるでしょ。
「嘘も方便だわ」とか考えなおせば慰めになるって、価値命題の真理値を
操作しているって考えれば至極自然でしょう。
主観的命題は「あるとき、あるところで、誰か」によって任意に真理値が
あたえられるのだから、次の瞬間に同一人物が、真理値を操作しても
かまわないわけです。
>美とか善には論理ではなく統計が必要なのだと思っています。
主観的命題の真理値がファジィだから、統計も大いに利用すべきなのでしょうね。

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パンドラねーさん 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月23日(月)09時52分36秒

も来られていたんですね。
でも、パンドラねーさんはウンコじゃなくって、バラの話のほうが似合いそうです。

>任意の命題的態度において定義できる、じゃダメ?

そりゃ、定義はいくらでもできるでしょうけど、美の本質にはせまれそうもありません。
私はここにも論理の限界を感じているんです。
美とか善は論理的に考えると、とんでもない結論がでてしまう。
ウンコのほうがバラより美しいと考えても論理的には何の問題もないでしょう。
ならば、それで正しいのかというとそれは違うと思うのです。

美とか善には論理ではなく統計が必要なのだと思っています。
それだと、パンドラねーさんは興味ないのでしょうね。

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>定義不可能性 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月23日(月)07時25分19秒

>美や芸術には、定型や慣習をそれる「創造性」の契機が入ってくるものとして一般
に了解されているので、対象レベルでは絶対に定義できない定めですね。

あっさりと「定義できない」といわれてしまっても、話が終わってしまうでしょうから、
ちょっと抵抗してみます。絵画にしても、音楽にしても「美や芸術」にはそれを制作
する側と、鑑賞する側がいるでしょう。
鑑賞する側は命題的態度で、「(五感)~感じていたい」としてはどうでしょうか?

>国際美学会議が「美しい形とは、かくかくしかじかの黄金比への一致度で決まる
>ものと定義します」「美しい顔とは、各パーツこれこれの比率に近いとコンピュータ
>が評定したものに限ると定義します」と宣言したとしたら、一般の人は「何をふざけ
>たことを言っているんだ」とせせら笑うでしょう。

茶の湯に関して秀吉と千利休の対立は、鑑賞する側と創造する側の対立としては
いかがでしょう。秀吉は自らの好み(見ていたい)で黄金の茶室を所望したが、利休
は「茶とは斯くあるべし」を常に追求するために、出来上がったものも否定せざるを
得ない。かくして、茶の湯が、斯くも厳格な作法で構成されているとしてみては・・・?
となると、国際美術会議で定義することはできないでしょうが、其の分野で、いち流派
の弟子となって、創造に携わる以上、其の流派での厳格な規定に拘束される一面が
あるのではないでしょうか?

>しかし正常な人間でウンコの美を理解できない人がいるとは私には信じられないのですがね。
うちの娘が三歳のころ、にこにこしながら「ウ、ウ・・・」といってせまってくるから
http://www.ucatv.ne.jp/~ms1.sky/haru/haru.html
「ウンチ?」と聞いたら「ウンチ、ウンチ」といいたかったことを、吐き出して喜んでいたのを
思い出しましたね。別に排便したいと言うのでなく、あれは興味の対象だった。
それからは、食事の席でも、さかんと「ウンチ、ウンチ・・・」と騒ぎ立てるので参ったことを
覚えています。
いまは~、まさかスカトロクラブに入っているんじゃないだろーな・・・
心配になってきた。

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定義不可能性 投稿者:φ  投稿日: 8月23日(月)03時55分41秒

 美や芸術には、定型や慣習をそれる「創造性」の契機が入ってくるものとして一般に了解されているので、対象レベルでは絶対に定義できない定めですね。
 科学者や哲学者が「質量」や「1秒」や「または」をどう定義しようが一般の人々は専門家の定義を尊重します。が、国際美学会議が「美しい形とは、かくかくしかじかの黄金比への一致度で決まるものと定義します」「美しい顔とは、各パーツこれこれの比率に近いとコンピュータが評定したものに限ると定義します」と宣言したとしたら、一般の人は「何をふざけたことを言っているんだ」とせせら笑うでしょう。その嘲笑は健全な美意識の証しです。
 しかし正常な人間でウンコの美を理解できない人がいるとは私には信じられないのですがね。

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ちなみに 投稿者:岡村栄一  投稿日: 8月22日(日)07時27分8秒

私的にはウンコは「美しい」というよりは「崇高な」ものというニュアンス。
「崇高」の通常の意味からはズレているかもしれませんが、
触れるのも目にするのも嫌なのに、何故か目を背けられないというか。
自分では汚言癖と強迫神経症が独特の結びつきをもって私の知覚をそこへ
追いやったのではないかという気がしているのですが、これも実に曖昧で
単なる気のせいかもしれません。

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ご回答ありがとうございます。 投稿者:岡村栄一  投稿日: 8月22日(日)06時45分49秒

なるほど、なるほど。やはりそうきましたか。
ならばこういうシュチュエーションはいかがでしょうか。

8月22日(日)
論理学者φ氏は、朝の掲示板のやりとりを思い返しながら待ち合わせの場所の中野駅西口へ向かうのであった。
(なんで朝っぱらからウンコの話せなあかんねん・・・。
そやけど、改めてわかったわ。オレってホンマ、ウンコ好きなんやなぁー。
飛び出せ!ウンコ、飛び出ろ!ウンコ、飛び出た!ウンコ)
ウンコを想像し(ホンマ綺麗〔=美しいと同義とします〕やなぁ)などと思いながら改札を出ると、駅前にはすでに夜勤明けのツヤ子がポツンと立っていた。
「メンゴメンゴ、今朝、ワケのわかんないおっさんに議論ふっかけられてさ」
「ううん、全然へーき」
「いや、いつも遅刻してるし、悪いなと思って。
…それよかオマエ、今日誕生日だったよな」
「え?う、うん。そ、そーだけど」
「なんでもオマエの好きなもんやるよ。
あ、そうだ。オマエ、中野ブロードウェイ行ったことないだろ。
あそこの古本屋にオモシレーとこあんだよ」
「そ、そんな~、φのくれるものだったらなんだっていいよ~」
「遠慮すんなって。なんだってオマエそうやっていつもビクビクしてんだよ。
オマエが今欲しいもん、ズバッと言ってみなって。なんでもやるから」
「……じゃあ、今、φが『綺麗』だって思ってるもの」
「今?」
「別にさっきでもいいよ。でも昨日とかは駄目」
φ氏は突然、わけのわからない積極性をみせるツヤ子にたじろぐのであった。
(そら、さっきまで『ウンコ綺麗やなー』とか思ってたけどやなー。
だからって『はい、これ。よー見てやー。けど触ったらアカンで』なんて言えまっかいな。
わしら、まだ付き合って2、3週間しかたっとらんし、こいつ、なんやまだわしのこと警戒しとるみたいやからなー。
しかし、出会い系にさんざん金つぎこんでゲットした女や。
それに、わし…だんだんこいつのこと…うっ、イカン、わしとしたことが…)
「嘘はつかないでね」
「え?」
ツヤ子の目は、まるでカードキャプターさくらの大道寺知世ちゃんのように
キラキラと輝くのであった。
(そういや、こいつ…前の男にさんざん嘘つかれて騙されて…
心も体もボロボロになっとるんやったなぁ。
わしとしても『ウンコ大好き!』はホンマやし。嘘はつきとうないしなぁ〔←子供かオマエは!と自分にツッコミつつ…〕。
ええ機会やし、この際、ツヤ子にわしのホンマの趣味、理解してもろたろか!
………いかんいかん!アホか。どこぞの世界にウンコ好きの男を理解できる女がおんねんな。
確かに、わしはウンコ好きやけど、それよりもっといっぱい好きなもんあるし…環境音楽とか…)
「なぁ」
「え?」
「今さっき考えてたことやないとアカンの?」
「うん!」(へ~、φってコテコテの関西弁なんだ~、かわいい)
「絶対?」
「絶対!」
(こいつアホちゃうか~?)と思いつつも、
(そういえば掲示板でも時々変な要求突きつけてきよったな~)と思い返すφ氏であった。

というようなシュチュエーションなんですけども…。

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「美しいもの」 投稿者:φ  投稿日: 8月22日(日)05時45分34秒

 「美しいもの」を所望といっても曖昧なので、「贈るあなたが美しいと思うもの」という意味か「もらう私が美しいと思うもの」という意味かで決まるというだけのことでしょうか。後者なら仕方ないから、バラを贈らざるをえまい。
 もし二択でないなら、こういう漠然とした所望のされ方は困りますよね。ウンコより美しい(と私が信ずるもの)はそりゃいくらでもありますから(ウンコの二次元映像はその一つでしょう)。値段とか大きさとかに限定をつけてもらいませんと。
 なお、美の判断は主観的欲望とは全く異なります。「美しいと思うが、触れたいと思わない」というのは矛盾ではありません。たとえば、オリンピックで女子体操など見るにつけ、とくに東欧あたりの白人は美の度合が異次元と言っていいほど違うレベルにあることを痛感します。しかし、触れる対象としてならモンゴロイドの女の方を望みます。これは矛盾ではありません。(なおここで「触れる」というのは「見る」「聞く」「嗅ぐ」「触る」「味わう」すべてにおいてという意味)

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ハムちゃんへ 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月21日(土)20時45分32秒

おひさ、
>例えば、ある女性がいて、ほとんどの人が美人だと思ったら、その女性は美人です。
これって、なにか全称汎化を思い出しますね。

>善や美の判断は特定はできない。
>だから「固定した経験で定義できない」。
任意の命題的態度において定義できる、じゃダメ?
しかし、善は「~すべし」という規範当為があるから、普遍化できそうだけれど、美は
やはり、欲求願望だから「~したい」でしか表現できないのでは?
すると、美は普遍化できないですね。
だって「~したい」の主語は「わたし」しか、使用できないでしょ。

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ありがとうございました 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月21日(土)20時30分16秒

うーん、あんまり深く考えることもなかったのですね。確信がとれました。

ところで、美学をやっていらっしゃるわけですね。
わたくし、美学を定義して、其れは五感に関わり
「見ていたい」「聞いていたい」「味わいたい」「触りたい」「嗅いでいたい」
のいずれかを満たす、と定義してみたのですが、成立しますでしょうか?

うーん、それにしてもウンコを「味わいたい」「触りたい」「嗅いでいたい」は
なんともすごい感触でございますね。

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「チミは糞より美しい」 投稿者:岡村栄一  投稿日: 8月21日(土)15時29分2秒

言いたいことはわかるのですが、素朴な疑問を。

>私は、子どもやスカトロジストや前衛芸術家はバラよりウンコの贈り物を喜ぶに
>違いない、という理由で、ウンコの方がバラより美しいと主張します。そもそも、
>女性一般よりも前衛芸術家の方が、贈り物の美について的確な判断ができそうで
>はありませんか。

ならばφ氏は、彼女が誕生日の贈り物として「美しいもの」を所望した場合、信念を貫いて
ウンコをプレゼントするのでしょうか?それとも、「こいつには前衛芸術家みたいな感受
性はないから何が本当に『美しい』のかなんてわかりゃせんだろ」などと腹の中で思いつ
つ、世間的な「規約」に従ってバラ(でもなんでもいいですが)を贈るのでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/OkamuraEiichi/

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命題的態度 投稿者:φ  投稿日: 8月21日(土)02時06分56秒

あちらで♂氏が書かれているとおり、ラッセルの言う「命題的態度」の意味ということなら、それで全くよろしいのではないでしょうか。
任意の命題について、主体が志向的態度で関わっていれば、すべて命題的態度です。

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すみませーん 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月20日(金)23時07分58秒

突然お邪魔して、失礼します。
松下さんのところで『命題的態度』にこだわっていたのは、主観的と客観的を
振り分けたいという思惑があったからです。
命題Pが、素のままで判断されれば、それは客観的判断であって
「aはPと思う」の命題的態度であればPは主観的判断である、として良い、と
考えました。
しかし、普遍(客観)の定義が、「いつでも、どこでも、誰にでも」等しくなされる判断
であるなら、「あるとき、あるところで、誰か」によって、なされた判断を主観的判断
と、定義すべきだと考えました。
これがいいかどうかは、φさんもご意見をお持ちになると思いますが、これを命題
的態度、と言っていいものかどうか、迷っています。

「あるとき、あるところで、誰か」によって、なされた判断を『命題的態度』という。
これは正しいでしょうか?

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循環論法 投稿者:φ  投稿日: 8月20日(金)03時12分18秒

 「美しいかどうか」の基準として、「肥料として使える」「よい玩具である」は使えないが、「彼女への贈り物として適している」は使えるというわけですね。しかしなぜそういえるのでしょう?
 なぜかと問いつめられたら、答えとしては――、「肥料として使える」「よい玩具である」は「美」と関わらない反面、「彼女への贈り物としてよい」は「美」と関わるからだ、と言わざるをえないでしょう。となると、循環論法になってしまう。ウンコよりバラの方が美しいのはなぜかを全然説明していないことになります。
 (ちなみに私個人としては、デパートの包装紙やリボンが「美しい」と思ったことはありません。ああいう慣習的装飾を本気で美しいと思う人がいたら、それはかなり俗悪な美意識でしょう。実は美しくないと思っている人が大半ではないでしょうか。そして贈り物というものはあたりさわりない慣例的な外観が好まれるのです)。
 さらに私は、子どもやスカトロジストや前衛芸術家はバラよりウンコの贈り物を喜ぶに違いない、という理由で、ウンコの方がバラより美しいと主張します。そもそも、女性一般よりも前衛芸術家の方が、贈り物の美について的確な判断ができそうではありませんか。
 むろん、私のこの理由も、ウンコの美を証明したことにはなっていません。先ほどのバラの美と同様、循環論法だからです。
 つまるところ、「より美しい」は、循環なしで定義できる「より重い」「より背が高い」「より速い」等々とは異なって、客観的性質ではなく、頭ごなしの主観的規約による観念でしかないのです。

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美の包含関係 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月19日(木)18時46分50秒

もちろん、子供への贈り物にはウンコのおもちゃが喜ばれる、などという話ではありません。
彼女とかへの贈り物です。
そういういわゆる贈り物には、美しいという性質が含まれていますよね。
彼女への贈り物に美しくない物は選びません。
商品券などの見た目があまり美しくないものの場合は、きれいな包装紙やリボンを使って美しく見せます。
ですから、贈り物に適しているものは、美しいものである場合が多い、とはいえるはずです。

「肥料として使える」という基準には、美しいという性質は含まれていませんよね。
ですから、ウンコをバラよりも肥料として高く評価して、バラの方が美しいといってもダブルスタンダードになりませんが、
バラの方をウンコより贈り物として高く評価しておいて、ウンコの方がバラより美しいといったら、ダブルスタンダードの疑いが高くなります。

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美の独立性 投稿者:φ  投稿日: 8月19日(木)02時15分9秒

 http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/i-believ.htmにもだいぶ前から掲げておりますように、バラなどよりウンコの方が美的価値(美的意義といった方が正確かもしれません)は断然上、というのがワガ信条です。
 子どもが一般にウンコ大好きなのは、社会常識に毒される以前の本能的美意識がウンコを尊重していることの証拠だ、と論ずることもできます。(むろんそれでウンコの美は証明などできませんが、バラの美も同じくらい証明不可能でしょう)
 〈贈り物に適している〉という性質と、〈美しい〉という性質は、相互に独立ですから、何を言ってもダブルスタンダードにはなりません。たとえば、商品券や辞書は贈り物として適していますが、美しいと思う人は少ないでしょう(美しくないと断定もできませんが)。タマムシや藤原紀香は、贈り物としてふさわしくありませんが、美しいと思う人が多いでしょう(美しいと断定もできませんが)。
 バラが贈り物として適しており、ウンコが適してないという事実は、バラおよびウンコの美について何も教えてはくれないのです。
 ――ちなみに、「肥料として使える」という基準をとれば、ウンコの方が上になります。「玩具として」もウンコの方が上です。バラをもてあそんだりしたら怪我しちゃいますからね。それらの基準でウンコをバラより高く評価しておきながら、バラの方が美しいといったらダブルスタンダードになりますか? なりませんね。「贈り物として適している」も同様で、「ウンコの方が美しいが贈り物には適さない」と言っても全然矛盾ではないのです。

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ダブルスタンダード? 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月18日(水)17時55分23秒
それが、私には不思議なのです。
それが、正しいのでしょうか?

プレゼントには、バラではなくウンコを贈るのですか?

プレゼントにはバラを贈るけれども、美しいのはバラよりもウンコだと考えているのだとすると、二重基準になります。
どちらが正しいのでしょうか?

のん さんへ

殺人、売買春、報復などなど、私の主張は一貫しているはずです。
つまり、常識は正しいはずだという考え方です。

ちなみに、左頬主義とは無抵抗主義のことで、「利益を追求しないこと」ではないと思います。

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ツウ 投稿者:φ  投稿日: 8月18日(水)05時05分24秒

 ウンコがバラより美しいとも醜いとも証明できません。デュシャンのモナリザや便器が芸術だとも芸術でないとも証明できません。ウンコの方がバラより美しいと思うツウは多いし(ウンコのツウである私もその一人です)、芸術ツウの大多数はデュシャンの便器を20世紀最大の芸術の一つと認めます。だからといって、ウンコが美しいことも便器が芸術であることも証明できたことにはなりません。ツウは「美のわかる人」「芸術のわかる人」等々と定義されるため、ツウによる価値の定義は、循環になるのです。
 私個人としては、ウンコは絶対バラより美しいと確信していますけれどね。(なぜって、どちらの方が物理的多様性および人間的含蓄に富んでいると思います?)

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(無題) 投稿者:のん  投稿日: 8月17日(火)02時27分23秒

「~と思う」という表現は信念とは違いますよね?
どちらかというと意見ですよね?そしたら議論にならないと思います。
そもそもハムスターさんの主張は何だったのでしょうか?
人は人間である以上利益を追求するのが自然だと思います。
「利益を追求しないこと」を利益とすることが左頬主義なのではないでしょうか。

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認識の深浅 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月16日(月)09時37分54秒

自然が美や善を選択するとは思えませんから、美や善というのは、実在ではなく学習などの経験によって得られる認識なのだと思います。
ただ、その認識には傾向があります。
そして、認識には深浅があります。
美のツウだからといってウンコがバラより美しいとは思わないでしょう。
モナリザの絵葉書にヒゲを書いて、それが芸術だ、というようなことは、美ではなく芸術論でしょう。
ツウというのは、美の中でさらに美なるものを理解できる人だと思います。
善も同様だと思います。
善の中から善なるものを分かつことができる人が善のツウなのだと思います。
「殺人」にヒゲに付けて、それが善だなどというのは、善ではなく、倫理論とでもいうものだと思います。

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システムと実在 投稿者:φ  投稿日: 8月10日(火)14時58分40秒

 「神」も似ていますね。どの文化にもある普遍的な概念だが、宗教家(神の専門家?)どうしの意見は不一致です。
 どこにも成立する概念だから、ディテールはともかく「神」そのものは実在なのかというと、そうではないでしょう。現代科学文明のもとで本気で(メタファーとしてでなく)神を信じているという人は、精神異常か自己欺瞞に陥っているといわざるをえません。しかし「善」「美」については実在論の余地がまだ残されているような気も確かにします。ただこれも、「善」「美」をめぐる言語行為の普遍性と、「善」「美」そのものの実在とを区別しさえすれば、事情は「神」と同じであることがわかると思います。
 ただし「善」「美」は「神」とは違って有益なフィクションなのですが。

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裾野の善と美 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月10日(火)00時59分51秒

バラは誰もが美しいと思うでしょう、しかし、バラの栽培家にはウンチクがある、ということでしょうか。
ゴッホの絵はどれも誰もがスゴイと思うでしょうが、ゴッホファンには好みの絵があるでしょう。
バッハ、モーツァルト、ベートーベンにも好きな演奏家があります。
問題はそういうツウの美意識ではなく、何故美があるのか? ということでしょう。
ツウ通の美意識などは十人十色で共通の美は出てこないはずです。
問題は、何故、ウンコよりバラが美しいのかということだと思います。
何故、善と悪があるのか? 
善や美が多数決だというのは現象の説明でしかなく、何故、善や美があるのかは不思議です。

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一致は裾野だけ 投稿者:φ  投稿日: 8月 7日(土)03時10分27秒


 裾野では意見が一致するが、頂上はそれぞれの方向を向いている、というのが、「美」「善」のような価値判断の実相でしょう。女性の美のような、誰もが参加するいい加減な判断においては、ほぼ意見は一致する。しかし、芸術の美のような、「醸成された経験」がものをいう場面では、プロの意見はまちまちです。
 「善」もそうでしよう。一般大衆の倫理意識というのは、幼時に教え込まれたこととか、権威や体制の命令とかによって自動形成されるため、ほぼ一致していますが、倫理学者の善悪の判断は各人まちまちです。人を殺しても良いという倫理学者すらいるくらいです。
 善も美も、深く考える人ほど意見が不一致になる、という性質を持っています。

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ふむふむ 投稿者:のん  投稿日: 8月 7日(土)01時30分17秒

>美が美意識の経験によって醸成されるもの
だとしたら、プロの好みは同じってことになります。そんなのウソです。
人間一人一人美的感覚が違うのに「美しい」という言葉一つにまとめるからおかしくなります。
善悪も同じようにいえると思います。自分が悪いと思う事は悪、良いと思う事は善ということです。
他人の善悪の判断や価値観に自分を合わせようとするのは、生き残るためです。自分のためです。

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美とは概念 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月 6日(金)22時39分21秒

そも、美とは概念ではないのか? という疑いが濃厚です。
赤ちゃんや動物には美が分らないことから、成人の人間にのみ備わった意識です。
幼少のころからの教育や環境によって、美を学習、体験していくもののように思います。
「目が肥えていないと本当の美はわからない」ということからも、美が美意識の経験によって醸成されるものであることを物語っているように思います。
だとすれば、美とは概念で多数決で決まる、と認めて何の問題もないのではないでしょうか。

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多数決の母集団は? 投稿者:φ  投稿日: 8月 6日(金)03時38分14秒

 「大多数の人間には質の高い審美眼が備わっていない」「目が肥えていないと本当の美はわからない」といった主張は立派に意味をなしますので、多数決は美の基準として失格です。大衆芸術の方が高踏芸術よりも「美しい」とは決していえないことからもわかるでしょう。
 では、目の肥えた人々の多数決で美は決まるのか? その通りかもしれません。しかし、目の肥えた人としてふさわしいのは誰か、というのは、「本当に美しいものを美しいと感じる人々」という風に、またもや循環定義に陥ります。美を決めるための多数決の母集団は、すでに何が美しいのかがわかっていないと、決まらないのですね。
 美は★概念的には★多数決で決まると認められますが、概念的にでなく★実際に★何が美しいかを決めようとすると、循環定義がどうしても入り込んできます。これが、「美は経験的には決められない」という意味であり、この不確定性は美の論理からして必然的です。 

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美人の数値化 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月 5日(木)13時25分24秒

確かに「良い」というのは価値概念ですけれども、この場合は数値にできます。
例えば、美人の顔の縦と横の比とか、目の大きさや傾きや全体の割合、等々を数値化して、それを絵にしてアンケートを取れば、美人だと思われる率が60%を超える、というような数値の組合せが得られるずです。
それが美人の定義にはるはずです。
もちろん100%の人が美人だと思うような数値の組合せはないでしょうが、我々の価値判断とはそういうものだと思います。
つまり、美とは多数決だというわけです。
多数決だからこそ、世代によって美意識が変ってくるわけです。

「美人投票のパラドクス」ですが、そもそも我々の価値判断は幼少のころからの教育や経験によると思われますから、無意識の内に客観的な美人を選んでしまうのだと思います。
で、個人の好みは別にあるのですが、誰もが美人だと思う美人はいるということですよね。
まあ、漫画家などが無意識に行っていることだと思います。

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目鼻立ちが「良い」 投稿者:φ  投稿日: 8月 4日(水)04時16分24秒

 目鼻立ちが良い女性は美人である、という定義で、「良い(≒美しい)」という語が入り込んでいるため、循環定義になっています。価値概念は、価値を含まない語で定義できないのです。
 何をもって美人とするか、というのは、「ほとんどの人が美人だと思」うことで確かに決まるのですが、問題は、その思いの中に出てくる「美人」とは何か、ということなのです。事実語だけでは定義できません。
 なお、ケインズの「美人投票のパラドクス」を『心理パラドクス』の問023としてエントリーしました(目次は↓)。株式投資のときの買いの判断のときの「良い銘柄」と同様に、実際に「美人」として通用しているのは、各人が本当に美しいと思う人ではなく、大多数の他人が美しいと思うはずだと各人が思っている人である、というパラドクスです。「大多数の美的判断」というフィクションに大多数の人が建前上の好みを合わせることにより、虚構の美が一人歩きします。しかしそれは本当の美なのでしょうか? たとえば私の本音の好みを言えば、スーパーモデルとして売れているスーダンあたり出身のやたら手足の長いスマートな長身女性を「美しい」と思ったことはないし、マリリン・モンローを「セクシーだ」と思ったこともないのです(アメリカ人ってほんとにMMがセクシーだと感じてるんでしょうか? 少なくともMMは美人にはほど遠いですよね)。
 社会的条件付けに左右されない「各人本音の美」を露出させることができれば、美という価値がいかにあやふやなものであるかがわかります。かりに、そこにかなりの意見の一致が見られたとしても、あくまで各人の「美的」判断の一致なので、美は美そのものでしか定義できないことになり、客観的基準によって決まったことにはなりません。まあ実際、美意識はある程度まで自然選択で私たちの本能に刻み込まれているのですが、文化的な意味での「美」は、石器時代の自然選択に有利な価値意識とかなりズレていますしね。(現に、モンゴロイドの美女としては自然淘汰によりロリっぽいのが好まれてきましたが、近年の西洋化により、コーカソイド型成熟タイプの方が「美しい」という判断の対象としてふさわしいとされるようになっていますよね)
http://russell-j.com/puzl3idx.htm

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多数が善・美 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月 3日(火)20時23分46秒

私的な判断は間違いやすい。
善や美の判断は特定はできない。
だから「固定した経験で定義できない」。
しかし、善や美は存在しています。
つまり、「固定した経験」ではなく、他のものによって存在しているはずです。
それが、多数の経験なのではないですか。

例えば、ある女性がいて、ほとんどの人が美人だと思ったら、その女性は美人です。
そして、その特徴は、目鼻立ちが良いという特徴があったとして、
目鼻立ちが良い女性は美人である、といったときに100%の賛同は得られないとしても、多くの人が賛成すれば美人です。
「美しいとは、○○であることである」といったときに、多くの人が賛成すれば、それが美でしょう。
100%でなければ美ではない、というのは違うと思うのですが・・。

左頬主義というのは、イエスの時代は終末の審判を信じたうえでのことです。
現代の左頬主義は、法治国家を信じたうえです。
この世界を報復合戦という不幸から解放するには、それが正しいのだという人類の信念だと思います。
私的な報復をしたいという本能を、正義の祭壇にささげるのだと思います。
これは、法治国家以前では大変に興味深い主義だったはずです。

終末の審判も法治国家も信じない左頬主義というのは、ドストエフスキーの「白痴」の主人公ムイシュキン?のようは人でしょうね。
つまり、白痴です。 ですが人々の記憶に残ります。

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善美はreal definitionに馴染まない 投稿者:φ  投稿日: 8月 3日(火)05時23分19秒

 報復というと、思い浮かぶのは私的報復。私的報復は悪い。しかしよく考えると私的報復も本来悪くない。私的判断は間違いが生じやすいから、報復に慎重を期すため公的権力に委ねるだけだ。よって公的報復も含めた真の意味での報復については、{体の鍛錬 気晴らし 金銭欲 報復 宣伝 実験 占い}の中で最も悪いとは言えない。これが、準正解3から正解1へと発展する流れになるでしょうか。
 なお、「報復のパラドクス」は、もともと素朴な直観で「報復は悪い」「報復は悪くない」と★感じられる★各々の理由を突き止めようとしたもので、報復が★本当に★悪くないかどうかについては別の議論が必要になります。善悪や美醜は、感覚や感情で証明はできませんからね。
 たとえば、「美とは丸いもののことである」「美しい顔とは、目が大きい顔のことである」「美しい人とは、好感をもたらす人である」「美しい絵とは、写実的で赤っぽい色をした絵のことである」等々、「美しいとは、○○であることである」の○○にいかなる事実的・経験的・感覚的概念を代入しても、異論が必ず出てきます(出てこないとおかしい)。結局は、「美しいとは、美しいと感じられるもののことである」といったような循環定義によるほかはなく、事実では定義できません。固定した経験で定義できないというのは、「美」「善」の本質の一部でしょう。
 なお、「私は自分では報復しないが、警察に訴える」という行動をとる人は、そんなので左頬主義者を名乗れるんですか? そういうのも「左頬主義」と呼ぶのは自由ですが、全然興味深い主義ではありませんね。ほとんどの人が左頬主義者になってしまいますから。(特に臆病な人ほど)
 7月20日にkotobazukuriさんが書かれていたように、「法が整備され、それに守られているから 左頬主義が使える」などというやすっぽいことをイエスキリストは説いていたのではないでしょう? 「人任せの正義の達成」ではなく、「権力に守られておらず、下手したらそのまま殴り殺される可能性のある中での」無抵抗でしょう。ならばなおさら今日では――、
 公的な制裁を求めることは、結果として報復になるのだから(制裁の意味からして当り前です)、左頬主義者たるもの、公的制裁に任せることも辞退しなければならないはずです。そういう左頬の態度は独善であり、社会の迷惑だと私は言っているのです。

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善・美が経験的でない? 投稿者:ハムスター  投稿日: 8月 2日(月)23時26分48秒

真・善・美のうち、真は論理的ですが、あとは経験的じゃないんですか?
論理的な美って、どんな美なんでしょう?
この辺がφさまの倫理観がちょっと不思議に感じられる核心っぽいですね。
私は報復よりもこっちのほうに興味があります。

左頬主義者は神による審判を報復だとは思わないはずです。
転じて、公的な制裁を報復だとは思わないと思います。
反私的制裁主義(=反報復主義)が左頬主義だと思います。

kotobazukuri さんへ

>ハムスターさん、もしお気に触ったらすみませんでした。

え? 何々? なんにも気にさわっちゃいませんよ。
もっと、もっと、カモン、ってな感じです。

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言い回しを訂正します。すいません。 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 8月 2日(月)18時54分21秒

> 『悪につながる確率の高さ、占有率の高さ』という根拠で
> 『次のうちで報復が最も悪いと教えている。{体の鍛錬 気晴らし 金銭欲 報復 宣伝 実験 占い}』
> と結論を出した直観が、論理で探った場合正しいのかどうか、ということである
> と、絞っていいのではないかと思うのですが・・
   ↓
『悪につながる確率の高さ、占有率の高さ』を理由に直観が導き出した
『次のうちで報復が最も悪いと教えている。{体の鍛錬 気晴らし 金銭欲 報復 宣伝 実験 占い}』という答えを、
論理(もしくは多くの合意が得られるような他の方法)で探った場合にも正しいと支持できるのかどうか、ということである
と、絞っていいのではないかと思うのですが・・

 なお最後に投稿した時に乱暴な表現と受取られるものがあったかもしれません。悪気があったわけではないのですが、いたずらに過ぎたかも。
 ハムスターさん、もしお気に触ったらすみませんでした。

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φ さん 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 8月 2日(月)18時45分56秒

> 方法や対象の過ちに陥りがちな私的報復(通俗的な語義での「報復」)について言うと、直観Aは正しく、現実的正解は3。

まず問題なのは

『悪につながる確率の高さ、占有率の高さ』という根拠で
『次のうちで報復が最も悪いと教えている。{体の鍛錬 気晴らし 金銭欲 報復 宣伝 実験 占い}』
と結論を出した直観が、論理で探った場合正しいのかどうか、ということである
と、絞っていいのではないかと思うのですが・・

必然的に悪を目的としている概念だ、という理由でなく、
結果として結びつく確率が他より高そう、という根拠で
一般に「報復が最も悪」といえるのかどうかという。
↑ これについてはφ さんはどうお考えでしょうか?

そこで結論として
結果として危険に結びつく確率の高さ→悪
とすることが妥当となった場合には、
他の要因との比較で どれくらいその危険が高いかの判断は「報復全体」と「私的報復」のどちらをイメージするかで変わってきますが
それは今回の問については本質的な問題では無いのではないかと思うのですが?

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倫理と事実は別 投稿者:φ  投稿日: 7月31日(土)21時56分0秒

 まあ、多数派の常識によって倫理が決まったらそんな楽なことはありませんよね。真・善・美などが「客観的事実」によって自動的に決まるという素朴な議論は脇に置いときましょう(多数決説が正しくありえないことは多くの哲学的蓄積や歴史的事例があることですし)。
 公的制裁がなぜ必要かというのが問題で、私的報復はただ禁じて済むものではなく、その代行が求められる(つまり、私的報復も質・量ともに適度であれば望ましい)ことを意味しているわけでしょう。
 泥棒や暴行や詐欺に遭った人がいて、「私は左頬主義なので犯人を追及したくない。結果として報復になるので訴えない」と言って証言を拒んだら、周りの人たちは「あなたはそれでいいかもしれないが、社会のことを考えて、ちゃんと証言してくれ。犯人を有罪にするのに協力してくれ」と言いたくなるでしょう。つまり、報復の実行のみならず委任をも拒む人は、倫理感のない人だと受け取られます。
 親告罪であるレイプなども、なるべくなら勇気を出して訴え出てくれと被害者に私たちが求めるのは、悪人が報いを受けるようになっていなければ社会が良くならないからでしょう。
 報復は通俗的語義では当事者間のものですが、仇討などになってくると共同体レベルの公的な性格を帯びてきます。国家レベルの報復関税も、世界貿易機関によって認められているようですし。刑法は、隣人の仇を社会全体で討つ、それで規範を守る、といった性格が強いでしょう。

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事実として多数 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月31日(土)10時36分55秒

善悪はより多数の道徳意識によって定まる、しかないのではないですか。
我々の道徳は、そういう定まり方をしていますよね。
例えば、
私はガングロというファッションが気に入っていましたが、世間から総スカンされて最近では見かけなくなりました。
ガングロは、より多数の人が嫌いだと思ったから、ガングロはあまり良くない、という定まり方をしたのではないでしょうか。

論理では、ほとんどの倫理が証明できないようですが、厳然として倫理が存在している事実があります。
「自然主義の誤謬」というのは、倫理学が未完成である証拠のようなものではないでしょうか。
倫理学には、倫理的な事実が証明できないとしても、せめて説明して欲しいと思います。

報復(≠お礼)というのは、当事者同士の私的制裁であって、公的制裁を報復とはいいませんよね?

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多数決なら報復は善 投稿者:φ  投稿日: 7月30日(金)15時55分53秒

 善悪が多数決で決まるというのは、規範を事実に還元してしまう典型的な「自然主義の誤謬」で、はっきり誤りですが、それは一応置いといて、善悪を多数決で決められると仮定した上で論ずると、「報復は善」ということになると思いますよ。
 なぜなら、ここでも何人かの人が再三述べているように、刑法という形で、報復が公に必要とされているからです。報復が悪であるかのような印象は、私人が報復を行なうと、勘違いや過剰な報復がなされがちだからです。「相手を間違えていない、しかるべき理由による、適度な報復」を確実にするために、専門の司法官に委ねて報復を代行してもらうことに、ほぼ全員が賛成しているではありませんか。
 刑法を廃止しろと言う人はいません。これは、報復そのものは善であり、理不尽な報復だけが悪なのだと大多数の人が認めていることにほかなりません。(食べることは望ましいが、過食は望ましくないのと同じ)
 もちろん、多数決では倫理は決まりませんから、これはあくまで多数決原理を仮定したうえでの話ですが。

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確率や多数決 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月30日(金)13時54分31秒

φさまの論法は理解できました。
「適正な報復(正しい語義での「報復」)」というのは返報のことですよね。
であれば、直感Aの例において、報復(=返報)が悪だというのは間違いですよね。

まあ、それは良いとして、
返報を報復とお礼に分割したときに、報復もお礼も倫理的に中立だというのは納得できません。
報復は悪で、お礼は善、だからです。
おっしゃるように、悪でない報復や、善でないお礼はあるでしょう。
だから、恣意的だというのも理解できます。
それでも、報復は悪で、お礼は善、だと思われるのです。

こういう善悪の判断というのは、確率や多数決なのではないでしょうか。
あらゆる報復の中で、悪なる報復は、善なる報復よりも多い。
そして、報復を悪だと思う人が多い。ゆえに報復は悪であるといって良い、ということなのだと思います。

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準正解3/原稿より抄  投稿者:φ  投稿日: 7月30日(金)03時18分24秒

 …… Aは、報復という動機を基準として、その結果なされた行為が何であるかをテーマにした直観である。Bは、なされた行為を基準として、その動機が何であるかをテーマにした直観である。Aは「あらゆる動機の中で、報復という動機は悪事を成す確率が高い」と言い、Bは「ある悪事の動機の中では、報復は悪質ではない」と言っている。Aはあらゆる動機を母集団として、その中で報復を悪い方に位置づけており、Bは実際に悪事を導いた動機だけを母集団として、その中で報復を良い方に位置づけている。準拠集団が異なるのだから、それぞれの中での報復への善悪評価も異なって当然だろう。(中略)
 パーフェクトな正解は、次のような二段構えとなるだろう。適正な報復(正しい語義での「報復」)については、直観Aは誤りであり、本当の正解は1。方法や対象の過ちに陥りがちな私的報復(通俗的な語義での「報復」)について言うと、直観Aは正しく、現実的正解は3。

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返報 投稿者:φ  投稿日: 7月30日(金)00時25分2秒

 単に、報復とお礼の区別がつきにくい(仕返しの意味で「たっぷりお礼をする」という言い回しがありますね)というだけのこと。理論的には、報復と返報(報復orお礼)とは区別されるでしょう。しかし実践的には、報復だけ禁じてお礼を許容する、というのは不可能です。「やってもらったことはやり返してあげる」という論理構造が報復もお礼も同型ですから、返報の中から報復だけ禁じるというのは恣意的な区分になるのです。「報復罪」がないのはそういう意味でしょう。「贈収賄」が罪となるぶん、法律はお礼の方をむしろ厳しく取り締まっているともいえます。
 結果として、報復かお礼かということとは別個の理由で悪事であるような返報は悪、そうでない返報は非悪ということで、これは法で禁じられていないいかなる行為とも共通です。報復が倫理的に中立とはそういう意味です。

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報復=返報? 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月29日(木)14時00分42秒

「報復」を返報の意味でも使われていたのですね。
どうも、すれ違うと思っていました。

準正解3の解答、楽しみです。

ですが、あの問題って、「報復」を返報の意味でも読まないといけないのですよね。
でも、そうすると意味が通らない。
どうやら、この辺にも問題が隠れていそうですね。

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メタ倫理的善 投稿者:φ  投稿日: 7月29日(木)02時45分25秒

「報いを受け、受けさせるという倫理は、善である」の「善」は、「協力して社会を築くというのは、善」といったようなことと同レベルの、メタ倫理的な意味での善。ヤクザや宗教団体の協力的構築が倫理的に善ではないように、個々の返報行為が倫理的に善かどうかは、別の話です。過剰な報復、八つ当たり的報復、逆恨み的報復、賄賂的なお礼は、どれも悪なる返報でしょうしね。
 前から、報復そのものは倫理的に中立だと申し上げているとおりです。良い報復もあれば、悪い報復もあるわけです。ただし基本的には返報一般は倫理の必須成分であると。  (善・悪の定義の諸説についてはhttp://russell-j.com/moral-p.htm 御参照)
 さてそろそろ、準正解3「報復は悪いという直観Aと報復は悪くないという直観Bは矛盾しない」の解答を提示させていただく潮時でしょうか。

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善悪以前 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月28日(水)11時13分45秒

「報いを受け、受けさせるという」のは倫理ではないのではないですか。
ですので、それ自体を善とも悪ともいえないと思います。
善悪は返報の内容に備わるのだと思います。

返報というのはサルの社会にもあるわけで、社会生活を営む高等生物に備わった性質といったものでしょう。

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善悪とは何か 投稿者:のん  投稿日: 7月28日(水)05時19分4秒

善悪の定義は現代ではどのようなものが有力なのでしょうか?教えてください。

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利他主義≠左頬主義 投稿者:φ  投稿日: 7月28日(水)03時45分48秒

 動物の利他的行動は、ほとんどの場合、血縁関係者に限られますね。遺伝子の繁殖に有利な行動ですから、自然選択の結果としては当然です。
 なお、利他主義と左頬主義は全然別です。左頬を差し出しても、全然他者の利益にはなりません。(むしろ社会に害を及ぼします)
 「利他主義のパラドクス」というのも『心理パラドクス』で立項予定。(問039)
 さて、「報いを受け、受けさせるという倫理は、善である」ということについては良いでしょうか?(報い=御礼+報復) 御礼と報復の境界線が曖昧であることはいうまでもありません。一方だけを禁止するためには、「善悪とは何か」の論点先取が入り込みがちであることに注意してください。

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サルの返報行動 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月26日(月)18時50分13秒

人間以外の返報行動というと、サルのグルーミング(毛繕い)を思い出します。
また、バナナを取ったサルを威嚇したり追い回すような行動もあるようですが、これは報復でしょうか。
それらはサルの倫理なのでしょうが、「サルの倫理」などという言葉は変です。
倫理とは人間に対して使われる言葉なのですから、この場合は、サルの性質とか本能と呼ぶべきでしょう。

そういう人間以前の生物の性質の中から、グルーミングは善で、バナナを取った相手に噛み付くようなことは(近代では)悪だという倫理を育んできたのだと思います。
バナナを取った相手には、威嚇(抗議)するとともにボス(国家)に訴えて制裁してもらえば、バナナ事件の当事者同士は遺恨を残しません。

アフリカのチンパンジーで、自分の食べ物を仲間に与えてしまうという珍しいチンパンジーの報告があります。
このチンパンジーは仲間から愛されているはずだと思われませんか。
私などはサルにも左頬主義者がいるのかとビックリしています。

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うーーん、でも 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月26日(月)12時09分27秒

「咄嗟」の方が「悪性は低い」とハム氏は見なしていたし、共感する人もいるでしょうね。
つまり、動物的な咄嗟の怒りや反撃は理性の統御を受ける前のことだから「悪性」の責任は低い
しかし、それを時間をかけて考えた上で、報復として実行する意思に「悪」がある、というのがたぶん「報復は悪」のイメージ そして宗教(左頬)はその動物的なものを是正する、と。
しかし、「報復」というものは、そのような動物的怒りの感情を長く持続して行動に表わすことではなく、
社会正義の維持のためには不当な悪を為した者をそのままにはしておけない、という新たな目的を持って誕生している欲求や行為なのだ
という部分を見なければまずいということか。
自分と同じような辛い思いをする被害者を二度と出したくない
という気持ちは、けして後付けではなく割にはっきり報復の意思に結びついていると思う

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それをヒントに、思ったこと 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月26日(月)11時56分30秒

動物の時から持っていたであろう、攻撃された時の怒りや咄嗟の反撃という感情や本能の方を強くイメージすれば「報復は悪」という感じも強くなり
社会の維持のために人が発明した返報の1つとしての「不当な悪を糾弾したり罰する」という方を強くイメージすると「報復自体が悪のはずはない」
となるのかも。

法は後者を見ているので、「報復は悪」と見なしている徴候は無く、報復欲求は社会正義を維持するために人にある感覚として、むしろ法が代行してその欲求を満たすことは、法が人々の信頼を得る効果を持つ、と見ていると思われます。

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「報復本能」は人類だけ? 投稿者:φ  投稿日: 7月26日(月)01時46分54秒

 もちろん、自然選択の結果である本能のほとんどは、善ではありません。ジョージ・ウィリアムズが力説していますが、類人猿の多くでは、オスが子育て中のメスに求愛するとき、他のオスの子どもを奪って殺し、メスの授乳を止めさせて排卵を起こし、メスと交尾するということをします。メスは子を奪われるときは抵抗しますが、奪われてしまってからは、子を殺したオスに喜んで身を任せるのです。これがオスにとってもメスにとっても適応的。しかしとてもじゃないが倫理的とはいえませんね。人間的倫理の中には、進化的歴史を持つ本能的な要素はほとんどありません。
 私はよく知りませんが、返報という行動も、人間以外の動物ではほとんど見られないのではないでしょうか。少なくとも、類人猿以外の哺乳類や爬虫類、魚類、昆虫、つまりほとんどの生物が報復はしませんね(むろん防御や反撃はしますが、時間が経ってからの報復というのは)。報復しても、個体の利益にならないばかりか、むしろ危険にわが身をさらすので、自然選択で報復遺伝子は生き残らなかったのでしょう。だから返報は、社会的高等動物に特有の新しい行動であり(遺伝的というより単なる社会的条件付けに過ぎないかも)、つまりは倫理によって発明された行動ということになるでしょう。
 御礼も仕返しもしない人ばかりで構成されている社会は不可能です。かたっぽだけでもダメです。御礼または報復のいずれかが禁じられたりしたら、価値観のコミュニケーションを拒まれた空虚な世界になってしまいます。左頬主義は、「自分ひとりくらいはいいだろう」というワガママな人の思想なのです。

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本能と倫理 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月25日(日)23時26分51秒

返報というのは高等な生物に備わった性質なのでしょうね。
しかし、それを倫理的要請とするのはどうでしょうか?
生物的な要請というなら理解できます。
そも、倫理とは、生物的な要請の中から善悪を規制したのが倫理なのではないですか。
生物的な要請でもその要請が反社会的になれば悪と規制されるのが倫理だと思います。
生物の本能的なもの自体は倫理的要請ではないはずです。

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現段階の正解 投稿者:φ  投稿日: 7月25日(日)04時08分41秒

 私の現段階での正解は、実は、ひとつに定まらないのです。
 〈本当の正解は1,準正解が3〉というふうにしてあります。この両者は矛盾しません。それぞれに解答を付けました。
 1を本当の正解とする理由はこの掲示板で書いてきたとおりですが、原稿の解答部のごく一部をここで披露してしまいましょう。(3の理由の方が面白いのですが、より刺激的なのはたぶん1の理由の方なので)
 ……………………………………………………………………………………………
 ……「返報」という概念で報復とひとくくりにされる「恩返し(返礼)」を考えてみよう。恩恵を受けていながらしかるべきときにお礼をしない人は、利害・快苦・善悪などの価値観が健全でない人と見なされるだろう。同様に、個人や集団が正常な価値観を備えていることの証しとして、しかるべき場合に報復や制裁によって応答しあうことは、(社会が価値とコミュニケーションにより支えられているかぎり)ほとんど倫理的要請なのである。……

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わかった! 投稿者:のん  投稿日: 7月23日(金)23時08分44秒

動機と行動の組み合わせによって善悪の判断をすることができる。
動機のみでは善悪の判断のしようがない。
報復が悪いと思うのは先入観。だから1番だ!

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3が正しいとした場合は、 投稿者:学ぶもの  投稿日: 7月23日(金)12時29分26秒

一般と個別の話として読み取って
要は、
一般的に男性は女性より背が高い
一方個別には男性より背が高い女性がいる
この2つが矛盾しないのと同じように、
一般的には行為の動機として
{体の鍛錬 気晴らし 金銭欲 報復 宣伝 実験 占い}
の中では、報復がもっとも悪いことと
具体例として暴行という行為の動機に関して
{体の鍛錬 気晴らし 金銭欲 報復 宣伝 実験 占い}
の中で報復が最も悪くないこととは
矛盾しないという話ですむような。
では、なぜ一般と個別(暴行)では評価がかわるのかっていう問いは
のこったままですが。

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ハム氏 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月23日(金)09時33分50秒

> 相対悪性度1:a<b
> 相対悪性度2:b<c
> 絶対悪性度:a<b<c

そうではなくて!!
a(報復) とbやc (実験や、鍛錬等)の間の記号が何故、逆向きになるのか、という問いです!!!
お願いだから相手の書いていることをちゃんと読んで!!

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のんさん>1と3は矛盾してないのでは? 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月23日(金)09時29分47秒

最初自分もそう思いました。
ただ、よく見ると、Aのその理由での直観が正しいのかどうかという問だと思われ、
報復が危険な行為に結びつく確率が1番高そうだ、という理由で「最も悪い」と判断するのが正しいかどうか、という・・。それで1に変えました。

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というか 投稿者:のん  投稿日: 7月23日(金)02時07分14秒

1と3は矛盾してないのでは?
2は明らかに間違いは感じがします。
全てもっともらしい123にしてほしいです。

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理由=目的 投稿者:のん  投稿日: 7月23日(金)01時59分4秒

動機としてのAは行動が無限にあります。その中で報復が悪そうだと連想します。
Bは行動が決められているために、動機の中で一番妥当そうなのを選びます。それが報復です。
だから3番です!

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で 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月23日(金)00時15分58秒

今の自分の考えでは 正しいのは1です。今日は時間がないので理由はまた今度。

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ちょっとがまんできない 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月23日(金)00時13分46秒

( °ー°)\( ̄ -  ̄ )   なに言ってるねん !

まだ気がすまない

カメハメハー!!(ノ・_・)「 ‥‥…━━━━━☆

失礼(笑)

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順位ですか? 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月22日(木)21時43分48秒

地方の中学で一番だった学生が、東京の中学へ転校したら最下位だった、というのはあって不思議ではありません。
地方で番長だった学生が、東京へ転校してきたらイジメられっ子になったとか、
見目麗しいドングリでも、栗の集団に入ればただのドングリです。

相対評価を絶対評価に直してみれば一目瞭然です。
相対悪性度1:a<b
相対悪性度2:b<c
絶対悪性度:a<b<c

これを言葉で表現するときに、bはcより善性で、bはaより悪性だ、と表現したら混乱します。
正しく、cはbより悪性で、bはaより悪性だ、といわなければなりません。

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順位が問題 投稿者:φ  投稿日: 7月22日(木)13時34分43秒

 目的と理由は同じなのではないですか? 炎に触れて手を引っ込めた、というような非意図的動作ではなく、意図的行為の場合は。
 ここでは「動機」が問題となっているので、目的と理由が一致する場合のみに絞るべきでしょう。
 つまり問題は、理由=目的としての悪性度が、Aでは最大と思われる報復が、Bではなぜ最小になってしまうのか、ということです。ドンクリどうしの比較であれ何であれ、相対的な順位づけそのものは絶対でしょう。ではどうしてそうした「悪性度の順位の逆転」が生ずるのか、を説明してほしいというのがこの問題の趣旨です。謎はAとBの対照にこそ灯っているので、単に、「Bの報復だって悪いことに変わりない」と言って片づけることはできませんね。

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ドングリ議論 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月22日(木)10時13分18秒

面白い問題だと思います。
この問題は私が密かに「ドングリ議論」と名付けている問題です。

「直観Bと法律」で挙げられている例はすべて悪です。
その悪の中で悪性度が低いというのは「善性を有している」ということではなく、あくまでも悪性が低い、ということです。
悪性が低い=善性を有している ではありません。
矛盾に見えるのは、言葉を正しく使わないことからくる混乱です。
つまり、
3.「報復は悪い」という直観Aと、「報復は悪くない」という直観Bは、矛盾しない。 が答えです。

ドングリの中につやの良い美しいドングリがあったとしても、ドングリは栗にはなりません。
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3番 投稿者:のん  投稿日: 7月22日(木)03時56分30秒

3番です!
Aグループは目的で、Bグループは理由だから、AとBは別のものです。
目的としては報復が一番悪そう。理由としては報復が一番妥当そう。
だから矛盾しません。

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報復のパラドクス/原稿(抄) 投稿者:φ  投稿日: 7月22日(木)02時19分11秒

 私たちの直観Aは、次のうちで報復が最も悪いと教えている。{体の鍛錬 気晴らし 金銭欲 報復 宣伝 実験 占い}
 しかし一方、私たちの直観Bと法律は、次のうちで報復が最も悪くないと教えている。{体の鍛錬のための暴行 気晴らしの暴行 金目当ての暴行 報復としての暴行 力の誇示のための暴行 心理学実験としての暴行 占いとしての暴行}
 Aグループでは悪性度が「高」にランクされていた報復が、Bグループでは悪性度「最低」にランクされている。Bグループでは、報復を動機とする場合に悪の度が最低となったその低減作用の分だけ、報復は「善性を有している」とすら言えそうなのだ。
 こうして、★報復は、悪であるとともに善である。この矛盾をどうすべきか。次の中から正しいものを選んで、具体的に説明してください★

 1.「報復」は動機として悪い、という直観Aが誤りである。報復は悪くない。
 2.○○の動機が「報復」と判明すると悪の度合が低く評価される、という直観Bが誤りである。報復は悪いのだから。
 3.「報復は悪い」という直観Aと、「報復は悪くない」という直観Bは、矛盾しない。

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ハムスターさんへ 投稿者:のん  投稿日: 7月20日(火)23時38分42秒

公正な公的制裁は不可能ということですね。最終的には私的制裁で決着つけるということですね。
不可能なものを可能と信じ込み、それを信じて実行する人はアホですね。左頬主義はアホですね。
アホだけで集まって報復のない隔離世界を作りましょう。それが「楽園」です。ノアの箱舟に乗るのはアホと動物だけです。

>法を信じるか、終末を信じるかは、たいした差がないように思います。
終末は公正ですけど、法は公正じゃないですよ。

報復は相手に「分からせてやる」ためにやると思います。報復の善悪は、誰のために何のために分からせるのかによって決まると思います。だから報復の善悪には刑法は関係ないと思います。
宗教の大部分は論理的で哲学的で合理的ですばらしいお話だけど、ほんの少しだけとんでもない詭弁を含んでいます。「目ざめよ!」という冊子を宗教の人が配ってますが、おまえが目を覚ませ!といつも思います。

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kotobazukuri さんへ 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月20日(火)09時26分5秒

イエスの時代の左頬主義は、現代の法のかわりに、神による終末の裁きを信じたうえでの左頬主義だと思います。
左頬主義によって殴り殺されたとしても、終末に神によって裁かれる、という確信でしょう。

現代の左頬主義は法によって裁かれるはずだという確信があります。
法を信じるか、終末を信じるかは、たいした差がないように思います。

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のん さんへ 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月20日(火)09時10分43秒

>自分の子供を叱る時も私的制裁ではなく国際社会の公的な制裁を加えるべきですか?

私的制裁、公的制裁の別は、当事者よりメタの位置にいるものの制裁が公的制裁という意味です。

子供にとって親はメタな存在です。

よりメタ→
個人(子供→親)→社会(国家)→国際社会→宇宙社会?→多宇宙社会?→神

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左頬主義 無抵抗主義 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月20日(火)02時43分4秒

法が整備され、それに守られているから 左頬主義が使える というのはなにかとてもやすっぽい気が・・
左頬出せ や 無抵抗主義というのは、そんな温室の中での、お気楽な人任せの正義の達成を言っていたのでしょうか?
権力に守られておらず、下手したらそのまま殴り殺される可能性のある中での左頬だから、凄みがあるのでは・・
この点は気になっているので、そのうち勉強してみます。

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報復について思うこと 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月20日(火)02時33分52秒

思うままに書きます  誤謬はあるかもしれません

不合理に苦を与えられた時に,相手に苦を与え返そうとする
そのような穏やかならぬ感情で動く時 人は、的確な罰としての範囲を超えてしまう可能性、過剰に不当に相手に苦を与えようとする可能性がある
また、もともと非合理に他者に苦を与えたような者が、それへの報復なのだから甘んじて受けよう、とすると限らない。
そこで、報復の連鎖となり、より過剰な報復合戦となってゆく、ということはありがちと考えられる
それを絶つために、法律による解決があるでしょう
法律で解決すべき範囲に到ったものを、私的に裁き、私的に相手に苦を与えることは許されない 法律はそして、私刑リンチの禁止は、人類の舐めた苦を糧に築かれた知だと思われ。

私刑、リンチという「悪」は私の最も憎むもの
また、神ならぬ人の判断の誤謬は冤罪を生む、冤罪もまた同じく私が強く怒りを感じるものの1つ
(それは個人的には「決め付け、思い込み」の強い人に反発を感じるという方向にも現れています。)

私は一応死刑廃止論を取りますが、人間の判断が誤謬から逃れられないものと謙虚に認めるならば、取り返しのつけようのない「死刑」という刑罰はあってはならない、と思うもの。
それは、私刑リンチの禁止も同様。過剰な制裁、不当な制裁があってはならないが故に。

なお遺族の報復感情 という問題は、今回の話題に関係していますが

私は「報復感情」の充足のために生きる人生は不毛であると思うし、
亡くなった人も、家族に報復感情で生きてくれと望んでなどいない、と思える。
法の報復といっても、犯人が見つからない場合、また犯人が責任無能力と認められ無罪となる場合等、法が必ず遺族の報復感情を満足させられる保証は無い
報復感情の充足によって満たされる人生は貧しいと思う
報復しないでも自分を満たす術を身に付けた時こそ、被害を受けたことがただマイナスに終わらない時で、報復で納得しようとしている限り問題は続くのではないか・・。と以前から考えていました。

だから、ハムさんの言っていることは分かる
けれども、逆に 全ての報復は悪と決め付けられるのか、充分な根拠と説得力があるのか

報復、報復感情 はなんのために人にあるのか
それがなくても、或いは無いほうが、人類は良き方向に向かうと 速断していいのか
では何故、そんな感情が人に存在しているのか
法の干渉範囲外であるならば全ては、私的に罰する必要のない些事であるのか、私的罰なしでしつけ、教育は成り立つのか
罰を伴なう躾なしで子供は人になれるのか というのは今の社会でどんどん大きくなってくる問題と思われ。

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なお (笑) 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月20日(火)02時20分31秒

> 誤った推論 
   ↓
> 誤った日本語

  報復ではないかなー、と思えますけれど・・
  報復で無いならば、このような表現にはならなかったのではないかと・・・

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・・・・ 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月20日(火)02時18分3秒

苦を与えられた時、相手に苦を与え返そうとするのが報復である
とたぶん言えるのでしょう。 とすれば、
【他者に苦を与えることが全て法的に悪なのならば】、報復は法的に悪と言える
そこで、「他者に苦を与えることは全て法的に悪」は言えるのか
例えば、刑罰は他者に苦を与えることを目的としている
歯の治療は他者に苦を与えることがしばしばある
これらは違法なのか

実はこれらは違法行為の構成要件を満たしている
が、正当行為として特別に違法性を阻却される
しかし、動機が報復であることは違法性を阻却されるような理由にはならない
ならば、
【違法性阻却の理由にならず、かつ、他者に苦を与えることを旨としている行為なのならば】法的に悪 なのか  
 これがイエスならば、報復は法的に悪といえる

前述の歯の治療は傷害 刑罰は監禁とか そういうものに触れるのでしょう
触れた後で、違法性阻却
報復は・・

そこで問題は 法が禁じている とはなになのか
明文規定、罪状が無くても、「他者に苦を与えること」を
法はあくと見なし、法の精神は禁じているのか

法の精神とはなにか
明文に規定の無い法の精神の所在は

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欲望は関係ないでしょう 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月20日(火)01時57分50秒
> 欲望は他者に対して暴行や傷害などの悪い干渉をする動機になりやすいということです。

違法行為にいたる動機として様々なものがあり、その動機自体が悪とは限らない、という指摘に対して 今回は、「欲望」というものを間に設定することで、自説を合理化する手段を発見されたのですね。

けれど 実は全然反論になっていないと思います。

違法行為の動機になるから 報復は法的に悪だ
   ↓
実験も、良い暮らしをしたい、も、愛も、自尊心も 場合によって違法行為の動機になり得る  しかし、それらの欲求自体が法的に悪のわけが無い

  ということで、「違法行為の動機となるから報復は悪」
  が反証されているわけです、

 そこに

 実験も、良い暮らししたいも、愛も、自尊心も
 欲求までならいいのだが、「強い欲望」となると、悪に走りやすく、故にその欲望というもの自体が悪なのだ 
  と反論しても 
 だから、強い欲望でない「実験も、良い暮らししたいも、愛も、自尊心も」 それ自体悪ではない つまり、強い欲望でない「報復」は それ自体法的に悪である という論拠に全然ならない。
 
行為が法的に悪 から動機が法的に悪 は言えない 
ということは 間に欲望を置いて、それが悪だと仮にしても、欲望以前のものは悪 と言えない
 同じことの繰り返しです。

> で、報復ですが、報復という動機が他者に対して良い干渉をすることはありえません。
> だから、悪でしょう?

 ということですね。つまり、強い欲望もなにもその文脈には関係ない
 はじめから
「実験、良い暮らし、自尊心、愛」とは違って「報復」はともかく悪の動機にしかならないでしょう と書けばいい話でしょう。

 そこでやっと
「報復」は悪しか導かないのか という議論が始まるのでしょう
「報復は法的に禁じられている」というハムさんの最初の主張の根拠にするとしたら、
 報復は違法行為、もしくはそれと同列に悪と見なせる行為しか導かない
つまり、報復意思は 傷害、窃盗、誘拐、等の意思と同様にそれ自体が法的悪に直接関係している意思である、と

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疲れ 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月20日(火)01時18分35秒

> 傷害にいたる動機には、欲望、報復、決闘、などが考えられますが、どれも悪でしょう?
> それとも、傷害にいたらなければ、善だと思いますか?

実験も、正義の達成も、家族を守るためも、格闘技の追及も、違法行為に到る動機には色々あると何度も指摘されながら、あいかわらず、一般的に危険と思われやすいものだけをあげ、そこに「報復」を織り交ぜる。

〇〇行為に到った動機が▲▲ 
ところで〇〇行為は法的に悪 
故に▲▲は法的に悪
は【成り立たない】と何度書けばいいのでしょうか
▲▲には単独では善とされるものを幾らでも入れられる、と。

また・・悪と善しかないのですか? 世の中には。。。

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ハムスターさんへ 投稿者:のん  投稿日: 7月19日(月)22時59分51秒

>イエスの左頬主義は、私的制裁の禁止という面が成就してきているようです。
自分の子供を叱る時も私的制裁ではなく国際社会の公的な制裁を加えるべきですか?

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Q太郎さんへ 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月19日(月)13時58分49秒

>このように、キリスト教のみが犯人をのさばらせる教えを説いています。

報復というのは、イスラエルとアラブのような報復の無限循環に陥ります。
このことに人類で初めて解決法を見出した人がイエスだと思います。
いわゆる左頬主義です。

現代では、社会が公的な制裁をすることで、個人の私的な制裁を禁じ、報復の無限循環を防ぎます。
今後は、国際社会が公的な制裁をすることで、国家の私的な報復(アメリカのような)を禁じ、報復の無限循環を防いでいくのが正しい方向だと思います。

イエスの左頬主義は、私的制裁の禁止という面が成就してきているようです。
イエスの左頬主義がなければ、人類は未だに中世以前だったと思います。

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欲求≠悪、欲望=悪 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月19日(月)12時30分52秒

意味の通る表現は、例えばこうです。
傷害にいたる動機には、金銭に対する欲望、が考えられる。

金儲け、娯楽、性欲、自尊心などが悪だと思う人は少ないでしょう。
まあ、善だと思う人も少なそうですが、人間の性質だということでしょう。
これらが、
金銭に対する欲望、快楽に対する欲望、性に対する欲望、などになったときは悪だと思う人が多くなるはずです。
人間の欲求というものは強くなればなるほど悪になるということだと思います。
レイプ事件などは普通の性欲以下では起りませんよね。

欲望は他者に対して暴行や傷害などの悪い干渉をする動機になりやすいということです。
だから、悪だと思う人が多いわけです。
こういうのは人類が経験から学習したことだと思っています。

で、報復ですが、報復という動機が他者に対して良い干渉をすることはありえません。
だから、悪でしょう?

イジメ事件の情状酌量というのは、キレルまで追い込まれた精神的苦痛に対するものだと思います。
イジメられたのでイジメ返すという普通の子供の報復によるケンカの場合は、両成敗にしているのを見れば分ります。

ところで、『心理パラドクス』の出版予定はいつなのですか?
噛み付き甲斐がありそうで楽しみです。
ただ、おそらく論理的な考え方から書かれている本なのではないですか?
今回の報復論争で感じるのですが、論理絶対は倫理にとってはちょっと問題があるように思います。
人類の経験によって成立していることを論理によって否定するのは、まだ時期尚早だと思います。

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『心理パラドクス』に期待 投稿者:Q太郎  投稿日: 7月19日(月)02時33分13秒

ども、お久しぶりです。
ここでの対話が次の著書で取り上げるトピックに反映されることがあるんですね・・・
私も興味ある分野の話を振っておけばよかった。
 さて報復の話をします。
 有名な3つの一神教において、損害を受けたときの対処の仕方は次のように説かれています。
ユダヤ教 :同害復讐
キリスト教:左頬主義
イスラム教:同害復讐
 このように、キリスト教のみが犯人をのさばらせる教えを説いています。
 
 モーゼとマホメットは教団の存続を背負って法を定めたのに対し、キリストはパックスロマーナを不服に思う人に精神的な癒しを与えるのが目的であったからである。と私は考えておりますが、皆様はいかにお考えでしょうか。

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? 投稿者:φ  投稿日: 7月19日(月)01時06分1秒

 意味が通じないという意味がわかりませんが……、
 金目当ての強盗や殺人、快楽殺人や弱い者イジメの暴行、度胸試しとしての決闘などが思い浮かびませんか? ちょっとカタクナになられているのでは?
 性欲が動機のレイプや金銭が動機の強盗は数限りないからといって、性欲や金銭欲は悪だ、とは決め付けられないでしょう。ましてや報復は――……、通り魔的に娯楽のために刺したとか、強盗目的で刺したと思われていた傷害事件が、実は「長い間イジメにあっていた報復が動機だった」と判明すれば、刑は軽くなるでしょう。このように報復は、動機として悪質だとは考えられておらず(逆恨みなどと違って、相手を間違えていない報復の場合は)、むしろ情状酌量の対象となる。報復が常に悪だというなら、そろそろこの謎に答えていただきたいものだと。
 ▲さて、「報復のパラドクス」は、問題も解答も原稿完成しました(『心理パラドクス』問009となる予定)。解答は、ここで私が書いてきたこととはやや異なります(ここではレスの形で書いているのですから当然ですが)。解答は皆さんに(両陣営に)納得していただけるものだと思いますよ。問題文の一部をまもなくご紹介しますが、その前に、ここでの議論が原始段階を脱して(特に報復否定論が防御のため防御を解いて)正解に迫っていただかないことには……。

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誤った日本語 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月18日(日)11時34分2秒

1.「傷害にいたる動機には、金儲け」が考えられる?
2.「傷害にいたる動機には、娯楽」が考えられる?
3.「傷害にいたる動機には、性欲」が考えられる。
4.「傷害にいたる動機には、自尊心」が考えられる?

3以外は意味が通じません。

3の性欲においても、それが傷害になるには欲望が必要でしょう?

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誤った推論 投稿者:φ  投稿日: 7月17日(土)14時04分18秒

「結果として反社会的な行為にいたる動機は、法の精神としては原則禁止だと考えられませんか?
例えば、
傷害にいたる動機には、金儲け、娯楽、性欲、自尊心、などが考えられますが、どれも悪でしょう?
それとも、傷害にいたらなければ、善だと思いますか?」

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kotobazukuriさんへ 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月17日(土)11時34分43秒

じゃ、こういう説明ならいかがでしょう。

傷害や殺人にいたる動機の中には報復感情が含まれますよね。
暴行や決闘もしかり、です。
結果として反社会的な行為にいたる動機は、法の精神としては原則禁止だと考えられませんか?

例えば、
傷害にいたる動機には、欲望、報復、決闘、などが考えられますが、どれも悪でしょう?
それとも、傷害にいたらなければ、善だと思いますか?

訂正 左頬主義の報復要素ですが、より正確には、左頬主義の抵抗要素です。

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>左頬主義 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月17日(土)03時33分46秒

> さらに、左頬主義ですが、これは反報復主義とはちょっと違うのです。
> 非暴力による報復といった要素があるのです。

> ・・しかし、この話題は続けても建設的な結論はないかもしれませんね。
> 人の数だけ経験はある、などという平凡な結論に落ち着くのかもしれません。

たぶんここに参加している人ならば殆どがそこに気づいていることでしょう。
そして、
ハムさんは その、ご自分の述べていることの中に矛盾が生じて来かねない話を、そこで止めてしまうのはまずいでしょう。
> すべての報復は悪、として何の問題もないのではないでしょうか。
であるならば
左頬主義は悪 なわけですね
全ての報復が本当に悪なのか? と問う人は、そのようなことを視界において問うているはずです。

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整理しとく 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月17日(土)03時00分50秒

法律が罰するのは報復目的の行為が殺人なら殺人という違法行為に該当した時にその行為を該当の罪状で罰するのであって、報復そのものではない
ということをハムさんは今回やっと踏まえて反論してきたわけだ、

法が問題とできる範囲に達してなければ、罰することができないのは
傷害だって同じで、傷害目的でも相手に傷害を追わせるに到らなければ法は扱えない
しかし、だからといって「傷害目的行為」を法が禁じたいことは否定できない
報復も同じで、違法性に該当する行為でなければ罰せられないからといっても、法の精神が報復を禁じていることには違いは無い
とね。

それが違うと、私は言っている。
「傷害罪」として傷害行為を禁じる。「決闘罪」として決闘行為を禁じる
その規定があるからこそ、それの未遂も充分危険と見なせれば罰する余地がある
そして、実際に法が罰するまでに至らない行為でも、ハムさんは「傷害目的の行為」ならばそれは法が否定していると考えるべきもの
というわけ。
ここは、本当は難しい問題なんだけれど、そこまで言ってもしょうがないから、いったんハムさんに同意しておきましょう。法が規制できる範囲に到ってなくたって傷害目的の行為は法の精神としては禁止だ、と。

しかし、それは報復についても同様とはけっしていかない。
傷害罪なら傷害罪というものが規定され、その構成要件を掴めるからこそ、
その類型に入る危険行為を「法は否定したいはず」と言える
しかし、
報復罪は無い。別な名前でもいいが、ともかく報復という概念に当てはまるものを構成要件とする罪など法律上存在しない。
完遂されてさえそれを罰する罪状はなく、判例も一切存在しない報復なるものを
どうして傷害等明確に違法行為として規定されているものと同様に扱えるか。
という話。

「報復」というものを構成要件とする罪は法律上一切存在しません。
それを「傷害」と同列に論じるのは間違いです。

報復行為が、該当する危険行為の罪状によってだけ罰せられるという事情は
「傷害目的行為」も法が規制できる範囲内に到っていなければ現実には規制できない
という事情とは、根本的に違います。
報復 を罰するというシステム自体が法に無い
それは、あるべき必要が無いから、存在しないと考えるのが自然
規制すべきは「殺人」「傷害」「放火」であって、動機としてそれらに関与する報復ではないからだ。
軽微だから規制するに至らない
というのとは全く違います。

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なお 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月17日(土)01時45分3秒

> 問題にならなければ傷害目的行為が許されると考えるのは法の精神に反するでしょう?
> 報復も同じはずだという論法です。
> 誤解なきようお願いします。

まったく誤解していませんけれどね。そのとおりの意味に読んで、それは間違いと、きちんと反論しているのですが、かんじんな部分には一切反応が無い。

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ハムさん 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月17日(土)01時39分15秒

書き方が不親切だったかもしれませんが、未遂を罰することは可能、という意味です。傷害の未遂は、暴行罪で罰することが理論上も実際にも可能です。
法が「罪である」と規定しているものは未遂であろうとも社会法益への危険が問題とできる範囲に達していれば、罰することができるようにきちんとなっている、という指摘です。(法の抜け穴は別として)
しかし、
【問題にならない報復は、罰する方法が一切ありません。】

だから、

> 傷害目的行為と報復が同じだという議論が成立するのです。

両者は全く違う。一緒にしてはならないという事実が成立しているのです。

で、私が書いた「傷害罪」はある。「報復罪は無い」の方には何故返事が無いのですか?
「傷害罪」があるから、法がそれを危険行為として禁じていると人は知ることができる。
「報復罪」は無い。」むしろ判例は逆の同情を示している。それを自分勝手な倫理感と間違った論理運用によって「法が禁じている」などと勝手な決め付けをすることこそ、法の根本精神に反するでしょう。

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いじめには抗議すべし 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月16日(金)22時51分16秒

「学校でいじめられ続けたので相手を刺した」というのは確かに情状酌量の余地があると思います。
しかし、仔細に検討すると報復とは違うのです。
この場合、報復というのはいじめられたのでいじめ返すことですが、
いじめられたので相手を刺すという行為は、普通でない病的な行為です。
いわゆるキレルという行為です。
窮鼠猫を噛む、といった場合、ハムスターはネコに報復したわけではありませんよね。
ですので、この場合の情状酌量は報復ゆえではなく、キレルまで追い込まれたことに対する情状酌量だと思います。

で、いじめられたのでいじめ返す、という行為ですが、これは悪い行為ですよね。
正しい行為は、いじめられたので抗議する、というのが正しい行為だと思われませんか?
やはり、すべての報復は悪、として何の問題もないのではないでしょうか。

さらに、左頬主義ですが、これは反報復主義とはちょっと違うのです。
非暴力による報復といった要素があるのです。

・・しかし、この話題は続けても建設的な結論はないかもしれませんね。
人の数だけ経験はある、などという平凡な結論に落ち着くのかもしれません。

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不当な判決 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月16日(金)00時19分50秒

この判決は不当だと思います。
ですが、控訴審では死刑になったようです。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1901/punish4.html

一審の判決でよくあるのが、実験的な判決です。
本来の判断より少し刺激的な判断をわざとします。
控訴審で本来の判決をすれば良いという考え方でしょうか。
ですから、一審の判決はあまり参考になりません。

今日はちょっと疲れたので反論は明日書くことにします。

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相手の落ち度←報復 投稿者:φ  投稿日: 7月15日(木)21時14分9秒

決闘の例が出されたから挙げたまでで、一般に、この決闘例でも判決が述べている「相手に落ち度がある」場合は、減刑理由になるということです。報復の場合がまさにそれ。「学校でいじめられ続けたので相手を刺した」といった場合は情状酌量されるのが普通です。
 むろん、http://www.tk3.speed.co.jp/wolves/baiji-koutou.htmlのような理不尽な報復もあって、そんなのは認めてはいけないのですが、それですら、動機が金目当て等ではなく報復だったことをもって、検察側の死刑求刑が認められず無期懲役の判決が下されています。
 これほどに、「動機が報復ゆえの減刑」は常識的になっているということです。私も、上のような逆恨み殺人で減刑はまずいと思うわけで、世の中が報復感情を認めすぎているとは思いますが、「すべての報復は悪」という左頬主義はもっとひどい誤りでしょう。いざというとき、報復に情状酌量の余地がなければ、巧妙に仕掛けられて立証困難な警察も取り上げてくれそうにないイジメや、不法行為スレスレの嫌がらせへの報復もできなくなってしまいます。

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死傷の合意による減刑 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月15日(木)19時03分42秒

私は決闘の主な原因は報復だと主張しております。
そして、報復は悪だという倫理を皆さんにも持っていただきたいのです。

ご指摘の決闘による減刑は、ケンカの合意による決闘ですから、報復による減刑を意味しません。
お互いに死傷することを合意していたのだから、通常の殺人よりも減刑されたのだと思われます。
この判断は常識的だと感じられます。

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減刑 投稿者:φ  投稿日: 7月15日(木)14時53分11秒

 私がはっきり減刑と言っているのに、どうして51条のような関係ない条文を持ってきますかね?
 ネット上でも拾えると思いますが、殺人事件への決闘罪適用による代表的な減刑例としては、「三重県上野市の河川敷で1997年4月5日、知人の男性を殺して燃やしたとして、殺人、死体損壊、同遺棄の罪に問われた被告(52)に対する控訴審判決」です。名古屋高裁は1999年5月13日、「一方的に殺害したとまで認定することはできず、被害者にも落ち度はあり、一審判決では事実認定にも法令適用にも誤りがあった」と指摘し、刑法の特別法である「決闘罪ニ関スル件」(決闘法)適用した上で、懲役12年を言い渡した一審判決を破棄し、改めて懲役10年の判決を言い渡しています。
 決闘罪は、殺人に至ったときは殺人罪で裁かれるのですが、このように、決闘であることが認められると(報復的でない、ただの抗争のような決闘でも良いのかどうかは私は知りません)、減刑されうるのです(ただし広辞苑の1の意味ですが)。逆に刑が重くなることはありません。報復が悪だというならば、このことをハムスターさんには説明して欲しいと言っているのです。
 殺人にさらに決闘という罪状をも加重しないということとは全然別の話です。紛れもない殺人であるにもかかわらず、決闘であるがゆえ刑が軽減されている場合なのです。
 「減刑」という語を歪曲せず、正しい応答をしていただきませんと、議論になりませんよね。

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kotobazukuri さんへ 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月15日(木)11時05分39秒

傷害には未遂罪というのはありません。
だから、
傷害目的行為と報復が同じだという議論が成立するのです。
つまり、傷害目的行為でも報復でも、それが問題となったときに罰せられるということです。
問題にならなければ傷害目的行為が許されると考えるのは法の精神に反するでしょう?
報復も同じはずだという論法です。
誤解なきようお願いします。

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重刑を執行する 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月15日(木)09時45分56秒

決闘が認められると減刑される場合があるのか?
ちょっと調べてみました。
【刑法第51条】(法律、併合罪に係る2個以上の刑の執行)に「死刑を執行すべきときは、没収を除き、他の刑を執行せず」
とあり、殺人で死刑となった場合などは、決闘罪による刑は執行されないようです。

ただし、これは減刑とは意味が違います。
死刑などの重刑の場合は、他の刑を合併しないということです。

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割り込み^^>決闘の主な原因は報復 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月15日(木)01時52分30秒

> これは問題となる報復行為の禁止で、問題にならない報復行為は規制のしようがないわけです。

 やっと1つだけ同意していただけました。「法は報復行為を禁じている」は間違い。

> 傷害目的であっても相手が傷害を受けていなければ規制のしようがありません。
 
相手が傷害を受けなかったのは、傷害目的の行為が完遂していないから。それでも未遂罪とかあるでしょう。
 完遂しても違法とならないものがある「報復行為」とは全然違います。

> 傷害目的行為は許されているとお考えですか?
> 法の精神を遵守することは大事なことだと思いますし
 
 「傷害罪」という規定から「法の精神」「法が何を禁じているか」を推し量れるのです。(←すごく重要) だから、未遂でも単なる企み段階でも、危険行為と見なしていいでしょう。しかし、
法に「報復罪」なるものはなく、むしろ報復動機の方が情状酌量されているという厳然たる事実を無視して「法は報復を禁じている」と虚偽の推し量りをすることを、止めてください、と私はずっと言っているのです。
 
倫理的に「報復は悪」とハムさんが考え、議論されるのは自由ですし、それについては私は見守らせていただきます。
しかし、法について間違った推し量りは止めてください。それを根拠にしないでください。

> 刑法では傷害や殺人の他に決闘自体を罰しています。
> このことは決闘の反社会性を意味しています。

同意します。双方が合意していたって、殺す前提で戦うなんて反社会的です。 決闘法が作られたきっかけは「合意の果し合いや、敵討ち」というそれまで許容されていると思っている人が多かったものを、許容されないんだよ、と知らしめる目的だったかと思いますが、「決闘」自体反社会的行為だと思いますから、それを禁じるというのも不自然ではないと思います。

> 決闘の主な原因が報復であることは否定できないはずです。

そうは思いません(名を上げる為の武芸者の果し合いとかバンバンあったでしょう?)が・・仮にそうだとしても、
【報復が主な原因であるところの決闘が禁じられている→報復が禁じられている】
全然成り立ちません。

発展途上国の子供が窃盗を働くとしたら主な理由は食べる為、生活を良くする為かもしれませんが、窃盗が反社会的だからと言って
「食べていくこと、生活を良くすること」が反社会的なはずはない!!

この手の論法は打ち止めにしましょう。
飛び魚は飛ぶ。その理由が「魚だから」なわけないですって。

この手の論法で法を論じることは止めてください。

長くなってすみません。これでもそうとう短縮の努力をした結果です (>_< )

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(無題) 投稿者:のん  投稿日: 7月14日(水)22時22分13秒

報復が減刑の対象になるのは、報復の原因が一般に理解されるからではないでしょうか。逆恨みと報復をどのように区別すればいいのでしょうか?

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ハムスターさん 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月14日(水)21時55分38秒

> 決闘の禁止は報復の禁止ではないですか?

ないです。決闘の禁止は決闘の禁止です。
同意傷害、同意殺人としての違法性阻却をしないということを示すのが重要な意義かなーと思います。
「敵討ち等の目的や、双方同意の上での行為ならば違法性を問われない、」という特例や慣習を剥奪した、ということでしょう。
「決闘罪」まで書いておられるのに何故、「報復罪」が存在しない
ということを問題にしないのですか? 「報復」を禁じた条文が存在しないことを。

既に書きましたが、「決闘」という言葉は辞書的に、殺人や傷害を引き起こすことを前提としている
そのような行為を法が放置すれば社会は混乱するから規定がある。
そこで『報復』という言葉の定義として、「決闘」や「誘拐、監禁」のようにそれだけで「違法行為」に結びつく内容がありますか という質問。

そして仮に報復自体にそのような危険な意味合いがあるのならば何故国は『報復罪』を設けず放置しているのでしょうか。

> 決闘の主な原因は、恨み等の報復感情でしょう。

とは自分は思いませんが、仮にそうであっても同じ
原因が報復であるというそのことの故に、報復目的以外の決闘よりも重く罰せられる、という事実がありません。

なお
【重要】 決闘罪は相互とも罰せられるようですが、「報復」を罰しているならば何故「報復」を受けて立つ側まで等しく罰せられるのでしょうか?
これは『報復』を罰しているのではなく、「殺人傷害を辞さない闘い」を行うことを罰している証拠でしょう。

> 幕末にはずいぶんと暗殺がありましたが、この暗殺で殺人の罪に問われた人がいましたっけ?

バンバン問われてますよ。 問われまくってますし、実際に捕まって死刑にもされてますし。
それ以前の時代の銭型平次や大岡さんだって、殺人者を捕らえ裁いてる。
不治の病で自殺しようとする弟の自殺幇助を殺人として裁いた話が鴎外の「高瀬舟」 当時も殺人には非常に厳しく対処していたということでしょう。

その中で「敵討ち」は特例として許されるイメージがあったからこそ、今後は許容しないという意味で「決闘罪」を設ける所以になったとすれば、「敵討ち」でない殺人について一々「実験殺人」とか「お笑い殺人」とか「パンチ力誇示殺人」「恋のもつれ殺人」いう罪状が作られなかったのは敵討ちと違って、それらが許されないのは言うまでもないことだから。

【重要】 つまり「敵討ち」が、とりわけ重い罪だから罰せられる なんてことは全く逆で
「敵討ち」ならば他の殺人よりも人情として許可されるという風潮があったからこそ
「そんなことないよ。敵討ちでも他の動機と同じく殺人は殺人なんだよ」
と示した。

尊属殺人とは逆ですね。
ハムさんはー、「報復」による殺人や「決闘罪」を尊属殺人のように、さらに罪性を重く加えていると解釈しているようなのですが、
それは事実に反する、と既に何度も指摘されているわけです。むしろ情状酌量で罪を割り引かれる事例のみ多い、と。
そして、ハムさんの主張を裏付ける「条文」や「判例」は挙がっていません。
報復であるがために罰せられる、報復であるがために罪が重くなる事例が挙がってきません。

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定義が食い違わなくても 投稿者:φ  投稿日: 7月14日(水)17時23分27秒

4月 2日(金)13時26分38秒 にも書きましたが、殺人事件で、決闘罪が適用されたことで減刑された判例がいくつかあります。つまり、「報復である」という要因が認められると、殺人であれ何であれ、減刑の対象になるのですよ。そこのところをハムスターさんはどう考えているのでしょうか?

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つまり 投稿者:のん  投稿日: 7月14日(水)17時17分15秒

ハムスターさんは恨みによる報復は悪いことだと主張されているのですね。教育による報復や治安維持のための報復は「報復」と呼ばないという事ですね。報復の定義の食い違いって事ですね。

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決闘の主な原因は報復 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月14日(水)13時12分57秒

現代の日本の法律は決闘を禁止しています。
これは問題となる報復行為の禁止で、問題にならない報復行為は規制のしようがないわけです。
これは傷害行為でも同じです。
傷害目的であっても相手が傷害を受けていなければ規制のしようがありません。
だからといって、傷害目的行為は許されているとお考えですか?
法の精神を遵守することは大事なことだと思いますし、倫理の問題があります。

決闘の禁止とは何か?
女を巡る争いで決闘が起ったことがありましたか?
あったとしても、相手の行為に対する報復でしょうが、これは例外的な事件でしょう。
日本ではほとんどの決闘が敵討ちです。
有名なところでは、荒木又右衛門しかり、堀部安兵衛しかり、他にもいろいろあります。
巌流島は報復によらない純粋な試合で、これは唯一といえる例外です。

もし、「違法行為の部分で罰せられるだけ」であるならば、決闘は傷害や殺人で罰すればよい。
しかし、刑法では傷害や殺人の他に決闘自体を罰しています。
このことは決闘の反社会性を意味しています。
そして、決闘の主な原因が報復であることは否定できないはずです。

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割込み御免 投稿者:φ  投稿日: 7月14日(水)02時40分26秒

 「法律で報復が許されている」ためには、法律に許可が明記されている必要はないのですよ。
 いつぞやの殺人の議論を思い出していただければ。放屁、歩行、水泳、逆立ちなどはべつに法律に「許可」が明記してありませんね。もしそういう行為が違法行為の手段として使われたら、その違法行為の部分で罰せられるだけです。睡眠中の人の顔にまたがって放屁連発攻撃で窒息死させた場合、その放屁行為は罰せられますが、だからといって「放屁は刑法で禁じられている」「放屁は悪」などということにはなりません。
 (ちなみに、殺人の場合は逆に、禁じられる場合が背景をなし、許可される特例のほうが明記されねばならないのでしたね)
 なお、決闘罪は、報復とは直接関係ないでしょう。決闘は報復とは重なりつつ別の概念ですから。女を巡る2人の男の決闘とか。しかも報復的決闘も、その悪たるゆえんは傷害行為であって、報復という成分ではありません。
 報復による犯罪は、報復でない故意の同種犯罪に比べ、むしろ情状酌量の対象になるのです。(ハムスターさんが応えていない事柄が溜まってきましたねェ……)

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kotobazukuriさんへ 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月13日(火)22時29分10秒

法律で報復を許していますか?
例えば、正当防衛のように。

決闘の禁止は報復の禁止ではないですか?
決闘の主な原因は、恨み等の報復感情でしょう。

報復による殺人が公的制裁のわけないでしょ。
報復の意味が違います。

幕末にはずいぶんと暗殺がありましたが、この暗殺で殺人の罪に問われた人がいましたっけ?
切捨て御免などという言葉もありました。
近代国家以前の法は、現代の法律とはいろいろな意味で違っています。

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ちょっと待て 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月13日(火)14時07分52秒

報復⊃私的制裁
ではなく、報復でない私的制裁もあり得るか・・
あり得ると思いますので、ここは訂正
ただ、それでも以後の文章には関係ありません。
リンチ私刑に当らない報復があれば良いわけなので。

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>「社会が混乱する」 及び 「報復悪の証明」 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月13日(火)13時54分46秒

> 報復という私的制裁が正しいならば、刑法などの公的制裁はいらなくなる、とはいえそうです。

「報復」=私的制裁、報復≠公的制裁 と 決めつけておられますが、根拠はあるのでしょうか?

なお「私的制裁」をリンチ、私刑というような相当他者危害の強いイメージで言われているのならば
報復=私的制裁 ではなく 報復⊃私的制裁 であって
「私的制裁(リンチ、私刑)」に入らない部分の「報復」は可である場合があるのか、それも全てが非なのか
が、φさんとハムさんの議論となるので
ともかく、ハムさんには全否定の根拠が必要なので、これは大変だと思いますよ本当に。

> これは日本では江戸時代以前の社会です。
> あちらこちらで敵討ちが行われていました。

江戸時代にも法は存在して、原則として「殺人」を罰していましたよね。正当(と認める)敵討ちである場合を例外として免責していただけで。つまり、殺人を禁じている公法が既にあり、かつ、敵討ちを免責しているという時代があった。
ならば上記の

> 報復という私的制裁が正しいならば、刑法などの公的制裁はいらなくなる、とはいえそうです。

への根拠にならず、むしろ両立していた、という根拠になっているのでは。

φさんが言われているのは「可である報復もある」
なのですから、それへの反論は「報復は全部非である」になります。
ハムさんもそのように話を展開しています。
ですから、「報復行為が一部でも可ならば、刑法はいらなくなる」
とハムさんは主張せねば反論になりません、
ですから、敵討ちと殺人禁止の法が両立していたケースは論拠としてまずいのではないかと・・。
(今までの経験をふまえて念のために書きますが、「根拠としてまずい、」という指摘は=報復行為は正しい  という意見ではけしてありません。)

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>報復として相手を殴り返すようなことは 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月13日(火)13時22分32秒

> 報復として相手を殴り返すようなことは悪いことです。
> これは倫理であり道徳です。
> 分からないのであれば覚える必要があります。
> 覚えられないのであれば罰を受けるしかないでしょう。

それが悪でないと私は一度も書いていないのみならず、
それは「違法であり罰せられる」と少なくとも二度以上明言しています。
相手の書いていることをきちんと読んで理解しようとせず、このようなことを書き続けることは倫理道徳上好ましい行為でしょうか?
少なくとも「冤罪」の温床となり得るのが、このような行為だと私は危惧します。

私がハムスターさんに指摘してきたのは1点です
あなたの書かれた「法律も報復を禁じている」は事実に照らして間違いである。
この点は理解いただけたのですか?
そこで、ハムスターさんが倫理道徳上「報復はいけない」
と主張して議論をなさる場合に「法律も禁じている」
という虚偽を根拠または補足として述べることは、その主張の信憑性を疑わせることになります。また法律についての誤解を広める可能性もありますので,止めていただきたいと思います。
倫理道徳上『報復』がどうなのか、については未だ私は言及していません。

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報復悪の証明 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月13日(火)10時48分40秒

>「報復のパラドクス」を考え始めました。

やっぱり、ネタにしているのですね。
これは、噛みつきがいがありそうなので楽しみです。

報復悪などの常識を立証することなどはまず不可能です。
常識は論理によって成立していることではないからです。
それを説明することはできますが、立証には科学的な調査をするしかないでしょう。
こういう常識であれば、パラドックスは発生して当然だと思われます。

ですが、ネタとして証明を試みてみます。

仮定:報復は正しい。

前提1:この言葉は近代社会において発せられる。
    (例えば、掲示板は近代社会の産物です)
前提2:報復という私的制裁が許されると、公的制裁を旨とする近代社会は成立しない。

結論:仮定と前提2は矛盾し、仮定は誤りである。

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幸福も人それぞれ 投稿者:φ  投稿日: 7月13日(火)02時02分9秒

 私(たち)は、報復はすべて善だなどと一般化してはいない、というところに戻ってしまうのですけれどね。少なくとも私の立場は、報復は倫理的に中立であり、文脈によって悪くなったり良くなったりするというものです。
 報復をすべて悪だと一般化する人がもしいれば(ハムスターさんがそうなのかわかりませんが)、その人に立証責任があるでしょう。常に、「強い主張」をする人の方に立証責任が帰せられるものです。
 なお、報復は悪だという一般化がどれほど一般常識に一致しているのか、私は計りかねますが、もしそういう反報復の常識が流布しているとしたら、「報復のパラドクス」とも言うべきものを作ってみようかと。(「報復は悪なのに善(中立)である……?」)  ともあれ、執筆中の『心理パラドクス』の一項目として、「報復のパラドクス」を考え始めました。
 さてどういうプロブレムになるか……?

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寛容な人は真に幸福である。 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月12日(月)00時04分38秒

人間は多様です。
そして、多様さには分布が偏ります。
つまり、常に相手の寛容さにつけ入ろうと考えているような人は少数派だということです。
少数派のような例外を持って一般を判断する誤謬です。
ほとんどの人は寛容な人に対して好意を持っています。
そうして、寛容な人が不遇を囲っている場合、必ずこの人を助ける人が出て来ます。
捨てる神あれば拾う神あり、です。

損をしまいと周りをギラギラとして監視しているような人よりも、人に騙されまくって損ばかりしている人の方が人々に好かれます。
人々に愛されるのです。
こういう人は貧しく貧乏でしょうが、真に幸福な人生なのではないでしょうか?
たかが銭金の問題でしょ?
命まで取られやしません。

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多様性 投稿者:φ  投稿日: 7月11日(日)13時37分59秒

>相手から見た場合、
>報復:相手は困ったまま。 あなたに対して報復感情を増長させる。
>寛容:相手は救われる。 あなたに対して感謝し、今までの意地悪を悔いる。
>第三者から見た場合
>報復:相手を許す度量のない人だと評価される。人望が下がる
>寛容:心の広い寛容な人だと評価される。人望が上がる。

人間はさまざまである、という事実を無視してはならないでしょう。私(私たち)は、常に報復しろ、と言っているわけではありません。報復したほうが良い場合がある、そしてそういう場合は意外と多い、よって全体的見地からして報復は積極的に肯定されるべきである、と言っているのです。報復すると相手の態度が悪化し、左頬を出せば改善されることはたしかにあるでしょう。しかしその逆も多いということは、人間性の多様性から導けます。
 第三者の評判も同様で、報復しない人を尊敬するよりもつけ込もうとする人間の方が多いのです。つけ込まないまでも、左頬主義者は、善悪や快苦の区別のつかない感性障害者ではないかと疑われ、信用されなくなることの方が多いです。厳しい契約社会で、相手企業から何度約束を破られてもいつも先方の便宜を図りつづけるお人好しの上司を社員は信頼できるでしょうか?
 反左頬主義者は、★ときには★報復が善である場合もある、そして刑法を見ても報復が一定管理のもとで公認されている、そういう部分肯定をしているのです。
 左頬主義者は、★つねに★報復は悪である、といった全部否定をするので不合理なのです。

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報復は人望を下げる 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月11日(日)12時28分7秒

報復というのは仕返しですから、相手の悪い行為に対して悪い行為で仕返すことです。
お金を払わない相手に商品や権利を与えないのは報復ではありません。

相手の意地悪に対して、意地悪で仕返すのは報復でしょうが、ここで良く考えて欲しいのです。
相手が真に困って頼みごとをしてきた場合、
報復:「お前は俺に意地悪をしてきたのだから、お前の頼みは聞いてやらない」というのと、
寛容:「お前は俺に意地悪をしてきた、しかし、俺はお前の頼みを聞いてやる」というのと、
どちらが良いでしょうか?

相手から見た場合、
報復:相手は困ったまま。 あなたに対して報復感情を増長させる。
寛容:相手は救われる。 あなたに対して感謝し、今までの意地悪を悔いる。

自分から見た場合
報復:報復してやったという満足と共に、後ろめたさを感じる。
寛容:感情に負けずに相手を許したという満足感がある。

第三者から見た場合
報復:相手を許す度量のない人だと評価される。人望が下がる
寛容:心の広い寛容な人だと評価される。人望が上がる。

我々の周りにいる人でも、報復感情でギラギラした人よりも、寛容な人の方が人望があるでしょう?
日本人の歴史でも、報復による美談は聞きませんが、寛容による美談はいくつかあります。
これは欧米人でも同じなのではないでしょうか。

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もちろん社会が混乱する 投稿者:φ  投稿日: 7月11日(日)04時13分17秒

 刑法などの公的制裁には、全市民の個々の揉め事を全部引き受ける容量はありません。
 何度も意地悪された相手には、頼まれても金を貸さない、年会費を払わない学会会員には、投稿してきた論文を受理しないという対応をする。この種の細かい私的・半公的報復が、市民生活を正常に動かすのに必須でしょう。人間は多様ですから(これを否定すると全体主義になってしまう)、報復されないと行ないを改善しようとしないやつがいたるところにいっぱいいるのです。
 むろん、殺人や傷害のような重大な行為については、間違いや勘違いがあっては大変だから、公的機関が担当するわけですが、日常の詳細については個々人が私的に判断せざるをえません。
 繰り返しになりますが、左頬主義は、その場に限ってみれば良いことのように見えますが、社会にとっては倫理的バグの放置に等しく、他の人々に迷惑なのです。バグをその場で食い止める簡略な方法が報復なのではないでしょうか。左頬主義は、社会の迷惑とひきかえに自分ひとりの倫理的満足を得るという、わがままなのです。
 なお刑法は、国家秩序の撹乱者に対する国家の報復と言えるでしょう。死刑廃止国では、100人殺した犯人は死刑にならないが、政府転覆を図って外患を誘致した者は、一人も傷つけてなくても死刑となります。こういった刑法のシステムは、むろん倫理と厳密対応はしないにせよ、報復というシステムが社会維持に絶対必要であることを示しているでしょう。

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社会が混乱する 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月11日(日)00時27分20秒

報復が倫理として正しいなどというのはネタなのかマジなのか判断に苦しむところですが、マジだと仮定してもう少し反論を試みてみます。
ただし、こういう常識を説明することは大変に難しいことです。
論理的に成立していることではないからです。

報復という私的制裁が正しいならば、刑法などの公的制裁はいらなくなる、とはいえそうです。
これは日本では江戸時代以前の社会です。
あちらこちらで敵討ちが行われていました。
こういう社会は現代からみると大変に混乱した社会のように感じられませんか?

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左頬主義的議論とは? 投稿者:φ  投稿日: 7月10日(土)02時23分58秒

場合分けをベイズ式で書いてしまうとバカチョンになってしまってパズル味がなくなりますけれどね。モンティ・ホールは。
 また、身体交換vs意識交換については、何度目かの貼付になりますが、
 http://russell-j.com/sintai-k.htm
 を。

 しかしたしかに、反論は報復の一種かもしれません。ともに「やり返す」。反論は相手の思想の少なくとも部分的な否定であり、報復も相手の行為の少なくとも部分的な否定。左頬主義とは、ある意味で対話の拒否ともいえますね。相手の行為の部分否定ならぬ全面否定とも解釈できます。

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論理パラドクス読んだせいで 投稿者:うどんよりそばが好き  投稿日: 7月 9日(金)22時23分24秒

夕飯食いそびれました。そんくらい楽しかったです。買ったのが金曜夜で助かりました。

個人的にびっくりしたのは、42-2番の変形モンティホールジレンマで、
最良の戦術が「最初にBを選んでおくこと」というところです。
確かにAかCどっちか消してからまた選んだほうが楽だもんなぁ。それでも確率半々ですが。
あと、ここの答えの書き方(全ての起こりうる事象を列記していく)のおかげで、
3囚人の銃殺確率の計算がかなりすっきりしました。最初からこういう書き方を
していただけたほうが個人的にはありがたかったかも。

また、揚げ足を取るようで申し訳ないのですが、26番の○○交換機については、
個人の信念よりも物理的形状によって呼称が変わる気がします。
私の場合、あとの設問ではことごとく意識派(人間ファックスマンセー)でしたが、
右と左の手前に入り口が二つ、奥にも出口が二つあるような機械を想像してしまい、
たとえば右手前から男、左手前から女が機械に入り、右手奥から男、左手奥から女が
出てくる図を想像してしまい、結果「意識交換機」と呼んじゃいました。
またその後の設問「どっちを拷問されるのが嫌か」についての答えに、とりあえず
「今殴られて肉体的に痛みを感じる方」と回答したのは私だけでしょうか(汗)

>通り縋りさん
相手に報復しない態度と相手に反論する態度は両立する(この掲示板的には「矛盾しない」)でしょ♪
ついついツッコんじゃいました。

左頬主義自体の是非がネタになってるっぽいですが、その人の時代や生活環境によって
その人が生き延びるにはどっちが変わるという曖昧なスタンスを取らせてください。
今の世の中にだって左頬主義に徹していたほうが強制収容所に送られにくくなる国が
あるじゃないですか(笑…えない)
というか論理でもなんでもない善悪の価値観について百戦錬磨の皆様と議論する自信がない(笑)

いいかげんメシ食って残り読んできます。

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つまりこういうこと? 投稿者:vv  投稿日: 7月 9日(金)21時49分55秒

報復は秩序の為に必要である。しかし個人間での報復は治安の悪化を引き起こす恐れがある。よって報復は公正な報復機関によって為されるべきである。

こりは、伊藤真の刑法の本かなんかに載ってたんだよ。

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二度目の書き込みです 投稿者:通り縋り  投稿日: 7月 9日(金)12時53分13秒

左頬主義の敷衍が有害であるという皆様から、敷衍実行可能性のあるハムスターさんへの報復がいま論理的説得(宗教で折伏ってありましたね)という形でこの掲示板で実践されているように思われます。しかるにハムスターさんは皆様の反対意見を左頬をだして全面的に賛成すべきではないでしょうか?そしてそのような非論理的な構図で終了することこそが左頬主義を貫くハムスターさんには一番有用な選択のような気がします。反論がメタ的に自説を窮地に追いやっているような気がしてなりません。面従腹背は論理的な態度ではありませんがなんかパラドックスの問題になりそうですね。

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(無題) 投稿者:のん  投稿日: 7月 9日(金)04時37分23秒

>阿呆理詰日記1059
>つけ込みやすいカモに2種。
>一心不乱。注意散漫。 

新しい価値を見出すものに2種。
一心不乱。拡散集中力。

∴新しいものを見出すもの=つけ込みやすいカモ?

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んもー 投稿者:のん  投稿日: 7月 9日(金)02時33分1秒

神:「個人間で報復するとろくな事にならん。全て私に任せておけ。」

神様がほんとにいたら安泰です。
いない世界では、やはり私たち自身が前線で戦わなくては!

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合理的報復 投稿者:φ  投稿日: 7月 9日(金)02時06分11秒

 そのとおり、報復はすぐ行なうのが合理的です。ゲーム理論の選手権でも、しばらく経ってから報復するタイプのプログラムは、点数が伸びませんでした。
 なお、左頬主義のお人よしプログラムが増えると、破滅的なことになります。そのプログラムだけでなく、社会全体も。なぜなら、社会プログラムには必ず誤差による倫理的バグが出るので、「裏切り」戦略(実社会では利己的迷惑行動)をするプログラムが必ず出ます。それが報復されないと、バグが社会全体を覆って、取り返しのつかない汚染が生ずるからです。
 そして報復は、忘れられた頃にやるのではなく、即座になされねばなりません。即座にやった場合のみ、「そうか……」とアウトローにこちらの手の内を知らしめ、矯正することができるのです。刑法に時効が設けられているのも、報復であることが理解されないような時期の報復は、社会修正という報復の効用をもたらさないから、という認識によるのでしょう。
 結局、報復は、倫理的に中立なのですが、現実には、社会的修正の効用のある善の要素が強いといえるでしょう。
 なお、むしろ次のような具体的問いを考えるべきでしょうね。

 問 次の中から悪の度が最小と思われるものを一つ挙げなさい。

報復としての撲殺 体の鍛錬としての撲殺 気晴らしとしての撲殺 宣伝としての撲殺
 実験としての撲殺 教育としての撲殺 占いとしての撲殺

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計画性について 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 8日(木)15時45分58秒

昨日保留した「計画的違法行為>咄嗟の違法行為」
の件ですが
「罪を為す意思のない行為はこれを罰しない」
という原則や
「それが違法行為であるという認識があり、従ってそれを止めておくという適切な選択が可能であったのに、あえて違法行為を選択した」
というところに犯罪者の責任がある
というような「意思」「責任」等に関する考えかたから見ると

計画性→ 時間の推移 判断をする余裕、選択をし直す機会、が衝動的なケースより豊富であったにも関わらず、意思を変えず敢えて犯罪を為す方向に進んだ

ということで、
罪の重さ : 計画的違法行為>衝動的違法行為
という見方は成り立つように思います

 意思の重み 責任の重み

 に関係していると思います。

それと前から思っていたのですが

ハムさんの挙げられている
感じ悪さ: その場で抗議<時間をかけてから報復する
という図式は
以前φ さんが書かれていたゲームの理論にも関係しているような気が・・

「即座に報復して、けりがついた後は寛容に
というのが有効で、周りからも好ましいと思われる人物像にも一致している」
というように書かれていましたよね。
で、好ましいと周りから思われる分さらに有効な戦略になると思うのですが
「回りから見て好ましい人物像」と「相手との関係で有効な戦略」が一致しているというのも淘汰に関係しているんでしょうか?
好ましいと思われるからこそ、相手に対して有効なのか・・・
ちょっと整理できません。やや混乱。

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悪い行為 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月 7日(水)17時35分36秒

じゃ、こんなのどうでしょう。

問 次の言葉の中から悪い行為だと思われるものを一つ挙げなさい。

報復 体の鍛錬 気晴らし 宣伝 実験 教育 占い

ほとんどの人が 報復 を選ぶでしょう。

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誤った推論の例 投稿者:φ  投稿日: 7月 7日(水)16時42分59秒

 「報復のためあの人を殴りたいのですが」→弁護士or道徳家「おやめなさい、違法行為であり、悪です」
 ……→「報復は悪である」
 「体の鍛錬のためあの人を殴りたいのですが」→弁護士or道徳家「おやめなさい、違法行為であり、悪です」
 ……→「鍛錬は悪である」
 「気晴らしのためあの人を殴りたいのですが」→弁護士or道徳家「おやめなさい、違法行為であり、悪です」
 ……→「気晴らしは悪である」
 「わがパンチ力の宣伝のためあの人を殴りたいのですが」→弁護士or道徳家「おやめなさい、違法行為であり、悪です」
 ……→「宣伝は悪である」
 「心理学実験のためあの人を殴りたいのですが」→弁護士or道徳家「おやめなさい、違法行為であり、悪です」
 ……→「実験は悪である」
 「人生の厳しさを教育するためあの人を殴りたいのですが」→弁護士or道徳家「おやめなさい、違法行為であり、悪です」
 ……→「教育は悪である」
 「運勢占いのためあの人を殴りたいのですが」→弁護士or道徳家「おやめなさい、違法行為であり、悪です」
 ……→「占いは悪である」
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のんさん&kotobazukuriさん へ 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月 7日(水)15時48分22秒

報復として相手を殴り返すようなことは悪いことです。
これは倫理であり道徳です。
分からないのであれば覚える必要があります。
覚えられないのであれば罰を受けるしかないでしょう。

一度、弁護士なり警察に聞いてみるといいと思います。
報復などせずに警察にいいなさい、といわれるはずです。

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補足 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 7日(水)14時30分29秒

自分の書いた、

>  また、ハムさんの論は
> 「報復は悪か否か」 がいつの間にか
> 「報復は、他の違法行為と比べてより悪性が重い」というような論に変わっていると思われます。

これはですね、「報復」が報復であるが為に、それを動機としない不法行為より悪性が重い 
とハムさんが論証するのならば、いいのです。
しかし、ハムさんの論は
「報復であるがため」を示していなく
単に「報復動機の違法行為は当然に故意行為であるがために、過失による他の危害行為より罪が重いことが総じて多い」という
「報復」でない行為にでも同じく「故意-過失」の間で成り立つことを述べているので 「報復」が独自に「罪性、悪性」をもっていると、法がみなしているという根拠になっていない、
ということです。「計画性」についても同じ。

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訂正>格闘技 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 7日(水)14時02分8秒

死をかけてなくとも暴行罪もありますね、格闘技はそれも棄却しますよね
なので、格闘技については たぶん正当行為と見なして違法性を阻却するんでしょう
業務行為か、そうでない場合も社会的相当性があると見なす
「決闘」はそうは見なさない  と

ただ、死をかけて戦う格闘技トーナメントがあった場合
正当行為とは見なされないでしょうね
死ぬまでやらせる というルールがある格闘はたぶん少なくとも日本では認めないだろう、と
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>例題抽出の虚偽 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 7日(水)11時16分23秒

偏った例題抽出による虚偽 の方が良い?

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悪の度合2(ハムスターさん)  投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 7日(水)11時10分15秒

> 罵倒されてカッとなって殴ってしまった場合よりも、後になって報復目的で殴り返すほうが悪印象でしょう。
> 料理がでてこないので怒鳴りつけるのはよく見かけることですが、後日になって嫌味を言ったりしたらいやな奴だと思われるでしょう。

こういう例を何度かハムさんは出されていますが、
「報復」が感じ悪いと思われる例だけを取り上げて、だから「報復は悪」とするのは危険では?

「単にカッとなったから相手にビンタする」対「自分の子供をいわれなく殺した犯人に対し報復としてビンタする」
で、後者の方が感じ悪いと思う人は少ないと私は思います。
「報復のための行為の方が、報復でない行為よりも人情として許せる」
というケースは数限りなくあるでしょう。
なので、「報復の方がより感じ悪い」と思える例だけをことさら挙げての論は不公平な論証になるでのでは?
例題抽出の虚偽という感じ(←今自分が作った言葉です・笑)

> 決闘の禁止というのは、報復の禁止の意味でもあるのではないでしょうか。

報復を契機とする決闘もあるかもしれませんが
「決闘」の禁止はあくまでも「決闘」の禁止

> けっとう 0 【決闘】

> (名)スル
> 恨み・争いなどに決着をつけるため、あらかじめ定めた方法で、生命を賭けてたたかうこと。果たし合い。

> 三省堂提供「大辞林 第二版」より

この「命を賭けてたたかう」という定義が、「社会的危険行為」
「法益侵害行為」となると見なすのが普通なので、法律は禁じるのでしょう
では
格闘技の試合は 違法性を阻却されるのでしょうが それは何故なのか?
「命の危険が生じる前に止める」を前提としているから・・?
「どちらかが死ぬまでやる」を本当に前提としていたらデスマッチを法律はゆるさないんでしょうね

そこで、「報復」というものにも「決闘」と同様な、それ自体で「違法」となるような定義が含まれているのか、という問いを提出しておきます。というか、前からみんなが言っていることですが・・。

> 近代国家の法律というのは道徳や倫理を無視して成り立ってはいませんよ。

法律は道徳を参照している 
と私も書きましたし、他の人もそれは同意されると思います。
多くの人に納得できるものであるべき法は一般に流通している道徳を無視することはできないでしょう。

で,前回私は

> (ハムさんの主張への反論は、
>  法から道徳を類推するのは根拠が無い  と

というように書きましたが
ハムさんは、「法が報復を禁じているから→道徳的にもいけない」
ではなく「報復を禁じている道徳を、法も参照、踏襲している」
だったでしょうか。その場合は私は上の反論は無しで
「法が報復を禁じているという事実は無い」
の方だけにします。

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>悪の度合(ハムスターさん) 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 7日(水)10時43分19秒

> 傷害や殺人を犯した人が、報復行為だからといって許されることはないわけです

それが許されると考えている人は今書き込んでいる人の中に1人もいません

> 報復というのは、行為までの時間が長くなればなるほど計画性をおびてくるはずです。
> 殺人の場合は計画をしただけで罪になります。
> つまり、報復の計画性に悪があるのではないかと考えます。

計画的な悪行>咄嗟の悪行
 であるかどうかは今、私の判断は保留します。(今回の話と関係ありませんし)

  同じ構造の虚偽ばかり持ち出されていると思います
まず
「計画的」な行為が「咄嗟」の行為より「悪」なんてことはあり得ません。「計画的に勉強すること」対「衝動的に勉強すること」
「計画的に子供を作ること」対「思いつきで作ること」

「故意と過失」も同じ
「故意に恋を告白する」対「間違って告白してしまう」
「故意に自分の古い手紙を焼く」対「過失で焼く」

つまり
故意による他者危害行為>過失による他者危害行為
計画的な違法行為 >(保留中) 咄嗟の違法行為   というような「による〇〇」という後半の〇〇が「悪」でないなら ハムさんの式は成立しません

ここでハムさんの言われたのは先ず
「法律は報復を禁じている」
「法律上(も)報復は悪とされている」
でした。
その根拠としてハムさんは
「過失<故意」「咄嗟<計画性」
を出されるわけです。
しかし、「報復」が悪であるという根拠として
「報復」が悪である場合のみ成立し得る式を出すのは
おかしいでしょう?
こういうのを論点先取りというのかな ?

前提として 計画的な行為が全て悪である
      故意の行為は全て違法である   と言えるならば
故意行為⊃報復行為
計画的行為⊃報復行為  
 ゆえに
報復行為は悪

 となるでしょうが 上記前提はあきらかにおかしいので、この結論は正しいと言えないでしょう。

 また、ハムさんの論は
「報復は悪か否か」 がいつの間にか
「報復は、他の違法行為と比べてより悪性が重い」というような論に変わっていると思われます。

> ここで、ちょっと整理しときます。
> 悪の度合:過失<未必の故意<確信犯(⊃報復)<故意(⊃報復)

何故これをもってハムさんの主張の根拠になるのか・・ということで、
上記のように
ハムさんは先ず「全ての報復は法律上悪である」を前提として考えていて、このような式で 「報復は、過失や咄嗟の行為よりも、より罪が重い」
と述べたいのだろう・・と推測しました。

そうではなく、最初のハムさんの主張である
「報復が違法である。報復を法律は禁じている。法律上、報復は悪とされている。」
ということに対する根拠を出してください、・・と希望します。

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きゃー 投稿者:のん  投稿日: 7月 7日(水)03時03分49秒

女家庭教師が男子中学生にフェラチオするのは善です。
男子中学生は天に昇るからです。
天の楽園に導いた女家庭教師は、きっと神の使いです。

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悪って何だ! 投稿者:のん  投稿日: 7月 7日(水)02時57分2秒

無差別殺人よりも、人間関係のもつれによる殺人の方が許されないってことですか?
勘違いや過失は後に分かる事で、殴打する時点では理由があります。理由があるから許されないのでは?
確信犯という言葉はは2通りあります。どちらの意味で使われているのですか?
売買契約で法律上クーリングオフが適応されない状況では報復が認められているとハムスターさんは解釈しているということですか?

私は「怒る」も「叱る」も「ブチ切れる」もみな報復であると思います。子供の教育のためにおしりぺんぺんするのも報復だと思います。
報復の定義を教えてください。

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「理由なく故意に○○する」より「報復として――? 投稿者:φ  投稿日: 7月 7日(水)02時35分57秒

 過失というのは手がぶつかったとか? 故意でないなら除外。
 勘違いとは何でしょうか? 電柱を殴るつもりで人を殴った? それは故意じゃないから除外。人違いで殴ってしまった? ではもともと別人を殴ろうとした動機は? 報復? 動機が同じなのに、誤認が加わるとそれだけ悪の度が減るとは、理解不能です。
 また、「罪を憎んで人を憎まず」は、刑法では通用しませんね。麻原彰晃を釈放することに賛成する人が何人いるでしょう。
 終戦直後、中国大陸に取り残された日本兵個々人の大半は「報復の対象」として不適なので報復されるべきでないのは当然です。特定できた罪に対して張本人に報復するときに正しい報復となるのであり、十把一絡げに「日本人に復讐する」といういわゆる八つ当たりは「報復」の名に値しません。
 いずれにしても、相手を感激させるかどうかは行為の倫理性とは関係なし。女家庭教師が男子中学生にフェラチオしてやればその子は感激するでしょうが、善とはいえませんし。誰かがブッシュを暗殺してやれば、多くのイスラム教徒は感激するでしょうが、善とはいえませんし。
 なお喧嘩両成敗は、双方が応分の報復を甘んじて受ける折衷案と言うべきで、報復の否定ではないでしょう。

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報復は社会悪 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月 6日(火)19時15分34秒

例えば、
理由もなく殴打する
よりも
報復として殴打する
ほうが悪いですよね。

理由もなく殴打する、というのは勘違いとか過失が考えられます。
これは謝れば許される場合もありそうです。
報復として殴打する、というのは確信犯か故意ですよね。
これは殴った方は謝りませんし、罪になるでしょう。

売買契約の件は、ネットオークションなどを想定するのでしょうか。
これも、故意であれば悪いですが、故意でなければクーリングオフが適用されたりしませんか。

戦争世代は、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉と行動に感激したはずです。
この戦争世代が感激したという事実は、反報復が善だという我々の倫理を表していると思います。

報復の禁止は、室町幕府の喧嘩両成敗法にすでに現れているようです。
報復する正当な理由があっても所領半分没収です。
この法は約700年前ですから、現在では我々の血肉となっているはずです。
報復を放置すれば社会が混乱するからでしょう。
報復は社会悪だからだと思います。

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報復と善悪はカテゴリー違い 投稿者:φ  投稿日: 7月 6日(火)00時58分30秒

 直接レスをいただけてないようなので繰り返しますが、「理由もなく○○する」より「報復として○○する」ほうが悪い例が挙がりませんかね? 「殴る」「盗む」「殺す」「火をつける」どれも当てはまらないように思うのですが。
 また、「売買契約において、金を払わない人に商品を渡さないのは報復ではない」といいますが、売買契約を相手が破ったからこちらも破るというのは、構造的に「報復」にほかなりません。わかりづらければ、振込用紙同封の宅配便で顧客に商品を送った場合にしましょう。もし振込みがされなければ、販売元は代金を請求・催促し、法的手続きに訴え、それでもこじれれば、二度とその客の注文には応じないでしょう。「訴訟」「拒否」といった報復に出るわけですが、これは当然のことであり、むしろそれをしない販売元は、顧客一般の信用を失い、商業システムの混乱を招きます。
 左頬主義は、有害な場合の方が圧倒的に多いのです。
 戦後中国の場合は、内戦状態ゆえ報復は東京裁判に任せる見込みであったし、日本降伏よりずっと前からすでに、主敵は日本軍ではなく、国民党対共産党という図式だったことを忘れてはなりません。日本人はもはや報復より洗脳による抱き込みの対象だったということでしょう、戦略的に。
 「報復すれば悪」の場合もあれば、売買契約のように「報復しないのが悪」の場合もある。報復そのものが悪などということはありません。(むしろ情状酌量の対象になるほうが多い)

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報復すれば悪 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月 5日(月)23時46分16秒

罵倒されてカッとなって殴ってしまった場合、殴った方に同情する人もいるでしょう。
気持ちは分るけど暴力はイカンよな、といった評価でしょうか。
罵倒されたそのときはだまっていて後になって「この前の仕返しだ」などと殴った場合、殴った方に同情する人はいるでしょうか。
そのときに抗議すればいいものを随分と執念深い奴だというのが、普通の評価ではないでしょうか。
もし、罵倒されても報復などせず、普通に対応するような人がいたら、この人の評価はあがるはずです。
このことは、報復をすれば、しないよりも評価が低くなる、つまり報復をするほうが悪であることを意味すると思います。

「罪を憎んで人を憎まず」という蒋介石の有名な言葉があります。
この言葉と言葉通りの行為とによって、戦争世代の人達に人気がありました。
何故か?
報復とは正反対の寛容の精神に人々は感涙したのではないでしょうか。
もし、蒋介石が日本に対して報復行為をとった場合、彼に人気などなかったはずです。
このことからも、報復は悪だといえそうです。

売買契約において、金を払わない人に商品を渡さないのは報復ではないはずです。
報復というのは仕返しですから、仕返すものがなければ報復になりません。

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「悪でない」≠「善である」 投稿者:φ  投稿日: 7月 5日(月)02時59分19秒

 「報復であるがゆえに、単なる故意よりも悪い」という一例が、その「罵倒されてカッとなって殴ってしまった場合よりも、後になって報復目的で殴り返すほうが悪印象」ということでしょうか?
 しかしこれは、すぐ殴った場合は報復であることが明らかなのに対し、時間が経ってからの殴打は何か別の利害や目的が関わっていることが疑われ、報復性が薄れているゆえの「悪印象」なのでは。また、後者の方が計画的効果的に急所を殴ったとか、正面からでなく突然襲ったとか、罪を逃れるため人のいないところで殴ったとかいう余計な含みが感じられるゆえの「印象」に過ぎないので、報復そのものの倫理性を評価する基準とはなりません。
 報復で何をするか、こそ問題です。前述のように、罵倒された報復に殴れば悪だが、金を得られなかった報復に品物を送らないというのは、契約に必要な報復であって、むしろ善です(客が金を払わないのに商品を渡してしまう左頬主義の小売店は、流通経済を破壊するゆえにむしろ悪でしょう。不当な安売りを禁ずる法律もありますね)。
 なお、合法性と善が異なるのはもちろんですが、近似的一致はあり、しかもここで我々が言いたいのは「報復は善」という強い主張ではなく「報復は悪でない」ということだけなので、報復を理由として罰せられる場合が皆無であれば、十分と思われます。
 報復を悪とみなす言説というのは、「教室で殴ることは悪だ」ということから「教室で行なうことは悪だ」を導き出すようなものでしょう。教室で行なうという様式は、何を行なうかによって、悪にもなり善にもなり中立にもなる。報復で行なうことも同様。報復そのものは善でも悪でもありません。

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悪の度合 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月 3日(土)19時49分7秒

ここに書き込む人の倫理観は、前出の売買春など私にはちょっと不思議に感じられます。
報復が正しいなどとどこで教えているのでしょうか?

傷害や殺人を犯した人が、報復行為だからといって許されることはないわけです。
報復というのは、行為までの時間が長くなればなるほど計画性をおびてくるはずです。
殺人の場合は計画をしただけで罪になります。
つまり、報復の計画性に悪があるのではないかと考えます。

罵倒されてカッとなって殴ってしまった場合よりも、後になって報復目的で殴り返すほうが悪印象でしょう。
料理がでてこないので怒鳴りつけるのはよく見かけることですが、後日になって嫌味を言ったりしたらいやな奴だと思われるでしょう。
決闘の禁止というのは、報復の禁止の意味でもあるのではないでしょうか。
報復という考え方には善を助長する要素はないはずです。

ここで、ちょっと整理しときます。
悪の度合:過失<未必の故意<確信犯(⊃報復)<故意(⊃報復)

追加 近代国家の法律というのは道徳や倫理を無視して成り立ってはいませんよ。

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おお 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 3日(土)17時46分30秒

> だから法律で定められている事を道徳に利用する事はできません。←重要

 これ同意です。前から私はそれ主張してるのですが、今回は書くの忘れてました。法律は道徳を参照しているけれども、逆をやる根拠はないでしょうね だから、「報復は悪である」という根拠の1つに「法律だって報復を禁じているし」という場合への反論は、
 法から道徳を類推するのは根拠が無い  と
 しかも法律は「報復」を禁じてなどいない。 の2点なのでした。
ただ、実際に上記のように法律をからめて「報復(復讐)はダメ」と論じる人はかなり多いみたいですね。ハムスターさんが特別なわけではけしてなく。

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(無題) 投稿者:のん  投稿日: 7月 3日(土)03時49分57秒

道徳と法律を混同してはいけません。
宗教は専ら善を求めますが、法律は納得を求めます。
皆が納得できればそれでよいという考えを類型化したものが法律です。
だから法律は善ではないし、全ての人が納得できるものでもありません。
だから法律で定められている事を道徳に利用する事はできません。←重要

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報復⊃契約 投稿者:φ  投稿日: 7月 2日(金)23時05分36秒

 もちろん報復は故意の一種です。そのうえで、単に「故意で殴った」と知らされるより、「報復で殴った」と知らされるほうが、「悪いことをするやつだな」という悪印象が薄まることは確かでしょう。
 だからぜひとも、「報復であるがゆえに、単なる故意よりも悪い」という例が欲しいところですね。そういう実例がない限り、次の真実は揺らぎません。すなわち、悪いのは報復することではなく、報復として○○した、という○○行為の性質そのものに他ならない、と。
 なお、「宗教が報復を禁止するのは、報復が自治の源だからではないか」というのん氏の意見に賛成です。宗教は、愚民どもが報復倫理(つまり契約)のシステムを身につけて賢くなると、信者を増やせないので、報復を禁じて愚民どもを不安状態に置き続けようとするのです。
 報復がいけないなら、保険料を払ってなかった人にも、あとでちゃんと年金を支給してやらねばなりません。納期に間に合わなかった業者にも、正規の料金を払ってやるのが美徳ということになりますね。御一人様限り、その場限りでは結構かもしれませんが、やはり身勝手や怠慢のツケは払ってもらわないと、全体として社会が機能しなくなります。「契約」という概念そのものが、違反者には不利益を与えよ、という報復原理の一例です。報復⊃契約。

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えっと 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 2日(金)15時57分30秒

>故意⊃報復

これは包含関係の「報復行為は故意行為の中に含まれる」ですよね。それで、
「報復行為」と言えば「故意に為すもの」と考えるのが当然と思いますので。
同意します。

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kotobazukuri さんへ 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月 2日(金)13時04分29秒

報復というのは故意ではないのですか?

私は、故意⊃報復 という関係だと思うのですが・・・。

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つづき 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 2日(金)12時15分39秒

ハムさんの反証として、本当に「復讐であるが為に違法になる」または「罪が重くなる」行為が挙がってくればφさんも(私も)慌てると思います。
念のため考えてみていますが、やはり無いと思いますけれど・・・

> 罵倒されたので殴って怪我をさせた場合は、怪我から罵倒分を引いた罪の度合いがあるということで、報復による減刑という意味はないはずです。

違うと思いますよ。「怪我から罵倒分を引いた罪の度合い」などという手続きは刑法には無いでしょう。「動機にやむなき点が」どの程度あったかで、情状酌量されるのでは?
その「やむなき点」というのは
人のどのような心理にかんがみて考慮されるものだと思われますか?

というか・・

> 怪我から罵倒分を引いた罪の度合い

 の意味を自分が理解していないかもしれませんが
 もし、「先に罵倒があったぶんは殴られた方も仕方ないし、殴った方も割引」というものであれば、それこそ報復の認容どころか肯定と思えますが・・・
・・被害の相殺ということなのかな・・・

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それは 過失<故意 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 7月 2日(金)11時41分35秒

> 相手に怪我をさせれば罰せられるのは当然として、報復による傷害は、事故による傷害より罪が重いのではないでしょうか。
> これは報復が悪い行為だからでしょう。
> 報復が認められた行為であるならば、事故による傷害と差がないはずです。

 ハムスターさんの言っておられる意味での事故による傷害の罪が軽いのは、故意より過失の方が罪が軽いからです
刑法は「罪を犯す意思がない行為は罰しない」とし過失は罰しない原則ですが
「ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない」
と、重大なものに関しては「故意」でなくとも罰せられることもあるわけですね。

しかし、ともかく
行為と結果が同じ場合 故意>過失は絶対的と言えるほどの重みの差がありますので
(悪を為す意思をもってしたか、意図せずそうなってしまったかの違い)

> 報復による傷害は、事故による傷害より罪が重いのではないでしょうか。

これは、故意の傷害は、過失による傷害より罪が重い、という事実のみを示しているものです。
意図的に為した傷害は、過失の事故による傷害より罪が重い
ということを言っているにすぎません(結果の重大性がしかるべく逆転していない限り)

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罪:事故<報復 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月 2日(金)09時31分53秒

相手に怪我をさせれば罰せられるのは当然として、報復による傷害は、事故による傷害より罪が重いのではないでしょうか。

これは報復が悪い行為だからでしょう。
報復が認められた行為であるならば、事故による傷害と差がないはずです。

罵倒されたので殴って怪我をさせた場合は、怪我から罵倒分を引いた罪の度合いがあるということで、報復による減刑という意味はないはずです。

報復というのは容認されているわけではなく、そういう現象があると認知されているだけであって、道徳においては奨励できない行為であるはずです。

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ふむふむ 投稿者:のん  投稿日: 7月 2日(金)03時11分18秒

刑法は報復を一部認めていますが、民法は全面的に認めています。「同時履行の抗弁権」は報復そのものなのではないでしょうか。
宗教が報復を禁止するのは、報復が自治の源だからではないでしょうか。皆が論理的で自分の利害関係を冷静に見極めたら宗教なんか誰も信じなくなると思います。しかし、信じるものは救われる事が証明されたら私も宗教に入りたいです。

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もちろん 投稿者:φ  投稿日: 7月 2日(金)00時55分6秒

 悪口の報復として殴ったら、もちろん罰せられます。
 しかしそれは、殴ったゆえに罰せられるのであって、報復だったから罰せられるのではありません。
 金を貸すのを拒否する場合もそうですが、報復でそうしたからといって、悪の度合が増えることは決してありません。
 殴るとか盗むとかの違法行為に限った場合も、報復だったがゆえに減刑されることはあっても、罰が加重されることは絶対ありません。これは、報復が悪ではなく、むしろ悪性度を薄める要因であることを意味します。
 被害者の側から言うと、ただ被害を受けた場合に比べ、相手の報復で被害を受けた場合は法律で保護される度合が減るため、人は一般に、報復などされないよう、他人に悪をなすことを控えるのです。こうした無意識の規制が道徳心を育みます。
 報復の容認によって道徳が成り立っている部分が大なわけですが、それはそれでかまわないのでは。慈愛や利他心や同情心のような「倫理的に崇高な」感情もすべて、自然淘汰という「無倫理的で闘争的な」メカニズムによって生じたものなのですから。

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いえいえ 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月 1日(木)22時44分40秒

自ら危険を望む、その動機が報復であってもということです。
ですが、φさまの説明に沿ったほうが問題が分りやすそうです。

>なぜ相手は殴りかかってきたのでしょう。罵倒されたから、その報復のためですね。

事件がここまでだったとしましょう。
このときは、この報復は罰せられるはずです。
おっしゃるとおり、いきなり殴りかかったときよりは減刑されることは事実でしょうが、こういう報復が罪であることに変わりはないと思います。

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報復は「善」 投稿者:φ  投稿日: 7月 1日(木)17時13分52秒

 まず、正当防衛と報復は全然違うことを押さえておきましょう。「正当防衛に見せかけた報復」はありうるでしょうが、「事務連絡に見せかけた報復」「恩返しに見せかけた報復」「謝罪に見せかけた報復」「生理現象に見せかけた報復」など、「○○に見せかけた報復」はいくらでも可能なので、正当防衛がとくに報復に近いわけではありません。
 それからどーもわからんのですが、ハムスターさんは自説を否定したいのでしょうか? 正当防衛でも「自ら危険を望んでいた場合は違法」という、その「自ら危険を望んでいた場合」というのは?
 たとえば、相手を罵倒して、怒った相手が殴りかかってきたのを逆に殴って相手に怪我させた、とか? たしかにそういう場合、正当防衛は認められません。もともと相手の暴力という「危険」を自ら誘発しているわけなので。しかし、なぜ相手は殴りかかってきたのでしょう。罵倒されたから、その報復のためですね。つまり、報復に対する正当防衛は認めがたい、ということになります。相手の側から逆に言うと、いきなり殴りかかったなら悪だが、報復のために殴りかかったのだから(ある程度)仕方ない、ということになるでしょう。
 つまり、刑法は、報復というものは仕方のない行為だ、とある程度認めているのであり、報復されるようなことをした人間には、正当防衛の権利を制限する、としているのです。もし報復がそれ自体悪なら、いきなり殴ってきた相手を殴り返す正当防衛より、挑発に乗って殴ってきた相手を殴り返す方がより正当だということになるはずです(ただの暴力ではなく暴力+報復といういっそう大きな悪への対抗措置なのだから)。しかし事実は逆でしょう。報復は、倫理として容認されているのです。
 実際、報復的な犯罪は、報復でない同種の犯罪に比べて、「被害者に落ち度があった」ことが情状酌量の材料となり、減刑されることが多いのです。

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報復は悪 投稿者:ハムスター  投稿日: 7月 1日(木)10時00分35秒

正当防衛という合法行為でも、自ら危険を望んでいた場合は違法となるようです。
ということは、正当防衛に見せかけた報復は罪になるはずです。
これなどは、報復が違法となるケースではないですか。

報復というのは倫理としては悪でしょう。
少なくとも善ではありません。
報復という道徳はありませんし、違法でなくても報復をする人はいやな奴だと思われるでしょう。

注文した料理が出てこなかったとかで、後日、店に放火した人がいました。
この人、「私は受けた恨みは忘れないのだ」とうそぶいたそうです。
この人に同情する人は皆無でしょう。
放火ではなく、後日、店の人を怒鳴りつけるだけだったとしても、いやな奴だと思われたはずです。
してみると、報復の計画性に悪があるのかもしれません。

それと、報復を恐れた人間の行動というのは卑屈なのではないでしょうか。
組織内で利害がからむ場合は、報復を恐れた行動は多いとは思いますが、これだけに絶対の価値を置いている人というのは、その組織内外の人からは軽蔑されていることを知るべきです。

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ビンタは違法だから例として無効 投稿者:φ  投稿日: 6月30日(水)22時05分36秒

 だからですネ、報復の手段として違法行為を使えば、その違法行為の部分で罪に問われるというだけです。ビンタは、報復だろうが自発的だろうが、暴行罪になりますから。
 「合法な(or悪でない)行為が、報復であるゆえに違法(or悪)となる」ことはありえません。
 あるタイプの行為が、「報復を意図している」がゆえにより悪くなることはありえない、ということです。たとえば、私が困っているときAさんがわずかな金を貸してくれなかった。そこで、Aさんが困っているときに「金を貸さない」という報復をする。金を貸さないことは違法ではないし、報復であるということは、道徳性にとってなんら悪を付加しないのです。
 したがって、報復を禁ずる、という「道徳」には、全く意味がない。
 なお、報復されることを想像するから、「快く金を貸してくれる人」はたくさんいるでしょう。そういう、「本当は意地悪だが優しいふりをしている人」は、報復容認の倫理によって生み出せるのであり、脳医学や遺伝子工学の力は必要ありません。意地悪や〈我関せず〉は単なる性格で、脳障害や精神障害ではないので。
 日常生活での報復容認が、「優しい人」を増やし、社会を住みやすくしていることは確かです。

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逆に 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月30日(水)20時06分14秒

報復だからといって許される場合があるのですか?
もちろん、放屁合戦などという話ではありません。
刑法において、右の頬をビンタされたからといって、左の頬をビンタし返すことが許されますか?
これは正当防衛にはならないので、相手が訴えた場合に何らかの罪になる可能性があると思います。
報復だから無罪、とはならないはずです。
法において、このような報復は許されていないはずです。
殺人を例に取ればさらに明確です。
敵討ち等の報復によって相手を殺せば必ず罪になるはずです。

これは一般の倫理においても同じで、子供のケンカの場合、片方が報復だったとしても、大抵は両成敗となるはずです。
報復した方を許したりしませんよね。

報復が犯罪抑止になるかというと、これは法による罰と比べて大差はないように思います。
そもそも、反社会的な極悪人というのは、責任能力が欠けていて、脳や精神に異常のある人だと思っています。
こういう人には報復や罰則ではなく医学が必要でしょう。

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「報復なし」 投稿者:φ  投稿日: 6月30日(水)16時31分44秒

 「なし」というのは、規定なしということで、禁じているということではないでしょう。刑法は、たいていの事柄を放置(容認)しています。嫉妬、競争、訊問、無視、放屁、呪い、嘲笑、告げ口、煽て、セックスの誘い、会話中のあくび、などは、個人間で容認されています。報復も同じ。「報復罪」などというものはありません。kotobazukuri氏の言われるとおり、★報復行為がたまたま違法行為となっている場合に法で禁じられるだけであり★、禁止の根拠には「報復である」ということは含まれないでしょう。(嘲笑や告げ口やあくびも同じこと)
 倫理的カタワである根っからの悪人は、「報復である」ということ以外に、自分が罰せられる合理的理由が理解できないに違いありません。よって、場合によっては「報復」を(非公式に)刑罰の前面に出すことが効率的な抑止策になり、教育的効果をもたらすのです。
 報復を全面否定する左頬主義が社会のためになるなどと思い込むのは、個々の人間の素質への洞察不足か、倫理的自己満足か、どちらかに過ぎないでしょう。

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刑法に報復なし 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月30日(水)15時09分27秒

近代国家の刑法に報復という考え方はないはずですよ。
国際法においても、アメリカの報復は違法だと考える法学研究者は多いようです。
カントの同害報復論においても、被害者側の報復感情などは一切考察の埒外に置かれていて、あくまでも社会に対しての罪に対する罰という考え方です。

それも当然のことで、報復を容認したりしたら中世に逆戻りじゃないですか。
あちらこちらで敵討ちが行われるような世界では、じっくりと科学の研究もできやしませんし、
掲示板での争いで決闘騒ぎが頻発しそうです。

人間の精神を改造して左頬主義者を作るというのは、「時計仕掛けのオレンジ」という映画でやってました。
たしか、左頬実験に志願した犯罪者が報復主義者にひどい目にあわされるというような内容でした。
あたかもイエスのように? 現代でもイエスは同じ運命に陥るというモチーフ?
いずれにしろイエスの左頬主義は人類に深い洞察を与えてくれます。

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報復倫理か優生学か 投稿者:φ  投稿日: 6月30日(水)02時08分39秒

 そうでしょうね、国家は報復を禁じているのではなく、代行しているだけだと思います。当事者個人の判断力には限界がありますから、勘違いによる報復や過剰な報復を防いで、適正な報復をきちんと行なうのが、国家の法の役目でしょう。
 愛や左頬主義ではいくら言っても諭してもわからない愚か者や悪人が必ずいるのが世の定めですから、報復による抑止は絶対必要です。報復の怖れによって条件付けられることで、生まれながらの悪人も、善人へとかろうじて改善されてゆきます。それしか倫理的救いのない悪人や愚者というものが、この世に確実に多数存在するのだからしかたありません。
 それでもなお左頬主義を貫いて悦に入っている人は、博愛マニアというか倫理独占主義というか、自分以外の「愚民ども」がいつまでも低レベル倫理にとどまっている状態にこそ倒錯的エリート意識の満足を覚える利己主義者にほかなりません(言っちゃ悪いけどマザー・テレサにその傾向がなかったとはいえない。悲惨な人々があの人を必要とするよりも、あの人が悲惨な人々を必要とする度合のほうがはるかに大きかったでしょうし)。  公益のために、報復倫理はどうしても必要でしょうね。さもなくば、遺伝子組換えで人間の精神を改造して、倫理的障害者を根絶する優生学しかありません。

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こんばんは>報復 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 6月30日(水)01時13分25秒

> 現代ではほとんどの国で報復を禁止しています。

 これはないと思います。例えば日本では「報復」を禁止していますか?
 私は「違法な行為」を為す事は「報復」の名のもとにおいても許されず「違法」として罰せられる。と理解し、「報復」自体を禁じているとは解釈していません。「違法行為」でない「報復」は法律で禁じられてはいません(当然のことですが)
また「報復」という言葉が必ず違法行為を意味するというのは無理があると思いますし。
 つまり、「報復として違法な行為を為す事を法は許さない」を「法は報復を禁じている」と誤解している人たちがいると私は思っています。

> 国家間では昔ながらの報復の応酬をやっていますが

 禁じていない証拠ですね。「これは違法でない」としてしまえば「報復する」わけです、国家も。

> 左頬主義や、敵を愛しちゃう人は、法によって守られます。

 法が守るのは「法によって報復を代行してもらう人」では?

 死刑の問題で「遺族の報復感情を満たすためには、死刑は廃止すべきでない」という意見を見ますが、法が「報復」そのものを禁じているならば、
このような意見を述べる人は完全に誤解している?
(私がこの意見に賛成というのではありません)

また、報復の為に「告訴」することを法は禁じているでしょうか?

> 左頬主義のほうは法によって実現しているようです。

法は、「他者に危害を与えた者は罰しよ」を実現しているのですから、
全く逆ではないでしょうか?

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左頬主義 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月29日(火)23時37分22秒

イエスが説いた愛は現代では昔よりは実現できるように思います。
現代ではほとんどの国で報復を禁止しています。
φさまのいう左頬主義や、敵を愛しちゃう人は、法によって守られます。

国家間では昔ながらの報復の応酬をやっていますが、報復の禁止へ向けて少しずつでも前進していかざるをえないと思っています。
アメリカとソ連が核の報復合戦にならなかったのが奇跡なのですから。

報復を容認する双方が、報復合戦に陥ったときに、この悪循環を止める方法は報復という考え方にはありえないわけで、
左頬主義とか愛は、これを止める有効な考え方だと思います。
当事者からメタの位置にあるものが、左頬主義とか愛を守る仕組みを築けば良いはずです。

例えば現代日本においては、武器を持った相手には逃げるとかの無抵抗の非暴力しか選択の道はないわけで、
現代では否応無く左頬主義にならざるをえないはずです。
それが近代国家というものなのでしょうか、イエスが説いた愛はまだまだ実現しないけれども、左頬主義のほうは法によって実現しているようです。

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恐縮ですが発言させてください。 投稿者:のん  投稿日: 6月29日(火)04時29分25秒

キリスト教は愚民どもを統率するためにあると考えれば考えるほど辻褄が合います。
天国とか地獄とが在るかどうか分からないもので脅迫して、自分の損得を考えずに人に奉仕する事が良い事だと教えています。
こんな教えが流行るなんてよほど世の中が理不尽であふれているということだと思います。宗教は本当に良くできていて心のスキマに浸透します。
宗教は心の問題はは解決してくれるけど、現実は何も解決してくれてません。聖書はすごく面白いけど、聖書の教えを真に受けるのはマルチ商法にハマるのと同じ事のように思います。

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たしかに2人だけなら 投稿者:φ  投稿日: 6月28日(月)03時32分50秒

 相手が憎むのはまかわない、自分は憎むまい、なんて、ずいぶん身勝手な倫理ですねえ。自分さえ倫理的ならそれでよい。自己中心的というか。
 一対一の範囲で言うなら、無抵抗というのは美徳のように見えますけれど、やはり社会の中で生活していることを考えると、そういう「左頬主義」は偽善というか自己満足というか。
 暴力をふるったやつがいたら、やはり反撃するか警察に訴えるかして、罰しなきゃダメでしょう。暴力ふるうやつは愛されないんだぞ、憎むやつは憎まれるんだぞ、と思い知らせておく。繰り返しになりますが、暴力は処置しておかないと、他人に迷惑がかかりますからね。自分だけいいかっこして暴力者を愛しちゃ社会の迷惑。けっきょく「左頬主義」は、自分以外のことを考えない自己愛的慈愛趣味にすぎないでしょう。
 「罰するのも愛の一種」とくるでしょうが、だから「愛」は無意味な概念なのだと。北アイルランドでは、「愛」によってキリスト教徒同士が殺しあっていたんでしょうしね、当然。
 「愛」を科学的に定義してもらわないと、恣意的な乱用・悪用を防止できませんよね……。

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真の科学的思想 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月27日(日)22時39分29秒

右の頬を打たれたときに左の頬を差し出す、という行為がどういう行為なのか。
右の頬を打った相手の目をじっと見据えて、そして、左の頬を差し出すのです。
これは、無抵抗主義という信念を誇示する行為です。
非暴力による抵抗、を誓った人の行為なのです。

マタイ5・43~48
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

イエスがいうのは、自分を愛してくれる人を愛すのは当たり前のことだ、自分を憎む人をも愛す、それが完全な愛なのだということです。
ここには愛という概念の完全な完成があると思います。

人類は科学的な思考によらずにこういう思想を得た。
このこと自体にもっと価値を置くような科学的思想があってもいいと思っています。

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君子豹変す 投稿者:φ  投稿日: 6月26日(土)03時28分26秒

 ラッセルの活動の変遷は、科学的思考の達人ともなるとトラワレがなくなる、という実例でしょう。君子豹変す。
 話戻って、「右の頬を打たれたなら、左の頬を差し出しなさい」はつくづくひどい教えですよね。暴力が通用すると思い込んでいる相手のためにもならないし、そういう輩を黙認することが周りの迷惑になります。やはり君子たるもの、相手の教導と周りの迷惑防止のためだけにでも頬をひっぱたき返してやらねば。
 ヒトラーに対する英仏の宥和政策が、東ヨーロッパにどれだけの惨禍をもたらしたかを考えれば、右の頬云々の空虚さがよくわかります。のん氏言うところのマザー・テレサ流「自己犠牲マニア」もそうですが、偽善性こそキリスト教の弊害のひとつといえるかもしれません。

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利己が利他に通ず 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月25日(金)09時48分36秒

神の愛の実践が必ずしも利他主義ではないのです。
敬謙なキリスト教徒達がよくいうのが、「不幸な人がいるから愛が実践できるのだ」という考え方です。
つまり、神の愛が実践したいという欲求がまずあって、不幸な人に感謝しつつ実践するわけです。
要するに、自分の為の行為であって、利己主義ともいえると思います。
愛の実践においては、利己主義が利他主義になっているということです。

φさまの 「反核平和運動における利己心-バートランド・ラッセルと核時代-」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/MIUR3-01.HTM を読みました。
核時代における利己主義は利他主義でもあるというラッセルの逆説的な考え方は、キリスト教の愛の実践における逆説と相通ずるところがあります。
おそらく、ラッセルは幼少のころよりキリスト教の教えを聞いていたのではないでしょうか。

しかし、ラッセルという人も変な人ですよね。
数学においてあれだけの実績があるのに、あっさりと数学を捨てて、哲学に没頭する。
数学界からは、ラッセルは堕落して哲学に狂ってしまった、などといわれていたそうです。
哲学においても偉大な業績を残したと思ったら、今度は市民運動に熱中する。
やはり科学者は変わっています。

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マザーテレサ 投稿者:のん  投稿日: 6月25日(金)03時00分0秒

僕は難しい話はまったく分からないのですが、口出しさせてください(;;)
マザー・テレサは選挙に立候補するのを辞退したという話を聞いた事があります。マザー・テレサは政治的な活動よりも、自分のできる事をしたいと言ったそうです。しかし、より多くの人々助けたければ政治的な活動の方が効果的だったのではないでしょうか。自分を犠牲にして他人を助ける事が愛の実践なら、カミカゼパイロットはマザーテレサと同じくらい尊敬されるべきです。マザー・テレサは単にバカなんだったのではないでしょうか。バカがバカなりに考えて頑張ったのが愛の実践なのではないでしょうか。科学的批判精神以前に自分の利害関係を蔑にして他人に奉仕するなんて価値観が常識を逸脱しています。マザー・テレサはぶっ飛びアッパーと言われたほうがまだ納得できます。

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使える/使えない原理 投稿者:φ  投稿日: 6月23日(水)15時54分28秒

 マザー・テレサ、大いに結構では。ああいうふうにひとりで、大宗教組織から離脱した形でやるぶんには。個人的自由を拘束する権威的組織宗教は禁止しろと私は言っております。
 アラブvsイスラエルは、アメリカ→イラクと同様、実行犯とは関係ないところへの「報復」を繰り返しているため、ゲーム理論の最適戦略に反しています。きちんと、犯人に対して即座に制裁を加え、ただし最大限寛容に扱う、それが科学的ゲーム理論の教えです。アラブvsイスラエルは「異教徒」であれば誰にでも報復してよい、という組織宗教の独断でやっているからダメなので、もっと科学を学べば平和も愛も実現できます。
 「汝の敵を愛せ」は既述の通り曖昧すぎでダメです。ポアしてやるのが本人のためであり、愛したことになるとか何とか、「愛」は意味が広すぎで使えない概念です。
 自然な利己主義と利他主義とは矛盾せず、むしろ相互に強めあうという明晰な洞察を、バートランド・ラッセルの「啓発された利己心enlightened self-interest」という原理に見ることができます。やはり科学者の言葉は使えますよ。

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人類に必要 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月23日(水)13時11分9秒

アメリカとソ連の場合、ゲーム理論による核の抑止力によって戦争が防げたのかもしれませんが、
最初のちょっとしたきっかけさえあれば、「裏切られたらすかさず制裁を加えろ」というゲーム理論によって、イスラエルとアラブのような報復合戦になったはずです。
この考え方で世界平和を実現するには、アメリカのように報復の恐怖を相手に与えるような戦略しかないように思います。
ゲーム理論ではアメリカが世界最強の兵器を開発することが必然となりそうです。
殺人兵器による世界平和など、矛盾っぽいですし、人間の曖昧さを考えると危険でもあります。
やはり、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」とか「汝の敵を愛せ」という思想こそが真の世界平和を実現できるのではないでしょうか。

科学者が尊敬されるのは科学の世界においてであって、科学以外では変人が多いですよね。
アインシュタインは例外で、論理学者などは精神を病む人が多いようです。
そういう科学者にマザー・テレサのような愛の実践などまず不可能です。
そもそも、科学的批判精神を持った時点で愛の実践などできなくなります。
それに必要なのは、神の愛を実践したいという情熱だけなのですから。
マザー・テレサに対する世界中の尊敬を見ても、これも人類に必要なことだと思います。

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ナッシュ均衡 投稿者:φ  投稿日: 6月22日(火)01時56分57秒

 ゲーム理論では、囚人のジレンマなどの場合、1回限りだと双方が「裏切る」のがナッシュ均衡となりますが、くりかえしゲームの場合は「自分からは決して裏切らない」のが最強戦略となります。科学的に最強が証明されたラポポートのプログラムは、「自分からは裏切らない」「裏切られたらすかさず制裁を加える」「相手が謝ってきたらすぐに許す」「手の内をさらけ出して相手に不安を与えない」という性格を持ちます。つまりは、「寛容で毅然たるわかりやすい人格者」といった感じですね。
 アメリカは、テロリストとは関係ないイラクを攻撃したわけなので、単なる八つ当たりであり、ラポポートのプログラムとは全然違って非科学的なだけでしょう。
 聖人は科学者に一番多いでしょう。科学者は特に倫理的側面をあえて強調しなくても偉人と認められるため、他に芸のない宗教家ほど「聖人」扱いされないだけです。アインシュタインのような絶対平和主義者は、たいてい科学的思考に長けています。第一次大戦中に「ドイツに降伏せよ」とロンドンで演説して投獄されたバートランド・ラッセルも、かつて子ども向けの偉人伝の主人公となりました。現在では、アメリカにいながらアメリカを批判する急先鋒はノーム・チョムスキーで、やはり科学者です。
 キリスト教はなにしろ事実から目をそむけたままの宗教なので、倫理としての価値はゼロといわねばなりません。事実すら正しく認めない思想が、善悪を正しく判断できるはずがないからです。(ドーキンスの言うとおり、マリアの昇天のような事実的問題について諸派それぞれが異なる断定的発言をしながら、なんら実証的調査の労をとろうとしない怠惰さが宗教特有の非倫理的害悪です)
 科学的批判精神にかなう倫理なんてありっこないですよ。宗教と違って科学では、批判は他者だけでなく権威や自分にも平等に向けられますからね。

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殺人を正当化する考え方 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月21日(月)22時47分5秒

φさまお勧めのドーキンス本では、倫理の問題はどのように論じられているのでしょうか?

ドーキンスの科学的思考とやらで、例えば「右の頬を打たれたなら、左の頬を差し出しなさい」などという倫理というか思想が生まれるのでしょうか。
科学的思考で、マザー・テレサのような人が出現するのでしょうか。
もし、キリスト教に負けない倫理や人物が輩出できるのなら、倫理において宗教を禁止して科学的思考を奨励するのが正しいと私も思います。
しかし、科学的思考では「右の頬を打たれたなら、左の頬を打ち返せ」などと教えるのではないですか。
たしか、ゲーム理論ではこのように教えていたはずですが、この考え方は9.11に対するアメリカの報復の考え方です。
これはイスラエルとアラブのような報復の無限循環に陥る考え方でしょう。

おそらく、問題は宗教にあるのではなく、殺人を正当化する考え方にあるような気がします。
科学的思考でも、宗教禁止を正当化し信者を殺したりしたらナチスと同じです。

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地下化もやむなし 投稿者:φ  投稿日: 6月21日(月)02時34分20秒

プロテスタントと勤勉の関係も、因果関係ではなく、共通原因の結果というわけですか。たしかにそんな気はしますね。

違法な地下宗教が出来ても仕方ないと思います。とにかく、宗教は「悪いものだ」という観念を一般市民に持ってもらうことが重要ですから。現在は逆に「宗教は大切なもの」だという建前がまかり通っており、そちらのほうが地下宗教よりよほど危険でしょう。宗教告発の書としては、↓に書評したドーキンス本はお薦めですよ。
    http://russell-j.com/bokusi-a.htm
 少なくとも、子どもへの宗教教育はぜひ禁じてほしいと思います。親が子どもを入信させるのも禁止。タバコや酒と同じく。6月 5日「解禁⇔厳禁」に述べたとおり、宗教は殺人と同じく個人レベルに限って(自殺と同じく)合法とし、布教したら宗教教唆で有罪とすべきです。
 宗教は現実性を蒸留して、いずれ芸術や文学や思想に同化すべきものでしょう。

 それにしても、分析哲学をやっていると大半がアメリカ発の論文を大量に読まねばならぬのですが、デザイン・アーギュメントと称して「神」を真剣に主題に据える輩が多くて迷惑してます。ほんとキリスト教のせいで、頭の悪い学者がアメリカには多すぎます。われわれ東アジア人には一目で論ずる価値なしと見破れるのに。しかし知の世界もアメリカが牛耳っているので致し方なし。中枢の本当に重要な議論(たとえば「人間原理」)にガップリ食い込んでいるためデザイン・アーギュメントは読まずに済ますこともできず……、
 宗教はつくづく迷惑です。
(なお、いつぞやのシミュレーション・アーギュメントは、一番外側の現実には創造主を必要としない自然主義的理論なので、デザイン・アーギュメントのような有神論的たわごととは違います)

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(無題) 投稿者:Q太郎  投稿日: 6月20日(日)23時45分1秒

ところで一般信者(お布施を払う側の信者)に、異教徒への布教義務を課す教義を持った最初の宗教はキリスト教でしたっけ?
この布教しろという教義を発明した人はパウロであってますか?
思うに、この教義を発明する前とあととで、宗教のもつ感染力は桁違いに跳ね上がったような気がするのですが、だれか調べていないでしょうか?

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プロテスタンティズムと資本主義 投稿者:Q太郎  投稿日: 6月20日(日)23時32分43秒

 Q太郎です。φ様皆様、にどめまして。

プロテスタントの成立について、私は次のように理解しています。
 大航海時代→新大陸を収奪→ヨーロッパに金銀流入→インフレ→
→経済停滞を前提としていたカトリックの教義が権威失墜→
→新しい倫理への待望→プロテスタント出現!
 インフレを前提とした倫理であるなら、(中世カトリックと違って)勤勉を
推奨するのは当然のこと。さらに、経済的要請によって出現した倫理であるのだから
経済的環境が変わらないうちは貧困の原因にならないことも納得できます。

 きっとマックスウェーバーの時代にはプロテスタントは経済の邪魔をしなかったのでしょう。
 もちろん、今は違います。プロテスタントの多くの宗派は進化論を認めないため、
アメリカにおける生物学の基礎教育が不自由になっています。このことはプロテスタント信者の
経済力に負の影響を与えると予測できます。

 初期のイスラムについて私は詳しくないのですが、7世紀の水準からすればイスラムは
素晴らしい社会システムだったのでしょう。そうは言っても所詮7世紀のシステムなのだから
21世紀に適用しようとする者は貧困に苦しむ事になるわけです。

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ただ、 投稿者:学ぶもの  投稿日: 6月20日(日)03時38分32秒

例えば、マックス・ウェーバーの
プロテスタンティズムの勤勉主義がアメリカの資本主義の形成に寄与した
という指摘などのように、宗教の教義に基礎をもつ実用主義や勤勉主義といった
経済的合理性もありえますので、一概に宗教→貧困という傾向性があるとは
いえない気もしますが。
しかし、おっしゃるように、宗教的非合理的思考が、近代社会のさまざまな原理に抵触する
という点で害悪だというのはその通りなのかもしれませんね。

ただ、ヨーロッパの血みどろの宗教戦争などを経験してきた人類史的教訓が
政教分離の下での宗教に対する寛容さだとするならば、
宗教については、過度な規制をせずに社会の中でいかに飼いならすかという
方向でやっていくしかないような気も。
下手に禁止をして地下で集団的宗教活動などが行われるほうが危険な気がするので。

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宗教→貧困→犯罪 投稿者:φ  投稿日: 6月19日(土)19時23分31秒

 宗教と犯罪は、直接の因果関係ではなく「貧困」という共通原因によって結ばれているだけではないか。それは確かに一理あるのですが、宗教の性格と内容を考えれば、単なる共通原因の結果というにとどまらないことがわかります。
 キリスト教やイスラム教は、青銅器時代の迷信に立脚しているので、同性愛禁止や男女差別のような非倫理的教義、化石証拠を否定する創造説のような非合理な教義、権威への従属のような非啓蒙的教義、利子の禁止のような経済発展にとってマイナスの教義を含んでおり、実利的にも教育的にも、貧困を固定する働きをします。資本主義に合わせる必要はないにせよ、少なくとも批判的合理主義には合致していないと、事実データとの矛盾が蓄積し、その矛盾から目をそらしつづける信者はどんどん蒙昧に、自己欺瞞的になってゆきます。貧困から抜け出すには「合理性」が必要でしょう。宗教→貧困→犯罪という因果関係はかなり強いのではないでしょうか。
 なお、「自然淘汰」というキーワードがこれまで散見されましたが、自然淘汰の結果は、倫理的な正しさとは何の関係もないことに注意せねばなりません。↓でも書きましたが。
http://russell-j.com/alcock-j.htm

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チョト言いすぎの気も 投稿者:学ぶもの  投稿日: 6月19日(土)03時04分4秒

>信仰者は犯罪率が高い、という統計がある以上、宗教の有害性はもう議論の余地無しでしょう。

例えば、信仰者と犯罪率の高さの関係の背後には、ひょっとしたら貧困という第三のファクターがあって、
貧しいがゆえに神にすがる。一方貧しいがゆえに犯罪にはしるという状況があるかもしれないので。

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しかし・・・ 投稿者:のん  投稿日: 6月19日(土)02時00分9秒

自分を誤魔化すのではなく、冷静に見極めるのです。
自分のためになる事は何でも良い事です。たとえそれが犯罪で人を傷つける事になっても、
自分が得をすれば良い事です。捕まる可能性を考慮して、それでも犯罪を犯したほうが得と判断すれば、犯罪を犯すべきです。
「天網恢恢疎にして漏らさず」や「天知る地知る」などは、地獄に落ちるからやめろというという脅迫よりも、犯罪を犯した後のビビリながらの生活の苦しさを示しているような気がします。
自分が合理的に判断したならば、何にもビビる必要はありません。

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まっとうに生きる。 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月18日(金)21時53分45秒

>もし透明人間になったらみんな悪い事をするはずです。

私の祖母がよく言っています。
「天知る、地知る、我知る、といって、天と地と自分だけは誤魔化せないんですよ」

人が見ていないときこそ、まっとうに生きろという教えだと理解しています。

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ふむふむ 投稿者:のん  投稿日: 6月18日(金)04時39分48秒

倫理というのが何か私には良くわかりませんが、悪い事なら分かります。
どうして悪い事をしてはいけないかというと、逮捕されるからです。
もし透明人間になったらみんな悪い事をするはずです。
悪い事をしてはいけない気がするのは、悪い事を容認する事で、自分が被害に会う事も容認するような気がするからです。
自分の利害関係を冷静に見極めれば、宗教なんて必要ないし、ドラッグと売買春は不必要とは言い切れません。宗教によって心の平穏を得ることができるという人は、利害関係というものをわかっていません。
より良い世の中とは、自分の欲求が満たされまくる世の中です。
自分の欲求を満たすために人は行動するべきです。自分が死ぬのと宇宙が消滅するのは同じ事です。

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組織宗教のみ禁止 投稿者:φ  投稿日: 6月18日(金)00時48分27秒

売買春、ドラッグ、宗教。どれも個人でやるぶんには、私は全面肯定です。
アラーの神をひとりで崇めているぶんには,誰もケチをつけられません。ひとりでプラトンやニーチェを読んでいる人にケチをつけられないのと同じです。
個人単位の自由を否定して、誰かがマホメットを侮辱したからといって外国の元首が宗教の名のもとに死刑宣告だなどもってのほかだと私は言っているのです。改宗を禁ずるのもとんでもないことでしょう。断酒や禁煙しようとしている人に断酒や禁煙を禁ずるようなものですからね。
親が娘に、ソープで働くことを強制したりしたら問題でしょう?(べつに売買春だけでなくあらゆる職業に関して,強制は非倫理的です)
ある国の或る地域に生まれたからといって、一生同じ信仰を保たねばならないというようなことが当り前のように強制されているから、問題だと言っているのです。改宗も批判も,自由にさせるべきです。
成人の個人単位では自由、強制はダメ。買売春、ドラッグ、宗教についての私の態度は、きわめて一貫していると思いますけれどね。

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どうも不思議です。 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月17日(木)13時11分37秒

私が気が付いたφさまの倫理観を挙げてみます。
買売春の許可、ドラッグの許可、宗教の禁止
これらは我々の倫理観とは正反対です。

我々が持っている倫理が宗教ではないとしても、歴史による淘汰の結果ではあるわけです。
その結果、買売春の禁止、ドラッグの禁止、宗教の許可などが倫理として生き残ってきた。
その倫理を今、φさまが否定する。

そうすることによって、よりよい世の中が実現するのでしょうか?

買売春の許可によって、人身売買が活発になりませんか?
ドラッグの許可によって、中毒者が続出しませんか?
宗教の禁止によって、アウシュビッツのような悲劇が起こりませんか?

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ドーキンス 投稿者:φ  投稿日: 6月17日(木)04時54分43秒

 あらゆる経典が、もっとはるかに歴史のある自然淘汰の遺伝的選択の結果だということです。 
 ともあれ、「宗教」と宣言したとたんにその信念は他の信念よりも別格に尊重されねばならない,などというのはどう見てもバカげてますね。単に地球は平らだとか地球は六千年前に生まれたとか信ずるやつはバカ扱いですが、「宗教で」といえばそれなりに尊重せねばならないらしい。悪口言うやつは殺すべしという信念すら、宗教の名のもとに高尚化されてしまう。
 このへんの宗教批判は,やがて書評をアップロードする『悪魔に仕える牧師』(リチャード・ドーキンス著、早川書房)がお薦めです。
 信仰者は犯罪率が高い、という統計がある以上、宗教の有害性はもう議論の余地無しでしょう。

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倫理は宗教からきた? 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月16日(水)09時29分28秒

キリスト教やイスラム教圏の倫理はその根源がモーセの十戒など旧約聖書にありますし、
日本人の倫理も古事記など最古の記録が神話である以上は、宗教に根源を求めるしかないのではないでしょうか。

φさまのおっしゃるイスラム教徒の犯罪は、イスラム教に対する我々の干渉に原因があるはずです。
彼らの宗教を我々が論じることが、彼らにとっては不当な干渉と映るようです。
中東のことを論じていた評論家がアラブ十数ヶ国から抗議を受けたとか、
車のタイヤの溝の模様がアラーという文字に見えるとかで、アラブ諸国から抗議を受けた企業がありました。
この手の話はいろいろあります。
我々はイスラムのことを経験的に学習しているのですから、この手の干渉に注意さえすれば問題のほとんどは解決されるのではないかと思います。

イスラム教に限らず宗教のこと批判的に論ずるということは、人の信念を批判することにつながり、これは我々の倫理としてもあまり良くないことのはずです。

ですので、早く全ての倫理問題を論理的に解決して欲しいのです。
そうすれば、宗教は非科学的だとの批判が自由にできるようになります。

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倫理←自然淘汰 投稿者:φ  投稿日: 6月15日(火)03時40分50秒

 超合理のヒューリスティクスや倫理の数々は人類の自然淘汰上の必然で生じてきたもので、宗教から生じたわけではないでしょう。
 イスラム教自体が多くの犯罪行為を行なっていることを忘れてはなりません。サルマン・ラシュディに対する死刑宣告のファトワによって、日本を含む何ヶ国もで殺人・傷害事件が起きています。権威の布告の無批判的受容を命じ、言論の自由を否定し、信徒の改宗を認めないところからくる人権侵害も、イスラム諸国の近代化を阻んでいます。
 「宗教からくる倫理」は有害なたわごとだらけであることはもはや周知の事実なのに、無宗教者までがみな思考停止して伝統尊重や物分り良い文化相対主義に惰性でしたがい、イスラムなど野蛮や宗教の存続を追認しているのが現状です。嘆かわしいことです。アクチュアルでない過去の異物として観賞するぶんにはイスラムもなかなかいいものでしょうけれどね、現実生活に強要されているとなると話は別です。
 一神教でない仏教などはかなりマシだと私たちは思いがちで、実際そうなのでしょうが、油断はできません。権威者への無批判的帰依という宗教通有の悪弊は仏教諸派にも認められるようですし、なんといっても強烈な女性蔑視やタブーは、仏教もまた時代に合わない過去の遺物であることを物語っている。ただ、仏教はイスラム教と違って実生活を規制するアクチュアリティは持っていないので、その点、宗教というより思想としてうまく科学時代に調和しているように思われます。

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宗教からくる倫理 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月14日(月)22時41分7秒

私の宗教観はちょっと適用が広すぎたでしょうか。
しかし、我々が経験的、合理的なこと以外で信じていることって、宗教からきたことなんじゃないかと思うのです。
ゲーデルの来世は仏教ですし、ラッセルの「神にたいする知識人の愛」はきリスト教っぽいですし、私達が普通に持っている倫理においては、ほとんどが宗教からきていそうです。 宗教の否定が、こういう宗教からきた倫理をも否定してしまうのではないかと恐れるわけです。
隣人愛、姦淫禁止、窃盗禁止、敬老精神、貪欲禁止などなど、ないよりもあったほうがより良いですよね。

オウム真理教は犯罪を犯しましたから論外ですが、イスラム教に弊害があるとすると他の宗教との紛争においてであって、φさまいう弊害とは我々日本教徒がイスラム教に干渉することによって起こることだと思います。
我々から見て弊害であってもイスラム教徒においては倫理であるはずです。

倫理学が我々の守るべき道を明確に示してくれるまでは、宗教からくる倫理を放棄すべきではないと思います。

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新興宗教? 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月11日(金)11時29分48秒

φさまがいかに宗教を憎んでいるかよく分かりました。
しかし、φさまのいう宗教は新興宗教ですよね。
「額に赤い文字」なんて言葉ですぐ分かります。
新興宗教は、教祖の思いつきか、でなければ詐欺が多いようですから、子供に限らず大人も注意が必要です。

法律に取り入れられている殺人禁止や姦淫禁止など宗教の戒めが多くないですか?
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「宗教」 投稿者:φ  投稿日: 6月13日(日)23時41分55秒

 「宗教」とは、辞書によれば、「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事」。もしアインシュタインやラッセルの世界観をも「宗教」と呼ぶとしたら、言葉を辞書とは別個に再定義していることになります。そのように新たに定義された「宗教」なら、私はべつに否定しません。神の存在証明も、神の非存在という結論にいたる可能性を容認し覚悟しつつ行なうなら、もはや信仰ではなく論理であり合理的営みであり、それを「宗教」と呼ぶならば私はそれも認めたいと思います。
 しかしそういう言葉の再定義はあまり意味のあることではないでしょう。イスラム教やオウム真理教などの、辞書どおりの「宗教」の弊害は依然として明らかだからです。
 ちなみに「汝の隣人を愛せ」は、「愛する」の意味がどうにでもとれるので倫理として無効でしょう。縁もゆかりもない隣人を心情的に愛せなどという義務付けはむしろ有害で、むしろ傷つけない、干渉しない、無関心でいる、せいぜい最低限の相互扶助をする、程度の態度が現実的です。むろんそれも「愛する」の一種と見なせますが、だからこそ「汝の隣人を愛せ」は無内容なのです。

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科学者の宗教 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月13日(日)17時02分30秒

アインシュタインが「科学と宗教」の中で述べていることは、宗教の肯定というより啓蒙ですよ。
科学と宗教の相互の紛争は、お互いの領域に干渉したことから起こり、致命的な誤謬だと述べています。
そして、この紛争の主原因は人格神という概念にあるとして、宗教が人格神を放棄すれば、真の宗教が科学的知識

によって高貴にされ、また深められる、とも述べています。
彼は宗教を肯定し、人格神のいない真の宗教を啓蒙しているのです。

こういう宗教はラッセルも持っているようです。
ラッセルは、永遠なるもの、実在なるもの、生命の根源を求めて、「神にたいする知識人の愛」と呼んでいたようです。

ゲーデルは母親に、来世の存在を説きました。
その根拠は、世界は合理的に構成されている、というものです。
そして、神の存在証明を試みた。
これも宗教でしょう?

これらの人達の宗教意識は、私には自然に感じられます。

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神話 投稿者:φ  投稿日: 6月12日(土)13時58分37秒

 アインシュタインが神を信じていたというのは、ポピュラーな神話です。ホーキングなども有神論者であるかのように引き合いに出されますが、これもウソ。彼らの言葉をちゃんと読めば、ただの比喩で述べているだけ(「科学の基本法則」くらいの意味で使っているだけ」)で、人格的な神など全く信じていないどころか、積極的に神を否定した言葉も多いことがわかります。
 アメリカでも、科学者の中の有神論者の割合は、一般人に比べてはるかに少ないことがわかっています。(出典は忘れましたが、科学者の信仰については信頼できる統計があり、一般人より1桁か2桁有神論者が少ない)
 ゲーデルについては本気でやっていたのかどうか知りませんが、晩年はゲーデルは心を病んでいたので、科学者の典型的なサンプルではありません。
 ニュートンの時代はともかく、20世紀以降に神を信じている科学者に、たいした学者はいないといって間違いないでしょう。

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科学と宗教 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月12日(土)13時04分1秒

リンクされたサイトの犯罪統計は、確かに信用できるデータのようですね。
このサイトの主張はφさまの主張と同じようです。
私が興味を持つのは、無神論者の割合が8-16%だということです。
日本で調査をしたら、有神論者の割合がこの割合になるのではないでしょうか。

欧米では科学者も有神論者が多いようです。
アインシュタインは「科学と宗教」の中で、我々の行為や判断に必要な確信は科学的方法のみでは見出せないとして「宗教なき科学は不具である」と述べていますし、
ゲーデルは神の存在を証明しようとしました。
私などは、今、宗教を否定してしまうと倫理の問題が残ってしまうと思います。

例えば、なぜ隣人を愛さなければいけないのか? 
この問いを突き詰めると宗教にたどりつきませんか?

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伝統宗教も 投稿者:φ  投稿日: 6月12日(土)01時48分43秒

 いや、ですから、何度も述べたとおり、伝統宗教こそ、男女差別や非寛容、復讐、偏見、無意味なタブー、権威主義、卑屈主義を容認しているのであって、尊敬を受けているぶん新興宗教よりたちが悪かったりします。イスラム教がまかり通っているかぎり、中東諸国は最貧国状態から脱することはできますまい。
 ただし、科学的批判精神が普及する前に伝統宗教に入信した人は、やむをえないところもあり、科学時代にあえて伝統宗教や新興宗教に入信した者に比べると、人格的に劣っていない可能性はありますね。科学的思考が普及しているにもかかわらず宗教に走るようなやつらは、愚か者の一言で片づけてよいと思います。表現が強くて申し訳ありませんが、なんだか宗教がいつまでも政治経済的保護や優遇を受けて建前上尊重すらされている有様を見ると、せめて日常生活レベルでは大いに軽蔑し差別してやるくらいでちょうどいいんです。
 なお、犯罪統計は、それぞれの母集団での「投獄される確率」ですから、はっきりと有神論者に悪人が多いということを物語っています。統計については下のページをご覧ください。
http://www.freethought.freeservers.com/reason/crimestats.html

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新興宗教? 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月11日(金)11時29分48秒

φさまがいかに宗教を憎んでいるかよく分かりました。
しかし、φさまのいう宗教は新興宗教ですよね。
「額に赤い文字」なんて言葉ですぐ分かります。
新興宗教は、教祖の思いつきか、でなければ詐欺が多いようですから、子供に限らず大人も注意が必要です。

法律に取り入れられている殺人禁止や姦淫禁止など宗教の戒めが多くないですか?
宗教の戒めを法律として取り入れざるをえなかったということ自体に「何千年も人類が守ってきたルール」を感じるわけです。

日本人に宗教を聞くとほとんどの人が無宗教だと答えます。
しかし、家には先祖伝来の宗教があり、正月には神社仏閣へ詣で、お祭りに参加し、クリスマスを祝い、結婚式はキリスト教、葬式は仏教と決まっています。
こういうのは無宗教ではなく無節操とでもいうべきで、決して無宗教なのではない。
こういうのを日本教とよんだ人がいますが当たっていると思います。
我々は宗教を信じていないのではなく、信じているものが宗教だと知らないのです。

犯罪率の件ですが、一神教とその他という観点があるのなら、先進国と後進国という観点も比べる必要があると思います。
また、欧米では無宗教者は少数派ですから、犯罪検挙率自体が少ない可能性はありませんか?

宗教信者が「道徳的に低い」というのは、新興宗教の信者に限ったことでしょうか?
私の祖母は熱心な仏教や神道の信者のようですが、若い人よりも道徳的に立派で、私など祖母の話を聞くのが大好きで、実際に人生勉強になります。

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たしかに 投稿者:φ  投稿日: 6月11日(金)01時25分13秒

 道徳的に低い性格が、宗教入信の原因なのか、結果なのかは、慎重に調べなければなりませんね。
 ただ、私の(かなり明瞭な経験的)印象として列挙した「批判精神なし、猜疑心強し、臆病、利己的、視野狭し、自分の誤りを認めず、金銭欲名誉欲強し、えこひいき、好き嫌いあからさま、憎しみ強し、閉鎖的、権威に媚びる、非寛容……」は、たとえば科学と比べたときの宗教の顕著な特徴なので、始めからそういう性格の人が入信した場合、ますます症状が進むことはあっても快方に向かうことはないと思われます――

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そうですね 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 6月11日(金)00時34分51秒

そういえば以前、宗教を信じている人に今回φさんの指摘されているような感じの人が多いと自分も思っていたことがありましたが、その時は、もともとそのような人だから宗教に入らなければ苦しかったのではないか・・という逆方向で考えていて、宗教のせいでそうなったのだとは思っていなかったのですが・・
実際自分は宗教について何も知らず漠然と「心良き人にするためのもの」のはずなのに、何故そうでない人が多い? という疑問で上記のような解釈をしていたもので、
ともかく近づかないようにして来たので、知識不足です。

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宗教⇒不道徳 投稿者:φ  投稿日: 6月11日(金)00時11分23秒

 「何千年も人類が守ってきたルール」が正しいとしたら、すでに述べたとおり戦争も男女差別も身分差別も正しいことになってしまう。宗教の内容も、方法も、現代社会にはすでに適合しないと思われます。
 (残念ながら私自身は所属教団の教義を信仰した経験はありませんが)きわめて穏健な神道系教会とはいえやはり信者を脅しているのが、内部にいながら腹立たしかったです。「みなさんの額に赤い文字が見える、各人の死因が書いてある、因縁を断つには神に縋れ、二股かけると地獄に落ちる」。どこの宗教もその調子です。子どもの頃からそう囁かれ続けた敬虔な信者を痛ましい思いで見てましたので、せめて酒やタバコなみに未成年の宗教は禁じてほしいと今さらながら願うのです。
 日本もそうですが、実質的には東アジアではほとんど宗教の力なしで道徳教育はうまくいってます。私が教室でアンケート調査した結果でも、信仰をもつ者はほとんどおらず、「神を信ずる人なんてバカ」と明言する女子大生ばかりですが、普通の道徳心や同情心は十分持ち合わせています(ただし血液型性格判断や各種占いや超能力を信じるという学生は結構いて、しかし宗教ほど有害ではないでしょう)。一神教のない東アジアは欧米に比べて犯罪率が低い。そしてアメリカでの犯罪率調査でも、「神を信じる人々」の投獄される確率は、「神を信じない人々」の投獄される確率のなんと40倍だそうです。私の知っている範囲でも、宗教信者はそうでない人々に比べて、批判精神はない反面猜疑心が強く、臆病で利己的で視野が狭く、自分の誤りを認めようとしない傾向が強く、金銭欲や通俗的な名誉欲が強く、えこひいきや好き嫌いがあからさまで、憎しみの感情も強く、閉鎖的で権威に媚びる非寛容な人間、すなわち道徳的に低い人間が多いとハッキリ断言できます。

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もしかして 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 6月10日(木)20時41分37秒

φさんの宗教廃止論は、ドラッグを禁止するなら、それよりもっと危険な宗教を何故禁止しない? という流れだったでしょうか?
それだと自分の書いたのはφさんへのレスとしては流れに外れていたかも。
(そういえばドラッグ禁止は人を愚者扱いすること、というように書かれていた気も・・。)

そして、自己責任を問えない子供に対しての布教、というのは、確かに、後での洗い換えがとても難しいとしたら・・大事な問題かも
親が信教している場合の難しさ・・

自分で考えて洗い換えていける能力を同時に教え育ててやるような教育が必要なのか・・・

後・・痛い目に合ってこそ本当にものを知る、ということもあり・・

それと、まっとうな(とされている)宗教を禁止すると、なおさら得体の知れぬ非科学、人を脅し可能性を束縛するだけのものが幅を利かせてしまうのではないか・・とか。

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(無題) 投稿者:kotobazukuri  投稿日: 6月10日(木)17時41分51秒

宗教によって愚かな状態にされる人がいるから、宗教は廃止
というのは、人類への甘やかし、或いは人類を軽蔑していることのようにも思え・・

でも、このようなことを言えるのは、私が実害を受けていないからかもしれませんね・・
宗教には近づきませんでしたし。

ハムスターさんの言うように、効果の面もある、ということも公平に評価してはいけないのでしょうか?
後の選択は自己責任ということで・・

えっと、少し前に

> 人に迷惑をかけない範囲内においては個人の自由を無制限に認めよ、という論理(倫理)では、あらゆる薬物は許されるべきでしょう。

 この論理の場合には、「自殺」も可、となるでしょうか?

それと・・宗教の場合は、人に迷惑をかけるものであるから、廃止すべき、ということになるのでしょうか?

(以前使っていた名前にもどしました)

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人類のルール 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月10日(木)13時12分42秒

φさまってもしかして、オウムだったんですか?
私もオウムには興味を持ったことがあります。

宗教が淘汰されつつあるというのは同感です。
そして、その影響で道徳が失われてきたのだと思います。
これはごく最近のできごとです。
今は旧世代が新世代に対して道徳教育がしづらい時代です。
旧世代は、人を殺すと地獄に落ちる、と教えられた世代でしょうが、
今時、人を殺すと地獄に落ちる、などといえば新世代からオヤジ扱いでしょう。
何でもかんでも科学的に説明しなければ受け入れられない、というのは倫理問題においては、ちょっとこまった風潮だと思います。
現代の科学はまだ倫理問題を自由に扱えるほど進化していないようです。
そうして、子供達の殺人事件が増えてくる。

φさまのおっしゃるような宗教の弊害はあるのでしょうが、それらは先進国では克服されていませんか?
論理が大事なのは当然として、論理で説明できないところは経験にたよるのが正しいのではないでしょうか。
宗教の権威を信じるのではなく、歴史による淘汰という人類の経験を信じるのです。
そうすれば、例えばなぜ隣人を愛さなければいけないかという説明で、何千年も人類が守ってきたルールなのだ、というような説明ができそうです。

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青銅器時代の愚かな蛮習 投稿者:φ  投稿日: 6月 9日(水)06時34分52秒

 殺人はいけない、盗みはいけないなどの倫理は宗教とは独立でしょう。たとえば聖書では、同性愛がはっきり禁じられています。豚を食うこと、貝やエビやカニを食うことも罪悪とされています。利息を取る金貸しも厳禁です。『フィロソフィー・ジム』9、10章でそうした例がいろいろ挙げられていますが、聖書はホント、いまの基準ではどうでもいいことをあれこれ禁じているのです。にもかかわらず、キリスト教徒もユダヤ教徒も、今や聖書の教えのほとんどを守っていません。イスラム教徒もそうです。彼らはなぜ平然と経典にそむいた生活ができるのか? むろん、教義より倫理が優先するからです。倫理は環境に合わせて進化するので、男女不平等や同性愛禁止、エビを食うことの禁止、混紡の服の着用禁止など、時代に合わない教えはどんどん宗教の教義から切り捨てられていきます。「あれは聖書が比喩的に語っているだけだから、文字通りの教えを守る必要はない」というわけですね。そうした恣意的な取捨選択がなされうるのは、教義の大半が不合理であり、悪ですらあることを宗教家自身が知っているからです。
 どんな信心深いキリスト教徒でも、聖書の教えの90パーセントは破って生きています。つまり、キリスト教はすでに淘汰されてしまっているのですよ。ローマ法王自身が、ガリレオやダーウィンを認めてしまいましたが(「仮説」という言い方にせよ)そうなるともう、古来のキリスト教とは言えません。キリスト教はすでにミームの自然淘汰に敗れ去ったのです。他の宗教も同様。
 宗教は、経典の中のどの教えを比喩と解するべきであり、どの教えを文字通りに守るべきかの区別を教えてはくれません。殺人や盗みを禁じた教えすら都合に合わせて曲解している宗教ですから、時代の倫理や科学によって淘汰されるのは当然でしょう。宗教家は、「殺してはならぬ」を比喩的にゆるめ、異端や異教徒を殺すことをためらわないのです。キリスト教の魔女狩りや、イスラムの最高権威から発せられた死刑宣告のファトワなどを一時の病理現象とは見なせないでしょう。あれが宗教の本質なのです。つまり文字通りの教義は、倫理のみならず、政治よりも優先順位が劣ったものと見なされているのですよ。
 いずれにしても、問題は真偽ではなく、論理です。★かりに★宗教の教義が結果的に正しいことを命じているとしても、「経典が命じているから」「権威が布告しているから」という態度は、盲従の態度を生み、ナチスの台頭を許したドイツ国民式の無批判的熱狂を生み、批判・実証の論理的手続きを無効にする、超有害な姿勢です。「野蛮な青銅器時代の嫉妬深い神」(ドーキンス)を崇めるべき理由を、科学時代の人類は一切持ちません。いまだに宗教が礼賛されている風潮を、私は許すことができません。
 いや全く、同期の本来聡明な入信者たちがどんどん愚かになってゆくのを目の当たりにしている私なので(恩師もひとり狂ってしまったし)、宗教には恨みがあるのですよ……。

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必ずしも偽でないような 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月 9日(水)02時21分48秒

ほとんどの宗教には、・殺人をしてはいけないこと ・姦淫をしてはいけないこと ・盗んではいけないこ ・父母を敬うこと などの戒めがあります。
こういう戒めは何千年もの歴史の淘汰を受けてきた倫理ですし、間違いだとは思えません。
日本人は他に、・他人に迷惑をかけないこと ・一生懸命働くこと などの倫理を持っています。
(こういうのを日本教と呼んだ人がいます)

φさまご指摘のように、現代には合わなくなったおかしな倫理もありますが、人間の命にかかわるような大事な倫理においては、間違はないように思います。
こういう宗教のいいところまで非論理的だと否定するには、まだまだ現代の倫理学は不十分だと思われます。

子供には、人を殺すと地獄に落ちるんだぞ、と教育した方が有効ですし、
盗んではいけないことが分からなければ、論理よりも体罰で処することも有効な場合があるかもしれません。
最近起こった小学生の殺人事件などを見ると、非論理的な宗教っぽい教育方法であっても、してはいけないことをしっかりと躾けることが重要だと感じています。

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互いに矛盾していればほぼすべてが偽 投稿者:φ  投稿日: 6月 8日(火)03時52分42秒

 キリスト教の内部にも宗派によって倫理はばらばらですし、ましてやイスラム教とヒンドゥー教、ブードゥー教とシーク教、浄土真宗と中央アフリカの精霊信仰、一体どれを信じればいいんでしょうか。各宗教によって形而上学も倫理も矛盾しているので、すべてが正しいことはありえません。何千年の歴史は、それが真理である証拠になどなりはしないのです。(大まかな倫理は合致している、という擁護は出来ません。男女差別や民族差別や殉死や、死んだ近親者の脳や内臓を食うことが美徳である宗教だってあるのです)
 国家間の意見の相違は武力で解決する、女は男に従うべきである、などという倫理も、何千年も歴史がありますが、そろそろ淘汰されるべきときでしょう。宗教だって同じです。
 子どもを一方的に洗脳しておいて信教の自由など絶対に成立しません。幼時に染み付いた思い込みは、そう簡単に拭い去れません。幼児期の刷込みの重大性は、脳生理学が証明しています。赤ん坊に対して非科学的な人生を強いるなどという行為の犯罪性に、おとなはもっと敏感になるべきでしょう。

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道徳 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月 7日(月)19時27分29秒

仏教では、どの宗派でも幼少のころより入門し長い修行の末、権威者となるようです。 キリスト教でも同様のはずです。

宗教者の道徳には何千年という歴史があるように思います。
その道徳が論理的に偽であるのなら間違いだといわざるをえませんが、歴史を経てきた道徳が論理的に偽だということはありえないように思います。
もし、論理的に偽である道徳ならば、歴史によって淘汰されているはずだと思うのです。 ほとんどの道徳が論理的に証明できない以上、当面はこの道徳を尊重して生きていくことで正しい生活ができるのではないかと思います。

現代では、科学による中途半端は宗教の否定によって、この道徳が失われているように感じます。
倫理学が大成すれば宗教道徳に頼る必要はないのですが、現状では、宗教の良い点をも吸収していくのが正しい生き方であると思っています。

もちろんここでいう宗教には新興宗教は入っていません。
新興宗教は、歴史の淘汰を受けていないという点において信用できません。

φさまの18歳未満への布教禁止については、信教の自由が保障されていれば良いのではないかと思います。
子供が成人して自らの宗教に疑問を持ったときに自由に改宗さえできれば何の問題もないように思います。
子供の躾には、現状では宗教に頼るしかないわけですし。

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18歳未満禁止 投稿者:φ  投稿日: 6月 7日(月)01時52分2秒

 「宗教の権威者」って一体何の権威者なんでしょうかね。道徳に関して、かれらが何か特別な専門知識や洞察を持ってるんでしょうか? 努力もせずに一気に啓示に縋ろうとする態度が倫理的なんでしょうかね。科学的批判思考こそが、偏見を脱することを諭し、争いを無用化する王道ではないでしょうか。
 宗教は、直ちに禁ずるのは混乱のもとですから、アルコールやポルノやギャンブルや選挙と同じように、未成年とか18歳未満とかへの布教は厳禁とし、自己決定能力を身につけてから自由に決めろとするべきでしょうね。イスラムの家庭に生まれたら本人の自由思考なしにイスラムの道へ、とはあまりに悲惨すぎます。

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宗教と倫理学 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月 6日(日)16時35分41秒

φさまの宗教に対する考え方は、多くの日本人がいだいている宗教観を極端に過激にしたもののようですね。
我々日本人は宗教、特に一神教に対しては胡散臭く感じています。
φさまの著作にも取り上げられている科学者達の終末論などは、ほぼ確実に聖書の終末の記述の影響だと思われます。
こういう宗教の呪縛から解放されることが科学をする真の立場だとは思います。

しかし、一般人に対して宗教からの解放を唱えるのは時期尚早だと思います。
なぜかならば、倫理の問題が現在の倫理学ではまだまだ不十分に思われるからです。
なぜ人を殺してはいけないのか? に対して語用論的に矛盾するからだ、というような解答ではあまりにも心もとない。
宗教では、人を殺すと地獄に落ちると教えます。これは大変に恐ろしく感じます。
また、愛とか慈悲とか、なぜそうしなければいけないのかを、倫理学では我々が納得のいく解答を示せないのではないでしょうか?
宗教では汝の隣人を愛せとかと、絶対の権威者が教えてくれます。

倫理学の現段階では、宗教からの解放は、論理的な思考と行動ができる一部の人達に限っておいた方が無難だと思われます。

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解禁⇔厳禁 投稿者:φ  投稿日: 6月 5日(土)13時53分59秒

 アルコールのように、この範囲なら合法、と決めればフェアだし、時たまはみ出る違法な乱用者に対しても、むやみな偏見が減るでしょう(飲酒運転経験者や未成年飲酒者に私たちはさほど偏見持ってませんよね? 大麻なんか所持だけで白い目で見られます、たぶん)。やはり法律の力が大きいですよ。
 宗教は、全面禁止すべきでしょう。ドラッグは単なる非理性だが、宗教は反理性で、合理的な批判力と矛盾し、近代教育の成果を台無しにしますから。個人レベルで「本気の芸術」として宗教やる自由は認められるべきですが、それは自殺と同じ扱いとし、他人に勧めたら自殺教唆で違法とすべき。宗教法人法は自殺強要の営利団体を認可保護しているようなもので、もってのほかでしょう。
 一神教のキリスト教やイスラム教は有害宗教の筆頭。アメリカの独善はキリスト教抜きでは成立しないし、改宗の自由を否定して国連の信仰自由決議に反対しているイスラム教も同罪。イスラムの棄教は死罪に値するらしいですね。信者脅迫の手法を目の当たりにした私としては、あれを国家・超国家レベルでやってるのかよと、あきれて物もいえません。
 9.11やオウム事件のとき、「悪いのは宗教ではない、テロリストだ」といった物分りのいい議論がまかり通りましたが、いいかげんにしろです。宗教は敵と味方をマーキングする最も効率的な装置で、原始的本能に訴えるので安価に(努力なしで)威力を振るいます。アイルランド、パレスチナを見ても、宗教公認の世界では憎悪はなくなりません。
 子どもの手術のとき「私の信念で」輸血は拒否すると言う親は一蹴してかまわないのに、「宗教上の理由で」と言われるたびに真剣に対応しなきゃならんというのも馬鹿げた話です。500年前に絶対神・絶対倫理を信ずる意味と、進化論・量子論の時代以降に絶対神・絶対倫理を信ずる意味は、知的にも倫理的にも全く違うのですから。

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ってことは 投稿者:corobckr  投稿日: 6月 5日(土)12時33分34秒

ドラックが合法化されている国って乱用者は少ないんですかね?しっかりしたシステム作り、教育が大変そうですね。実現されたら素晴らしいと思います。   覚醒剤が分析哲学より上だと、もし思えるなら法に触れてでも使われるんでしょうか?

あと、私は宗教のことはわからないんですが、全部がダメなんですか?キリスト教とかも・・・助けられてる人が多くいると感じますが。(洗脳されてる人も感じます) すいません、質問ばかりの上に話がとんじゃって。

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類推 投稿者:φ  投稿日: 6月 5日(土)04時50分37秒

 ほぼアルコールのみ許容という現行法は、アルコールが体質に合わない人に不公平です。いろんな選択の中から、自分の体質に合ったドラッグを選べるようにするのがフェアでしょう。合法ドラッグの選択肢が増えれば、正しい選択が増え、アル中も減り、覚醒剤にせよ幻覚剤にせよ危険な使用は減るでしょう。自分に合ったドラッグにめぐり合う機会を増やすのが誤用乱用防止への道です。
 私が化学的快楽よりも理性的快楽に魅力を覚えるのは、酒からの類推ですね。アルコールによるトランス状態は、意識が朦朧化する快感であって、そういうのはどうも物足りない。趣味に合わないんです。朦朧化の快楽(高エントロピー系)なら、寝入りばなや目覚めのまどろみやマッサージや発熱時や衰弱時やオルガスムなどで感じうることですしね。ロジックのように、意識がクリアになる快感(低エントロピー系)のほうが非日常的であり、断然輝かしい。だから覚醒剤ならば私も楽しいクリアな快感を得られるような気もしますが、あえて法に触れる必要も覚えませんし。覚醒剤よりは分析哲学のほうが快楽度は確実に上でしょう。
 いずれにせよ、宗教だの天皇制だのという超有害な麻薬が合法であるばかりか保護まで受けているのに比べると(私は新興宗教入信経験者としてあらゆる宗教の有害さを見て知っているので、いずれ新旧全宗教が詐欺や人身売買の一種として厳禁されるべきことを主張します)、化学的ドラッグの禁止はどうもバランスが取れていない。最悪のドラッグですら宗教よりも有害性は5桁ほど下でしょうから。

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酒とヤク 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月 4日(金)23時38分5秒

酒が合法なのだから、覚醒剤も合法であるべきだ、とはいえませんよね。
覚醒剤には酒よりも相当に強い刺激があるわけですから。

ナイフを持ち歩くのが合法だからといって、マシンガンを持ち歩くのはいけませんよね。
核兵器や細菌兵器を持ち歩いたらもっといけません。
こういうのは程度の問題なのだと思います。

ですから、大麻となると合法か非合法か判断の分かれるところです。
刀や護身銃ぐらいの位置付けでしょうか。

覚醒剤によって生産的な芸術作品などが生れることは私も知っています。
音楽でいえば、ジャズのチャーリー・パーカーやバド・パウエル・・・、
ロックのジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリン・・。
クラシックの・・・にはヤク中はいないですかね?
で、みんな短命です。もっと長生きしたらどれほど素晴らしい芸術作品が生れたか惜しいところですが、
みな、命よりも好きなことで世に貢献したい、というか、世の中を「あっ」と言わせたい、それだけのために命を削った人達です。
こういうところに人間の悲しさを感じてしまいます。
絵画のゴッホなどはヤクやらなくてもヤク中みたいな人でした。

いずれにしろ、命あっての観測選択なわけですから、もっと命を大事にしてほしいものです。
この意味で、ヤクの乱用などは売春より数倍の悪だと思います。

って、支離滅裂な文章でどうもすいません。m(_ _)m

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それと! 投稿者:のん  投稿日: 6月 4日(金)03時02分29秒

>人間ってホント法律に洗脳されてしまう弱い動物なんです……。
そんな言い方はしないでけろ!みんな牢屋に入れられたくないから悪いことをしないようにしてると思います。利害関係のバランスなんだと思います。ただ、それを無理矢理道徳にこじつけようとして変な価値観とかになってる気がします。
>アンフェタミンなどの刺激薬を処方してもらえば、まあ安全でしょう。
ヒロポンは危険です!おなかが減らなくなる可能性があります。向精神薬ならわかりますが、ヒロポンなんか処方する医者っているんですか?
>限度を越えずに使用されるのであれば問題ないんでしょうが
限度がどこにあるのか自覚できるものなら、乱用することはありえないと思います。乱用というくらいですから自分の意志とは無関係に乱用してしまうものなのです。きっと。

私はBBSに宣伝を投稿しまくるバイトをしていたことがあります。撃退にはアクセス禁止が一番効きます。掲示板の移転もかなり効果的です。URLを一文字変えるだけでかなり効果的です。

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確かに!だけど 投稿者:のん  投稿日: 6月 4日(金)02時32分19秒

>自分は単に化学的に気持ちよくなるんじゃ物足りない、論理的な手順を踏んだ気持ちよさを追求したい
φさんは薬物による人為的な感情をなぜ物足りないと思うのですか?実際に覚醒剤を自分に注射して比べてみないと、どちらが気持ちいいのかわからないと思います。薬物関連の法律を作った人も、薬物乱用の経験はなかったのではないでしょうか。しかし、薬物を乱用した人の行末は見たことがあると思います。未経験者が経験者を論ずる結果が薬物乱用評論なのではないかと思います。未経験者が未経験者を説得する。それが薬物乱用防止キャンペーンです。自分の知らないことを教えようとするからインチキくさいんだと思います。

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どんなドラックも 投稿者:coroackr  投稿日: 6月 3日(木)12時48分53秒

アルコール、大麻、覚醒剤など、どんなものでも、限度を越えずに使用されるのであれば問題ないんでしょうが、負けちゃいますよね?たぶん。
中毒性の強さ、人体への影響が強いものは、国として認めない。ってのは、「あんたらは、その誘惑に負けてしまうヤツらじゃ!」だから規制。アルコールなんかは「それにさえ負けるようなヤツは知らんがな!ボケェ!!」だから容認。だったりするんでしょうか?規制してもらわないと、廃人になる自信があります。なので規制には賛成です。

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乱用は自己制御しつつ 投稿者:φ  投稿日: 6月 3日(木)02時53分0秒

 しかしWHOの基準でかなり危険なドラッグに分類されているアルコールですら、私たちはうまく利用できているのでは? なぜ酒だけ特別? 単に慣れの問題ですよね。
 覚醒剤も、うまく使って生産的な生活に役立てている人のほうがずっと多いらしいです。一部の「人間ヤメた」人だけを見てドラッグ全部を否定するのは非科学的。アル中ゆえの家庭崩壊、飲酒運転で人生棒に振るなんて例いっぱいあるのに酒は合法ですしね。
 どのみち人に迷惑かけたやつは罰せられるのだから、そうでないドラッギーは放っといてやりゃいいんです。時々酔いつぶれる程度の無害な酒飲みをいちいち咎め立てしませんでしょ。
 たまたま合法だと百薬の長だけど違法だと人間廃業。悪魔の水。そういう偏見に過ぎないと思いますよ。売買春への態度と同じ。人間ってホント法律に洗脳されてしまう弱い動物なんです……。

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何故、薬物乱用してはいけないのか? 投稿者:ハムスター  投稿日: 6月 2日(水)23時33分15秒

またまたφさまったら、それじゃあ「ヤクの乱用は自由だ」ってなことになっちゃいますよ。

当然のことですが、薬には副作用があり、使用法があります。
医療過誤などの事件でも、薬の使用法を誤って人を不幸な目に遭わせてしまうことも多いようです。
このような事故を防ぐためには、薬を関する専門知識と経験は必要でしょう。
できれば、第三者がこの専門知識や経験を評価し、認められた者だけに薬を扱わせた方が安全であることは誰でも考えることでしょう。
それが医師国家試験であり、薬剤師国家試験なのだと思います。

ですから、どうしても手っ取り早く幸福感が味わいたいのなら、主治医に相談するべきだと思います。
そのうえで、アンフェタミンなどの刺激薬を処方してもらえば、まあ安全でしょう。
素人判断で薬物乱用などすれば、まず確実に不幸を招くことになるはずです。

こんな説明は論理的じゃないでしょうか?

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薬 投稿者:φ  投稿日: 6月 2日(水)03時21分7秒

 麻薬、覚醒剤、ドーピング、買春などはみな、共通の人生観にもとづいていると思われます。「効率よく気持ちよくなりたい、成果を出したい」等々。過程より結果重視の思想。
 ドーピングについては『論理パラドクス』問097で簡単に触れましたが、学者や芸術家の業績は、薬物によって生じたものでも社会的に公認されます。アンフェタミン頼みの科学者、麻薬常用のアーチストはたくさんいる。本人が納得の上で使用するなら、論理的にも倫理的にも全く問題ないでしょう。「自分は単に化学的に気持ちよくなるんじゃ物足りない、論理的な手順を踏んだ気持ちよさを追求したい」という人(私もそうですが)は薬物を控えればよいだけのこと。薬物に頼って気持ちよくなりたい人の生き方を否定する権利はありません。
 学者や芸術家だけでなく、スポーツ選手にもドーピングは許されるべきでしょう。「自分は単に化学的に強くなるのはイヤだ、力学的に鍛錬したうえで強くなりたい」という選手は薬物を控えて精進すればよいだけのこと。「乱用」がいけないとしたら、覚醒剤やアルコールの場合、錯乱や酩酊の状態で他人に迷惑をかけることがあるからに過ぎません。タバコの煙も同様。人に迷惑をかけない範囲内においては個人の自由を無制限に認めよ、という論理(倫理)では、あらゆる薬物は許されるべきでしょう。

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幸せとは何か? 投稿者:のん  投稿日: 6月 2日(水)02時08分35秒

人間は幸せを求めています。
幸せとは、脳内物質のセロトニンやβエンドルフィンなどが分泌された時に起こる化学反応です。それらを簡単に分泌させるには、覚醒剤などの麻薬がもっとも有効です。幸せという感情は、脳の作用である以上、過程は関係ないはずです。人間はみな麻薬を求めています。

中毒者は多かれ少なかれ、このようなことを考えています。論理的に正しい気がします。しかし、薬物乱用は間違っていると思います。薬物乱用者には決定的な論理矛盾があるはずです。人類みなジャンキーになることが人類の幸せということはありえないと思います。薬物乱用の防止キャンペーンは説得力がありません。何故、薬物乱用してはいけないのか論理的に(倫理的にではなく)教えてください!お願いします!

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因果説vs記述説 投稿者:φ  投稿日: 5月13日(木)02時32分8秒

クリプキ・カプラン流の「指示の因果説」だと、固有名を確定記述に同化させられないわけですけれどね。しかしhttp://members.jcom.home.ne.jp/miurat/guzen-u.htm最終7節に述べたように、「指示の因果説」はいろいろ不都合を孕んでいるので、結局はラッセル流の「記述説」に戻らねばならないような気がします。少なくとも究極の論理的固有名「私」の同定に関しては、起源でやろうとすると無理が生じる。ただし他方、〈観測者〉という性質を満たすものは何であれ「私」でありえた、と人間原理的に考えると、逆に唯一条件が満たされなくなって「私」は確定記述ならぬ不確定記述だということになってしまいますけれどね。

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確かに 投稿者:学ぶもの  投稿日: 5月12日(水)23時05分12秒

「ベガサす」「ペガ(サ)スる」みたいなクワイン方式(雪女る?)を採用すれば、
雪女を固有名と解釈した場合でも記述理論の枠組みをつかって2のように分析できますね。

論理的には嘘にはならないけれど日常会話的には問題ありな言い方

「消防署の方から来ました」
「消防署の職員の方なのですね」
「いえ、消防署の方角から来ただけです」

「私は弁護士になったことを後悔したことは一度もありません」
「あなたは弁護士なのですね」
「いえ、ただのサラリーマンです」

「ならば」ネタでは論理パラドックスにゴキブリバージョンがありましたね。

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雪女は融けました 投稿者:ネモ  投稿日: 5月12日(水)10時45分7秒

おや、間違えたかな。「雪女」は解けました。
たいへんありがとうございました。
始めの●で、現代論理学がカヴァーする領域と自分のいる領域を知りました。「太陽はある」でわかっていたはずでしたが…。「もともとある」の「もともと」に目がくらんで「ならば」に気をつけるのを忘れていました。
次の●●で、「雪女」の領域を知りました。ついでに、クワインの「ペガスる」のこともちらっと浮かびましたが、こっちは「ま、いいや」と思っています。
一つお聞きして三つわかったので、たいへん満足です。みなさま、おじゃましてすみませんでした。

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「雪女は女である」が真という解釈も 投稿者:φ  投稿日: 5月12日(水)02時16分22秒

 ●「雪女は女である」が真なのは、雪女が存在して、それが女である場合に限るので、当然、雪女が存在しないならば偽です。「ならば」にご注意ください……。
 論理学はもともと、命題(原子命題)そのものの真偽には関心がないので、「雪女は存在する」「雪女は女である」などの真偽を突き止めるのは人類学や歴史学の課題となります。論理学は、命題と命題の論理関係を扱うので、「雪女は存在する」が偽ならば、「雪女は女である」は必ず偽である、というようなことだけを主張します。あくまで条件付きです。各命題の真理値は、文脈に応じて、そのつど決めてかまいません。これはだいぶ以前(2003年9月くらい)、「「太陽はある」のような命題が真か偽かについては論理学はどっちでもかまわない」という言い方でここで述べたことがありました(過去ログで見れます)。
 ●なお、「雪女は存在する」が偽ならば、「雪女は女である」は偽だ、と言いましたが、それはあくまで、「雪女」を「S.H.」のような固有名と解釈した場合、あるいは確定記述と解釈した場合ですね。もし「雪女」を、「恐竜」「地球外生命」「自動車」「活火山」のような類概念と解釈するなら、「雪女は女である」は真です。「雪女は男である」は偽ですが。雪女が存在しなくてもです。
 ●まとめるとこうです。
 1.「雪女」が固有名の場合……「雪女は女である」の論理形式は、∃x(x=a∧Gx)
 2.「雪女」が確定記述の場合……「雪女は女である」の論理形式は、∃x(Fx∧∀y(Fy⊃x=y)∧Gx)
 3.「雪女」が類概念(または性質)の場合……「雪女は女である」の論理形式は、∀x(Fx⊃Gx)
 となり(aは「雪女」、Fは「雪女である」、Gは「女である」)、
 第1,2の場合は条件を満たすxが無いのだから偽であり、第3の場合は、「雪女である」という概念の内容(または定義)からして、〈それを満たすものがあれば、それは女だ〉と言えるので、真となります。(雪女が存在してもしなくても)
 「雪女」と「S.H.」との違いにもとづく違和感は、これで解消されるのではないでしょうか。上の第3の場合には雪女が存在するかどうかを議論しなくても、そしてその真偽が決まらなくても、「雪女は女である」は真だとわかるのですから。

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1000回おめでとうございます 投稿者:ネモ  投稿日: 5月11日(火)09時38分26秒

丁寧にお答えいただきありがとうございます。お答えを読んでから自分の質問見ると、性格が悪い上に常識もないという内容になってますね(笑)。あげく、『虚構世界の存在論』を読もうとして、もっていないことに気づくという始末でした。これから検討させていただきますので、とりあえずお礼申し上げます。
と、言いつつ、残されたわたしの最後の美徳、謙虚さをも捨てるべきかどうか、…うーん、捨ててるようで…。
倫理的に問題なしとしても、やはり論理学上すっきりしないものを感じるのですが。つまり、もしこれが論理学上の学術的な議論だとして、雪女の存在に関わる根本的な否定も含めることを許すと、雪女自体存在するかどうかの存在論の議論に入ってきてしまうこともあります(でしょ?)。そうなると、守るべき真偽の二値は、保証されないのでは?真偽は認識論に限定されるのですから。(S.H.のように、虚構であることがはっきりする場合はまだいいのですが。)
こうならない禁じ手はありますでしょうか。「雪女はありかつない」とする人はこの世にいないものとするとまでは言えないと思うのです。考えすぎでしょうか。

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シャーロックホームズはイギリス人であるか 投稿者:φ  投稿日: 5月11日(火)02時13分7秒

 「シャーロックホームズの国籍は?」と文学史の試験に出題されたら「英国人」と答えなければ正解にならないというようなことですよね。(インド人じゃないし、日本人じゃないし、……、犬でもないし、ワニでもないし、どう考えたって英国人だろ? と。)
 この問題は、『虚構世界の存在論』第4章で徹底的に論じたことがあります(第4章1,4,5,6節を読み比べるとスッキリしていただけるかも)。英国の歴代の戸籍を全部調べてもそのメンバーとしてS.H.が入っていないのであれば、「S.H.は英国人である」は"文字通りには"偽だと言わざるをえませんね。「S.H.は英国人である、ではない」が真なのです。
 第4章5節の理論では、「S.H.は英国人である」は、「S.H.という理論的実体は、小説『S.H.』の中で英国人であるという性質を付与されている』という文の省略形なので、そのように書き表わせば、真となります。しかし、「S.H.は英国人であるという性質を持つ」と字義どおりに受取ると、偽となります。
 第4章第6節の理論では、「S.H.という類型の具体例は、英国人であるという性質を持つ」という文の省略形なので、そのように書き表わせば、真となります。しかし、「S.H.という類型そのものが英国人であるという性質を持つ」と字義どおりに受取ると、偽となります。
 第4章10,11,12,13,16節等々の可能世界の諸理論では、「『S.H.』が真である諸世界において、S.H.は英国人である」という文の省略形なので、そのように書き表わせば、真となります。しかし、「(現実世界で)S.H.は英国人である」と字義どおりに受取ると、偽となります。
 どの場合でも、存在しないモノを指し示す固有名詞に、字義どおりに述語を続けると、必ず偽なる文になる、というのが論理学の定説ですね。何らかの真なる文のパラフレーズとして理解しないかぎり。
 (虚構理論の中には、第4章2,4,7節の3つの理論のように、字義どおりに「S.H.は英国人である」を真とする説もありますが、うまくいっていません)
 日常言語とは乖離していますが、論理学は、日常言語の用法を論理学のとおりに合わせろ、と命令することはなく、言語的混乱を正すときや、学術的議論のときのみ出動するので、倫理的にはあまり問題ないと思われます。
 ネット上の固有名は、虚構の固有名と違って、その名を担う人物がただ1人いることが前提となっているならば、「○○は女である、ではない」「○○は存在しない」等々については、現実の固有名についての文と同様の真理値が与えられるものと思われますが――

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雪女は女である 投稿者:ネモ  投稿日: 5月10日(月)09時46分21秒

『論理学がわかる事典』を拝読しております。「偽なる文の否定は真?」(p.110-111)の中の、否定は文にかかり名辞にはかからないというお話の中で、雪女がそもそも存在しないという根本的な否定も含めることができるとありますが、そこを読んでずうっと考え込んでしまいました。論理的にそれが許されれば倫理的に許されず、倫理的によしとされると論理的に許されないことになるのではないでしょうか。
「雪女は女である」を否定して、わたしが「『雪女は女である、ではない』といったのは、雪女の存在自体の否定を言っていたのだ」と主張すると、女かどうかを考えていた人はみんなだまされた気分になるでしょう。信用を失ったわたしが、次からどんな文を否定しても、その否定はどこにかかるのか尋ねられるだろうと思います。慣用的にこの用法はきびしいのではありませんか。
また、寛容な人が「たしかにそれも認めよう」と言ってくれたとします。しかし、その人は「ネモは女である、ではない」と言い、わたしが否定すると「これはネモに関わる存在論を取りあげているのだ、雪女の存在が問題にされるなら、ネットを住処とするおまえも同じだ、いや、かりに目の前にいたとしても、おまえの存在自体は議論の対象となる。今認識論は問題にしていないのだから」と言います。そうなると何も言えません。虚無論者は、大いばりで世界を撹乱してしまうでしょう。
御本のように、真偽の二値を守り抜こうとすれば、おっしゃるとおりでよいかもしれませんが、でも、この用法は決して使ってはいけない封印された否定のような気がします。どのようにお考えでしょうか。批判的な意見のようになってしまってすみません。

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「人間原理から輪廻転生へ」 投稿者:φ  投稿日: 5月10日(月)00時36分24秒

 冒頭の〈説明としての「強い人間原理」のための8要請〉は、もっと体系化した文章を近くアップする予定です。
 輪廻転生に行き着くには人間原理の強力な基礎固めが必要なので……。
 「人間原理から輪廻転生へ」の研究発表では、末尾にあるとおり、
          非人称的な自然科学的描像こそが、すでに遍在転生観を先取りしていた
 というおとなしい結論にとどまってしまったので、このあとどう突破するかが課題です。
 今週中には「8要請」のパート拡大バージョンをアップするつもりです。

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『心理パラドクス』 投稿者:ハムスター  投稿日: 5月 9日(日)15時02分26秒

も楽しみなのですが、「人間原理から輪廻転生へ」がほとんど理解できません。

http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/ad040407.htm

読めば読むほど混迷を深めてしまい、ちょっと欲求不満ぎみです。

輪廻転生を論文という形でぜひ読みたいのです。

予定はないのでしょうか?

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んもんも 投稿者:のん  投稿日: 5月 9日(日)04時21分19秒

感動して言葉がでません。うれしいです(;;)
みんな言葉をそのままの意味で解釈する から錯誤するんだと思います。
みんな言葉をそのままの意味で解釈しないから錯誤するんだと思います。
錯誤するな!と言いたいですが、僕にできる事は錯誤した人と話をあわせることだけです。
がんばります!

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illogical logic vs logical illogic 投稿者:φ  投稿日: 5月 8日(土)01時23分49秒

↓これをaphorism化してみました(997) ――(かなり人為的な)

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レスありがとうございます。 投稿者:のん  投稿日: 5月 7日(金)00時53分37秒

『心理パラドクス』是非読みたいです。楽しみでしかたがないです。
論理学に興味を持ち始めてから怒る事が少なくなったと思います。
だけど、怒られることが多くなった気がします。
ヒューリスティクスの話を彼女にしたらウザイって言われました。
論理論理と連発したら「屁理屈ばかり言うな!」と親に叱られました。
論理を主張することは論理的でないということがわかりました(;;)

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Re:はじめまして。 投稿者:φ  投稿日: 5月 6日(木)04時50分17秒

 目下、二見書房版3部作完結編の『心理パラドクス』を執筆中です(Ω真理パラドクスではないですが、どうぞ御期待ください)。
 ここや、eメールその他でいただいた皆さんからの質問、批判、示唆、教示、指摘、誤解、別解、解釈などを取り入れる予定でやっています。『サバイバル』p.87~92,p.242や、『わかる』p.266その他でも少しやりましたが、当初はどうしようもない難癖と思われたお便りでも、後で、案外インスピレーション源になってくれてることがわかったりするものです。まぁ、論理(学)はそれだけ深いということなのですね。

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はじめまして。 投稿者:のん  投稿日: 5月 6日(木)01時01分39秒

論理パラドクスと論理サバイバルと論理学がわかる辞典を読みました。
アフォリズム日記も欠かさず見ています。このBBSもチェックしています。
論理学の事は上記三つの本しか読んだことが無いのでまったくの素人なのですが、
論理学と宗教は似ていると思いました。神の存在を否定し、
わからない事柄に納得できる説明をするところが類似していると思います。
僕はすっかり論理学に魅せられてしまったので、もしΩ論理教というのがあれば
入信してしまうかもしれません(笑。月謝の金額によりますが・・・ 

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ホイスがさんまの 投稿者:φ  投稿日: 4月18日(日)02時41分7秒

バラエティ番組で戦ってみせて流血したですと? テレビを持たない私は観賞できませんでした。新番組として始まったという平成ウルトラQも見れずに悔しい思いをしているし、いい加減DVD専用モードはやめにして線を繋ごうかなと。

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(無題) 投稿者:jun  投稿日: 4月17日(土)08時37分18秒

ホイスは、格闘技の総合ルールという真剣勝負を表舞台に出した立役者ですから。グレイシー柔術の果たしている役割は大きいですよね。1回ホイスの柔術セミナーに行きましたが、ホイスはとても親切な良い人でした。私は、結構グレイシー一族応援しますね。(近藤も応援していますが。)

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どうも 投稿者:φ  投稿日: 4月14日(水)02時32分31秒

ありがとうございます。投稿者名にメールアドレスが常にくっついてきてるようですがそこへどうこうしても意味ないのでしょうね。いろいろ変更するのも何なのでしばらくはせっせと削除しときますか。
ホイス・グレイシーはもはや闘神です。『格闘技通信』で言ったように本当のノールールで勝っていたのはホイスだけなんです。そのリベンジを誰も遂げないままに勝手にルールをくっつけてるのが今のUFCでありPRIDEなので。
 ああ4-25が気になる。

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荒らし・いやがらせ投稿 投稿者:学ぶもの  投稿日: 4月13日(火)22時31分23秒

というより
出会い系業者の宣伝目的の投稿なんでしょうか。

あんまりしつこい場合は、その掲示板の有料サービス
http://www.teacup.com/gbbs/?p=g0000
を利用して、匿名プロキシ経由の書き込み禁止機能を
使うという手がありますが、まあわざわざお金を
払うというのもあれですけど。

別の手としては
現掲示板のアドレスを変更してみることでしょうか。
掲示板の一番下にある管理者メニューから
掲示板全体のサービス一時停止(兼、掲示板の削除依頼)
を選択して、現在の掲示板を停止してから
掲示板の新規作成を行い新しい掲示板のアドレスを
入手してみるのも一つの手かと。(その際アドレスを変更するため
"miurat"から新しいユーザーネームに変更しないといけませんが)
ただし掲示板の書き込みデータは引きつがれないので、
事前に保存しておかないといけませんが。
あるいは別のところの無料掲示板サービスを利用してみるとか。

よく知りませんが、ある種のキーワードを
ネット上から自動的に検索して、該当するキーワードを
使っている掲示板をランダムに選択して自動的に宣伝内容を
投稿するシステムだとすると、掲示板のアドレスが変われば
しばらくは宣伝投稿がやむのではないかと。
まあ手動でやっている場合は効き目がありませんが。

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ホイス・グレイシー? 投稿者:ハムスター  投稿日: 4月13日(火)09時39分9秒

って、吉田に落されたのに認めなかったり、2戦目では柔道着を着ないで吉田と引き分けたり、と柔道家としてはちょっと汚いというかフェアな奴じゃないという印象なのですが、違うんですか?

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小川参戦は真面目? 投稿者:φ  投稿日: 4月12日(月)23時30分49秒

 このところ、ここに約10通/日もの出会い系一律書込がされており、いちいち削除するのが面倒なのですが、ああいうのを撃退するよい方法ってないもんですかね。どなたか教えてください。
 ところで、宣伝が遅れましたが、『格闘技通信』5/8号(最新号)誌上において、堀辺正史の対談「武道待望論」(興行化反対論!)の第1回ゲストとしてhttp://members.jcom.home.ne.jp/miurat/gureisi.htm式エールをグレイシーに送りましたので、興味のあるかたは御覧ください。
 しかしヘビー級だの何級だのケチなこと言ってないで初期UFCの精神に戻ってヒョードル対シウバを実現させてほしいですよ。チャンピオンだというのにヒョードルったら一体何回前座をやらされたんですか。もう。

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ちょいと感想 投稿者:ハムスター  投稿日: 4月11日(日)00時34分16秒

どうもオコジョさんのだらだらとした文章はいただけないです。
もうちょっと締った文章を書けないものなのでしょうか。

>個人にとって自分の死は好ましいことではない、というのが一つの公理です。・・

この辺がオコジョさんの主張の趣旨であるようですね。
オコジョさんは復讐を念頭においているようですが、それは敵に対する殺人許容であることを理解する必要があると思います。
オコジョさんのいう「血縁共同体」内では殺人は許容されていないですよね。
「血縁共同体」内で殺人が許容されれば、「血縁共同体」という社会は成立しないはずです。

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Re:その1~3 投稿者:φ  投稿日: 4月10日(土)13時48分5秒

 ああ、まだ殺人ですか。
 まあ歓迎です。いやじつは、私がメールで議論したプロの物書きの中にも、ちょっと不利に陥っただけで「もう打ち切りとさせてください」とわざわざ降伏宣言くださる方がいたりして、「論壇人てのは意外と腑抜けだな」と嘆いていたところなので。私のほうはいくらでも続ける用意があります。素材ですしね。
 とはいえ、ざっと拝見したところ、返答はすでに私が述べたこと、特に阿呆理詰日記960/1●~補b●に述べたことに包含されていますからおおかた省略させていただいて、ポイントのみ箇条書きで失礼します。

 ●私は殺人〈だけ〉に適用できる特有の論証をしたなどとは言った覚えはない。盗みや傷害にも当てはまる議論であることは明言済です。「なぜ盗んではいけないのか?」は、「なぜ殺してはいけないのか?」ほどポピュラーな質問ではないので取り上げなかっただけです(文芸誌のアンケートが後者の形だったところから出発しているわけですし)。『論理学入門』では、「言語はなくてもよい」を否定する同型の論証を出しています。
 ●ハンムラビ法典や「血の復讐」は、「ねばならない」形式の規範文で構成されているのではないですか? 殺人や盗みが、必然的に報復義務/禁止システムの束縛に服さざるをえない歴史的事例を新たにもう一つ持ち出してこられても話は進展しません。
 ●199条(殺人)人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。……という、「一般的規定」で統括するシステムを「原則禁止」と私が呼んだことは読み取っていただけているはずなのだが。修飾語の付かない殺人は禁止と。飲酒や水泳や放屁については同様の禁止原則は無いでしょう。その違いが問題だと何度も申し上げております。
 ●  >社会がゴキブリを常食とすることはない
    >ゴキブリを常食とするものは社会ではない
 「許す」を省略しないように。
 活字媒体ではないただのBBSなので、ある程度いい加減な議論もOKとはいえ、こういう重要なところでの歪曲は困ります! 「許す」が社会制度の本質に関わるという点が論証のポイントなのですから。
 「ゴキブリを常食とすることを許す社会」などというものはいくらでもありますからね。現代日本もそうですし。事実の話ではなく、規範の話をしていることを無視されたのではすべてやり直しです。一事が万事。御反省ください。
 ●決闘マニアの話ですが、その人は(たとえば)「決闘だ!」と叫ぶだけで背後から人を襲うようなこともして、それで許されていたのでしょうか。そうではなくて「公認の決闘作法」に則って70人殺していたというだけでは、何の反証にもなっていませんから、ただの70人殺しではなくもっと面白い例を出してくださるよう望みます。
 なお、私はIxyの例として法律(国法など)だけを考えてはいないことはすでに申し上げた通り。東南アジアなど、建前上の国法はキリスト教的一夫一婦制だがイスラム教徒の国民には一夫多妻制が制度的に認められている、というダブルスタンダードも当然あるでしょう。決闘殺人もそのような、国法による制約と騎士道不文律による許容との狭間で適宜選択される制度的行為と理解できます(むろん、殺人の本質は相手の意に反した生命侵害なのでそもそも決闘は「殺人」と言えず「自殺」に近い旨は既述)。
 ●  >殺人を許容したら社会が崩壊するというのは、
     『論理学入門』におけるφさんの「論証」の一部をなしている命題です。
 厳密には「前提」です(p.127では前提2としてある)。したがって、論証の「妥当性」とは関係のない命題です。むろん、論証の「健全性」(p.48~50他)には大いに関わっている命題です。論証の「妥当性」には論理学は責任を持つが、経験的な「健全性」に疑義のある場合は、そのつど懐疑者側が立証してください、と申し上げているにすぎません。

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その3 投稿者:オコジョ  投稿日: 4月10日(土)02時33分7秒

>>常態として殺人を許していた社会がいまだかつて皆無であるがゆえに、帰納的
>>に、「社会は必ず殺人を(常態としては)禁ずる」→(対偶)→「殺人を許す
>>ものは社会ではない」と結論しているわけですよ。ここで私が無いと言ってい
>>る社会がもしあったら歴史上のいつどこにあったのか教えていただきたいもの
>>です。
 
 φさんは、どれだけ歴史を精査したんですか?
 よく調べもしないで、見当でものを言わないでもらいたいですね。
 「ない」話に関しては、よほど慎重でなければならないということがお分かりになりませんか。
 仮りにあなたの知る範囲になかったとしても、単なる経験的事実ですよ。対偶を立てて一般化してしまうのが、いかに乱暴な論理であるか、それくらいは弁えていただきたいですね。

 たとえば、こんなもんです。
 社会がゴキブリを常食とすることはない。
 ゴキブリを常食とするものは社会ではない

 ゴキブリを常食としないのは、単にまずいからです。今後、ゴキブリを美味にする調理法が発明されないとは言い切れません。食糧不足への対応として、人類のほとんどがゴキブリを常食とするようになる時代がくるかもしれないわけです。
 φさんの議論は、ゴキブリの常食程度の根拠薄弱な帰納を論拠にしたものだったということになります。

>>何であんなにこまごまと規定
>>せねばならないかというと、規定に外れた殺しや傷害は罰するぞ、いい加減な
>>気持ちで「正当防衛」なんてほざいてると罪になるぞ、ということです。つま
>>り、何も言わなければ不許可、あえて制限的に明記したときのみ許可、という
>>例ですよ。

 「あんなにこまごま」ですか。
 へそから下は攻撃してはいけないとか、後頭部を殴ってはいけないとか、詳しく書いてあるわけですか。
 法律制定の心まで解説してくれて(こういうのを見てきたようなナントカと言います)ごていねいな限りですが、ちょっと饒舌すぎます。論旨に説得力がないのがお分かりだから、こんな風な文章になるのでしょう。
 全然こまごまとなんか「明記」していないのが事実です。条文に直接あたってみればすぐ分かりますね。

>> まあ、「殺人が常態として許されても社会は存続できる」にYesと言うほう
>>が非常識であることは確かですから(なにせ具体例が皆無なのだから)、立証
>>責任はYes側にあるということでお願いします。

 こういう反論については以前に書きました。私は相手の言っていないことをカギカッコでくくるようなことはしません。分かりやすさのために敷衍したり要約したりする場合には、引用とそうでない箇所の区別がつくように心がけています。
 上のカギカッコの中は、引用でないだけでなく要約でもなんでもありません。私は、こんなことは一度も書いていないんですね。私が言っていないことに反論しても何も言ったことにならないのはお分かりでしょうか。

 具体例は、ハンムラビ法典に先行する「血の復讐」として既に出しましたね。
 決闘の話はされたくないようなのでご希望には反しますが、そのあたりでも例を出せないこともありません。決闘マニアとしか言えない男が70人殺して、何の咎めも受けずに終わったという例があります。40人を殺した者、20人を殺した者となると珍しくなくなります。
 これは、「常態として許されて」いたと言ってもいいのではないかと私は思います。
 もともと、殺人を許容したら社会が崩壊するというのは、『論理学入門』におけるφさんの「論証」の一部をなしている命題です。その挙証責任を他人に押しつけるのは、自分の「論証」を放棄したに等しいのではないか。情けない話です。

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その2 投稿者:オコジョ  投稿日: 4月10日(土)02時32分7秒
 こういうのを白々しい嘘といいます。どこに「殺しても罪に問われない」と書いてありますか。
 嘘を書かなければいけないのは、それまでの議論が間違っているからに他ならないでしょう。
 文の含意を考慮しろというでしょうか。「殺人や盗みだけ」には「許可される場合」を法制化する必要がある、というのがφさんの主張でした。その根拠としての条文をお聞きしたのが前回の私のコメントです。しかし、「正当防衛」も「緊急避難」も特に殺人を許可するという規定ではありません。傷害あり、器物損壊あり、法令の違反あり、なんでもありの規定が「正当防衛」や「緊急避難」です。

 だいたい、今まで「殺人」が如何に特別であるかを論じてきた筈なのに、上の引用に見られるように、いつの間にか「殺人や盗み」になり、ついには犯罪一般の話になってしまっている。あまりにもお粗末と言わざるを得ません。

 それなら、“殺人の放置は社会を崩壊させる”ではなくて、“犯罪の放置は社会を崩壊させる”と初めから言っているべきだったのではないでしょうか。
 しかし、「盗み」は「殺人」と同様の「絶対悪」であるか? 盗みが成立するためには私有財産の制度が必要ですから、これが人類社会に普遍的・絶対的な悪であるとはとても考えられません。だとしたら、「殺人」と「盗み」を同様に扱うところにしか成り立たないφさんの議論は、やはり破綻していると判断するのが正しいことになるでしょう。

 さて、私は何度も繰り返して注意を促しています。「殺してはいけない」という倫理が存在しないことは、殺人の奨励を意味するものでもなければ、無制限の横行に等しいわけでもありません。
 φさんは、しきりに社会が社会がとおっしゃっていますが、人間の歴史に、いつでも絶対の警察権が存在していたとでもいうのでしょうか。歴史のスパンというものがてんでお分かりになっていないようです。それでは、まともな議論になりません。
 
 個人にとって自分の死は好ましいことではない、というのが一つの公理です。他者の死は好ましい場合もある、というのも公理の一つです。他者の死を容認するのですから、ここには「殺してはいけない」という規範は存在していません。
 以前にも書いたように、人を殺そうとすることにはリスクが伴います。力が拮抗するもの同士では、互いに牽制し合って、安易な殺しあいにならないのは、野生の動物をみても分かるでしょう。ここに一つの平衡状態が成立するわけです。
 しかし、この平衡状態は倫理が成立したことを意味していません。その後、相互の力に不均衡がみられるようになったときは、上のリスクは比較的に小さくなるので、一方が殺される事態は起り得ます。力の強い方が勝つことによって、平衡が保たれますから、社会は成立します。
 
 上の節の「個人」を血縁共同体と読み換えることが可能です。血縁共同体にとって、上のような事情がありますから、自らが他より弱体化する事態は好ましいことではありません。たとえば、自分たちの構成員が殺された場合、相手にも同様の事態が起こることによって力を均衡させる必要が出ます。これを求めるのが「血の復讐」の原理です。
 古代オリエントの法の成立などをみれば、根源的なこの原理が法よりも先行していたことが分かります。つまり、「殺してはいけない」規範が存在しなくても社会は成立していたのです。

 「殺してはいけない」からこそ「血の復讐」が行なわれたのではないか、とおっしゃるでしょうか。それはダメです。「殺されてはいけない」と「殺してはいけない」は、全然別のことです。「血の復讐」は前者を意味していますが、後者を意味していません。
 「殺されたくない」から「殺さない」が帰結する、なんて言って喜んでいる神経が分かりませんね。ただの言葉遊びではないですか。歴史というものをしっかり見つめてみてはいかがでしょうか。ネズミのハンドルネームの方もね。

 「血の復讐」の概念は、私の創作ではありませんよ。広辞苑にも載っているし、多少とも歴史をかじった人には周知の概念だと思います。要するに、殺人が容認されていた社会というのが実在するのです。
 そして、現在もそれは完全には消滅していない。死刑というのが、いかに残酷で野蛮なものか、少しは地に足をつけた想像力を働かせていただきたい。なぜ、絞首刑などという屈辱的な刑罰を科す必要があるのか? 死刑が「血の復讐」を引きずっているからに他ならないと私は思います。この原理が人間にとって根源的であるからこそ、死刑が肯定されているのでしょう。

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メチャクチャな法律論 その1 投稿者:オコジョ  投稿日: 4月10日(土)02時31分13秒
 ご無沙汰しました。最近いそがしくてなかなか時間を確保できません。
 ただ、φさんの文章自体が私の主張を裏付けてくれていますので、私がわざわざ書かなくても、既に分かる人には分かっていることと思います。

>> 死刑は、刑法で許されているどころか義務にすらなっている。たとえば外患
>>誘致罪については「死刑」以外の刑罰はありません。死刑を廃止しているとい
>>われるヨーロッパ諸国でも、この罪に対してだけは死刑が適用されます。義務
>>は許可を含意しますから、死刑はこのうえなく許可された特例の殺人と言える
>>でしょう。

 全然わかっていませんね。
 私がなぜ前回の質問をしたのか、理解できませんでしたか?
 刑法の条文を知っているからこそ質問したのであって、知らないで人に聞くわけがないでしょう。条文をなぞっていたら、ご自分の議論が空中分解してしまうということに、なぜ気がつけないのか――不思議です。

 申し上げておきますが、φさんの法律論はこの掲示板で幇間みたいなのを相手に風呂敷を広げているのがせいぜいで、他のどこにも通用しないだろうということです。

>> 殺人や盗みが、水泳や脱衣や結婚と違って、「禁じられる場合」ではなく
>>「許可される場合(Ixyの場合。Pxyではない!)」の方だけがわざわざ
>>法制化されねばならないのはなぜなのか、お考えいただければ。

>>あえて述べられるのが禁止条
>>件でなく許可条件であるところ、「原則禁止」の原則が、殺人の絶対悪たるゆ
>>えんを立証しているとは何度も申し上げたとおり。

 罪刑法定主義というのをご存じありませんか? 近代法の基本です。「禁じられるのが常態」「「許される場合」が特例として規定される慣わしになっている」なんてのは、あり得ないんです。法律がなければ犯罪もない。そうでなくては、それこそ安心して生活することも出来ないではないですか。
 殺人については、明確な規定があります。

>>199条(殺人)人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。

 原則禁止もくそもない。この規定があるから、殺人が罪になるのです。
 
 死刑の規定が「殺人」を許可しているという議論も間違っています。
 刑法には犯罪とそれに対する量刑の規定がしてあるというだけのことでしょう。
 刑の規定があることと刑の執行は全く別のことです。刑の規定があったからといって、許可にしろ義務にしろ、どこにも発生していません。
 犯罪の認定があり、刑の確定があった後にはじめて、φさんのいう許可なり義務なりが問題になるのですよ。

 だいいち、死刑は様々な量刑のうちの一つに過ぎません。懲役もあれば禁固もある、罰金や科料などが規定されているうちの単なる一つが死刑(という名の殺人)です。
 ところがφさんは、他と違って殺人の扱いが特別で、「禁じられる場合」ではなく「許可される場合」の方「だけ」がわざわざ法制化されねばならない、と主張してきました。しかし、刑の規定によって「許可される」のは、殺人ばかりでなく、強制労働であり、監禁であり、財物奪取などです。φさんの主張は、明らかに事実に反しています。

 死刑の執行は殺人に相当するのですが、その執行者が罰せられることはありません。なぜか。正当行為と認められるからです。
 しかし、正当行為の規定は「殺人や盗みだけ」を許可するものでは、もちろん、ありません。たとえば、「逮捕」というと警察の専売特許みたいに思っている人もいるようですが、これは刑法31章に規定された立派な犯罪行為ですね。警察活動を行なうために欠かせないので、正当行為として特別に「許可」されているという事情があるわけです。

>> 刑法36、37条「正当防衛」「緊急避難」では、人を傷つけあるいは殺し
>>ても罪に問われない旨、詳しく書いてあります。

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ザル法は 投稿者:φ  投稿日: 4月10日(土)01時34分11秒

法律の軽視に繋がるので一刻も早く廃止するのが法と倫理のためなのですけれどね。

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売買春は 投稿者:ハムスター  投稿日: 4月 9日(金)19時14分33秒

違法です。(きっぱり!)

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お気を付けあそばせ 投稿者:ハムスター  投稿日: 4月 8日(木)12時38分10秒

どこの世界でも有名になってくると、いろいろな人が寄ってくるようになります。
中には悪意を持っている人もいます。
悪意がなくても、何らかの事情で結果として、迷惑な事態を引き起してしまうこともあります。
芸能人、スポーツ選手、芸術家、等々の有名人がこの手の事態に巻き込まれることは、枚挙にいとまがありません。
まあ、φさまは対象を正しく見る専門家ですから安心だとは思っていますけど。老婆心ながら。
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owabi 投稿者:φ  投稿日: 4月 8日(木)01時02分11秒

http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/ad040313.htm
の講座は、最少催行人数に満たないため中止となりました。ここを見ておられるかたの中に申し込み者がおられましたら、謹んでお詫び申し上げます。
 ↑のリーフレット用原稿を依頼に応じて送付したのに、約束のリーフレットが送られてこなかった(そもそも作られなかった?)りと、主催者側の要領に疑問を感じる点が多々ありましたが、ともあれ論理サバイバルの企画がサバイバルできなかったということで、逆説~パラドクスを身をもって演じてしまったわけであります。改めて、お詫び申し上げます。

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殺人の進化 投稿者:φ  投稿日: 4月 5日(月)00時47分12秒

 『テキストブック殺人学』(日本評論社)という本の冒頭には、「殺人の定義」という節があるようですね。読んでないのですが。
 殺人は、悪としている(原則禁止とする)社会しかこれまでに存在せず、どのような殺人をどのような理由で認めるか、という特例の設定において各文化が個性を発揮してきたと言えます。「社会」を「倫理」と言い換えても同じで、殺人を原則許容とする倫理は論理矛盾に陥る。どのような特例において殺人を許すか、というのが各倫理規範の個性というわけでしょうね。「殺すぞ」「いいよ」はありえなくても、「殺して」「いいよ」は罰せられず咎められない、という方向に進むような気もします。

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殺人禁止とは? 投稿者:ハムスター  投稿日: 4月 4日(日)22時44分42秒

レトリカルな言い換えというか、オコジョさんの主張から見えてくることです。

殺す 殺される
○   ×   決闘、戦争、ヤクザ?
○   ○   ナンセンス、自殺幇助? 安楽死?
×   ×   倫理
×   ○   法律

もちろん、殺されることを許容する生き物はいませんから、「殺すぞ、殺して」はありえません。

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殺人禁止はでてくるでしょう 投稿者:φ  投稿日: 4月 2日(金)13時26分38秒

「殺してもいいよ、殺されるのはごめんだが」は、結局、「殺してはダメ」のレトリカルな言い換えですね。
 「売るのはいいけど、買うのはダメ」みたいなものでしょう。一人では売れないのと同様、みんな殺されることを拒否すれば、殺すことを拒否しているのと同じでしょう。公的な拒否が禁止になります。
 しかも、自分が殺すこと殺されることだけを考えるのは想像力不足だと私は言いたいのです。編集者や同僚やゼミ生やその親がいきなり大量に殺されでもしたら私も今やっている執筆や授業の準備などが無駄になるわけですからね。関係者の誰がいつまで生きていられるか保証のない世の中では継続的な仕事をやっていくことは不可能です。
 なお、「殺されてもいい」「殺してくれ」という人を殺すのは、厳密な意味では殺人ではないでしょう。殺人に入れるのは定義上は自由ですが、自殺幇助とか決闘とか格闘技イベントでの事故とかは、別のカテゴリーに入れるのが無難です(現代日本では法律的にも別扱いになっている。決闘で起こった死には殺人罪が流用されることが明記されてますが、殺人で起訴された被告が、決闘罪を適用されて減刑された判例もあります)。

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オコジョさんの主張は 投稿者:ハムスター  投稿日: 4月 2日(金)08時53分19秒

殺人することを許容しても、殺人されることは許容しないのだから、社会は崩壊しない。
ということであるようです。
この「殺人されることは許容しない」ということから殺人禁止がでてきませんか。

殺されたい、ある人はいない

殺されたくない、人が全ている

社会は殺人を禁止する

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もうすでに 投稿者:φ  投稿日: 4月 1日(木)04時24分58秒

http://www.at-diary.com/diary/diary.php?id=484
にまとめて決着済み宣言の後なのでほんとはそっちの文面に沿ってやってほしかったんですがね。まあ制度的規約の無いBBSのことですから。

 >「殺人」を代入した場合に真になるかどうか、それをここで議論している訳でしょう?

 ある論理式がトートロジーかどうかが問題にされた文脈でしたね。論点先取どころか、むしろ絶対的真理ではない、トートロジーなどではないことを述べたわけですよ。トートロジーであるためには、述語記号をどう解釈しても真になることが必要です。Mを「殺人」と読んで恒真になるように見えたとしても、他の解釈(たとえば「入浴」)で読んで偽となるのであれば、トートロジーではありえない。「殺人」が他の多くの行動タイプとどう違うかを立証するにはそれで十分なのです。

 >社会が崩壊するかどうかは“分からない”のですよ。(もし、違うとおっしゃるのなら、必ず崩壊するという「論証」をやってごらんになればいい。

 これはとっくにやってますけれどねえ。他の多くの行為と違って、殺人はなぜ、禁じられるのが常態であって「許される場合」が特例として規定される慣わしになっているのか、なぜその逆(「禁じられる場合」が特例として規定される)ではないのか。常態として殺人を許していた社会がいまだかつて皆無であるがゆえに、帰納的に、「社会は必ず殺人を(常態としては)禁ずる」→(対偶)→「殺人を許すものは社会ではない」と結論しているわけですよ。ここで私が無いと言っている社会がもしあったら歴史上のいつどこにあったのか教えていただきたいものです。

 >何という法律のどこに、特に殺人(ついでに「盗み」を加えても結構ですよ)が「許可される場合」が規定されているのでしょうか。

 「死刑」が殺人であると言い出したのはオコジョさんですのでね。許可された殺人は私より例をいっぱい御存知でしょう。だから私が挙げるまでもないのだが――
 死刑は、刑法で許されているどころか義務にすらなっている。たとえば外患誘致罪については「死刑」以外の刑罰はありません。死刑を廃止しているといわれるヨーロッパ諸国でも、この罪に対してだけは死刑が適用されます。義務は許可を含意しますから、死刑はこのうえなく許可された特例の殺人と言えるでしょう。
 刑法36、37条「正当防衛」「緊急避難」では、人を傷つけあるいは殺しても罪に問われない旨、詳しく書いてあります。何であんなにこまごまと規定せねばならないかというと、規定に外れた殺しや傷害は罰するぞ、いい加減な気持ちで「正当防衛」なんてほざいてると罪になるぞ、ということです。つまり、何も言わなければ不許可、あえて制限的に明記したときのみ許可、という例ですよ。
 オランダなどでは「慈悲殺」が合法ですしね。あえて述べられるのが禁止条件でなく許可条件であるところ、「原則禁止」の原則が、殺人の絶対悪たるゆえんを立証しているとは何度も申し上げたとおり。
 盗みは殺しより特例の許可が少ないようですが、国家による没収が特例ですしね。傷害は医師による手術などが特例だし。むろん、盗みや傷害も、殺人同様、原則禁止ではなく原則許可に転じたらたちまち社会は崩壊します。
 まあ、「殺人が常態として許されても社会は存続できる」にYesと言うほうが非常識であることは確かですから(なにせ具体例が皆無なのだから)、立証責任はYes側にあるということでお願いします。決闘だの何だの例外を出しても無駄です。常態(原則)の法制または倫理が重要なのだから。
 (念のため、「常態として」は新たに付け加えた概念ではないですからそのへんは一々立ち止まらないようにねがいます。)

 殺人はもう、よほど愉快な反論以外は終わりにしていただいて、はやいとこ何を売買するとどうとかいう話に戻っていただきたいんですけれど。いや、あれこそ論ずるまでもなく決着したということでも結構ですが。ただ勘違いしている人数は殺人よりあっちの話題の方が多いようなので。

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「許可される場合」 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月31日(水)23時38分35秒

 随分とおかしな議論をしていますね。
 φさんの言い分は要するに以下のようなものなんです。

>>「どの社会も、自ら制度的に許容していない殺人を自ら許容できない」という
>>趣旨のことを述べたはずですよ、私は。
>> ちっともトートロジーではありません。その証拠に、上文の「殺人」に「放
>>屁」を代入してみてください。偽なる文になるでしょう

 「殺人」を代入した場合に真になるかどうか、それをここで議論している訳でしょう?
 それならなぜ、それが真であることを論拠にして議論できるんですか。それこそ「論点先取」そのものです。

 少し常識というものを働かせてみてもらいたいと私は思います。
 殺人を許容したら社会は崩壊するかどうか。φさんは私に(常識ではなく)想像力を働かせよといいます。逆に言えば、ご自分の想像力を根拠にしてものをおっしゃっている。そして、私が何を引き合いに出しても、社会が絶対に崩壊すると断言し続けるばかりです。「論理学徒」がそんなにやたら断言をしていいものかと心配になります。
 ありていに言ってしまえば、社会が崩壊するかどうかは“分からない”のですよ。(もし、違うとおっしゃるのなら、必ず崩壊するという「論証」をやってごらんになればいい。これまでさんざん言葉を尽くしてらっしゃるが、肝心かなめのそこのところの「論証」はまったくおやりにならない。ただ、蓋然的な話をながながと続けているだけです)

 殺人を許容したら社会が崩壊するかどうか――私の言い分では9割方崩壊しないわけですが――論理的に言うならば、それは分からないのですよ。
 そんなことが「論証」の根拠になる訳がないではないですか。

 個々の議論に関して言えば、まるで小学生が屁理屈をこねているような印象です。
 現実の話なんですよ。人間の営みを論じているのです。「制度的明記ナシの恣意的決闘」と「明記アリ」の「制度的」決闘? そんな区別なんてあるわけがないでしょう。だいいち、いったいどんな事例をイメージされた上で、そんなことをおっしゃっているのか。
 そんな表現が字面の上で出来るというだけのことでしょう。それで、議論になっているとお考えなのでしょうか。

>>Iとして「不文律」も明確なものであれば当然含みます。ルールが明確に共有
>>されて制限的適用が生きていればよい。

>>決闘も同様で、原則的にPxyではなかったわけです。

 結局どうだとおっしゃるのか。
 制度的に許容されていたけれども、倫理的に許容されていなかったとでも言いたいんでしょうか。訳が分かりませんね。

 論理学を使えば、自分の知識のないことでも議論できるというのでしょうか。
 そんな風にお考えだとしたら、それこそ論理的ではありません。
 20世紀の後半になっても決闘は行なわれているというのが事実なんですよ。もちろん法律では許されていません。
 適当なことをお書きになるまえに、決闘をどう捉えるのか、それをご自分で決定されてからものをおっしゃっていただきたいですね。

>> 殺人や盗みが、水泳や脱衣や結婚と違って、「禁じられる場合」ではなく
>>「許可される場合(Ixyの場合。Pxyではない!)」の方だけがわざわざ
>>法制化されねばならないのはなぜなのか、お考えいただければ。

 ここが議論の終点になると思います。
 これは、いったい何の話をされているのでしょうか。
 φさんの議論の中核をなしている話らしいですね。「殺人」だけは別格だとずっと主張され続けていましたが、今回は「盗み」も仲間になりましたか。
 何という法律のどこに、特に殺人(ついでに「盗み」を加えても結構ですよ)が「許可される場合」が規定されているのでしょうか。ここは肝心なところですから、誤魔化しなしではっきりとお答えいただきたい。
 お分かりだと思いますが、ここが明確にならない限り、φさんの議論はすべて砂上の楼閣に終わることになります。

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誤りが許される場合、そうでない場合 投稿者:φ  投稿日: 3月31日(水)17時09分45秒

 たしかに誤りですね。「偶然が何度も生起する」ためには条件が幾つも必要なので。
 ただ、渡辺さんが記述しているのは「自我体験」のときの青少年の暗黙の理屈ですから、心理学的事実としてそういう推論がある、ということで言えば、誤りではないのでしょう。
 「意識の超難問」は、心理学的には、十分に考察対象となりうるわけです。渡辺さんはおそらくそのスタンスでやっている。だから有望。
 絶望なのはどういうスタンスかというと、「意識の超難問」を本当の哲学的問題として取り組んでしまうことです。これは、青少年のときの本能的な錯覚にそのまま居座ろうという退行的な態度ですね。無垢で勤勉な人々は、プロの哲学者が自分のかつての錯覚を尊重してくれているのを見て「ああ、あれでよかったんだ」と安心してしまいかねない。「この問題の大切さがわからないやつは感度が鈍い」などと恫喝もされるものだから、超難問の空虚さに気づいている人々までが、本音を述べる勇気を無くして萎縮してしまう。
 哲学の使命は、親からもらった本能や直観を後生大事に重んじることではなく、むしろそれらを破壊して次の新境地へ開眼することです。哲学とは、子宮の中に漂うことではなく、暴力的な論理に身をさらして耐えまくることなのです。

 こないだの輪廻転生の発表レジュメは、いずれ読みやすくしてupします。

 (なお、阿呆理詰日記960に、「殺人許可」のまとめを載せておきました↓ もういくらなんでも基幹部に関しては議論不要となったでしょうから、「基幹部のまとめ」ということで。)
http://www.at-diary.com/diary/diary.php?id=484

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輪廻転生に興味 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月31日(水)11時09分11秒

■■第2回人文死生学研究会のお知らせ■■の渡辺恒夫様の「2 自我体験(「第二の誕生」の体験)の収集・解釈」にこういう文言があります。
(http://homepage1.nifty.com/t-watanabe/academic_meeting_4.htm)

>すなわちーー①私は偶然、「今・ここ」にいる。⇒ ②偶然というものは何度も生起する。⇒ ③ 故に、私はかつて別な「今・ここ」に生きていたし、今後も別な「今・ここ」に生き るだろう!

この「②偶然というものは何度も生起する。」というのは、明らかな誤りだと思います。
偶然というものは、何度も生起しないから偶然というはずのものです。

φさまが渡辺恒夫様の「人文死生学で輪廻転生を考える」をどうお考えなのかに興味があります。

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輪廻転生が事実でも 投稿者:φ  投稿日: 3月26日(金)14時25分5秒

>同性愛が100%普及することはありえない

 その前にまず一つは、同性愛や避妊は、異性愛、妊娠と矛盾しない(併用できる)こと。
 二つめがそれで、同性愛や避妊は、たとえ人口の何割かが実践しても、他者の自由な妊娠に影響しないということ。「忌避」という語をあえて使えば、同性愛は「忌避」する人が多いため(生物学的本能により)、放っておいても多数派が同性愛に専念する危険もない。(避妊は「忌避」されず多数派が常用しえますが、計画的妊娠のために使われ出産を奨励するのが普通。ちなみに売買春は、買う方は多額の出費、売る方は重労働ということで、合法化されても多数派の恒常的実践とはなりません)
 殺人はこの2条件を満たしていない。他者との協調と矛盾し(併用できず)、かつ、人口の何割どころか、たった一人でもやりまくるやつがいれば他者の生や関係者の将来計画に甚大に影響します(私自身が殺されなくても、殺されると私が大迷惑する人が何万人といますから)。特殊思想を持った武装自衛隊の一隊が地下鉄で乱射しまくる「可能性」が許容されているだけでも社会は崩壊します。
 なお、決闘は、上記2条件を満たしています。決闘は本人たちの自由意思でなされる契約なので、むしろ「自殺」に近く、そもそも殺人とは言えないかもしれません。日本の法律でも「決闘罪」によって、殺人とは別の規定で罰せられるようです。
 まあ、輪廻転生による不死が事実であっても、いきなり殺されるのは嫌でしょうな。たとえ不死でも、そこまで築いてきたものが無駄になる虚しさに変わりないのだから。

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オコジョさんへ 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月26日(金)13時16分14秒

>・・・ご自分が殺されることに異常な恐怖感を抱いている。・・・

この文章以降の文は今回の議論と無関係ですよ。
誰かが恐怖をいだこうとどうしようと自由です。

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いよいよ輪廻転生 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月26日(金)12時59分36秒

どこの組織でも40才になっても独身だと、ホモ?なんて陰口たたかれますよ。
学校でも恋愛については性教育がありますが、同性愛に関する教育はないでしょう。
アメリカのドッキリカメラで息子がホモだったと両親に告白する番組を見たことがあります。
その両親の困惑した反応は我々日本人と同じだと感じました。

ホモ?という陰口がなくなり、
同性愛に関する性教育があり、
ホモとゲイの結婚に「おめでとう」と祝いの言葉が述べられるようになったら、
倫理的に許容されている、ということなのではないでしょうか。

問題は、許容の内実でしょうか。
人権としては同性愛を許容しますが、道徳としては否定する、ということなのだと思います。
要するに、「自由じゃない? 私はしないけど」ってやつです。

>http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/murder.htm末尾の4行をもとに考えていただけるといいですね。(ヒント:理由は2つあります)

一つは、同性愛が100%普及することはありえない。
(殺人は皆殺しってのがあります)
ということがありますが、同性愛が子供を減らす方向にはたらくことは否定できませんよね。

>http://homepage1.nifty.com/t-watanabe/academic_meeting_4.htm
> ↑今さらで日が迫りまくってますが皆様よろしければどうぞ。

いよいよ輪廻転生ですね。
輪廻転生が哲学になるのか?、興味津々です。
できれば、書き物で読みたいので、講演内容をアップしていただけるとうれしいです。

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追記2 投稿者:φ  投稿日: 3月26日(金)06時29分50秒

 混乱防止のとどめを刺しておくためにもう一つ追記させていただきますが――、
    ∀x∀y(Sx∧My∧~Ixy⊃(Pxy⊃Dyx))
の、yには、「死刑」「決闘」といった類的反例(?)が出たとおり、Mの個別例よりも「下位分類(タイプ)」が入ると考えていただくのがわかりやすいでしょう。もともと「なぜ人を殺してはいけないか」は個々の殺す行為を例とするタイプについて一般的に問うていたからです(むろん個別例と解釈しても以下の話はアナロジカルに成立)。
 yを「鈴木姓限定殺し」という殺人タイプとします。鈴木姓限定殺しが、制度的許可明示なく(~Ixy)なされ続け咎める者もなく放任されて(Pxy)いる。鈴木姓限定だから鈴木以外の人は安心で社会が存続するかというと、制度的許可明示がないために次は佐藤姓殺しや田中姓殺しに無際限に拡張する可能性を帯びている。そういう怖れのもとでは社会は存続できない。拡張は許されないという制度的許可範囲明示が必要である。さもなければすぐに~Pxyと転化し鈴木姓殺しに非難が集中せざるをえまい。制度的許可明示(Ixy)があって初めて、差別的制限に安住して(Pxy)いられる。(これは3/12「制度的に許容」≠「許容」で「制度的明記ナシの恣意的決闘」について述べた趣旨の繰り返し!)
 yを「プール内での放屁」という放屁タイプとします。プール内放屁が、制度的許可明示なく(~Ixy)なされ続け咎める者もなく放任されて(Pxy)いる(われわれの現実社会がそうでしょう)。制度的許可明示がないために、プール内放屁がいつ温泉内放屁、路上放屁、布団内放屁、便所内放屁、SM顔面放屁へと無際限に拡張するかもしれない可能性を帯びている。では社会は安心して存続できないかというと、そんなことはない。~Pxyとなることもない。制度的許可明示がなく(~Ixy)ても、差別的制限(かどうかわからない非制度的なあやふやな制限)に安住して(Pxy)いられる。
 殺人と放屁の経験的帰結がこうして確認できる以上、トートロジーのはずがないでしょう。
 いくらなんでもこのくらいでいいでしょうな?
 もともと、3/12「制度的に許容」≠「許容」で、
  ★「制度的に許容」されている放屁など存在しない、つまり「制度的に許容されていない放屁」しか存在しないことに注意★
 と明記したのですから、確かに今見ると字面は曖昧な日本語で申し訳なかったですが、「制度的に許容」の意味は曲解の余地なく明白だったはずです(上のようなプール内放屁等の例を思い浮かべればよいので)。場面限定的なマナーがどうとかは話に無関係(なにせ全称量化子ですよ)、放屁にはそもそも「制度的に許容」という概念が不要で済んでいる、そこが殺人と違うという例として出したことは誤読の余地はなかったはずなのですが。
 法律Iと倫理Pの区別は3/12「根源的問題」ですでに書きましたし。
 ……さぁいくらなんでもこれで、トートロジー云々の流れは断ち切ることができたでしょうね。大丈夫ですよね。それではもっと実のある御反論を期待します。何だかんだいっても皆様には感謝してるんですから。

 ※それにしてもこんな時刻まで↓のレジュメの準備をしているというのにちっともまとまらないな。
 http://homepage1.nifty.com/t-watanabe/academic_meeting_4.htm

 ↑今さらで日が迫りまくってますが皆様よろしければどうぞ。

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誤解防止のための追記 投稿者:φ  投稿日: 3月26日(金)03時16分57秒

 また誤読と誤解が続くと双方にとって不幸なことですから、念のため付加します。
 繰り返しになりますが、Ixyとは、「xにおいてyが許されるためのルールが明確に規約されている」という意味です。xが日本社会、yが「プールでのくしゃみ」だとすると、Ixyは偽です。ところが、Pxyは真です。
 殺人や盗みが、水泳や脱衣や結婚と違って、「禁じられる場合」ではなく「許可される場合(Ixyの場合。Pxyではない!)」の方だけがわざわざ法制化されねばならないのはなぜなのか、お考えいただければ。
 オコジョさんからは結論の決まりきっている殺人よりそろそろ売買春の話(いまだ趣旨不明なので気になっている)を聞きたいですなぁ。(だって、あくびやあぐらと同じように殺しの法的許容制限が無になったとき、社会が維持できると心底から思ってる人っていないでしょ?)

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I≠Pは水泳の例で! 投稿者:φ  投稿日: 3月26日(金)02時40分49秒

 ●私はたとえば3/23太陽vs月ではっきり書いておりますけれどね。論理式の翻訳を「パラフレーズしておきます(わかりやすく多少コトバをアレンジします)」と。
 なにしろ、放屁が〈制度的に許されないことになっている〉かのような非常識なトンデモ解釈をオコジョさんにされてしまっては、アレンジさせていただかなきゃ話が進まんでしょう? 御自分の妙な誤読を棚に上げて「途中で意味を付け加えた」と非難されるとは感心いたしませんな。付け加えたどころか、「法律」に限定した制度的許可を例示したまでですよ。Iとして「不文律」も明確なものであれば当然含みます。ルールが明確に共有されて制限的適用が生きていればよい。
 もともとの問題を思い出していただきたい。「なぜ人を殺してはいけないか」です。限定句ナシの、人殺しです。それに対して、3/6死刑と買売春1,2でオコジョさんが
 「死刑は殺人以外のなにものでもありません。社会が自己防衛のためにする当然の行為だ、と言われるでしょうか。それは、理由の話です。殺人でないことにはならない。」
 と「反論」したので話がややこしくなったのです。今思えば、「死刑」などという例外を出してくる平凡極まりない「反論」に一々答えたのがまずかったな、と痛感しておりますが、ともかく死刑のように、適用範囲の倫理的に厳格なルール下で行なわれる「殺し」は除外して考えろ、という常識の確認のためにIxyとPxyを区別せねばならなくなったのです。
 ●さて、ヨーロッパでは決闘が広くなされていても、「当然ながら、社会が崩壊したりはしませんでした」とオコジョさんは書いておられるが、これは3つの意味で問題があります。
 ①「決闘を行なったがために公開処刑された貴族もいるのです」とのことですね。以下その前提で言うと、社会を崩壊させるおそれがあるからこそ制度による歯止めが厳しかったということでしょう。今日の日本では泥棒は禁じられているし泥棒を許容すると社会は崩壊する、にもかかわらず泥棒は頻発しており、「けっこう厄介な問題」です。だからこそ取締りがなされている。決闘も同様で、原則的にPxyではなかったわけです。
 ②しかし泥棒と違って決闘は騎士道的倫理面から肯定されていた、だからPxyが成立していた、と言われるでしょう。しかしその種の決闘の場合は、Ixyも成立している。騎士道の不文律、つまりいかなる場合に決闘が許され、応じるのが立派であるかの価値観が普及していた。それ以外の変則的な決闘は賞賛などされず、Pxyとは決してならない。他方、~IxyなのにPxyとなって問題のない歩行や水泳や放屁との違いを理解していただきたいですね。(「これまでの議論に従ってIとPに区別を立てず、I一本でいったら」って……、あのぉう、件の論理式を明白に偽にする、つまり★IとPが全然食い違っている具体例(水泳や放屁)★を何度も出してみせたのですから、もういくらなんでもトートロジー論議は終りにしていただけませんか?)
 ③次は、~Ixyなる決闘もPxyを満たしていた場合がある、と言われるでしょう。それでなお「当然ながら、社会が崩壊したりはしませんでした」か? ヨーロッパでは何度も社会が崩壊していることは、世界史を学んだ人なら誰だって知っています。社会の不安定ぶりは日本の比ではありません。決闘の横行と国家壊滅との因果関係については専門家にお問い合わせねがいますが、同意されたルールを踏み外した~Ixyなる決闘がもし倫理的に許容されたりすれば社会が成り立たないことくらい、私にも見当がつきます。
 ●「10人や20人死んだって社会は崩壊しないのです。いや、100人や200人、1000人や2000人死んだって社会は崩壊しません。実際のところ、1万人死んでも社会は崩壊していないというのが事実です」
 残念ながらこれはポカでしたねぇ。統計の元となる現実社会には警察や裁判や殺人禁止倫理があるから、1万人殺すやつがいても社会が崩壊せずにすんでいるのです。殺人が法的にも倫理的にも同性愛なみに許容された「社会」のあちこちで1万人が殺されたらどういうことになるか、学校や駅や空港が閉鎖されずにすむかどうか、どうぞ想像力をちょびっと働かせてくださいな。
 ●「合理的殺人」について一言。「合理的」の意味をよくお調べになっては。それから、「理由なし」の殺人の例は「未必の故意」として挙げておりますが。「世間を騒がせたい」「火を見ると心が安らぐ」といった愉快犯や放火犯は、人が死のうが死ぬまいがどうでもかまいません。付随的結果として高確率で起こる殺人には、理由はなかったのです(あったのは原因のみ)。

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その2 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月26日(金)00時25分3秒

 「法律」が出てくれば、話は簡単です。単純で決定的な反証があります。
 事実というものにあまり関心をお持ちでないらしいφさんは勘違いをされているようですが、ヨーロッパでは少なくとも近世以降は決闘は法律で禁じられていました(決闘を行なったがために公開処刑された貴族もいるのです)。それにも関わらず行なわれていたというのが実態なんですね。その規模も半端なものではありませんでした。けっこう厄介な問題だったのです。しかし、当然ながら、社会が崩壊したりはしませんでした。
 崩壊したのは、φさんの主張の方だったという訳です。

 これをどう説明されますか?
 法律とは別の次元で制度的な許容があったということにしますか?。
 しかし、そうすると例の論理式を、私がやったようにPなしのI一本で書かなければいけないことになります。それでは、トートロジーです。

 それから、殺人についての私の認識が「限度を越えて」甘いかどうかです。

>>なお、オコジョさんはどうも、利益や大義を求めての殺人、つまり合理的殺人
>>ばかりを念頭に置いているようで、「理由がなくてなぜ殺すのでしょう」との
>>ことですが、いくらなんでも甘すぎるでしょうよ。

 「合理的殺人」って何でしょう? 私はそんな言葉を使った覚えはありません。人が言っていないことを言ったことにして批判しても内容のある議論にはなりません(論理学関連のある本によると、こういうのを「わら人形の虚偽」というのだそうです)。
 私は殺人についてのごく基本的なところを指摘しただけです。殺すからにはなにがしかの理由があるだろう、と。

>>逆上して後先考えずに殺すとか、覚醒剤とか、飲酒運転
>>で人を轢き殺したとか、未必の故意とか、合理的理由ナシの人殺しなんていく
>>らでもあるわけですよ。

 φさんのコメントです。「わら人形」を批判する議論をしているのが、よく分かります。“理由ナシの人殺しなんていくらでもある”とは言えないんですね。私が言っていない言葉、「合理的」をつけて非難しています。これはおかしい。

 実際、いろいろな殺人があり得るでしょう。そんなのは当然のことです。通常では理由になどなりそうもないような理由で殺人が行なわれることもあるでしょう。そして、通り魔殺人の被害者になる人もあるわけです。
 確かに、そんな殺人の被害者になるのは、その人にとっては不幸なことです。しかし、今回の議論との関連で言うなら、10人や20人死んだって社会は崩壊しないのです。いや、100人や200人、1000人や2000人死んだって社会は崩壊しません。実際のところ、1万人死んでも社会は崩壊していないというのが事実です。これは、日本や欧米の統計をご覧になれば、おのずと分かることです。

 φさんは、ただのこわがり屋さんである可能性が高いと私は思います。ご自分が殺されることに異常な恐怖感を抱いている。その被害妄想を一般論に拡大しているだけなのではないでしょうか。
 確かに、φさん個人にとってはご自分の生死が重大な関心の対象になるのでしょうが、φさんが死んでも社会は崩壊したりしません。

 自分が殺されても社会は崩壊しないのに、社会が崩壊するといけないから自分は殺してはいけないというのでは、私はバランスが悪いと思うのですが、いかがでしょう。

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(倫理的に)許容? その1 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月26日(金)00時24分16秒

 あのですね、議論をしているときに、最初は言っていなかったことを途中からどんどん付け足していくというのは感心しません。
 話を明確にしましょう。
 そもそもの初めは、こんなところからでした。

>>また、経験的事実についてですが、殺人を許容している社会がない(サルの群
>>れですら不当に仲間を傷つけた者は追放や懲罰を受けている)

 まず出てきたのが「殺人を許容している社会がない」です。

>>非制度的殺人を認める殺人許容社会はない→非制度的殺人を許容すれば社会に
>>あらず

 つぎが“「非制度的殺人」を社会は「許容」していない”という説。
 この「非制度的殺人」というのは何を意味しているのか? 社会が「許容していない殺人」のことなのではないか。ここからトートロジー云々が始まっている訳です。当然のことでしょう。別に無理な解釈ではありません。

 私のトートロジー批判に対応して新たに出てきたのが前回の論理式です。

>>∀x∀y(Sx∧My∧~Ixy⊃(Pxy⊃Dyx))
>>ただし、I=制度的に許容する P=(倫理的に)許容する D=崩壊させる

 何のことはない。トートロジーという非難を回避するために、最初は一つだった「許容する」が、「制度的に許容する」と「(倫理的に)許容する」の二つに分かれただけのことです。
 なぜ「制度的に」にカッコがつかず「(倫理的に)」についているのか? 腰が引けている印象があります。で、これまでの議論に従ってIとPに区別を立てず、I一本でいったらどうなるのか。
 量化子のついた文ですが、私の頭の程度に合わせて分かりやすく、その肝心なところだけを取り出せば、こんな具合いになるでしょう。

 -I⊃(I⊃D)

 いちいち書き換えなくてもお分かりでしょうが(!)、これは(-I)⊃(-(-I)⊃D)という文で、何をIとしても、Dに何を入れても正しいことになっちゃうんじゃありませんか?

 で、いちばん最新のヴァージョンがこうです。

>> 「どんな社会にも、そしてどんなMにも次のことが成り立つ。その社会の法
>>律で特別に許可する範囲内にはないMを倫理的に許容(または放任)したとし
>>たら、そのMがその社会を崩壊させるだろう。」

 こんどは「法律」が出てきたという次第です。
 制度の話をしていると思いましたので、マナーについて書きました。マナーも制度以外の何ものでもないですから。
 ところが、それではいけない、法律に規定があるかどうかだ、というご指摘です。
(φさんの新説は、めちゃくちゃ曖昧です。「倫理的に許容」する主体は何なのでしょうか。社会が「倫理的に」許容するというのでしょうか。しかし、それはおかしい。倫理的な判断というのは生きた個人がくだすものの筈です。もうそうでないとおっしゃるなら、φさんの新説のどこにどう個人は関わってくるのですか? 個人の出る幕がないではありませんか)

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同性愛は 投稿者:φ  投稿日: 3月25日(木)03時31分25秒

 とっくに倫理的に許容されているでしょう? というより、日本では同性愛を罪悪視する伝統はもともと無い。それでも個人レベルでは忌避する人々がいて、2、3年くらい前だったか、同性愛者グループに施設の使用を断わった企業だったか何だったかがあって、「差別だ」と非難されました。世間がちゃんと援護してくれるほどには同性愛は市民権を得ています。セックスワーカーのサークルがどんな理不尽な差別に遭っても、売防法があるかぎり、善き市民達は援護しちゃくれないでしょうけれどね。
 同性愛を許容するとほんとに「子どもが増えない」のでしょうか(ではどうして日本は古代から今まで人口が増えてきたのだろう)。売春を合法化すると「子どもが増えなくなる」という反対論があるようですが、なんだか「風が吹けば桶屋がもうかる」式の詭弁ですねェ。子どもが増えなくなる原因はもっと直接的なのがいっぱいあるわけで、むしろ真っ先に、避妊、中絶、オーラルセックス、マスターベーションを禁止するべきではないでしょうかねェ。
 なお、殺人とは違って、同性愛や避妊を∀x∀y(Sx∧My∧~Ixy⊃(Pxy⊃Dyx))の理由で非倫理的とすることが出来ない理由は、http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/murder.htm末尾の4行をもとに考えていただけるといいですね。(ヒント:理由は2つあります)

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φさまの式では、 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月24日(水)13時20分43秒

     同性愛  売 春
~Ixy  真    真
Pxy  偽>真  偽>真
Dyx  真>偽  真>偽
全体   真>偽  真>偽

という感じです。
現代は、同性愛のPxyが偽から真に移行している最中なのでしょうね。
しかし、同性愛が倫理的に許容される社会になると、子供が増えませんから、長期で考えると社会を崩壊させるのではないかと思います。
売春許容も子供が減ったり、不幸な子供が増えそうですから、現代の社会からはより悪い社会へ移行していくと思います。

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∀x∀y(Sx∧My∧~Ixy⊃(Pxy⊃Dyx)) 投稿者:φ  投稿日: 3月24日(水)03時56分38秒

 M=同性愛:真!てことないですよ。同性愛は放屁や水泳と同じようにそもそも法律で許容範囲が制限されてはいない(*注1)ので~Ixyは真、二丁目のゲイバーを非難する風潮もないからPxyも真、それでDyxは現に偽ですから、全体が偽です。
 M=売春:真/も違う。売春は飲酒や喫煙と同じように法律での許容範囲が定められているが(*注2)その中に入らない(違法である)売春が行われた場合、~Ixyは真、しかし現にPxyは真でDyxは偽です。Pxyが真と言えるのは、事実上売春と変わらないフリーセックス(対価を伴うゆきずりのセックス)に世間が非難の声を挙げてはいないからです。
        (注1*)同性の結婚が認められないのは、それ自体は同性愛の許可範囲の制限ではない。「結婚」と「性愛」は互いに独立なので。かりに結婚外の性愛に限るという制限下に同性愛が置かれていると解釈すれば、事実婚をしている同性カップルが黙認されても、現にDyxは偽なので、命題全体は偽。
        (注2*日本の法律では、挿入行為が無ければ許可。また、不特定ではなく相手を選べば許可。ただし、「不特定の相手との挿入行為」が売春の定義に含まれていると解釈すると、法律で許容範囲が定められてはいない(売春はすべて非合法)ことになるので、事情は同性愛や水泳と同じです)

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ちょっと実験 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月24日(水)01時12分34秒

∀x∀y(Sx∧My∧~Ixy⊃(Pxy⊃Dyx))

M=死刑:真
M=殺人:真
M=過失致死:真?
M=決闘:真
M=戦争:真
M=ホロコースト:真
M=売春:真
M=フリーセックス:偽
M=同性愛:真!
M=SM:偽
M=スカトロ:偽
M=ロリコン:偽

死にかかわることは真なんでしょうか?
で、命を生むことは偽で、逆は真かな。

まあ、Dyxなのは何故か?と考えると、社会の構成員が減ることが偽なわけですね。たぶん。

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太陽vs月 投稿者:φ  投稿日: 3月23日(火)04時03分16秒

 太陽と月の見掛けの大きさが同じなのは、必然的です。知的観測者の進化のためには、ちょうどそのくらいの時間が経っていることが必要だからです(なお、月が存在しないと、地球の地軸が定まらず、潮汐効果もないので、そもそも生物は誕生できません)。皆既日食は、もしかしたら全宇宙の惑星のうちでも地球上でしか起きない現象ではないか、と言われています。客観的にはそれほど偶然のことが、観測者にとっては必然になるのですから、「人間原理」はやめられないのですよ……。

 なお、不安なので∀x∀y(Sx∧My∧~Ixy⊃(Pxy⊃Dyx))をパラフレーズしておきます(わかりやすく多少コトバをアレンジします)。
 「どんな社会にも、そしてどんなMにも次のことが成り立つ。その社会の法律で特別に許可する範囲内にはないMを倫理的に許容(または放任)したとしたら、そのMがその社会を崩壊させるだろう。」
 Mに「殺人」を代入してください。真です。Mに放屁、歩行、賭博、麻薬、入浴、を代入してください。偽です。したがって、この命題はトートロジーではありません。(形からしてトートロジーでないのは自明ですが)

 ほんとに念のため補足。「この日本社会の法律で特別に許可する範囲内にはない放屁」は、すべての放屁を含みます。「この日本社会の法律で特別に許可する範囲内」というものが、放屁には無いからです。

 ……しかし死刑や戦争や鈴木姓専用殺人や切捨御免(あるxについてIxyなるy)に対してはhttp://members.jcom.home.ne.jp/miurat/murder.htmの議論は適用されない、て当り前のことを確認するためにこれほどの装備が必要になるとはな……。まあ理屈とはそういうものですが。

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ン? 投稿者:φ  投稿日: 3月23日(火)02時25分48秒

 あらら……? なんだか全然伝わっていなかったですか? ガックリ。  私の書き方が悪かった?(しかし常識に沿って読んでいただければ伝わるはずなのだが……)
 いろいろ応じなきゃならないところ、根本的誤解があっては先に進みようがないですからそこを中心に書かせていただくとして――
 ●「「制度的に許容」されている放屁など存在しない」と私が書いたのは、許容される条件が制度で決められている、つまり、許可条件が制度的に制限されている、そういう特別な許可のされ方をした放屁など存在しないでしょ、という意味だったのですが。
 「制度的に許容されていない放屁」とは、「許可条件が制度的に決められていることのない放屁」という意味です。放屁とはなべてそういうものでしょ、という意味で書きました。
 つまり、放屁なんて放任されているだけだし、それでかまわないですよね、という意味で書いたのです。
 こんなことで誤読されると先に進まず脱力してしまうのですけど……。
 ●とにかく以上の線で3/12「制度的に許容」≠「許容」を再読していただき(レスはすべて、いずれ活字化に転用しうる素材として書いてますから再読に堪えないわけでもないと御信用ください――皆さんの書き込みも同様でしょうけれど)、そこに掲げた
 ∀x∀y(Sx∧My∧~Ixy⊃(Pxy⊃Dyx))
のMに「放屁である」を代入してみて、偽になることをよぉ~く確認してください。トートロジーではありませんよね。よろしいですね?(念のため、Sは「社会である」という述語です)
 というわけで、マナーとかそういう話ではなく、社会秩序を維持するために必要な法制度の話です。「放屁は、これこれの場合ならばしてよろしい」という法律的許可条件を定めた決まりなどなくてよい、ということ(念のためこれは、「放屁は絶対的に許容されている」ということとは違いますよ。絶対的に許容されていることなんてありません。何だってたとえば殺人の手段になりうるのだから)。殺人の場合は「許可条件を制度で定めなくてよい」なんてわけに行きません。制度的に許可されたもの以外は、禁じられます。正当防衛や緊急避難による殺しは、もし制度で許容されていなければ(放任されているだけでは)、社会を崩壊させます。
 ●なお、オコジョさんはどうも、利益や大義を求めての殺人、つまり合理的殺人ばかりを念頭に置いているようで、「理由がなくてなぜ殺すのでしょう」とのことですが、いくらなんでも甘すぎるでしょうよ。通り魔殺人や快楽殺人や放火殺人の犠牲者の遺族にそんなことが言えますか? 八つ当たり殺人、「仲間にナメられたから根性見せるために通りがかりのやつを刺した」なんて事件もありました。他にも、逆上して後先考えずに殺すとか、覚醒剤とか、飲酒運転で人を轢き殺したとか、未必の故意とか、合理的理由ナシの人殺しなんていくらでもあるわけですよ。そういうのに対して警察も裁判も動かない、市民が団結する殺人忌避の制度もない、どうぞご自由にとなったら、社会が成り立つはずがない。
 理由がある殺人についてすら、「殺す理由の方が殺すリスクよりも大きければ殺す」は甘すぎる。オウム真理教やユナボマーや連続幼女誘拐殺人犯や強姦殺人犯や復讐殺人犯(出所した強姦犯が告発した被害者を殺すなど)がそんな計算にもとづいて殺していたかどうか。計算していたとしても常識的な計算とはかけ離れている。しかも予防的「リスク」を設定するのが殺人禁止の倫理と法律なわけでしょう。
 なお、これも伝わっていなかったようで残念ですが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」は「なぜ“人を殺してはいけないことになっている”のか?」という意味ではありません。制度の根拠ではなく、倫理の根拠を問うているのがこの根源的質問だったはずです(3/12「根源的問題」乞御参照)。
 オコジョさんの、殺人に対する認識不足は限度を越えていると思われます。売買春に対する評価とえらくアンバランスですね(ただしオコジョさんは売買春を「悪い」とは言ってないわけですが。だから何を言いたいのかが意味不明だったわけですが)。

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その2 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月22日(月)23時02分7秒

 たとえば、北米大陸に侵入したアングロ・サクソンは先住民を虐殺しまくりましたが、現在ではその行為を中断しています。以前は殺してもよかったのが、現在ではいけなくなったのだ、とφさんなら説明するでしょうか。私は違います。もう殺す必要もなくなったからだ、という説明が妥当だと思うわけです。

 ヤクザが誰かを殺す場合、いろいろなケースがあるでしょうが、基本的に必要だから殺すのでしょう。ナメられてはいけない、とか。見せしめのため、とか。
 強盗殺人する人は、お金を手に入れる必要があってそうするのでしょう。国家が殺すのも同じことです。理由がなくてなぜ殺すのでしょう。φさんの議論は、なぜ殺すのかをまったく無視していますね。ただ寝首をかかれることの心配をしているばかりです。
 殺す理由の方が殺すリスクよりも大きければ殺す。その逆ならば殺さない。そういう仕組で人間は動いている。殺人に限らず、一般にそういう仕方でいろいろな行動を選択しているのです。だから、殺人だけを特別にして「殺してはいけないことになっている」などというルールを想定するのはおかしいです。

>> 「どの社会も、自ら制度的に許容していない殺人を自ら許容できない」とい
>>う趣旨のことを述べたはずですよ、私は。
>> ちっともトートロジーではありません。その証拠に、上文の「殺人」に「放
>>屁」を代入してみてください。偽なる文になるでしょう(「制度的に許容」さ
>>れている放屁など存在しない、つまり「制度的に許容されていない放屁」しか
>>存在しないことに注意)。トートロジーはすべての代入例が真とならねばなら
>>ないはずですからね。

 これも分かりません。
 アラン・ドロンが来日したとき、ファンと食事会をやったという話を聞いたことがあります。レストランで、アラン・ドロンは平気で屁をたれまくったので、日本のファンがカルチャー・ショックを受けたと言います。フランスでは放屁はマナー違反ではない、とか。
 私の聞いた話がどの程度ほんとうのことなのか、保証はしかねます。しかし、そういう社会的ルールがあっても少しもおかしくないことは否定できないでしょう。
 食事中にゲップするのも、一般にマナー違反になっています。でも、チャールト・ヘストン主演の「ペンハー」の中に、ゲップをすることが礼儀であるというシーンがあったような気がします。「たいへんご馳走になりました」というメッセージとして、もてなしに感謝するためにゲップすることがぜひとも必要だというわけです。これも、私の勘違いかもしれませんが、そういうマナーがあっても少しもおかしくありませんね。

 「「制度的に許容」されている放屁など存在しない、つまり「制度的に許容されていない放屁」しか存在しない」というのは、大変な認識違いです。絶対に許容されていないことなんて、あるんでしょうか。(たとえば、強姦だって許容されています。夫婦間では基本的に起り得ないことになっているのですから)
 また、逆に絶対に許容されていることなんてあるんでしょうか。ただ歩くことから食べることまで、絶対に許容されていることなんてありません。
 放屁の例を出されましたが、他に“「制度的に許容されていない※※」しか存在しない”と言えるようなものがありますか? 私はないと思います。だから、やはりトートロジーです。

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殺人の話です 1 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月22日(月)23時01分33秒

 こんにちは。コメントのタイミングが最悪で申し訳ありません。議論が終了したとは思っていないのですが、時間が全然とれなくてままなりません。竹内“女史”風のお話についても書きたいことがあって、なかなかもどかしいところです。
 とりあえず、以下、おつきあいいただければ幸いです。

>>3★「なぜPか?」に対して、「Pでないことは矛盾するから」。これで完璧
>>ですよ。何の問題もありません。

 そうですね。私の書き方に不正確なところがありました。ただ、φさんの言い分がおかしいことには変わりありません。

 1「小泉純一郎の妻は小泉純一郎の妻である」の否定は、2「小泉純一郎の妻は小泉純一郎の妻ではない」ではなくて、3「“小泉純一郎の妻は小泉純一郎の妻である”という事態はない」だというような話がご著書に載っていました。(だから、「なぜ1か?」「1でないこと=2は矛盾するから」とは言えないのですね)

 「なぜ人を殺してはいけないのか?」は「なぜ“人を殺してはいけないことになっている”のか?」という意味でしょう。この場合、“Pでないこと”、つまり“「人を殺してはいけないことになっている」の否定”は“人を殺してもいけなくない=人を殺すことは許されている”とはならない筈です。それだと、述語だけの否定になってしまいますから。
 要するに、素数の議論とはちがって、殺人の話では「Pでないことは矛盾するから」という論証にはなっておらず、私の以下のコメントは、やはり正しいのではないでしょうか。

>>Why-Questionの話には全くなっていません。

 私が一貫して主張しているのは、「“人を殺してはいけない”という事態はない」ということですが、これが「Pでないこと」ですね。この命題は何も矛盾していません。歴史的・社会的事実を述べたまでのことで、これを“主張”だとみなすのは語用論の拡大解釈になると思います。ですから、語用論的論証も適用できないでしょう。

 また、仮に適用が可能だったとしても、「社会が崩壊する」ことはあり得ないというのが私の主張です。
 殺人が社会的に「いけないこと」だとみなされていなかったとしても、個人がみな殺されるのを歓迎している必要はありません。人間は人間を殺すことがあり得るのだという認識を誰もが頭のどこかに置きながら生きている――そういう事態になっているだけです。“いけない”も、“いけなくない”もない、ただ単にそれが事実だというように認識しているわけです。だから、みな自分なりのリスク管理をしている。
 何度も書きましたが、人を殺そうとすることには大きなリスクが伴うのです。逆に自分が殺されてしまう危険性は常に大きいはず。リスクにみあった利益が期待されなかったら、そうやたらに殺そうとなどしないだろう――こう考えるのが合理的です。
 で、今回の話に関係していうなら、こうした解釈に“矛盾”したところなど何もないのではないでしょうか。これは、単なる仮定の話ではなくて、歴史的・社会的事実ですから、当然のことですが。

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影の中で見えるもの 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月22日(月)18時59分46秒

>「この酔っ払い野郎、てめえみたいな迷惑なやつはこうしてやる!」と叫び、

>「死ねこのやろう!」と笑いながら

って、例がちょっとお下品なような・・・。
これらの例の場合、ブレーキの跡があるかどうかが多分重要です。
急ブレーキの跡があれば「死ねっ!」と叫んだとしても許されそうですが、
(普通は急ブレーキを踏んだのなら「死ぬな!」と叫ぶはずです)
ブレーキの跡が皆無なのに「不可抗力だ!」などと弁明しても疑われそうです。
(ブレーキを踏まなかった合理的な説明としては、「死ね」>「死ぬな」っぽい)

現在の地球から見た太陽と月の大きさって、偶然じゃないんですか?
だって、確か大昔は今の月よりも大きかったんですよ。
で、将来の月はだんだんと小さくなるんです。(地球から遠ざかる)
で、太陽は逆に大きくなる。(太陽自身が膨張する)
ですから、今の太陽と月の大きさって偶然のはずです。

>月の裏側(太陽に向いている側)の影を地球から見るのだ

って、しかし、なんという詭弁なのでしょうか。
こういう詭弁を弄する輩(アメリカ人?)は成敗したいです。
こういう詭弁には、こう言ってやります。
「影というのは外から見るから影が見えるのであって、影の中からは何の影も見えないのだ。」
影の中では対象が見えないのであって、影が見えるという表現はおかしい。

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緊急避難/皆既日蝕 投稿者:φ  投稿日: 3月22日(月)03時18分20秒

 殺意は、殺人の必要条件ではあるが、十分条件ではないでしょう。たまたま道の真ん中に泥酔者が寝ていて、それを避けると道の脇の子どもの列に突っ込んでしまうという場合、やむなく意識的にハンドルを切らずまっすぐ泥酔者を轢き殺したドライバーが、その直前に殺意を抱き、「この酔っ払い野郎、てめえみたいな迷惑なやつはこうしてやる!」と叫び、同乗者もその悪態を聞いていたとしても、ドライバーは殺人を犯したとは言われないでしょう。
 その酔っ払いが、自分の妻を寝取った男であることにドライバーが気づいて、これさいわいと「死ねこのやろう!」と笑いながら本気で轢き殺しても、やはり緊急避難であって、殺人にはなりません。
 こういう場合、殺人(法的にも倫理的にも)の成立不成立にとって、殺意はほとんど無関係ですね。

 影のパラドクスは、Bが正確にAの影と同じ幅を持っていることが重要です。ちょっとでも小さければ「BはAの影の中にある」と言えますが、厳密に同一の大きさなので。
 「日蝕のパラドクス」というのもあります。地球から観たとき太陽と月の直径がほぼ同じであるという偶然(本当は偶然などではなく必然なのだが、それはまた「人間原理」の深遠な議論になるので別の機会に)によって成立する壮観「皆既日食」。そのとき、地球から見えるのは月の表面なのか、裏面なのか」というちょっとヘンテコなパラドクスです。
 これは「影のパラドクス」の変形バージョンです。光を遮るという、影の原因を作った物の影を私たちは見るはずで、光を遮る原因になっていない物の影が見えるはずがない。したがって私たちは月の裏側(太陽に向いている側)の影を地球から見るのだ、という理屈。この「日蝕のパラドクス」は、パラドクス3部作の3冊目に取り上げる予定です。

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影の現象 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月22日(月)00時24分23秒

もちろん、法的な話じゃないですよね。
倫理的な殺人です。
というか、殺人という言葉には殺意が含意されていますよね。
殺意のない殺人って、通常は過失致死等の事故的な扱いですよね。
殺意を持って計画して、実行して、達成したのならば殺人でしょう。

「論パラ」049の反例は推理小説に多数ありそうです。
(1)(2)(3)をいかに面白く回避するかが作家の腕の見せ所なわけです。

「論パラ」049と050はユニットという考え方が新鮮ですが、050の2は明らかにAの影です。
そして、(3)が間違っているとは思いません。
影はBを通り抜けてCにできたわけではなく、Aの影の中にBとCがあっただけだ、と思います。
(3)という影の定義は、間違った定義だと思います。
(3)は影の「定義」ではなく、影の「現象」なのだと思います。

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赤い部屋系 投稿者:φ  投稿日: 3月21日(日)03時07分37秒

 死刑囚の自由意思に任せたならば、「殺した」とは言えませんね。殺人は行なわれていません。いかに殺意があろうとも。具体的意識としての「殺意」というのは案外重要でなく、多くの場合に行為の「論理」のほうが優先されるものと思われます(論パラp.177御参照)。
 厳密には法律家に訊ねてみないとわかりませんが、この看守が殺人罪で有罪になることはまず無いでしょう。たぶん、業務不履行(?)の罪だけです。  この種の、「自ら手を下さず相手の意思で勝手に死なせる」ことを故意にやるいろんなパターンが、江戸川乱歩の短編「赤い部屋」に出てきますね。殺人を過失と装うパターンも混じってますが。

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苦しんでない? 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月20日(土)23時42分57秒

この看守は強引に追い出したのではありません。
死刑執行直前に「ここから逃げろ」と逃がしたのです。
死刑囚は、死刑になるよりも、生きられる可能性が少しでもある砂漠へ逃げたのです。

問題はこの看守には殺意があったということです。
しかも、なるべく苦しめてから殺したいという邪悪な殺意があったのです。

(1)については、死刑囚が逃げたことがこの死の原因です。(逃げなくてもよかった)
(2)については、死刑囚は渇きによって死に、自らその状況をつくっている。
(3)については、死刑の執行よりも確実に死期は遅くなっている。

しかし、この死刑囚が死刑よりも苦しんで死んだかというと、ちょっと疑問です。
たぶん、死の瞬間まで生きる希望を持っていたように思います。
その意味で、死刑というのは残酷だと思います。
生きる希望が皆無なんですからね。

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砂漠の看守 投稿者:φ  投稿日: 3月20日(土)18時18分57秒

 死刑囚が自由に判断して逃げたのなら、看守は殺人を行なっていないでしょうね。単に死刑停止して命を救っただけ。
 もし強引に砂漠に追い出したのであれば、
   (1)殺人者の行為が、被害者の死の原因となっている。
   (2)殺人をした者がいる。
 が成立しているようです。
 直接には砂漠が死刑囚を殺したとはいえ、やはり看守がその原因を作り、手を下したといえます。水筒の水を抜いておいて渇き殺すとか、寝室にサソリを入れて刺し殺させる(『アライバル』みたいに)とか、崖から突き落として海水の力で溺死させるとかと同様ですね。
   (3)被害者の死期は早められる。
 これについては、死刑執行を放棄してそのかわりに砂漠に放り出すのですから、単に殺人方法を変えただけであり(死刑も殺人と見なすとして)、ちょうど、狙撃直前にふと引金から指を外し、一服してから再び狙って撃った、というのと変わりないでしょう。死期を遅らせているように見えますが、実は遅らせてはいない(コントロールしているだけ)。
 死刑を殺人と見なさない場合(被害者に降りかかる運命的な死と見なす場合)は、その運命の死から救ったうえで砂漠に放り出すことは、単に救うだけの行為(自然な流れ)からすれば死期を早めていますから、これまた(3)の反例にはなっていませんね。

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049の反例 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月20日(土)11時45分39秒

論パラの049と050って、ユニットという考え方が面白いです。

049(1)(2)(3)の反例としては、こんなのどうでしょう。

砂漠の刑務所にいるある死刑囚に恨みを持ち、簡単には殺したくない看守が、死刑執行直前に飲食物なしで死刑囚を逃がす。
この死刑囚は渇きによって死ぬ。

この看守は目的を達したわけですが、(1)(2)(3)ともに成立していないのではないでしょうか?

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(1)への反例の方が簡単か 投稿者:φ  投稿日: 3月20日(土)06時37分25秒

         (臓器用理想クローン:個々人単位で抗体の適合性を考え、事故など緊急用に全身クローンを常備。
          ただし、無脳クローン人間として、無人格状態で培養するのが人道的。)
 お立寄りのかたがたの中には『論理パラドクス』を御覧になってない方もおられるでしょうから問049=毒入り水筒問題の「殺人の条件」(1)(2)(3)を再録しますと――
 (1)殺人者の行為が、被害者の死の原因となっている。
 (2)殺人をした者がいる。
 (3)殺人者の行為があったことにより、行為がなかった場合よりも被害者の死期は早められる。
 そこで(3)への反例に戻りますが、
◆断崖……銃弾から救うためであれば「緊急避難」で結果として死なせたことになりますが、銃撃から救うとは知らずに突き飛ばした場合、あるいは知っていてもわざと崖から落ちるように突き飛ばした場合は、たしかに殺人になるかも。しかしこれは、次のような根拠によるのでは。崖から落ちないような突き飛ばしかたもできたのに、あえて落ちるように突き飛ばしている。前者の場合(自然な流れ)より後者の場合のほうが被害者の死期を早めている。だから殺したといえる。(3)に反していない。
◆逆上1,2……止めた行為(助けた行為)と、改めて殺した行為とが別の行為なので、殺した行為そのものは「被害者の死期を早める」行為になっていると思われます。したがって(3)に反していない。
◆緊急輸血……この場合は、本当に「殺した」と認定されるかどうか……? やや疑わしいが、かりに「殺した」と認定されるとしても、次のような根拠によるのでは。汚染されていない血液を使うこともできたのに、わざと汚染された血液を使った。前者の場合(自然な流れ)より後者の場合のほうが被害者の死期を早めている。だから殺したといえる。(3)に反していない。
◇ ……以上のように(3)への確かな反例はなかなか発見しづらいのではないかと。
 逆に(1)への反例の方が簡単に作れそうです。1人を10人が自動小銃で銃撃した。誰の弾が被害者に真っ先に致命傷を負わせたのかわからない。10人全員の弾が致命的な当たりかたをしていることは確かだが、誰か数名は、被害者がすでに絶命してから初めて弾(余計な弾)を当てていることは確実。しかしこの場合、被害者の死の原因となっていない者も含め10人全員が殺人罪になると思われる。(1)を厳守するなら、「疑わしきは罰せず」で全員が無罪にならねばならないので。
◆爆発の嘘……この場合、悪臭物質を入れる場合とは違って、「毒だから飲めない」と誤想させてはいませんね。しかし、「水筒の中の水は飲めない」もしくは「水筒の水を飲めば死ぬ」という、より一般的な命題を信じており、その誤想は、たまたま事実に(太郎が作り出した事実に)一致しています。その点で、悪臭物質と同じです。(水筒の水を抜いた場合も同じです)
 (念のため、「水筒の水を飲めば死ぬ」という信念Aは、「蓋を開けると爆発する」という信念Bに含意されています。なぜなら、信念Bの中では、「水筒の水を飲む」前に爆発が起きて自分は死んでしまうので、「私は水筒の水を飲む」という命題は偽だとされています。前件が偽なので、「水筒の水を飲めば死ぬ」は真です。こうして、信念Bを信じている人は、信念Aも自動的に信じていることになります。――ただし、同じ論法によって「水筒の水を飲めば生きられる」「水筒の水を飲めばUFOが降りてくる」等々何でも信じていることになりますが、それらは論点に関係ありません。)
 いずれにしても、とりわけ悪臭物質の場合は、(1)ではなく(3)への反例になっていると言えそうな気もするが、確信がない。
 一般には(3)より(1)への反例のほうが想定容易だとなると、犯人は太郎か……?

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毒入り水筒問題についてですが・・ 投稿者:syosinsya  投稿日: 3月19日(金)19時40分44秒

問の内容をちゃんと書かなかったので、お手間を取らせたようで済みません。

> 次郎にこう弁明されたら。
>  「私の行為は、三郎に対する単なる嫌がらせでした。私の行為『だけ』では三郎を殺せる保証はなかった。飲もうと思えば飲めたのですからね。三郎が勝手に「これは毒。飲めない」と判断したため、私の「未必の故意」が成就されただけです。

三郎が水を飲まなかったことの責任が、次郎にどの程度帰せられるか、が裁判の争点になると思われます
飲まないで死ぬという結果が一般にも次郎にも明らかに予測でき、「殺す目的でやった」とするのか、
それとも「死なないかも知れないし、しかし、死ぬことになったらそれはそれでいい」と思っていた「未必の故意」なのか
それとも結果についての責任は飲まなかった三郎のせいであり、次郎に負わせられるのは単に「いやがらせ」をしたという責任だけなのか。
それは、「次郎は殺人犯なのか否か」という問題として。

それで、
> じゃあ、三郎の「これは毒。飲めない」という判断が『真実』であったのは、誰の行為のゆえか? もちろん太郎の行為ゆえでしょ。

これは三郎の誤想が(また、次郎が仕向けた粉飾が)「たまたま」事実に合致しただけのことで
「水が毒だったから、毒だと思った」のではなく
「水が実際に毒であることとは何の因果関係もない見た目や匂いの粉飾によって、誤想しただけ」ですから
「太郎が毒を入れたこと」と「三郎がそれを毒だと判断し(て飲まなかっ)たこと」との間には結びつきがなく
「単なる偶然」なので、「単なる偶然による合致」を殺人者の根拠とはできないと自分は解釈します・・
これ、後で書きますが、「事実と誤想が合致していなくて、しかも本質的にこのパズルと区別する根拠のないケース」も想定できると思われ・・

> 他にも考えられる【(3)に反する殺人の事例】とは?

思いつくまま挙げますと
・断崖の上にいる人物を射殺しよう拳銃を撃ったが、間一髪で別人が被害者を突き飛ばした
 被害者は海に落ち、救出され病院に運ばれた後、手遅れで死亡(射殺の場合は即死であったと推測される状況)
・逆上して相手の胸を刺そうとしている者を別人が止め
 1 俺がやるから、と言って長時間かけて殺した
 2 いったん助けたが、気が変わって殺した
・緊急輸血によって命を救ったが、輸血した血液が汚染されていたことにより、後日病気を発症し死亡
 (この場合そうとう大きい遅延が想定可能。血液が汚染されていた原因もしくは、汚染を見逃した責任が輸血を為した当事者にある場合を想定する方が比べ易いかと)

なお、今回の水筒のケースの別バージョンとして
・「水筒の入った箱の蓋を開けると爆発して即死する仕掛けを施した」
 と、次郎が「嘘をついた」
 三郎はそれを信じて【箱を開けられなかったので】、飢えて死んだ

 この場合、 次郎の主張として

> 三郎が「毒を飲むまい」と判断したのは、結果的に正しい判断であり、それは太郎の毒に対する適切な判断だった。

は成立しません。誤想の内容が「毒が入っているから」ではありませんから。
このケースの場合だったら、φさんはどう判断されますか?

> スマリヤンの原著では、次郎は、三郎が水を飲めなくさせるために、水筒に穴をあけたということになっています。

それは読んでいないのですが・・その場合次郎に「自分の行為は毒殺を完全に阻止して延命させた。つまりむしろ救ったのだ。」と主張させる余地を増やそうという目論見なんでしょうか?

> ほんとに(1)より(3)が先に捨てられますかね?

今回のレスからしても、たぶんφ さんも(3)を捨てる可能性も考えておられますよね?
えっと、自分の今の感じでは(3)はイメージに過ぎなかった、しかし、(1)はかなり重要な条件なので
どうしても変えないといけない事例にでくわさない限り変えるべきではないと思われます。
例題のケースでは道義的な悪辣さ危険性はむしろ太郎の方が重大だったりするので、
「被害者の死の原因となった行為をしていなくても、殺人者でありうる」と
つまり(1)を否定しても大差ないかもしれませんが、
しかし、一般的に「原因となった行為をしていなくても、殺人者でありうる」
としてしまうのは、自分には(3)の否定よりずっと危険が大きいのではないかと・・

050の「影」の問題も併せて考えたことがあるのですが、今日は時間なくなりました。
今度は月曜あたりに伺います。
いつもありがとうございます。

あと、以前ハムスターさんにもレスを付けたままだったと思いました。
続けて来れなくてすみません。

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人権を司る遺伝子? 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月19日(金)17時53分38秒

「奴隷用に作られたクローン人間に限って人権を認めない」って、随分と刺激的です。

ナチスはユダヤ人の人権を認めずに崩壊しました。
アメリカは南北戦争時に奴隷制の南が崩壊させられました。
歴史は特定の人間の人権を認めない社会を許さなかったようです。
おそらく今後も同じだと思います。

遺伝子技術の発達は、臓器移植用のクローン人間ではなく、クローン臓器のみを培養できるまで進歩しなければなりません。
人類は臓器移植用のクローン人間なるものを許さないと思います。

遺伝子は人権を司る部分がますます発達して遺伝していくのかもしれません。

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奴隷→西欧哲学→人権vs遺伝子←自然保護←自然破壊←西欧科学 投稿者:φ  投稿日: 3月18日(木)02時04分3秒

 「生態系の保護」「種の保存」という、虚構の価値観が本当に貴い価値観であるかのように世に広く受け入れられているのは困ったものです。個体の人権を守るのが先なのに、種のためなどと称して個体を殺戮しているのでは本末転倒。私のよく知る動物愛護団体も、クマの射殺やカラスの捕獲や捨犬の動物実験用払い下げなどのときは抗議メールをどんどん送っていたようだが、タイワンザルに関しては目立った動きを聞かない。「生態系」「種」はよほど大層な大義名分であるようです。遺伝子の専制時代ですね。
 ただし人間についてだけは人権が優先。遺伝子保存主義もやがて組換え主義、優生学にとって代わるでしょう(ナチス的な積極的優生学ではなくて遺伝子治療などの消極的優生学)。
 クローンで臓器移植用の個体を作り出すことの是非はよく語られますが、奴隷用のクローン人間というのは一応論外とされている。しかし、「鈴木姓の人間だけは殺していい」という倫理が社会を崩壊させないのと同じく、「奴隷用に作られたクローン人間に限って人権を認めない」という規則は、社会制度として一応成り立ちはするんですけどね。

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思想の淘汰? 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月17日(水)23時50分55秒

ヨーロッパ文明、というのは確かに不思議なので調べてみました
。 キーワードは奴隷ではないでしょうか。
アリストテレスは「奴隷は言葉を喋る道具であり、牛馬と同様に人間に貢献する」などと非人権的な発言をしていたようです。
古代ギリシャ人は労働を蔑み女性や奴隷に任せて、スポーツや議論に日々を過ごしていたそうです。
その中でギリシャ哲学や科学が発達してきた。
暇を持て余した結果だったようです。

しかし、エジプトにも奴隷はいましたね。
エジプトからはピラミッドしか伝わっていないようです。
はてな?
とすると、奴隷制度は関係なく、思想も生命と同じように多様なものから淘汰されてギリシャ思想が生き残ってきたと考えるべきなのでしょうか。
多分これが正解っぽいです。

タイワンザルだって、ほっとけば勝手に淘汰されるんですけどね。

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 『本』ですか。では見てみます。 投稿者:φ  投稿日: 3月17日(水)02時20分55秒

 ほんとに(1)より(3)が先に捨てられますかね? 他にも考えられる【(3)に反する殺人の事例】とは?
 末尾に挙げたスマリヤンの原著では、次郎は、三郎が水を飲めなくさせるために、水筒に穴をあけたということになっています。しかしそれだと、太郎の入れた毒が失われてしまい、三郎が毒殺されることが不可能になってしまうので、面白くありません(つまり次郎が殺人犯であることがかなり露骨になってしまう)。そこで私は問題を、水を抜くのではなく無毒の悪臭物質を入れるように変えたのでした。原典からのこうした改良的アレンジが『論パラ』『論サバ』の隠れた自慢なんです。
 私のバージョンによると、三郎はいつでも太郎の毒を飲もうと思えば飲める状態に置かれている。ずっと毒殺の危険にさらされ続ける。それを次郎の措置が押しとどめ、結果的に命を延ばし、途上の救出の可能性すら増やした。次郎の行為がなければ、救出可能性の低いまま、もっと早く死んでいたのです。
 正直言うと、太郎より次郎のほうが犯人度は高いという感じは私もします。しかしどうでしょう、次郎にこう弁明されたら。
 「私の行為は、三郎に対する単なる嫌がらせでした。私の行為『だけ』では三郎を殺せる保証はなかった。飲もうと思えば飲めたのですからね。三郎が勝手に「これは毒。飲めない」と判断したため、私の「未必の故意」が成就されただけです。じゃあ、三郎の「これは毒。飲めない」という判断が『真実』であったのは、誰の行為のゆえか? もちろん太郎の行為ゆえでしょ。太郎のは本物の毒ですからね。私の行為は太郎の毒を三郎に気づかせたにすぎない。三郎が「毒を飲むまい」と判断したのは、結果的に正しい判断であり、それは太郎の毒に対する適切な判断だった。だから犯人は太郎です」

 (……N氏的独在論という問題設定が「有害」でもありうるのはなぜかを、機を見て詳述したいと思います)

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ついに論理パラドックスと論理サバイバルを 投稿者:syosinsya  投稿日: 3月17日(水)01時32分16秒

手に入れ、読み始めています

突っ込みどころが見つかりました

論理パラドックス049スマリヤンのパラドックス

これは、太郎は殺人未遂 次郎1人が殺人犯 
なので、

殺人に必要と思われる(1)(2)(3)の条件のどれかが疑わしいですか? という問いには、

(3)殺人の行為があったことにより、行為がなかった場合よりも被害者の死期が早められる

 が間違いと考えます。

もともと(3)が漠然とした常識的イメージの上に立っていたものであり、
実際にであれ、思考実験上であれ、049のようなケースが捉えられたことで、(3)には根拠が無かった、とすべきではないでしょうか
(3)に反する殺人の事例は、他にも考えられると思います。

ともかく太郎の行為は三郎の死に全く因果関係を持っていないのに、実現した殺人の一端を担っているとするのは、
無理だと思われます
実際の裁判でも、殺人罪を問われるのは次郎1人ではないでしょうか

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>「私的言語」ですね。 投稿者:学ぶもの  投稿日: 3月17日(水)00時24分17秒

返答ありがとうございました。

#詳しい内容はしりませんが、永井さんは、
#『本』という小冊子で、独在論・独今論に関する哲学を展開されているようです。

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 「私的言語」ですね。 投稿者:φ  投稿日: 3月16日(火)01時38分16秒

 「私的言語」は当然可能だし、現にあると私は思っています。しかし、他我に対して伝達しようという宣伝やアジテーション用に、または質問に答える形で、「社会などなくてもよい」「人を殺すのは許される」という言葉を使ったとたん、その言葉は公的言語となり、自己反駁してしまいます。社会に寄生してしかその主張も意味も存在できないからです。
 「なぜ私は○○なのか」も、私的言語と公的言語を混同する誤りだったと言えるでしょう。「なぜ私は○○なのか」は、公的言語として提示したとたん、意味を失います。私がなぜ再三、N氏的〈私〉論を批判するかというと(『論理学がわかる事典』でもしつこく計10節分やってますが)、印税や原稿料の形で読者から対価をとっている本や論文で、私的言語を延々と弄しているからなのです(トマス・ナーゲルのように1、2度ならいいですけど毎回なので)。単純に非倫理的な、不誠実な執筆態度だというわけですね(「なぜ〈私〉が倫理にしたがわなきゃならんのか」と私的言語を発すればまた堂々巡り)。N氏からは(私的言語使用者にふさわしく)反論を受け取ったことはありませんが、さすがに最近は〈私〉、〈私〉とは述べておられないようで(あるいはどこかでまだやってますか?)少しは私の批判も功を奏したか、と思っている次第。(むろんひとり私的言語で「なぜ私は○○なのか」と思索しつづけるぶんには倫理に反してはいませんが、私的言語としての「なぜ私は○○なのか」すら実は公的なクオリア問題に過ぎないことは
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/nanmon-c.htmに論証したとおり)
 私的言語と「なぜ人を殺してはいけないか」が密接に結びつくことは、重要な観点ですよね。『論理学入門』p.125で、「言語で何も主張せず淡々と人を殺しつづけるのは矛盾ではない」という趣旨の但書きを入れましたが、そこはもう少し広く「公的言語で何も主張せず」と書いてもよかったところでした。

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もし言語が孤立的なものであるなら 投稿者:学ぶもの  投稿日: 3月15日(月)22時43分17秒

「社会などなくてもよい」という主張が矛盾を引き起こすのは
「べき」や「べきでない」
「なくてはならない」や「なくてもよい」
「許される」や「許されない」
といった概念自体が広義の「倫理」(社会制度を含む)を前提にしている
からというわけですよね。

そこでもし、言語や意味といったものが、
一個人の心と世界との間の関係だけによって成立する孤立的(非社会的)なもの
であるとしたら、上の論法を無効にできますか?

例えば、

言語の成立は、私一人の心と世界との関係のみによって成立しているという仮定のもとでは、
言語は、社会制度を前提するものではないので、
また
社会が存在しなければ、私は存在しえないとは自明ではないので
この場合、「社会はなくてもよい」という言明は、必ずしも
この言明が支えられている語用論的前提に矛盾するものとはいえない。

というのは成り立ちそうな気がするのですが。

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人権≫遺伝子 投稿者:φ  投稿日: 3月15日(月)02時41分6秒

 倫理的にはむしろ大差の不等号で結びたいところ。
 人権思想はヨーロッパ/非ヨーロッパの区分で行くとどうやら前者にしか生まれなかった。男/女の区分よりもこちらのほうが重要かつ不思議かもしれません。一夫一婦だってかりに女が声をあげたとしても、どうせヨーロッパの女たちです。
 ヨーロッパには遺伝子の支配を振りほどく特別な何があったのか。
 インド数学から中国医学に至るまで世界中すべてが直観的ヒューリスティクスで進歩していって、挙句に行き詰まったとき世界を飛躍させたのはギリシャ・ユークリッド幾何学から受け継がれたヨーロッパ流論理でした。人類に共通な「直観」に対し、「論理」は遺伝子に反する不思議な能力です。
 新人種であるモンゴロイドがいちばん脳重量大きく知能が高いのに、科学のブレイクスルーのほとんど百%を旧人種のコーカソイドが担ってきたのも不思議。おそらく大宇宙に唯一であるこの奇跡的な電波文明に人類が至ったのはひとえにヨーロッパ文明のおかげ。文明はいよいよ遺伝的制約を振りほどきつつある。そろそろ本気出してホモサピエンスそのものが次の種族へと進化を遂げるべきときでしょう(遺伝子操作で知能を決定するポリジーン増強もできるようになりつつあることですし)。
 しかし「人権≫遺伝子」は人間だけに適用される公式ではないはずです。タイワンザルの大量殺戮はあれはいったい何なのか。マスコミにはあまり批判の声が出ないようだが。ニホンザルとの交雑を防ぐとか何とか下らぬ理由で大量に捕えて安楽死させてますが遺伝子をそんなに尊重する必要がどこにあるのか。人間自身は遺伝子操作を待つまでもなく結婚の人権を尊重して人種間混血で新人種がどんどん出来て「人権≫遺伝子」なのだから。なぜサルやクワガタだけ。

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人権>遺伝子 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月14日(日)23時37分20秒

社会が成熟し人々が教育を受けられるようになってから、特に女性が自分達の不遇に疑問を持つようになった。
それを聞いた周りの人達が同調しはじめたといったところじゃないでしょうか。
男女が同権だという女性の権利に関する主張には誰も反論できません。
こういう主張がなされるようになった以上は、教育ある人々は認めざるを得ないというわけです。

一夫一婦制の同権というのは、各々の性の特性を踏まえた同権なのでしょうか。
夫は外で食べ物を捕ってくる、妻は家を守り子を育てる、そういう権利が平等だというわけなのでしょう。
妻が稼いで、夫が子育てをするような権利というものはないですよね。
まあ、自由でしょうが。

ちなみに、主婦業が夫の仕事より楽だと考えることも総スカンですよ。
主役は両者だというわけです。

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人権vs遺伝子 投稿者:φ  投稿日: 3月14日(日)15時48分3秒

 ですから追い出さないんですよ、○彦は。×子や×美は○彦の子供の母親でもあることを忘れてはなりません。○彦は適応的に優れた男なので、自分の遺伝子を育ててくれる母性を蔑ろにするような遺伝的性質を持っているはずがない(そういう男はすでに淘汰されています)。
 ●「人権」は確かに、人間が生物学的自然選択の論理を脱却するのに最重要な価値観です。
 ●ただし、歴史的に見ても、政治哲学は男の独占だったので、女の説得によって一夫一婦制が出来たという確率はゼロ%でしょう。男の発明品である人権思想を、女もしぶしぶ受け入れ、それは悔しいのであたかも自ら進んで受け入れてるかのようなふりをしているのがフェミニズムだったりするのでしょう。
 ●人権の起源はやはり、社会契約説的な、「誰が強くて誰が弱いのかわからない、だから安全策を」といった男の恐怖心による妥協です。○彦だって、実は戦ってみるまで自分が一番強いという自信なんかなかったのです。♀たちの選択は事後的に決められるので、もし×郎がたまたま勝っていたら×郎がハーレムを作っただろう。♂だけがそんな不確定な生存競争を一方的に引き受けてきたわけで、♀に比べるとだいぶ損してきた、というのが一夫多妻の実情でしょう(結果的に勝者となった少数♂たちは別として)。
 フェミニズムのことはよく知りませんが、あれは女独自のオリジナル思想なんですか? 男が作った諸々の人権思想とどこが違うんでしょうかね。♀が♂化することより♂を♀化することを狙い、たとえば「私は外でバリバリ働いて昇進を目指すような男はいやだ。家にいて子供を育てることに興味を持つ男と結婚したい」というキャリアウーマンが増えて、男の遺伝的性質を淘汰していってもよさそうなものです。しかし仕事の出来る女(フェミニストも含め)は、ふつうの女以上に、「自分よりバリバリ仕事する男」をパートナーに選びますよねえ。決して自分より下の男と結婚したがらないのが女の本能みたいです。女の地位がすこぶる高い東南アジア(タイとか)も、政府や企業の要職にある女性は、結婚相手として主夫を選ぶことは決してなく、自分よりデキるさらに高位の男と結婚してます。♀は――いったん本能を捨てて♂的競争を自ら分担する一夫一婦に同意していながら、主役は常に夫に任せる本能まで捨てきれない(そして話戻すと売春婦の人権も認めない)という中途半端なことでは、どうなんでしょうか、♀にはあくまで♂文化にアドホックな寄生をしてゆく道しか残されてないってことでしょうか……?

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人権への着目 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月14日(日)13時54分41秒

φさまの性に関する論理は優秀な遺伝子を残す、という生命の一面のみに着目した論理のように感じます。
生命の優先順位はまず、生きること、次に子孫繁栄だと思われます。

φさまの例で説明を試みてみます。
・♂3名はみな、自分が♀3名全員を孕ませたいと考える
・♀3名はみな、誰が勝つか待つ(勝ち残ったものを選ぶ)
・♂3名は戦う。○彦と×彦が戦い○彦が勝ち、×郎にも勝つ。
(×郎は自信がないので弱るのを待つ戦術を取るが結局は負ける)
・○彦は♀3名を独占し、ハーレムを造る
・×彦と×郎は一匹狼となる

×彦と×郎は○彦の目を盗んで♀をたぶらかしたり、共謀して○彦を攻撃したりするが、○彦のハーレムは安泰である。
そうして時は経つ。

・×美がめっきりと衰えて病気がちになる
・×子も毛並みが悪くなってくる
・そこへピチピチのπ子が現れる
・○彦はπ子に夢中になり、他の♀3名に振り向かなくなる
・○彦は子を産めなくなった×美を捨てる
・○彦は毛並みの悪い×子も追い出す
・それを見た○子は自分の将来に不安を覚えるようになる
・○子は○彦に意見を言うが、うるさそうにあしらわれる
(昔○彦が○子に言った優しい言葉などをぶり返してみたりする)
・○子は○彦を説得しようとする
(♀が捨てられるのは哀れであること、そもそも♀♂は同じ生命で差がないこと、♂が♀を思いのまま扱うのは♀の人権を無視して

いること、などなどを説く)
・賢い○彦は○子の言うことを理解する
・○彦はπ子を他の♂に譲って、○子と一夫一婦制の誓いをたてる

とまあ、一夫多妻から一夫一婦制への移行を物語にしてみました。
φさまのおっしゃるように一夫一婦制がもたらす性の社会現象は一夫多妻時とは異なったものになるでしょう。
しかし、男が女の人権を平等に扱わない可能性がより少ない一夫一婦制のほうが一夫多妻より優れている制度であることは女の人権に着目すれば結論できると思います。

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たとえばここに2(女の苦難) 投稿者:φ  投稿日: 3月14日(日)05時57分46秒

 (はじめに、ハムスターさんの【一夫多妻では、魅力のなくなった女性が若い女性に交換させられてしまう心配があるのです】については、そういう評判の立つ男はいくら権勢があっても女は寄り付きませんから、最後まで寵愛を心掛けるはずです。源氏物語やイスラム世界を見ても、どんなブスにも定期的に通ったり未亡人を引き取ったりと、やはり優れた男はまめですよね)
 女の苦難はまだ序の口です。一夫一婦制によって、女は、男につけ込まれやすくなったのです。一夫多妻時代には、女は、男どもを気がすむまでより好みして、これぞと思った王子様に体を開くという厳選戦略が取れました。女どうしの利害がバッティングしないのですから選択は自由です。ところが一夫一婦制となると男獲得も競争なので、そこそこの男が言い寄ってきたとき、拒みづらくなる。女は、後悔することへの恐怖から、妥協を強いられます。そこそこの男で手を打って、男の歓心を繋ぎとめるためにヤラセてしまったりします。女は年齢制限があるから弱いです。それで妊娠したり中絶したりして、あとからもっとイイ男に言い寄られても後の祭だったりします。男にとってみればほんとヤリやすくなった。ヤリ逃げも容易に。一夫一婦競争のおかげでそうお高くとまっちゃいられなくなった女は、結婚詐欺とか、騙されやすくもなってしまった。
 しかもそんな女体の窮状と矛盾するにもかかわらず「処女性」が価値を増してしまうのです。一夫多妻時代には、メイン以外の妻に関しては少しくらいの過去の可能性は夫は気にしない。しかし一夫一婦となると疵物は致命的。同じ条件なら処女が選ばれ、疵物は脱落。さらには不倫もやりづらくなった。一夫多妻時代には、虎視眈々と狙っている下位男どもが忍び入ってくるし、夫はたくさん妻を抱えていて目が行き届かないし、不倫も簡単です。一夫一婦となると監督もきびしく、飢えた男がごろごろしているわけでもなく、何より一夫一婦の倫理が縛ってきます。不倫のチャンスは激減。
 こうして一夫一婦制は、①女のより好みを許さず、②将来保証のためしばしば婚前にヤルことを余儀なくし、③しばしば騙し、④にもかかわらず処女性を尊重し、⑤大多数の妻の生活水準を平凡な男なみに下げ、⑥子どものレベルを下げ、⑦不倫もしづらくするという、女にとっては地獄のような制度でしょう(一夫多妻制と比べて相対的に)。
 なおこれまでの話は、あくまで遺伝子(の繁殖メカ)から見たときの♂♀の有利不利であって、個体としての男や女が意識的にそう考えているという意味ではありません。一夫一婦制が「女性のための制度」と個体レベルで思わせることに成功しているとしたら、男性イデオロギーの策略が成功しているということ、そして遺伝子環境から人類が完全に脱して次ステージに向かいつつあるという証拠ではないでしょうか。

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たとえばここに 投稿者:φ  投稿日: 3月14日(日)02時41分36秒

 ♂3名♀3名から成る社会がありますよ。メンバーは、{○彦、×彦、×郎、○子、×子、×美}です。○×は、レベルの高低を表わしています。
 ♂3名はみな、自分が♀3名全員を孕ませたいと考えます。むろん○子を優先的に狙いますが、×子と×美をも孕ませて損にはなりません。自分の子が増えるのだから、ハッキリ得になります。
 ♀3名はみな、○彦だけの精子をもらいたいと考えます。×彦や×郎とヤルと損します。なぜなら、せっかく○彦の精子をもらっても、×彦や×郎ともヤッてしまうと、そいつらの子が生まれてしまうかもしれず、○彦とヤッた意味がなくなります。○彦に疎まれるかもしれない。だから♀3名はみな、×彦と×郎を拒絶して、確実に○彦の遺伝子を持った子を産もうと防御態勢をとります。
 ♂は「∪」の論理(量の原理)、♀は「∩」の論理(質の原理)なんですね。
 ♂3名は、戦います。もし×彦や×郎が♀たちの好みに気づいていれば、協力して○彦を倒すのが得策でしょう。1人ずつでは○彦にかなわないので2人がかりで○彦を消してから、改めて2人で争えばよい。
 ♀3名は、戦ってもほとんど得るところはありません。3人で○彦を共有しても1人で独占してもどうせ○彦の子を生めるので大差ないし、むしろ♀1人になってしまうと×彦や×郎が必死に群がってきて拒否するのが大変になるからです。×彦や×郎にヤラれるリスクを分散するためにも他の♀2人がいてくれた方が得です。♀は3名寄り添って、じっと○彦が勝ち残ってくれるのを祈るのみです。
 ○彦は、1対2の戦いでは不利なので、提案します。「俺も独り占めは諦めるからさ。ここは戦わずに、分配といこうや。♀たちに選ばせて、一夫一婦としよう」。×彦と×郎は、2人がかりでも○彦に百%勝つ自信はなかったし、なにより○彦より頭が悪いためあっさり丸め込まれて、同意します。この同意は正解です。かりに○彦を消せたとしても2人で戦い合うのもしんどいし、○彦が睨みを利かせていれば、もう一人に裏切られる怖れのない制度ができそうだからです。
 こうして、♂3匹はめでたく一夫一婦制で同意し、♀に選ばせ、予想通り、○彦と○子がくっつき、あと二組の××、××も出来上がります。というわけで、星取表はこうなりますか。
 ○彦……×子、×美を手放すという損とひきかえに○子と安全を確保。得。
 ×彦、×郎……誰も獲得できない恐れを解消して♀一匹確保。大得。
 ○子……共有するはずだった○彦を独占。微得。
 ×子、×美……共有するはずだった○彦を放棄。損。
 一夫一婦制は、♂どうしの過酷な闘争を緩和する反面、♀どうしの協調を競争へと変化させました。×子や×美は自分を磨くことで○彦を独占できたかもしれないので、「女の努力」が意味を持ってくるわけですね。どのみち○彦の子を産めた一夫多妻時代には女は努力する必要がなかったのですが、一夫一婦制は女と男に平等な競争を強いているということでしょう。しかし、女は本当は、競争責任の一部を女に転嫁されるより、男の「フェアな競争」をどんどんけしかけたかったはずでは? 男女平等に競争しろなんて、「女性の解放」というより「男性の都合」て感じがするのですが。(むろん、そのへん男も女も個々人のレベルで意識化することがないように現代道徳や法律は周到に作られつつあります)

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女は強い 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月14日(日)00時45分44秒

人類の文明は一夫多妻から始まり、女性の解放とともに一夫一婦制に移行してきたのでは?

動物の性交の様子を見ていると、大抵の♀は勝ち残る♂をじっと待っている。
勝ち残った♂を通常は拒否しないようです。
チンパンジーの♀の場合も、ボスの要求は否まない。
が、ボスに隠れてこっそりと好きな青年を誘ったりするようですね。
また、群れを持たない一匹狼の♂がこっそり群れの♀にいい寄ったりもするようです。
で、こういう一匹狼の♂が群れの♀にモテていたりもするようです。
要するに多様なのですが、原則として、
・♀は勝ち残った♂を否まない。
・それとは別に、♀は好みの♂がある。
・♂は♀を得ようとする。
・そのためには戦いも辞さない。
ということでしょうか。

一夫一婦制は女性が望む制度ですって。
女はいつまでも若くありません。
一夫多妻では、魅力のなくなった女性が若い女性に交換させられてしまう心配があるのです。
ほとんどの女性は一夫多妻には反対するはずです。
一夫一婦制は女性が自ら男達に認めさせた制度であるようです。
男の本能としては「畳と女房は新しいのが良い」ですが、この言葉も世の女性達の総スカンでしょう。

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返答 投稿者:学ぶもの  投稿日: 3月14日(日)00時27分7秒

ありがとうございました。

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♂が目当ての♀を勝ち取るという関係? 投稿者:φ  投稿日: 3月13日(土)20時27分13秒

 しかし♂の本能は、1人の♀では満足できないというのは誰もが認めますよね(だって精子は無尽蔵に放出できるのだから、「目当ての♀」が妊娠中のときじっとしてるのはどう考えても得策じゃないですね?)。
 ●こうして、♂の本能は他の♀に向かいます。ということは、自分の♀が他の♂に交尾されちゃう危険も伴っているわけで、精子競争になります。強くて頻繁にヤレる♂、または♀に受け入れられやすい魅力的な♂が受精を勝ち取っていきます。
 この精子競争は♂にとっては苛酷な環境です。人間が文明を作ったとき、このきびしいストレスから逃れたい、確実に自分の子孫を残したいと♂がねがったのは当然でしょう。一夫一婦制の始まりです。
 ●女→男のアプローチに比べて、男→女のアプローチのほうが、拒否の可能性が高いのはどこの社会でも同じですよね。女は、来る者は拒まず式にやってたのでは、万一ろくでもない男のタネを孕んでしまったら大損ですからね。その点男はやり直しが利くので拒否率は低い。(ところでチンパンジーの♀は来る♂は拒まぬ乱婚型といわれますが、そのへんの適応性はどうなってるんでしょう。♂より♀が大勢いる群れを作るために♀の間でも競争が生じるからだと言われているようですが)
 一夫一婦制で安全保障を得た代償として、男は、やたらに女を孕ませては面倒だ、という警戒心も発達させざるをえません。そういう警戒心のない男は、現代環境では経済的に淘汰されてゆく可能性が高い。こうして♂も考え方が♀化し、女から言い寄られたからといって容易に「らっきー!」と飛びつくとは限らなくなっている。より好みする男も増。「据え膳食わぬは男の恥」ではやっていけません。
 ●フェミニストが「一夫多妻」を否定しているとしたら(私はフェミニズムについては詳しいこと知りませんが)、これからの文化面に関心があるからでしょう。自然面では、一夫多妻が女に有利であることは確実ですから。一夫一婦は女が男の都合に合わせたばかりに個々の女の潜在繁殖力(子どもの質の向上)を制限している。男にとっては、一夫一婦で嫡子を保証され、遺伝子検査まで完備してきたとなると大安心ですね。一夫一婦の徹底はフリーセックスにも制限をかけますが、現代社会では恋愛にまで一夫一婦的価値観が広まっていて(「付き合う」「別れる」の区切りをはっきり宣言しあう、婚約してなくても二股かけるのは悪など)、これはダメ男たちが有利になるように作られた規範です。女の本能としてはもっと自由に(ダメ男どもはイイ男が叩きのめしてくれて一夫多妻的に、せめて多夫多妻的に)恋愛したほうがいいに決まってます。
 こうして男は、婚前婚後を問わず一夫一婦の性市場で、競争力をセックスにではなく、経済活動や文化活動や戦争に向けることができるというわけですね。フェミニストの思惑とは正反対に、女との格差は広がるでしょう。精子競争というハンディを負っていた男が、そのハンディを解かれて性本能を政治や科学に向け始めるのですからね! 未だに妊娠のハンディだけ負わされたままの女が、どんなに努力してもかないっこないのでは。
 ●社会生物学的には「一夫一婦制は女にとって不利」という必然的認識が得られるとしても、これは動物の自然についての認識であって、人間文明がどうあるべきかということとは無関係です。一夫一婦は女に申し訳ないから廃止すべしなどは私は考えませんし。売買春については、一面では一夫一婦を強化し、他面では一夫多妻をシミュレーションし、差引リアルな形では一夫一婦制を強化する作用が濃いだろうと思います。が、だからといって売買春に賛否の論拠にはなりません。現代文明は、原始人の環境とは全然違うのだから。

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女性の解放 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月13日(土)18時16分17秒

遺伝子の発現量を様々な種ごとに比較をすると、種間で差の見られるものがあるそうです。
それらが種ごとの形態的差異を生み出している原因遺伝子の候補である可能性が高そうです。

動物の♂♀の場合、♀の好みはあまり関係がなく、♂が目当ての♀を勝ち取るという関係のようです。
人間でもこういう傾向が残っていて、女はいい寄る男が拒否しづらいらしいし、男はライバルがいると頑張ちゃったりするようです。

イスラムでは相撲の土俵のように女性が入れないコーヒー店などの場所があります。
女性の身体は手首から先と顔以外はアウラ(恥部)とされているため、チャドルを頭からスッポリと被ります。
これらのことは女性の解放度によって差があります。
女性の自由だとか解放の運動は、近代に入ってからのことです。
女性の解放運動家には「一夫多妻」だとか、「売買春」などは禁句です。
口を滑らせたら最後、半殺しにされちゃいます。

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根源的問題 投稿者:φ  投稿日: 3月12日(金)23時55分5秒

 「なぜこのわたしがしたがわなければならないのか」は、率直にいうと、気取ったマスターベーションにすぎないので、ちょっと脇に置かしてもらいますね。
 ●「なぜ~」を、法や秩序等の機能的な問題や手段目的の問題として考えるかぎりではそのとおり(語用論的背理法を持ち出す必要がない)ですが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがわざわざ問われる文脈というのは、根源的問題として(それ以上根拠を問えない答えを求めるものとして)提示されていることが明らかですからね。
 ●そもそも、「法律や制度で禁じられている」と「倫理に悪とされる」とは区別されます。前者は事実を表現した記述的な意味であり、後者は規範を表現した価値的な意味です(たとえば自動車は左側を通行しなければならないとか、1万円札を破ってはいけないとか、外国人医師は日本で医療行為ができないとか、金と引き換えにセックスしてはいけないとかいった「いけない」は、法律を体系的に変えれば何ら不都合のなくなる、いわば非倫理的・相対的な「いけない」です。殺人の場合は、法律をどう変えようが不都合が残る倫理的・絶対的な「いけない」であると思われている。本当に絶対的にいけないのか、という疑問が、「なぜ人を殺してはいけないのか」なのでしょう。
 こうして「なぜ人を殺してはいけないのか」は、単に殺人が法律で禁じられている理由を訊ねているのではないので、法秩序や社会秩序ということで答えを止めたのでは、交通規則や風俗営業法の問題と変わりなくなってしまいます。そういう相対的規制とは別種の倫理的禁止の根拠が問われているのだから、はじめから根源的な答えへ行かねばならないでしょう。
 ●絶対的な意味での「いけない」事柄は、法律等で規制(許可も規制の一種です。許可と放任が違うことは再三述べたとおり)されているのが必然的ですから(さもないと社会が成立しない)、「なぜ人を殺してはいけないのか」で論議領域となる「殺し」は、法律的に禁じられている殺しに限られます(許可されているほうにはいけなくないものもあるのでさしあたり除く)。だから、はじめから、正当防衛や消極的安楽殺は考えなくていいのです。
 ●注意すべきは、絶対的な意味での「いけない」事柄であるにもかかわらず、法律等であえて「許可されている」場合もあること。戦争と死刑がそうだという説が有力ですね。この二つは、法律制度によって定義され規制(許可)されているので、さしあたり社会を崩壊させるほどの害は及ぼしません。しかし規制の対象にされていなければ、必ず社会を崩壊させるという意味で、どんな殺人も(正当防衛ですら)絶対悪なのです。  また逆に、絶対的な意味で「いけなくない」にもかかわらず、法律等で禁じられている殺人もあるでしょう。堕胎、積極的安楽殺、などが候補として挙げられます(死刑廃止国における死刑もそうかもしれません)。
 ●絶対的に(倫理的に)いけないというのは、法律的に禁じられていることとは別問題で、しかし、絶対的にいけないことは、必然的に、法律的に規制されている(禁止または許可されている)はずなのです。

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まあ 投稿者:学ぶもの  投稿日: 3月12日(金)22時51分35秒

「なぜ人を殺してはいけないのか」
の翻訳として、
社会で殺人が禁止されていることを前提にしたうえで、
その規範・法律に、「なぜこのわたしがしたがわなければならないのか」
という質問者自身を特権化させた(永井均的)読み替えもあるわけですが。

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チョト素朴な疑問 投稿者:学ぶもの  投稿日: 3月12日(金)22時22分5秒

たとえば、
「なぜ電車に乗るときは逆立ちをしなければならないのか?」という問いは、電車に乗るときに逆立ちをしなければならないという規則なり規範が社会でなりたっていることを前提にした上で、その規則なり規範の理由を問うているが、実際にはそのような規則なり規範が社会に存在しないので、ナンセンスな問いとなるわけですよね。

一方
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは、人を殺してはいけないという規範なり法律なりが社会になりなっていることを前提にしたうえで、その規範なり法律なりの存在理由・目的を問うていて、事実社会にはそのような規範なり法律が存在しているのでナンセンスな問いではないわけですよね。

そこはいいのですが、ただ素朴な疑問なのですが、

そもそも問いが、「なぜ~してはいけないのか」と
~することが社会で禁じられている理由・あるいはその禁じる目的を問うているわけなので、単純にその理由・目的を答えればいいのでは、とも思うのですが。

つまり、「なぜ人をころしてはいけないのか?」という問いが
「社会が殺人を禁止する理由はなにか?」(社会・共同体によって殺人禁止の範囲がことなるにせよ)
という問いに翻訳可能であるとするならば、その問いに対する答えは、法秩序の維持のため、や社会秩序の維持のためというもので十分ではないかと思うのですが。

『論理学入門』では語用論的背理法の適用例の提示という文脈のなかで
「なぜ人をころしてはいけないのか?」という問いが使われていたわけですが、そういう文脈からはなれた場合には、
「なぜ人をころしてはいけないのか?」という問いに対しては、そもそもわざわざ背理法的論証を持ち出す必要がないのではないかと。

あくまでも問いが、「なぜ人をころしてはいけないのか」という
”ころしてはいけない理由”を問うているのですから、
その理由の提示によって質問に答えたことになるのではと素朴に思ってしまうのですが。

要は、任意の殺人を許容することが、社会秩序の崩壊につながりかねないから、社会で殺人が禁止されているのだ、という答えで十分なのではないかと。

その上で、質問が「では、なぜ社会秩序が崩壊してはいけないのか?」
というものに変質した場合には、そこで初めて背理法的論証(それが成功しているかどうかはともかくとして)を回答として持ち出せばいいのではないかと。

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恋愛も生物学的 投稿者:φ  投稿日: 3月12日(金)15時22分20秒

 ●「種の繁栄」は、遺伝子には一切プログラムされていませんねえ。  遺伝子には「種」という概念はインプットされてません。形質を発現させるメカニズムだけ。形質は個体によって実現され、個体の生存競争で遺伝子の拡散比率が増減する結果として、結果的に「種」が定義されます。「種」は、遺伝子や個体とは違って実在する単位ではなく、人間が定義したものにすぎません(むろん便利な定義なので客観的意味を持つのですが)。
 種が客観的実在でないことは、交配可能性の推移律が成り立たないことからもわかります。(青森の植物Aと東京の植物Bとでは交配する、Bと鹿児島の植物Cとも交配する、しかしAとCとは交配できない、的な例に満ち溢れています)
 ●進化は統計的結果なので、むろん、優れた♂に全部の♀が群がるわけではありませんよね。「たで食う虫も好きずき」的な好みの多様性は存在します。しかし、恋愛感情も進化の産物であることは紛れもない真実。客観的競争力の弱い♂に惹かれる♀は、子孫を多く残せないことは厳然たる事実です。強いものに惹かれる♀の遺伝子のほうが多く残り、多数派を占める結果となり、好みの偏りは定着します。♂にももちろん、♀ほどではないが、審美眼の適応性はありますよね。繁殖力と健康を示す外見をした♀が一般に「セクシー」「美人」と見なされてきました。色白のブロンド女性が世界的に人気が高いのは、色白だと皮膚に病気の兆候が現われやすく健康な女を識別しやすいからだ、というのはウソから出たマコトだったらしいですね(近現代文化は退廃の美なども発見して生物学的美意識とはかなりズレれていますが。しかしAV乳部門では未だに「巨乳、豊乳」独占状態で、微乳貧乳ものはほとんど流通してないじゃないですか。貧乳(ロリータ微乳ではなく成熟貧乳)好きの私は悲しい思いをしています)。
 ●一夫一婦は、どう考えても女に不利なんです。配偶者の選択の幅が狭まるのですから。女は男と違って、子どもの量ではなく質で勝負しなければならないことを考えればこの「選択の制限」は致命的です。
 イスラム世界では、国会議員や政治的リーダーや法曹人の女性比率はアメリカより高かったりするようですね。女性の地位が低いとは言えません。それにそもそも一夫多妻は、全国民には適用できないはずで、あぶれるはずの男性はどうなってるんですかね。底辺または中位以下の男が惨めになっているとしか思えないんですが。それとも全国民の人口比が女:男=3:1、なんてことがあるんでしょうか。私は一夫多妻国の詳しいことを知りませんので誰か教えてください。
 竹内久美子流は半ばギャグとしても、その大元である社会生物学は、人間の好み・美意識や男女差、人種差に進化生物学的原因が実在していることをかなり真っ当に論証していますよ。統計的証拠や対照実験、予測の的中も豊富です。差別につながるとかナチス主義だとかと北米では弾圧もされているようですが、科学的真理を政治的な利害によって歪曲するのは危険です。

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女性の地位と一夫一婦制 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月12日(金)13時29分52秒

「種の繁栄」って、生物の本質じゃないんですか?
あらゆる生物は生きようとし、子孫を残そうとしますよね。
それが、自身の繁栄であり、総体としては種の繁栄になるはずです。

異性の好みは千差万別です。
「アバタもエクボ」とか「たで食う虫も好きずき」などという言葉があります。
こういう言葉が存在すること自体が異性の好みが人それぞれだということを表していると思います。
ただ、インタビューすると、3高や優しい人などという項目で括らざるえをえない、ということだと思います。
3高で優しければ誰でもいいかというと決してそうではない。
恋愛は感情の世界ですから、論理の入り込む余地は少なさそうです。

女は結婚したがり、男は結婚よりやりたがりますよね。
つまり、一夫一婦制は女性の為の制度だと思います。
女性の地位が低かった時代では、一夫多妻が認められている場合が多いですよね。
イスラム世界などは未だに女性の地位が低く一夫多妻です。

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「制度的に許容」≠「許容」 投稿者:φ  投稿日: 3月12日(金)05時56分1秒

 「混迷の度を深めていくという印象」とは不吉な兆しですから、極力明確を心掛けて分節化しておきましょう。
 1★「社会が許容しない殺人を許容する社会は存在しない」とは誰も申しておりませんが?
 「どの社会も、自ら制度的に許容していない殺人を自ら許容できない」という趣旨のことを述べたはずですよ、私は。
 ちっともトートロジーではありません。その証拠に、上文の「殺人」に「放屁」を代入してみてください。偽なる文になるでしょう(「制度的に許容」されている放屁など存在しない、つまり「制度的に許容されていない放屁」しか存在しないことに注意)。トートロジーはすべての代入例が真とならねばならないはずですからね。
 念のため記号化すれば、
 ∀x∀y(Sx∧My∧~Ixy⊃(Pxy⊃Dyx))
  ただし、 I=制度的に許容する P=(倫理的に)許容する D=崩壊させる  2★「放任」についてはすでに「鈴木さん殺し」のところで述べたはずですが、伝わってませんかね? 条件を明示して許可しなければ社会は崩壊するのだと。
 ただ「放任」されているだけで、「決闘」とは何か、「単純暴行」や「襲撃」は「決闘」とは言えないのだとかいうルールが明示され共通了解となっていないと、殺人の性質上、社会は崩壊します。
 「決闘だ!」と事前に一方が宣言しさえすれば決闘成立、と思い込んでいる人々がいて、それを間違いと断ずる典拠がなかったらどうなります? いきなりプラットホームから突き落とされても、すれ違いざま刺されても、相手が直前に「決闘だ!」と叫んだから無罪、というような可能性があっては、社会が成り立ちません(「無罪」を宣告する裁判官そのものが出廷できません)。「18世紀フランスの決闘ルールに準ずる」くらいでもよい、とにかく「許可制」になっていないと、決闘であれ何であれ殺人は社会を消滅させます。
 3★「なぜPか?」に対して、「Pでないことは矛盾するから」。これで完璧ですよ。何の問題もありません。
 「最大の素数はないと聞いたけど、なぜそうなの?」「最大の素数があると仮定しよう。カクカクシカジカ。あるという前提は矛盾を帰結するね。前提が間違っていたわけだ」
 これは、Why-Questionの話になっています。それ以外にどう答えれば「なぜ最大の素数はないのか」の答えになりますか?
 「なぜクエスチョン」の扱い方については、http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/ronri-j.htm第1章をまるまる充てていますから、今すぐでなくともいずれ御参照いただければ幸いです。
 4★「性の特別視」が事実として存在することは私は否定しませんよ。しかし、特別視されている分野は他にもたくさんあります。たとえば、「食」「生命」「金」「国」「知」「愛」「老」「時間」「名」などです。この「特別視されている概念たち」の中で特に「性」が特別だとは私は思っていません。また、特別視が続くべきでない分野もあります(「国」のように)。さらには、特別視されている概念が、現在普遍的に特別視されているかというとそうでもない。たとえば「神」は、特別視している社会が多数派であり、特別視が生ずる進化論的根拠もあったのですが、東アジアではもはや「神」は特別視の分野を形成していないというべきでしょう。これは、モンゴロイドが最も進化した(価値論的含意のない生物学的な意味で進化のすすんでいる)人種であることとも関係するでしょう。
 「性」の特別視が今後ずっと続くにせよそうでないにせよ、マスターベーションや同性愛やフェラチオや避妊など多くの「性」が忌避対象から脱落していった延長上に、当然、売買春も含まれるべきでしょう。合理的な人ならそう考えるはずだと私は信じています。だって論理的・実証的に売買春の害悪を証明できた人はいないのですからね。売買春の合法化は世界的趨勢です。

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Why-question 2 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月12日(金)01時26分12秒

 お分かりになりますでしょうか。φさんの論理は、Yes-No-QuestionとWhy-Questionの間を行ったり来たりなんですよ。
 もし、Why-QuestionでPが真と仮定されていることを前提にして、Yes-No-Question――つまり「殺人が許されるか否か」――を論じるのなら、「真」だという仮定を出発点で認めているのですから、始めた途端に論証は終っている訳です。社会が崩壊するだの何だのという話は全然必要ありません。

 これまでずっと議論してきたのは「殺人を許すと社会が崩壊するかどうか」です。この点に反対はありませんね。この議論は、Yes-No-Questionなんです。
 これがお分かりにならないようでは、話が続きません。

>> だから、決闘や仇討や姦通への復讐が明文法または不文律によって許容され
>>ている社会の中では、そのシステム内に制限されている保証つきなのだから、
>>その種の殺人放任によってその社会が崩壊なんかしません。

 この種の「反論」があることは予期していました。私があげた例は、すべて法律改正や判例の変更といった書き方がしてありますが、実はそんな風に書かなくても話はできたのです。
 たとえば、決闘で人を殺すことが「放任」された場合、なぜ社会が崩壊するのでしょうか。φさんは、そう「主張」したいのでしょうが、「論証」はされていません。風が吹くと桶屋が儲かる式でない、マトモな「思考実験」というやつを示していただきたいものです。
 ところで、「許容」することと「放任」することに事実上どんな違いが考えられるでしょうか。φさんの「主張」によると、殺人を「放任」すると社会が崩壊するが、「制度的殺人=社会が許容する殺人」を「許容」しても社会は崩壊しないそうです。随分アクロバティックな論理ではありませんか。

 実は、初めの段階では、φさんの主張は「殺人を許容する社会は存在しない」でした。それが、最近では「社会が許容しない殺人を許容する社会は存在しない」になっています。これは所謂トートロジーですね。殺人だけに特有の事情があると主張されていますが、トートロジーですから、何にでも当てはまるのではないでしょうか。

 売買春については、時間がありませんので、一つだけ書いておきます。
 「性」にまつわることが、人間にとって、他のもろもろとは違って、ちょっとばかり特殊なことだという観念については、φさんはどうお考えでしょうか。
 もし、特殊なことであるならば、性的サービスを売買の対象にすることについて――ただちに「悪」だ「罪」だという話にならないにしても――一種特別な感情を抱くのも納得できないではないでしょう。
 私自身は、事実認識としてこの「性の特別視」は肯定しているのですが、φさんはいかがでしょう。これも根拠のない思いこみだとお考えでしょうか。

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Why-question 1 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月12日(金)01時25分9秒

 φさん、こんにちは。
 書けば書くほど、混迷の度を深めていくという印象ですね。

>> 前者の問いはWhy-Questionだから、Pが真だと前提されている。つまり、そ
>>の社会で悪とされている殺人が悪とされる理由が問われている。

 Why-Questionのことは、このスレッドの最初の最初にお聞きしています。2月19日の発言です。探すのも面倒でしょうから、もう一度ひっぱってきましょう。

>>仮に、検討すべき「なぜ」が錯誤のない、まっとうなものであった場合、「論
>>理」によってそれに答えることはできるのでしょうか。

 この質問は全く無視されてしまって、何も教えていただけなかったのでした。

 通常「なぜ」の質問は「なぜなら~」の答を期待しています。しかし、「~」の部分は一様には決定しないのではないか、というのが私の予想でした。
 たとえば「なぜ火は赤いのか」という質問に対して、色の波長のことから順に説明するのも一つの答でしょうし、簡単に「火の色のことを赤と言うからさ」と言っても答には違いありません。要は、質問者が納得するかどうかです。
 で、φさんは「というのが私の論証だったのですよ」とおっしゃってますが、結局のところ、「なぜ」の問題そのものには全く答を出していないのです。

>>「人を殺してはいけないのか?」との違いを明確にしてください。後者
>>はYes-No-Questionですから、「いや、場合によっては殺すことが許される場
>>合もあるよ」と答えるのが正しい。

とのことですが、『論理学入門』におけるφさんの「論証」は、「Yes-No-Question」に対する「論証」そのものではないのでしょうか。
 師弟問答風に書き直してみれば、こんな感じになりますね。
「殺人は許されないんですか?」
「それでは、許されると仮定して考えてみよう。カクカクシカジカ。許されるという前提は矛盾を帰結するね。前提が間違っていたわけだ。“許される”という仮定が間違っていたのだから、“許されない”が正しいことになる」
 これは、Why-Questionの話には全くなっていません。

 「なぜ、人を殺してはいけないのか?」は、φさんの言われるように“許されない”を真と前提している問いですから、上の「論証」によっても、何も矛盾していることにはならないんですね。
 答を得られぬまま、宙ぶらりん状態を続けているだけです。

 私は、このことはずっと承知の上で、φさんの議論につきあってきました。というのは、『論理学入門』におけるφさんの「論証」は、“Why-QuestionでPが真だと仮定されている”という議論ではなかったからです。そうではなくて、“殺人を許容すると社会が崩壊するから”という別の論拠を立てていました。私は、その議論に対する反論をしてきたのです。

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夫の買春を嫌う妻は本当は何に怒っているのか? 投稿者:φ  投稿日: 3月11日(木)19時20分39秒

 ●「種の繁栄」は、歴史時代以降の人類に特有の戦略でしょう。「利己的遺伝子」論にかぶれているわけではありませんが、論理的に考えても、生存競争は、遺伝子の担い手である個体を単位とする以外に働きようがありません。だからこそ、これまでに、現存する生物種の千倍もの膨大な「種」があっさりと絶滅してきたのです。それに、現代の個々の人間だって、「ホモサピエンスの繁栄」なんて気にしてないと思いますよ。たとえば私は、人類に代わって、不死身の人工知能ロボットたち(自己繁殖型フォン・ノイマン・ロボット)が銀河共和国を作ってくれることを望みます。
 ●♀:♂の人口比1/100という世界では、上位百分の一の♂のみが妻を娶ればいいので、一夫一婦制でも♀の希望に添うことになります。しかし、♀と♂の個体数(出生数)がほぼ同じという現実を踏まえると、♀が好むのは一夫一婦ではなく一夫多妻に決まりでしょう。大半の♀は、自分のレベルに見合った冴えない♂と添い遂げるより、上位の♂に移行する方を選びます。
 ●女の好みは、男と違って、一元的座標で計られるものが多い。身長、年収、学歴など、データ重視という♀の本能は否めません。データは相対的差異が明瞭ですから、必然的に、弱い♂は落ちこぼれることになります。もちろん、「母性本能をくすぐるダメ男」がモテるということもあるでしょうが、それは妻にとっては代償行為でしょう。本物の母性本能を発揮できた方がいいに決まってます。つまり、優れた遺伝子を持つ子どもの母親になれれば言うことなしではありませんか。次世代ではその子が社会階層の上位で力を発揮し女たちを孕ませてゆくのですよ。育て甲斐が違いますって。
 ●一夫一婦制は、弱い男たちの保身の制度です。ニーチェ的アジテーションによるまでもなく、弱者が救済され権力すら握ってきたのが近現代社会なので。一夫一婦制で損しているのは女性たちです。だから、「夫の買春を嫌う妻は本当は何に怒っているのか?」の答えはこうでしょう。『本来なら私ももっとレベルの高い男の精子をもらえるはずだったのに、一夫一婦制のせいであんたみたいな冴えない男とくっつかざるをえなかったのよ。結婚できてありがたいと思いなさいね。なのに感謝するどころかまるで自分が女を選べたかのようなふるまいをしてさ。しかも家族のために使うべきお金を費やして。許せない。勘違いしないでよ、一夫一婦制に守られてなきゃあんたなんかたった一人の女とすらヤレなかったんだから!』
 女が怒っているのは独占欲ゆえではなく、一夫一婦制に対してなのですよ。
 一夫一婦制と売買春のおかげで、あたかもモテモテエリート♂としての疑似体験を堪能できている夫の勘違いに対して怒っているのですよ。(この適応的反応を、理屈として女性一人一人が意識しているとはかぎりません。肉をうまそうに食うイヌが、肉は栄養になると意識している必要がないように。沸騰したやかんに触れた幼児が手を引っ込めるとき、「熱は危険だ」と知っている必要がないように)
 ●なべて男は、一夫一婦制に黙従してくれている女たちに、感謝と謝罪の気持ちを表明すべきなのです。
 (ですからオコジョさん3/9の、「私が売買春しない理由。自分の配偶者との誓約を裏切ることになるからです。」は、平凡な夫の科白としてみた場合、妻(の本能)にとっては有難迷惑以外の何物でもないでしょう。女の利害からすれば一夫一婦制を弾劾すべきところ、一夫一婦制を固定しようという利己的な男性イデオロギーなのですから。誠実を装った自己防衛。)
 ▲なお、以上のことは、女の進化論的本能の観点からはそうだというだけで、社会倫理や文化的価値の基準からした売買春の評価とは関係ありません。

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生命の戦略 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月11日(木)13時30分38秒

例えば、殺人悪という道徳は「種の繁栄」なる原理と密接に関係しているように思うのですが。

♀が気に入る♂は、他の♀にもモテルだけの話ですよね。
♀が多妻を気に入るわけではないでしょう。
一夫多妻の世界では妻達の本妻争いがあるようです。
亭主は自分だけを見て欲しいというのは普通の女性心理のような気がします。
あと、うだつの上がらぬ情けない男ほど母性本能をくすぐってモテたりもしますよ。
女が好きになる男は必ずしも、ルックスと体力と精神力と財力を兼ね備えた男ではないようです。

現代の世界がほとんど一夫一婦制なのは、男が困るなんて理由ではなく、赤ちゃんの問題だと思いますがね。
男はほっとけばあちらこちらに赤ちゃんをつくっちゃうでしょ、だから一婦に縛り付けとくわけです。

どうも、φさまの性に関する考え方は優性遺伝に偏りすぎのような気がします。
生命は本来は多様な遺伝子を残そうとします。
優性か劣性かではなく、違うものを沢山残すのです。
そうすることによって環境の激変にも生き残る者が必ずいる。
これが地球上で生命が取った戦略のようです。

下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、戦略です。

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生理と倫理の相関関係≒0 投稿者:φ  投稿日: 3月11日(木)01時43分1秒

 ナチュラル・セレクションの仕組みは、場当り的・結果論的ですから、「種の存続に有利なような」性質が勝ち残ってゆくメカニズムはありません。あくまで個体が、正確には遺伝子が、たまたま所与の環境中では繁殖に有利な形質を発現させたために対立遺伝子を淘汰してゆき、結果的に個体の比率が、そして種が変化してゆきます。
 「種の繁栄」なる原理は、道徳の起源とは無関係。あくまで個体(遺伝子)レベルでの有利不利が道徳の起源に関与しているはずです。ただし、知恵を獲得し「種」という意識を抱いた人類の道徳は、これから「種の繁栄」を目的に掲げてゆくことになるでしょうね。これでますます、自然選択で培われてきた私達個々人の自然な好悪の感情は倫理(≒種の保存)の指針としてあてにできなくなるわけです。原始的本能のままに忌避感情に溺れているヒマなんかありません。
 ♀は当然、一夫多妻がよいに決まってるじゃありませんか。多妻をものにできる優秀な♂の子を宿したいのは当然でしょう。ろくでもない弱ッちい魅力ない♂の子どもなんか孕んでしまったら大損ですからね。産める子どもに限りのある♀は、本能的に、ハーレムの一員になることを望みます。そう望まないような性質を発現させる遺伝子を持つ♀は、優秀な♂の庇護を受けられませんから、子どもを育て上げるのに苦労し、これまでの霊長類史で淘汰されてきているはずなのです。
 ではなぜ現代の♀は、必ずしも一夫多妻に賛成しないのか? 男性文化に洗脳されているせいもありますが、主に、一夫一婦からの中途半端な逸脱をイメージしているからでしょう。つまり、一方的に夫が愛人を何人も作るというイメージだからです。本当の一夫多妻はそんなものではない。平凡な女が、自分と同等のうだつの上がらぬ亭主の子ではなく、○○や△△の子どもを産むことができるんですよ!(○○や△△にはルックスと体力と精神力と財力を兼ね備えた世界的有名人の名を入れること) 平凡な男は愛人を作るどころではなく、あぶれてしまうんです。知力体力魅力抜群なエリート♂たちが、世界中の女という女を独占し、優先的に交尾する。うだつの上がらぬ亭主に義理立てなくてよいとなったら、世の妻たちがどういう♂になびくか、限りある出産をどういう♂の子のために費やすか、答えは明白ではありませんか?
 なお、♂は、出産数に限界がありませんから、♀のように異性をよりごのみしません。よって、よほど質の悪い♀でも一流の♂に抱えてもらうチャンスに恵まれます。結果、低品質の♂はますますエリート♂との格差に落ちこぼれ、脱落してゆく。一夫一婦じゃなきゃ困るのは断然男なんですよ。
 (ちなみに付け加えると、エリート♂たちにとっても、現代では、一夫一婦が有利です。複雑な現代都市文明では低級♂どもを殺戮したり奴隷化したりすることは無理なので、かりに大量の♂があぶれた場合、自暴自棄の犯罪が多発し、エリート♂の生活も安泰とはいえなくなるからです。)

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生理と倫理の相関関係≠0 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月11日(木)00時10分36秒

 A:動物の♀は、一夫多妻を志向する?
ほんとですか?
♀が志向するのは一夫であって、多妻だろうが一婦だろうがかまわないのでは?
 B:これは、ごもっとも、です。
 C:もし、適応上不利である性質と倫理的に善なる性質が同じであったら、その種は栄えそうもないです。
また、適応上有利である性質と倫理的に悪なる性質が同じであっても、その種は栄えそうもない。
つまり、適応上の有利不利と倫理的な善悪には、何かしらの相関関係がありそうな気がします。

現代の離婚の原因は、不倫と不貞(肉体関係があるもの)が男女ともに上位にランクされています。
売買春は一夫一婦制を破壊する原因になります。
まあ、赤ちゃんの問題を除けば私は自由だと思いますが、女性陣はそうではないらしい。
とすれば、女性の意見も聞くべきだと思います。

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生理≠倫理 投稿者:φ  投稿日: 3月10日(水)18時47分3秒

 3点御指摘申し上げましょうか。
 A◆「文明以前の自然環境においては、動物の♀にとって適応上有利な性質は独占欲ではなく、一夫多妻を志向する性質である」(配偶者の肉体的不倫については夫より妻のほうが遥かに寛容であるというのは実証的事実。他方、配偶者の恋愛不倫に対しては、夫より妻のほうが非寛容であるという実証的報告もあります。これは多妻の中での一夫の配慮・財産の分与への関心の名残でしょう)
 B◆「過去の環境で適応上有利であった性質が現代の環境でも適応上有利であるとはかぎらない」
 C◆「そもそも適応上有利である性質と倫理的に善なる性質(あるいは文化的に高尚な性質)とは別ものである」

 A◆について……一夫一婦制は、弱い男・モテない男の権利を守るために発明された近現代のシステムです。女にとっては、五流六流の男の正妻であるよりも、一流の男の妾であるほうが、優れた遺伝子を子どもにのこすことができ、繁殖上有利であるに決まってます。賢い女なら誰でも、後者を選ぶでしょう。女の本能は元来、一夫多妻なのです(正確に言うと、超一流の男(夫でない)の精子を受け入れて妊娠し、夫を欺いて不倫の子を育てさせる戦略をとりたい。一夫一婦の鳥の♀がよくやるように。♀鳥は相手かまわず不倫するのではなく、不倫相手として好まれる特定の♂たちがいるのだそうです)。
 B◆について……以上のようなわけで、少数の男に女が群がり、多くの男は交尾できないまま死ぬ(あるいは妻が自分の子を産んだという虚偽を信じ込んだまま生涯を終える)というのが、弱肉強食の自然なあり方です。にしても、女が一夫多妻的本能のままに生きることは現代の一夫一婦制社会のもとでは難しい。逆に、大半の男にとっては、一夫一婦制は確実に自分の遺伝子を残すために有利なシステムなので、死守したい。こうして、策に長けた不倫体質の女は、原始時代は繁殖上有利だったが、現代は不倫妻として信用を失い安定した家庭も確保できず、貞節な女のほうが体制に順応して繁殖上有利になります。原始時代は、他の男を叩きのめして女とヤリマクル強い男が繁殖上有利だったが、現代は、粗暴でなく法律に順応する男が経済的にも成功しやすく、繁殖上有利になります。
 C◆について……以上のような詮索は竹内女史に任せておけという声も聞こえてきますが、社会生物学は竹内オリジナルではなし、いずれにしても有利不利という進化的適応問題と、文化的価値観とは別物だというのは認めざるをえない。一夫一婦制以前と以後では適応上有利な性質が逆転していますが、どちらもそれだけでは「善」とも「悪」とも「忌むべき」とも「尊ぶべき」とも言えない。自然的傾向と倫理的基準を混同する誤りは、「自然主義の誤謬」(『論理学がわかる事典』6章16節)の一バージョンです。あまつさえ売買春は、現代社会の淘汰圧の源である一夫一婦制という自然環境に逆らいもしなければ促しもしないので(売買春をリアルな性関係と見なすならば反一夫一婦的だが、セックスシミュレーションなる文化として捉えれば不倫と競合して一夫一婦制を保護する)、売買体質が適応上有利か不利かさえ判定できず、倫理的判断の埒外でしょう。
 売買春の経験のない人々は、経験ある人よりも、売買春をリアルな性関係と思い描く傾向が強い、ということは推測できます。リアルな婚外性交は一夫一婦制に対する脅威として映り、男は保身のための忌避反応を示し、女は本能解放の兆しに怯える(一夫多妻の希望を抑圧する不快反応を覚える)のではないでしょうか。しかし前述のとおり、売春はビジネスであり、金銭を介した虚構体験提供業に過ぎないので、男の怖れも女の希望も、幻想なのです。
 売買したいやつらがやって、したくないやつらはやらない。幻想や偏見は捨てて、互いに迷惑をかけず、互いに干渉しないということでよいのではないでしょうか。忌避だの何だの公言する筋合のものではありませんね。

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各々の倫理 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月10日(水)13時40分55秒

φさまはそうおっしゃいますが、女性の支持は得られないと思います。
まあ、男の支持は得られるかもしれませんが、この手の話は裏切る男が必ずいますからね(私ではないです)

売買春は男の女性蔑視だというのは、考えてみますといろいろと心当りがあります。
例えば、動物界ではオスはやりたがり、メスは一匹を選びますよね。
精子は混ざると死滅するという実験もあります。
つまり、女は選んだ男を独占するように生理的にできているらしいのです。
そういう女性の生理的機能を肯定しないばかりか売買してしまう売買春は、女性から見ると女性の生理的機能の蔑視、つまり女性自身の蔑視だと映るのだと思います。
こういう女性に売買春合法化は支持されないと思います。

性に関する倫理は、男性の倫理と女性の倫理が別にあるように思います。
まあ、性が違うのですから当然のことかもしれませんね。

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女性の側の? 投稿者:φ  投稿日: 3月10日(水)03時33分17秒

★「世の女性たち」って誰でしょう。
★売買春よりも、「世の女性達は売買春は女性蔑視だと考える」という思い込みこそが女性蔑視ではないでしょうか。女性は一種類ではないので。男性の価値観が多様であることは男なら誰でも痛感しているでしょう。女だって千差万別です。
★(??)にも書きましたが、「こんなうわべのセックスに3万も払うの? このおっさんアホ?」と見下しあうのはお互い様なので、「見下す」はべつに批判材料になりません。「商取引」に必然的に伴う「きたなさ」の一例にすぎないのですから(金のことをあれこれ言ったり考えたりするのを「汚い」って誰もが感じますよね?)。
★それに、女が買い手となるホスト等の売春だって認めれば釣り合いがとれてるってだけの話で。
★男女互いに、信頼していた相手が買ってた、売ってたで信頼関係崩壊、なんてのは、もともと人を見る目がなかっただけの話。価値観の一致した相手を選べなかった自分が悪い。
★まあそもそも、合法化したって買いまくるほど男も女も金持ってないのですよ。合法化して価格下落するとは思えないし(国や自治体がたんまり税金かけてくるからむしろ値は上がりますよ)。売買春したくもないやつは合法だってしないし。したいやつは違法でもするし。ギャラリーの蔑視度だけは合法or違法によって激変するでしょうけどね。
★のめりこまれたら家族が困るのは買春にかぎらず酒もパチンコも競馬もモデルガンコレクションもポルノも同じこと。
★売買春は、精神的にも結びついてしまう本当の不倫(愛人関係)や婚外妊娠をむしろ防止する作用もあり家族制度にとっては好都合だと思いますが如何。
★売買春は金銭が介在する以上あくまで「セックスのシミュレーション」「虚構のセックス」であることが理解できていないと、売買春が夫婦・恋人間のリアルな性愛を汚染するかのように誤解してしまいます。映画のヒロインにウットリしたって、別に浮気したことにならないでしょ?
★私はほんとにもう、フリーセックスに比べた場合売買春のメリットしか思い浮かばないのですよ。なぜに皆さん偏見にしがみつくかなあ。
★一事が万事。偏見を温存する態度が非論理的カルトと根が同じと、私の心配はあくまでそこにあることをご理解ください。
 推測ですが、売春否定論者には、宗教肯定、天皇制肯定、ベストセラー崇敬、ブランド志向、学歴尊重、週刊誌や文芸誌の講読、歴史学愛好、遺伝子組み替え食物拒否、クローン人間作り反対、人種による知能の遺伝的差異の否定、商業捕鯨の肯定、北方領土の日本帰属の主張、といった素直な善人が多いのだと思います(むろん偏見ですがね)。

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女性の側の見方 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月10日(水)00時24分29秒

どうも、φさまの売買春合法化理論は世の女性たちの総スカンをくいそうな感じですよ。
一人の女性ですが、その考え方を聞いてからは、そう思えてきました。

女性達は性を売買対象にして欲しくないようなのです。
売買春が合法化して、自分の彼氏や旦那に通われるのはイヤでしょうし、
こういう浮気は離婚の理由にできなくなりますし、
自分の性も売買の対象と同様に見られるのがイヤなのでしょうね。
自分が見下されているように感じるのでしょう。
男にはこういう感覚は身近じゃないですよね。

まあ、性を売買することは、女性から見て、男性の女性蔑視だ、ということなのでしょう。
φさまは売春婦を差別するなとおっしゃいますが、世の女性達は売買春は女性蔑視だと考えるようです。
こらはやはり売春をする側の女性の意見を重んじる他はなさそうですね。
やっぱ、女性は怖いですしね。

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(φφ)2 投稿者:φ  投稿日: 3月 9日(火)23時38分23秒

 さて、売買春についてはまだ何か書いてくださるようなので、今回は反論は控えましょう。
 ただ一言、「現状のままで」合法化してカミングアウトがなされてもセックスワーカーたちが必ずしも幸福にならない、というのは本当です。しかしそれはなぜなのか反省してください。「忌避感情がある」などと決め付けて白い目で見る者どもが大勢いるからなのですよ。そんな社会にセックスワーカーが住みづらいのは当然でしょう。たとえば、以前出たスカトロの話の流れで言えば、「便所掃除や汲み取りといった臭い仕事には忌避感情がある。人間的な仕事じゃない。ああいうのは早く全機械化しろ」とわざわざ言い立てて、清掃業の人たちを生きづらくする必要がありますか?
 忌避することが悪いのではない。忌避が公認のスタンダードであるかのような思い込みをも同時に忌避すべきだと言っているのですよ。(なお酔っ払いは売春者と違って無害ではありません)
 世にはほとほと信じがたいほど頭の悪い売春否定論者がいて、「売春婦が差別されるのは当然」などと恥じず公言していますが、そういう不道徳極まりない愚か者がなぜ自分こそ正義と思い込めるかというと、「売防法を盾に取る」ことができるからなのですよ。まああの馬鹿者どもが、合法的な便所清掃員に対しても同じことが言えれば私も認識を改めますがね。法律に洗脳されているだけという事実が認識できないのは愚かであるだけでなく、危険だということはすでに申し上げたとおり。
 だからオコジョさんの「どのような形で合法化するのか」という問いに対しては、「忌避、差別OKと公言する馬鹿者どもを一掃してセックスワーカーが住みやすい社会にしてから合法化せよ」という答えになります。
 あ、だから、合法化してしまえば「差別、忌避は当然」と言い放つ勇気も彼らは持てなくなるのですけれどね。

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(φφ)1 投稿者:φ  投稿日: 3月 9日(火)23時26分6秒

 「推論」「論証」「証明」はみな同じ概念ですが、微妙なニュアンスの違いと、推論の三次元の区分については『論理学がわかる事典』3章7節を御覧下さい、ということで。あまりスペースを使っても何ですので、すみませんが。
 で、殺人ですが、論理的に考えてみましょう。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは、「いけない」ことが前提されているものに対する問いです。「人を殺してはいけないのか?」との違いを明確にしてください。後者はYes-No-Questionですから、「いや、場合によっては殺すことが許される場合もあるよ」と答えるのが正しい。その社会の法律や道徳で悪でないとされている殺人例を挙げればいいでしょう。
 前者の問いはWhy-Questionだから、Pが真だと前提されている。つまり、その社会で悪とされている殺人が悪とされる理由が問われている。むろん、Why-Questionに対しても前提を否定して「いや、社会による許容は必要ない、この社会で悪とされている殺人もやってよい」と答えることは可能ですが、それは論理矛盾になる、というのが私の論証だったのですよ。
 だから、決闘や仇討や姦通への復讐が明文法または不文律によって許容されている社会の中では、そのシステム内に制限されている保証つきなのだから、その種の殺人放任によってその社会が崩壊なんかしません。「イジメへの反撃としての殺人はこれを認める」という法律条項のある社会では、やはりその殺人許可は社会を崩壊などさせません。重要なのは、なぜ殺人は一々そのようなシステムを(法律を)必要とするのか、ということでしょう。システムで制限して飼いならさなければ、社会が存続できないからなのですよ。だから、問いを省略せずに言えば、こうなります。「私たちの社会でシステムの制限内に許容されていない殺人は、システムを変えないかぎり、禁じられたままにされる『べき』だが、なぜだろう。売春や歩行や水泳や放屁はシステムに許容範囲がわざわざ明記されないままOKなのに」と。しかしこんなまわりくどい言い方をしなければわからない愚か者はそもそもこんな議論に参加しないがゆえに、省略して「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うのです。だから現代日本では、これが死刑や正当防衛についての問いではなく、行きずり殺人や保険金殺人や仇討についてのものであることは明白なのですよ。
 「許容される「制度的殺人」には、社会によって違いがあるということにすぎないのです」というのは、そのとおりです。私は禁じられるべき殺人の種類を固定などしていません。殺人は、★社会によって異なるがいかなる形であれ★システムで制限せねばならない。そういう制限を必要とするのはなぜなのか、というのが「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いなのですよ。
 「なぜ、鈴木を殺してはいけないのか?」という問いは、鈴木を人間の任意の代表とした問いであれば当然「社会が崩壊するから」となりますが、特定の一人を指す固有名詞として、あるいは「『鈴木という名字を持つ人は殺してよい』という道徳が成立しえない根拠は?」という問いとして理解すれば、私の論証は適用できません。世界中の鈴木がいつ殺されてもいい状態になっても、鈴木以外の人間にとっては脅威ではありませんから。しかしその場合、「殺してよいのは鈴木に限る」という強固なシステムが必要です。そのシステムがないままだと、私の論証どおり、鈴木以外の田中も高橋も小林も安住できなくなり、社会は崩壊します。だから許されるのは「断じて鈴木にかぎる場合」。なぜそんな注意深い制限的管理が必要なのか、というのが、殺人が絶対悪であることを逆証しているのですよ。

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その4 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 9日(火)04時00分23秒

>>②――(中略)「忌避感情」などという恣意的な直観で他者を差別す
>>るメリットがどこにあるのか。悪いことをしてない人を忌避してはならないと
>>いうのは小学校レベルの基本的な道徳でしょうが。

 これは、マトモに答える気がしません。いや、答えようがないからです。
 仮に私が買売春する他人に「忌避感情」を持ったとしても(実際はそういう次元の話はしていませんが)、これは別に「差別」でも何でもありません。ただの感情です。
 「悪いことをしてない人を忌避してはならない」って、φさんはどこで習ったのでしょう。もしかしたら「悪いことをしている人は忌避してもいい」とも習ったんでしょうか。私はそんなことを小学校でも習った覚えはありません。
 悪いことをしてなくても近づきたくない人といるのはいるでしょう。その人を避けてはならないというのは、わざわざこちらからすり寄って行かなければならないのですか。酒臭い酔っぱらいも避けてはいけないんですね。困った道徳です。
 そんなのを「基本的な道徳」だとお考えだとしたら、話が通じないのも当然かもしれません。

 前回も書いたはずです。
 忌避感情を持つのが、なぜ差別なのか。まずそれを立証してもらう必要があるようです。
 忌避感情について論じるのも差別ですか。その理由も分かりませんね。

 それから、もう一つ。
 なにやら得意になって、例の竹内久美子顔負けをやっていらっしゃいますが、「売買春特有」の忌避感情がないことが仮に証明できたとして、それで売買春に対する忌避感情がないことになりますか?
 性交することも売買春に特有のことではない。金銭の授受も売買春に特有のことではない。売買春に特有のことなど存在しない。ゆえに、売買春など存在しない。これは「妥当な論証」でしょうか。

 話はやや脇道にそれますが、私はアンドリュー・ヴァクスの小説が大嫌いです。『赤毛のストレーガ』なんか最悪だと思います。だいたい、悪を懲らしめに行く正義の味方の方が、悪玉よりも人数が多いなんて、そんな馬鹿な話はありません。弱い者いじめ同様で、まったくの興醒めです。
 実は、私がイヤなのは、おのれの側に絶対の正義があると思いこんでいる者の居丈高さなんですね。

 チャイルド・アビューズはいけない。結構です。しかし、強姦罪の規定からすると、性交を合意出来るとみなされているのが13歳からです。なぜ、13歳を買春してはいけないのでしょう。
 あなたは未熟で十分な判断能力も持っていない、などと勝手に決めつけるのは最大の人権侵害になるはずです。児童買春禁止法を簡単に支持してしまうφさんの見解には、疑問を感じます。
 しかし、長くなったので、これは次の機会にまわしましょう。

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その3 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 9日(火)03時59分40秒

>>「全員がやったら」という条件なら、「コンビニで働く」「司法試験合格を目
>>指す」「2005年元旦に眠っている」等々、何だって社会は崩壊します。

 私やあなたがAを殺したって社会が崩壊しないのは明らかです。
「私はAを殺してはいけないか」に対しても「あなたはAを殺してはいけないか」に対しても「否」を論証できない殺人否定論は、いったい何を論証したことになるというのでしょうか。

 殺人の問題にしろ売春の問題にしろ、私は簡単に論じられる問題だとは考えておりません。そこで、議論があまりゴチャゴチャにならないようにするため(ある程度論点が出そろってきたりするので)、取りあえず一つずつ片づけていきませんか、と前回に提案したわけです。
 売春については、予告編といった感じで、ある程度の輪郭をお伝えするくらいのつもりで書きました(当初のつもりよりも長くはなってしまいましたが)。詳しいことは、殺人の問題が一段落してからと思っておりました。φさんの主張は明らかにオカシイので、決着は早いだろうと予測したからであります。

 という訳で、売春については次回以降に詳しくということにしたいのですが。
 でも、気になさっているようなので、不十分かもしれませんが、だいたいのところをお答えしておきます。

 ①忌避感情があるからどうなのか、という点について。
 これは、「机上の空論」で合法化をいうだけでなく、実際にどのような形で合法化するのかというところに関わってくる問題として指摘しています。合法化をしたときに、何の「管理」もしないということは、現実的にいって絶対あり得ません。その形態次第では、売春する側の強制的カムアウトが結果します。この時に、忌避感情があるかないかは、無視できないモメントになります。
 もし、φさんのおっしゃるように忌避感情などというものが存在しないとすれば、売春する側にとって合法化は基本的に大賛成、カムアウトに躊躇するところは何もないということになるでしょう。しかし、それは事実でしょうか。

 私の見たところでは、φさんの肯定論は「禁止するのは理屈に合わないから合法化しろ」というだけの議論なんです。これは、あまりにも幼稚です。また、無責任でもあります。実際に売春に携っている人たちが合法化を望んでいるのかどうかについて、多少とでも考慮に入れたことがあるのか疑問を感じざるを得ません。

 私は現役のソープ嬢でもある“論客”と意見交換をしたことがありますが、どんな形態の合法化を望んでいるのか、結局この人は明確に出来ませんでした。いや、合法化自体を望んでいるかさえ、明言できなかったのです。
 これは非難しているのでは全然ありません。それだけ状況は複雑だと言っているのです。何の根拠も示さないまま、売防法が廃止されれば――社会保障が完備してしまったり――売春環境がばら色になるなどとする主張が、いかにばかばかしいかということです。

>> ①売買春に忌避感情がつきまとうとして、ならばどうだと言いたいのか。忌
>>避感情を尊重しつづけるべきだというのか、忌避感情をなくすべきだというの
>>か。

 忌避感情も感情であるからには、当為で云々しても仕方ありません。「なくすべき」だからなくなるというものではありませんし、感情を尊重してどうしようというのでしょう。こういう質問が浮かぶ発想というのが分かりませんね。

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その2 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 9日(火)03時58分1秒

 たとえば、大がかりな銀行強盗事件があった。さいわい死傷者はゼロだったが、数十億の現金が盗まれた。これを議論している最中に、一人の中学生が質問した。「なぜ盗んではいけないんですか?」
 この質問が、「銀行強盗」乃至それにたぐいする盗みだけを問題にしているんですか? そんな風に思いこめてしまえるのが不思議です。

 「なぜ、人を殺してはいけないのか?」というのは、もっと大きな広がりを持った疑問です。
 だいたい、殺人を問題とするからには、一番“純粋な”形態の殺人からまず考えていくのが普通でしょう。つまり、特定の誰かを殺そうとして殺す殺人です。誘拐の場合、かならずしも殺す必要などありません。行きずりの殺人なんて極々例外的なケースです。なぜ、そんな特殊なものばかり持ち出して議論しようとするのでしょう。

 簡単な話です。
 “姦通”した配偶者を殺すことは、現在ではφさんのいわゆる「非制度的殺人」以外のなにものでもありません。では、この「非制度的殺人」を社会が許容したらどうなるのか。思考実験とやらを行なってみては如何でしょうか。(これは、決闘による殺人、仇討ちによる殺人、リンチによる殺人等々何でもいいのですが)
 実際に、それを許容していた社会が過去にあって、その社会はそれを許容していたがために崩壊したりはしなかった――結論は明らかでしょう。
 別に過去に例がなくたって構わないのです。決闘というのは(それを禁じる特定の法律はありますが、結果として殺した場合は)ただの殺人罪です。φさんのお好きな「非制度的殺人」に該当する訳ですが、これを特別扱いにして許容するよう法改正を行なったからといって、社会が崩壊するでしょうか。誰も彼もが決闘しまくるとは、考えられません。社会は崩壊しないでしょうね。

 法改正でも新たな判例でもいい。φさんが許容する「いじめ」に対する反撃として、殺人が許されるようになったとしたら、社会が崩壊するでしょうか。そんなことはないでしょう。

 それとも、許容された瞬間に「非制度的殺人」が「制度的殺人」に変わるとおっしゃるのでしょうか。
 もしそうだとしたら、φさんのおっしゃっているのは「社会が許容していない殺人を、社会は許容していない」というトートロジーに過ぎないことになります。論理学ではいざ知らず、巷間ではトートロジーというのは「そんなアホな話」という程度の意味です。いずれにしろ、トートロジーは自己完結してしまっていて、世界については何も語っていないわけですね。そこから「社会が成立しない」なんて結論を引き出すことはできません。

 φさんの殺人否定論は、言語自体がもともと「制度的」なものであると言っていたのでしたね。しかし、(少なくとも論議の対象としては)人間の行動もまた、誘拐や行きずりの殺人や強盗も含めて、すべて制度的なものなのではないでしょうか。だとしたら、すべての殺人は「制度的」な殺人だということになります。許容される「制度的殺人」には、社会によって違いがあるということにすぎないのです。
 φさんは殺人について何ら本質的な考察を行なわず、ただそれぞれの社会が示す殺人の許容範囲を後追いで容認し続けているだけです。

 「なぜ、人を殺してはいけないのか?」が仮に意味のある問いだとしたら、それはまず第一に「私はAを殺してはいけないか」、または「あなたはAを殺してはいけないか」のうちのどちらかでなければならないでしょう。
 ところが、φさんは以下のようにお考えです。
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いまだにマーダー 1 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 9日(火)03時57分23秒
 φさん、こんにちは。
 殺人の方を早く片づけてしまいたいのですが、簡単には話が進まないようです。仕方がありません。
 そんな訳で、今回もそちらから始めます。

 あ、その前にひとつ。

>> ●「結論に矛盾があるので、この論証は妥当ではない」とはいえない(つま
>>り、妥当な論証の結論として矛盾命題が導かれうる)ことについては、『論理
>>学入門』を再読していただければ幸いです。

 確かにそうですね。用語の理解に関して私に混乱がありました。
 以前に論理学の本を読んだとき、「推論」に対応する英語として「inference」、「論証」に対応する英語として「argument」があげられていました。「argument」というと、私などは「議論」という訳語がすぐに思い浮かんでしまいます。「論証」と「推論」では、前者の方がずっと包括的な意味を持っているような気がしたのですが、確認しないままになっていました。実際はどうなんでしょう。「妥当な推論」も「妥当な論証」もほとんど同じ意味に使われているみたいですが。

 ただ、“前提が実情と多少相違しているために「理想的すぎる」結論が出た”というφさんの評価はどう考えても妥当にはなりようがないと思います。
 “奇妙きてれつな結論が出たのは前提が「偽」であるためである”というのが私の評価です。φさんも、こちらの掲示板では「この論証の前提が偽であるがゆえに、偽なる結論が導き出されている、というのがp.240に掲げた解答です」などと書いてますが、“理想的すぎる結論”と「偽なる結論」とではだいぶ印象が違いますね。
 演習8の論証をもう少し先まで進めれば、矛盾した命題を導き出すことができます。そこまで行っていないという意味でも――妥当かどうかはいざ知らね――なんだかなあといった論証だと私は感じたのでした。
 わざわざコモン・センスを逆なでするような「論証」にして喜んでいるようにも感じられたのですが、これは誤解でしょうか。

 さて、殺人の話です。

>> ●殺人については一言、「なぜ人を殺してはいけないか?」と問われる文脈
>>での「殺し」は、死刑や騎士道・武士道倫理の復讐や戦争など制度的な「殺し」
>>のことではなく誘拐殺人や行きずり殺人のような非制度的殺人を指しているこ
>>とは明白でしょう。

 なぜ「明白」なんでしょう。まったくその理由が分かりません。
 明白だというのは、φさん一人の勝手な思いこみにすぎないのではないでしょうか。思いこみを根拠にして論理を組み立てても仕方ありません。

 私は、そんな風に思いこめるφさんの思想的なセンスを疑いますね。
 残虐な殺人事件があって、それについての議論が交わされていた。そのとき、一人の学生が質問する。「でも、そもそもなぜ人を殺してはいけないんですか?」
 この質問が「誘拐殺人や行きずり殺人」だけを問題にしたものだと思えるのですか。聞くところによると、学生は後で自分自身は殺人はしないだろうとも言ったそうです。「文脈」からしても、この学生が――含意としては、学生に代表される一般人すべてが――関わり得るすべての殺人についての問いだったとみなすのが妥当でしょう。

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(??) 投稿者:φ  投稿日: 3月 9日(火)02時47分26秒

 その女性がイメージしているのはこういう状況でしょうか。友人または恋人から、  「……させてよ」
 「……」
 「いいでしょ」
 「……うーん……」
 「1万円あげるからさ」
 「……わかった」
 本来対等であるべき友人関係(恋愛関係)がこわれてしまった、これはいけない、というイメージみたいですね。
 でもこれは売春とは関係ないので。売防法が対象にしているのは「不特定の相手方と性交すること」ですから、友人や愛人相手の「売春」は不可能です。「1万円あげるからさ」「わかった」が、裏切りや媚びや陰口や嫉妬と同じくらい情けない人間関係であることは事実ですが、それは欲望のズレというものに共通の情けなさであり、あくまで個人道徳であって、社会倫理の問題じゃありませんね。日常用語でもそういうのを「売春」とはいいませんし。
 売春は契約ですから、サービス提供者と客とが対等であるわけがない。家庭教師と生徒が対等でないように。「生徒の知識ばかり増やして自分は向上していない」と家庭教師を批判しても仕方ない。セックスのシミュレーションを提供するセックスワーカーは、サービス提供者として対価を得るのが当然。客とは欲するものが異なっているという前提で、交換の原理を適用するのですから。
 セックスワーカーは友だちでも恋人でもなく、セックスシミュレーターなのだということを忘れてはなりません。むろん素顔は、従業時間外には本当のセックスで楽しむヒューマンに違いありませんしね。
 「見下す」といえば、「こんなものがほしいのかよ、この客は」「こんな端金がありがたいのかよ、この店は」と、無意識のうちに大なり小なり相手を見下す心理は、いかなる売買関係にもつきまとうのでは。互いに自分が得した、相手を出し抜いたと思ってるから契約が成り立つんであって。売買春もそのお互い様でいいじゃないですか。平凡な契約関係です。
 「体を売った」「性で対等でなくなった」ごときで損傷するような、そんな脆弱なものとして人間性をイメージするとしたら、人間性への冒涜でしょう。自殺未遂者や脳死者にさえ人権を認める時代に、ひどい倒錯的な人間観だと思います。

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女性の側の意見 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 8日(月)22時24分47秒

普通は自分の身体が大事なものだからこそ、それを売ろうとはしないのですよね。
だからこそ、売れば儲かる。
しかし、お金よりも大事なものが身体であるわけです。
自分の身体なんか大事じゃない、と思うのは自虐趣味だと思います。

また、自分の臓器を売ることは善ではないですよね。
でも、生殖機能ならば良い?
別に減るわけじゃなし?
どうもスッキリしないので、そばにいた女の子に聞いてみました。

私:売春って何が悪い?
女:女を見下すからです。
私:なぜ?
女:だって、お金払うんでしょ。
私:お金払うと見下していることになるの?
女:お金払えば、対等じゃないじゃない。
私:・・・。

確かにお金を払えば対等な関係じゃないですよね。
性においては男女は対等でなければいけない、という女性の側の通念があるようです。

 一つ残っていました。
 私が売買春しない理由。自分の配偶者との誓約を裏切ることになるからです。

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(?) 投稿者:φ  投稿日: 3月 8日(月)02時04分17秒

 SAの記事はまあ、普通の紹介記事でした。まだアップロードしてませんが――
 で、確かにまったく、売買春がかりにいかに愚行であろうとも、国家が差別を奨励してよい筋合のものではありませんよ。かたや、妊婦の喫煙のような大愚行を合法にしておいて、バランス感覚無さすぎです。
 ところでわかりませんな。「人間が自分の体の一部を売るのが正当な労働とはいいがたい」とは。
 セックスが大切なものだから? しかし大切なものだからこそ売り物になる。思想や知識のような大切なものを売る売文業者はべつに忌避感情に抗って就業しているわけじゃないと思いますがね。
 逆に、セックスなんて大切ではない、と思ってあっけらかんと売買する人はそれはそれで、思想の自由。「セックスは大切なんだ」と押し付けるのは全体主義的暴力です。
 いずれにせよ、誇りを持ってにせよ持たずにせよセックステクニックを売ると決めた女の子には、「就職おめでとう」と言ってあげなくちゃいけません。(天性のテクは共有財産になったほうが良いに決まってます)
 売買の正否に、商品の価値の軽重は関係ありません。
 街で出会った男女がセックスして、そこにたまたま金の授受があったら違法、なければ合法。飯をおごれば金の授受とみなすのか、セックスの確約なしで金を渡したらどうなのか、全く曖昧きわまる。そんなものを国家権力が判定しようってんだからプライバシー侵害もいいところ。私が昔入会していた結婚紹介所の規約には「男女関係を発生した場合は成婚料をいただきます」という趣旨の一文がありましたが(成婚料ではなく違約金だったかな?)、売防法はその類にもましてお節介です。
 なお、恋愛やセックスの自由化が進めば進むほど、ポルノや風俗店の需要が増えると考えられますが、それは、恋愛映画や恋愛小説が多彩化し需要も増すだろう仕組みと同じです。現実の人生が優れたフィクションを必要としているように、本物の性愛にとっても「虚構のセックス」(本物恋愛/セックスのシミュレーション!)の充実と多様化は望ましいことでしょう。

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そう言われると・・ 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 7日(日)23時13分31秒

チョット困ります。
何故そういう気持ちなのか?って難しいです。
ただ一ついえるのは、人に勧められない、ということです。
例えば、売春業?に就職しま~す、なんていう女の子には、おめでとう、なんて言えません。
何故か? ・・・。 多分、正当な労働とは認めていないからでしょう。

売春というのは人間の生殖機能を売ることです。
つまり、女性器の使用権?を売るわけです。
人間が自分の体の一部を売る、ということが正当な労働とはいいがたいですよね。
この辺が忌避感情がないとはいえない理由でしょうか。
つまり、売買春は少なくとも善ではないということだと思います。

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売買春については、 投稿者:学ぶもの  投稿日: 3月 7日(日)22時58分55秒

http://www1.jca.apc.org/aml/200204/27494.html
http://www1.jca.apc.org/aml/200204/27495.html
http://www1.jca.apc.org/aml/200204/27496.html
http://www1.jca.apc.org/aml/200204/27497.html

の中で社会学者の宮台真司さんが触れているような

”人権侵害のない売買春については、それが道徳的にどう理解されるにして
も、私人間(しじんかん)のコミュニケーション──宗教的コミュニケーションも含
まれる──に任せる”

という方向でいいのではないかと。

国家はできるだけ個人の生き方に口をはさまない方向が好ましいと思うので。
法律の力を借りることによって特定の道徳を社会に広めようとするのは、
できるだけ控えたほうがいいでしょう。
例えば、ベジタリアンが多数派を占めることによって食肉行為が禁止されたりなんか
したら個人的にも困りますので。(といってもベジタリアンの人たちがそのような
ことをもくろんでいると思っているわけではありません。)

ちなみに
社会学者の赤川 学さん
http://homepage3.nifty.com/m-akagawa/


”売買春をめぐる言説のレトリック分析
------公娼・廃娼論争から性の商品化問題へ------”
http://web.archive.org/web/19970604044202/http://hostcinf.shinshu-u.ac.jp/Staffs/Akagawa/Gyoseki/gyoseki6.html

なんて論文もあります。
興味がある人は読んでみるといいかもしれません。
(赤川さんのホームページでは、この論文は
”原文公開!・・・は版権問題に留意して、ペンディングとします”
となっているのですが
web.archive.orgで保存されているので実際には読めちゃいます。)

#ところで、新聞にのったSAの記事はどのような感じの内容だったのでしょうか?

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ちょこっとなら。でも 投稿者:φ  投稿日: 3月 7日(日)18時50分32秒

 「何か悪の要素があるようです」「普通でない感情が発生するようです」じゃ困るんですよね。職業差別がかかってるんですから。
 かりに忌避感情が実在するとしても(私のように忌避感情などないと思っている者に「あるから持て」と押し付けられても困るんですがね)、だからどうだと訊いているのですよ。
 またそれ以前に、その忌避感情とやらが、他に還元できない売買春〈特有の〉忌避感情なのか、と問うたのですよ。(しかもその還元先は立派に合法的な行為ではないのかと)
 ちなみに人身売買は売買春の本質とは無関係。自家用車が犯罪に使われやすく保険金制度を利用した殺人事件が起こるからといって自家用車や保険を禁ずる理由にならないのと同じ。人身売買は、性が関わっていようがいまいが別個に取り締まるべき問題にすぎません。フリーな売買春に〈特有の〉忌避すべき何があるのかが問題です。売買春は悪でもないし迷惑でもないが忌避云々という惰性的・体制追認的な言説が流れているので心配になるのですよ。
 各種の芸能、屠殺、革製品関係、水番、金貸し、隠坊、清掃、行商、などなど歴史的に貶められてきた職業はいろいろですが、現在公然と「醜業」扱いされているのはなぜか売淫だけ。そこに正当な根拠があるのかと。
 あるのは「根拠」ではなく「原因」だけで、その原因とは、処女崇拝のタブーが売買春否定感情に集約されていることだと私なりに診断も下しました。人権主義の流れに盲従してフリーセックスを(ムリして)認めながらなお売買春を否定するにはよほどの理由が必要なのですよ。

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ちょこっと抗議 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 7日(日)14時09分8秒

売買春に忌避感情がまったくないかというと、多少あるように感じます。
φさまのおっしゃることは、ごもっともなのですが、人類はまだそこまで論理的になれないようです。
私なりに分析しますと、売買春の歴史にも原因があるようです。

過去においては、売春は食べる為にやむをえず行っていたことでした。
貧しい家庭の女子を女衒が買う。
売る方も家計の足しと食い扶持減らしとして売る。
買った女子に男を取らせて商売にしていた時期が長期に渡って続いていました。
要するに、人身売買です。
そこには、自由を奪われた女子の悲哀がありました。
この記憶が我々には残っています。
現代においても、金銭面のトラブルで売春をする女子が少なからずいるようです。

あと、金銭で体(この場合は春)を売り買いするという行為には、赤ちゃんの問題を除いても、何か悪の要素があるようです。
臓器売買と売血の間ぐらいの問題として、人間の生殖機能の売買があるように思います。

人間には、人間自身やその部分の売買には普通でない感情が発生するようです

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乞2(常識ですみませんが念押し微追加) 投稿者:φ  投稿日: 3月 7日(日)02時48分23秒

 女の側の「売春忌避」はごく単純。「売る」女は「不特定多数とやっている」確率が高いと見なされるから。そういう女は、
 1.他の女からは「本命の男(将来の夫or現在の愛人)に自分を高く売ることを知らない愚かなライバル」として潜在的憐憫・軽蔑を受ける。だから隠しておきたい。有料か無料かにかかわらず「より好みせず行為」そのものが軽蔑の的となる愚策なので、〈売春特有の〉忌避感情はありません。
 2.「より好みしない」女は、男にとって感激薄。他の多くの男の精子をすでに受け入れているので、生殖本能の外適応的欲情を刺激せず、かつ、他の♂との競争に勝った征服感も与えず。そんな女に「金を払う」ことは征服力欠如の証拠なので男として潜在的嘲笑の的になる。だから隠しておきたい。ヤラセ女相手とてフリーセックスに持ち込む段取りのほうが風俗店一回分よりも男側に金も時間もかさむのが普通なので、それだけ素人サセ子相手のほうが愚策度羞恥度が高く、〈買春特有の〉忌避感情はありません。
 いずれにしても、職業でやる女のほうが素人サセ子より見識が高いというべきでしょう(1.自由セックスと比べ、客へのサービス内容に制限がつくため安全。2.本命に対してのみ無料という戦略的使い分けが可)。素人サセ子よりも売春婦は尊敬されるべきです。
 買春忌避男がソープを避ける理由は、1.違法ゆえ、いかなる不法の災難/合法的処分(減給・解雇等)を受けても合法的対抗が困難であることへのリスク回避。2.前の男の精子が残っていそうな観念的不潔感。この不潔感は、ナマでやってる確率の高い素人サセ子の方が現実感が大(病気もあわせ)。ゆえに違法性を除くと、やはり買春特有の忌避感情はありません。
 「還元主義」の方法を適用するだけで、売買春特有の忌避感情などゼロであることがわかります。エンガチョに法の箔をつけた錯覚。素直なのはけっこうですが、体制順応もどうかほどほどにし、くれぐれも悪法に洗脳されぬ心得を。ナチスの法律に順応した異民族迫害者たち(善き市民たち)みたいになっちゃいますから。フリーセックスが合法である以上、売防法は廃棄すべきです。さもなくばフリーセックスを法的規制すべきです。

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乞 投稿者:φ  投稿日: 3月 6日(土)21時22分56秒

 ●「結論に矛盾があるので、この論証は妥当ではない」とはいえない(つまり、妥当な論証の結論として矛盾命題が導かれうる)ことについては、『論理学入門』を再読していただければ幸いです。
 ●殺人については一言、「なぜ人を殺してはいけないか?」と問われる文脈での「殺し」は、死刑や騎士道・武士道倫理の復讐や戦争など制度的な「殺し」のことではなく誘拐殺人や行きずり殺人のような非制度的殺人を指していることは明白でしょう。非制度的殺人を認める殺人許容社会はない→非制度的殺人を許容すれば社会にあらず、ここからhttp://members.jcom.home.ne.jp/miurat/murder.htmの論証が進む、それだけの話です
。(繰り返しますが、売春、不倫、同性愛等は非制度的なものを許容しても社会は崩壊しません)
 ●売買春については、オコジョさんはなぜか全然こちらの質問に答えて下さらないようですな。3/1に私が提示した基礎質問2点を繰り返します。
 ①売買春に忌避感情がつきまとうとして、ならばどうだと言いたいのか。忌避感情を尊重しつづけるべきだというのか、忌避感情をなくすべきだというのか。
 ②――「売買春大迷惑!」「売買春全面禁止!」というなら忌避云々と強調されるのも理解できる。ところが、「買売春が「悪」かどうかは、とりあえず何とも言えない。いわゆる他者危害の原則に抵触するようにも見えない。……私は買売春を禁止すべきだとは言っていません」(オコジョさん3/1書込)という立場でありながら「忌避感情」などという恣意的な直観で他者を差別するメリットがどこにあるのか。悪いことをしてない人を忌避してはならないというのは小学校レベルの基本的な道徳でしょうが。
 (たとえばですよ、日本人運営のAVやエロサイトには黒人男は頻出しても黒人女のフィーチャーが異様に乏しい。発情系文字媒体においてすら。これをあえてオコジョさんは「日本人は黒人女に忌避感情を持っている」と表現しますか? 私なら、単に「日本人の性欲と趣味がそうなっている」と言いますけどね。)
 ★①②に対してはぜひお答えお願いしますよ★。
 私ははっきり申し上げました。売買春に「特有の」忌避感情など無い。あるとしたら夫婦間セックスやインポや愛人契約など他の性的プライバシーと共有の羞恥心+特有の違法性、それに尽きる、と。なぜ買わないかの理由も申し上げました。趣味だと。具体的に改めて言えば、好きでもない女と金を払ってまでセックスすることに魅力を感じないということですよ(無料なら喜んで買いますけどね。オペラや能やプロ野球は五千円や一万円もらっても観に行きたくないので、私にとって買春より「忌避感情」が強いといえる)。むろん、好きでも好みでもない女と金を払ってでもヤリたい男はたくさんいて、それは自由でしょう。べつにそういう趣味を否定する権利など誰にもない。
 電車内の痴漢よりイメクラの痴漢プレイの方が善く、会社でのセクハラよりイメクラのセクハラプレイの方が善く、路上のケンカより空手道場でのドツキあいの方が善いのと同様、素人のフリーセックスより売買春の方が善い、ということもすでに申し上げたつもりです。
 「私は自分がなぜ売春しないのかを言えますし、なぜ買春しないのかも言えます」とオコジョさんは言われましたね。★私には全然見当がつきませんので、なぜなのか是非是非教えてください★。私はといえば、買うのは金がもったいないからイヤだが売るのはべつにかまいませんよ。ただし相手は女に限りますが。ゼロ円以上で売れるものなら喜んで売ります。

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死刑と買売春 3 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 6日(土)04時28分3秒

 買売春をめぐるφさんの主張には、「だけ」とか「すぎない」というのが多いですね。詳しいことは今は省きますが、そういう議論というのは、たいてい現実を見そこなっているのですよ。
(ちなみに、「姦淫」という言葉は別に「刑法上の用語」ではありません。揚げ足をとるようですが、「強姦や強制猥褻、十三歳未満との性交など」というのもおかしい。「十三歳未満との性交」と「強姦」は別のものなんですか?)

 また、私は「買売春」についての忌避感情を論じているのに、φさんの話の中では、いつのまにか「売春」についてのそれになっていたりします。
 男性が「売春」に忌避感情を持つ理由について書いていましたね。これは反証不能であるだけでなくて、女性について説明できないのでおかしい。女性も買売春に対して忌避感情を持つのですよ。

 私が忌避感情を論じるのがケシカランと言論を封殺するようなこともおっしゃっていました。これは最悪の言い分です。教育者でありながら「いじめ」も「セクハラ」も肯定するようなことを書いていていいのか、と言い返せるところですが、私はそういう議論はイヤなのでしません。

 私の議論の主旨がご理解いただけていないとのことです。はっきり書いておいたつもりなのですが。
 買売春の肯定論はおかしい、というのが私の主張するところです。φさんの殺人否定の論理は、簡単に言うと「殺人が許されると主張するのはおかしい」ということではありませんでしたか? それと似たようなものです。別に特殊な主張だとは思いませんが。

 問題なのは、φさんの事実認識です。
 橋爪大三郎や永井均や他にも沢山いますが、買売春を肯定する人たちもたいていは、現在それがイケナイことだとされているという点を認めています。その上で、そうした観念がなくなれば何も問題はなくなってしまうと言っているのです。
 買売春に特有の忌避感情なんて存在しない、というφさんの主張はかなり異色のものです。こういう事実認識に固執されるようだと、議論が難しいかもしれません。

 どちらも似たようなものなんですが、φさんの場合、買売春が合法になれば一切の問題は解決するとおっしゃっている。(合法化されると、なぜ「保障が完備するはず」なのでしょう。これも分からない。それは単にそう思いこんでいるという“だけ”です。事実と照らし合わせて考えていない。たとえば、ドイツでは売春する人への社会保障が完備しているんですか?)
 通常型の買売春肯定派は、売春という観念がなくなれば問題は解決すると言っています。φさんの議論と構造は同じです。これは「雨の降る日は天気が悪い」と言ってるようなものです。

 書きたいことはまだまだ沢山ありますが、長くなりましたので次回にいたします。

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死刑と買売春 2 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 6日(土)04時27分24秒

 死刑は殺人以外のなにものでもありません。社会が自己防衛のためにする当然の行為だ、と言われるでしょうか。それは、理由の話です。殺人でないことにはならない。
 死刑は、実際には“報復”でもあります。個人の持っていた「復讐する権利」を取り上げてしまった国家が、それを代行しているという面があります。そうでなかったら、「遺族感情」を云々する理由がありません。
 戦争においても殺人は許容されています。例外だといって否定することはできません。死刑と同じで、殺人でないことは証明できず、“理由”をあげつらっても反証にはならないからです。

 要するに、殺人を許容するための“理由”を社会がどう設定しているか、というだけの話です。φさんは、殺人を許容する社会は存在しなかったなどと、(思いつきから発した)まったく根拠のない主張をされていますが、前回も私は反証となる例をあげました。
 簡単な話で、人の命よりも価値が上だとみなされるものがあればいいのです。人類始まって以来、常に人命が「地球よりも重い」と看做され続けていたなどと思えるとしたら、まったく没歴史的な思考としか言いようがありません。
 復讐の権利が認められていた時代がありました。決闘というのもありました。そういえば、プーシキンもレールモントフも決闘で命を落としたのでした。

 φさんのコメントを「思いつきから発した」主張だと申し上げました。φさんの論理は、こんな具合いなんです。「殺人を許容したら社会が存続できないハズだ→殺人を許容する社会など存在しなかったハズだ→そんな社会は存在しなかった」
 これは順序が逆です。まず、事実を直視するところから始めなければいけません。その事実に合致するように論理を組み立てるべきです。それが“論証”の本来あるべき姿なのではないでしょうか。

 というわけで、とりあえず、殺人の問題ではφさんの主張は不可という結論でいいでしょうか。
 それを確認した上で、次に進みたいと思うのですが、いちおう大雑把なところは先に書いておきましょう。

 φさんのおっしゃっていることのうち、かなりの部分は証明も反証もできない“理論”になっています。進化生物学とやらを持ち出しての主張は、竹内久美子もカブトを脱ぎそうなオハナシ。だいいち、レイプ体質(そんなのあるの?)の男が有利なのか、文化的(?)な男が有利なのか、どっちなのと聞きたかったりもして、何が言いたいのか分からないところも多々あります。

 私は自分がなぜ売春しないのかを言えますし、なぜ買春しないのかも言えます。ところが、φさんは自分が買春しない理由を率直に書けないようです。
 なぜウンコを食べないのか? たとえば、あんな、汚くて、臭くて、しょうもないもの、食うのはイヤだからだ、と答えられます。なぜ水泳をしないのか? たとえば、水が怖いからだ、と答えられます。(ちなみに、私は水泳が三度のご飯よりも好きです。最近はもっぱら囲碁で、あまりやらなくなりましたが、基本的に将棋も好きです。φさんとは、趣味が全然あわないかもしれません)
 こんな具合いの“検討”を強引に封殺しようというのは、論じていくと何か不都合があるためではないかと疑ってしまいます。買春しないのは、そうするのがイヤだからだと言ってしまえば、話がはやいではありませんか。それとも、時間とお金があれば、買春しまくるぞ、と言ってもいいではありませんか。
 確かに「イヤだから」と言ってしまっては肯定論を立てにくいでしょうね。でも、言行不一致では説得力がありません。(チャタレイ裁判の特別弁護人をやった福田恆存は、「言論の自由」をロレンスの著作自体よりも優先させる論理は錯誤していると言っていました)

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死刑と買売春 1 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 6日(土)04時26分42秒

 みなさん、こんにちは。φさん、こんにちは。
 稚拙な「論証」でおそれいりますが、こんなヴァリエーションが出来ました。

前提1 死刑を怖れる者がいるならば、死刑には犯罪抑止力がある
 前提1-2 死刑を怖れる者がいる   (経験的事実)
  中間帰結1 死刑には犯罪抑止力がある  (前提1および前提1-2より)
前提2 死刑に犯罪抑止力があるならば、死刑は正義である
 前提2-2 死刑が正義でないならば、死刑には犯罪抑止力がない (前提2の対偶)
前提3 誤審が防止できていないならば、死刑は正義ではない
 前提3-2 誤審は防止できていない  (経験的事実/島田事件・梅田事件その他多数の事例あり)
  中間帰結2 死刑は正義ではない    (前提3および前提3-2より)
  中間帰結3 死刑には犯罪抑止力がない  (前提2-2および中間帰結2より)
結論 死刑には犯罪抑止力がある・また死刑には犯罪抑止力がない  (中間帰結1・3より)
 結論に矛盾があるので、この論証は妥当ではない

 φさんが、「この論証は妥当である」と評価した論証が、ちょっと事実と照らし合わせただけで、妥当でない論証に変わりました。現在のスレッドの一番最初に書いたのは、要するにこのことなんです。
 ソクラテスが死ぬかどうか等々なんかではなくて、多少ともアクチュアルな問題を考える場合、肝腎なのは前提が「真」であるかどうかであって、前提を「真」だと仮定した上での「推論」そのものの当否などではないのではないか、という疑問です。
 論理を尊重すること自体は何の問題もありませんが、それが事実の軽視につながってしまっては、マトモな議論など出来なくなります。買売春をめぐるφさんのコメントは、それをよく表わしていると私は思います。

 死刑の話に関して、もう少しつけくわえておきます。
 要は「正義」をどう定義するかということになると思いますが、前提の3を「実情に完全には合致していない」とは私は考えません。誤審があったならば、死刑は正義でないのです。誤審がたまにあったからといって死刑が正義でないことにはならない――とするのは、ゆがんだ論理でしょう。
 改悛した殺人犯を死刑にすることは正義かどうか。これは、正義であって、また正義でない例でしょう。殺人犯を死刑にするのは正義ですし、改悛した人間を死刑にするのは正義ではない――そう考えて何の不都合もないと思います。
 永山則夫が死刑になった時、私は非常にイヤな感じがしました。必ずしも彼の死刑に反対だというのではありません。死刑になっても仕方がないことをしています。しかし、それでもイヤな感じはしました。個別の例について多少とも知ってしまうと、その分だけ一般論に嫌気がさすというようなことがあると思います。「人生の大問題に見えることも、みーんなこれと同じくらい簡単なのさ。論理できっちり証明できるのさ」と書けるφさんは、たぶんそういう感じ方をしないのでしょう。

 殺人も死刑と同じくです。なぜ“すべて”の殺人が「悪」でなければならないのか? 私にはその必然性が分かりません。
 「なぜ、人を殺してはいけないのか」に対して、沢山の“評論家”さんたちが模範解答を出そうとしていました。しかし、そもそも「人を殺してはいけない」ことになんかなっていないのが厳然たる事実なのに、それを否定する命題を“論証”出来る筈がないでしょう。

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フェチは大善 投稿者:φ  投稿日: 3月 6日(土)01時40分31秒

 (大罪)ペドフィリア>女性器切除>強姦>痴漢>盗撮>覗き>粘膜関係なしのセクハラ>乱交>不倫>婚前セックス>売買春(無罪)
 SM以降は文化的多様性の証しとしてむしろ善でしょう。マイナーなフェチほど大善。子孫繁栄の放棄を悪に入れるとしたら、熟女好みも悪になってしまいます。つい30数年前まではフェラ、クンニ、アナルセックスが「性倒錯」として病理学的症例扱いでした。オナニーが罪だったことも。
 難しいのは獣姦、死姦、近親相姦、そして公言が憚られているようですが混血(異人種間セックス)。
 最後のは私は全然悪と思ってませんが悪の候補に入りうる理由は、ニホンザルとタイワンザルの交雑、日本産ヒラタクワガタと東南アジア産ヒラタクワガタの交雑、アフリカのチンパンジーの4亜種間の交雑といったものを防ぐために生物学者その他が躍起になっているその同じ論理を人間に当てはめるなら、貴重な三大人種(もしくは五大人種)という亜種の消滅を防ぐため、人種間結婚は制限すべきでしょう(世界に一種類の人間しかいなくなったらやはりつまらないことは確か)。純血種を守れ。人間だけ特別扱いにするならその根拠を示せ。
 なお、避妊は異論ないとして、中絶が悪であるかどうかは自明ではありません。臓器移植用のクローン人間を作ることになるのは将来確実ですし。「殺すために命を作る」ことは、養殖という形で人間以外の命についてはなされていますが、人間の養殖も、すでにいる自然の人間を殺すことと同等の悪だという確証はありません。単なるスケッチですが↓
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/shuen.htm または同文を一望には↓
http://www.gpc.pref.gifu.jp/infomag/gifu/100/2-miura.html

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悪の重み付け 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 5日(金)11時13分5秒

問題は、発達した文明では枝葉末節に捕われ根幹を見失うという事なのではないでしょうか。殺人は悪、という根幹から姦淫(淫らな性交渉)の禁止、売買春の禁止と帰結されるのですが、それが法制化され何世代も経ると次第に根幹である殺人悪を忘れていってしまう、ということなのではないでしょうか。
ですから、「売買春の何が悪い」などと開き直られると、「当たり前だ」とか「常識だ」とかしか言えず、根幹である殺人悪からの反論ができなくなってしまっているということなのだと思います。

あと、悪といってもそのランクがありますよね。
最悪から微悪までの悪があります。
性に関することを私なりにランク付けしてみました。
←最悪・・・・・微悪→
強姦 売買春 姦淫(淫らな性交渉) 強制猥褻 SM(傷害の可能性) スカトロ(大腸菌による食中毒) 同性愛

同性愛は子孫繁栄の放棄という点で微悪でしょうね。
スカトロはやっぱ、異常でしょう?
ウンチが美味しかったら味覚異常ですから病院いった方がいいです。

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諸悪の源はfree sex 投稿者:φ  投稿日: 3月 5日(金)02時12分42秒

 本来自由化されるべきでないセックスが自由化された鬱憤を、一部の人々が売春にぶつけているだけ、というのが真相でしょう。それを、何か売春特有の悪があるかのように勘違いするギャラリーがたくさん。やはり法律の洗脳効果は抜群ですね。売春を弾劾する人というのは、体制順応タイプもしくは権威服従タイプなのでしょう。
 なお、赤ちゃんへの暴力が諸悪の根源なら、同性愛やSMやスカトロなど生殖を伴わない性行為は(不特定多数を相手にした商売でも)合法ということでたしかに何ら差し障りありません。

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命の扱い方に善悪がある 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 4日(木)12時55分48秒

売買春に限らず淫らな性交渉が悪いのは、赤ちゃんの命を軽んじる結果となることが多いからです。
赤ちゃんの命を軽んじないのであれば、自由の範囲内でしょう。
殺人が悪である社会では当然のことだと思います。

婚前や婚外、他のセックスでも、赤ちゃんに対して責任を持つのであれば、自由だと思います。
といっても、若い男女には若気のいたり、ということがあるはずです。
ですので、青年期になる前に性教育をしっかりと行い、避妊の知識を得させ、みだりに性交渉をしないように教育しなければなりませんが、現代では性教育も充実しつつあります。
あとは命の尊さといった倫理面の教育をしっかりと行い、大人達が模範を示し、指導していけば、不幸な赤ちゃんが減っていくはずだと考えています。

要するに、セックス自体に善悪があるのではなく、結果である新たな命の扱い方に善悪があるのだと思います。

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合法的管理売春なら避妊は完璧 投稿者:φ  投稿日: 3月 3日(水)23時46分11秒

 ●売春の悪が、中絶や乳幼児遺棄に還元できるという立場は、私は理解できます。(賛成はしませんが)
 ▼ただし、理解できるための条件としては、妊娠確率のさらに高い素人の婚前・婚外セックスすべてが、売春と同等またはそれ以上に「悪」とされるべきだということ。この条件が満たされないかぎり、「売春が悪」という立場には私は賛成でないだけでなく、理解もできません。
 ●他方、売春は悪ではない(あるいは、悪とはいえない)としながら、売春には忌避感情がつきまとう云々と言い立てるだけという立場は、私は全然理解不能です。悪といえないものに対して忌避だの何だの公言するメリットが何もない。そう言ってるヒマに、「忌避感情」とは単なる遵法精神にすぎないのではないか等々、自己分析すべきでしょう。

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売買食? 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 3日(水)13時04分41秒

売買食で誰かが死んだり殺されたりしないのですが・・・。

売春婦が完璧な避妊をしていることを確められない以上、つねに赤ちゃんの問題が付いて回ると思います。
赤ちゃんの問題が解決しない以上、売買春は悪いことだと思います。

普通は相手の避妊度などお構いなしに遊んでいるはずです。
そしてそのつけは最弱者である赤ちゃんが負うことになる。

人類は命に対してもっと敬虔になるべきです。

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恋愛によるセックスも淫ら 投稿者:φ  投稿日: 3月 3日(水)02時50分5秒

 売買食のほうが、殺生増加をより確実化する営為ですから、より悪だと言えそうですね。
 いずれにせよ売買春の「淫らさ」を、堕胎や乳幼児遺棄のせいにすることはできません。売春は商売なので、出産という非効率的な結末を許すはずがなく(とくに合法化された場合、税金がかかってくるぶん対策や保障が完備するはず)、未婚・婚外のいい加減な素人セックスよりずっと人道的です(未婚の恋愛カップルが妊娠に至ったとき結婚するのはまだ少数派。結婚を前提としない恋愛を禁止すれば別だが)。
 売買春が「忌避」される理由はごく単純、男の原始的本能。……「女は、ただで不特定多数とセックスする本能は持っていないはずだ。しかしセックスで金が稼げるとなれば別だぞ。おれの女房も(恋人も、娘も)ひそかにやりかねん。それは困る……」
 とまあ、処女崇拝なんですね。売春禁止によって、女房、恋人、娘が不特定の男とやってる確率を減らしたいという。
 しかし女に処女性を要求したら、独身男のための売春が必要になるはずなんですけどね。どうしようもない矛盾です。
 (ちなみに、心の交流を伴わないセックスには興味ないという文化的な男も大勢いますが、進化論的にみると、感情を交えずにセックスできる体質(レイプ体質)の男のほうが繁殖に有利で適応性が高く、自然淘汰で勝ち残ってきたという生物学的根拠があります)
 (逆に、レイプなどしなくても女を惹きつける優秀な男が、現代社会では、買春に興味を示さない文化的な男として生活している可能性も大です)

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売買食も淫ら 投稿者:通行人A  投稿日: 3月 3日(水)00時21分5秒

ハムスターさんの「売買春は淫ら」に賛成です。
私は、「売買春」の禁止に加え、「売買食」にも制約を課すべきと考えます。

食べることは、われわれの生命の維持に必要不可欠です。
しかし、問題は、
必要以上の食事や、食欲をあおるような行為です。
この場合は、食される生命が哀れです。
テレビや雑誌等のいわゆるグルメ情報は、
営利のために、人々の食欲を人間の生存に必要な程度以上に高め、
殺されなくてもいい命を犠牲にすることにつながります。

これは、やはり、防止できるなら防止したい。
そのために必要なのが、限度をこえた売買食及び食欲をあおる行為の禁止だと思います。

食べるということが貴い命を絶つ行為だということを忘れてはいけないと思います。

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売買春は淫ら 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 2日(火)21時27分55秒

もちろん、恋愛によるセックスを淫らな性交渉とはいいませんよね。
この場合は、仮に出来チャッタ婚であっても、生れてくる赤ちゃんに対して二人の愛情がそそがれるでしょう。

問題は恋愛や結婚によらないセックスです。
この場合は生れてくる赤ちゃんが心配です。
姦淫であっても、売買春であっても、合意による(淫らな)性交渉であっても、同様です。
ほとんどの赤ちゃんが生れる前に命を絶たれるでしょうが、生れた場合でも二人の愛情がそそがれることは難しいでしょう。
この赤ちゃんは、二人にとっては望まれない赤ちゃんだからです。

こういうことが良い事だとはいえませんよね。
やはり、防止できるなら防止したい。
それが、売買春の禁止だと思います。

セックスが新たな命を生む行為だということを忘れてはいけないと思います。

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re:倫理は姦淫禁止 投稿者:φ  投稿日: 3月 2日(火)15時15分58秒

 「姦淫」は、強姦や強制猥褻、十三歳未満との性交などを取り締まる刑法上の用語ですから、もともと否定的価値が含まれています。だから「悪いセックスは倫理的に悪い」というだけで、ただの同語反復。
 未婚の男女の自由意思によるセックスを「倫理的に悪」と公言する人はほとんどいないでしょう。もし赤ちゃんとの関連で倫理が決まるなら、結婚の確証のない婚前セックスはすべて非難されるべきです。また、妊娠可能な女性の飲酒喫煙などもってのほか。
 「姦淫」が使われなくなり「フリーセックス」等々とカタカナになるにつれて無益な処女道徳がなくなっていったのと同様、「売春」(これも法的な否定的価値が含まれている)が使われなくなって「セックスワーク」と呼ばれるようになれば、くだらぬ差別はなくなりますよ。なお、売買春は姦淫の部分集合ではありません。格闘技がケンカの部分集合ではないように。
 ただし、ヤリマクル女より処女が尊敬されるという風潮は、なかなか消滅しないと思います。これは生物進化論的な脳の仕組みですね(むろん先述の通り、生物学的根拠があるからといって処女尊重が倫理的に正しいことにはならない)。だから、「忌避感情」を言うなら、女の婚前・婚外セックスについて言うべきです。
 いっぽう売春は、専門的な職業としてなされるのだから、進化論的な処女尊重本能とは切り離すことがむしろ容易です。姦淫に比べれば、売春は、忌避される合理性はない。3K職業に対する差別がいかんのと同様、セックスワークも3Kだからと言って蔑視してよいことにはなりません。
 みなさんほんとに、いまの時世、未婚の女のフリーセックスを声高に非難できないものだから、その鬱憤を、売春を非難して晴らそうとしているだけですってば(だから男のウリについては何も言われない)。とんだ八つ当たり。目を覚ましてください。

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倫理は姦淫禁止 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 2日(火)09時36分55秒

倫理としては姦淫禁止ということでしょう。
法律としては売買春の禁止しかできないのでしょうね。

姦淫は、望まれない赤ちゃんを死に至らしめる危険が、夫婦間の赤ちゃんより高くなるという点で悪い行為だと思います。
売買春は姦淫の部分集合ですから、やはり悪いといわざるを得ないと思います。

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それほど変では 投稿者:φ  投稿日: 3月 2日(火)01時13分58秒

 死人が生者と関係を持つことはそれほど突飛じゃありません。バートランド・ラッセルは、2004年の時点において死者ですが、ノーム・チョムスキーに対して「より先に生まれた」という関係を持っています。「愛する」もそのような「核外性質」の一種と見なせます。核外性質については、『虚構世界の存在論』第四章第4節を御参照いただければ。
 ところで非嫡子の問題ならば、フリーセックス、いや婚前セックス・婚外セックス全般の問題で、売買春に特有の問題じゃありませんね。買売春否定派の評論家たちが、肯定派からバカ扱いされるのも当然で、売買春に特有でない問題ばかり繰り返し唱える頑迷さは目を覆うばかりです。「家族制度への脅威」だの「感情労働の貨幣化」だの「経済的搾取」だの「自尊心の放棄」(循環論法!)だの「魂が傷つく」(オカルト!)だの「愛のないセックス」だの「セックスの希少価値を損なう」だの……。どれも合法的行為や職業と共有する性質ばかり。ホント、売買春のどこがいけないのか、教えてほしいですよ。

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未必の故意による殺人の禁止 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 1日(月)23時09分8秒
皆さん、チョット変ですよ。
死人は愛することができるか否か?なんて。
死人にできることは廃になることだけでしょ。
これは経験的事実です。愛が規約的なだけです。

で、売買春ですが、やはり禁止すべきだと思います。
これは、殺人の禁止と関係があるようです。
売買春に限らず姦淫すると赤ちゃんが生れます。
ご存知のように人間の赤ちゃんは育てるのに他の動物の赤ちゃん以上に世話が必要です。
この赤ちゃんを育てる約束を交わした二人以外が赤ちゃんを作れば、世話ができなくて殺してしまう危険があります。
この危険は未然に防止すべきだと思います。

問題は避妊技術の発達した現代において、上記の理由があるのか?ということでしょう。
が、堕胎手術が多いのを見れば、現代においても上記理由は発生していると思われます。

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 投稿者:(無記入) 投稿日: 3月 1日(月)22時34分38秒

今日、『論理学がわかる事典』を購入しました。

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∃x∃y?/いじめ&売買春2 投稿者:φ  投稿日: 3月 1日(月)16時41分44秒

 ●「死んだ人間が何かを愛する」ことは可能、と書いたのは行き過ぎだったかもしれません。ただし、遺された側が「愛されている」と感じつづけることは可能で、ならば愛する側が死んでいても矛盾はないのではないか、と。
 ●「きのう韓国エステでいい子に当たってねえ……」「きのうソープで二発やってねえ……」「ゆうべ一ヶ月ぶりで女房とやってねえ……」「ゆうべ久しぶりでオナニーしてねえ……」「受付の女性に愛人になってくれって言ったら渋られてねえ……」「ネット注文したSM写真集が品切れでねえ……」「貧乳専門サイトに最近アクセスできなくてねえ……」「逸物をデカクする器具を通販で買って毎晩使ってるんだけどさあ……」「初めて男とやってねえ。女よりずっといいねえ……」「クラミジア伝染されちゃってねえ……」「精神科に通ってるんだけどさあ……」「痔が悪化してパンツ赤くなっちゃってねえ……」「バイアグラ飲んでるんだけどねえ……」「きのううちの犬にあそこを舐めさせたらねえ……」「この頃パパのお小遣いがショボくなってさあ……」
 以上のうち、特に「ソープ」に後ろめたさや話しづらさが突出しているわけではないでしょう。ソープ体験談なんか学生時代からしばしば聞きましたし。性にまつわるプライバシーは一般に話しづらいというだけです。売春特有の後ろめたさや忌避感情なんてものはない。
 かりにあるとしたら、その原因は「違法性」だけ。そもそもソープだって建前上合法なのだから、売買春の「防止」がいかに恣意的な基準によっているかがわかります。外国の、アナルセックスを禁ずる法律と同様、無益なお節介ですよね。しかし人間は制度に適応する生き物だから、違法とされたことに対しては自動的に罪悪感を持つようになる(これは自然選択で育まれた私たちの自然な性質です)。よほど自覚し批判精神を保っていないと、思考停止のまま「自然な罪悪感・忌避感情」に流されてしまう。しかも売春防止法は、なぜか女性の売春だけ規制して、男性の売春は放置している。女性の自己決定能力を信用しない差別の反映であり、かつ拡大再生産していることに気づかない人が未だに多い。
 差別とイジメの違いは、●差別は対象の個性に対してなされるのではなく、カテゴリーに対してなされる。●差別は、当事者がその理由や根拠を意識せず個人で責任も持たない。●差別は、社会規模で体系的になされる。/つまり思考停止状態でなされる点で「体系的なイジメ」以上のものであり、はっきり反倫理的でしょう。「忌避感情」は差別のポストホックな正当化であり、制度という自然環境に過剰適応した素直な市民の進化論的錯覚にすぎません。制度自体が文化的変遷にしたがって変容してゆくものなのに、ですね。
 「売買春大迷惑!」「売買春全面禁止!」というならわかるのです。ところが、有害とも禁ずるべきとも思わないとしながら「忌避感情」などというオカルト的スタンダードを尊重(?)されると、どうもこれ、〈カルト宗教にも通ずる蒙昧主義か?〉と論理哲学徒として心配になるので、ちょっと長くレスポンスさせていただきました。

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了解です 投稿者:syosinsya  投稿日: 3月 1日(月)11時07分52秒

> ●∃x∃y(Pxy∧~◇Lxy)の論証は、単にハムスター氏の論証へのパロディとして書いたので……。
 (疑問)としたところは、私自身、偽だと思っている部分です。

はい、了解してます。急いで書いてたので、その辺ことわりなしで済みません。

>なお、「死んだ人間が何かを愛する」ことは可能だと私は思います。「愛する」は、具体的な心の動きを必要としませんから。

なので、以下はハムさんへになるのですが

ハムさんの論証も楽しい遊びということは理解した上でなんですが・・

>死んだ者は愛することができない。 ←規約的定義
>補助仮定 できないことは義務にはならない。 ←規約的定義

である場合は

「全ての者は 死んだ者が負えないところの 敵を愛するという義務 を負う」

について「全ての者」の中に「死んだ者」も含まれるとすると
はじめからそれ自体の中に矛盾があることが自明。
ということで、
もともとの
「全ての者は、敵を、愛さねばならない」は
「生きている全ての者は、敵を愛さねばならない」
であったはずと解し、排中律を使った反証は
「生きている全ての者は敵を愛さねばならない」
を前提とすると矛盾が生じることを示さなければならないと思われます

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売買春/∃x∃y? 投稿者:φ  投稿日: 3月 1日(月)05時54分46秒

●オコジョさんの言わんとする趣旨が見えにくいのですが? 売買春に忌避感情がつきまとうとして、ならばどうだというのでしょう(忌避感情を尊重しつづけるべきだというのか、忌避感情をなくすべきだというのか)。ただ「忌避感情がある」だけでは、現状についてどういう価値判断を、特に文化的評価をされているのか、わかりません。
 オコジョさんとは違って、私は、売買春に忌避感情が伴っていると感じたことがありません(正直言うと私自身は、風俗嬢よりも、喫煙女性やpromiscuousな素人女性のほうに悪い感情を持ってます)。売買春をしない男女の「しない理由」は、忌避感情ではなく、趣味の問題でしょう。囲碁や将棋をしない女性が多いようにです。私は「車の運転」「カラオケ」「スノボー」「麻雀」「水泳」「地質学研究」「韓国旅行」「買春」「ジョギング」「同性愛」「オペラ鑑賞」「競輪」のどれもしませんが、忌避感情ゆえに避けているわけではない。面倒だから、他にやりたいことがあるから。それだけ。多少の金をもらったとしてもオペラを見に行きたいとは思いませんね。売買春しない人々の理由も、面倒だから、趣味が合わないから、でしょう。法律で防止されている違法行為とあればなおさらです。違法だというだけで退学になったり職場で処分されたりする危険を冒してまでやる人が少数に絞られるのは当然です。
 つまるところ、オコジョさんの言われる「忌避感情」は、「趣味+順法精神」でしょう。売防法さえ無くせば、売買春に対する「忌避感情」という誤解など一切なくなるはずだ。そういうきわめて単純な考えを私は持っております。
 忌避感情は「自然な感情」だから、正当なのだ、と真面目に言う愉快な人もいるようです。百歩譲って売買春に「進化論的に育まれた自然な忌避感情」が付着しているとしても、その「自然さ」は、原始時代~前近代ならぬ現代文明の規範とは関係ありませんね。環境が変われば適応行動も変化するはずだからです。社会生物学的にいえば、強姦は男の自然な衝動であり(昆虫にすら♂の強制交尾が見られる)、処女性の尊重は父性の繁殖上の自然な衝動、一夫多妻は母性の繁殖上の自然な衝動です。しかしそうした自然を守らねばならない文化的理由などありません。
 逆に、売春は貨幣経済以後の現象だから人間の「自然」とは関係ない、だからやめられるはずだなどという論説もあって大爆笑です。これも進化生物学の「外適応」が理解されていれば出てこない理屈で、言語文明以降の産物である通訳やピアノや将棋と同様、売買春に惹かれる素質や適性というものは確かにあるのです。
 結局、売買春の素質および忌避感情が「自然」だろうが「不自然」だろうが、売買春への文化的評価は導き出せない。オコジョさんは「売買春は悪とはいえない」とお考えのようですから、おそらく合法化も容認するでしょう(同性愛やスカトロプレイが合法であるのと同じく)。ならば、「趣味+順法精神」で済むところをあえて「忌避感情」と、自明でないその概念を強調される動機は何なのか、お聞かせいただければと思います。無用に差別的な(もし売春が合法だったら明らかに非倫理的な)「忌避感情」など、相当のメリットがなければ強調する意味がないと思うのですが……。(たとえば「趣味」で済むスカトロへの「忌避感情」を発掘強調しても意味ありませんよね?)
 なお、児童買春禁止法は、売春というより自己責任能力の熟さない子どもの性を煽る大人への規制にすぎませんよね。だから性交類似行為まで罰則の対象になってます。
 ●∃x∃y(Pxy∧~◇Lxy)の論証は、単にハムスター氏の論証へのパロディとして書いたので……。
 (疑問)としたところは、私自身、偽だと思っている部分です。
 なお、「死んだ人間が何かを愛する」ことは可能だと私は思います。「愛する」は、具体的な心の動きを必要としませんから。(『論理パラドクス』055~057御参照)

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えっと 投稿者:syosinsya  投稿日: 3月 1日(月)02時38分51秒

一見
愛するならば→死が生じ得る
とつながることから「義務を負うが、義務を負わない」という結果に矛盾が生じ、ゆえに前提が間違い
みたいになっていますが、

しかし、「死んだ人間まで全ての者に含める」とするのならば、
前提から死が生じなくても
「全ての人は死ぬ」(経験的?規約的?) ゆえに
ともっていけるでしょうから、

死んだ人間にできないこと(できないことは義務ではない)、ゆえに死んだ人間にとって義務の負えない類いのこと
ならば、なんでも、この反証法は使えるのでは?

つまり、そのことによって死が生じ得るという手順とは関係なく

死んだ人間には負えない(類いの)義務について
死んだ人間まで「全ての者は」の対象に含める時点で、矛盾は見えているわけで・・

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(無題) 投稿者:syosinsya  投稿日: 3月 1日(月)01時37分21秒

> 犠牲を厭わない者は犠牲を強いられる。 ←経験的事実
> 犠牲の中には死も含まれる。 ←経験的事実
> 死を強いられた者は死んだ者である。 ←経験的事実

この流れは・・いいと思うのですが・・
自分としては

> 愛する者は犠牲を厭わない。 ←規約的定義(疑問)

ここかな。
犠牲の中の一種である死までも甘んじて受け入れる「犠牲を厭わない」
が、「愛する」に必須なのか否か・・
愛するけれど、犠牲は厭う、
或いは全ての犠牲を厭わないわけではない(厭う場合もある)、けれど愛してはいますよ
というのは、無いのか・・
という

それとは別に・・

> 「汝の敵を愛せ」 

> すべての親は子を愛さなければならない。

の「全ての人間」には「死んだ者」まで含まれてるんでしょうか ^^
それを言うと面白くなくなる?

たまに来て何か言ってすみません

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いじめと買売春 3 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 1日(月)01時19分20秒

 たとえば、赤の他人がスカトロするのは構わないが、自分の彼氏には絶対やってほしくない、とか。キスする前に歯を磨いてリステリンで口をすすいでくれればそれでいい、とか。まったく気にならないという人も或いはいるかもしれません。しかし、自分はやらない、自分がやるのはイヤだと言っているのですから、忌避感情がある可能性の方が高いのではないでしょうか。
 そこで、なぜイヤなのか、なぜ彼氏にやってほしくないのか、等々の問いがあり得ます。この辺を全部捨象してしまおうというのは、ためにする議論としか思えません。

 上の「お粗末な売春否定派」の話では、こんなのも聞きます。売春を肯定する人に対して、「お前の娘(配偶者・親・姉妹等々)が売春してもいいというのか」と問いかける、「アホな売春否定派」がいるという話です。「私は自分では買売春はイヤだが、他人の買売春する権利を否定しない」という主張が何ら矛盾ではないという、耳タコの議論です。
 私が言いたいのは、権利の話はあとでしましょう、なぜ「イヤ」なのか、それを考えてみませんか、ということなのです。禁じる・禁じないの話ではなく、忌避感情があるかどうかを問題にしているのです。

 φさんのおっしゃる、個人レベルでは忌避感情などない、というのはあまりにも現実離れした認識です。
 引き続き女子大生にからめて言うなら、あなたの彼氏が風俗店に足繁く通っても全く平気かと聞きたいところです。
 たとえば、φさんが昨日の晩買春をしたとしましょう。それを何のためらいもなく――うまいラーメン店を見つけたよ、というような感じで――同僚に話せるでしょうか。女性も複数同席しているような場で、平気で話題にすることが出来るでしょうか。
 売春する側にしてもそうです。自分が売春をしていることを、何のためらいもなく周辺の人たちに話せるでしょうか。世の中バカなのよ、というわけで、買売春に対して偏見を持っている人間ばかりなので、自分では何とも思っていないけど、面倒を省きたいから、わざわざ話したりしない、というわけですか。でも、φさんの説によると、ほとんどの人が忌避感情を持っていない筈です。
 買売春が「悪」かどうかは、とりあえず何とも言えない。いわゆる他者危害の原則に抵触するようにも見えない。しかし、買売春に「後ろめたい」ものがつきまとうのは事実です。これを無視してしまったら、意味のある議論はできないと思います。

 私がなぜこういうことにこだわるかというと、買売春肯定派の人たちの言い分が収斂するところが、結局「買売春を否定するやつはバカだ」くらいのところだからです。自分の知的優越を確認して終わりです。児童買春禁止法などが制定されて、主張とは逆の方向に世の中が動いていることをどう思っているのか。八百屋さんやパン屋さんなどと同じように、社会的に認知された形で売春業を営めると本当に思っているのか。売春をどのような形で合法化するのか、具体的な提案も出ていません。肯定論は、机上の空論としか思えないのです。
 私は買売春を禁止すべきだとは言っていません。買売春の肯定論が、いい加減で無責任な議論に思えるということを申し上げたまでです。

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いじめと買売春 2 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 1日(月)01時18分41秒

>> さて、★売春★は、売春防止法に「(売春の禁止)第三条 何人も、売春を
>>し、又はその相手方となつてはならない。」とありますから、違法行為だと私
>>は理解してましたが。

 特別にひねった解釈をしたとは思いませんが。
 売春“防止”法の条文にいきなり「禁止」が出ていて、他の条文との間に全然有機的な連関が見いだせないのです。ただのかけ声だとしか受け取れないでしょう。
 また、他の法律との関係で言えば、いわゆる「児童買春禁止法」では、買春が処罰の対象になっていますが、売春への処罰規定はどこにも見当りません。実行しても全く罰せられるおそれがない行為を違法と看做すのは、どうもしっくりきません。
 売春そのものを違法にすることが困難であったからこそ、外堀から埋めていくような法律(防止法)をつくったのではないでしょうか。
 まあ、違法だということでもけっこうです。どこまでもこだわるつもりはありません。ただ私が言いたいのは、忌避感情があるのは事実で、それが違法性のためではないということです。

>> また、「多くの人が買売春のどちらにも忌避感情を持っているというのが現
>>実」というのは、経験的事実に反するのではないでしょうか。売買春は、社会
>>レベルでは「いけない」ことになっているが、個人レベルで「倫理的に悪」な
>>どと感じている人はほとんどいないのが現状でしょう。

 ずいぶん非論理的な文章をお書きになりますね。
 Aという事実はない、と否定しておいて、その根拠として、Bと感じている人はほとんどいないとおっしゃっています。これでは話がつながりません。
 私は、多くの人が買売春を「倫理的に悪」と捉えているなどとは主張していません。忌避感情は別に「倫理的」判断を必要としないのです。たとえば、糞便に対する忌避感情は多くの人が共有するものですが、誰もウンコが悪だとは考えていません。
 女子大生の言葉を、スカトロジストへの評価だと解釈してみると分かりやすいでしょうか。「ウンコを食べる人がいるけど、どう思う?」と聞かれて「いいんじゃない、そういう人がいても。私はやらないけど」と答えます。この“私はやらないけど”が忌避感情を含意していることは充分考えられるのです。

>> なお、「売買春は肯定する。私はやらないが」という態度は、「喫煙を肯定
>>する、私は吸いたくもないが」「女子大は肯定する、私は共学志望だが」とい
>>うのと同じく、全く矛盾ではないのですが、そこを勘違いしているお粗末な売
>>春否定派がいて困ったものです。

 こういう議論は耳にタコができるほど聞きました。あまりにもアリキタリでつまりません。得意げに言うような話ではないと思います。
 「売買春は肯定する。私はやらないが」という発言は、買売春を論じる文脈で出てくる言葉なのですから、なぜ「私はやらないのか」をまったく不問に付すのは不可解な思考停止です。発言の当否をどうこういう以前に、なぜ自分がやらないのかを問わない人に、問題の本質を追究することなんか出来るのだろうかという疑問が出てくるのです。
 上のスカトロジストの話に戻りますと、別に忌避感情が必ずあるだろうということではありません。当然あり得る可能性として、ゼロを含めたいろんなレベルの忌避感情が考えられるだろうと言っているわけです。

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いじめと買売春 投稿者:オコジョ  投稿日: 3月 1日(月)01時17分19秒

 φさん、こんにちは。
 すぐに続きをアップする予定だったのですが、バタバタしていて遅くなってしまいました。ともかく、先に進みます。

>> ★いじめ★は、明らかな暴行や恐喝のようなものからルールを守らぬ者への
>>懲罰的なものまで、いろいろバリエーションがあるので一概に言えませんが、
>>私個人としては、「いじめ」が悪かどうか確信がないし、いじめが許されると
>>社会が崩壊するとも思いません。

 殺人を問題にしたときに、φさんは

>>ここでは、紛れもなく悪だと感じられる事例をもってきてその殺人が
>>許されないことを証明すれば十分です。
>>境界事例や言葉の曖昧さの問題は、すべての議論にあてはまり、殺人
>>に特有の問題ではないので、脇に置くべきです

とおっしゃっていました。なぜ「いじめ」の話になると、「バリエーション」を顧慮しなけれはならないのでしょうか。

>>いじめは被害者が逆襲に出て、加害者との均衡点を見出す余地
>>がありますからね。寝込みを襲われたり大量殺人などのありうる殺人とはちょ
>>っと事情が違う。

 どうも理解できません。いじめと違って殺人の場合は被害者がおとなしく殺されてくれるとおっしゃるのでしょうか。
 これは逆ですね。相手を殺そうかという状況では、逆に自分が殺されてしまうことも充分あり得る。殺人が禁じられていないと無秩序で際限のない殺し合いが必然的になるのでしょうか。ずいぶんと不自然な想定に思えます。
 また、大量殺人なんてのはこれまでいくらでもありましたが、人類は存続しています。いじめ同様、殺人にも社会を崩壊させるだけの力はないようです。だとしたら、なぜいじめと殺人の扱いに差をつけるのかということになります。

>>「いじめは悪だ」という道徳がある必要すら
>>ないでしょう(例えばいじめの一種とも言えるセクハラやアルハラはつい最近
>>になるまで「いけない」という道徳は存在せず、にもかかわらず社会倫理は成
>>立していた)。

 これも不可解な主張です。
 普通選挙がなかった時も社会は成立していた。だから社会が成立するために必ずしも普通選挙は不可欠ではない。これは分かります。しかし、これを根拠にして普通選挙が不必要だと主張するのは論理の飛躍です。ごく初歩的な錯誤だと思いますが――。

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そうですね 投稿者:ハムスター  投稿日: 3月 1日(月)00時30分21秒

愛さなくてよいならば憎まなければならない、とはいえませんね。
φさまの推論を参考に直してみます。

(;^^)/「汝の敵を愛せ」ないことの証明 V2.0\(^^;)

すべての人は敵を愛さなければならない。 ←仮定

敵とは私を殺す者である。 ←経験的事実
愛する者は戦わない。 ←規約的定義
敵と戦わない者は殺される。 ←経験的事実
殺された者は死んだ者である。 ←規約的定義
死んだ者は愛することができない。 ←規約的定義

補助仮定 できないことは義務にはならない。 ←規約的定義
帰結:すべての人は敵を愛さなければならず、ある人(私)は敵を愛することができない。 ←矛盾

ゆえに、仮定は誤りである。
つまり、ある人は敵を愛さなくてよい。

汝の敵を愛すことはできますが、愛す必要はない、ということですね。

φさまの推論は、↓ここがチョット強引ですよね。
・犠牲の中には死も含まれる。 ←経験的事実
・死を強いられた者は死んだ者である。 ←経験的事実

犠牲を強いたからといって、死を強いることにはなりませんよね。

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∃x∃y(Pxy∧~◇Lxy) 投稿者:φ  投稿日: 2月29日(日)21時05分36秒

A.仮定の否定は「ある人は敵を憎まなければならない」ではない。
B.帰結:私は敵を愛さなければならず、敵を愛することができない。 は矛盾ではない。

 以上2点を踏まえた上で、

すべての親は子を愛さなければならない。 ←仮定

子とは親に犠牲を強いる者である。 ←経験的事実
愛する者は犠牲を厭わない。 ←規約的定義(疑問)
犠牲を厭わない者は犠牲を強いられる。 ←経験的事実
犠牲の中には死も含まれる。 ←経験的事実
死を強いられた者は死んだ者である。 ←経験的事実
死んだ者は愛することができない。 ←規約的定義(疑問)
ある親は子を愛することができない。 ←上6行の帰結

補助仮定 できないことは義務にはならない。 ←規約的定義(疑問)
帰結:すべての親は子を愛さなければならず、ある親は子を愛することができない。 ←矛盾

ゆえに、仮定は誤りである。
つまり、ある親は子を愛さなくてよい。

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>∀x∀y◇(Lxy∧Kxy) 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月29日(日)15時46分43秒

って、何か倒錯の世界、の論理のような気が・・・。

こんなことを考えてみました。

y(^^)/「汝の敵を愛せ」ないことの証明\(^^)y

すべての人は敵を愛さなければならない。 ←仮定

敵とは私を殺す者である。 ←経験的事実
愛する者は戦わない。 ←経験的事実
敵と戦わない者は殺される。 ←経験的事実
殺された者は死んだ者である。 ←経験的事実
死んだ者は愛することができない。 ←経験的事実

帰結:私は敵を愛さなければならず、敵を愛することができない。 ←矛盾

ゆえに、仮定は誤りである。
つまり、ある人は敵を憎まなければならない。

敵を愛して殺して差し上げるのは結構なのですが、やはり、敵は憎むもののようです。

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∀x∀y◇(Lxy∧Kxy)  投稿者:φ  投稿日: 2月29日(日)05時18分40秒

愛しながら逆襲する、愛しながら殺す、というのも矛盾ではないと思うのですが。
キリスト教徒は少なくともそれをやっている(聖書に忠実だとして(愛しているとして))。
人類史上、進化論(自然選択)がトップでユークリッド幾何学(公理主義)が2位でニュートン力学(普遍法則)が3位で電磁気学(統一理論)が4位だとして(英国発祥が3/4か。英語が世界制覇したのは軍事力のせいだけでは断じてないな)、「汝の敵を愛せ」や「輪廻転生」といった宗教系はいったい何位に初めて登場するんでしょ。

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>∀x□(~Px⊃~Pm) 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月29日(日)00時32分3秒

そういう法や倫理をもつ社会を破壊しようとする者からは守らなければならない、ということだと思います。
そのときに殺人が許容されるわけです。

ある法や倫理自体を守るためには、その法や倫理自体を破らなければならない、というより別の一種のメタ法が必要なのでしょう。
これが戦争の原因でしょうね。
と、ここまで書いてきてある言葉が思い浮かびました。
「汝の敵を愛せ」です。
この言葉を発する者を殺そうとする敵も愛すのでしょうか?
2000年も続いてきた思想には重みがありますね。

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>犯罪抑止力と誤審 投稿者:φ  投稿日: 2月28日(土)15時58分30秒

 p.46の論証そのものは妥当です。前提が正しい(真である)かどうかと、論証が正しい(妥当である)かどうかは全然別のことです。
 前提2を含め、この論証の前提が偽であるがゆえに、偽なる結論が導き出されている、というのがp.240に掲げた解答です。オコジョさんの言われることと対立しません。
 しかし、もしオコジョさんの改訂に従って、前提2を「死刑に犯罪抑止力がなければ、死刑は正義でない」に変えると、それでもなお前提2が(そして前提1,3が)偽であるうえに、論証も妥当でなくなってしまいますから、問題として精彩を欠いてしまいます。「偽なる結論が出てきてしまった理由」が一つに絞られるからこそ、問題としてポイントが明確になります。
 死刑廃止論については、『論理パラドクス』090として立項しておきましたが、そこに参考文献として掲げたJ.S.ミルの死刑廃止反対論は、140年も前にイギリスではこれほどの議論がなされていたのかと驚くような鮮やかな議論です。
 死刑は唐突な殺人ではなく公表された契約なのだから、非倫理的であろうはずがないと私も思います。事前契約であるかぎり、拷問つきの死刑だって私は正しいと思います。誤審の可能性についてはミルも考察していますが、無実である可能性が事実上ゼロの事例は、つい最近下った死刑判決も含めたくさんありますから、その種の事例に限定適用という現状どおりで十分でしょう。

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犯罪抑止力と誤審 投稿者:オコジョ  投稿日: 2月28日(土)01時41分9秒

 ところで、『論理学入門』の46ページ「演習問題8」について疑問があります。
 例の「直感」からすると、この結論はかなり奇妙です。誤審を防止するためには、制度的な改革や、自白の証拠能力の厳密な判定など、様々なことが考えられます。しかし、「死刑を怖れる者がいる」かどうかは如何にも関係なさそうに思えます(因果関係を述べた文でないことは、いちおう理解しておりますが)。
 φさんは、前提が「実情には完全には合致していない」と書いていますが、それは違うでしょう。前提が論理的な把握を間違えているために、奇妙な結論が出てしまった。論証は妥当でない、としなければならないと思います。
 前提2と前提3は、死刑が正義であるための条件にかかわるもので、同等に扱わなければならない筈ですから、形式も互いを踏襲する必要があります。
 前提2は、本来こう書かないと論理的にもおかしいです。「死刑に犯罪抑止力がなければ、死刑は正義でない」これで、前提3と同じ形になります。(論理の話として申し上げていることをお断りしておきます。考え方によっては、抑止力があろうと正義にはなりませんし、抑止力がなくても正義でありえます)
 これは「-Q→-R」となり、ここから「R→Q」は出てきますが、「Q→R」は帰結しません。当然、結論の「P→S」も出てこないわけです。
 これは、「直感」的にも当たり前の話でしょう。火あぶりにしようが鋸引きの刑にしようが、犯罪抑止力さえあれば正義だと言ってるのですから。おかしいに決まってます。誤審があろうとあるまいと、犯罪抑止力さえあれば正義なのだと最初に決めてしまったわけですから、それにつじつまを合わせるためには誤審などなかったことにするしかない(こういう発想って、いかにも官憲の発想そのものでイヤですね)。そういう構造の「論証」です。妥当なわけがないと私は思います。
 これは前提が真であればどうこうという問題ではなく、必要条件と十分条件を取り違えた、論理的に間違った「論証」だとしなければならないのではないでしょうか。
 さらに、続きます。

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殺人を許容する社会 投稿者:オコジョ  投稿日: 2月28日(土)01時40分29秒

 φさん、こんにちは。いろいろ教えてくださり、ありがとうございます。

 殺人を許容する社会はあり得ない、という命題に絶対の自信をお持ちのようですが、なんだかとても奇妙な感じがします。
 「論理的必然」だとお考えなのかもしれませんが、その判断が正しいかどうかは「論理的必然」にはなりません。ひとまずは、一つの仮説とみなしておくのが妥当なところではないでしょうか。仮説が正しいかどうかは、現実と照し合わせて検証するものですね。φさんとハムスターさんとのやりとりを読むと、何か指摘されるたびに、それは例外だ、それは本質的ではない、と否定されてゆく、そんなのばかりだという印象があります。現実を説明しきれない仮説では困ります。

 φさんの議論からは、現実の社会が思い浮かんできません。殺人ということから私が連想するのは、たとえばモンゴルの侵攻です。住民が一人残らず殺されて、一つの都市が消滅してしまうというような事態。モンゴルでも、殺人は許容されていなかったのでしょうか。(戦争での殺人を「緊急避難」で説明するのは、かなり無理です。モンゴル軍は、降伏した市民を虐殺したのですし、イラクでのアメリカ人パイロットは限り無く安全なところから、殺人を遂行していました)
 聖バーソロミューの虐殺というのがありました。一晩で一万人くらいの人が死んだそうですね。この知らせを聞いた当時のローマ法王は、祝砲を放って祝い、虐殺の様子を絵に描かせたといいます。ここでも、殺人は許容されていなかったのでしょうか。
 こんな面もあります。たとえば、姦通した配偶者を相手方ともども殺してしまうというようなことは実際に許容されていました。リンチという殺人も許容されていました。それでも、あらゆる社会で殺人が許容されていなかったことになるのでしょうか。

 殺人を許容する社会、というのはどんなイメージなのか。殺人があっても、何の対応もせず、市民は何の抵抗もしないで唯々諾々と殺されてゆく、こんな風でしょうか。これは、想定に無理があります。
 自分が殺されるのは許容しない、しかし、機会があれば他人は殺すかもしれない――こんな原理が浸透していれば、社会は成立します。私は、そうした社会を殺人を許容しない社会とは思いません。
 そんな原理を主張するのは論理的に矛盾していると言われるでしょうか。別に主張する必要はなくて、ただ黙々とそれに従っていくだけですから、矛盾もくそもありません。私の話ではなく、カトリーヌさんもグレゴリウスさんもみんなそうしてきたようなんです。

 φさんの使用される「社会」という言葉にも疑問があります。ヤクザの社会という概念は、決して比喩的なものではなく、それも一つの社会と看做すべきだと私は思います。どこまでも均等に広がるような、均質の社会を想定する方に無理があります。たとえば、日本という国家単位で大雑把に一つの社会を想定できるとして、その外に別の次元で国際社会があると考えるのはごく自然な発想です。国際社会では――対応した警察力もなく――殺人を否定する規範が完全には受け入れられていない。だから、ブッシュに殺人が可能だった、そんな風に考えることができます。

 内と外というのは相対的なものですから、こちらから見るとみな同じに思えるヤクザ社会の中にも内と外がある。この境界で殺しあいがあったりするわけですね。これは人ごとではなくて、家族の内外という捉え方もあります。日本の青年がハロウィーンの晩に「フリーズ」なんて言われて殺されたのもこの境界上のことでした。
 宅間守といいましたっけ、あの池田小の殺人犯。遺族に謝罪しないのはけしからんというような話を聞きます。あの男の言い分は、「殺したからには死刑でいいと言っている。それで帳尻は合ってるだろう」ということみたいです。こうした考え方は、「死刑になるのはイヤだから、殺さない」と思う一般市民と全然隔絶したものではありません。この社会に「殺すなかれ」という「倫理」が本当に成立しているのかどうかも、実はあやしいのではないでしょうか。

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∀x□(~Px⊃~Pm) 投稿者:φ  投稿日: 2月27日(金)23時16分36秒

具体例がない以上、殺人許容社会はない→許容すれば社会にあらず でしょう。まあ、殺人禁止はあまりに自明なので議論の対象にもなっていませんけれどね。大小いかなる犯罪xについても、「xは禁止かつ殺人は許容」は矛盾に陥ることが証明できると思われます(違法行為xが人を死なせる結果を生むほど極端化されるならば合法、というのは不合理ですからね)。つまり任意の極端化(エントロピー最大化)の帰結である「殺人」は、法や倫理が少しでも存在する限りは(少なくとも一つの事柄が禁止される限りは)、その一つと連動して禁じられることが必然だということになります。
 クスリやウリやイジメにはそういう論理構造はありません。許容しても全く無矛盾でしょう。現に許容社会が実例豊富。

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殺人許容はコロシの許容 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月27日(金)12時52分33秒

私の中では、だんだんと問題が明確になってきたように感じます。
殺人の許容とは、殺すことの許容であって、殺されることの許容ではない、ということです。
ですので、傷害許容も傷害することの許容であって、傷害されることの許容ではない、と思います。

確かに、殺されることを許容する社会はありえませんよね。
しかし、殺すことを許容する社会は古い社会では存在していた、ということではないでしょうか。

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許容なら備えるはずなし 投稿者:φ  投稿日: 2月27日(金)01時46分5秒

 そりゃムリ。「備える」「市民を守る」ということ自体「コロシは許さん」決意を表明しているわけで、さらに管理社会ヘ移行してしまっては殺人許容の設定になってない。殺人許容のまま安定することが証明されねばなりません。
 殺人許容とは傷害許容ということで(傷害を伴わない殺人はありえないから)、日常の大小さまざまな傷害・暴行もお咎めなし(おカミからのだけでなくシモジモどうしの間でも)とならねばならず、そりゃ社会生活が成り立つはずありません。乱世で統一政府なしの状態でも(でこそ)、シモジモの道徳は「コロシ・傷害には備えるべし、許すまじ」でしかありえないですよ。

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ところが 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月26日(木)16時55分52秒

歴史が示すように殺人許容社会では、個人が武器で武装することになります。
日本の場合は刀で武装し、その訓練をし、山賊海賊等のあらゆる殺人狂にそなえるわけです。
ですから、殺人狂もおいそれとは目的を達成できないことになります。
また、市民を守ることによって市民から税を取り武装集団の管理社会が出現します。

殺人許容社会ゆえに武器が必要になり、武装集団が生まれ、その管理社会が成立し、殺人禁止の近代国家につながっていく、ということではないでしょうか。

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見くびりすぎ? 投稿者:φ  投稿日: 2月25日(水)22時11分10秒

それは人間の多様性を見くびりすぎでしょう。http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/murder.htmの「公理1」のごとく、無差別大量殺人したくてたまらないやつが1人でもいれば(1人どころか世界中には何万という単位で居るはずですが)、もう殺人頻発です。ゾンビ映画を見るか観ないかは他人に迷惑を及ぼしませんが、殺人は違いますからね。たしかに全員がゾンビ映画を観てばかりいたら社会は崩壊しますが、「全員がやったら」という条件なら、「コンビニで働く」「司法試験合格を目指す」「2005年元旦に眠っている」等々、何だって社会は崩壊します。全員と1人の違いは大きい。1人でもするやつが居ると社会は麻痺する、という点で、殺人許容はレベルが違います。(かりに警察がなくて市民の自己防衛だけに頼るとしたら、たぶん、1人で万単位に人間を殺すことができるでしょうね。市民どうしも互いに信用できないのだから集団防衛もありえない。実際には殺人願望はほとんどいなくても、怖がり屋は多いから、妄想的自己防衛で先制攻撃するやつが必ず居て連鎖反応殺人になってしまう)

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許容と実行 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月25日(水)18時48分41秒

殺人を許容する社会では、必ず殺人が頻発するのでしょうか?
どうもそうは考えられないのです。

我々は普通は許容されていても必要のないことはしません。
例えば、私はいつでもゾンビ映画を観ることができるし許されてもいますが、私はゾンビ映画は観ません。
その欲求がないからです。
つまり、殺人が許容されていても、そうする必要がなければ人は殺人を行わないのではないか?と思うのです。

サルの社会でもボスの地位を追われた年老いたサルが、仲間達に結果として殺されてしまった映像を見たことがあります。
サルは殺人を許容しているが、普段は実行しないだけなのではないか、と思います。

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反例なし 投稿者:φ  投稿日: 2月25日(水)02時31分44秒

 ヤクザだろうが戦場だろうが、「人を殺してはならない」の反例にはなりえてません。いずれも、外側に「人を殺してはならない」社会があることが前提で、その社会に寄生したり、それの実現や復興を目指して搾取的もしくは緊急避難的な殺人をしているに過ぎないわけですから。
 サルの社会ですらコロシが排除されるのを見れば、進化論的に、コロス個体は繁殖のチャンスに恵まれず(仲間から排除されるから)、コロシを容認する社会などというものは進化不能だということが帰結します。そもそも社会を作る遺伝的適性を持った個体が繁殖して社会を作るのですからね。ダーウィン自然選択説は、ニュートン力学も相対性理論も量子論も遥かに及ばない人類科学思想史上最大の必然的真理ですが、適応進化の社会生物学的説明によっても「殺すベからず」に逆らうすべはないことが証明できると思われます。

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非禁止は許容 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月24日(火)09時46分47秒

禁止されていないことをもって、許容されている、と判断してもいいのではないですか?

ヤクザの世界ではおそらくコロシよりも強い禁止事項があるのだと思います。
ヤクザとしての一家の名を守るとか、義理(ヤクザ映画の見すぎ?)とか・・。
そういうヤクザの掟を破ったり、他の一家との抗争などのときはコロシは許容されるのだと思います。

こういうヤクザの世界って、日本の戦国時代に似ていると思われませんか?
戦のときは敵を殺すことは禁止どころか奨励されますよね。

殺人を許容する世界は、法治国家以前の世界ではむしろ普通の世界であったように思うのですが・・。

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>では 投稿者:φ  投稿日: 2月24日(火)04時27分55秒

 正当な理由なしに人を殺すことを許容している親分がいるとは到底思えませんけどね。
 3年ほど前、歌舞伎町のエステで足裏をやってもらってるとき、部屋が満杯だとかで珍しく控え室でマッサージしてもらっているらしい客がいて、声が聞こえてきて、どうもそのあたりのヤクザの親分らしい。料金を払うときに見たら、代紋Take2の石田の兄貴そっくりの一目それ風のおっさんがソファにもたれて中国人2人掛かりのマッサージ受けながら上機嫌で話してました。「なに満員だと? じゃかァしァ1人のけてワシを入れろ」なんて無茶言わないですよね、ヤクザは。殺していい場合のルールも少なくとも軍隊よりは合理的に定められているんじゃないでしょうか。
 また、かりに無法の暗黒社会があるとしても、外側の法治社会に寄生しているからこそ無法社会が例外的に揺らぎの泡のように存在できるので、無法社会のボスに「殺人が合法化されてよいか」と聞いたら、間違いなく「それは困る」と言うでしょうね。

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では 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月24日(火)00時40分41秒

ヤクザの世界はどうでしょうか?
明らかにコロシが許容されているように見えます。
少なくとも禁止されていませんよね?

討ち入り(古い?)とか、コンクリ詰めとか、鉄砲玉(行ったきり帰らない)とかとか・・。
ヤクザの抗争はよくニュースになります。
このヤクザの世界は古い日本の世界のような気がします。

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経験的判断 投稿者:φ  投稿日: 2月24日(火)00時01分24秒

 江戸時代以前? 「切捨御免」とはいうけれど実際に武士が庶民を斬った場合は相当の条件を満たしてないと検挙されたそうですし。戦国時代? 臣下どうしで殺しがあれば直ちに処分が下されたはずです。「相応の理由」を一々求められる点で、「許されている」とは到底言えない。理由を問わず★殺人★が許容されている社会は、まあありえまい。後ろから刺されても、寝てる所を放火されても相手に非がないとされるのですから。社会どころじゃありませんね。
 ★売春★の場合は、「相応の理由」など必要ないでしょう。やりたいやつはやる、やりたくないやつはやらない、他人の趣味には口を出さない、それで誰にも迷惑がかからずに済むわけで、殺人と違って誰かが意に反した何かを強制されることにはなりませんから。
 ★いじめ★はその中間でしょうね。いじめられた側が味方をつけていじめかえせる環境が整っていれば、いじめの応酬にやり甲斐を感じる連中だけでやりあっているでしょうからね。

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経験的事実 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月23日(月)22時01分13秒

殺人を許容している社会がない?

皆さんお忘れのようです。
ナチスのホロコーストによってヨーロッパではユダヤ社会が成立しなくなりましたが、これなどは我々の貴重な経験的事実だと思います。
この事実は殺人を義務とすれば社会が成立しないことを意味すると思います。

問題は殺人の許容でしょうか。
殺人を許容する社会は、我々の江戸時代以前がそうですね。
これは社会が成立しないとはいえませんね。

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さまざまな経験的事実 投稿者:φ  投稿日: 2月23日(月)17時11分55秒

 現実世界でアメリカ大統領は自由に★殺人★を実行しているとはいっても、「殺人はいけない」という倫理の枠組みがあるからこそ、正当化や弁明が要求され、引責にも響き、秩序が保たれているのでしょう。また、経験的事実についてですが、殺人を許容している社会がない(サルの群れですら不当に仲間を傷つけた者は追放や懲罰を受けている)、しかも殺人許容の状態で社会が成り立つことが思考実験の中でも想定できない、ということで十分でしょう。経験的事実である「Aは社会である⊃Aは殺人を許さない」の対偶をとれば、「Aは殺人を許す⊃Aは社会ではない」となって、「Aは社会ではない⊃Aに「許す」という概念はない」ゆえに、仮言三段論法により「Aは殺人を許す⊃Aに「許す」という概念はない」となって、矛盾するのです。
 ★いじめ★は、明らかな暴行や恐喝のようなものからルールを守らぬ者への懲罰的なものまで、いろいろバリエーションがあるので一概に言えませんが、私個人としては、「いじめ」が悪かどうか確信がないし、いじめが許されると社会が崩壊するとも思いません。「いじめは悪だ」という道徳がある必要すらないでしょう(例えばいじめの一種とも言えるセクハラやアルハラはつい最近になるまで「いけない」という道徳は存在せず、にもかかわらず社会倫理は成立していた)。いじめは被害者が逆襲に出て、加害者との均衡点を見出す余地がありますからね。寝込みを襲われたり大量殺人などのありうる殺人とはちょっと事情が違う。
 さて、★売春★は、売春防止法に「(売春の禁止)第三条 何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない。」とありますから、違法行為だと私は理解してましたが。ただし罰則がないという変テコな扱いです。罰則はないが、違法行為ゆえ、社会的保護は受けられませんね。客に料金を踏み倒されたデリヘル嬢が裁判に訴えようとしても門前払いです。ヤクザのお世話になるしかない。
 また、「多くの人が買売春のどちらにも忌避感情を持っているというのが現実」というのは、経験的事実に反するのではないでしょうか。売買春は、社会レベルでは「いけない」ことになっているが、個人レベルで「倫理的に悪」などと感じている人はほとんどいないのが現状でしょう。聴き取り調査をすればわかることですが。少なくとも中高生のアンケートでは肯定的結果が出ていますが、私などが女子大生に聞くかぎりでもたいていは「べつにいいんじゃないですか、私はやらないけど」という反応です。「私はやらない」という部分は、売買春は天皇制のネガみたいなものですね。個人的には皇室を尊敬してる人など少数派であるにもかかわらず、社会的には「皇室を敬うのが国民の総意」てことになっていてマスコミはみんなその線。
 なお、「売買春は肯定する。私はやらないが」という態度は、「喫煙を肯定する、私は吸いたくもないが」「女子大は肯定する、私は共学志望だが」というのと同じく、全く矛盾ではないのですが、そこを勘違いしているお粗末な売春否定派がいて困ったものです。そのあたり、『論理学がわかる事典』の何箇所かに書きました。

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その2 投稿者:オコジョ  投稿日: 2月23日(月)04時34分37秒

 いや、力が正義であるところに倫理はない、と言われるでしょうか。だとしたら、逆にお聞きしたいのです。現代のこの地球は、倫理が成立している場所なのかどうか、と。
 さきほど、この問題が論じるに値するとは思えないと書いたのは、一つはこのことです。「人を殺してはいけない」理由をいくらスマートに証明できたとしても、現実には殺人が常態であるような事態があります。アメリカの大統領は、何万人の規模で人を殺しているのに、何の咎めも受けていません。戦争と殺人とは違うとおっしゃるでしょうか。よちよち歩きの幼児と大人が「戦争」することなどできるのでしょうか。一方的な大量虐殺は殺人以外のなにものでもないと思います。殺人は偶発的な付随事にすぎないといわれるでしょうか。しかし、法的な次元で考えても、未必の故意があったと断定されるのは確実です。
 先に進みます。なぜ殺してはいけないかを論じることの意味についてです。いろいろイチャモンをつけていますが、仮に妥当な証明に成功して「人は人を殺してはいけない」という命題が確立できたとします。それは、何のための確立なのか、です。
 額に入れて飾っておくものが一つ増えて万々歳という話ではありませんね。要するに、個々のケースに適用するための「前提」の一つが確立できてメデタイというようなことなのではないでしょうか。「人は人を殺してはいけない・君は人である・ゆえに君は人を殺してはいけない」――こんな三段論法を使えるようにしたいということなのではないか。
 「殺してはいけない」というのは「殺すべきではない」という意味で、これは当為の話なんですね。当為から当為を導き出すのは可能でしょうから、「殺すべきではない」から「君は殺すべきではない」は帰結できます。しかし、ヒュームとは逆の話になりますが、当為から事実は導き出せません。だから「君は殺すべきではない」と「君は殺さない」との間には無限の距離があります。倫理の本当の問題というのは、この距離にこそあるのではないか、そんな気が私にはします。
 訳の分からないことをほざいていると思われるでしょうか。
 φさんのおっしゃるような倫理の理解というのは、はたして有効なのかということを申し上げたいのです。カント的な倫理と言ったらいいんでしょうか。どう行動すべきか問うときに、つねに万人に当てはまるような解答を出さなければいけないという要請は、有効なのかどうかです。
 殺人を論じることの意義に疑問があると書きました。「なぜ殺してはいけないのか」という問いが切実なものだとは感じられないからだというのが、もう一つの理由です。この質問は文字通りのものではなくて、一つのアナロジーとして提出されたのではないかという気が私にはします。それなら、実際の問題を直接論じた方がいいのではないかと思うのです。
 中学生や高校生にとってもっとアクチュアルに問題であるのは、ひとつは「いじめ」だと私は見当をつけます。「なぜ、いじめてはいけないのか」です。
 通常、いじめを否定する論理はこんな感じになります。「あなた自身がいじめられる側になったと思いなさい。いじめられるのはいやでしょう。自分がいやなことは相手もいやなのです。だから、いじめてはいけません」
 しかし、いじめる側は納得しません。自分と相手は違うのに、なぜ同じように考えなければいけないのか。自分はいじめられない側にいて、他人をいじめられるところにこそいじめの楽しさがあるのじゃないか――と主張します。これは、さきほどの127ページの前提1を否定する主張でしょうか。それとも、黙々と殺人する方に属するでしょうか。  いじめが存在しても社会生活が崩壊するということはなさそうですが、φさんはどうお考えになりますか。
 ちなみに、φさんのおっしゃるのとは逆に、売春は別に違法ではありませんが、多くの人が買売春のどちらにも忌避感情を持っているというのが現実だと私は理解しています。「悪」だとはいえないものの、社会のシステムの中に完全に組み込むことが出来ないのが買売春ではないでしょうか。φさんが売春を○だとされている理由は何かお聞きしたいと思います。

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なぜ、いじめてはいけないのか? 1 投稿者:オコジョ  投稿日: 2月23日(月)04時33分46秒

 φさん、こんにちは。
 私に興味があるのは、ひとつは、アクチュアルな問題の検討に論理学がどんな切れ味を示せるかということです。そして、私が考えている問題に対して論理学が新しい展望を開いてくれるものなら、ぜひそれを知りたいとも思っています。
 そこでまず「なぜ、人を殺してはいけないのか」についてです。
 私は「論点先取」を咎めようというつもりはなかったのですが、改めて自分の文章を読み直してみると、そんな風に読めてしまいますね。言いたかったのは、こういうことです。『論理学入門』の127ページの「証明」が説得力を持つにせよ、持たないにせよ、その如何はほとんど前提にだけかかっているのではないか。(前提1は前提2を持ってくるための下準備みたいなものですから、要は前提2を認められるかどうかということです)
 φさんは、前提2に「経験的事実」と注釈をつけています。「経験的事実」の有無は論理学によっては論じられないと思いますが、そうすると議論の妥当性は結局論理学の範囲にはおさまらないことになります。
「人生の大問題に見えることも、みーんなこれと同じくらい簡単なのさ。論理できっちり証明できるのさ」ということにはならないのではないかと思うのですが、いかがお考えになりますか。
 私には「なぜ、人を殺してはいけないのか」があまり論じるに値する問題だとは思えません。この辺りで手間取りたくないのですが、もう少し続けます。
 殺人が許されたら倫理が成立しないというφさんの主張は、殺人が許されたら社会生活が成立しない、社会生活が成立しないところでは倫理も成立しない――という意味だと考えてよろしいですね。では、殺人が許されていたがために社会が崩壊したというような「経験的事実」があるのでしょうか。私は聞いたことがありません。「成立しない」ことを論じているのですから、それを証明するための「経験的事実」は「成立しなかった」事例以外にはないように思うのですが、ちがっているでしょうか。
 想定の話だとしても、私にはぴんときません。殺人が許されるということは、別に殺人が義務になることを意味していないと思います。また、許されるということは可能になることを意味していません。殺したいと思うことと実際に殺せることは同じではありません。相手がおとなしく殺されてくれるのを期待できないのは勿論、逆襲の可能性を考えなければいけないでしょう。人には力の差があるのが現実ですから、無秩序な殺しあいが継続すると考える方が不自然です。力の秩序が確立するだろうと私は思います。そこには社会生活が成立しているでしょうし、その社会なりの倫理も成立しているだろうと思います。

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自明の理の証明 投稿者:φ  投稿日: 2月21日(土)18時13分3秒

むかし文芸誌のアンケートに答えた、自明の理の証明をアップロードしました。基本的に『論理学入門』p.127と同じです。
http://russell-j.com/murder.htm

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自明の理 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月21日(土)16時42分34秒

私の念頭にあった決闘は、巌流島とかの昔行われていた決闘です。
敵討ち等の理由で相手に果し状を送る。
受けた方は逃げられません。
もし逃げたら笑いものになる。
命よりも笑われることを恥じる世界でした。
ただ、こういう世界でもφさまのおっしゃるように殺すことが義務ではなかったですね。
とすると、殺人禁止義務には何か必然性があるのでしょうか?
まあ、一般には自明の理なんですけどね。

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プロ決闘 投稿者:φ  投稿日: 2月20日(金)16時37分50秒

 戦争の時は、名もない兵士たちではなく双方の首脳ふたりだけで決闘ゲームをやることが義務づけられればいいと思います。どうせ原理は同じことだから。
 あと、テニスや格闘技のノリで、もしプロの決闘というのがあって、相手を殺すまで戦うゲームをして観客に見せる、というのがあったとして(ほんとにあればいいと思います)、選手本人が好きでその職業を選んだなら、これを禁ずる必要はないでしょう。つまりプロ決闘の道に入ることは許されており、入ったら人を殺す義務がある。
 しかしこれは死刑執行人が人を殺す義務があるのと同じで、べつに「殺人が義務」てわけではないですね。だって、人は死刑執行という職業を選ぶ義務がなかったし転職もしてよいのと同様、プロ決闘から引退する自由も認められるべきだろうからです。
 「許されている」からといって、「義務である」ことにはなりませんね。
 たぶん、殺人が義務である世界というのは無い。
 また、殺人が許されている世界というのも、有る限定内の狭いルールと相対的には許される世界は有っても(現実世界がそう)、無条件で許される世界というのは無い。

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決闘 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月20日(金)09時28分35秒

戦争は問題が複雑になりますので、戦争は国家間の決闘であると考えてみます。
決闘の目的は、相手を倒すことです。
賭けるものはお互いの命です。
つまり、ルールに則って相手を倒す(殺す)ことが決闘をする者の義務ではないでしょうか?
当然に殺すことが許されています。

殺人を許容する世界では、殺人をすべきなのだと思います。

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戦争 投稿者:φ  投稿日: 2月20日(金)04時04分35秒

……は殺人を義務づける、かのような言説が普通に聞かれますが、疑問です。というか、間違い。
戦争目的の付随効果として、やむをえず殺人が発生するというのが正しいと思います。殺人は「義務づけられて」いないのはもちろん「許されて」すらおらず、付随効果として事後的に認められるのみ、と。(現実ではともかく論理的には)
 路上で暴漢がナイフを振り回して襲いかかってきて、正当防衛で棒を拾って対抗するとして、暴漢を殺す(あるいは傷つける)「べきだ」ということにはなりません。結果としてやむをえず殺す(傷つける)としても、真の目的は自分を守ることのみですから。
 この問題は、『論理パラドクス』【086】【087】【088】の医師と運転士の話(二重効果のジレンマ)に関係しています。人を殺す「べき」といえる状況は、実は驚くほど稀だと思われます。

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え~ 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月19日(木)23時25分0秒

「べきである」とまで言わないといけないんですかぁ?
だから、倫理問題ってチョット苦手なんです。

我々の世界が殺人を禁止している世界だとして、その世界を我々が変えるのならば、正当な理由がなければなりません。
変えるだけの正当な理由がないのならば、現状を維持すベキです。
つまり、現状どおり殺人を禁止すベキです。

もし、殺人を許す世界だったならば、殺人を許すべきだとなりますが、倫理問題の正しさって結局は多数決なのではないでしょうか?

ひとたび戦争が始まれば、それは殺人をすべき世界になるわけですから。

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>>なぜ殺してはいけないか? 投稿者:φ  投稿日: 2月19日(木)16時41分6秒

 ナルホド、平凡の原理(コペルニクス的人間原理)による証明ですな。
 それ、使えそうですね。しかし、基本的には無理のような。
 コペルニクス原理によって「多数派(殺人禁止世界)に属しているだろう」ということは証明できても、その場合の「禁止」は、あくまで事実として禁止されている、ということですね。法律などで禁止されていれば安泰な人数の確保には十分ですから。
 本来の証明の目標は、事実として「殺人が禁止されている」ということではなく、当為として「禁止されるべし」ということでしょう。「悪い」とは、現に禁止されているという意味ではなく、禁じられるべきである、という意味ですから(たとえば日本では車の右側通行は禁止はされているが、禁止されるべき、ではありませんよね。右側通行に法律変更しても全く矛盾はないのだから。売春のように、事実として違法でありながら「禁止されて」すらおらず、ましてや「禁止されるべき」とされていない行為もあるし)。つまり、「悪い(いけない)」というのは、許容すると矛盾が生ずる、という意味。
 平凡の原理では、殺人許容は「矛盾である」とまでは証明できないでしょう。少数派の属する例外的な世界では「殺人が禁止されていない」わけですから。つまり現実世界は、「たまたま禁止されている世界」であって、「禁止されているべき世界」とまではいえない。
 あらゆる可能世界で、「殺人許容は間違いである」つまり殺人許容は矛盾であってそれが正しい可能世界は皆無である、ことを証明せねばならず、それは平凡の原理の守備範囲外でしょう。

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>なぜ殺してはいけないか? 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月19日(木)10時09分9秒

こんなのどうでしょう?
もし、殺人が許されている世界があったとして、その世界は我々の世界よりも人間が増えませんよね。
だって、お腹が減ったら子供を食べちゃったりする世界であるわけですから。
あらゆる可能性のある世界のなかで殺人禁止世界の方が人間が多くなることは必然ですよね。
で、我々がどこかの世界に生まれるとすると、確率的に殺人禁止世界に生まれる率が高くなります。
つまり、我々の世界が殺人禁止世界であることは論理的であるというわけです。
この殺人禁止は我々が生まれた瞬間にすでに定まっているということです。

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論理→殺人×、売春○、不倫○、盗み× 投稿者:φ  投稿日: 2月19日(木)06時29分27秒

 「なぜPなのか」のPが真であることそれ自体は論理で断定できませんが、「「なぜPなのか」と問うている文脈ではPは真とされているはず」ということは論理で断定できます。言葉遣いの問題ですから。「「意識の超難問」の論理分析」ではそれで十分でしたが、日常生活や学問一般でもそれで十分ではないでしょうか。
 私たちは「なぜ恐竜は絶滅したのか」と問うことができます。しかし、「恐竜は絶滅した」が真であると断定することは論理にはできません(厳密には、生物学も、物理学も断定できません)。重要なのは、「なぜ恐竜は絶滅したのか」と問うパラダイム内では「恐竜は絶滅した」が真とされていなければならない、というルールです。すべての日常会話や学問がそういう相対的判断で進められていますね。
 さて、殺人についてですが、実は、『論理学入門』p.127の前提2に対しては、以前も何人かから質問を受けたことがあります。この論証は、単なる例として出しているために説明を省いていますが、第15節の表題にしたからにはもっと詳しく書くべきでした。(原稿では実は「なぜ人を殺してはいけないか」が第2部、人間原理が第3部となっていたのでした。本にするときに二部構成に縮め、殺人の部分をほぼ全部カットしたのです。「なぜ人を殺してはいけないか」だけでいずれ本にしようと思っています。)
 「殺人が許されると、倫理は成立しない」というのは、因果的にそうなる、という意味なのでした(語用論的前提、も実はそういうことです)。誰が見ても罪のない人(子どもとか)を理由もなく殺すことが許されたとすると(ここでは、紛れもなく悪だと感じられる事例をもってきてその殺人が許されないことを証明すれば十分です。境界事例や言葉の曖昧さの問題は、すべての議論にあてはまり、殺人に特有の問題ではないので、脇に置くべきです)、そういう殺人者が野放しになるので人は安心して生活できず、出勤することも通学することも議論することもできず、弱肉強食となっていわゆる「社会」が成立せず、「倫理」という体系も保持されない、という意味です。それが「経験的事実」という注釈でした。「「倫理」の再定義」の方は、弱肉強食のカオス状態の中にも倫理はあると言えるのだ、自己保存の倫理とか、という類の強弁を封じるためのものです。
 こうして、因果的な意味で前提2は成り立ち、論理的な意味で「殺人は許されない」と結論できた。ここに論点先取はありません。
 「殺人が許されると、倫理は成立しない」ということと、「殺人は許されない」ということとはもともと意味的に別のことです。「殺人が許されると、倫理は成立しない」は、「殺人が許されるのは反倫理的である(≒悪いと評価すべし)」と述べてはおらず、「殺人が許されると無倫理状態になる(≒評価が成立しなくなる)」ということなのです。倫理が無い、は、倫理に反する、とは別です。倫理に反するためにはむしろ倫理が有ることが必要ですから。
 こうして、「倫理なき状態では許されるという概念もない、したがって、殺人は許されるというのは、因果的に、自らの必要条件を否定する状態を志向している、よって矛盾」というのがこの証明の骨子でした。
 実はこの証明には細かい問題が残っているのですが、前提2についてはとりあえず、このへんで。

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なぜ殺してはいけないか? 投稿者:オコジョ  投稿日: 2月19日(木)03時43分39秒

 φさん、こんにちは。
 とても初歩的な疑問なのだろうと思いますが、教えていただけますか?
 「「意識の超難問」の論理分析」の中に“「なぜ」と問えるのは真なる命題についてだけである”という一節がありました。論文自体は、「なぜ」に直接答えようとするものではなくて、提出された「なぜ」が文法違反を犯していたりする無意味な問いであることを証明する方向で書かれています。だから、私の持った疑問はまったく見当違いのものなんですが、論文のテーマとは別のものとしてご理解ください。
 仮に、検討すべき「なぜ」が錯誤のない、まっとうなものであった場合、「論理」によってそれに答えることはできるのでしょうか。(無意味な疑問だと否定する以外に「なぜ」を論じる方法がないとしたら貧しい気がします)
 また、検討すべき命題が「真なる命題」であるかどうかを「論理」によって決定することは出来るんでしょうか。
 これは、言い換えるとある命題が「真」であるか「偽」であるかを「論理」によって決定できるかどうか、ということになるでしょう。たぶん、そんなのは出来るわけがないということになっていそうな気がしますが、とにかく論理学について基本的な知識がないので決めかねている次第です。
 少し論理学について勉強してみようかと思い始めているところなんです。でも、どの程度ほんとうに役に立つ学問なのか、ちょっと疑問があったりします。
 NHKブックスの『論理学入門』を読みました。第15節の「なぜ、人を殺してはいけないのか?」の証明でいちばん問題なのは「殺人が許されると、倫理は成立しない」の部分だと思いました。
 「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問題は、言い換えるなら「殺人が許されると、倫理」が成立するかどうかを問うているのではないでしょうか。ところが、この証明ではその肝心なところを前提として組み込んでしまっています。どんな結論が出てくるかは、その段階で決定していると私には思えます。
 殺人が犯罪であることは間違いありません。しかし、それは法律という制度の中の話で、法律と倫理が完全に重なり合うものかどうかは疑問です。たとえば、百人が百人とも極悪人だと思うような人間を限りなく正当防衛に近い形で殺してしまった場合が考えられます。法律の上では犯罪であるが倫理的には非難できないと百人のうち九十九人が判断するようなケースがあり得るのではないでしょうか。「殺人が許されると、倫理は成立しない」と簡単に言ってしまえるかどうか、疑問があります。
 「なぜ」と問われる多くのケースで、いちばん問題になるのは、命題から結論への推論が正しいかどうかなどではなくて、命題が「真」であるかどうかなのではないでしょうか。
 たとえば「売春が許されると、倫理は成立しない」かどうか。そのとおりだと言う人もいれば、そんなことはないと言う人もいるからこそ、議論がされているのではないかと私は思います。こういう議論を「論理」を駆使することによって、すっきりと解決するのは可能なのでしょうか。

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今日でしょう 投稿者:φ  投稿日: 2月19日(木)03時16分40秒

 いま観おえた『レッド・プラネット』が、モンスター抜きのSFのつもりで観ていたらしっかり出てきて(中型&小型)、トクした気持ち。ビジュアルが良かったので、メインモンスターが異生物ではなくロボットなのを減点してもけっこう中上位。よく比較される『ミッション・トゥ・マーズ』も観るべきなのか?
 ところでアドホック日記に記したように、新刊書にはこの掲示板に記したレスを転用いたしました。1個所だけですが。なんでも能率的に転用しようとするのはモノカキの悪い癖ですが、訪問者の方々には感謝です。

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まだでした 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月18日(水)20時40分11秒

超人とか怪人は、造形としては確かに安易ですね。
人間をチョコットいじればできちゃいますからね。
『大魔神』は私も大好きです。
つい、ホロリとさせられてしまったりします。
ですが、なんとも古い日本っぽくって・・・。
誰かの苦しみだとか、想いとか、願いとかが聞き入れられるというような、感情に重きを置く思想というか、φさまの言う子宮的ですね。
これは欧米人には創れない映画ですよね。

ところで、φさまの新刊本、今日はまだ出ていないようでしたよ。
「論サバ」はやっと読み終わりました。
大変に重い内容でなかなか進めませんでした。

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ハルクは…… 投稿者:φ  投稿日: 2月18日(水)02時56分25秒

ゾンビものまでは一応死蔵してますが超人とか怪人とか星人とか、ちょっと……、
ただ『レインボーマン』M作戦編に出てきた殺人プロフェッショナルたちみたいなアングルは良かった。毒、酸炎、化石、冷凍、刃、電撃などなどそれぞれ専門が決まってるというのがnice.
なお『大魔神』三部作は別格。あれはもはや人間型とは言えない領域ですが。埴輪が仁王顔へ変化する、あれこそ日本の古典美の必然的映像ではなかったかと。

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なるほど 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月17日(火)20時31分24秒

非人間系ですか、なるほど、そういう基準なんですね。
そうすると、「超人ハルク」なんかはトンデモですね。
あの「スターウォーズ」もバツっぽいですね。

造形の偶然性によって、虚構に遊ぶといったところなのでしょうか。
私が映像に求めるのは、必然性ですね。
映像の必然性によって、理想に陶酔するといったところです。

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非人間系 投稿者:φ  投稿日: 2月17日(火)03時41分12秒

生物系というよりも――
機械であっても、人間型でなければ万歳。
たとえば『ヴァイラス』(99年のほう)大喜び。機械型でもああいう不定形甲殻類類似型は素晴らしいですね。
人間型モンスターは大バツ。ゾンビ映画も買うだけ買って観ておらず。『アウトポスト』なんてのは怒りの極。なんで昆虫型or爬虫類型or頭足類型に変身せん? 人間のまま暴れまわられても日常に罅が入りゃせぬ……
 でターミネーター3、いいだろうなと思いつつほぼ人間型間違いなしなのと1,2観なきゃならない面倒とで(2は昔観たがやはり近接してもう一度)敬遠中。
 芸術系も良いのだけど(『オデッセイ2001』のエネルギー生命体?や『アビス』の海底生命や『TATARI』の幽霊は超アート型かな……)やはり適度に(『遊星からの物体X』くらいに)生き物っぽいのが……(『人食いアメーバの恐怖』DVD化はまだだろうか?)

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生物系? 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月16日(月)20時29分8秒

φさまって、生物系なんですね。
とすると「マトリックス」も「ターミネーター」も守備範囲外ということになりますね。
まあ、生物も機械もひっくるめると「ターミネーター3」はφさまの評価ファクターで100点満点です。
機械系の場合、評価ファクターには
・工業デザイン的であるか?
・金属の質感がでているか?
・機能的であるか?
等々、生物系とは違うファクターが必要ですね。
生物系のクリーチャーって、その存在や造形に必然性が感じられないことが多いような気がします。
かくいう私は芸術系なんです。

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2002~3 投稿者:φ  投稿日: 2月16日(月)05時48分0秒

ターミネーター3も買ったまま観ず推移。映画は買う主義なのでついつい積んでしまうという……、レンタルなら期日のプレッシャーでちゃんと観るのでしょうが。
モンスターpanicは2002~3年モノがチト酷すぎましたねぇ『エンバイロン』『ザ・テンタクルズ』『ディープ・フリーズ』『アライバル ファイナル・コンタクト』『エア・スコーピオン』『ゴーストオーシャン』『インベイド』『アラクニア』『シャーク・ハンター』『パイソン2』『ブラックファイア』……脱力モノオンパレード。全部買って観てるワタシもワタシですが。
唯その2年にも良作佳作無きにしも非ずで巷じゃ酷評先行のようですが『サラマンダー』『スパイダー・パニック』は傑作、『ジェイソンX』もヨシ、『メン・イン・ブラック2』あたりも。あと何があったか……そうかターミネーター3観ないことにはナ
http://members.jcom.home.ne.jp/0938773301/kaijyu02.htmにモンスターパニックベスト評を書き始めねばなるまい/

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SAも 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月16日(月)00時30分2秒

SAっぽいのも安易といえば安易かも。
マトリックスとかターミネーター。
コンピュータが意識をもって人間と戦ったら、人間には万に一つも勝ち目はないはずです。
彼らは完璧なシステムですからね。
人間など彼らからみれば、旧式の電卓みたいなものでしょう。
それにしても、ターミネーター3の超美人ロボットって、カッコ良過ぎです。

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輪廻の素材 投稿者:φ  投稿日: 2月15日(日)04時11分0秒

素材はベイズ計算、平凡の原理、非決定論、観測選択効果といった面々です。
来月の研究発表までに輪廻転生の論理仕立てを完成せねばなりませんがその前に目下、人間原理の科研費報告書を。これは公文書になるだけで出版予定はないのでupします。
ところで買い置きのDVD数百枚のうちの一つ『オデッセイ2001』てのを今見終わりましたがあれだけCG使っていながら「神」っぽいテーマだと映画も何も安易になるものですナ。

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そうでした 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月14日(土)17時35分0秒

観測選択が多宇宙論を容認するのに対して、
観測者が輪廻転生を容認する。
つまり、
観測対象は沢山あるうちの一つと考えるべきであるし、
観測者の意識も沢山ある意識のうちの一つと考えるべきである。

ある観測者の意識が他の意識ではない以上、前世に平凡化するしかない?
しかし、前世の意識も私にとっては他の意識でしかない。

神の証明はいくつか見たことがありますが、輪廻転生が証明できるなんて、楽しみです。

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そろそろアドホック日記更新せねばです 投稿者:φ  投稿日: 2月14日(土)01時46分51秒

多宇宙はFTを決して平凡にはしませんが。観測選択によってFTが選ばれることを保証するだけ。
輪廻転生は決して時間を無限に分割はしませんが。観測者が存在している間起こりつづけるだけ。目下、輪廻転生の(もちろんオカルトバージョンではない、記憶の連続性なしの)論理的証明を3通り吟味中です。「なんとなく」でないクリティカルシンキングものの。

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輪廻転生の哲学? 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月13日(金)22時23分9秒

輪廻転生なるものが今日チョト見えたような気がしました。
多宇宙論が空間を無限に分割することによって、ファインチューニングを平凡にするのに対して、
輪廻転生は時間を無限に分割することによって、観測選択を平凡にする、ということなのではないですか?
なんとなくですけれども、そんな哲学があってもいいように感じます。

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輪廻転生! 投稿者:φ  投稿日: 2月11日(水)18時55分33秒

 人間原理的な偶然論に耐えられない科学者は、究極理論信仰に行くか、古き神の存在証明まがいの「デザイン理論」にゆくかどちらかで、有名な数学者や生物学者の中にも「還元不可能な複雑さ」の例を持ち出してダーウィン自然選択説を論駁したと称する者が多々います。(けっこう流行りなんですが、その議論が論理的に欠陥議論であることは新刊書に書きました)
 神だの創造主だのを持ち出しても何の説明にもならないことは我らモンゴロイドには自明なのですが、コーカソイドの科学者たちは、いまや創造主の存在の科学的証拠探しに賢明です。ヤレヤレ……、社会生物学や進化心理学の言う脳容量の人種的差異はこんなところに現われるのだろうか…… 
 (なお、かのSAはデザイン理論ではないのと説明理論ではないことにご注意されたし)
 神なんぞにくらべれば、輪廻転生は、圧倒的に論理的かつ説明的であり、復興の価値が遥かに高いと思われます。少なくとも無視はできません。
 ただし輪廻転生も、アジア発祥とはいえ、モンゴロイドではなくコーカソイドの発明品なのですけれどね……。

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輪廻転生? 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月11日(水)14時47分16秒
私は、やっとこさっとこ人間原理や観測選択効果、可能世界に多宇宙論と理解を深めてきたところなのに・・・。
こんどは、輪廻転生ですか? W(◎o◎)W ワヲォ

21世紀にもなって?
火星にスキー&温泉パック旅行ができるかも、という時代に?
あの紀元前の天竺から連綿と続く古色蒼然たる因習ともいえる生死観、「輪廻転生」ですか?
心理学ならまだしも、これが哲学になるんでしょうか?ちょっと不思議です。

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輪廻への確率的助走 投稿者:φ  投稿日: 2月11日(水)03時43分10秒

↓の末尾の一文では、人間原理から輪廻への予告をしましたが――、
論理はこのうえなく明確なのにレトリックが難しいのですわ、この領域は……。
どうせなら最大限実感していただく立論を展げねばならぬというわけで……
http://russell-j.com/my-univ.htm

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「観測選択効果と多宇宙説- を読みました 投稿者:syosinsya  投稿日: 2月10日(火)13時57分20秒

リンクをありがとうございます。面白いです!
7に、昨日自分が書いた「私たち」関係する件が書かれていますね
まさに 
> 人間原理はこのように、意識、自己、同一性など諸問題相互の整合性を根本から問い直す、莫大な哲学的潜在力を秘めた思想である。

触れた感じです。
いつもφさんが書いている「直観的なもの」と「論理から導き出される」ものの衝撃的な違い。
面白いです。
昨日の僕のようにいいかげんな直観でだらだら書いたらダメですね。

> 同意できないのは、「超難問」を解かねばならずその解決こそ輪廻転生だとしているところです。超難問など解く必要はなく、

 分かりました。超難問(とする人のいる問題)とリンクすべきでないものをリンクしているという点なのですね。渡辺さんのこともよく知らないのに昨日は引用して色々述べ失礼しました。

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超難問錯覚&確率 投稿者:φ  投稿日: 2月10日(火)02時17分15秒

 渡辺恒夫さんとはまだ会ったことないですが、3月27日に渡辺さんたちの「人文死生学研究会」で発表することになっています。面白い展開あることを期しているところです。
 私は輪廻転生は実在する、と前々から公言しており、渡辺さんの「転生観」そのものには共感しております(ただし「遍在転生観」は無理だと思いますが)。
 私が渡辺さんに同意できないのは、「超難問」を解かねばならずその解決こそ輪廻転生だとしているところです。超難問など解く必要はなく、その素顔であるクオリア問題は輪廻転生で解けるはずがありません。私が輪廻転生を支持する根拠は、前にもここに述べたような気がしますが、↓の最終節あたりに書いたベイズ的推論です。ただしこれはもっと煮詰めなきゃなりません。
              (ところで、前にここで予告したSAの共同通信の記事は、
               1月26日に神戸新聞、南日本新聞、中国新聞、山陽新聞、琉球新聞
               などに掲載されました)
http://russell-j.com/guzen-u.htm

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すみません 投稿者:syosinsya  投稿日: 2月 9日(月)15時22分50秒

>「独我→超難問体験」が世間で増えているとすれば、単に知的な成長に時間がかかるようになっているだけなんじゃないか、次の段階へ進めていないだけでは?  と思います。

これはちょっと根拠の無い決め付けだったかも。すみませんでした。

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だけど・・・ 投稿者:syosinsya  投稿日: 2月 9日(月)15時03分50秒

> EとFは、データと質問(問題意識)の順番が逆になっており、そのことによって確率が異なっています。

これって、
EとFにおける「女がいる」の意味が違うから生じているのでしょう?
「2人とも女の確率は?」という問に関して与えられた情報が
Eでは『ともかくその中に女性がいることは確か』という教授の返事的(全文検索的)なケース
Fは『確認できた1人がたまたま女だった』という逐文吟味の最初に女性がいたケース

なので・・
順番の違いは関係ないと思うのですが・・

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「私はa」の「私」 投稿者:syosinsya  投稿日: 2月 9日(月)15時00分7秒

渡辺さんのメールの最後の部分

> 最近気づいたのでは、074インスペクション・パラドクスの(2)での、
> 「地球外巨大文明がもし存在したら、私たちはそちらに確率的に生まれやすかった筈だ」
> という仮定は、意識の超難問の有意味性を前提としていると分かります。
>  『輪廻転生……」にも書いたことですが、「なぜ他の銀河や他の時代に生まれなか ったのか」という問いに 対する答えの一つとして学生の間に発見したものに、「この問いは霊魂仮説でも前提 しなければ無意味である。なぜならば、他の人間に生まれたとしたらそれは私ではないからだ」というのがあります。

>  つまり、このパラドクスも超難問も、「私が他の人間であるような世界の可能性」 が霊魂仮説なしで有意味に想像可能であることを、すなわち、可能性世界論の有意味性を前提しているわけです。

から、ちょっと考えたこと・・

意識を持った生命体(もしくはそれに関する事態?)全部の集合をとり、その任意の成員をx とすると
地球上のそれ以外に、もっと遥かに成員の多い巨大文明があるとしたら
任意のx は巨大な方の集合に属している確率が高い
しかし、ここで観測されているのは地球側集合に属している・・
ということですよね・・

そこでは、

> このパラドクスも超難問も、「私が他の人間であるような世界の可能性」 が霊魂仮説なしで有意味に想像可能であることを、すなわち、可能性世界論の有意味性を前提しているわけです。

とする必要はないと思えますが・・

ただ『私たちはそちらに確率的に生まれやすかった筈だ』
この『私たちはそちらに・・』が紛らわしいのかと・・・

ところで、
私が地球に生まれず、他の星に生まれていたら とか
私が日本で日本人として生まれず、サモアでサモア人として生まれていたら
が、「私」という同一性が保てたまま、「サモア人」「宇宙人」だったら
を言っているとしたら、その「私」の同一性がなんなのか・・

「同じ両親からではあるが、サモアで生まれていたら」
というのは、渡辺氏によると、日本でなくサモアで生まれるに到った因果関係を辿れるので
超難問ではないとなるはずです。
(『何故私が大学教授なのか』は因果を辿れるから超難問ではない、と渡辺氏は書いている)

ある精子なり卵子を私の元と考えても
「何故私の元の精子は楊貴妃の卵子に受精しての私として生まれなかったのか」
は、因果を辿れるので超難問ではない
霊魂仮説をとって、私の霊魂が(主観でも、自我でも)今の私の肉体に宿り
ガチャピンに宿らなかったのは何故か?
というのも、因果を辿れる可能性がある(実際は無理でも)ので超難問では無いことになる。

私の霊魂は何故、あちらの霊魂にならなかったのか  ならば超難問になると渡辺氏は書いていたような

けれども
このアンパンは何故、あのグラタンではないのか?
は、「意識」が生じていないので超難問ではない
と渡辺氏によると、なり・・

「何故、意識が生じているのと、いないので、超難問になったりならなかったりするのか」

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何故私は(ブラウン氏でもあり得たのに)、〇山△夫なのか?

の「私は」は何を意味しているのか
その変がとばされているように思えます
『私』とは何か?」ということへの色々な方向からの吟味が省かれてしまっているような・・

それで、最後まで

> このパラドクスも超難問も、「私が他の人間であるような世界の可能性」 が霊魂仮説なしで有意味に想像可能であることを、すなわち、可能性世界論の有意味性を前提しているわけです。

となってしまっているような・・

で、『「意識の超難問」の論理分析』
では、
「TN」と分離して別個に定義できて同一性を保つような「私」があるかのように見て、そこに両者の一致や分離を想定して「何故?」と問うてしまうのは
『私はaである』のような文章の解釈のそれぞれ違った仕方を重ねてしまうことで生じている錯覚なのだ。

となるのかと。


φ さんを知って良かったのは、今まで自分が知らなかったことが書かれていても、
φ さんはデタラメなことは書いていないだろうから、きちんと咀嚼してみれば理解できるはずだし、
よく考えてみる価値がある、という前提で読めること・・

ですので私が間違った解釈を書いていたらご指摘ください。

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↓またタイトルミスです。} に特に意味は無いです。(^^; 投稿者:syosinsya  投稿日: 2月 9日(月)12時19分52秒
        ↓

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意識の超難問} 投稿者:syosinsya  投稿日: 2月 9日(月)12時16分48秒

『「意識の超難問」の論理分析』は以前読ませてもらって
『トートロジーにすぎないか、「難問」と同じ問いである』
というのは、すっきりと納得できました
心理学者の人との往復書簡も併せて読んだので、背景が分かりやすかったということもありました。
以下はその往復書簡の方に対して感じていたことからになりますが・・、

> 「意識の超難問」などというものは幼児期や思春期に普通の人が漠然と抱く素朴な「気分」にすぎず

他者にもそれぞれ自分と同じような自我があると理屈では分かってきつつ、未だ幼児的な独我の感覚を残している時期の両者が混交して起こる錯覚みたいなことに因があるのかと、
自分の子供の頃のことを思い出していたのですが・・

心理学者のかたは、多数の主観を認めると「超難問は意味をなさない」と認めておられながら、そこで
わざわざ独我論を持ってきて、その独我論では対称性に反するので、エレガントな世界への衝動として
超難問が生じる
と書いておられましたね。
なにか、どうしても超難問というものを存在させたい、それがトートロジーか別なよく知られた問いだとはしたくないというような・・

> ただしそれは心理学的現象であって哲学的問題ではないので。

同感なのですが、彼は「何故そのような思いが生じるのか?」という心理面での考察でなく、
そのような事態(世界のあり様)自体を解明したい
という風に書かれていたので、「うーーーん?」と思って読んでいました。

彼はたしか、
『論理は多くの人の同意できる思考から帰納されたもので、それをもって世界を説明するのも
同じ帰納。ならば、多くの人が「独我体験→超難問体験」を持つようになってきていると思われる今、
そこから帰納される新たな「論理(かそれに代わるもの)」とそれを用いた世界の説明があっていいのでは。』
というような内容を述べておられたと思います。

ただ、自分は、その「独我→超難問体験」が世間で増えているとすれば、単に知的な成長に時間がかかるようになっているだけなんじゃないか、次の段階へ進めていないだけでは?
と思います。やや乱暴ですが、今の思いを率直に述べるとそうなります。
ですので、新たな人々の感覚から帰納される新たな世界の説明が必要
というのは説得性があるとは思えず、やはり心理的な方から考察をした方が有益だと。。。

実は、その後彼との議論に新展開ありましたか? とφさんに質問したかったのですが、書けずにいました。

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半々の確率 投稿者:オコジョ  投稿日: 2月 9日(月)02時02分26秒

 男女半々の確率について、続きです。
 いろいろやってみたら少し分かってきたような気がしましたのでリポートします。

>>残りの「男女混合」(ちょうど半々も含め)には影響が及ばない

 だいたいφさんのおっしゃるようなことだと思いますが、影響が及ばないというのは正確ではありません。4人抽出、6人抽出のケースを考えてみると、女性が1人だったり2人だったりする確率にも事後の変化が出ますから。

 任意に抽出してきた場合、「事前」では男女半々に落ち着く可能性が(直感的にも)一番高そうで、実際にもそうです。ここで、女性一人を目撃したとなると、多少とでも女性が多い確率の方が高くなって当然だろうというように思われます。これも実際にそのとおりになります。ただ、気がつかないうちに誤解をしていました。「女性が多い確率が高くなる」のと「男女半々の確率が低くなる」のとが必然的に結びつくように錯覚してしまったんです。「女性が多い確率が高くなる」事態に対応するのは「男性が多い確率が低くなる」であって、半々の確率は別に低くならなくてもよかったのでした。
 たとえば、男女6人を抽出する場合、「全員女性」である確率は「全員男性」である確率と同じです。また女性が5人いるケースは男性が1人いるケースを意味しますから、女性が5人の確率と女性が1人の確率は同じです。こうやってみると、「0人と6人」「1人と5人」「2人と4人」の確率は同じであり、女性一人を目撃した場合を計算してみると、このグループの確率合計は事前も事後も変化しません。
 たとえば、「0人」の事前確率は192分の3、「6人」の事前確率も同じで、事後に「0人」の方がゼロになるのに対して「6人」の方は192分の6になるので、二つの合計には変化がありません。同様にして「2人」と「5人」が事前で192分の18ずつだったのが、事後には192分の6と192分の30とに変化します。これも合計には変化がありません。
 そして、グループから一つはずれた「3人」つまり半々の確率は、事前も事後も変化しませんでした。
 「半々」というのは、単純化して言ってみれば、「前半全員女+後半全員男」と「前半全員男+後半全員女」の二つを含んだグループを意味します。目撃によって他方の確率が増大したと同じ分だけもう一方が減少するわけで、その合計は変わらないのだと考えることができます。

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脱子宮 投稿者:φ  投稿日: 2月 9日(月)01時41分47秒

「なぜ私は私なのか?」ではなくて片方が固有名詞になっているのが「超難問」なのですけどね。
「なぜ私は私なのか?」だとただのトートロジーで、これは弁解の余地はない。
「なぜ私は※なのか?」は、無意味とか空虚とかではなく、問い方を誤ったクオリア問題だというのが拙論の結論でした。だから、「なぜ私は※なのか?」と、思慮深い幼児や多感な青少年が問うのは奨励してもかまわないのですよ。ただしそれは心理学的現象であって哲学的問題ではないので。だから私が苦言を呈しているのは、プロの哲学教師ともあろうものが、「なぜ私は※なのか?」を本当の難問だの神秘だの奇跡だのと真に受けて深刻ぶった言説に明け暮れる傾向がとくに日本では強いことに対してです。人間原理的思考の初歩さえ心得ていれば恥かしくて口にできない誤問をプロが堂々と呟くのを見た勤勉な青少年が、思春期の原体験に顧み「ああ、あのときのあれでよかったんだ、私ってなんて哲学的……」と退行的な自己満足に溺れてしまう現象が続出するじゃありませんか。知的に最もダメなパターンですね……。
 (偉そうにいえば)哲学者の使命は衆生といっしょに溺れることではなく子宮的な心地よい錯覚から自他を覚醒させることこそなのに。
 というだけのことでした。

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超難問の許可 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月 8日(日)23時02分32秒

φさまの超難問に対するお怒りのご様子には、大変に痛み入ります。m(_ _)m
超難問というのはφさまの論証のとおり、存在や自意識の問題なのでしょう。
であっても、この問があるから、φさまの論証によって存在や自意識だという問題の本質が現れるのであって、そのこと自体は哲学的な

のではないでしょうか?
であれば、空虚で幼児的で思春期っぽいとしても、「なぜ私は私なのか?」という素朴な問が哲学へ導く道だと考えても良いのではない

でしょうか?
私達がこの問を発することが、それほどイケナイことだとは思えないのです。

そしてもう一つ、「なぜ私は私なのか?」には「なぜ私は選択されているのか?」という意味が含意されていると思います。
私が存在して、自意識があっても、私が私として選ばれている説明にはなりません。
これがナゼなのか私はいつも不思議に思います。

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Re: 投稿者:φ  投稿日: 2月 8日(日)02時08分2秒

 「なぜ私は私なのか?」などという空虚な問いをデカルトは問うちゃいないと思いますが。(ついでに、「意識の超難問」とされる問いも、「なぜ私は私なのか?」ではありません。)
いずれにせよ「意識の超難問」などというものは幼児期や思春期に普通の人が漠然と抱く素朴な「気分」にすぎず、哲学者を名乗る一部の人々がその気分を感慨深げに単に繰り返しているのは痛ましいことです。そのあたり、今月の新刊書にも手を変え品を変え5ヵ所くらいで述べました。むろん、自意識の存在(特殊なクオリア問題)の方は本物の哲学的謎です。
 超難問論者は、E★とF★の区別をはじめとする確率の初歩がわかっていないことは確かです。

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なぜ超難問はないのか? 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月 8日(日)01時20分37秒

『「意識の超難問」の論理分析』がリンクされましたので、私の以前からの疑問を書いてみます。

この論文によると「なぜ私は私なのか?」という問いは、「なぜ自意識があるのか?」という問いに還元され、哲学的問いではない、とのことです。
ここで、私が不思議に思うのは、デカルトによる哲学の第一原理「私は考える、それ故に私は有る」のことです。
デカルトは「一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている私は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。」といいます。
このことは、φさまの論証とは異なることのように感じるのです。
「なぜ私は私なのか?」という懐疑が哲学的であったがゆえに、第一原理の発見につながったのではないか?と思うわけです。

φさまは、この哲学の第一原理なるものをどのようにお考えなのでしょうか?

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ちょっと計算してみました。 投稿者:φ  投稿日: 2月 6日(金)22時24分49秒

 2人の受講生について教授が答えた場合の、いろんなバリエーションを考えます。それぞれについて、問題は「2人とも女の確率は?」です。なかなか面白い結果が得られました。
A★「登録番号の若い方の受講生は?」と問われ、教授が「女」と答えた場合
 P(女、女|「女」)=P(「女」|女、女)P(女、女)/P(「女」)=2P(女、女)=1/2
B★「存在する性別を」と問われ、教授が真っ先に思い浮かんだ受講生の性別を反射的に「女」と答えた場合
 P(女、女|「女」)=P(「女」|女、女)P(女、女)/P(「女」)=2P(女、女)=1/2
C★「存在する性別を」と問われ、教授がふたりを脳裡に思い浮かべたうえで、「女」と答えた場合
 P(女、女|「女」)=P(「女」|女、女)P(女、女)/P(「女」)=2P(女、女)=1/2
D★「女はいますか?」と問われ、教授が「いる」と答えた場合
 P(女、女|「女いる」)=P(「女いる」|女、女)P(女、女)/P(「女いる」)=4/3P(女、女)=1/3
E★問う前の情報として「女がいる」ことが与えられていて、「では2人とも女の確率は?」と問うようになった場合
 (『論パラ』【039】小問1と同じ)
 P(女、女|女いる)=P(女いる|女、女)P(女、女)/P(女いる)=4/3P(女、女)=1/3
F★「2人とも女の確率は?」と問うていたところ、問いとは独立の情報としてたまたま「女がいる」ことが与えられた場合
 P(女、女|女いる)=P(女いる|女、女)P(女、女)/P(女いる)=2P(女、女)=1/2

 EとFは、データと質問(問題意識)の順番が逆になっており、そのことによって確率が異なっています。
 そうなる理由は、状況的に、EはDと同じであり、FはA,B,Cと同じであることに気づけば、納得できます。
 「質問をいつするか」という、データとの相対的位置関係を取り違えると、哲学でも錯覚の源になるので、要注意ですね。(素朴な錯覚の例は『論サバ』【014】または↓)
http://russell-j.com/nanmon-c.htm

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やっぱり・・ 投稿者:syosinsya  投稿日: 2月 6日(金)20時44分20秒

男女に最初の条件の差がない以上
両方で検索してたまたま先にヒットした方が女性 とか
なんらかの理由で1人取り上げた時のその生徒の性別が女性 だった
と考えるべきでしょうか
それだと  1/2 ですね

教授にとって最も印象的な生徒が先ず思い浮かび
それが女性だった という場合も同じで 1/2 ですよね?

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>存在する性別を 投稿者:syosinsya  投稿日: 2月 6日(金)12時46分26秒

いつも丁寧に答えてくださってありがとうございます。

> 「2人の受講生の中に、存在する性別を言ってください」「女」……

 (女 女)の確率100% 
 「男はいない」と答えているのと同じ (笑)
 もちろん冗談です

「少なくとも1人いる性別を男女どちらか一つだけ答えてください」「女」

で、考えますね。

コンピーターの例えは参考になりました。

ひとつづつ検索して最初の要素がたまたま女性だったのが 目撃のケース  1/2
順はどうでも、ともかく「女性」がヒットしたのが 「女性います」の教授の返事のケース 1/3
と考えてもいいかと。

で、今回のケースで
(この教授が男女についての嗜好上、どちらを思い浮かべやすい ということは
ここでは情報として扱わないわけなので、)

「女」を選択して答える過程はどうなのか

「女性はいますか?」 で全文検索 1/3 
と考えたのと区別するべき要素はなにか・・

やはり、最初から「女」を問うていず
選択が教授にまかされているということ

そうだ・・
教授が先ず「女」を検索してみようと取り上げてみた結果
「女いる」とヒットしたのなら  1/3
一人づつチェックしてみようとして、たまたま最初が「女」だった場合 1/2

ということで、

人間の心、思考方法を、どのように捉えるか
ということになるのでしょうか?

今日はちょっとボケているのでカン違いがあるかも。

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存在とその仕方 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月 6日(金)09時45分31秒

>「2人の受講生の中に、存在する性別を言ってください」「女」

この手の問題は、問題の求めている場合の数の抽出の仕方が難しいですよね。
この問が、女性の存在のみを問うているのであれば、男女、女男のペアを一つと数えるべきで、その場合は女女の確率は1/2。
女性の存在の仕方を問うているのであれば、男女、女男のペアを二つと数えるべきで、その場合は女女の確率は1/3。
もちろん、母集団が無限の場合です。

私は、この手の問題の不思議さというのは言葉の意味の曖昧さからくる不思議さだと思っています。

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1/3? 投稿者:φ  投稿日: 2月 5日(木)23時08分53秒

もちろん、「二人の受講生のうち、登録番号の若い人の性別は?」「女です」……これなら、女1人目撃した場合と全く同じで、2人とも女は1/2で、これは紛れはないですね。
問題はこうです。「2人の受講生の中に、存在する性別を言ってください」「女」……これならどうなんでしょうかね。女女が1/3と言い切ってよいかどうか。もし教授がコンピューターで、ランダムに受講生のデータをピックアップして答えるなら、女女は1/2になりそうです。しかし人間の場合は……? 「男」と答えずあえて「女」と答えたことが、女女の確率をどれだけ高めるか(1/4→1/3or1/2)なのですが……、
 人間の心はコンピューターとは違うのか、という問題につながりそうです。

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それだと1/3? 投稿者:ハムスター  投稿日: 2月 5日(木)22時26分53秒

>さてしかし、「男女どちらか、少なくとも1人いるほうを答えてください」「女はいるよ」……これはたまたま女1人目撃した場合と同等に考えてよいのだろうか?

それだと女女の確率は1/3になると思います。
女がどちらか決まりませんから。

こんなのどうでしょう?
「二人の受講生のうち、最初の人は女ですか?」「女です」
これだと、女1人目撃した場合と同等になりませんか?

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Re:半々の場合はどうでしょう?→発展問題 投稿者:φ  投稿日: 2月 5日(木)21時00分8秒

 たしかに不思議なんです。
 ただ、ある程度直観的に納得するのも不可能ではありません。ランダムに選ばれたひとりが女だったということは、「全員男」の確率をゼロにするとともに、「全員女」の確率を上げるからです。「全員女」の場合は、ランダムに選ばれたひとりが女である確率が高いから、逆も言えると。
 結果として、「全員男」が消えた分の確率を「全員女」が埋めて、残りの「男女混合」(ちょうど半々も含め)には影響が及ばないと、そう考えられるのではないでしょうか。
 「女います?」「いますよ」という場合、「全員女」かどうかは全く関係ないので(女が1人以上いさえすればこの答えの得られる確率はみな同じなので)、「全員男」が消えた分の確率を「全員女」が埋めることはない、そのぶん「男女混合」の確率が増えるのでしょう。
 ちなみにベイズ式で機械的に確認すると、
 P(男女半々|女目撃)=P(女目撃|男女半々)P(男女半々)/P(女目撃)
 =1/2×P(男女半々)/(1/2)=P(男女半々)
 となり、やはり確率に変化ありません。これは100人に限らず、一般的に、男女比1:1の母集団N人から2M人を選んだときに成り立ちます。
 ★そこで、私が考えたちょっと面白い問題は、こうです。(巷の本にはこの問題は見当たらないでしょう)
 「女います?」「いますよ」ではなく、問答を次のようにする。
 「男女どちらか、少なくとも1人いるほうを答えてください」「女はいるよ」
 これなら、「女います?」「いますよ」とは違って、「男はいるよ」「女はいるよ」どちらの答えも平等にありえたので、女目撃の場合と同じく、ランダムに選ばれたひとりが女だったことになりはしないか。すると、答えは女目撃の場合と同様になるのか?
 この状況設定だと、オコジョさんの1月19日の疑問「教授はどのような思考過程を経て返事をしたのでしょう。一つ考えられるのは、受講生の顔を思いめぐらして、女性の顔がひとり思いうかんだ時点で……」というのが息を吹き返しそうです。
 さてしかし、「男女どちらか、少なくとも1人いるほうを答えてください」「女はいるよ」……これはたまたま女1人目撃した場合と同等に考えてよいのだろうか?

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半々の場合はどうでしょう? 投稿者:オコジョ  投稿日: 2月 5日(木)02時37分49秒

 φさん、こんにちは。
 いろいろ教えていただき、ありがとうございます。興味が出てきて、あれこれ考え始めたはいいんですが、逆にますます訳が分からなくなり困っています。
 目撃する場合と聞いて知る場合の確率の変化は、これまでのお話ですと、だいたい目撃の方が情報としての価値が高くて、事後の変化も大きいということでしたね。
 では、「全員女」ではなくて「男女半々」の確率を考えるとどうでしょうか。38問では、もともと「男女半々」の確率が2分の1でしたが、教授への質問によって3分の2に跳ね上がりました。一方、目撃した場合は事前と変化なく2分の1のままです。
 自分で4人や6人のケースを考えてみましたが、同じような結果になりました。「目撃」では確率に変化がおきないんです。「質問→答」では、少しですが確率があがります。
 「女性はいますよ」という答を聞いた場合、「全員男」と「全員女」の二つの可能性でバランスがとれていたうちの片方が姿を消す訳ですから、半々の可能性がほんの少し高くなっても不思議はありません(たとえば事前確率が16分の6だったとして、選択肢が一つ減るので、15分の6になります)。ただ、同じことは目撃した場合にも言えそうなのに、なぜこちらで確率が変わらないのか、ちょっとピンときません。
 女性を一人目撃した場合、残りの人員から一人を脇におくと、そのまた残り(最初100人だったとしたら98人)のあり方は、半々である可能性が一番高い。脇に置いた一人が男であれば、いまだに半々であることを期待できる。その一人が男か女かは半々……。こんな風に考えたらいいんでしょうか。
 それにしても、一人を見たことで何も変わらないというのはどうもピンときません。どのように考えたらいいんでしょうか。

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Re:恣意的な設定?  投稿者:φ  投稿日: 2月 1日(日)19時19分33秒

 事前確率と事後確率の比較をすればいいだけのことですよね。これは具体的な値はどうでもいいのですが……、
 オコジョさんの設定では、女全員という仮説の事前確率→事後確率が、女1人目撃した場合に 1/100→100/199 で間違いありません。
 一方、教授が「女いる」と答えた場合は、1/100→1/100で変化ありません。
 この変化率の差は、事前確率の設定によってまちまちなのは当然ですが、女目撃の場合と教授に聞いた場合とでは変化率の差が一貫して読み取れるところが重要です。

 さて、「実際に受講生が100人のクラスで「女全員」になる確率」について。
 通例のごとく、受講生の母集団は男:女=1:1で100人よりはるかに大きく非復元抽出の効果が無視できるものと仮定します。(むろん100人ともなるとこの仮定は認めにくいところもありますが、恣意的な母集団数と∑を出しても問題の趣旨と関係ないため最も単純な母集団∞で)
 P(全員女|女目撃)=P(女目撃|全員女)P(全員女)/P(女目撃)=1/2の99乗>=2×P(全員女)
 P(全員女|教授答)=P(教授答|全員女)P(全員女)/P(教授答)=1/2の100乗/(1-(1/2の100乗))≒1/2の100乗=P(全員女)
 となり、女目撃の場合は事後確率が事前確率の2倍になったが、教授の答えを得た後は、全員男という場合が除外されるだけなので、事後確率は事前確率とほとんど同じです。
 変化率の差はやはりハッキリしています。
 教授の答えは、女が0人でない場合を平等に扱いますから、人数は1~100にわたって無関係ということです。
 目撃の場合は、仮説ごとに(女の人数によって)目撃の証拠能力が異なってくる。その違いがポイントだったというわけです。(もうこれはみなさん御納得済みのことですが)

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恣意的な設定? 投稿者:オコジョ  投稿日: 2月 1日(日)16時20分52秒

 φさん、こんにちは。
 詳しく解説くださってどうもありがとうございます。
 ただ、問題が解決してすっきりしたという感じが全然しないんです。ちょっと失礼な表現になるかもしれませんが、正直な感想を言うと「あれれ、どこでごまかされてしまったんだろう」という印象でした。まあ、単なる主観的な感想を言っているだけでは始まりません。以下に疑問点を挙げてみますので、よろしくご検討ください。

 もともと、★の議論は確率の“変化”を調べることに主眼があったのでしたね。
 それでは、なぜ「仮説Aは1/101、仮説Bは100/101となる」というように(変化の度合いではなく)二つの“結果”同士を比較するのでしょうか。私はこの比較に意味があるとは思えません。というのは、この結果が★の(最初から無理があるとしか思えない)設定がもともと含んでいたものだという疑いが濃厚だからです。
 φさんのおっしゃるところによると、「1/2」という数字は取りあえず設定してみただけで、本来はいくつであっても構わないとのことでしたね。それでは、「女全員」である確率を1/100、「女一人」である確率を99/100と設定してみたらどうなるでしょうか。こちらの方がずっと実際の関係に近そうでもありますし――。
(仮説二つを検証するのだから確率の値は二つとも同じでなければならない、と言われるでしょうか。検証するべきは確率の変化であって、どちらの仮説が正しいかではありませんね。★のような問題で、仮説A・Bのどちらか一方が問題の正解だと想定するのは荒唐無稽です。事前確率がどのように変化するかという点だけが問題なのですから、同じ値を設定する必要などないでしょう)

 計算してみたところ、結果は「女全員」が100/199,「女一人」が99/199に変わりました(たぶん合っていると思いますが、うっかりは毎度のことなので確かめてみてください。このあとの議論は、この計算が合っていなかった場合は意味がなくなるわけです)。
 この二つの数字は「ほとんど違わない」と表現するのが適切だと私は思います。それに対して、φさんの言い分は次のようなものです。

>>★の場合は、残りすべてが女か男かに百倍も差が出て差異が明白なので、教授
>>が思い浮かべる女の選択肢の数(2人であれ100人であれ)が、女1人目撃の
>>価値に拮抗する効果を持ちえない、ということを私は述べたわけです。

 これはおかしな議論ではないでしょうか。
 「百倍も差が出」るような例を特別に作っておいて、それを一般的に摘要できるかのように主張するのは、いわゆる「詭弁」というやつに相当します。

 また、★の例で「教授から聞いた」ことが仮説になんの影響も及ぼさないのは、影響を及ぼすような仮説をあらかじめ排除しているからに過ぎません。仮説Aと仮説Bの確率の合計を1にしたことは、N人のありようがこの二つのうちのどちらかでしかあり得ないと設定したわけで、そこから出てくる結果が不自然で何ら信頼に値しないものになるのは当然のことでしょう。特別に誂えられた例を根拠にして「教授の思い描きの念力は全然効果なし」と結論づけても何の説得力もありません(お断りしておきますが、念力に効果があるかどうかを私は論じていません。「効果なし」と断言する根拠が薄弱であり、その行論が論理的でないと指摘しているまでです)。

 ちなみに、★が想定した本来の問題は「N=100」のとき全員が女性になる確率でした。検証しようとしたのは、目撃と伝聞によるこの確率の変化のありようです。つまり、ここでは――仮説Aと仮説Bの事後の値を比較する必要などなくて――仮説Aの確率の変化に注目しさえすればよかった筈です。
 この確率は、★では約2倍に、私が出した例では約50倍に増大しました。どちらも増大したことに違いはないとはいえ、仮説の設定の仕方次第でこんなに差が出てしまうということからも、★の議論の不自然さというものが明らかになるのではないかと思います。
 ついでですが、実際に受講生が100人のクラスで「女全員」になる確率はどのくらいになりますか。また、その事前確率が目撃後と教授から話を聞いたあとではどのように変化するのでしょうか。
 仮説A・Bを立てて考えるのもいいのですが、あまり頭の回転のよくないものとしては、「実際にはどうなるのか」を念頭においた上で、いろいろなケースを考えるほうがわかりやすいのです。
 それでは、よろしくお願いいたします。

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論理学がわかる事典はゲラ真っ最中、まもなく予告出します 投稿者:φ  投稿日: 1月28日(水)02時46分58秒

syosinsyaさんの「オコジョ さん。はじめまして^^」の読みが(解説も)完全に正しいです。
そう読めますよねえ。素直に読んでいただければ誤解の余地はないはずなのだが。2の100乗とかが出てくる問題ではないのですがね。
 で、101が出てくる根拠ですが……、
 これはベイズ計算を律儀にやると、
 P(仮説Aが真|女目撃)=P(女目撃|仮説Aが真)P(仮説Aが真)/P(女目撃)
=(1/100)(1/2)/P(女目撃)
P(女目撃)=P(女目撃|仮説Aが真)P(仮説Aが真)+(女目撃|仮説Bが真)P(仮説Bが真)
=(1/100)(1/2)+(100/100)(1/2)=(101/100)(1/2)
ゆえにP(仮説Aが真|女目撃)=(1/100)(1/2)/(101/100)(1/2)=1/101
 直観的に言うと、目撃した1人が、100人+1人の女のうち1人(Aクラスの女)である確率は1/101、Bクラスの女である確率は100/101となります。
(ただし、AクラスとBクラスがともに実在すると考えるのと、どちらかだけが実現していて確率はABとも1/2と考えるのとでは理屈が微妙に異なりますが、それは発展問題……(『論サバ』【101,102】付近乞御参照))
 なんだか眠り姫問題に似ていますが、眠り姫問題ではすべての目撃例を経験するのに対し、ここではただ1人を目撃するという違いがありますね。
 ちなみに、
 P(Aが真|教授が「女いる」)=P(「女いる」|Aが真)P(Aが真)/P(「女いる」)
=(1)(1/2)/1=1/2
=P(Bが真|教授が「女いる」)=P(「女いる」|Bが真)P(Bが真)/P(「女いる」)
 です。無限が出てくる確率問題に比べるとほんと、たちのよい問題といえます。

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題名ミスしました 投稿者:syosinsya  投稿日: 1月27日(火)20時43分17秒

どちらかの可能性しかないので、足すと確率1で
そして両者の開きが百倍なのだから
1/101 と 100/101
ということですね

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あっ c4t 投稿者:syosinsya  投稿日: 1月27日(火)20時28分28秒

確率に百倍の開きがあるわけだから
1/101 と 100/101
となる、ということですか?

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φ さん  質問なのですが 投稿者:syosinsya  投稿日: 1月27日(火)20時04分35秒

【仮説A:百人中女1人】、【仮説B:百人全員女】
この事前確率をともに1/2とした場合で
目撃結果の確率が 1/101 100/101
と分母が101 になるのですね?

この101 というのは 100とおり + 1とおり 
ではないかと思うのですが・・
それって、事前確率が 1:1の場合でも そのまま足していいのでしょうか・・
ちょっと、その101 の意味が見えないのですが・・

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オコジョ さん。 はじめまして ^^ 投稿者:syosinsya  投稿日: 1月27日(火)19時57分30秒

> 、【仮説A:百人中女1人】、【仮説B:百人全員女】の事前確率がともに1/2とすると、教室内に女ただ一人着席の光景を見たというデータを得た後の事後確率は、仮説Aは1/101、仮説Bは100/101となるのに対し、教授に「女はいますか」と聞いて「いる」という答えをデータとして得た後の事後確率は、仮説Aも仮説Bも依然1/2です。

僕も最初、上記はなんのことか全く分からなかったのですがやや見えてきました
百人中に女性が1人きり、と 百人とも女性 の事前確率がともに1/2 というのはあくまで
そのように設定するだけ
例えば、ある教室は女性が1人だけ、別の教室は全員女性
で、目撃者がどちらの教室に入るかは 1/2 としておくとか・・
最初に登録したのが女性だったら全員女性を取る
最初が男だったら女性1人だけ取って他は男にするという募集のしかたをしたとか・・

で、
【仮説A:百人中女1人】、【仮説B:百人全員女】の事前確率がともに1/2
状態にあると設定して

【仮説A:百人中女1人】で、最初に女性が目撃される確率は 1/100
【仮説B:百人全員女】 ては 1/1 (女性しかいないのだから100%)

で、最初に女性が目撃されるという事態が現に起こってみれば
全員女のケースでそれが起きている(従って残り全員女)、と推測するのと
女1人だけのケースで、1/100の偶然でそれが起きている(残り全員男) と推測するのとには
100倍の開きが出る

けれど、教授に「女性はいるか?」と尋ねた場合は
当然「いる」と答えるわけですが、
そこでは事前確率は全く変化しない
もともと 【仮説A:百人中女1人】、【仮説B:百人全員女】
のどちらかなわけで、【女性がいない】のケースはないのですから、教授の返事は新しい情報を何も加えていない 

こんな感じで 目撃では確率に100倍の開きが出るが
教授の返事では 確率はもとのまま 

となると思います

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論理学がわかる事典 投稿者:corobckr  投稿日: 1月27日(火)19時37分37秒

2月にでる初心者向けの本はどんなスタイルなんですか?やはり問題をちりばめて、楽しめるものなんでしょうか?楽しみです。
出来る出来ないにかかわらず、みんな考えるのって楽しいようなので、ぜひ読ませていただきます。
「論サバ」064あたりには、無限が現れる場面では有限を扱うさいの直観や常識といったものが通用しない。とあります。やはり、理解しがたいです。そもそもホテルは満室だったと言えるのでしょうか?満室になり得ないホテルならわかりますが、それだと、「満室になっているホテルがある。」って書き出しがひっかかってしまいます。ってことは満室が正しいんですよね・・・素人にはきつい・・

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つづき 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月27日(火)18時04分21秒

ついでながら、組み合わせの計算もおかしかったようです。
お騒がせしました。

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100/101? 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月27日(火)17時49分42秒

すみません。分数の割算でしくじりました。
分母が2分の1になるのでもとの2倍にならないといけません。
目撃した場合がほぼ1ということになります。100倍ではなく2倍の差でした。

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100/101? 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月27日(火)17時31分43秒

 どういう人を相手にしているのか、少々不安になってきました。
 100/101というのは、どうすれば出てくる数字なのでしょう。
 質問しただけの場合排除されるのは、2の100乗あり得るケースのうちの一つだけ。つまり、この場合あり得るケースの確率を全部合計すると「ほぼ」1になると考えていいでしょう。
 一方、目撃した場合は2の99乗のケースしか可能にならず、これは上で数えた合計の半分に当たります。ですから、ケースの確率合計は――「ほぼ」だか「ちょうど」だか考えるのが面倒になってきましたが――まあ2分の1ということになるでしょう。
 「事前確率」が2分の1だとしたら、それぞれのケースでの事後確率は2分の1ほとんどそのままと、そのまた半分の4分の1――になるのではないでしょうか。(はっきりお断りしておきますが、これは最初の2分の1が正しいとしてです。もちろん、この数字は想定された場合についてあまりにも乖離しています)
 書きたいことは沢山ありますが、もうあきれちゃって、この先を続ける気力が出るかどうか不安です。 

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ハムスターさんへ 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月27日(火)17時30分41秒

 ハムスターさんのおっしゃっていることは半分は正しいと思います。でも、半分だけ正しいがゆえに、かえって全体としては全く見当はずれのコメントになってしまったようです。ご自分でも何を言ってるのか分からなくなっているのではないでしょうか。

>>いや、「”仕掛けのないフェアな”サイコロ」の各目が出る確率が1
>>/6なのだ。
>>という主張は揚足取りです。

 ハムスターさんは誰が誰の「揚足」を取っているとおっしゃりたいのでしょうか。「仕掛けのないフェアなサイコロ」を持ち出してきたのは私ではなくてφさんです。私はそういう表現が絶対必要だとも言ってませんし、またそれに反対もしていません。ただ、事実の指摘をしただけです。文句があるのならφさんに言ってください。
 確かに「仕掛けのないフェアな」などといちいち断わらなくていいのかもしれません。しかし、読者があれこれ余分なことに気をとられないように、そんな補足をつけておく方が親切だとも言えます。ハムスターさん流に言えば、あらかじめ「揚足」を取られる可能性をなくしておくためだと言ってもいいでしょう。

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眠り姫.。o ○ zzz... 投稿者:syosinsya  投稿日: 1月27日(火)15時36分18秒

コインの表の出る事前確率1/2が
彼女が起こされた という事態によって、どのように変化するか
ですか?
こういう表現、ここに来て憶えました(笑)

普通に考えると

起こされる3回の中でコインが表であるケースは1回

で、 1/3   と・・
この場合
表で月曜 1/3
裏で月曜 1/3
裏で火曜 1/3
ということでの計算
最初はこれでいいと思ったのですが・・

しかし、
「表が出ると、1回起こされるグループに分類され、裏だと2回起こされるグループに」 と考えると

表で月曜 1/2
裏で月曜 1/4 (=1/2×1/2)
裏で火曜 1/4 (同上)

この場合は 表の確率 1/2 と
今考えられるのはここまでです・・

みなさん、そしてφ さん、色々面白いことを教えてくださってありがとうございます
考えることが増えて困りますけど(笑)

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ありがとうございます  投稿者:corobckr  投稿日: 1月24日(土)16時12分14秒

説明してみます。

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補足↓ 投稿者:φ  投稿日: 1月24日(土)15時55分33秒

定義中の「日に平均何グラム以上」は、「人体に有意な影響を及ぼしうる境界」であるという補助仮説が同時に採用されるでしょう。その仮説が正しいかどうかは、さらに絞った範囲内で(1/10杯以上と未満など)同じような調査を何度でも繰り返して決めればいいので、さしあたりの問題設定では「適量」まで考える必要なし、と。

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re:至急! 投稿者:φ  投稿日: 1月24日(土)15時36分14秒

こういうのはまあ、日に平均何グラム以上飲む人は「一杯以上飲む」それ以外は「飲まない」と二分されるような定義を採っている、と暗黙に了解するのでしょう。実際の調査でも二分法を使うでしょうし。「塗る」等々の使用法はここでは話題の範囲外ですね。

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至急! 投稿者:corobckr  投稿日: 1月24日(土)15時24分27秒

『論パラ』問077についてですが、一杯未満飲む人の扱いはどうなんでしょうか?その人達が飲まないグループに入っていて、その中で発生率を半分にしているとしたら?適量があり、一杯は飲みすぎみたいに。除外されているのでしょうか…あとは、コーヒーを飲むのではなく、「塗る」などの行為によって使うことで効果がでることも考えられませんか?
誰か5時までに答えを教えて下さい!

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オコジョさんへ2 投稿者:φ  投稿日: 1月24日(土)15時23分15秒

 1月22日(木)03時37分48秒の★と問038との関係が良く伝わらなかったようなので、改めて述べます。
 問038では、確実に保証されたデータ(女1人)以外の、残り1人については性別不明です。★では、確実に保証されたデータ(女1人)以外の、残り99人については性別不明です。このふたつの問題は、N人の受講生中、確実に保証されたデータ(女1人)以外の、残りN-1人がすべて女である確率を求めよ、という問題の特殊例(N=2とN=100)です。★と問038との関係はこれで理解していただけると思います。
 両問とも、データなしのときの事前確率がデータによってどのように変化するかを問題にしています。
 問038では、事前確率1/4がデータ後は【女1人目撃の場合1/2、教授の答えを得た場合1/3】に変化しました。
 ★では、単純化して《仮説A:百人中女1人、仮説B:百人全員女》のみ候補に絞って無知状態を仮定し事前確率1/2ずつと設定し(1/2でなくどんな値でもよい。データ前と後の変化率を調べることだけが重要なので)、その1/2がデータ後は【女1人目撃の場合100/101、教授の答えを得た場合1/2のまま】になります。
 問038では、女1人目撃の場合と、教授から答えを得た場合とで、残りすべてが女である確率に差異が出るのが(始めにオコジョさんが「ひっかかった」ように)直観的にわかりづらいとしても、★の場合は、残りすべてが女か男かに百倍も差が出て差異が明白なので、教授が思い浮かべる女の選択肢の数(2人であれ100人であれ)が、女1人目撃の価値に拮抗する効果を持ちえない、ということを私は述べたわけです。(そういう効果を持ちうるのではないか、とオコジョさん 1月19日(月)17時13分26秒「すみませんが、もう少し……。」が述べていたことに注意)
 オコジョさんの出された「教授の思い浮かべ」などもともと問題に全く無関係なので、私としては1月19日(月)21時35分2秒 に「それでもあえて、オコジョさんの疑問に感情移入してみると……」と書いたとおり。「思い浮かべ」が関与するとしたら「イメージ喚起力」以外のメカニズムが思い浮かばなかったからその語を使ったまでです。女が1人以上いれば【問題に本質的な。美人だとかそんなことではない!】喚起力は何人だろうが同じですからね。「思い浮かべ」が無関係であることをオコジョさんはすでに認めておられるので、もう「イメージ喚起力」は不要ですから捨ててください。
 なお、「ほぼ」については、批判側に立証責任がありますので、「ほぼ」と断り書きをつけている確率問題の実例をいくつか示してください。出典込みでお教えいただけると助かります。

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オコジョさんへ 投稿者:ハムスター  投稿日: 1月24日(土)15時19分3秒

サイコロの各目が出る確率は1/6でしょう?

いや、「”仕掛けのないフェアな”サイコロ」の各目が出る確率が1/6なのだ。
という主張は揚足取りです。

サイコロと言ったとき、普通は”仕掛けのないフェアな”サイコロを想定するからです。
こういうのは言葉の普通の用法でしょう。

人間の言語で、超厳密に対象を表現することなど、不可能だと思います。
それがしたいのならば、数学や論理学などの記号を使うしかありません。

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イメージ喚起力 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月24日(土)05時41分30秒

 ハムスターさんによれば揚足とりは「醜い」そうですが、私の感想では言い逃れというのも「醜い」と思います。

>>子どもの問題も、すでに生まれた男女の総人数が1:1と与えられているなら

 これはどういう意味でしょう。なぜ今ここで「与えられている」と仮定する必要があるのでしょう。受講生の場合と同じにするために、そんな必要があるのかもしれませんが、そもそも同じにする必要自体がないので、新たな仮定を導入する必然性もありません。
 サイコロの目や子供の出産とは違って、受講生が決定するときには必ず確率に差が出てしまうということが問題になっているのです。これはフェアなサイコロをふったときには出てこない差であり、構造的に避けがたい差ですから、それを無視してしまうのはまずいのではないでしょうか。この差をなくすために、誰も頼んでいない前提を新たに「与えられている」ようにするというのは、考える方向が全然逆なのではありませんか?

>>巷の同種の確率問題も同じで、いちいち「ほぼ」という但書きはつけませんの
>>で、確率問題の通例に従った、ということでご勘弁ください。

 「寡聞にして」という話になりますが、私はおっしゃるような「通例」があるとは了解していません。確率を扱った啓蒙書、数学パズルのたぐいで、「ほぼ4分の1」を「4分の1」と表記しているような例を見たことがないのです。φさんにとっては、そんな「通例」があったほうがいいのかもしれませんが、私としては、もしそんな「通例」が実際にあるのだとしたらゆゆしきことだと思われてなりません。
 お手数ですが、二、三でよろしいですから、実際にそんな表現をしている文献の具体例を教えていただけませんでしょうか。

>>百人女の場合は、特定の一人が思い浮かべられる確率は百分の一でし
>>かありませんから、それだけ影が薄く、「イメージ喚起力」は百分の
>>一ずつと言っていいでしょう。

 単純な話だと思うのですが、なぜこんな議論になるのでしょう。
 「イメージ喚起力」とやらをどのようにして計測するのですか。お話の教授とやらが思い浮かべる女性が百人のうちの特定の一人である可能性は確かに百分の一でしょう。しかし、それが「イメージ喚起力」の大小による結果であるとなぜ考えられるのか、根拠は少しも明らかではありません。百人の中に「絶世の美女」がいれば真っ先に思い浮かべられるでしょうし、特別優秀な学生がいたとしたら、その人が思い浮かべられるかもしれません。なぜ「イメージ喚起力」が各人に百分の一ずつあるのか、その根拠がまったく不明確です。
 私の議論が間違っていたことは既に表明しました。しかし、それを否定するのに「イメージ喚起力」なる摩訶不思議な概念を利用するのはおかしいのではないかというのが前回の言い分です。間違った議論だからといって、それを否定する議論がすべて正しいものになるという理屈は成り立たないと思います。
 だいたい、百人全員が女性だという話は、どこにどう結びつくのでしょうか。受講生が2人だという問題を議論していたのではなかったんでしょうか。★印の議論も、何を言っているのかさっぱり分かりません。事前確率が2分の1だということですが、何の確率が2分の1なんでしょう。百人を問題にしているので、38問とは違うことを論じているのだろうとは思います。では、コインの裏表の確率を言っているのでしょうか。とすると、女子学生の出席とコインの裏表の確率がどういう相関関係があるのか、私にはさっぱり分かりません。
 もし「イメージ喚起力」が論理的に有効な概念であるというのなら、「百人全員が女性」であるか「百人のうち一人が女性」であるようなケースで何が問題になり、その概念によってどのように問題が解けるのかを実際に見せていただきたいものです。

>>オコジョさんの理屈では、百人全員女の場合は、一人だけ女の場合の
>>各々に比べて、思い浮かべる顔が多いぶん百倍も確率が高いことにな
>>ってしまいますが、それはいかにも変ですよね。

 何の確率が高くなるのでしょう。
 何をおっしゃりたいのかよく分からないのですが、もし38問の何らかの延長であるのとしたら、「女・女」である可能性は100パーセントになります。それはすぐ分かるので「イメージ喚起力」とやらを問う必要はありません。
 「女」の顔というものを思い浮かべることはできないという理由で、百人分の顔を思い浮かべる可能性については既に否定しています。

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1対1と無限 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月24日(土)05時40分52秒

 たとえば、サイコロをふって出る目の確率はどんなものかということです。1から6の目は立方体の表面を掘って作っているわけですから、必ず何らかの違いがある筈で、無限回ふったらそのかたよりが明確になるに違いないと私は思います。また、コインも裏と表では模様が違いますから、こちらもふれば必ずやかたよった出方になるに違いありません。
 ただ、それをいちいち問題にしていると煩雑になるでしょうし、考えるべきポイントが他にある場合はそのような差は無視するのが通常です。そのために、一定の手続きをとります。『論理パラドクス』の43問では「仕掛けのないフェアなサイコロ」という表現が出てきます。また、Sleeping Beautyの問題では「fair coin」をふることになっています。「仕掛け」がないから偏りが出ないという保証は実はないんですが、これはそのへんのところは無視しましょうねというお約束の表明と受けとらないといけないわけです。
 そこで本題です。私はこんな風なお約束について文句をつけたのでしょうか。そんなことはないと思います。ハムスターさんによれば、講義への登録が可能な男女が1対1の割合であるという前提は、学生の数が無限だという意味なんだそうです。これは、ヘエーが1万回になるようなお話ですね。
 何百人か何千人か、或いは何万人になるのかその規模は分からないものの、有限な数の学生がいて、その男女は同数だと受けとるのが、ごく当たり前の理解になるのではないでしょうか。一方から一人を抽出すれば、当然そちらの側は一人減る――そう考えるのが普通でしょう。1対1というのは、最初に登録する学生が男(女)である確率は1/2であると言っているのであり、それ以上のことを勝手に前提に含ませてはいけません。一人引っ張ってきても残りは同数、二人引っ張ってきても残りは同数、三人引っ張ってきても残りは同数である――これは異常事態ですよ。異常だろうと何だろうと最初に前提として断わってあれば問題はありません。つまり、1対1といったとき、その数は無限であると、当然のように理解するべきなのかどうかということです。それは無理だと私は思います。
 ハムスターさん、あなたは結論が先にある屁理屈を無理矢理こねくりあげているだけです。要するに、話にならないんです。私は、反論するなと言っているのではありません。反論をするなら、人の話をきちんと受けとめた上で、まともな論理にのっとった反論をするべきではありませんかと言いたいのです。
 学術論文がどうこういう問題ではありません。問われているのは「論理」なんですから、「ほぼ4分の1」と「4分の1」の区別がどうでもいいというのでは困るのです。

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「ほぼ」について 投稿者:ハムスター  投稿日: 1月22日(木)10時03分23秒

「ほぼ」は付ける必要はないと思います。
教室内に女が一人着席の光景を見た場合の問題の条件は、男女比は1:1だと書いてあります。
ということは、常に男女比は1:1であるという理想的な状況を想定するのが普通でしょう。
この条件は厳密には母集団が無限であることを意味するわけです。
そう考えれば、女女の確率は厳密に1/2です。

そうでない場合、つまり母集団が無限でないときの厳密な解答は1/2~1/3の間になります。
しかし、この手の問題でこういう厳密さを要求するのはナンセンスだと思います。
学術論文ではないんですからね。

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男か女かxyxy 投稿者:φ  投稿日: 1月22日(木)03時37分48秒

 Sleeping Beautyは、私も、吹っ切れていない問題です。可能世界論の立役者である故David Lewis は1/2を主張していましたが……。
さて、

>>女一人のイメージ喚起力は半分ずつ(あるいは単にダブるだけで加算されない)
>>と解するべき
>というのは、ちょっと苦しすぎると思います。「イメージ喚起力」を云々するのは論理 >的だとは思えませんし

についてですが、十分論理的だと私は思いますが。百人の受講生を持つ教授に尋ねる場合を考えてみましょう。オコジョさんの理屈では、百人全員女の場合は、一人だけ女の場合の各々に比べて、思い浮かべる顔が多いぶん百倍も確率が高いことになってしまいますが、それはいかにも変ですよね。一人だけ女の場合はその女を強制的に思い浮かべざるをえない(イメージ喚起力が強い)のに対して、百人女の場合は、特定の一人が思い浮かべられる確率は百分の一でしかありませんから、それだけ影が薄く、「イメージ喚起力」は百分の一ずつと言っていいでしょう。
 ★ちなみに、【仮説A:百人中女1人】、【仮説B:百人全員女】の事前確率がともに1/2とすると、教室内に女ただ一人着席の光景を見たというデータを得た後の事後確率は、仮説Aは1/101、仮説Bは100/101となるのに対し、教授に「女はいますか」と聞いて「いる」という答えをデータとして得た後の事後確率は、仮説Aも仮説Bも依然1/2です。教授の思い描きの念力は全然効果なし。
 実物の女を1人見たという現実と、単に女を1人思い描いただろうという可能性とでは、確率を変化させる効力が大違いなのですね。100という数が力を発揮するのは前者の場合のみです。
 また、「確率は、受講登録順に、男男、男女、女男、女女がそれぞれ1/4ずつ」についてですが、言われるとおり、厳密には、男女、女男のほうが、男男、女女よりも微妙に確率大です。非復元抽出ですから(cf.問033)。しかし学生総数は2人よりもはるかに多いという暗黙の仮定にもとづいて1/4ずつとするのは「間違い」とは言えないでしょう(cf.過去ログ12月19日(金)02時00分33秒)。子どもの問題も、すでに生まれた男女の総人数が1:1と与えられているなら、同様に、男女、女男のほうが、男男、女女よりも微妙に確率大となります。巷の同種の確率問題も同じで、いちいち「ほぼ」という但書きはつけませんので、確率問題の通例に従った、ということでご勘弁ください。(問033のように母集団が少数で明記されている場合はこの誤差こそが重要ですが)
 なお、上の★の計算も、学生数が百人より十分多いことを前提しています。学生総数が明記されていない場合は、これは暗黙の条件ですね。

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The Case of Sleeping Beauty 投稿者:ハムスター  投稿日: 1月21日(水)22時59分49秒

http://web.mit.edu/adam/www/papers/pub/sleeping/sleeping.html
このリンクが開かないので、
http://www.maproom.co.uk/sb.html#sleeping のThe Case of Sleeping Beauty (Jamie Dreier)を見てみました。

この問題、どうも意味がハッキリしないのですが、コインが表である信頼度?を答えればいいのですか?
・美女が眠らされ、コインが投げられる。
・表のときは、月曜の午後に起こされて質問される。
・裏のときは、月曜の午後に起こされて質問され、また寝かされ、火曜の午後に起こされて再度質問される。
・どの質問もコインが表である信頼度?である。
・彼女は起こされた日がどちらか判らないし、前に起きたかも判らない。
・彼女はこの実験の詳細を知っている。

当然、彼女はコインを見られないのですよね。
だとすると、コインが表である信頼度は、1/3でしょうか?
コインが表で起こされる場合は1回で、裏で起こされる場合は2回ですから。
うん、しかし、起こされた時点ではコインが表である確率は1/2ですか。
ウ~ン。
この問題、ちょっと保留にしときま~す。
『論理サバイバル』を読んでからにします。

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男か女か 3 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月21日(水)22時55分24秒

 まだ終らないんです。もう少しおつきあいください。
 前回のコメントを書いていたときに気がついて、おいおい触れていこうと思っていたのですが、syosinsyaさんが先に指摘してくださいました。
 たとえばサイコロを2度ふったときの確率では、1投目に何が出たかが2投目のさいの目に影響を与えません。兄弟姉妹の場合もそうです。男の子を産んだ次がどうなるかは分かりません。でも、受講生の場合はどうなのでしょう。男女同数だとして、最初に登録したのがどちらの性であっても、二人目になるべき性に差が出てしまうのではないでしょうか。
 話を単純にするために学生が10人ずつだとしてみると以下のようになります。

 一人目が男である確率 1/2
  この場合 二人目が男である確率 9/19
     →男・男である確率    9/38
       二人目が女である確率 10/19
     →男・女である確率    10/38

 同様にして
     →女・女である確率    9/38
     →女・男である確率    10/38
 結果的に
     →女と男である確率    20/38

 『論理パラドクス』の80ページには「確率は、受講登録順に、男男、男女、女男、女女がそれぞれ1/4ずつ」とあります。もしそうだとすると、一方の性にかたよる確率と男女半々になる確率は同じだということになりますが、上の私の理解が正しいとすると、半々の方が確率が高くなります。
 例の当てにならない「直感」というやつによれば、男女半々の中から幾人かを引っ張ってきた場合、どちらかの性にかたよるよりは半々になることの方が起こりやすそうです。ここでは「直感」が当たっていたことになるでしょうか。
 もし上の計算が合っているとしたら、受講生についてのこれまでの話はすべて「ほぼ1/2」「ほぼ1/3」ということになるのでしょうか。
 論理の話ですから、「ほぼ」があるとないとを明確にしないのはかなりまずいのではないかと思いますが、いかがでしょう。
 それとも、またまた私の誤解でしょうか。

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男か女か 2 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月21日(水)22時54分14秒

 隣の子供についても、上と同じように考えられると思います。
 A・B二人の子供のうち一人は男の子である――という場合の「男の子」は「述語=属性」にすぎません。「男の子が一人存在する」という命題を立てられるから、「男の子」がsubjectであってもいい、という理屈はなりたたないでしょう。この命題は問題の二人(A・B)については何も言及していない命題なので端的に無意味です。一種の形容詞としての「a boy」は命題に含まれていますが、「the boy」というようなものは命題のどこにも出てこないので、それを主語として仮定を立てていくことは不可だったのでした。
 φさんのおっしゃる「固定」というのは、このあたりのことについての説明だとは思うのですが、

>>他方、伝聞の場合は、少なくとも一人いるという男の子は、固定されていない
>>ので、兄だけか弟だけかそれとも両方かとなり、つねに二人一組で考えること
>>になって、「兄・弟」の確率は1/3です。

 「固定されていない」からといって、なぜ「つねに二人一組で考えること」が必要なのでしょうか。「固定されていない」ならいないなりに、それをも組み込んで考えていくのが確率の考え方なのではないかと思いました。
 「少なくとも一人いるという男の子」が兄か弟かは分かっていない。それなら、どちらとも決めつけずに両方の場合を仮定して考えればいいだろう、というのが前回の私の理屈でした。

>>論理の形としては、「別のもう一人」のことを考えるのと二人一組を考えるの
>>とで答が変わってしまうみたいです。それとも、全然そんなんではないのでし
>>ょうか。

という私の疑問は、なぜ「二人一組」で考えなければならないのか、その必然性はあるのか、という疑問だったのですが、それには答えていただけなかったようです。
 私の理屈は、いずれにしろ間違っていたので、いったい何をほざいているのかということになってしまいますが……。φさんの説明って、結論は合っているのでしょうが、なんだか途中が納得しにくくて……。
 マッチポンプになって申し訳ありませんが、とにかくここで質問した以上、間違ったままというのでは気持が悪くて――その後の経過を報告させていただきます。

 「兄」という言葉は属性を意味しているような、或いはそのままsubjectであるような、曖昧なところがあります。命題として言い換えて「上の子は男である」とした方がいいかもしれません。「弟」についても「下の子は男である」と言い換えることができます。前回、この二つの仮定だけから話を進めましたが、二人の子供のあり方としてそれだけですませるのは間違っていました。本当は、次の二つも含めて考える必要がありました。
 「上の子は女である」「下の子は女である」
 そこで、以下にまとめると、こんな風になります。

1 「上の子は男である」→ もう一人は 男(弟) 女(妹)
2 「下の子は男である」→ もう一人は 男(兄) 女(姉)
3 「上の子は女である」→ もう一人は 男(弟)
4 「下の子は女である」→ もう一人は 男(兄)

 (上の子について仮定した場合に出てくる結論は下の子についてのものに決まっているので、上は実際には1と3だけでいいのではないかとも思いますが――その場合の確率は2/3)
 立てた仮定に対して出てくる、他方が男である確率は4/6。
 仮定で男が成立する確率が1/2。双方を掛け合わせて1/3。
 ともかく、『論理パラドクス』の結論どおりに1/2になったり1/3になったりするのが正しいようです。これでいいのかどうか、まだ不安が残りますが、いろいろお騒がせして申し訳ありませんでした。

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男か女か 1 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月21日(水)22時53分25秒

 φさん、syosinsyaさん、こんにちは。
 話が長くなってすみません。気になり出すとなかなか止まりません。

>>女一人のイメージ喚起力は半分ずつ(あるいは単にダブるだけで加算されない)
>>と解するべき

というのは、ちょっと苦しすぎると思います。「イメージ喚起力」を云々するのは論理的だとは思えませんし、「解するべき」とする理由も曖昧です。
 ただ、私の考え方には根本的な間違いがありました。「男」とか「女」というのは属性に過ぎないのですね。「美しい」や「大きい」が服を着てそのへんを歩き回れないのと同様、属性が講義に出席したり、登録申し込みに出かけたりすることは本来できないはずと「解するべき」でした。出発点にするべきは個人であって、その個人の属性が「男」だったり「女」だったりするのだと考えなければいけませんでした。つまり、二人の学生が登録を完了させたのを事実と確定するところから考えていくべきでした。
 この二人を仮にAさん・Bさんとします。実際に思い浮かべることのできるのは個人の顔ですから、教授はこの二人のうちのどちらかの顔を思い浮かべたのにちがいありません。そして、それがAさんなのかBさんなのか分からないというのが問題の前提になります。
 私の前回の理屈では、教授は「女」の顔を思い浮かべた、その「女」はAさんであったかもしれないし、Bさんであったかもしれない――という構造になっていました。これは実際を想像しがたいですね。かなり変でした。
 さて、「女であるのがAさんなのかBさんなのか分からない」「ただし、どちらか一方は女である」という二つを前提にして考えます。
 Aさんが女性であることは2分の1の確率で成立します。以下書いていくと、こうなります。

 A→女 の場合  B→男  B→女
 A→男 の場合  B→女(どちらかは女でなくてはいけないので)

 Bが女である確率は、3分の2です。
 「女・女」であるためには、Aも女でなければならないので、Aが女である確率2分の1をこれに掛け合わせると「1/2 × 2/3」で答は「1/3」となります。
 一方、学生を目撃しているケースでは、最初に出席したその学生をAさんと考えます。これは、残る一人をBさんと呼ぶかAさんと呼ぶかの違いに過ぎませんから、論理的にまったく問題はないと思います。Bさんというのは既に確定した個人であって、男女どちらである可能性についても特に制約する前提はありません。ただその属性が問われているのに過ぎませんから、二通りあるうちの一方の「女」である確率は2分の1。(84ページで警告された間違いを犯しているような感じもありますが、とりあえず他に考えようがありません)
「女・女」であるためには、Aさんが女性である「1」とBさんが女性である確率「2分の1」を掛け合わせて答えは「2分の1」。
 と以上のように考えてみました。いかがでしょうか。

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そうなんですね 投稿者:φ  投稿日: 1月21日(水)03時46分34秒

 しばらく考えれば、1/2と1/3と正解が分かれるのは当り前なんですけどね。しかし間違える人が多い問題だと。
 この系統の1/2か1/3か論争で、哲学的にまだ決着していない難問は、Sleeping Beauty Problem(眠り姫問題)と呼ばれるもの(↓)で、『論理サバイバル』098で考察してみました。それの自家版が099【分離脳】。しかしそれら未解決難問に取り組む前に、『論理パラドクス』の確率問題(第3章)くらいは直観的に全部クリア出来る境地に到ってなきゃならんのです。同レベルの未知問題を人に出されたら私もそう簡単に正解できる自信はないな。
http://www.anthropic-principle.com/preprints.html#beauty

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横からすみません 投稿者:syosinsya  投稿日: 1月20日(火)12時45分39秒

同数の男女の中から二人選ぶ
最初に男を選ぶ確率は1/2 
二番目も男を選ぶ確率はほぼ1/2 二番目は女である確率もほぼ1/2

(最初に1人選んだ分残り人数が変化しているから厳密には1/2は続かないけれど もとの男女の数が充分多いとして ほぼ1/2と考え)

(男 男) (男 女)(女 男)(女 女)
全て 同等の確率で起こるので
(男 女)+(女 男) は (女 女) の二倍に考えないと
なので、そのみっつの中で(女 女) の確率は 1/3 と

教授が「女がいる」と答えた場合は(男先 女後)
のケースが含まれている
けれど、
最初に「女」が目撃されたという場合は
(男先 女後)のケースは既に除外されているわけだから、確率が変わるのは当然かと
その場合は
(女先 男後)(女先 女後) だけが可能なので、そのうちの後者である確率は  1/2

って、実は僕は、原文(先生の本)を読んでいなくて
ここの話題だけから問題を推測しているのですが・・

φ さん、僕の書いていること合ってますでしょうか
本を読んでいなくて、ごめんなさい

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丁半賭博 投稿者:ハムスター  投稿日: 1月20日(火)09時55分22秒

勝新の座頭市にこんな場面がありました。
座頭市が丁半賭博のサイコロをふります。
ツボをふせるときに二つのサイコロのうちの一つがこぼれてします。
こぼれたサイコロは半(奇数)。

この賭博、丁半どちらに張るのが有利でしょうか?

φさまの愛読者ならお分かりですよね。ふふふ。

それにしてもこの場面の結末が思い出せないのがチト残念です。
たいした結末じゃなかったような・・・。

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Re:すみませんが、もう少し……。 投稿者:φ  投稿日: 1月19日(月)21時35分2秒

 教授の「思い浮かべかた」は教授の答えかたに反映されないので(「女・女」のときは特別に即答したり大声で答えたりするなら別ですが)、結果として、答えを受取った側の推論にとって教授の「思い浮かべかた」は無関連です。
 それでもあえて、オコジョさんの疑問に感情移入してみると、こんな説明くらいになるでしょうか……、教授が思いうかべた女性が(登録順で)「男・女」「女・男」のうちの女性である可能性と、「女・女」のうちのどちらかの女性である可能性があるので「女、女」の確率は1/2というのではなく、むしろ「女・女」のときは単に教授が思い描く顔で迷う余地を与えられ、女一人のイメージ喚起力は半分ずつ(あるいは単にダブるだけで加算されない)と解するべきでしょう。「男・女」「女・男」では迷いの余地なく思い描く女を強制されるので、「女・女」の場合の二人分のイメージ喚起力をそれぞれ一人の女が担うことになります。結果、「女・女」の確率は1/3にとどまります。
 子どもの場合は、目撃した場合(姿を、または靴下、帽子……)は、それが兄か弟か固定されているので、兄の場合→もう一方は「妹」か「弟」。弟の場合→もう一方は「姉」または「兄」で、「兄・弟」の確率は1/2。他方、伝聞の場合は、少なくとも一人いるという男の子は、固定されていないので、兄だけか弟だけかそれとも両方かとなり、つねに二人一組で考えることになって、「兄・弟」の確率は1/3です。
 【問038】も【問039】も構造は同じで、「赤or白球が計2個落ちてくる。【A.先に落ちた方が赤ならブザーが鳴る。後のについては赤でも白でも鳴らない。B.先後問わず赤が落ちたら一度だけブザーが鳴る。】さてブザーが鳴った。二つとも赤球である確率は?」という問題(ややつまらない問題)に還元できるでしょう。当然、Aが1/2、Bが1/3です。ブザーが鳴った、というデータはいっしょですが、メカが違うので確率も違います。
 かくして、038、039が厳密には「聞いたと見るでは大違い」という問題ではなかったことは、問038の小問3,4(両方とも「見ずに聞いた」場合)の正解が異なることからもおわかりでしょう。
 なお、「登録順を着席順に読み替えるのが論理的に問題ない」というのは、説明抜きで断定したのはチトまずかったかもしれませんが、つまるところ登録順と着席順の区別が問題にとって本質的でないからです(ちょうど、女子学生の血液型とか身長のように)。登録番号というのが日常的でわかりやすいから使っただけで、登録番号でなく「その日に着席するはずの順番」で「男、男」「男・女」「女・男」「女・女」と場合分けをしてもよかったのです。あるいは、その日のキャンパス全体の全教室での着席順によって全学生の登録番号を決めなおす、というシステムを考えてもよい。「登録順」なるものが、いつどのように決められたのかということは、問題にとってどうでもよいため、着席順で登録順に替えて影響ありません。登録順とは、場合分けに用いる便宜的装置にすぎないからです(算数でリンゴやミカンを使うように……)。始めから登録順などといわず、端的に「着席順」としたほうがわかりやすかったかもしれませんが、小問2には着席順が出てこないので、場合分けの基準を統一するためにまあやむなく、といったところです。

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すみませんが、もう少し……。 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月19日(月)17時13分26秒

 解説ありがとうございました。
 確かに2分の1になりますね。改めて考えると、確率というものが自分にはよく分かっていないみたいです。どうやら、可能な組み合わせの数だけ考えていればいいと思っているところに間違いがあったようです。ただ、それにしてもなんだかしっくりこない点が残ります。しつこいようですがお聞きします。
 38問の二通りのケース、一方では女子学生を実際に目撃したというところから推論が始まるわけですね。他方も、受講生の中に「女子学生がいる」という証言を現実に聞いたところから考えているといっていいと思います。ここをもう一歩進めると、教授はどのような思考過程を経て返事をしたのでしょう。一つ考えられるのは、受講生の顔を思いめぐらして、女性の顔がひとり思いうかんだ時点で(それ以上は想起をめぐらせず)肯定の答をしたということです。教授が思いうかべた女性は、(登録順をここで使えば)「男・女」「女・男」のうちの女性である可能性と、「女・女」のうちのどちらかの女性である可能性があります。これは、教授が思いうかべなかった方を問題にしても同じになるでしょうが、こうしてみると問題の答えはこちらも2分の1になってしまうのではないでしょうか。
 もし、受講生ふたりを一遍に思いうかべたとしたら、確かに答えは3分の1になります。女子学生の目撃が現実のことであったように、現実に何らかの思考過程を経ずには質問に答えることはできないでしょうから、教授の考え方次第ということになりますか?
 教授がどう考えるかも確率のファクターにしなければならないとして、この場合確率は3分の1にはならないと思いますが……。どう考えたらいいのでしょう?
 隣の子供の場合です。少なくとも一人は男の子であるというところから出発して、次のように考えるのはいかがでしょうか。
 その一人の男の子は同じ確率で「兄」か「弟」のうちのどちらかである。「兄」であった場合、もう一方は「妹」か「弟」です。また「弟」であった場合、もう一方は「姉」または「兄」です。これらの組み合わせのうちで「兄弟」になる可能性は2回出てきます。そうでないのは「姉弟」と「兄妹」で、こちらも2回です。すると姿を目撃しなくても、男二人である確率は2分の1であることになってしまいそうです。
 論理の形としては、「別のもう一人」のことを考えるのと二人一組を考えるのとで答が変わってしまうみたいです。それとも、全然そんなんではないのでしょうか。
 どう考えたらよろしいでしょうか。
 あ、もう一つだけ。そもそも一番最初にひっかかったところなんですが、なぜ登録順を出席順に読み替えるのが論理的に問題ないんでしょうか。計算すると同じ答になるというのならまだ分かるのですが、読み替え自体が正当だということになるといきなり言われても理解できません。

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あの~。 投稿者:ハムスター  投稿日: 1月17日(土)23時20分45秒

皆さん!。揚足取りは醜いです。

『論理パラドクス』016「三文字以内の日本語では記述できない最小の自然数」は何だろうか?
この問いの解答はおそらくいろいろありますが、φさまの1111が妥当な答えでしょう。
というのは、21は「弐壱」と表記が可能で、領収書の表記で使われます。
同じ事情で21~91までは表記できます。
つまり、領収書の表記を考えると1111が答えとして妥当なのです。

こういう問題は、曖昧さをまぬがれません。
日本の古代語までを考えると異なった解答も可能かもしれません。
が、そういう問題ではなく、こういう問題提起自体に価値があるのです。
こういう問題提起自体が我々の脳ミソを刺激するのです。

まあ、皆さん、分かっていて言ってるんでしょうけどね。

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変則 投稿者:φ  投稿日: 1月17日(土)18時39分17秒

 千四一という表記はふつう認められませんからね――(1月16日(金)02時19分44秒参照)

 センター試験の監督のため、これより勤務地地元宿泊に出向くので、阿呆理詰日記明日分をいま書き込みました。

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IVを横棒が貫く 投稿者:Q太郎  投稿日: 1月17日(土)17時16分0秒

千四一っていう手がありまっせ

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川を横棒が貫く 投稿者:φ  投稿日: 1月17日(土)14時39分17秒

いま調べてみたら、卅(さんじゅう)という字があった。では正解は1041……?

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1031 投稿者:φ  投稿日: 1月17日(土)14時18分11秒

 ありがとうございます。
 しかし「にじゅう」で「廿」は出るのに、「にじゅういち」の入力では「廿一」は出ない。たんにワープロソフトの内容の節約か、それとも「廿」は原則として単独使用、とでもいう暗黙の決まりがあるのか。このへんは国語の先生に訊かないとわかりませんが、「千廿一」が「千二一」に比べてはるかに自然な表記だとすると、めでたく1111の正解復帰……とはいかず、今度は1031が正解になりますか。
 「さんじゅう」は漢字一文字で書けるのかな?

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1021 投稿者:Q太郎  投稿日: 1月17日(土)08時30分3秒

センセ、1021を漢字3文字で表すには、千廿一っていう手がありますよ (^^)b

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Re:38・39問 投稿者:φ  投稿日: 1月17日(土)05時17分13秒

 過去ログ12月21日にありますがもう一度詳細に……
 今回、オコジョさんがなぞってくださったような誤りを誘うところが、確率の恐ろしさなのですよ……。
 確率は直感を信ずるとマズイことになります。★★得られたデータそのものが同じでも、得られ方が異なると確率が異なる★★ことに注意せねばなりません。問038・039は、『論理パラドクス』にあるとおりの解答が正解です。(問041のp.85に、「2人の受講生」への言及がありますから、ご参照いただければと思います。)

 問038の2問目の場合は、少なくとも一人が女とわかったので、二人の受講生を学籍番号順に(あるいは誕生日でも何でもよい)対にしたとき(男・男)、(男・女)、(女・男)、(女・女)の4つの場合のうち、除外されるのは(男・男)だけで、あとの3つは同確率です。よって、(女・女)は1/3。
 1問目の、目撃の場合は事情が異なります。(男・男)が除外されるのは同じですが、残る(男・女)、(女・男)、(女・女)のうち、(男・女)、(女・男)の場合は、たまたま先に目撃されるのが男である可能性があった。★★2問目ではそういう不平等はありえませんでした。女が一人でもいれば、男は無視して教授は3つの場合を平等に「女がいる」と答えたのですから。この違いがポイントです!★★
 着席順と登録順を同一視するのは論理的に全然問題ないのですが、もし混乱するということであれば、クロスする形で別々に付与・記入してみましょう。
 登録順にペアにした性別の組合せの3通りA(男・女)、B(女・男)、C(女・女)の各々を着席順で2分割すると、A(男先・女後)、A(男後・女先)、B(女先・男後)、B(女後・男先)、C(女先・女後)、C(女後・女先)の6通りになります。
 このうち、女が先に着席しているのはA(男後・女先)、B(女先・男後)、C(女先・女後)、C(女後・女先)の4通り。後に着席するのは、男が2通り、女が2通り。よって、1問目でふたりとも女というのは確率1/2です。  質問した場合と、目撃した場合とでは確率がハッキリ異なります。実験してみるとわかりますよ。確率はほんとに、直感が通用するようにみえて通用しないので、人間の脳にとってほとほとシビアな分野です。

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38・39問 投稿者:オコジョ  投稿日: 1月17日(土)03時38分9秒

 はじめまして。ご著書を読んでいて、どうにも納得がいかなかったのでこちらで質問させていただくことにしました。過去ログを探そうとしてみたのですが、該当するものを見つけられませんでした。既に指摘のあった問題の蒸し返しになった場合は、ご容赦ください。
 『論理パラドクス』の38・39についてです。解題は、まず直感的に受け入れがたいと思われました。聞くと見るとで、なぜ確率に差が出るのでしょう。実際に学生の一人を目撃すれば、受講生の一人が女性であることを単に聞いただけの場合と違って、「受講生の一人は耳にピアスをしている」等々といった情報までも入手することができます。しかし、38問の答を出すためにプラスになるような情報について言えば、聞くのも見るのも全然違いがないように思えます。
 目で見て分かったことを一つの文で表わせば「受講している学生のうち少なくとも一人は女性である」となります。そして、正直ものの教授から聞いたことを文にしても、まったく同様になります。同じ情報から導き出される確率に差が出るのは単純に変です。
 これは、39問を省略しないできちんと解題していれば、さらに明瞭になったはずです。引っ越してきた子供二人は次の4通りの関係にあると想定できます。「兄・弟、兄・妹、姉・弟、姉・妹」の4つです。目撃あるいは伝聞によって、少なくとも一人は男であることが分かります。それによって排除できるのは、「姉・妹」というケース一つだけです。男の子が先に顔を見せたのだから「兄」が含まれることが確定する――などという推理はあり得ません。この子は、当然のことながら、弟であっても何の不都合もありません。目撃・伝聞のどちらの場合も、男・男である確率は3分の1でなければならないと思います。
 このことを踏まえた上で38問に戻りますと、同様にして、先に着席しているからといって先に登録しているとは限りません。登録順の「男・女」を排除してしまう理由はどこにもない筈です。直感どおりに、二つのケースとも確率は3分の1でなければならないと私は思います。
 いかがでしょうか。
 ちなみに「嘘の三八」というのをご存じでしょうか。たいていの人は、デタラメな数字を言おうとすると、そのなかに3と8を含めることが多いのだそうです。問題38は、これをもじったイタズラなのだろうかとも考えました。80ページの「登録順を着席順へ読み替えれば」という部分など、うそっぱちをすまして口にする手口そのものにも感じられるのです。続編を読めば、そんな事情の種明しでもあるのかと思って本屋さんでぱらぱらと読んでみましたが、そういう記述は見つかりませんでした。では、こんな問題を三浦さんは本気で間違えてしまったのでしょうか。

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しぁった! 投稿者:φ  投稿日: 1月16日(金)02時19分44秒

 堅い意志を持って、すべきでないとわかっていることを計画的に行なう邪悪な犯罪者も多いと思いますね。堅い意志を持って論文をサボる学生もいるでしょう。
 ところで、『論理パラドクス』や『論理学入門』に対しては時々、直接メールで質問もいただくのですが、昨日、『論パラ』問題016(ベリーのパラドクス)の正解は「千百十一」となっているが「百二十一」はどうなのでしょうか、という質問を受けました。
 この016は最も質問の多い問題で、私も、うすうす別の正解があるかもしれないとは思っていた問題です。しかし「百二十一」については、西暦を縦書きで書くときには一二一と書きますから(実際今ワープロで出した)、三文字で書けます。さらに言えば、アラビア数字はいまや立派な日本語ですから、3桁以下の自然数はみな三文字以内で表わせます。
 しかし――、質問のメールを見ているうちに、ハタと、思いついてしまいました。やはり正解は別にある、「千百十一」ではない!と。そう――、千二十一があるではないか! 千二十一を千二一と書くのは無理があるし、実際ワープロでも出ない。ぬかったわ……、問題016の小問1の真の正解は、1021である!
 他の問題にはそうそう誤りはないはずだが……。

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突発的 投稿者:corobckr  投稿日: 1月15日(木)22時26分56秒

犯罪者は、突発的に欲望、感情がふくれあがってしまうのではないでしょうか?
意志の弱さがあるとはいえ、すべてにおいてではなく、ある欲望がでてくると自分が抑えられなくなり、「そんな行為はすべきでない!」と思ってる自分が負けてしまうことが多いのだと思います。犯罪者も普段はしっかりものでも、あるきっかけによって豹変したり。そのときは意志が負けたのであって、意志の弱い人ではないのかもしれません。
・・それって理性か??意志と理性は違うか・・?

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願望 投稿者:φ  投稿日: 1月15日(木)02時17分47秒

そうすると犯罪者はみな意志が弱いことになりますが、それはちょっと意志の弱さの定義とは違うような。(なぜなら根っからの犯罪者とて、「人を傷つけずに楽しむべきだ」「人を騙さずに稼ぐべきだ」くらい認識してるはずですから――)

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うーん・・・ 投稿者:corobckr  投稿日: 1月15日(木)00時48分1秒

今回はピンとこないです・・
「やるべきだ」と判断したのなら、どっかに「そんな人でありたい」みたいな願望が隠れていそうな気がしますが・・それが誘惑に負ければ、意志が弱い人っぽい。 単なる感覚の話しですけど。
それもそうですが、最近他の人書き込んでこないですね?
もしかして、内容ちゃちいッスか?!

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ですか? 投稿者:φ  投稿日: 1月14日(水)03時02分6秒

論文をとくに書きたくない(論文書きを優先させたくない)場合は、たとえ「書くべきだ」と知っていながらゲームをしてしまっても、「意志が弱い」とは言わないのでは?
「論文書きを優先させたい」と思っている(意志を持っている)にもかかわらず、その意志が貫けない。そういう場合にのみ、「意志が弱い」といえる。
「論文書くべきなんだよね。だけどやる気せん……」というのだと、単に論文を書くべしという認識があるだけで、論文書きの意思も論文書きを優先させたいメタ欲求もないでしょうから、意志が弱いとは言えないでしょう。(弱いといわれる意志そのものが無いのだから)

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もういっちょ問030 投稿者:corobckr  投稿日: 1月13日(火)22時48分50秒

最後に{欲求の調整や変更を図るメタ欲求の目的が果たされなかったとき、「意志が弱い」と見られるのであろう。}とありますが、{果たされなかったとき「が」}と{果たされなかったとき「は」}のどちらで解釈するのがいいんでしょう?
論文を書かなければいけないのは知っていても、「いいや!ゲームしたいもん。」って言ってしまえば、メタ欲求なしに、「意志が弱い」になると思えます。それとも、どっかにメタが隠れてるんでしょうか?
このてのメタ系の「意志の弱さ」を直す手立てはあるんでしょうか?・・・地道に経験を積むことですかね・・何かを賭けると、変化がでることはありますね! 何度も使えませんが

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メタ 投稿者:φ  投稿日: 1月12日(月)23時44分19秒

 欲求とメタ欲求の区別は相対的なものですから、そのつど区別ができていればよく、絶対的な区別が永久不変にあるわけではありません。
 手段と目的の関係で考えるといいでしょうかね。駆け足になっているのは速くバス停に着くため、バス停へ急ぐのは遅刻しないため、遅刻しないのは試験に受かるため、試験に受かるのは大学を卒業するため、大学を卒業するのはいい就職をするため、いい就職をするのは金を稼ぐため、金を稼ぐのは……、すべての行為が手段であると同時に目的でもあります。無条件の手段、無条件の目的などというものはなく、必ず「何に対して」という条件によって、それが手段か目的かが決まってきますね。当然ですが。
 文脈を決めれば、〈☆が手段で◎が目的〉と決まる。それで十分です。メタ欲求もそういう相対的な概念です。生きているかぎり新たな高次のメタ欲求が生じつつけることでしょう。

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問030 投稿者:corobckr  投稿日: 1月12日(月)22時02分56秒

「論パラ」の問030を次の題材とさせていただくことにしました。気になったのが、どこでメタ欲求の線引きをするのか?ということです。本の中では、「数学が好きになりたいなあ」が、メタ欲求ですが(メタ欲求1とします)、そもそもその理由が「嫌いな数学で好成績を収めたい」からだとしたら、それがメタ欲求(メタ欲求2)であり、一生懸命勉強して、数学が好きになれずとも、結果として成績が良ければ、メタ欲求1はクリアされずに、メタ欲求2がクリアされています。さらにその前を考えると、嫌いな数学で良い点をとって「大学に入りたいから」だとしたら、数学でコケても大学に入れればいいのだし、大学にはいれずとも「医者になりたい」が実現されれば意志の強さは証明されるような気もします。たちかえればきりがないようにも思えます。答えはあるのでしょうか?
 
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noise2 投稿者:φ  投稿日: 1月12日(月)17時59分32秒

3)7)15)あたりはプラス要素かもしれませんしね。熱がこもっているという意味で。
そういえば、将棋の世界では、弟子が師匠に勝つことを「恩返し」と言ってますが……。他にも同じ用語を使う世界は多いでしょうが。
プロ棋士の発言を見るかぎりでは、恩返しはされたくない、という人ばかりでしたけれどね。

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深層心理? 投稿者:corobckr  投稿日: 1月11日(日)16時26分50秒

いつもご丁寧にアドバイスをいただき、感謝しています。ありがとうございます。
バックグランウンドノイズ・・・「人生、楽ありゃ苦もあるさ」って感じでしょうか?!(広い意味で。・・・やっぱ違う??「苦があるから、楽がある」的?)
プラス要素を考えようとしたときに、ある言動を私の見方によって、マイナス要素と決め付けてしまっていたのではないか?と思いました。「指導者は長所を大事にしていくべきだ」と言うことはよく聞くので、すでに開放されている才能をみて、適材適所を意識はしていましたが、それだけでは「活かす」が強く、「引き出す」が足りてないんですね。
私が、ある個人の言動をマイナス要素としてとらえてしまっているのは、その言動、もしくはその個人を認めようとしてない心の表れなのでしょうか?
後輩には、私達を追い越すような成長をして欲しいと思う反面、負ける訳にはいかんと思うのも事実です。むしろ後者の方が勝っていると感じます。
だとしたら、指導方法からして、自分が負けないような指導をしてしまっているのでしょうか?深い、無自覚(無意識?)の強い欲求が行動をひきおこすなら、そうなっている可能性があるのではないかと思います。もちろん、そんなのはイヤですよ?!
どうなんでしょう???

都合よく言えば、「負けたくはないが、姑息な手段まで使って勝ちたくはない!そんなことをするぐらいなら追い越されて本望じゃい!!」って気持ちが一番強いなら、精一杯指導が出来ている。ってことになるのがいいですね。
でも、無自覚ってそんな考えもしているものなんでしょうか?個人的には無自覚の方が何倍もよく考えているとおもってますが。
もしそうだとしても、「本気でそう思っていて」ですよね・・自分でもわかりませんね。 仮に、「姑息な手段でも勝つ!」って人が指導したら、やっぱり負けない指導方法になるんでしょうか・・?そもそも教えないとか?!

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noise 投稿者:φ  投稿日: 1月11日(日)03時04分31秒

マイナス要素は無視してプラス要素だけつなげていけばいいんじゃないですかね。マイナス要素は足の踏み場以外のたまたま未使用な床みたいなもので。バックグラウンドノイズがあって初めてロジックが浮かび上がったりもするので。科学界や哲学界も無数のたわごとが飛び交ってこそ波間のホンモノが光ってるんですしね。

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マイナス要素ランキング 投稿者:corobckr  投稿日: 1月10日(土)20時40分13秒

今まで、3チーム各3回ずつ勉強会をしてみて、マイナス要素と言うか、直していきたいと感じたことを書いてみました。(順序に意味はありません)
1)発言を求められないと、しゃべらない、しゃべれない。 2)他人の意見を尊重しない。 3)すぐに批判的意見を言う。 4)語気があらくなる。 5)分からなかったときに、質問できない。 6)声が小さい、語尾が聞き取れない。 7)他人の意見にわりこむ。 8)早合点してしまう。 9)議論の対象をすり替えようとする。 10)質問に対して、まったく違うことを言う。 11)自己評価が高すぎる。 12)自己評価が低すぎる。 13)混乱してしまう。 14)あきらめる、フテる。 15)相手が理解しているかを気にせずに、一方的にしゃべる。 16)チームの中で、自分が先に解をだして優位に立ちたい為に、対話、議論で解をだそうとしない。話かけられても、会話をふくらませることをしない。 17)結論ばかりを先走って求めてしまう。 18)笑わない。 19)準備不足。 20)自分の考えを、言葉で表現、説明できない。 21)考えることに慣れていない。 22)集中力が不足、持続しない。 23)面白さよりも真剣さがまさっている。 24)屁が臭い。
ざっと、以上の22項目がでました。
我々は製造業なので、論理学を学ぶのではなく、改善活動に役立つ、論理的検証力と正しい結論が導き出せる議論ができる力を、身につけたいと考えています。
その観点から見て、この22項目の中でどれが、ワースト3か教えて下さい!!  って、お願いしようとしたんですが、どれもきついですね・・・私があげるなら、14,2,16になりますが、どうでしょうか?
ちなみに、自己分析では、4、7、20に大きく該当してます。もちろんその他もまだまだですが。
この他の、まずいこともあるんでしょうか?やる気がないとかは、外しましたが・・

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愛→倫理か? 投稿者:φ  投稿日: 1月10日(土)01時31分32秒

 『論理パラドクス』086,087,088あたりの、倫理がらみの話だと、女子学生も熱くなるというのが今までの経験です。そのへんはもちろん男子学生も熱くなりはしましたが、男の場合はどちらかというと「頭が悪い」と思われることへの反発力によって数理的抽象思考にムキになりがちなのに対し、女の場合は競争原理よりも感情移入のファクターがあって初めて乗ってくるみたいですね。

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わたしとしては・・ 投稿者:corobckr  投稿日: 1月 9日(金)23時53分26秒

チームが3つあるんですが、どのチームも議論が思うように展開してこないんです。人の影に隠れがちと言うか、消極的っぽいんです。半強制で参加してもらってるからかもしれませんが、寂しいです。なので、個人ではなく、チームで結果を出すように、3チームを集め、同時に問題を解いてもらうのもいいかな?って思いました。競争意識がでるかな?と。
モンティ・ホールみたいに熱い問題って、まだありますか?
育てるって、半端なく大変ですよね・・愛が足りないのかな・・?

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議論 投稿者:φ  投稿日: 1月 9日(金)00時24分45秒

 ・対立した意見を強固に主張する二人を配置する
 ・わずかに変えた問題へと移行してみる
 といった感じでしょうか。042だったら、司会者のクセにより、残ったふたつのうち右側の方のドアを開ける傾向が多く、その確率は右2/3、左1/3。さて今、司会者は左側のドアを開けた。解答者のドアが当たりである確率は? ……といったように。

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結果は同じですが 投稿者:ハムスター  投稿日: 1月 8日(木)23時22分47秒

042-1のような独立事象の問題を、あえて従属事象の問題と考える必要はないと思います。
むしろ、それをすることが理解を複雑にしてしまうような気がします。

042-1ではハズレのドアが開いた時点でも、他のドアの当る確率を変化させることはないはずです。

>このような例題を議論して、勉強していくのに適した人数はどの位でしょうか?

私は男女1人ずつこの実験をしてみましたが、女性にはほとんど興味を持ってもらえませんでした。
女性とやるときは、何か工夫が必要なようです。

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そうです! 投稿者:corobckr  投稿日: 1月 8日(木)21時45分38秒

通り縋りさん、フォローありがとうございます。まさに、そのとおりです。
今後もフォローを期待してます!もちろん、フォローの必要がないように頑張りますが。
このような例題を議論して、勉強していくのに適した人数はどの位でしょうか?今は、9人で進めていますが、やや多いように感じます。目的や、議題、メンバーの親密度、進行役の技量などで違ってくるとは思いますが、一般的にはみたいなのってあるんでしょうか・・
あと、楽しい問題や、進め方などありましたら教えてほしいです!ぜひに。

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なるほど 投稿者:φ  投稿日: 1月 8日(木)14時33分51秒

意味がわかりました。
三つの1/6のうちのひとつだから、結果として1/3という意味だったんですね。
その通りです。
小問2はやや複雑なので全部場合分けをしましたが、小問1にも同じ考え方が適用されます。041も同じです。

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老婆心の押し売り失礼します 投稿者:通り縋り  投稿日: 1月 8日(木)12時52分49秒

はじめまして。
いつも楽しく拝見させていただいています。

corobckrさんの仰っておられる意味は下記のような意味だと思いますが
間違ってたらごめんなさい。

corobckrさんは『論理パラドクス』89ページ下部にある、
問42小問2の答えと同様の考え方を小問1に採用していると思います。

小問2の答え冒頭にある、1~6の可能性で、4/10、2/10という数字をすべて1/3にすると
小問1と同じ状況になります。
そうすると”1/3の半分”で1/6という数字が出てくるのかなと…。

corobckrさん間違ってたらごめんなさい。

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なかなか 投稿者:corobckr  投稿日: 1月 8日(木)12時35分41秒

うまく説明できませんが、4/10は本ででてきますよね?仮説Pの検証で。
もともとは、それぞれがある確率を持っていて、ある事がおこって、残った起こり得るものたちに、確率が分配される。その分配は、そのものが、起こり得るものたちのなかでどのくらいの占拠率かによって決まるんだと理解したんですが…
問042では、ドアがひとつ開いたあと、自分が選んだドアと、もうひとつのドアでは、その比率が1:2になってるんじゃないですか?1/6:1/3として…間違ってますか?!

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もう少し説明を 投稿者:ハムスター  投稿日: 1月 8日(木)09時39分12秒

>1/6ってのは、2の答えの中で4/10の半分ってなってるように、

これ、分りません。
4/10という数字はどこから出てくるのですか?

>ドア3が美女でドア1、ドア2が開かれるのは、それぞれ1/3の半分って言うことでしょうか?

1/3の半分って、どういう意味?
う~ん。
ドアを半分開くというような意味?

corobckr さんの考え方をもう少し説明してください。

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ありがとうございます 投稿者:corobckr  投稿日: 1月 8日(木)06時45分18秒

反則スレスレですか・・
1/6ってのは、2の答えの中で4/10の半分ってなってるように、ドア3が美女でドア1、ドア2が開かれるのは、それぞれ1/3の半分って言うことでしょうか?

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「が」 投稿者:φ  投稿日: 1月 8日(木)03時14分29秒

「が」は難しいので、問004の3は、論理パズルとしては反則スレスレの問題ですね。ただ、日本人なら誰でも持っている言語感覚に従えば、正解に一致するだろうと。まあ、ほぼ「だけが」の意味ですかね。
    ひとつのドアが開いた時点で1/6に落ちている、というのは意味不明ですが……
 なお、モンティ・ホールの2は、美女のドアがどれかを王様が知らずにライオンのドアを開けたとすれば、「あなたの選んだ扉A」が美女である確率はそれぞれ単純に、①1/2、②2/3となります。今度はともに確率が増えてますね。

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解明しました! 投稿者:corobckr  投稿日: 1月 7日(水)21時23分50秒

納得できました。なんとも不思議なものですが、参加メンバーにも理解してもらえたようで良かったです。
最初のドア3のケースでも、1/3が保全されているのではなく、ひとつのドアが開いた時点で1/6に落ちているんですよね?結果としては1/3になるので変化してないように思えるだけで。(表現が正しくないかもしれませんが・・)
明日、あさっても別チームとやるので、間違っていればご指摘お願いします。
質問が続いてしまいますが、問004 4枚カードの後半にでてくる「が」ですが、この「が」は「だけが」と同じ意味としてとらえる「が」なのでしょうか?そもそも「が」ってそういう意味なんですかね・・・すいません無知で。

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たしかに 投稿者:φ  投稿日: 1月 7日(水)01時58分2秒

不思議ですよね、対立候補の一つが消えたのに、当りの確率が減ってしまうなんて。
 だけど事実だから驚きです。実験すると面白いでしょうね(私は実験してませんが)。何十回もやってみれば、論理のとおりの確率になるはずです。【得→損】を【損→得】と感じてしまうこういう錯覚を悪用して、人をだましてもうけてるやつも裏世界なんかにいるんでしょうね。いやオモテにも。
 『論理パラドクス』の各問に疑問や別解を発見されたら、ぜひお知らせいただきたいと思います。
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はじめまして。 投稿者:corobckr  投稿日: 1月 6日(火)23時07分12秒

昨年の暮れから、会社の20代を中心にして勉強会をやっています。目的は、論理性、検証力を身につけたいからです。その手引きとして「論理パラドクス」を活用させていただいてます。製造業で、学歴も低く、入社数年たっている者がほとんどなので、受け入れられるか心配でしたが、予想よりも好評で楽しくやれています。まあ、レベルは恥ずかしいかぎりですが・・
明日は、話題にでていたモンティ・ホールでやります。みんなが理解、納得してくるか、新解釈が飛び出すか楽しみです。ちなみに、私自身も飲み込めない部分もあったりしてます。
持っていた確率が減ってしまうケースもあるってのが、どうも・・

議論には必須の教養がある!との言葉を信じてあせらず頑張ります。まだまだ議論と呼べるほどでもないですけどね!

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おしらせ 投稿者:φ  投稿日: 1月 6日(火)04時47分1秒

 ここに掲げるべき情報なのに書き忘れていました。
 12月半ばに、共同通信文化部の取材を受けました。
 いつぞやの「シミュレーション・アーギュメント」についてです。どのような議論なのか、諸々の学問分野とどう関係しているのか、等。
 1月中旬配信の記事になるそうです。
 共同通信というと、何新聞あたりだったかな。首都圏の文化面にはあまり載らないような……。どのくらいの大きさの記事になるのか等は不明です。
 ここであのSAを蒸し返す必要などありませんが、それらしい新聞記事に気をつけていただければと。
 記事が出たらいずれHPにアップするつもりですが。

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謹賀新年 投稿者:ハムスター  投稿日: 1月 5日(月)08時35分22秒

明けましておめでとうございます。
また、『<読みこなし・使いこなし・活用自在>論理学がわかる事典』のご出版、おめでとうございます。
論理学関連の教養本は数あれど、どれも論理学の特徴を誇張するものばかりで、基本を説明していないのが不満だったのです。
調べたいことがすぐ分りそうなこの本には大いに期待しております。

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たったいま 投稿者:φ  投稿日: 1月 3日(土)02時10分17秒

アフォリズム日記は、たった今突如として書き込めました。3日分(869,870,871)書き込みました。
何かむこうサイドのトラブルだったのだと思われます。

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オシラセ 投稿者:φ  投稿日: 1月 2日(金)04時39分40秒

●原因不明ですが、1月1日よりアフォリズム日記が書き込めなくなっています。(書き込み操作はできるのだが、ページに反映されない)
 関係あるのかどうか、「※日記URLが新しくなりましたので、注意してください。」という表記が発見されました。↓だそうです。ただしこれを知ったからといって何も改善されません。
●もひとつオシラセですが、以前ここで告知しました拙著超初心用論理本、以下のように決定したとのこと。(日本実業出版社)
タイトル『<読みこなし・使いこなし・活用自在>論理学がわかる事典』/定価(本体)1600円/部数6000部/見本日2月13日/納品日2月18日
http://www.at-diary.com/diary/diary.php?id=484

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