三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ2003年)

過去ログ索引

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 たった1回でも 投稿者:φ  投稿日:12月29日(月)01時48分12秒

  >司会者が知らないまま1つを開けて、たまたま外れだった場合は
  >2/3という確率は保全されない  何故なのか

 ■場合1.司会者が外れドアを知っていて開けてみせる場合は、はじめから「外れ」が出るとわかっているから、情報価値がありません。
 ■場合2.司会者が外れドアを知らずにたまたま外れを開けた場合は、当りを開けてしまう可能性もあったにもかかわらず外れが来たので、それだけ、2つのドア両方ともが外れている確率(解答者がすでに当りを選んでいる確率)が高いという証拠になるわけですね。場合1にはそういう証拠能力はありません。
 ドアA,B,Cのうち解答者がAを選んだとして、司会者がCを開けてみせ、外れだったとす る。A,B,Cそれぞれが当りである事前確率をP(A),P(B),P(C)として(もちろんすべて1/3)、Cが外れていたという新たなデータを条件とする、Aが当りである条件付き確率 P(A|~C)は、
  P(A|~C)
 =P(A)×P(~C|A)/∑(X=A,B,C)P(X)×P(~C|X)
 =P(A)×P(~C|A)/P(A)×P(~C|A)+P(B)×P(~C|B)
 となり、
 ■場合1のときは P(~C|A)=1/2   P(~C|B)=1
 ■場合2のときは P(~C|A)=1/2   P(~C|B)=1/2
 というふうに違う値が入るので、答えが異なるわけですね。
  上のベイズ式を使えば、ドアが何個の場合であれ、司会者が何個の外れドアを開けてみせた場合であれ、解答者の選んだドアが当っている確率(かつ、変更したときに当る確率)が求められます。
 確率の恐ろしいところは、多数回の試行をせず一度だけゲームをしても、同一のデータから論理的にこうして確率の相違が現われることです。

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↓訂正 投稿者:syosinsya  投稿日:12月28日(日)18時55分15秒

>最初に選んだドアの当たりである確率は1/2

 1/3 です。 すいません

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こんばんは 投稿者:syosinsya  投稿日:12月28日(日)18時53分37秒

>  モンティ・ホール・ジレンマの罠は、「場合の数」と「確率」を混同することです。場合の数が2だから(ドアが2つ残っているから)確率は1/2、とナイーブに考えがちなのです。人間の直観ってもろいですね。

自分の経験では初めてその手の問題を見たとき
1つのドアについての持ち確率(ドア3個なら1/3)は変化するはずないのでどちらを選んでも同等
だから1/2 と考えてしまった記憶があります 
ドアが2つだから、に加えて、そのどちらのドアの当たり確率も外れドアを閉じる前も後も変化するはずなく同等
と思ってしまったところが敗因だったと・・

そのあと、『ドアが100個あって、入っていないものを次々閉じていったらどうなのか』
と思いついてイメージしてみて、パッと自分の錯覚に気づいて興奮したという経験をしたのを覚えています

最初に選んだドアの当たりである確率は1/2
選ばなかった2つの側に当たりがある確率は2/3 外れと分かっているドアを1つ閉じてくれる時、2/3の確率は
保全されたまま1つのドアが残る
けれども
司会者が知らないまま1つを開けて、たまたま外れだった場合は
2/3という確率は保全されない  何故なのか

(ハンドルネーム変えました。)

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そうですね 投稿者:φ  投稿日:12月27日(土)20時35分43秒

 そしてたとえば、4つの中から1つ選んで、司会者が残り3つのうち1つだけハズレを見せるゲームでは、変更しないで当たる確率は1/4、変更して当たる確率は3/8となりますね。
 (1/4+3/8+3/8=1)

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4つだと3/4 投稿者:ハムスター  投稿日:12月27日(土)18時53分55秒

?と思ったので、φさま版の実験をしてみました。
結果はこうです。(○:当たり、変:変更した)
×無 ○無 ×変 ○無 ×無 ○変 ×無 ○無 ×変 ○無 ゲーム不成立は6回

変更して当り、1/3、
変更しないで当り、4/7です。

φさまのおっしゃるとおりの結果っぽいです。
これは、やっていると分るのですが、被験者が変更して当るはずだった場合の1/3を私がゲーム不成立にしているようです。

モンティ・ホール・ジレンマで、4つの中から1つ選んで、残り2つのハズレを見せるゲームでは、変更して当る確立は3/4ですよね。

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Re:心理学? 投稿者:φ  投稿日:12月27日(土)17時39分49秒
 いや、「心理学っぽい」ことは確かですが、心理の問題として割り切ったり、「3つのものを、1つのグループと、2つのグループに分けて、そのどちらかを選択する問題に還元できる」としてしまうと、また間違いに陥りがちです。
 re:モンティ・ホール・ジッケンに述べたように、解答者が選択を変えず元のドアを選び続けた場合に当たる確率は、
 ◆◇◆司会者が当りのドアを知っていて外れを開けてみせたなら……、  正解は1/3
 ◆◇◆司会者が当りのドアを知らずに外れを開けてみせたなら……、   正解は1/2
となる。このへんは心理学ではなく、数学によるきちんとした区別が求められますね。

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心理学? 投稿者:ハムスター  投稿日:12月27日(土)09時41分54秒

モンティ・ホール・ジレンマが分りましたよ。
じつは私の被験者が1/2を直感しなかったことが不思議だったんです。
ナゼか?と考えているうちに分りました。

この問題は、3つのものを、1つのグループと、2つのグループに分けて、そのどちらかを選択する問題に還元できるんです。
これなら、誰でも2つのグループを選択しますよね。
そして、2つのグループを選択して当たる確率が2/3だということもスグ分ります。

分ってみれば何のことはない。
2つのグループから1つを除いて、当たる確率が1/3から1/2に変化したようにみせるところがミソなんですね。
これは確率問題というよりも、心理学っぽい問題ですね。

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re:モンティ・ホール・ジッケン 投稿者:φ  投稿日:12月25日(木)17時14分2秒

 次は、こういう実験をしてみると良いでしょう。
 解答者だけでなく司会者も、当りのドアがどれか知らない設定にする。それで、解答者が選ばなかった二つのドアのうち、一つを司会者が開く。それがたまたま当りだったときは、ゲームから除外する(勘定に入れない)。司会者の開けたドアがたまたま外れだったときだけ、残った2つのドアのうち、解答者は、「選択を変える」「変えない」を試みる。
 こういう設定にすると、勘定に入る試行のうち、選択を変えても変えなくても当りを引く確率は1/2になるはずです。
 こちらの設定は、038【2人の受講生】の問1の設定に相当します。だから正解は1/2。
 この違いについては、↓にアップロードした私の書評をご覧ください。
 ほんと、モンティ・ホール・ジレンマに関しては、間違っている本が多すぎて困るのですよ……。
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/euclid-w.htm

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モンティ・ホール・ジッケン 投稿者:ハムスター  投稿日:12月25日(木)09時41分32秒

興味があったので、実験してみました。
一人の被験者に10回テストしました。
(この被験者、確率問題には怨みがあるとか。どうやら、入試の確率問題で失敗したらしい。)

結果はこうです。(○:当たり、変:変更した)
×無、×変、○変、×無、○無、×無、○無、○変、×無、○変

変更して当たり、3/4、
変更しないで当たり、2/6です。

φさまの説明を裏付るかのような、結果になっています。
もう少し、考えてみます。

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「場合の数」と「確率」を混同すると…… 投稿者:φ  投稿日:12月24日(水)02時37分33秒

 モンティ・ホール・ジレンマは、論理が直観に反する代表例として、よく取り上げられます。人をなぜか熱くさせる問題として有名です。ある経済学本の監訳者が、この問題を記した原著の答えは間違っているとわざわざ訳注で訂正してしまい恥をかいたそうです。(『バタフライ・エコノミクス』早川書房)
 むろん、言葉のトリックではなく、『論理パラドクス』に私が書いた解答が客観的な正解です。
実験してみるとわかります。パートナーと二人で、ぜひ何度も実験を繰り返して記録をとってみてください。そのあとでもう一度、問042を読み返して納得していただければと。
 モンティ・ホール・ジレンマの罠は、「場合の数」と「確率」を混同することです。場合の数が2だから(ドアが2つ残っているから)確率は1/2、とナイーブに考えがちなのです。人間の直観ってもろいですね。
 月にウサギはいるかいないか、場合は二つに一つだから、月にウサギがいる確率は1/2、などといえば誰もが変だとわかります。しかし、いかにも同列にドアが並んでいると、大数学者エルデシュですら騙されてしまったのです。(エルデシュも、コンピュータ・シミュレーションの結果を見て納得したといいます)
 論理を前にしても直観にしがみつくのではなく、論理にあわせて直観を修正してゆく謙虚さが大切でしょう。謙虚さ。そう、論理は倫理と深く結びついているのです。問042に合致する直観が得られたとき、知性と徳性が確実に一段階上昇していることでしょう。

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単位が不揃い 投稿者:ハムスター  投稿日:12月23日(火)22時18分6秒

042モンティ・ホール・ジレンマ については、意見を持っています。
これは、言葉のトリックなのです。
(元)は1/3であった確率が、(現在)は1/2に変化する、という事象を、(元)の視点から説明しているにすぎない。
(現在)に変化した時点で選びな直すことを(元)の状態から説明すれば、3つの内の2つを選ぶ問題に変化しているわけです。
つまり、当たる確率が1/3から2/3に変化したという説明は、(現在)の状態の説明ではなく、(元)の状態から見た(現在)の説明にすぎません。

この問題のプログラムを1つ見てみましたが、(元)の確率1/3と、(元)の状態から見た(現在)の確率2/3を比べているにすぎません。
対象を比べる場合、視点や状態を揃えなければ、あまり意味がありません。

真実は、当たる確率は1/2が答えです。

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ウソではない 投稿者:φ  投稿日:12月22日(月)02時49分2秒

>看守が3号銃殺を2号銃殺に言い換えることは、看守はウソをつかないという前提に反しています。

 ↑これは全然違いますよ。1号釈放の場合、質問者である3号本人についての情報は与えないことになっていますから、その条件がなければ本来「3号銃殺」と答えたくなる場合でも、ぐっとこらえて「2号」に言い換えることになるわけです。2号は銃殺されるのだから、ウソをついたことにはなりません。
 なお、順列と組合せの各々に応じて違う確率がそれぞれ正解だ、とは考えないようにお願いします。「場合の数」と確率とは別もので、確率の正解は一つですから。

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順列と組合せ3 投稿者:ハムスター  投稿日:12月21日(日)18時22分0秒

★データの得られ方★によって、確率が変化する、という面白さは理解できます。
ただし、038では対象の順列を問題にした場合、です。

男と女の順列は、男男、男女、女男、女女の4つです。
男と女の組合せは、男男、男女(女男)、女女の3つです。
038の1(一人目が女)の場合、女女の確率は、順列でも、組合せでも1/2です。
038の2(どちらかが女)の場合、女女の確率は、順列のときは1/3,組合せのときは1/2です。
順列の場合は、「一人目が女」、という情報と、「どちらかが女」という情報では女女の確率に差がでることになります。

041の3囚人問題の2も私が引っ掛かっている問題です。
これは「D.1号が釈放されるので、3号銃殺と答えよう→2号銃殺と答えよう。」が問題だと思います。
看守が3号銃殺を2号銃殺に言い換えることは、看守はウソをつかないという前提に反しています。
つまり、看守はDを選択できず、答えは1/2となるはずです。

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情報「女あり」の得られ方が問題 投稿者:φ  投稿日:12月21日(日)02時19分13秒

 あ……と……、
 ★順番を問題にしていたのではないのですよ★
 わかりやすくなると思って登録順などと書きましたが、順番など一切ついていない場合にも解答は同じです。
 問038は、★データの得られ方★に関係しています。結果として全く同じ情報「少なくとも一人は女である」が得られても、その情報の得られ方が異なると、情報から推測されるべき仮説の確率が変わってくるのです!
 問038の、1問目の場合、データは観察者の意図とは無関係に否応なしに与えられてきます。だから、受講生が男と女である場合には、男が座っているのが見える可能性があったわけです。つまり、本当は女がいるのに、女がいるということがデータとして出てこない場合もありえた。ところが女が座っていた。
 他方、2問めの場合は、教授に「女はいるか」と尋ねるという形で、質問者がデータ内容をコントロールしています。男と女である場合には、必ず女の存在がデータとして得られるようになっている。
 1問目の状況の方が、2問目の状況に比べて、「女あり」というデータは観察されにくい仕組みになっていた。それなのに、男ではなく女が観察された。よって、1問目の状況での「女あり」の方が2問目の「女あり」よりも情報価値が高く、{女、女}である確率がそれだけ高いことを示す証拠になるわけです。2つの場合で確率が異なるのはこういう理由によります。3問目と4問目の正解が異なるのも同じ理由です。
 問041,042も、038と全く同様の、情報の得られ方の問題であることに注意してください。
 さて、

 >多宇宙論を持出すと、どんな奇跡も、どんな天才の偉業も、まったく平凡なできごとになってしまう。

 ↑これはそのとおりですね。しかし、あくまで、多世界全体にまたがって平凡ということであって、一つの世界の中では(特に私たちのこの世界の中では)非凡なのですから、別に直観に反していないと思います。

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順列と組合せ2 投稿者:ハムスター  投稿日:12月20日(土)17時17分50秒

今、私の疑問は氷解しました。
φさまは男と女の順番、を問題にされていたということですね。
038の1の解答にも、登録順と説明してありますね。
ただ、問題だけ読むと順番は問題でないように読めます。

今回の私の疑問は、順列の問題を組合せの問題と理解してしまったところにあります。
私が今、論理の暴力だ! と感じているのは多宇宙論です。
多宇宙論を持出すと、どんな奇跡も、どんな天才の偉業も、まったく平凡なできごとになってしまう。
そんなはずはない、というのが私の直感です。
これは直観だと信じています。

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いれちがいで 投稿者:kotobazukuri  投稿日:12月19日(金)02時06分36秒

失礼しました

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たまたま今見たので 投稿者:kotobazukuri  投稿日:12月19日(金)02時01分6秒

横からすみません

「確率」ですよ。
1(男女)、1(女男)、1(女女) の最後のひとつだけが「ふたりとも女のケース」なんだから 1/3 です

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Re:順列と組合せ 投稿者:φ  投稿日:12月19日(金)02時00分33秒

 組合せの問題として考えられますが、次のように考えれば氷解するのでは。
 033【4枚カードPart2】の問1、非復元抽出と復元抽出を参照してください。(組合せというのは復元抽出にあたるでしょう)
 大学の学生数という母集団の人数は、二人に比べて大きいので、二人の性別の選びかたは事実上、復元抽出にあたります。(本当は非復元抽出ですが、人数比があまりに違い、問題文中に学生総数が明記されていないため、事実上、復元抽出)
 すると、性別が同じ場合と異なる場合が1/2ずつです。性別が同じ場合のうち、男男の場合が除外された。ということは、残りの女女の場合は、性別が異なる場合の半分の確率です。つまり、全体の1/3となります。
 038の問1の方は、一人が固定されています。問2と違い、その人を除外して他の女に代えることはできません。よって、自由に変えられるのはもう一人だけで、性別の一致は1/2です。
 私にとっても、じつはこの問題(と次の039)は未だに不思議な感じがします。とくに039は設定からして私が作った問題ですが、確かに奇妙ではある。しかし論理には従わねばならない。感性や直観を侵害してくる「論理」のこの暴力性がタマラナクいいですよねェ。いつぞやのSAもそうでしたが。

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順列と組合せ 投稿者:ハムスター  投稿日:12月18日(木)23時12分7秒

「論理パラドクス」ですが、またまた、あちらこちらで引っ掛っています。
思考法が鍛えられる本なので細かいことは、まっいっか、なんて思っていたんですが、疑問が日に日に大きくなるので、1つクリアさせてください。

「038 2人の受講生」の2ですが、問題はこうです。
「A教授の講義には、2人の学生しか受講していない。A教授に、「受講生 に女子はいますか」と尋ねると、「いる」という答えだった。ふたりとも女子である確率はいくらだろうか。ただしA教授はウソをつかないものとし、
 もともと受講申請のできた学生数の男女比は1:1であるものとします。」

解答はこうです。
「・・男女、女男、女女が残って、女女の確率は1/3。」

しかしです。
これは順列の問題ではなく、組合せの問題ですよね。
ですから、男女、女男の順列は、組合せとしては1なので、答えは1/2となるのではないでしょうか?

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ひも 投稿者:φ  投稿日:12月15日(月)00時53分20秒

 超ひも理論とかM理論とかは、経験的に直接実証できないが間接的検証はできそうという点で多宇宙説と似ています。ただし、究極理論であるからには、パラメーター(独立変数)の恣意性を無くさねばならない。宇宙を一つだけ認めた場合、恣意性をなくすことは絶対無理だと思います。超ひも理論も必ずや多宇宙モデルに吸収されざるをえないでしょう。一宇宙モデルの究極理論はちょっと想像できませんが……。

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多次元宇宙論 投稿者:ハムスター  投稿日:12月14日(日)13時02分15秒

万物究極理論といえば、ヒモ理論には大いに期待しています。
この理論の考え方には面白いヒントがあるように思います。

この宇宙は多次元で構成されていて、我々はそれを時空の4次元でしか観測できない。
ということは、観測者の誕生はヒモレベルの多次元宇宙では必然であって、我々が観測するときには多次元から4次元への投影によって、必然であった事象が、偶然として投影されざるを得ない。
ということが起こり得るわけです。
立方体を2次元に投影すると多角形にしか見えないのと同様です。

多宇宙論と多次元宇宙論って、面白い対比です。

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万物究極理論 投稿者:φ  投稿日:12月13日(土)22時49分28秒

現代物理学の20個とも50個以上ともいわれる独立定数を一つの原理から導き出せる万物究極理論への望みこそ、最も途方もない宗教のような気がします。
なお、「偶然」と「奇跡」は全然違うものですね。偶然というのは必然性がもともと無い状態を言い、奇跡というのは必然性が支配しているところからの一瞬の逸脱を言うわけですから。偶然の支配するところには奇跡はありえないし、奇跡が起こるところには偶然は存在しなかったのです。

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見込みの可能性 投稿者:ハムスター  投稿日:12月13日(土)15時10分56秒

しかし、多宇宙説は実証が不可能なんですよね。
観測者の誕生は偶然であるらしいという研究に対して、多宇宙論を導入すれば偶然ではないですよ、という反論は、
ニュートン力学は、他の宇宙では通用しませんよ、というのと同じなのではないか、という疑問があります。

もちろん、対象を偶然として考えることは間違いであると思います。
偶然とか奇跡という考えからは宗教しか生まれませんからね。

多宇宙論でなくとも、偶然を排除すべく研究を重ねていけば、いつか成果が現れると思うのですが・・・。
科学の歴史がそうですよね。

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〈この宇宙〉論は見込みなし 投稿者:φ  投稿日:12月12日(金)02時17分27秒

〈この宇宙〉論も〈この惑星〉論も、私が誕生できたことをとてつもない奇跡にしてしまう。どこかに観測者が生まれてもそれが既定の時空にピンポイントで一致しなきゃ「私」じゃないというんですからねえ。
 多宇宙説、多惑星説なら、数ある場所のどこかに生まれた観測者が「私」になればいいのですから、奇跡でも何でもない。どこかに一つでも生まれりゃいいのです。
 〈この宇宙〉論も多宇宙説も、ファインチューニングされた宇宙、そしてハビタブル惑星は無数にありますから(〈この宇宙〉論でも宇宙はたくさんあることにご注意ください)観測者が生まれる確率はともに1に等しいにせよ、私の存在を奇跡でなくするのは多宇宙説だけです。

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多宇宙と〈この宇宙〉2 投稿者:ハムスター  投稿日:12月11日(木)10時24分31秒

そうでした。 
φ研究室に出入りする者は、「観測選択効果」を忘れてはいけないのでした。

φさまの例ですと、
多宇宙論は、確率的に自分が呼ばれることになり、
〈この宇宙〉論は、確率は関係なく、選択されて自分が呼ばれるということなのでしょうか。

とすると、〈この宇宙〉論が一概に間違いだといえないことになりませんか?
ファインチューニングされた宇宙は、ごくまれな確率ではあるけれども発生することは確率的に説明できるけれども、
観測者の発生は、ファインチューニングされた宇宙で必ず発生するわけではなく、
特に巨大隕石が恐竜時代にピタリと合わせての衝突してくれるという偶然を「選択された」と考えても、正しい思考の許容範囲ではないのでしょうか?

ファインチューニング自体は、観測者発生の必要条件ではあるけれども、十分条件ではないですよね。

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Re:多宇宙と〈この宇宙〉 投稿者:φ  投稿日:12月10日(水)19時39分40秒

いや、正しくははこうです。
サイコロを振って1が出たときだけ自分が呼ばれる(他の目のときは呼ばれない)場合、
多宇宙論は、1の面がいつか一度でも出れば自分が呼ばれる、というふうに、十分条件として説明する確率論。
〈この宇宙〉論は、1の面が出ることは必要条件だが、特定の回に出ないと自分が呼ばれない、というふうに、十分条件としては考えない論。

 特定の目(たとえば1)のときだけ呼ばれる、という観測選択効果を入れ忘れると、『偶然の宇宙』のように、全然的外れの譬え話になってしまいます。

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多宇宙と〈この宇宙〉 投稿者:ハムスター  投稿日:12月10日(水)09時23分50秒

「ファンタジーとしての〈私の宇宙〉」を拝見しました。
多宇宙と〈この宇宙〉論の対立ですね。
φさまは〈この宇宙〉論が間違いだとのご主張のようですね。

私なりの理解ですと、例えば、サイコロを振って1だった場合、
多宇宙論は、6個の面(多宇宙)があり、1の面(この宇宙)をそのうちの1つとして説明する確率論。
〈この宇宙〉論は、1の面(この宇宙)が出たこと自体が確率では説明できないとする論、でしょうか。
確かに、なぜ2~6でなく、1だったのかは不思議です。

この不思議さは永遠の謎ではないでしょうか?
世界は必ず1つをある瞬間に選択する、らしいという世界の仕組みの不思議さです。

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疑問/自己 投稿者:φ  投稿日:12月10日(水)03時13分18秒

 「アプリオリ」は認識論、「分析性」は構文論と意味論、「必然性」は存在論の概念ですから、それに応じて重なったりズレたりするでしょう。関係はこう、と一言でいうことはできず、ちょうど、「ホモサピエンス」(生物学的概念)と「人類」(文化的概念)と「人格」(倫理的概念)の関係は、と問うようなものかも。「アプリオリ」と「必然性」のズレについては、クリプキの『名指しと必然性』が古典的議論になっていますが、それも多くの観点のうちの一つの切り口でしょうね。
 //輪廻転生こそ、西洋哲学に無い死生観パラダイム。ここで東洋人が独創的な思想を提示できないようでは恥ですよね。しかし英米哲学の人間原理の議論が輪廻転生まで肉薄しており、この分野ですら西洋哲学に水をあけられたりしたら……、と少々焦っております。焦っちゃ思索の妨げになるわけですが。

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疑問 投稿者:μλτ  投稿日:12月 9日(火)22時52分56秒

 「アプリオリ」と「分析性」と「必然性」
の関係は、どうなっているのでしょうか?

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自己はやっかいです 投稿者:ネモ  投稿日:12月 9日(火)13時48分43秒

先走っていろいろお聞きして申し訳ありませんでした。
実のところ、わたしも1つの立場をもっていますが、φさまのお考えにいくらか重なるのではと思って、ついあれこれ…どうもすみません。

おわびにわたしの悩みをここに挙げます(ぜんぜんおわびになってないですが)。
「観測者がどこかにいるかぎり、私はいる」とするこの命題は、じつはわたしの命題でもあります。最初の「観測者がいる」という文を語る人(私)には、「観測者」という語で表されるものは認識や考察の対象です。つまり、その場合、私は、対象である「観測者(=じつは自己)」を外から眺めていて、私自身(考察主体としての自己)は世界の外にいますが、次の文の「私はいる」は、その対象世界に私が入り込んでしまっていて、私は「自己(=じつは観測者)」になってしまっています。世界を内側から見ている私(自己)はもう自己の観測者ではありません。
ですから、家を出入りするとき鍵をかけたりするように、世界を出入りする自己にも何かしらの鍵(制約)をもたせた方がいいのではないかと思ったりして悩むのです。「鍵をかけるためには出入り口より一歩下がれ」とか「出入り口に立ってはいけない」とか。自己は悩みの種です。

画期的な輪廻転生説、とても楽しみです!ゆっくりお待ちしています。

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「自己」の数え方 投稿者:φ  投稿日:12月 9日(火)03時00分45秒

 アップロードと同時にさっそくお読みいただけた気配、恐縮です。
 数え方、これは確かに難しいのです。タイプはどこまで広くとれるのか……。輪廻転生で画期的な書物一冊書くことになっていながらなかなか書けないのはまさしくここに原因があるのです――
 さしあたり、同時刻に同一人物が複数いることはない、という公理は認めざるをえないと思うので、ネモとφは二人でなければならないでしょう。人間原理から帰結する、というか人間原理が前提している自己観はただ一つ、「観測者がどこかにいるかぎり、私はいる」ということです。観測者がいるのに、私がいない、ということは不可能だと。複数の観測者がいる場合には、そのうちの誰かでありさえすればよいわけです、私は。 つまり、私が実在の誰でもない場合のみが除外されるというわけです。
 細部はまだ詰めることができていません。さしあたりは、「多惑星説」(多宇宙説よりさらに常識的にみえる)が輪廻転生を含意していることを論証した(つもりになっている)段階です。輪廻転生のあり方の詳細はともかく、まずはその実在を確かめておく、と。

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「自己」の数え方は何ですか。 投稿者:ネモ  投稿日:12月 8日(月)12時29分31秒

「ファンタジーとしての〈私の宇宙〉――虚構の美的選択、自己の観測選択――」を拝読して、壮大な多宇宙からこの宇宙を経て自己へと収れんしていく展開に、思わず梵我一如(梵=宇宙、我=自己、一如=同一)の思想が脳裏をかすめましたが、たんなる気のせいだと思います。
たいへん興味深くのめり込みそうなお話です。
「自己の存在」についても選択説でなければならない、というご趣旨はよくわかりました。ただ、少しわからないところがあります。
「現実の『自己』も、観測によって選択されたタイプなのである」とありますので、この「自己」はタイプだから、数えるとすれば1タイプ、2タイプと数えることになりそうですが、「同一の、私〈のような〉自意識的存在」と性格づけられることになるので、結局、普遍的に考えれば1タイプのみとなるのだろうか?と思ったりします。それとも、φさまの「自己(私)」のことだけ意味している?
でも、2行下の「他者」に関するところで出てくる「各々の自己」というのは、トークンを指しているようにも見えますので、1個、2個と数えられそうです。いや、やはり1タイプ、2タイプなのでしょうか。
ネモの「自己(私)」は、φさまの「自己(私)」とは、現実にはまったく異なる(別人だから)ように見えますが、しかし、タイプとして考えるならば1つでよいということなのでしょうか?
「自己」はどのように数えたらよいでしょう。というか、「自己」は何でしょう。

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答切望 投稿者:φ  投稿日:12月 5日(金)01時01分55秒

「答えようがない」で済まされないというのが哲学者の気質でしょう。右脳人と左脳人に永久に分裂するとして、一方が不幸に陥り一方が幸福の絶頂を過ごすのと、二人とも可もなく不可もない生活を続けるのとでどちらの未来を選ぶか? と迫られたときなど……

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答えられない 投稿者:ハムスター  投稿日:12月 4日(木)13時38分15秒

右脳左脳分裂人間というのはシャム双生児をイメージすればいいわけですね。
ちなみに、このシャム双生児の真ん中あたりをつねるとどちらが痛がるんでしょうか、興味あります。

人間ファックスの話は、タイムマシンで過去の自分に会うイメージですかね。
この場合、過去の自分を傷跡が残るほど強くつねると、現在の自分も鈍痛がすることになるわけですが、これはいかにもありえなさそうですね。
現在の自分だけ見ると何の原因も無く新たに傷跡ができることになりますからね。

人間ファックスにおいても自分でつねりながらコピーされるとすると、コピー先でもつねっていて痛いわけですよね。
ということは人間の動作やそれを行う意志や目的といったものもコピーされることになります。
いつつねるのをやめるかもコピーされることになる。
ということは、この二人はまったく同じ行動をすることになりますが、これもいかにもありえなさそうです。
別人格でまったく同じ行動をすることはありえないわけですから。

どちらが自分か?という問には「答えようがない」というのが答えであるようです。
このことは、私は一人である(世界は無矛盾である)という現実から思索すれば分かることですけれども、意識や人格の理解を深める面白い問題ですね。

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誤解? 投稿者:φ  投稿日:12月 3日(水)17時10分41秒

 右脳人間と左脳人間は、分裂している間、別個の独立した人格となります。(分離脳状態の人間が現実にどうなるかはともかく、以上のように理想化してご理解いただくのが「哲学的思考実験」の趣旨です)。思考の融合や混乱はないという想定です。右脳人間は左手で答案を書き、左脳人間は右手で答案を書く。一卵性双生児が同時に二人がかりで試験を受けているようなもので、分離しない状態で受験した場合に比べて得点は二倍になります。
 人間ファックスも、地球に残った人格と月に送られた人格は、一卵性双生児のように、別個の二人です。転送元の人をつねれば痛がるのはそちらだけです。共有しているのは転送時までの記憶。ではどちらが転送前のもともとのあなたか、1と2とで転送先のコピー人間の身元が変化しうるのか、というのが難問というわけです。

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人格の分裂と同一 投稿者:ハムスター  投稿日:12月 3日(水)09時36分5秒

右脳と左脳の分裂の場合は、ある瞬間には意識は一つでしょうから問題ないと思います。
もし右脳と左脳が同時に働いてしまったら、幾何と代数が混乱し、この受験生はマタ来年ドーゾということになります。

話を分りやすくするために、こんな思考実験を考えてみました。
ある人をつねってみて、「痛い」という人は一人であるかどうかです。

我々は経験上、「痛い」という人は必ず一人であることを知っています。
先の右脳左脳分裂受験生をつねれば、「痛い」という人は当の受験生でしょう。
ところが、027の2.で転送元の人をつねったときにどちらが「痛い」というでしょうか?

ここにおいて、この人間ファックスなる機械が信用できなくなります。
転送元と転送先にダブってしまうような機械は、おそらく人間のファックスには成功しないはずです。
これは「私の意識が一つである」という前提からくる帰結だと思います。

φさまは転送元の人をつねると転送元と転送先の人が同時に「痛い」と言うとお考えですか?
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人格の分裂 投稿者:φ  投稿日:12月 3日(水)01時58分3秒

 【027】の2は、1を想像できる人には容易に想像できる事態でしょう。月に送られた「あなたのコピー」自体には何の違いもないわけですが、「本当のあなた」はどこにいるか、となると大違いが生ずる。そこが不思議なのです。
 よくある問い: 入学試験開始とともに、脳に埋め込んだ装置のスイッチを入れて、右脳と左脳の連絡を断つ。意識が分裂する。右脳の人格が図形問題を解き、左脳の人格が計算問題を解く。こうして他の受験生の二倍の速度で問題を解き、終わったらスイッチを切って元の統一人格に戻る。等々。
 続編『論理サバイバル』【098】眠り姫問題、【099】分離脳 は、この人格分裂の状況下で本当の自分が右脳である確率はいくらか、という応用問題を論じています。

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人格同一性の罠? 投稿者:ハムスター  投稿日:12月 2日(火)23時02分28秒

リンク読みました。
あと、「027人間転送機」。
>前章で見たように、人間の同一性を論じる場合、心よりも体の同一性のほうに優位を認めざるをえない。

φさまの人格同一性の考え方がイマイチ良く分りません。
027の2.が良く分らないのです。
1.では私は人間ファックスに抵抗を感じません。
しかし、2.は問題自体がとても認められません。
>このように、転送先と転送元に同時に「あなた」がダブって存在する可能性があることがわかった。

ここには私が無条件に前提した「私の意識が一つである」という認識がないのです。
これはどう考えれば良いのでしょうか?
誰かの意識が一つであることは我々の経験上の事実です。

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人格同一性の罠 投稿者:φ  投稿日:11月30日(日)14時21分30秒

「床屋は自分の髭をそらない」のなら、自分の髭を剃らねばなりません。矛盾は依然として残っていますね。
 【026】【027】は、心を本質とするor体を本質とする、どちらが正解かというより、一貫した考えを保つことの難しさを問い詰めたつもりです。身体交換と心交換の混同とその政治的罠については、↓にアップロードしたエッセイをご覧いただければと思います。
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/sintai-k.htm

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同一人物 投稿者:ハムスター  投稿日:11月30日(日)12時34分46秒

そうですか?
床屋が2人以上いる場合は、「012床屋のパラドクス」の答えは、「床屋は自分の髭をそらない」で解決するんじゃないですか?
「自分の髭を剃らない人全員」のなかには床屋も含んでいるわけですから。

あと、「026同一人物であること」にも引っかかっています。
私自身のシュミレーションはこうです。
1.身体交換機
2.人物Y(あなたの意識+Aの体)が私です。
3.意識こそが私である。
4.記憶を失っても私(の意識)が拷問にかけられるのはイヤです。
5.私の意識クローンがどこかにいても、(記憶を失った)私が拷問にかけられるのはイヤです。
6.個人の本質は意識である、と思います。
7.同一人物の基準はあくまでも心(意識)だと思われます。
  私のコピー意識やコピー身体がいくつあろうとも、拷問にかけられて苦しむのが私だからです。

赤ちゃんには意識というものがないですけれども、私が赤ちゃんだったときに拷問にかかるのはイヤです。
皆さんも同様じゃないでしょうか?

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何人でも 投稿者:φ  投稿日:11月29日(土)03時20分29秒

この問題の条件のままだと、このような床屋が二人いても百人いても、パラドクスが生じると思います。「自分の髭を剃らなければ剃る、剃るならば剃らない」という矛盾は同じことですから。

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床屋パラの一般化 投稿者:ハムスター  投稿日:11月28日(金)09時11分58秒

すべての床屋は自分の髭を剃らない人の髭を剃るものですよね。
これは我々の常識でもあります。
ある床屋は自分の髭は剃れないけれども、別の床屋で髭を剃ってもらえばいいわけです。

ところが、ある離島に床屋が一人しかいなかった場合に悲劇はおこるわけです。
φさまのおっしゃるように、「そのような床屋は存在しえない」のですから、
その床屋は、自らの髭問題を解決できないのみならず、論理・哲学界から存在の可能性さえも否定され、哀れな失業者となるわけです。

このことは、存在不可能なものの記述ではあるけれども、面白い問題を提起していると思います。
床屋が一人のときだけ発生するパラドックスだということです。
ある世界にある機能が一つしかない場合に、この問題は発生するのではないか?と一般化してみるとどうでしょうか?
ある世界にある機能が一つというのは、例えば数学や論理学の世界があてはまります。
これは我々にとって大問題ですよね!

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言語と存在 投稿者:φ  投稿日:11月27日(木)02時20分31秒

床屋の記述が、存在不可能なものの記述だったというだけのことですよね。
「自分よりも長生きする人」「5が偶数であると知っている人」……、言語ではいくらでも「見かけの記述」が出来ますが、指示対象が無い。床屋の場合は、まわりくどい条件で述べられていたから気づきにくかっただけで、単に「自分の髭を剃りかつ剃らぬ床屋」というだけのことですね。成立できない事態を一見記述するかのような言葉はよく見かけます。その一例にすぎませんね。哲学問題の大半は言語の混乱にありとはラッセル記述理論以来いまも分析哲学の基本的スタンスです。

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床屋のパラ 投稿者:ハムスター  投稿日:11月26日(水)18時08分05秒

今、φさま旬の本、「論理パラドクス」を読んでいます。
これも、大変面白くてかつ良い本ですね。
皆さんはもう読んだんですか?

私めは、またまた何ヵ所かで「ん?」なんて引っかかってます。
まず、「012床屋のパラドクス」です。
自分の髭を剃らない人だけの髭を剃る床屋は自分の髭を剃るか否か?ってやつです。

この問題の解決法にこう書いてあります。
「そのような床屋は存在しえない。」 ん? 
ちょっと待ったぁ~。 異議有り、です。

それで解決などしません。
「そのような床屋は存在しえない。」けれども、
そのような床屋の問題は厳然と存在します。
その問題の存在をどうしてくれるのだぁ~、です。

こういう解決不能問題はおそらく、永遠と解決不能なのだと思います。

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Ramsey 投稿者:φ  投稿日:11月25日(火)01時31分12秒

実際の発表は全然違うものに成りました。「真理の余剰説」に焦点を当て、ラムジー・テストはSAともどもチョイ役。なかなかよく書けたと思う30枚強の配布プリントは、いずれ論文にするつもりなのでまだアップロードしませんが、いやァ、ラムジーがほんの一言思いつき風に触れた「理論」、本気で述べたのかどうかすらわからないブッチャケ実体のない理論を論ずるのほどしんどいことはありませんでしたな。

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うわっ、いつのまにか『サプリメント戦争』が全文アップされてる 投稿者:学ぶもの
 投稿日:11月24日(月)23時22分58秒

三浦さんが参加された日本科学哲学会第36回大会ワークショップ・シンポジウムの資料
http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_data/36ws/36ws.html

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Re:近刊 投稿者:φ  投稿日:11月24日(月)14時44分52秒

 極超・初心者向けの論理学入門への入門書といった趣の本です。自ら、足もとを確認しながら入門前の気持ちを思い出して執筆したというような感じの。
 1200字強の小記事の集積形式となります。論理学を多少知っている人や、本気で入門しようという人にはかなり物足りない本になるでしょう。入門するかどうか迷っている人の背中の一押しという《割り切った注文》でしたので。
 原稿はすでに全部出来ているのですが、「センセーショナルな」と受取られかねない章が含まれており、無難なロングセラーに仕立てたい版元の意向との調整で、代案に苦慮しています。
 目標:なんとか来年の春までには。

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近刊? 投稿者:邏輯  投稿日:11月24日(月)11時18分41秒

「ラッセルを読む会(読書会)」のページ
http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/R2HOME.HTM
によると、「三浦さんは、某出版社の求めに応じ、ごく初歩的な論理学の入門書を執筆し、ほぼ書き上げたそうです」が、内容や出版日が気になります。内容概略や出版予定日を教えていただけるでしょうか?

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Re: re: 投稿者:φ  投稿日:11月24日(月)01時02分27秒

 あ、そのとおりですね!
 よくぞ代弁してくださいました。
 論理(学)というのは、心理的に実感・納得させたり説明したりするための道具ではなく、思考を体系化するのが目的なので、体系化がうまくゆく法則や原理なら何でも(ただし単純化のため最小限)設定してよいわけですね。実感や説明のためなら、詭弁や催眠術の方がうまくゆくかもしれませんから。
 体系化の効率が不十分とわかれば、実感や直観や本能に反してでも、別の公理を設定する。ヒトの心の現実をしばしば踏みにじるそのへんのところに、論理の暴力的なまでの革新性がありますね。うまく体系化できることが、当の公理系を採用する問答無用の「根拠」となるわけです。
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Re: 全く関係ありませんが... 投稿者:μλτ  投稿日:11月23日(日)22時47分01秒

学生Aさんの質問は、
三浦俊彦著『論理パラドクス : 論証力を磨く99問』
問024「ルイス・キャロルのパラドクス」
と関係しているような気がします(説明はできませんが...)。
どうなんでしょうか?

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全く関係ありませんが... 投稿者:学生A  投稿日:11月23日(日)14時54分00秒

最近論理学を学び始めたばかりの学生ですが、一つ疑問があります。
「{論理}に基づいて真であると結論された命題は真であるか?」ということです。
この真偽を確かめるためには論理学を用いることになりますよね?
はじめに{論理}の部分に特定の論法aを当てはめて、このaを別の論法bで証明して、
さらにそのbをまた別の論法cで....と繰り返して行くと論理では説明できない論法に
行きあたると思うんです。
いったい論理学の根拠はどこにあるんですか?

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原理は反例に意義あり 投稿者:φ  投稿日:11月23日(日)02時45分11秒

 たとえば確率の法則は、一見反した現象に出遭うことによってこそ、世界の実相を解明します。
コインは裏表1/2ずつのはずなのに、変だな、千回中裏が九割だぞ。→コインに仕掛けがあるに違いない(そう考えれば確率の法則が保たれる)。→発見【イカサマの暴露】
 平凡の原理もしかり。「変だな、地球はどうやら平凡ではなく特殊らしいぞ」→観測者はみな特殊環境を必要とするに違いない(そう考えれば私たちが観測者として平凡である(=特殊環境を必要としないような稀な観測者ではない)という原理が保たれる)。→発見【生命と環境の関係】
 人間原理のページは近々、論文・記事等の充実化を開始いたします。

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人間原理 対 平凡原理 完 投稿者:ハムスター  投稿日:11月22日(土)12時23分04秒

ご指摘の箇所は、熟読しているつもりです。
平凡の原理が間違いなのではなく、諸条件によって制限されているだけだ、との論説ですよね。
こういう考え方、つまり、諸条件による制限よりも、その思考法の方を大事にする、というのは科学的ではなく、哲学的なのでしょうか?
哲学では考え方こそが大事なのでしょうか? 確かそんなふうに習ったような気がします。

いずれにしろ、φさまの著作物は今後も読ませていただきます。
熱烈なファンというものは、とかくアンチになるものです。
御覚悟の方をよろしくお願いします。

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……  投稿者:φ  投稿日:11月22日(土)02時46分49秒

 平凡の原理については、『論理学入門』p.179下から7~5行目、p.183下から4~1行目、等をご確認ください、と述べるにとどめます。くれぐれも誤解しないようにお願いします。

 人間原理やレア・アース仮説の主唱者も、地球外知的生命の存在は認めない反面、単なる地球外生命の存在に関しては、わりあい寛容なようです。生命が簡単に生ずるものであるという証明としてよく持ち出される議論への人間原理的反駁を、いずれアップロードします。
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人間原理 対 平凡原理7 投稿者:ハムスター  投稿日:11月21日(金)23時19分23秒

平凡の原理というのは、観測対象を平凡だと考える、ことでしょう。

この思考法自体は常識的です。
対象に対して、こういう仮説を立てることは一般的でしょう。
問題は、実証できるか否かです。
もし、反証された場合は、この仮説を捨てなければなりません。

生命の誕生は平凡である。という仮説は反証されつつあります。
生命の誕生は平凡ではないらしい、のです。
このことは、生命の誕生に対して、平凡の原理を適応させることが間違いらしい、ということを意味します。

平凡の原理というのは、対象を選ばないと使えない原理です。
こういう性格の原理を、無条件に人間原理などの他の原理に組み込むようなことは、科学としては避けるべきだと思います。
もし、それをするなら、科学としては証明なり実証が必要です。

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? 投稿者:φ  投稿日:11月21日(金)00時31分36秒

 >平凡の原理は、生命の誕生においては間違い

 ↑これはサッパリ意味がわかりませんな。ご説明ください。(念のため――「平凡の原理」というのは、宇宙には平凡なこと以外は何も起こらない、という意味ではありませんので。)
 (もひとつ念のため――「平凡の原理」は、ランダムサンプルについての原理ですので。つまり、話題となっている性質について平凡なのか特別なのかデータのないサンプルについての原理ですので。)

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人間原理 対 平凡原理6 投稿者:ハムスター  投稿日:11月20日(木)23時30分15秒

>平凡の原理を組み込んでいない科学理論というのはたとえば何か、

そういうことではなく、科学理論は証明され、あるいは実証されて、万人の認める科学理論になるはずだということです。
人間原理も科学理論であるためには証明や実証が必要なはずです。
少なくとも、我々が無条件で納得する(自明の理)ものでなければならないはずです。

φさまの「論理学入門」によると、カーターの人間原理は万人が認める自明の理だと思います。

平凡の原理は、自明の理ではありません。
生命の誕生においては間違いだからです。

正しさが100%の理論に、正しさが100%でない理論を組み込んで得た理論の正しさは100%ではないはずです。
一般人間原理というのはこういう操作をしているのです。

もし、こういう操作が許されるならば、平凡の原理と同程度に正しいと思われる目的論を、人間原理に組み込むことも許されなければなりません。
しかし、こういうことを許せば宗教にしかならないでしょう。

どうやら、一般人間原理は科学理論ではないようです。 
もちろん、科学理論でなければいけない理由はありません。

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平凡の原理は「理論」ではない 投稿者:φ  投稿日:11月20日(木)18時55分54秒

平凡の原理を組み込んでいない科学理論というのはたとえば何か、具体的に教えてください。

証明や実証なしに組み込むというのは、確率の原理がそうです。たとえば、サイコロの6が出る確率は1/6、というような。何も特別なデータがなければ、実証するまでもなく、1/6であることは絶対です。平凡の原理も同様で、データの許すかぎりで最も確率の高い仮説を取れ、ということに過ぎません。これに反したら、正常な思考も生活も不可能になります。

 人間原理は、平凡の原理が忘れられやすい観測選択の場面で、あえて平凡の原理を強調しているだけです。重ねて問いますが、平凡の原理(ひいては確率の原理)を前提しない科学理論というのがもしあれば、ぜひお教えください。

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人間原理 対 平凡原理5 投稿者:ハムスター  投稿日:11月20日(木)09時27分43秒

今回の私の主張の主旨はそこにあるのではなく、科学的な手続きについてなのです。

人間原理は科学的な手続きをふんでいないのではないか? との主張です。
平凡の原理などの正しそうな原理を無節操に組み込むようなことは今までの科学理論にはできなかったことです。

平凡の原理以外にも正しそうな理論はあるでしょう。そういうものを証明や実証なしに組み込んでいけば、どんな原理に変化していくのでしょうか?
人間原理の正統派、宗教派、目的論派・・等々、これはもはや宗教です。

つまり、人間原理に平凡の原理を組み込むのならば、証明なり実証なりが必要ではないのか? という主張です。

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再説 投稿者:φ  投稿日:11月20日(木)05時37分17秒

 ご質問が同じところを巡っていてほんのり不吉な予感がしますので――
 もう一度、同じことをやや言い回しを変えて下に書かせていただきますから、どこが「必ずしも正しい原理ではありません」かを(必要なら)ご指摘ください。
 ★★人間として生まれた人が、自分はこの意味で特別でなければならない(地球生物の知的レベルとしては確率の低い方に属している)ことはわかっているので、自分が人間以外の多数派の生物に属するということを含意するような仮説は全部拒否する(弱い人間原理)が、自分はノーベル賞をとる例外的な人間であろうという仮説も確率的に拒否する(人間という母集団の中では確率の高い多数派に属しているだろうなと推測する=一般人間原理)。常識的な推論でしょう?★★

 弱い人間原理の一般化は単に日常的に私たちが行なっている常識的推論を宇宙に適用したものに過ぎません。
 なお、弱い→一般 は、

 >「特別である」から「低確率にするはずはない」という修正

 ではなく、『「特別である」から「特別だが、特別の中では特別な方に属さない」への修正』です。もうすでに3回申し上げたことなのですが……。そろそろいくらなんでも御納得いただけますね? 次いきましょう。

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人間原理 対 平凡原理4 投稿者:ハムスター  投稿日:11月19日(水)22時24分27秒

この説明はもちろん矛盾ではありません。
ですが、何か丸め込まれているような気がちょっとします。
まあ、矛盾だとの主張はあきらめて、弱い矛盾?だとの主張に切り替えます。

そもそも「原理」というものが、「弱い」から「一般」へと修正されたりするものなのでしょうか?
例えば、ガリレオの相対性原理を修正するときには、新たな証明なり実証なりがなければできないはずです。
人間原理というのは、何の証明も実証もなしに修正される。
そういうものを本来は原理と呼ばないはずです。

「弱い」から「一般」では、「特別である」から「低確率にするはずはない」という修正がなされています。
この修正の根拠は、平凡の原理だという。
平凡の原理は、必ずしも正しい原理ではありません。
特に地球外生命に関しては当てはめられない原理です。
そういう平凡の原理を何の証明もなしに弱い人間原理に組み込む。
こういう操作が正しいとナゼいえるのでしょうか?

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常識的に読んでいただければ 投稿者:φ  投稿日:11月19日(水)16時40分05秒

  ★弱い人間原理
 この環境と「私」は両立することが必要である
 (「私」の環境は知的生命を育むほどには特別でなければならない)

  ★一般人間原理 
 この環境と「私」は両立すれば十分である
 (「私」の環境は知的生命を育むという条件を超えて特別ではないだろう)

 ↑全然矛盾してませんね。
 【重要】■p.178の13行目「そうして予測された可能な環境のうち」という限定を読み落とさないで下さい。一般人間原理は、なにも、宇宙全体の中で「私たちは確率の高い場所にいる」などと言っているわけではありません。「知的生命が生まれる見込みのある特別な場所のうち、確率の高いところに「私」はいるのだろう」と言っているのです!■

 弱い人間原理は、「私」の環境が、自意識を持つ「私」を可能にするほど例外的であることを要求し、一般人間原理は、その特別さが、「私たち」の中で例外的な「私」を要求するほどではない、ということを述べています。

 100歳の誕生日を迎えた人が、自分はこの意味で特別でなければならない(人間としては確率の低い方に属している)ことはわかっている(弱い人間原理)が、110歳まで生きるほど例外的ではないだろうな(100歳以上の母集団の中では確率の高い方に属しているだろうな=一般人間原理)ということも当然推測する。常識的な推論でしょう?
 私たちは与条件と両立するほどには例外的だが、それ以上に例外的だと期待すべきではない、というのが、弱い人間原理+一般人間原理です。

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人間原理 対 平凡原理3 投稿者:ハムスター  投稿日:11月19日(水)12時46分19秒

>観測者の生まれる確率の【相対的に】高い(絶対的にはもちろん低いのだが)

その観測者は、弱い人間原理によると特別な存在です。
弱い人間原理の主張は、「宇宙における私たちの位置」と「観測者としての私たちの存在」が(両立する程度に)特別である、というものです。

ところが、一般人間原理の主張は、(観測者としての私たちのいる位置が)私たちの存在を低確率にするはずはない、というものです。

一般には、低確率を「特別」と理解しても問題ないでしょう。
この二つの原理をつなげてみますと、
観測者としての私たちの存在は特別であり(弱い人間原理)、そのことが、私たちの存在を低確率にするはずはない(一般人間原理)。
となり矛盾した主張になってしまいます。
この二つの原理は明らかに相反する主張をしています。

φさまのおっしゃる「【相対的に】高い」というのは私も同意します。
しかし、このことは人間原理とは別の話だと思います。

>弱い人間原理が確率ゼロを排除しているのに対して、一般人間原理は低確率を排除しているという意味で、一般的なのです。

弱い人間原理が排除しているのは確率ゼロではなく、特別(低確率)でない、ということでしょう?
つまり、平凡である、ということを排除しているわけです。

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矛盾なしです 投稿者:φ  投稿日:11月19日(水)02時38分12秒

私は、地球の生物としては、アリでもないバクテリアでもない、数少ない知的存在のメンバーだから、特殊です。しかし、人間の中では、平凡な一員だという謙虚な姿勢がまずは正しいでしょう。
「一般人間原理」は、あくまで観測者(知的存在)の中での位置を述べていることにご注意ください。観測者が生まれそうにない環境に偶然生じたスワンプマン風の少数派(ブラックホール上のホーキング放射のような)ではなく、観測者の生まれる確率の【相対的に】高い(絶対的にはもちろん低いのだが)地球のような環境に生まれた多数派のはずだ、というわけです。コンピュータシミュレーション内の意識だったらもっと確率が高くなりそうですから、SAは一般人間原理の帰結ということになります。
 弱い人間原理が確率ゼロを排除しているのに対して、一般人間原理は低確率を排除しているという意味で、一般的なのです。観測者が生ずる確率がゼロの場所というのはありませんから(真空の中にすら偶然に意識が灯らないとは限らない)、弱い人間原理を正確な言葉で表わしたのが一般人間原理だということができます。

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人間原理 対 平凡原理2 投稿者:ハムスター  投稿日:11月18日(火)19時57分09秒

φさまの説明を一言で言うと、意識は特殊であり平凡である、という矛盾になってしまいます。
論理的には、意識は特殊なのかそうではないのかどちらかのはずです。

ことは、こういう要約をしてはいけない話のようです。
「宇宙の中では意識は特殊であり、意識の中では意識は平凡である」。
必ずこう表現されなければいけない事柄ならば、「特殊な意識」と「平凡な意識」では前提が異なるということになります。
「特殊な意識」の前提は宇宙であり、「平凡な意識」の前提は意識である、ということなのでしょう。

弱い人間原理はこう表現されています。
「宇宙における私たちの位置は必然的に、観測者としての私たちの存在と両立する程度に特別である」(論理学入門p.153)
一般人間原理はこうです。
「観測者としての私たちのいる位置は、私たちの存在を不可解(低確率)なものとするはずはない」(論理学入門p.178)

弱い人間原理は、宇宙という前提の中で「・・特別である」と表現していて、これはφさまの言う特殊な意識と同じです。
一般人間原理の方は、前提がないので「一般に」と解釈せざるをえません。
そうすると、「・・不可解(低確率)なものとするはずはない」、つまり、一般に・・平凡であると主張していることになります。
ここで、前提となる「一般」を「宇宙」と解釈すると、宇宙では・・平凡である、と主張していることになり、これは弱い人間原理と矛盾してしまいます。

やはり、人間原理に平凡の原理を組み込むことには無理があるのではないでしょうか?
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Re:人間原理対平凡原理 投稿者:φ  投稿日:11月18日(火)02時49分04秒

 鍵は、観測選択効果です。
 ★地球人は、あるいは我々一人一人は、宇宙の中では、【客観的に】特殊な地位を占めています。
 よって、我々は身近な環境をもとにして、宇宙全体を同じようなものと推測すると、誤ることになります。宇宙全体から見れば特殊な環境にこそ、観測する意識が生じているのです。
 ここは、「宇宙原理」「コペルニクス原理」に反しています。(ただし、生命や意識は特殊なもので、めったに生じないらしいという現代科学の知見に合致しています)
 ★そして、地球人は、あるいは我々一人一人は、宇宙の中で、【観測者/知的存在としては】平凡です。
 ここは、「宇宙原理」「コペルニクス原理」に合致しています。
 我々は、宇宙の中ではごく特殊な「意識」なるものだが、その「意識」だけを母集団とすれば、その中では我々は平凡なものであるに違いない、というわけです。

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人間原理 対 平凡原理 投稿者:ハムスター  投稿日:11月18日(火)00時46分57秒

先の私の疑問は、今日になってますます大きくなっています。
そこで、φさまにこの疑問をぶつけてみたいと思います。

人間原理というのは、宇宙原理に対する思考法であるようです。

宇宙原理というのは、地球は平凡であるというコペルニクス的転回ですよね。
この地球は平凡であるという思考法は、まさに平凡の原理です。
つまり、宇宙原理は平凡の原理と同じ思考法であるはずです。
とすると、平凡の原理は人間原理に対する思考法である、ということになります。

人間原理に平凡の原理を組み込んだ一般人間原理なるものは、このことで矛盾を内包してしまうのではないでしょうか?
このことは正しいのでしょうか?

油と水を混ぜてしまったら、飲めませんし、料理にも使えなくなります。

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Re:イッキに読みました。 投稿者:φ  投稿日:11月17日(月)02時55分01秒

 人間原理は、〈人類はスレスレで進化してきたのだ、だから明日の保証はない〉という世界観において、ダーウィニズムと似ています。実際、ダーウィニズムを宇宙全体に及ぼしたのが人間原理であり、自然選択の役割を観測選択が果たしています。
 (間違いなく人類史上最大の科学理論でありながら)ダーウィニズムもその破壊性が十分観賞され尽くしていないばかりか未だに深く誤解されている分野のようで、昨日16日の日本科学哲学会のワークショップでも、スワンプマン/クオリアと目的論的機能主義をめぐって、進化論の頓珍漢な流用が目立ったとか……(自分のワークショップと重なったので私は見にいけませんでしたが)

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イッキに読みました。 投稿者:ハムスター  投稿日:11月16日(日)23時07分14秒

『論理学入門』の「人間原理の論理学」、大興奮です。
現代の科学・哲学は、こんなところまで来てしまったのか?
人類のための科学・哲学は、人類に対してこんなにも悲観的な思想を生み出してしまったのか?
これは獅子身中の虫なのか? はたまたパンドラの箱なのか?
私の思いは複雑です。
何か肯定しがたいものがあります。
何かがヘンだ、どこかに見落としがあるのではないか? そんな気がします。

人間原理自体は言われてみれば当たり前のそれこそコペルニクス的転回です。
アヤシイのは、どうも「平凡の原理」のような気がします。

平凡の原理は、その性格上、平凡だと思われる対象に対して、あてはめられる原理なのではないでしょうか?
私たちの誕生が平凡ではなかったことは、現在の研究成果です。
その平凡でない私たちに対して平凡の原理をあてはめていいのでしょうか?
非凡なものを平凡だと考えること自体が矛盾なのではないでしょうか?
そんな気がします。

いずれにしろこの本は、少なくともここに来る人には読んでもらいたい本ですね。
皆さんもう読みましたか?

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⊃と→ 投稿者:φ  投稿日:11月14日(金)15時52分00秒

 「存在」の問題に興味を持っていただけて、心強いです。少なくとも一つのものが存在する、ということが必然的に真だと説明抜きで前提している教科書ばかり(戸田山さんの『論理学をつくる』ですら例外ではない)の現状を、第10、11節で多少修正しておいたという次第です。つづく語用論的前提の話、そして真打ちの人間原理にもぜひご注目ください。
 なお、⊃と→については、言われるとおりですね。集合の⊃と、真理関数の⊃を混同する人がいそうです。混同する方が悪い、とは言っていられないでしょう(日常的な記号ではないわけだから)。ただ、→もまた別の意味を持つことがあり、誰もが誤解しないような記号を選ぶのはなかなか難しいところです。今書いている超初歩的論理学本ではそのあたりを説明しようと思っていますが、『論理学入門』でもそこを一言するべきであったと反省しています(p.71その他で、部分集合の記号と「ならば」がハッキリいっしょに出てくるので、誤解の心配はなかろうと思った次第でした)。

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やっと半分位まで読めました。 投稿者:ハムスター  投稿日:11月13日(木)22時48分36秒

『論理学入門』、良い本ですね。
この値段で教養課程の論理学以上のことが学べます。
しかも大変に面白い!
特に、存在の問題に対して真っ向から取り組む真摯な姿勢には共感しました。
しばらく楽しめそうです。

ちょいと注文つけさせていただければ、
「ならば」に対して、「⊃」という記号を使っていますが、これは「→」のほうが優れていると思います。
集合で使う「⊃」が真部分集合の「含む」ですから、これと混同されるのは避けるべきではないでしょうか?
「含む」と「ならば」では真理値が違いますよね。

いづれにしろ、この本は教養書の「~入門」レベルをはるかに超えている素晴らしい本です。(いまのところ)
φさまは、私の中では数少ない本物の一人です。

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Re:ようやく腑に 投稿者:φ  投稿日:11月 9日(日)03時56分33秒

 街頭演説や毒饅頭は書店のブルーバックス棚などに溢れていますが、SAは多分それらに比べて出来のよい方でしょう。「ツジツマの合わないところ」はまだ一つも指摘されてないようですし。
 SAのみを見て「なにこれ?」と思った方も、anthropic reasoning全般のご観賞に乗り出せば、SAの類いがなぜ力説されねばならないか、おわかりいただけるかと思います。
 「超ひも理論がもし正しければ人間原理の必要がなくなる」という趣旨の論文を最近ネット上に発見したのですが、見失ってしまいました。どこだっけなあ……。その種の論文を見ても、現段階では究極理論は期待のみ高く、現実的には人間原理の方が優勢であることが察せられます。科学者は公然とは認めたがりませんが。(改めて『量子進化』の書評もご参照いただければ――)
 16日に科学哲学会でシンポジウム発表せねばならず、レディメイドのテーマにつき苦慮しておるのですが、例としてSAを用いる予定です(主題ではなくあくまで例ですが)。

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ようやく腑に落ちてきた結果 投稿者:nbsakurai  投稿日:11月 8日(土)22時10分22秒
 時間を置いて反省し、『私の感想』(10月25日)の内容をもう一度見直したうえ、それに「10 結論」を付加しました。
http://www.geocities.jp/nbsakurai/C810.htm
 とりあえずはこれで、一区切りとしたいと思っています。失礼をいたしました。

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目から血を噴くトカゲも居る 投稿者:φ  投稿日:11月 8日(土)01時53分12秒

猫が火を吐くことはない、なんて誰も百%確信はできないはずですが。
地球が平らでも、太陽が生物であってもへっちゃらな学問がぜひ必要。分業制。数学では1+1=2を経験的事実によって検証しようてのが一時盛り返したとか盛り返さないとか?
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買いましたよ~! 投稿者:ハムスター  投稿日:11月 8日(土)00時55分54秒

尊敬するφさまお勧めの書物『論理学入門』を今日買いました。
ただ、しっかりとカバー着けてもらっちゃいました。(^^ゞ

で、一気に13頁まで読み、ハタッ?と止まってしまいました。
強調文字の箇所、超重い内容です。
ここがコケたら、ちゃぶ台返し~、ってな内容ですね。
>論理的証明は内容ではなく単なる形式によって正しさが保障される。

これは議論百出です。
形式内の正しさはおっしゃる通りだと思います。
しかし、その形式自体の正しさは、形式によっては定まらないと思います。
ここにおいて、私は、事実によって定まる、と考えています。
いわゆる『真理の対応理論』です。
しかし、これは劣勢だということは承知しております。
しかしです、猫が火をふく事実はありえな~いです、なこと子供だって知ってます。
論理学が机上の空論だと一般に思われている原因がここにある、と思うわけです。
論理学が市民権を得るには、ここのところの道理をわきまえないといけないのではないか?などと興奮する次第です。

まあ、もーちょっと読むと解消する問題だと信じて読み進みます。

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弱/強い人間原理の例 投稿者:φ  投稿日:11月 7日(金)01時07分39秒

「弱い人間原理」が宇宙の中の個々の時空的場所について成り立つのに対し、それを宇宙全体に及ぼしたのが「強い人間原理」です。したがって強い人間原理は、多宇宙説とセットにならなければ〈説明力〉を持ちません。ただし〈予言力〉の方は、多宇宙説を前提しなくても持ちえます。
 強い人間原理も、目的論とは無関係です。「宇宙は意識のためにある」といった色彩をもつのは、バロウ&ティプラーが参与的人間原理、最終人間原理と名づけたバージョンであり、この二つはカーターの人間原理とは何の関係もありません。カーターの名を出しつつこの二つの宗教バージョンを語っているバカ者が多くて困ったものです。どうしてカーターの論文をちゃんと読む労をとらないのだろう。佐藤勝彦ですら間違った言葉遣いをしています。
 人間原理の2バージョン+ニセモノ2バージョンについてはすでに『論理学入門』で述べましたので繰り返しません。
 SAは、弱い人間原理の一形態です。終末論法もそうです。下のレスリー本を参照。
 http://russell-j.com/shumatsu.htm
 http://russell-j.com/timetrav.htm
のゴット本も弱い人間原理です。いっぽう、強い人間原理の例は、
 http://russell-j.com/ryosi-s.htm
 http://russell-j.com/guzen-u.htm
および、フレッド・ホイルの炭素原子共鳴の予測や、ホーキングの宇宙の平坦性の説明などです。ワインバーグが批判するのも(そして宇宙の初期条件の説明としてだけは認めたいというのが)強い人間原理です。強弱の違いをご鑑賞ください。
 強い人間原理は、真っ当な科学であり、説明としてはともかく予測のためには強力な力を発揮する、メタ理論です。危険思想などではありませんよ。

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危険思想? 投稿者:ハムスター  投稿日:11月 6日(木)16時18分34秒

>桜井邦朋の本はすべて焼却してください。

分かりました。
この人の本は禁書として火に投げ込みましょう。
あとは、松田卓也さんと池内了さんが準戦犯なのですね。
千代島なにがしという人は無視すればよろしい、と。

>人間原理は、徹底した偶然論に立ち、観測選択効果によって見かけの必然性を説明する原理である、ということをくれぐれもご理解ください。

了解しました。
とりあえずはそう信じておきます。

>カーター原論文がしんどければ、『論理学入門』に主要部はほぼ紹介してありますからお読みいただければ幸いなのですがね……

~入門と題した本は買いにくいものです。
なんというか、プライドが妙に傷ついちゃったりするわけです。
基本からやり直してね♪ なんて言われているように感じたりもします。
なめんなよ、こちとら基本は履修してらぁ。 ←江戸っ子なもので・・
などとちょっと反発したくなります。
ある程度の知識層が対象の本であれば、もうちょっとプライドをくすぐる題にしてもらえると買いやすいです。

>なお、自然界に生命や意識が進化しやすいかどうかということと、意識自身が新たな生命や意識を生み出せるかどうかは別問題でしょう。たとえばレーザー光が自然発生する確率がどの程度か知りませんが(ほぼゼロ?)、地球上ではひんぱんにどこでも普通に発せられてますし。

生命や意識が科学的な手法では生み出せないらしい、つまり偶然に発生したらしいというのが現在の生物系科学の見方のようなのです。
同じ実験をしてもマレにしか起らない反応が生命の誕生に関っているらしいのです。
だとすると、この反応は制御不能だということになります。
未来の科学技術が偶然の反応なるものを制御することができるのでしょうか?

人間原理についてですが、巷間いわれている「強い人間原理」についてはどう考えればいいのでしょうか?
やはり危険思想でしょうか?

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Re:布教のお願い 投稿者:φ  投稿日:11月 6日(木)03時07分17秒

人間原理anthropic principleというのは、「知的生命はごく稀な現象である」という前提に立っています。間違えないで下さい! 以下にアップロードした書評の、とくに注をご覧ください。
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/timetrav.htm
また、今発売中の『論座』12月号掲載の『量子進化』書評もご覧いただければと思います(まもなくアップロードします)。

 SAのうち(2)を真だとする考えも、当然、人間原理とは矛盾しません(SAとも矛盾しません)。人間原理は、意識は稀な出来事とし、地球外知的生命を確率的に否定します。

 人間原理が「宇宙は意識を生み出すべくして生み出した」という考えだなどとデタラメを言いふらしている科学者が居るのは困ったものです。桜井邦朋の本はすべて焼却してください。桜井本の人間原理の記述は相当安易かつたちが悪いです。松田卓也はややマシですが、やはり人間原理を目的論だなどと真実とは逆のことを述べています。池内了は二人と違って人間原理を批判する側ですが、松田卓也的な曲解バージョンを批判して本当の人間原理への批判と称しているのだから困ったものです。名古屋大でご本人に質問したところでは、なんとカーターの論文をお読みでないようでした。原論文を読まずに批判するのですから、理科系の学者というのは全くいい加減なものですね。
 ただし、カーターを読まずに人間原理を批判している点では文科系も似たり寄ったりで、千代島なにがしというあの悪口雑言で有名な人も、言ってる内容は池内了と同じです(千代島氏のことをどうこう言っても仕方ないかもしれませんが)。
 人間原理は、徹底した偶然論に立ち、観測選択効果によって見かけの必然性を説明する原理である、ということをくれぐれもご理解ください。カーター原論文がしんどければ、『論理学入門』に主要部はほぼ紹介してありますからお読みいただければ幸いなのですがね……

 なお、自然界に生命や意識が進化しやすいかどうかということと、意識自身が新たな生命や意識を生み出せるかどうかは別問題でしょう。たとえばレーザー光が自然発生する確率がどの程度か知りませんが(ほぼゼロ?)、地球上ではひんぱんにどこでも普通に発せられてますし。

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布教のお願い 投稿者:ハムスター  投稿日:11月 6日(木)00時02分43秒

>・・・SAを含む人間原理的議論の布教と新規開発に大いに努めねばという意を新たにしました。

実は私もSAを含む人間原理的議論がどうも正しいとは思えない者の一人です。

SAについていえば、
>(2) レベルDのコンピュータ・シミュレーションによって、あなたの心と同程度にクリアな意識を作り出すことはできない。

これは、真だとしか考えられません。

現在、生物系の多くの人が言うには、生命の誕生は偶然であったらしいのです。
意識の誕生となると、これはもう偶然中の奇跡?的な出来事であるらしい。
これらのことは最近(ここ20年位?)言われだしたことのようです。
こういう知識を基にSAの(2)を考えるならば、現時点では真であるとしかいえません。

文明には意識して偶然なるものを生み出すことは難しいと思われます。
文明が意識して作り出せるものは必然でしかないはずです。
つまり、生命の誕生が偶然のできごとであれば、文明に新たな意識を作り出すことは不可能だと考えられます。
この考え方は私にはごく普通の考え方だと思われます。

人間原理は、例えばこういう最新の生物の研究成果と相容れない点があるように思います。
この点は如何なんでしょうか?
私にも人間原理的議論の布教をお願いします。

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憶測はフィクションで十分 投稿者:φ  投稿日:11月 2日(日)18時21分09秒

 これは憶測ですよ、などという留保口調で書けば、どんな突飛な内容でも書くことが許されます。その結果、何の意外さも面白みもない文章が垂れ流される反面、ときにはその内容を信じてしまう人がいて(どんな文章も反語やunderstatementとして受取る人がいますから)悪影響が発生したとしても、著者は「憶測だと言ったでしょ」と逃げることができます。
 そんな安易な弁明を自らに許さない責任感を、確固たる論理構築と口調に込めろと私は申し上げているだけです(むろん等式2の基準内で)。これはプロアマ問わず、思想を公にする人間の義務でしょう。小説ではなく論説として書く以上、副次的効果に関する責任逃れは許されません。
 すでに見てきたとおり、(1)(2)(3)(5)を確率的に尤もらしくするためには多数の補助仮説が要るが、(4)のためには直観・感情の克服以外一切の補助は要らず、相対的に最もシンプルな信憑性ある仮説である。他の主題でならスンナリ理解されるこんな簡単な論理が納得してもらえないほど、P((4))は小さいのだなあということが私も今回十分確認できました。SAを含む人間原理的議論の布教と新規開発に大いに努めねばという意を新たにしました。
 なお、まもなく、以前ここで話題になった『量子進化』の書評(人間原理の観点からの書評)をアップロードします。人間原理関連のエッセイや論文も随時アップロードしてゆくことにいたしますのでご期待ください(英語論文も準備中)。

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Re:再び厳密味で申し訳ありませんが 投稿者:nbsakurai  投稿日:11月 2日(日)17時34分31秒

 意図的かどうかは分かりませんが、どうも議論に混乱があるようです。
・ 確立された科学理論や論理的必然ではないことを自覚しながら、あたかもそうであるかのように述べるのはいかがなものか、と申し上げたものです。
 ”自分が信じていることを読者に信じさせようとする努力を怠っ”たほうがいい、などということではありません。
・ ”自分が信じていることを読者に信じさせようとする努力”=”断定を強めねばならない”ではないでしょう、と申し上げたつもりです。
 ”確信度を読者に植え付けようと”声高に断定するほど、それに比例して説得力が増すというのが、どうやら”プロの物書きである”先生のお考えのようです。

 やはり、余計なことをどうも言ってしまったようです。『虚構色』のこのような述べ方は意図的なものであり、それが適切なものだとお考えになっているらしいことは分かりました。私にはこれでもう充分です。
 この話もこれで終わりにしようと思います。
 ご健闘をお祈りします、と多分言うべきなのでしょう。

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ぐえっ 投稿者:哲学論理ビギナー  投稿日:11月 2日(日)17時15分55秒

すみません、再び訂正です。
「(レベルD)へ進む前に、確実に滅亡する『ことは絶対にない』」

こちらが正解でした^^;。

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きゃはっ 投稿者:哲学論理ビギナー  投稿日:11月 2日(日)17時05分58秒

>この否定が「」を肯定するものか、

の「」の中身は
「(レベルD)へ進む前に、確実に滅亡する」
でした。

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私の素朴な解釈(または詭弁?) 投稿者:哲学論理ビギナー  投稿日:11月 2日(日)16時58分42秒

結局、こういうことではないのでしょうか?

論点は2つです。
1)1~4のすべてを否定することはできない(矛盾律違反)。の「否定」の意味です。
 この否定が「」を肯定するものか、または、判断不能を含意した否定なのか。
 (肯定的な否定[1~3]であれば、<とりあえず>4は必然^^。
  判断不能であれば、すべては無効。)

2)上記1)の「肯定」が確率を伴った(4分6で)肯定なら、
 「あなたの意識はシミュレーションである[確率は1]」という一つの結論は、前記の確率の作用域である。

ちょっとソボクすぎますかねぇ^^;。

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再び厳密味で(修正版) 投稿者:φ  投稿日:11月 2日(日)05時26分39秒

(02時09分19秒付けたレスにベイズ式の間違いが含まれていたので削除、修正しました。これもちと不安ですが、主眼は等式2ということで……)

 動機だの効果だのなんぞは書き手の自由だ、ということで確かに済んでしまうのですが、「嘘をついてでも、騙してでも、ペテンにかけてでも、ぜひ関心を向けさせ、誤解させ、思い込ませ、困惑させ、」というのが全然違うということを示すために、以下。

 読者の主観的確率を前と同様Pで、著者の主観的確率をRで表わしましょう。(便宜的に具体例として{「虚構色」SA、(4)}で考えますが、むろん、任意の{著作物、理論、命題}と一般化することができます。)

 P((4)|K)=P(K|(4))P((4))/P(K)
 R((4)|K)=R(K|(4))R((4))/R(K)

 ただし、R(K)は、SAを知る前に著者がSAを真だと思っていた度合(主観的事前確率)、R((4)|K)は、SAを知った後で(4)を真だと思う度合(主観的事後確率)、R(K|(4))は、(4)が真である場合にSAのような理論に出くわすであろう主観的確率とします。
 nbsakurai さんの考える著者の「誠実、正直、真摯、ひたむき」とは、次の等式を保とうとすることだと察せられます(憶測なので、違ってたら訂正ねがいます)。

 ★ R(K)/P(K)= R((4)|K)    ………………等式1

 つまり、P(K)= R(K)/R((4)|K)ということで、P(K)という断定度は、著者自身がもともとSAに触れて受けたインパクトを、現在の(4)への信念度(正確には疑念度)で薄めた度合にしておけ、ということ。P(K)< R(K)/R((4)|K)になればなるほど、不誠実ということになります(断定性が強ければ一般にP(K)が小さくなることに注意)。
 それに対して私の考える著者の「誠実、正直、真摯、ひたむき」は、次の等式を満たそうとすることです。

 ★ P((4)|K)= R((4)|K)    ………………等式2

 P((4)|K)> R((4)|K) であればあるほど、つまり著者の現在の(4)への確信度を超えた確信度を読者に植え付けようとすればするほど、不誠実ということになります(自分が信じてないことを読者に信じさせようとするのは欺瞞の本質ですからね)。  かつ、私の立場では、P((4)|K)< R((4)|K)であればあるほど、怠慢ということになります(自分が信じていることを読者に信じさせようとする努力を怠っているのですからね)。
 SAの場合、R((4)|K)>1/2なのですから、等式2により、P((4)|K)>1/2を私は目指す。
 そのためにはP(K)≪R(K)R/((4)|K)にまで断定を強めねばならない。
 P(K)= R(K)/R((4)|K)程度としたのでは、P((4)|K)≪R((4)|K)にとどまり、等式1は私からみれば怠慢の等式なのです。等式1を満たす程度ならレトリックも論理構築も要らず、プロの物書きである必要はありません。
 なお、レトリックや論理構築の要素はこれまで無視してきたP(K|(4))に反映されるでしょう。
 P((4)|K)の増進に貢献する一要素P(K|(4))を高めるには(文章のハイファイ度の印象を高めるには)、ポストモダン風の非論理や嘘八百ではダメであることは言うまでもありません。「虚構色」にはポストモダン風のインチキは含まれていなかったはずであります。(その点は、語彙や表現の自由度が高くなっているだけで、論文と同じと私は考えています。)
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一件落着。 投稿者:ハムスター  投稿日:11月 1日(土)18時29分00秒

>それでは、先生は『虚構色』をどのようなおつもりでお書きになったのでしょうか。どのような”実質的効果”を期待されているのでしょうか。

人がどういうつもりで何を書こうが自由です。
また、どのような実質的効果を期待しようとも自由です。
そんなことは押して知る可しでしょう?

実社会ではそのような質問は大変に失礼な質問です。
まあ、ネットのような一種の虚構世界であればこそ可能な質問ですね。

この虚構世界はコンピュータで構成されているわけで、
参加するnbsakuraiさんの意識もコンピュータでビット変換されています。
つまり、ここではnbsakuraiさんの意識はコンピュータ意識だってなわけです。

結論:SAの(4)は、SAの前提がなくても、ここにおいて真である。

いやー、よかったよかった。ダメ?

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Re:回答2通り 投稿者:nbsakurai  投稿日:11月 1日(土)12時44分25秒

 ①先生はどのような意図で『虚構色』を書かれたのか、②その意図を私が分かったのかどうか、ということと、③その述べ方が適切なものなのかどうか、ということは、必ずしも同じ問題ではないと思います。分かりやすくラフに言えば、目的は手段を正当化するのか、また、当該手段は果たして本来の目的にそうものなのか、ということです。(議論に対する基本的な態度として、正当なルールに則ったものかどうかという観点は、既に述べましたので繰り返しません。また、たいへん残念なことですが、私の述べ方はまた過激な口調に逆戻りです。)

 先生は、学術論文ではない一般向けのエッセイでは、レベルを落とし、正確さを犠牲にし、不正確なことを、あるいはいい加減なことを述べても許される。むしろ、”読者にとってもともと信じがたい命題”を”極端に断定的・説得的に、既定事実のような述べかた”で述べることに意味がある。”読者にとって聞きなれない内容を強く断定”し、”大風呂敷を広げた憶説”を”断定的・説得的に述べて読者を驚かせ感心させ”たほうがいい、というお考えなのでしょうか。大衆は愚昧・蒙昧であるから、どうせ真実を誠実に述べても無駄に決まっていて、嘘をついてでも、騙してでも、ペテンにかけてでも、ぜひ関心を向けさせ、誤解させ、思い込ませ、困惑させ、そうすることによってよく考えさせ、啓蒙しなけらばならない。それが真実を知っている自分の使命である、・・・というようなお考えなのでしょうか。
 ①が以上のようなことでよろしいなら、②は、私にも”おわかりいただけました”ということになります。そうだとすると、私は先に、”大勢に受け容れられない少数者の意見が過激に表現されることがある、という視点に立つと、ご愛嬌として容認すべきものと考えることもできそうです”と述べましたが、少し考えが甘かったかな、というような気がしてきます。

 ”P((4))は実際にかなり低く、ほぼゼロに近い”という先生の認識には、私もそれほど反対はしません。しかしそこから、”P((4)|K)=1/2になる程度にまでは強く断定的に述べればよかった”という結論を導く上記の論理は、おそらく先生の畢竟独自の見解というべきものであって、残念ながら私にはついていけません。これが、大勢に受け容れられない少数意見は過激に、極端に述べると効果が高まる、という考え方に基づくものであるとするなら、私は必ずしもそうは思えません。SAや(4)の、もともとの信者には『虚構色』が福音としてありがたがられるとしても、そうでない多数には、むしろ反感を買い、SAの信頼性を貶め、不信の念を強めさせ、SAに対する興味をそぎ、それを理解しようとか勉強してみようという気持ちを起こさせない、それを阻害する、という効果を持つと私は思います。
 それが先生の隠された真の狙いであるなら、充分にその効果を上げていると言えるかもしれません。先生が表面上述べておられることとは、まったく反しますが。自分でもホントはありそうもないと思っていることを詭弁をもって語り、それはホントかも知れないと他人が惑うのを見物して喜んでいる、このような態度は許せない。―― というような感想を導くことにもなりえます。

>「虚構色」を読んだ読者によって(4)が信じられる可能性はほとんどない、というわけです。「虚構色」のような内容を持つ論説は、もともと実質的効果が乏しいのです。

 それでは、先生は『虚構色』をどのようなおつもりでお書きになったのでしょうか。どのような”実質的効果”を期待されているのでしょうか。

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回答2通り 投稿者:φ  投稿日:10月29日(水)03時34分47秒

 一つはありきたりな回答で、媒体が学術誌ではなく、文学書の月報だということです。学術論文や学術書では、私はきわめてオーソドックスな論じ方をしており、ポストモダン風の大風呂敷を広げた憶説を憎むものであります。(『アナロジーの罠』の書評をご覧下さい。)
 第二の答えは元の拙文の繰り返しで、やや厳密に述べるとこうです。「虚構色」が書かれたことを知るという観察事実をKとし、(4)が真であることをそのまま(4)と書くと、
 ある読者が「虚構色」のような文章に接することを予期する度合、つまりKの主観的事前確率 P(K)
 (4)が真である場合にKのような文章に出くわすであろう確率、つまりKの主観的条件付き確率 P(K|(4))
 「虚構色」を読む前にその読者が(4)を真だと思う度合、つまり(4)の主観的事前確率 P((4))
 「虚構色」を読んだ後にその読者が(4)を真だと思う度合、つまり(4)の主観的事後確率 P((4)|K)
の四者の間に
   ★   P((4)|K)=P(K|(4))P((4))/P(K)
 という関係が成り立ちます。
 ここで、 「虚構色」が当の読者にとって聞きなれない内容を強く断定していたとしたら、たとえば P(K)= 1/1000 と見積もられます。
 そして、真なる事柄が述べられる確率は比較的高いと考えられるなら、たとえば P(K|(4))= 1/2 と見積もられます。
 そして、(4)が当の読者にとってもともと信じがたい命題であるとしたら、 P((4))≒0 となります。かりに、P((4))=1/百億 としておきましょう。
  これらを当てはめて計算すると、
   ■    P((4)|K)=1000/2百億=1/二千万
 つまり、P((4)|K)の値は、P((4))が極度に低いかぎり、低い値にとどまる。
 しかし、SAなど知らない読者に対して「虚構色」が極端に断定的・説得的に、既定事実のような述べかたをしたとしたら、P(K)= 1/一億 くらいになるかもしれません。それで改めて計算すると、
   ▼  P((4)|K)=1億/2百億=1/二百
 これも相変わらず低い値です。つまるところ、よほど断定的・説得的に述べて読者を驚かせ感心させたとしても、もともとのP((4))が極小であるかぎり、P((4)|K)はかなり低値にとどまり、「虚構色」を読んだ読者によって(4)が信じられる可能性はほとんどない、というわけです。「虚構色」のような内容を持つ論説は、もともと実質的効果が乏しいのです。
 私は、P((4))は実際にかなり低く、ほぼゼロに近いと考えているので、P((4)|K)=1/2になる程度にまでは強く断定的に述べればよかった、という次第です。おわかりいただけましたでしょうか。

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ワガ信条? 投稿者:ハムスター  投稿日:10月28日(火)22時25分28秒

>・・・、信条は信条として、憶測は憶測として、それを明確にして述べるべきものと、私は考えています。

というか、
「明日が雨になる確率が60%」のとき、
nbsakuraiさんは、「雨になる確率が60%だよ」と言い、
φさんは、「明日は傘がいる」と言う。
それだけのことでしょ?

で、私は残り40%の確率に賭けてみたりするわけです。
だから人間は面白い。

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Re:”ワガ信条”にupすべきことだが 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月28日(火)18時54分07秒

>基本的に追認としても、健闘を祈ります。

 ありがとうございます。

 ”ワガ信条”にupすべきものだという点について、強く同感します。
 なお、述べられた信条のうち、私の信条と一致するのは、2です。2が解決しないとすれば、ある意味では「統一的見通し」を立てることはできないとも言える、と思います。3と5は、「近々」という言葉を外せば、私の信条とそれほど矛盾しません。

 ところで、述べようかどうかと迷っていたのですが、

>  ★8について
> 「この世はシミュレーションだ」といくら力説されても(確率が高いことが証明されても)意識の大多数はそれを信じないように生まれついて(あるいはシミュレーションされて)いるはずですから、強く力説するくらいでちょうどよいのです。ただし「虚構色」はあくまで「私ゃ」と主観的見解であることを前面に出しすぎていて力説度が足りませんでしたが。

 これは、ご自身の主観的な見解を個人的信条として述べるのではなく、それが実は「憶測」であるということをもっと分かりづらくして、確立された科学理論や論理的必然だと、より思い込ませるように述べたほうが良かった、という趣旨に読み取れます。そうだとすると、そのような誤解を受けかねない不適切な表現ではなかったか、というのが私の述べた趣旨ですから、それに真っ向から反するものです。
 このような姿勢は、誠実、正直、真摯、ひたむき、なものとは言えないと私は思います。(つまらないかもしれませんが、これが私のひとつの評価基準です。)これを突きつめていくと、先生の述べられることにはあるバイアスがかかっているので、述べられたことをそのまま理解しようとしてもその真意を理解することができず、述べられていない裏の意図を理解することが必要だ、ということを意味するかもしれません。分かりやすく言えば、眉につばを付けて見なければならない、ということが帰結しかねません。
 私の信条としては、そのような議論の仕方・述べ方はとうてい受け容れられません。ある種の奇策が必要なときもあるかもしれませんが、議論のルールは基本的に、信条は信条として、憶測は憶測として、それを明確にして述べるべきものと、私は考えています。

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”ワガ信条”にupすべきことだが 投稿者:φ  投稿日:10月28日(火)02時40分39秒
  基本的に追認としても、健闘を祈ります。
  ナオ、追認を超えた私の高確率憶測BEST5(科学編)は、
1/人間原理の適用範囲は次第に広がってゆくだろう。
2/クオリア問題は1000年後も解決していないだろう。
3/人工知能が人間の芸術家を凌ぐ作品を創作する日は近いだろう。
4/SA(4)の可能性が否定されぬかぎりビッグバン理論の定説は定まらないだろう。
5/人間の知能を飛躍的に上げる遺伝子操作が近々なされるだろう。
 非定説への高確率憶測(ほぼ確信)の助けなしでは、統一的見通し一つ立てられない私のような哲学徒も多いと思われます――……

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Re:5についてだけ一言 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月27日(月)19時27分00秒

 私のような素人のページを見ていただいたようで、たいへん恐縮です。

 ”検証されたといっても信頼度百パーセントの科学理論は存在し”ないというのは、私なりには承知しているつもりです。
  『科学的世界観』 第1章 第5節 1 科学
       http://www.geocities.jp/nbsakurai/15.htm

 あるいは、”検証されている、されていない(受け容れる、受け容れない)の二分法が前面に出すぎている”のかもしれませんが、私は、(4)も多世界解釈も、その可能性があるということは受け容れています。一方、その確率が科学的方法で決定されており、その確率≒1であるということは受け容れていません。どちらも、そうであるのかないのかは(確率的にも)決定されてはいない、それは「科学的発見次第」であるというところでは、先生と同意見だと考えているのですが。

 あるいは、”未検証の仮説をこそ科学者も素人も大いに信じコミットせねばなら”ないのかもしれませんが、私としては、そんな知識も能力も才能もエネルギーもない、ということを自覚しているつもりです。基本的には、”科学者の営みを追認する”という以上のことは、私にはあまりできそうにありません。できるだけ多種多様のものを読んで、その整合性や深さや確からしさを、自分で判断する以外にはありません。おっしゃるように、”トンデモ素人科学”や”無責任な啓蒙書”は困りものですよね。
 ”科学者の誰がまともで誰がバカかを見抜くためにも、定説でない理論への注目は必要だ”というのは、あるいはそうかもしれませんね。

 ところで、述べられているような形で「平凡の原理」を使うことが許されるのなら、つまり、ひとつの分野を調べただけで他の分野も推して知るべしということがこの原理で言えるのなら、私は「平凡の原理」をどうも誤解していたようです。

 なお、おっしゃるように、かなり”閉じた宇宙は旗色悪くなってき”たようですね。また、”人間原理は目的論だなどと”、私は言うつもりはありません。

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5についてだけ一言 投稿者:φ  投稿日:10月27日(月)02時48分19秒

 検証されている、されていない(受け容れる、受け容れない)の二分法が前面に出すぎているようなのが気になります。科学はそう単純ではなく、ベイズ的枠組みで信頼度の連続的確率を獲得してゆく以上、検証されたといっても信頼度百パーセントの科学理論は存在しませんから。
 「科学的知識をもとにした世界の統一的な理解」を目指されるなら、進化論、宇宙論、脳科学など、未検証部だらけの分野にも言及せねばなりますまいから、二分法ではきついのでは。検証前の事前確率と論理関係を見積もるために(事前確率がないと検証は不可能)、未検証の仮説をこそ科学者も素人も大いに信じコミットせねばならぬと思います。(そういえばティプラーの果敢なオメガ点理論はビッグクランチの存在を前提していたが、閉じた宇宙は旗色悪くなってきましたナ)

 なお、論理を無視したトンデモ素人科学はお互い困るが、逆に、科学者の営みを追認するのも危険です。たとえばanthropic principleは、桜井邦朋をはじめ理解度ゼロの科学者たちが堂々と無責任な啓蒙書を書き大ウソをばら撒いているありさま。私がたまたま必要上研究した分野でこれですから、平凡の原理により、他の分野の啓蒙書も推して知るべし、でしょう。

 なお、注文したA New Kind of Scienceが届いて、p.1185には(厚い!)こう書かれてました。「目的による説明を避けるために、人間原理が導入された」。さすがウルフラム、専門外も抜かりない。人間原理は目的論だなどと馬鹿なことは言わない。科学者の誰がまともで誰がバカかを見抜くためにも、定説でない理論への注目は必要だと思います(「弱い人間原理」はすでに定説の地位にありますが)。

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Re:もっと血の気を! 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月26日(日)09時39分59秒

 スタンスの違いは充分に確認できたと思ったのですが、まだやりますか。

  ★2について
 何度も述べましたが、問題とするに足りないと私が思うからです。
 なお、”どうしてそれが無視されているのかちょっと理解しかね”ることは、私の方にもあります。

  ★3について
 その通りですね。

  ★4について
 その通りですね。()内は私にはよく理解できませんが、私の問題ではありません。

  ★5について
 例えば占い師の理論も予言能力を持ちます。その予言が検証・反証可能かということが、私の問題です。いつか将来の可能性としてではなく。
 なお、”「観察や実験によって検証」とは何を意味するのかあらかじめ限定などできないわけ”ですから、それがどんなものかは、とりあえずは問いません。
 また、”科学者が職業上ちょっと尻込みするようなことをガンガン追究して、思い切り想像力の羽根を広げ”るのは、私の好みではありません。
 私がビッグバン理論を受け容れるのは、それが検証されていると考えるからです。多世界解釈も、それが検証された未来には、進んで受け容れたいと思います。

  ★6について
 ”起源の問題は、科学にとっても最重要の問題”だとは思います。ただ、それについて憶測を述べることは、私には最重要な問題ではありません。哲学者が熱い議論されるのに水を差すつもりはありませんが。

  ★7について
 ”生命発生の仕組みがまだわかっていないのだから、生命の自然発生を前提とした生物学の他の分野は全部無意味だ”などとは、私も思っていません。

  ★8について
 ”確率が高いことが証明され”たら進んで受け容れたいと、私は思っています。

  ★9について
 doomsday argument までは、私にはちょっと……。

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Re:私の感想(もっと血の気を!) 投稿者:φ  投稿日:10月26日(日)06時57分36秒

 長い考察、ありがとうございました。とりあえず感想を記しましょう(比較的否定的な部分のみで申し訳ありませんが)。

  ★2について
 脳を操作するハードシミュレーションの場合も、主観的意識の一生分を僅かな時間に実現するタイプのVRについて何度も述べましたが、どうしてそれが無視されているのかちょっと理解しかねました。記憶の連続性なし、もとの生物学的人生へ目覚めることはなしで、個々の不連続意識は「シミュレーション意識」だと言えるでしょう。

  ★3について
 「憶測」は、実証されない段階での仮説ですから、別にSAに限ったことではない、ということはすでに述べました。

  ★4について
  (1)(2)(3)(4)だけでなく、お望みなら(3)を分解し一部を(5)とし「シミュレーション意識は多数派にはならない」を付け加えてよいことはすでに述べたとおり。(1)(2)(3)(5)を否定したとしても(4)がなお否定できる、という論理が提示できれば、SAを否定できたことになります。(そのためには、人間原理一般の観測選択効果の論理に対する根本的批判が必要でしょう)

  ★5について
 SAは、多世界理論の一種なので、多世界理論が持つのと同じ予言能力を持ちます。たとえば『論理学入門』にも書きましたが、多世界理論を採用すると「知的意識の実現に必要なレベルを超えた、つまり観測選択効果とは無縁の、数学的整合性のみにもとづいた過剰にエレガントな理論は偽である」という予言ができます。SAの文脈で言えば、シミュレーションには最低限のコストしかかけない場合が一番多いだろうと。法則の選択はシミュレーターの恣意のままであり、唯一究極の法則などはありえないというのが多世界論SA版から帰結する予言の一例となります。
 貴ページの「量子論の多世界解釈」の最後「……多世界解釈がたとえつじつまの合うものでも、……科学理論の哲学的解釈(のひとつ)であって、科学ではありません」に見られるように、「科学」をなぜそう狭く窮屈に考えるのか、もどかしく思いました。「観察や実験によって検証」とは何を意味するのかあらかじめ限定などできないわけだし、ましてや在野の思索家であるならば、科学者が職業上ちょっと尻込みするようなことをガンガン追究して、思い切り想像力の羽根を広げていただきたいものです。(ビッグバン理論が市民権を得る前は、ノーベル賞科学者ですら、「時間の無限性は科学の公理なのだから、宇宙の年齢を論ずるなど科学ではない」と言っていたという歴史的事実を思い出しましょう! 多世界論も未来のビッグバンだと私は思っています)
 もっと元気を!

  ★6について
 この現実がメタレベルの外部を持つのか、持たないのかということは、哲学者にとっては大問題です。「虚構」である「現実」と、「虚構」でない「現実」の差異は莫大です。宇宙が自然的に発生したのか、知的なコントロールのもとに発生したのかという起源の問題は、科学にとっても最重要の問題でしょう。

  ★7について
 「コンピュータ・シミュレーションによってクリアな意識を作り出すことができるか否かが、目下の哲学論争の中心テーマなのだとしたら、それを中心テーマにしておくだけで充分なのではないか」というのは意味がわかりません。中心テーマの結論がどちらになるかによって議論がどう進んでゆくかをあらかじめ考察するのは、中心テーマを支えるために必須です。たとえば、生命発生の仕組みがまだわかっていないのだから、生命の自然発生を前提とした生物学の他の分野は全部無意味だ、などということはないでしょう。

  ★8について
 「この世はシミュレーションだ」といくら力説されても(確率が高いことが証明されても)意識の大多数はそれを信じないように生まれついて(あるいはシミュレーションされて)いるはずですから、強く力説するくらいでちょうどよいのです。ただし「虚構色」はあくまで「私ゃ」と主観的見解であることを前面に出しすぎていて力説度が足りませんでしたが。

  ★9について
 私は(4)に必ずしも興味があるわけではなく、むしろ(1)を証明したと称するdoomsday argumentの方に関心があります。すでに書いたように、DAは意識シミュレーションの実現の可否とは関係なしに(1)が証明できると称します。私はDAは間違っていると考えており、SAと組み合わせてそのうち論じたいのですが。SAが一段落したとすれば、いずれ是非DAについて考えをお聞かせ願いたいものです。

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私の感想 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月25日(土)20時05分47秒

 私が『虚構色』に興味を持ったのは、別の掲示板で話題になったことによるものです。これまでのここでの議論を受け、私の現時点での意見・感想を、その結果として当該掲示板にアップロードしました。

 『虚構色』についての報告 (1)~(4)
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000216&tid=
a1x2j3xeaac0a43a64qa1ya4n7gbca8hd&sid=2000216&mid=152~155
1 「シミュレーション・アーギュメント」(SA)の論理構造
2 「意識のシミュレーション」ではなく「世界のシミュレーション」
3 氏の意見(憶測)
4 『虚構色』の論理の難点
5 氏の憶測の検証可能性
6 意識がシミュレーションだと「現実を虚構色に染め上げる」ことになるか
7 私の意見・感想
8 『虚構色』の記述の仕方は適切か
9 SAや『虚構色』の議論がもつ基本的な性格

 よろしければ、ご覧いただきたいと存じます。
 なお、三浦先生に対する敬意の表現は略させていただいておりますので、ご諒解ください。
 また、述べられている内容に不適切なところがあれば、ご指摘いただければ幸いです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000216&tid=
a1x2j3xeaac0a43a64qa1ya4n7gbca8hd&sid=2000216&mid=152

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スモーリン→ティプラー→SA…… 投稿者:φ  投稿日:10月24日(金)01時25分18秒

 先日予告した論文をアップロードしました↓
 稲葉振一郎氏が読んでくれたという『大航海』の論文がこれです。
 シミュレーションの手抜き部分としての量子レベル、については最後で仄めかしている程度ですが。いずれにせよ、私たちが現実と称しているこの世界はかなりいい加減な世界ではないか、というのが常々私の感じていることです(そこに「人間原理」が入り込む余地があるのです)。
 なお、↓は、レベルDどころか、レベルHかIくらいのビッグクランチになって初めて大々的な意識シミュレーションの世界が大宇宙レベルで展開すると仮定しているティプラーの理論を論じているため、「虚構色」とは微妙にズレルところがあります。意識シミュレーションはレベルDで十分可能でしょうに。まあ、サイエンスウォーズの一環として興味深いエピソードではあります。

 なお、『宇宙は自ら進化した』の第15章に書評で言及しましたが、そこでの「強い人間原理」という言葉の使い方は間違っています。スモーリンクラスでも間違えるんだなあ。正しい用法は、私の『論理学入門』または元祖ブランドン・カーターの原典をご覧下さい。
(近く、書評ページに訂正注を付加します)
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/simul-gm.htm

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『宇宙は進化した』か 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月23日(木)22時13分43秒

 (d)については直接の言及がありませんが、私の意述べた趣旨は、少なくともある程度はご理解いただいているものと思います。

 『論理サバイバル』問105【胡蝶の夢】を読みましたが、既に理解していること以上のことを発見することはできませんでした。ところで、これは(c)に関連して述べられたものと思いますが、「因果的に介入」するためには少なくともそれを「モニター」する必要はあり、シミュレーション意識は外部に、少なくとも何らかの情報を送る必要があるわけです。つまり作用は 外⇒内 の一方的なものではなく、相互作用になるはずです。したがって、ここでは(c)はほとんど意味がなく、意識単独でのシミュレーションは、結果的に(d)に近づくように思います。
 (e)では、「普通の娯楽・芸術体験」でシミュレーションを体験した後に、外の世界に記憶を持ち帰るとしても、それを「リアル体験」するシミュレーション内の意識と、その記憶を持ち帰ったシミュレーション外の意識は、ひとつの意識と考えられるでしょう。その意識がシミュレーションを、外的なものとして楽しんだという記憶を持ち帰るのであれば、この場合、あまり意味がないように思います。ある意識が、両方を内的体験として感じるのであれば、それを感じている意識は単数でなければならないと思います。これはもう、意識のシミュレーションの問題というよりも、ほとんど、意識とは一体どういうものなのかという問題のようですが。
 なお、(a)と(d)以外は議論の本筋ではなく、それについて述べ出すと、議論がむしろ分かりにくくなるように思います。

 だいぶ整理されて筋が見えてきました。
 私にとっては、ひとつには、①SAはその「論理構造」が出来ていればよいのであり、それに代入される確率は科学的発見次第なのであって、その値によって(4)が否定されても肯定されても、議論としては問題がないのだというSAの趣旨が、なかなか理解できませんでした。『虚構色』を読んだ印象としてはそうではなく、これをあたかも科学的事実かそれに近いものとして主張されているように感じられ、この印象を払拭するのが、なかなかに困難でした。
 また、②先生が主として想定されている意識のシミュレーションは、(a)と思われ、そうすると、その意識が圧倒的多数になり、確率的に(4)であることは、充分納得できる考え方です。一方、私が想定していたのは(d)ですから、必ずしも圧倒的多数になるとは思われず、したがって、確率的に(4)であるとは言えないわけです。意識とは何か、意識をシミュレーションするとはどういうことなのかという議論の出発点、ここでまずズレがあった、ということのようです。
 以上どちらも、後知恵として言えることですが。
 ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。

 リー・スモーリン『宇宙は自ら進化した』の本文はまだですが、目次や訳者あとがき等を、とりあえず読んでみました。
 ・ この本に書かれた内容、とくに仮説の部分が正しいかどうかは、これからの研究成果を待たなければならないが、私自身はおもしろい視点だと思った。
・ 物理学とこれらの概念がどう結びつくのか、なんとなくワクワクとさせられる気分であった。
(訳者あとがき)
 これが、(良くも悪くも、というか、良いか悪いかは別にして)、本書だけではなく、SAの議論がもつ、基本的な性格を表しているように、私には思えます。

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Re:議論の整理 投稿者:φ  投稿日:10月23日(木)01時46分52秒

(a)の方が(b)より容易だろうというのは、ランダムに与えられたこの現実を、私たちが(a)型として考えているからです。私とnbsakuraiさんが互いに同じ文章を読んでいると考えるのは、二人の意識が別個に作動してシンクロしているからではなく、二人の外側に実在の文章やインターネットが存在しているという、共通原因としての外界を設定する実在論を信じているからです。その外界とは、私とnbsakuraiさんの意識と同レベルにある世界(シミュレーションされた世界)であり、シンクロはその世界の作用によって担われています。
 この世界観(実在論)は、SAを、そして(4)を信じようと信じまいと同じことでしょう。ならば、SAを信ずる場合、(a)の方が(b)より確率が高いと考えるべきです。
 なお、私が「相互非介入」と言ったのはちょっと不正確でして、因果的には介入があっても当然だと思います。私たちがゲームのキャラクターをそのつど操作するように。しかしキャラクターにはその操作は認識されませんから、意味的にはシミュレーション世界内に「1レベル上の世界からの介入」は感知されません。なぜなら、感知される現象はすべて、同レベルの世界の出来事として感知されるからです(これについては『論理サバイバル』問105【胡蝶の夢】をご覧下さい)。
 つまり、因果的にはいくら外の世界からシミュレーション世界をいじっても、意味的(論理的)には介入はありえないということになります。
 なお、(e)はマトリックス型のハードシミュレーションでしょうが、これの天然バージョンは「夢」ですね。明晰夢の場合は除いて、夢見中は自分が「外の世界」にいたという記憶はない。目覚めてからは、夢の体験を覚えていることも覚えてないこともある。娯楽型、または走馬灯型のハードシミュレーションは、当然、自分がシミュレーションの中にいるという意識を持っていては十分な「リアル体験」が阻害されるため、外の世界の記憶は持ち込んでいないでしょう。よって、

>このシミュレーションを体験し、娯楽や芸術として楽しむのは、
>シミュレーション内の意識なのでしょうか、シミュレーション外の意識なのでしょうか。

答えはさしあたり、シミュレーション内の意識、となりますが、シミュレーション体験後は外の世界に記憶を持ち帰ってもよいので(死の直前の走馬灯型連続シミュレーションは別だろうが、普通の娯楽・芸術体験では)、シミュレーション外の意識である、という答えも成り立ちます。四十歳の観賞者が、八十年のシミュレーション人生を体験したことにより、目覚めたあと、残り四十年余りの人生を生きる参考にする、ということも考えられるからです。

 世界のソフトシミュレーションは外の現実の脳とは結びつかない自律的意識を多数生み出しますが、ハードシミュレーションですら、レベルD文明では、現実の脳一個につき百個以上のシミュレーション意識が生ずる、と私は思います(現在の、一生の間の一人あたりの映画観賞と同じような)。

 ただ、(4)が正しそうだと私が言う場合の、私たちの意識の正体は、いつか(たぶん死後に)フト現実の意識へと醒める(e)型ではなく、(a)型だろうという意味でした((a)型の方がずっと数が多いだろうから)。
 (a)型の場合、(b)型や(e)型とは違って、創造者は、個々のシミュレーション意識のことを一々気にしてはいません。個別認識すらしていないでしょう。私たちはシミュレーションされてはいるが、モニターされてはいない、というわけです。

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議論の整理 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月23日(木)00時00分03秒

 私なりにもう少し整理をしてみたいと思います。

 (a)まず世界をシミュレーションし、その中で相互に「シンクロ」する意識を生じさせる。
 (b)まず意識をシミュレーションし、次にその意識間をシミュレーションで「シンクロ」させる。
 (c)意識をシミュレーションし、それ以外のことは行わず、他と「相互非介入」とする。
 (d)意識をシミュレーションし、「現実」と「相互介入」させることによって、実質的に意味・内容のある意識にする。
 (e)意識のシミュレーションを、既にある脳の意識に操作を加える形で行う。

 先生はまず、主として(a)を想定されているのだと思われます。これであれば、述べられていることと整合すると思います。(b)も認めておられるようで、これよりは(a)のほうが「安上がり」だと考えておられる。私は必ずしも安上がりだとは思えませんが、この点はそれほど大きな問題ではないと思います。ただ、(c)も容認されているようです。これだと、述べられていることと必ずしも整合しないようにも、私には思われます。(d)は先生が述べられたものではなく、私が提出したもので、当初、私が主として想定していたものです。(e)は、ここでは考える必要がないように思います。

 「意識をシミュレーションする」といっても、以上の五通りが今までの議論に出てきました。もしかすると、それ以外の考え方もあるかもしれません。「意識のシミュレーション」をどのようなものと想定するかによって、それが圧倒的多数派になるかどうかという点は、少なくともニュアンスが異なってくるように思います。

 そうすると、「意識をシミュレーションする」というのは本当はどういうことなのか? ひいては、シミュレーションの対象であるところの意識とは一体どういうものなのか?、という疑問に突き当たるように思います。そんなことは何でもいいから、シミュレーション意識が圧倒的多数派になるかどうかだけを憶測しろ、というのであれば、いささか乱暴な議論のようにも、私には感じられます。

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Re:脳内世界&世界内脳(2) 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月22日(水)21時25分25秒

>複数の意識を連動させるとしたら(・・・)世界を創った方が安上がりです。意識を単位としてその内容をシンクロさせるのは(・・・)きわめて煩雑な仕事になるからです。

 おっしゃるとおりだと私も思います。そこで、このシンクロの部分を当該シミュレーション外の「現実」に任せてしまえば、この困難が回避でき、比較的容易に(ひとつの)意識シミュレーションが実現できるのではないか、と考えてみたわけです。

 (a)「その種の連動を何億の意識の間」に自動的に作れるような意識、そういう意識を自動的に生み出せるような世界、そういう世界をシミュレーションで作る、ということ、
 これは、
 (b)意識を単位として、その内容をシンクロさせるようなシミュレーションを作る、ということ、
 よりも、必然的に簡単だと果たして言えるのかどうか、これは私にはにわかに想像がつきませんが、少なくとも、一概にそうだとも言えないのではないかと思います。
 また、
 (c)意識を、その外部の「現実」の存在なしに、シミュレーションだけで単独で作る、ということ、
 これが果たして可能なのかというのも、ひとつの問題とすることはできそうです。(外の「現実」に依存するというのが、意識の本来的なあり方なのかもしれません。)

 SAの(3)が否定され、シミュレーションによって意識を作り出すことができるとしても、それは、シミュレーション外の「現実」に何らかの形で依存する形でのシミュレーションに必然的になる、のかもしれません。外の「現実」に依存する形でなければ意識のシミュレーションができないとすれば、それが多数派になるのは、相当に困難、ということになりそうです。仮にそうだとすれば、結論は必ずしも(4)にはならないでしょう。(以上のように考えることは、おそらくSAの論理構造の中では(3)の肯定とされるものと推測されます。)
 この問題は、振り出しに戻って、意識をシミュレーションするとはどういうことなのか、そもそも意識とはどういうものなのか、という、SA以前の問題のようにも私には感じられるのですが。

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Re:脳内世界&世界内脳(1) 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月22日(水)21時20分50秒

 私の理解が曖昧だったというわけでは必ずしもなく、先生のお考えの中に、意識のシミュレーションとして、異種の二つのものが考えられていた、ということのようでです。

(A) 世界内脳、ないしは、世界内意識
>世界単位の公共シミュレーションは、現実世界の歴史的・物理的可能性の研究用に。
>世界内意識は、科学研究用のプログラム実行によると思われます。つまり、どのような初期条件と法則を組み合わせれば意識がどのくらい実現し繁栄度はどうであるかなどをシミュレーションすることで、現実世界のファインチューニングの度合や物理的可能性の中での現実の地位がわかるということが大きいでしょう。
>ソフトシミュレーションも、科学的興味として、意識の進化そのものを実現することが重要ということがあるでしょう。

 以上は、今までの線にそって問題なく理解できます。ただ、そこでの意識は、シミュレーション実行者の「私」の意識ではありませんから、その意識シミュレーションを内部から主観的に楽しむ、ということはできないでしょう。

(B) 脳内世界、ないしは、意識内世界
>意識単体の独我論的シミュレーションは、個人の娯楽や芸術として。
>意識内世界は、不死願望に応じる形での走馬灯ハードシミュレーションや娯楽体験としてのVRが実現するでしょうし、
>ハードシミュレーションの場合は、脳の持ち主の主観としては外の現実←→シミュレーション内を行き来できるわけです(記憶の連続性は中の世界→外の世界へと一方的としても)。

 このシミュレーションを体験し、娯楽や芸術として楽しむのは、シミュレーション内の意識なのでしょうか、シミュレーション外の意識なのでしょうか。
 後者だとすると、他と「相互非介入」な閉じられたシミュレーション意識を、どのようにすれば非介入のまま外から楽しむことができるのでしょうか。「脳の持ち主の主観としては外の現実←→シミュレーション内を行き来できる」としても、それはシミュレーション意識内部の話でしょうから、前者をお考えになっているものと推測されます。それでは、シミュレーションを実行する立場の者は、それを楽しむことができませんから、シミュレーションを実行する興味や動機はきわめて弱いものになりそうです。つまり、外の世界と中の世界が相互作用しないのでは「たいした興味ある対象にはならない」ので、そういうシミュレーションが圧倒的多数になるとは考えにくいでしょう。
 あるいは、既にある脳の意識に操作を加える形での意識シミュレーションなのでしょうか。これも意識シミュレーションを作ったと言えるかもしれませんが、意識の数が増えるわけではありません。
 以上の点で、先生のお考えをよく整理して整合的に理解することが、残念ながら私にはできていません。

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脳内世界&世界内脳 投稿者:φ  投稿日:10月22日(水)01時34分03秒

>意識とそれ以外の「現実」の世界の、どちらのシミュレーションが大変かといえば、圧倒的に現実の世界の方でしょう。世界全体のシミュレーションのほうが安上がりだとは、一概には言えないかもしれません。
 >私のポイントは、意識内世界か、世界内意識か、ということです。

複数の意識を連動させるとしたら(共通世界を視点として結び付け、個々の意識が独我論の世界に住んでいるのでないようにするには)、世界を創った方が安上がりです。意識を単位としてその内容をシンクロさせるのは(AがBを殴ったつもりになったときにBがAに殴られた感じを持たせるには。その種の連動を何億の意識の間に作るには)きわめて煩雑な仕事になるからです。
 意識単体の独我論的シミュレーションは、個人の娯楽や芸術として。世界単位の公共シミュレーションは、現実世界の歴史的・物理的可能性の研究用に。そんな使い分けでしょうか。

 意識内世界は、不死願望に応じる形での走馬灯ハードシミュレーションや娯楽体験としてのVRが実現するでしょうし、世界内意識は、科学研究用のプログラム実行によると思われます。つまり、どのような初期条件と法則を組み合わせれば意識がどのくらい実現し繁栄度はどうであるかなどをシミュレーションすることで、現実世界のファインチューニングの度合や物理的可能性の中での現実の地位がわかるということが大きいでしょう。

 外の世界と中の世界が相互作用しないのでは「たいした興味ある対象にはならない」ともいえますが、ハードシミュレーションの場合は、脳の持ち主の主観としては外の現実←→シミュレーション内を行き来できるわけです(記憶の連続性は中の世界→外の世界へと一方的としても)。そしてソフトシミュレーションも、科学的興味として、意識の進化そのものを実現することが重要ということがあるでしょう。

 しかしマトリックスの哲学セクション、日本語に翻訳されたとは。あれだけの分量が。訳は大丈夫かな。
 パトナムの指示理論はチャルマーズも論じていたと思いますが、パトナムは問題をわざわざつまらなくしているような。言葉(意味)の問題ではなく形而上学(存在論)に興味ある立場としては、ほとんど無視できる議論のように思います。「水槽の中の脳」という言葉で、自分の世界の中の水槽を指しているはずはありませんからね。

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マトリックス 投稿者:学ぶもの  投稿日:10月22日(水)00時07分07秒

★「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」の中でもふれられていたマトリックスのホームページにある
哲学・思想系の文章が日本語サイトでも翻訳されて読めるようになっているようです。
http://whatisthematrix.warnerbros.com/japan/rl_cmp/new_phil_frames.html

デヴィッド・チャルマーズの文章の中で、
Nick BostromやStephen Wolframの話しがチョコッとでてきます。

・#クリストファー・グラウがパトナムの水槽脳の話しを取り上げてますが
・#”もしわたしたちが水槽の中の脳だとしたら、「わたしたちは水槽の中の脳である」
・#は必然的に偽である。”というパトナムの指示論は三浦さん的にはどうなんでしょうか。
・#もし機会があれば、パラドックス・パズル本かなにかで取り上げてほしいです。
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Re:4は…… 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月21日(火)22時40分14秒

>シミュレーションの相互非介入の階層構造については【情報体としての存在:投稿者:φ:投稿日:9月29日(月)02時07分33秒】あたりですでに了解されているものとばかり思ってました。

 もう一度読み返しましたが、階層構造と、それぞれの世界の内部のことについて述べられたものと思われ、その世界が閉じていて他の世界と「相互非介入」かどうかという点は、私には読み取れませんでした。

>なお、4ですが、「科学者は、与えられた法則をすっかり解明」することはできるでしょうが、それが「「究極理論」を手に入れ」たことになるとはいえないと思います。

 私も、おっしゃるとおりだと思っております。イコールではありませんよね。

>単独の意識のシミュレーションもなされうるとは思いますが、世界全体をシミュレーションして内部に勝手に複数の意識を出現させてゆくプログラムを作ったほうが安上がりでしょうね。

 このようにおっしゃられると、私の頭はまた混乱してきます。これと、”「意識の未熟性」とでもいうものは大体その通り”とは、いささか整合しないところがあるような気がします。
 つまり、――
・ 意識が関与しないところでほとんどすべての「現実」が起きている。
・ 意識がその「現実」にたいへん多くを依存している。
・ 意識というものはそれほどたいした役割を果たしていない。
 ―― とするなら、
・ 意識とそれ以外の「現実」の世界の、どちらのシミュレーションが大変かといえば、圧倒的に現実の世界の方でしょう。世界全体のシミュレーションのほうが安上がりだとは、一概には言えないかもしれません。
・ 「現実」の世界の何とも相互作用しない意識、何も「現実」にもたらさない意識、「現実」とは閉ざされた意識は、あるいは、比較的簡単にシミュレーションできるかもしれませんが、同時に、たいした興味ある対象にはならないかもしれません。
・ 仮に、その実行者からも閉ざされているシミュレーション、ということになれば、それにどのような意味があるのか、分からなくなりそうです。
・ 意識を単独でシミュレーションするなら、シミュレーション外に、それとは別の「現実」が別途必要、ということになりませんでしょうか。
・ それが依存すべき何らの「現実」のないところでも、意識はありうるのでしょうか。
・ 「現実」と何の相互作用もしなくとも、意味のある意識になりうるのでしょうか。
・ 外の「現実」の世界の中に何らかのセンサー等を持ち、「現実」の世界に何らかの通信機や作動機等で働きかける、という必要はないでしょうか。
・ そのようなことするとすれば、外の世界と「相互非介入」とは言えない、ということにはなりませんでしょうか。
・ (外の「現実」の世界と相互介入する意識シミュレーションの、あるひとつの究極イメージは、ロボットないしはヒューマノイドということになります。)
・ そうだとすると、これは、「物質よりビットの方が圧倒的低コスト、圧倒的シェアを持つのは必然」で・・・、ということにはならなくなりそうです。
・ もっとも、「現実」の世界とは閉ざされた、「よく怠けたり、サボったりする」、「最大でも数十ビット/秒の低速・低容量システム」のシミュレーションの実行に、興味を持つ人も勿論いるでしょうが。

 ここでの私のポイントは、意識内世界か、世界内意識か、ということです。つまり、意識の中に、その内容として世界があるのか、あるいは、世界の中に、その一部として意識が生まれるのかという点が、私にはひとつのポイントです。先生のお考えは後者だと理解していたのですが、もしかすると前者もありうる、あるいは、そのどちらであるかにはこだわらない、ということなのでしょうか。

>リー・スモーリンの本が参考になります。書評拙文は下に。

 書評は読ませていただきました。この本もいずれ読んでみたいと思います。

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4は…… 投稿者:φ  投稿日:10月21日(火)02時27分08秒

 1~5、私は大体そのとおりなのですが、シミュレーションの相互非介入の階層構造については【情報体としての存在:投稿者:φ:投稿日:9月29日(月)02時07分33秒】あたりですでに了解されているものとばかり思ってました。
 なお、4ですが、「科学者は、与えられた法則をすっかり解明」することはできるでしょうが、それが「「究極理論」を手に入れ」たことになるとはいえないと思います。相互に独立に定まっている物理定数や初期条件を必然的な一つの原理へと還元しないかぎり「究極理論」とは認められませんから、シミュレーターが恣意的に与えた「初期条件と法則を」突き止めただけでは、「なぜそうなっているのか」という問いには答えてません。SAの(4)がもし真であれば、物理学者は、「初期条件と法則はなんでもありなのだ」という洞察に導かれねばならないはずです。(いわゆる「強い人間原理」ですが)
 なお、単独の意識のシミュレーションもなされうるとは思いますが、世界全体をシミュレーションして内部に勝手に複数の意識を出現させてゆくプログラムを作ったほうが安上がりでしょうね。世界まるごとのシミュレーション、ただし意識によらず、盲目的な宇宙進化の結果としての子宇宙の絶えざる産出という、SAに通ずる宇宙進化論については、リー・スモーリンの本が参考になります。書評拙文は下に。
 また、Stephen Wolframという天才数学者の本 A New Kind of Science が、「コンピュータ・シミュレーションとしての現実」論を展開しているそうで、Amazon.co.jpに昨日注文したところです。さあて……
http://russell-j.com/smolin.htm

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Re:この世は隙間だらけ 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月20日(月)19時39分37秒

 ご回答ありがとうございます。私の頭もだいぶ整理がついてきました。この点についても、誤解とまでは言わなくとも、私の理解には曖昧なところがありました。

>新しい世界を創るのがシミュレーションの趣旨なので。

 生の「現実」の中にシミュレーションで意識だけを造るのではなく、意識と世界を併せてシミュレーションするわけですね。これと、”「意識の未熟性」とでもいうものは大体その通り”を組み合わせると、(意識は「現実」の世界の中でそれ程の役割を果たしているわけではないのですから)、そのほとんど大部分は意識以外の世界の「現実」のシミュレーション、ということになります。そうすると、「意識をシミュレーションで作り出す」というよりも、「(意識を生み出せるような)世界をシミュレーションする」と言ったほうが、より正確という気がします。

 そうすると、――
1 その世界の中には、多数の意識が生み出されるわけです。世界をひとつシミュレーションすると、そこには多数の意識が生まれます。―― これは、シミュレーション意識が圧倒的多数を占めるという意見の、大きな根拠になりそうです。
2 そういう世界が多数あれば、それぞれは他の世界とは相互に作用しない、閉じられた世界になるでしょう。先に、「シミュレーションM」をシミュレーション外の世界から観察しているかのような発言を私はしました。メッセージの交換をしている以上、同じ世界にいることになるのでしょうから、これは誤りだったということになります。(私が生の「現実」にいて、Mがシミュレーションの世界にいる場合でも、メッセージの交換は可能ではないでしょう。)
3 以上と量子論の多世界解釈を組み合わせると、まず、生の「現実」の世界が多数あり、さらに、そのそれぞれの現実の世界にシミュレーションの世界が多数ある、ということになります。これは、相当に「虚構」っぽい宇宙・世界です。
4 シミュレーションの世界が、「初期条件と法則を与え」られた簡略化されたモデルだとすると、そこの科学者は、与えられた法則をすっかり解明し、「究極理論」を手に入れることもあながち夢ではない、ということになりそうです。
5 (これは先に述べたことの単なる繰り返しですが)、シミュレーションの世界は、有限のコンピュータによって(無限に見えるように)シミュレーションされているだけであり、したがって、世界を無限とする科学は誤りである、ということになりそうです。

 なお、私には「前科」があるのでここで釈明しておきますが、以上は、考え方を整理し確認しようとするもので、決して非難や皮肉ではありません。
 以上のような整理で、よろしいでしょうか。

>私たちが現実と呼んでいるこの世界も、ミクロのレベルでは実在が定まっていないようだったり、つまり観測者の探究の及ばぬところは簡略化(省略、手抜き)されているようにも思えます。量子力学のジレンマは、シミュレーション意識が、自らの属するシミュレーション世界の限界(簡略化)を察知したところに露呈した「世界の隙間(未既定箇所)」ではないか、という論文(とエッセイの中間の文章)を以前書きました。まもなくアップロードする予定でおります。

 これは、何をおっしゃているのか、残念ながら私には見当がつきません。上記4や5のように考えると、簡略化された世界には、むしろ隙間はないとも考えられそうです。私は、世界が簡略化されているのではなく、意識が、(世界を粗雑にしかシミュレーションできないため)、世界を簡略化した形でしか把握できない、ということではないか、という気もします。つまり、「世界の限界(簡略化)を察知した」のではなく、意識が自らの限界に気がついた、というわけなのですが。
 論文がアップロードされたら、私も読ませていただこうと思います。

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この世は隙間だらけ 投稿者:φ  投稿日:10月20日(月)03時22分07秒

>・ 世界のシミュレーションは、無限の宇宙をシミュレーションしなければならない。
>・ 無限の世界をシミュレーションするためには、無限の計算を行わなければならない。
>・ 無限の拡がりをもつ世界の現象を、そのまま有限のコンピュータでシミュレーションすることはできない。
>・ シミュレーションは、必然的に簡略化されたモデルにならざるを得ず、そうすると、現実の世界とはズレが起き、いずれはまったく違ったものになってしまう。

 シミュレーションというのは、初期条件と法則を与えておいてその後どう展開するかを見るためのものでしょうから、「現実の世界とはズレが起き」というのは当り前で、問題にならないと思います。新しい世界を創るのがシミュレーションの趣旨なので。
 むしろ問題は「簡略化」の方ですが、たしかにシミュレーションは簡略化が必要でしょう。私たちが現実と呼んでいるこの世界も、ミクロのレベルでは実在が定まっていないようだったり、つまり観測者の探究の及ばぬところは簡略化(省略、手抜き)されているようにも思えます。量子力学のジレンマは、シミュレーション意識が、自らの属するシミュレーション世界の限界(簡略化)を察知したところに露呈した「世界の隙間(未既定箇所)」ではないか、という論文(とエッセイの中間の文章)を以前書きました。まもなくアップロードする予定でおります。

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Re:グリッチ&ドリフト 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月19日(日)21時32分37秒

 ご回答ありがとうございました。私はSAをそのまま正しいとはやはり思えませんが、述べられたSAの趣旨は腑に落ちました。

>例の http://www.anthropic-principle.com/preprints.html から行ける John D. Barrow論文には、「シミュレーション内の意識は自分がシミュレーション内にいることに必ず気づく」と言いたげです。シミュレーション内の自然法則がときどきメンテナンスのためリセットされるゆえに、内部の科学者は自然法則のズレや断層に気づくだろう、てわけですが。
>だけど、われわれのいるここだってもしかしたら、19世紀半ばまではニュートン力学が厳密に正しかったが、ある瞬間に、量子力学へと切り替わったのかもしれませんよね。だけど科学者たちは「この世界がグリッチ&ドリフトを起こした→ここはシミュレーション内だ」などとは考えず、「いままでの科学理論が不十分だった」と考えるわけです。
>日常生活でも人々は、時折、「あれ? なんか昨日までと風景が微妙に違うな」「この場面、以前もあったな(でじゃヴゅ……)」などと感じつつ、シミュレーションの設定が変更されたからだ、とはまあ考えませんからねえ。
>いずれにしてもBarrowの念頭には、外部の数秒で内部の千億年を実現するようなレベルDシミュレーションではなく、せっせと内外同時間かけて進めて行くレベルCシミュレーションだけが想定されているようですね。ちとイマジネーション不足かな。
(グリッチ&ドリフト 投稿者:φ  投稿日:10月12日(日)17時23分43秒 )

 SAとはあんまり関係はないのかもしれませんが、次のようなまとまりのないことを、だらだらと、考えています。

・ われわれの意識はコンピュータ・シミュレーションである。
・ 意識が認識している世界も、コンピュータ・シミュレーションである。
・ コンピュータ・シミュレーションの世界の中に、コンピュータ・シミュレーションの意識がある。
・ われわれの世界(宇宙)は無限である。
・ 世界のシミュレーションは、無限の宇宙をシミュレーションしなければならない。
・ 無限の世界をシミュレーションするためには、無限の計算を行わなければならない。
・ 無限の拡がりをもつ世界の現象を、そのまま有限のコンピュータでシミュレーションすることはできない。
・ シミュレーションは、必然的に簡略化されたモデルにならざるを得ず、そうすると、現実の世界とはズレが起き、いずれはまったく違ったものになってしまう。
・ (コンピュータ・シミュレーションではない)現実の世界は存在しないとすれば、以上のような問題は起きない。
・ そもそも初めから世界はシミュレーションである。
・ そうすると、現実の世界でコンピュータが作られることはない。
・ したがって、コンピュータ・シミュレーションということはありえない。
・ われわれはコンピュータ・シミュレーションの世界にいるのではなく、コンピュータではないシミュレーションの世界にいる。
・ ではそれは何によるシミュレーションなのか。
・ もはやそれは神というしかない。
・ 世界は神に支配されている。
・ もはやそれを、コンピュータ・シミュレーションという必要はない。
・ したがって、われわれの意識はコンピュータ・シミュレーションである、は誤りである。
・ そうでないならば、われわれの世界は無限ではない。単に無限に見えるように、有限のコンピュータによってシミュレーションされているだけである。
・ したがって、世界を無限とする科学は誤りである。
・ それでもないならば、コンピュータは無限の能力を持つ。
・ つまり、コンピュータは神である。
・ 世界は神に支配されている。
・ それも違うならば、意識が認識している世界は、コンピュータ・シミュレーションではなく、現実の世界である。
・ 現実の世界の中に、コンピュータ・シミュレーションとしての意識がある。
・ したがって、上記の「グリッチ&ドリフト」は成り立たない。
・ コンピュータ・シミュレーションの意識は現実の世界と相互作用する。

 このような、とりとめもない考えが、私の頭の中をどうどう巡りしているのですが、先生のご意見はどのように整理されているのでしょうか。
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Re:クリアな意識(+神の言葉) 投稿者:φ  投稿日:10月19日(日)19時42分17秒

「神の言葉」はすでに、究極理論への途上の現代物理学によって部分的に与えられていると思います。ファインチューニングが事実なら(物理定数の組み合わせの大多数が意識を宿せないというのが本当なら)、問102と同じ論理で、多世界説が圧倒的に支持されます。究極理論の人々は、まだ「唯一の法則」の必然性の解明を諦めてはいませんが。
 (伊藤邦武本も、究極理論の観点から人間原理を批判してくれればよかったのだが、その手前の確率解釈をただ間違えているだけだから私は失望したのです)

>・ 意識は、最大でも数十ビット/秒の低速システムである。
  ……
>・ 意識がしているシミュレーションは、あんまり「現実」と似ていない。(その意味では「虚構」である。)

 と列挙された「意識の未熟性」とでもいうものは大体その通りだと私は思っていますが(そもそも宇宙は、意識を生み出すために絶好の条件など備えてないというのが人間原理の洞察だし。絶好ではなく最低限の条件が備わっていればよいというのが人間原理)、だからといって「意識はちっともクリアではな」いことにはならないのでは。つまり、客観的性能はお粗末でも、主観的にクリアであればよいわけなので。ゲーデルの不完全性定理を正しく理解している人の意識も、不完全性定理とは、数学は不完全な学問であるという憶測を述べた仮説だくらいに誤解している人の意識も、同じくらいクリアではあるでしょうから。

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クリアな意識 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月19日(日)16時56分43秒

>「論理構造」が出来ていればよいのであり、現実に確率が一義的に限定される必要はありません。よって、SAは、代入される確率によっては、「(4)の確率≒1億分の1」ということにもなりうるのです。それは科学的発見次第ですね。

 という趣旨を、ようやく理解できました。そういうことだったのですか。そうだとすると、確かに誤解がありました。「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」は、「科学的発見次第によっては、・・・かもしれない」、ということなのですね。それは科学によって決められることであり、結論はまだ出ていない。「科学バージョン」とはそういう意味だったのですね。

>ただ現在の判断では(4)が優位でしょう。同じ機能を持つものなら、物質よりビットの方が圧倒的低コスト、圧倒的シェアを持つのは必然ですから

 これは科学的発見によらない「憶測」なのですから、どうして? と聞いてはいけないのでした。「(1)or(2)or(3)」でなければ」、なぜ、「(4)の確率≒1」と信じられるのか、ということは相変わらず腑に落ちませんが、それはもう、私の問題ではありません。『虚構色』の事情が、だいぶ飲み込めてきたような気がしてきました。それとはあんまり関係はないのですが、先生は次のような説(科学的発見に基づく意識の説明)をどう思われますか。(SAの「構造と論理」では、これらも(2)か(3)の亜流と、おそらくされるのではないかと推測されますが。)

 (コンピュータ・シミュレーションではない)生物学的な生の人間の……
・ 意識は、最大でも数十ビット/秒の低速システムである。
・ 意識はよく怠けたり、サボったりする。
・ 意識は「現実」のごく僅かな部分のシミュレーションをしている。
・ 意識は「現実」のたいへん粗雑なシミュレーションをしている。
・ 意識はあんまり「現実」に関与できない。
・ 意識が関与しないところで、ほとんどすべての「現実」が起きている。
・ 意識は「現実」にたいへん多くを依存している。
・ 意識がしているシミュレーションは、あんまり「現実」と似ていない。(その意味では「虚構」である。)
 ラフな議論ですが、以上の意味で、意識はちっともクリアではなく、「クリアな意識」なんてほんとはない?

 なお、先に述べたように、「直接的な因果関係がなくとも多世界解釈が検証・または反証されうる、ただし確率的に」、ということは理解しましたが、私のポイントは、『多世界解釈と経験的証拠』に述べられているような「神の言葉」は、どんな内容なのか、どこに書いてあるのか、そんなに都合のいいものはほんとにあるのか、ということです。つまり、SAの場合と同じく、その確率をどうやって合理的に計算するのか、ということです。「所与の数値が仮に決定すれば、答えの確率の値も決定する」というだけでは、私にとっては、あんまり意味がありません。
・ コペンハーゲン解釈をとる場合と、多世界解釈をとる場合とでは、予測される結果が異なることがある、
・ ―― というのは、すでに広く認められています。
・ 両解釈では、実在全体にあてはまる法則も大きく異なります。
・ 量子論の解釈問題は、もはや哲学ではなく、実証科学の域に突入しているのです。
 以上のことは、今のところ、よく理解できておりません。ただ、
・ このことについては専門家でない我々がここで議論しても仕方ないので、
途中経過のご報告まで。

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4)の確率≒1 ではない 投稿者:φ  投稿日:10月19日(日)04時02分28秒

まだ誤解があるようなので注釈しますが、

   >腑に落ちないのは、たぶん、(4)の確率≒1ということがどうして信じられるの、ということ

(4)の確率≒1と信じているのではなく、あくまで、「「(1)or(2)or(3)」でなければ(4)の確率≒1」と信じているのです。だから、「講座 社会学」に寄稿するとしたら、「「(2)or(3)or(4)」でなければ(1)の確率≒1」という形で述べただろう、と言ったのです。これらはいずれもSAであり、SAを私はさしあたり正しいと思っている。それが第一義的。そして、二義的には、選択肢の中では相対的に(2)か(4)が正しいだろうとも(むろん科学的な新発見がなされれば修正可であることは言うまでもありません)。
 『論理サバイバル』の102のように、所与の数値が仮に決定すれば、答えの確率の値も決定する、という「論理構造」が出来ていればよいのであり、現実に確率が一義的に限定される必要はありません。よって、SAは、代入される確率によっては、「(4)の確率≒1億分の1」ということにもなりうるのです。それは科学的発見次第ですね。ただ現在の判断では(4)が優位でしょう。同じ機能を持つものなら、物質よりビットの方が圧倒的低コスト、圧倒的シェアを持つのは必然ですから(気になるならこれを否定した命題を(5)として付け加えてもよいのです。実際は(3)にすでに含まれていますがね)。
 なお、『論理サバイバル』の102は、「50個とも6が出る」がファインチューニングのモデルに成っていることを確認していただければと思います。http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/guzen-u.htmの伊藤本批判もその線ですが、この問102の論理を認めない哲学者が多くて困ってるんですよ。http://www.dar.cam.ac.uk/~dhm11/MultiverseMellor.htmlのメラーの論文もその困った論文の一つです。論敵のリースの論文http://www.dar.cam.ac.uk/~dhm11/MultiverseRees.htmlは人間原理の真髄を述べていて素晴らしいです。確率の理解度で思考センスがわかると私は思っています。

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確率的な検証 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月19日(日)00時02分56秒

 『論理サバイバル』の102『多世界解釈と経験的証拠』を読みました。
 いきなり、神がおかしなことを言った、と始まるので、最初は「ナンじゃコリャ」と思いましたが、落ち着いてよく読んでみると、直接的な因果関係がなくとも多世界解釈が検証・または反証されうる、ただし確率的に、ということは理解しました。さらに勉強してみます。

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私の結論 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月19日(日)00時00分31秒

 先に述べた『私の解釈』が、ズバリ正解そのものではなくとも、そんなに的外れでもないと、次第に思えてきました。もう一度『虚構色』を熟読してみましたが、このエッセイは、あるいは、思いを伝える文学作品として読むべきだったのでしょうか。これまであれこれと掲示板を汚してしまい、たいへん失礼をいたしました。
 この議論には、何か私の知らない隠れた発想や知見があるのではないか、とおそらく無意識に期待し、気になって、思わず力が入り過激なことを口走ったりして、誹謗中傷・名誉毀損という非難を浴びるギリギリまでリスクをとってしまっていたのですが、そのようなものを発見することが、ついに私にはできませんでした。そういうことであるはずがないという気も一方でするのですが、そういうものだと自分を納得させる以外に途はないようです。
 意識がコンピュータ・シミュレーションか否か、心理的には「である」という要素がいくぶん高まったような気もしますが、そのどちらであっても、当面のところ私にはあまり差し支えがありません。意識というものはそれほどたいした役割を果たしていない、生の人間の意識自体が既にシミュレーションなのだ、という有力な説もあり、これは私にとって、すぐに何らかの結論を出すべき喫緊の課題というわけではありませんので、述べられたいずれの憶測を選択するかの決断は、ここでは留保することにいたします。

 なお、φさんの『Re:私の解釈』の推測は外れていると思います。
・ (2)か(3)の確率が高い、もしくは心情的に同意できる。
・ 未来予測に従って現在のあり方を推測するのは因果律に反しており非科学的だ。
・ この私たちがシミュレーション意識でないならば、私たちは未来永劫、シミュレーション意識を大量に作ることはない、に〈心情的に〉納得できる。
・ 私たちがシミュレーション意識でないならば、私たち人類はまもなく滅亡する。
・ 人類が○年後には銀河植民している可能性が高ければ高いほど、人類は○年以内に滅亡している可能性が高い。
 以上のいずれも、私の考えでも心情でもありません。
・ SAの(4)以外の選択肢を細分化したり言い換えたりしているだけ。
 というのは、見方によってはそうかもしれません。その選択肢は(1)~(3)ではありませんが。
 この線にそってしいて言うなら、
・ (4)の確率をどうやって計算するの、そんなことはできないんじゃないの。
というのが最も近いでしょうか。
 また、SAの論理が腑に落ちないということではなく、私が腑に落ちないのは、たぶん、(4)の確率≒1ということがどうして信じられるの、ということです。

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Re:私の解釈 投稿者:φ  投稿日:10月18日(土)21時18分03秒

私はnbsakuraiさんとズレがあるようには感じてはおりませんけれど。
 nbsakuraiさんは単に、(2)か(3)の確率が高い、もしくは心情的に同意できる、と思っておられるだけのようです。私は、(4)の確率が高いと思っている。両者とも、SAの論理を認めていることでは共通でしょう。それで何ら問題はありません。
 SAの論理が腑に落ちないというならその理由をいただきたいと私は求めていたのです。
 たとえば、「未来予測に従って現在のあり方を推測するのは因果律に反しており非科学的だ」というような主張ならば、SAに本当に疑問を呈していることになりますね(ただし妥当な反論にはなっていませんが)。
 しかるに、〈Re:穴ナシじゃつまらないなあ〉で列挙されている項目を見ても、nbsakuraiさんは結局はSAの「論理」を反駁しておらず、SAの(4)以外の選択肢を細分化したり言い換えたりしているだけです。よって、基本的にSAにご賛成なのだな、と私は判断せざるをえないのです。
 問題は単に表現なのでしょう。nbsakuraiさん向きのSAのバージョンは次のようなものだと思います。

 ★――「この私たちがシミュレーション意識でないならば、私たちは未来永劫、シミュレーション意識を大量に作ることはない」

 これはもとのSAと全く同じ内容ですが、「(4)でなければ「(1)or(2)or(3)」」という書き方に変えただけです。これなら、nbsakuraiさんは〈心情的に〉納得できるのではないでしょうか?(つまりご自身が始めからSAを受け入れていたことがおわかりいただけるのではないでしょうか?)
 なお、(2)(3)を無視すると、SAは一種のDA(doomsday argument)になるでしょう。

 ★――「私たちがシミュレーション意識でないならば、私たち人類はまもなく滅亡する」

 なお実のところ、DAには(4)すら不要です。

 ★――「人類が○年後には銀河植民している可能性が高ければ高いほど、人類は○年以内に滅亡している可能性が高い」

 doomsday argument(終末論法)については、http://russell-j.com/shumatsu.htmで書評したレスリー本、http://russell-j.com/timetrav.htmで書評したゴット本、または私の『論理学入門』『論理パラドクス』をご参照いただければ。また例によりhttp://www.anthropic-principle.com/preprints.htmlではDA関連の論文はたくさん読めます。
 「虚構色」が。『講座 文学』ではなく『講座 社会学』のための文章だったとしたら、私はこのDAの形でSAを紹介しただろうと思います。

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私の解釈 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月18日(土)01時03分44秒

 述べられたことにいちいち反論することは、同じ理由で、私ももうやめにします。
 線を引いて何度も読み返した「虚構色」のプリントも、もう必要ないでしょう。

 ここで改めて振り返って考えてみると、私の述べたことに対して何の説明も反論もないか、あっても、ポイントのズレた反応事例が多いことに改めて気がつきます。強弁のように見える場合もあります。私から見ると、そのよう見えます。(おそらく、相手から見ての私もそうなのでしょう。)これを意図的にされているものと理解すると腹が立ちますが、どうやら、そうではないようです。相手に伝わる前に、予め何かフィルターのようなものを通り、その過程で濾過され、アレンジされ、編集されたものが相手に届き、それに対して反応されている、というふうに考えてみると、ツジツマが合うようです。つまり、議論の地平が違う、同じ土俵にたって議論をすることはできない、ということなのでしょう。おそらく。

 ここまでいろいろ述べてきてみて、総括的というか、基本的な疑問なのですが、
 ここでのSAの議論は、そもそも、これに興味を持ち、これをよく理解し、これを受け容れ、さらには、これにこだわりを持つ人のためのもの、という位置付けなのでしょうか。そうでない人はおジャマ虫。(これは皮肉になりますが、SAを阪神球団と読み替えてもいいような。)
 「四つの命題のうち少なくとも一つは正しいはずだ」をそのまま受け容れるか否かが、議論に入る前提として、初めにまず大切な関門。

 今までに私に分かったポイントを、整理してみます。

 SAとは、コンピュータ・シミュレーションによって「クリアな意識」を作り出せるか否かについて、憶測を述べるという議論らしい。(その憶測には、「できる」というものと、「できない」というものがあるらしい。)
 「できる」としたうえで、それが圧倒的多数になるという憶測をこれに付け加えると、確率的にみてあなたはこれで作りだされた意識である、という憶測が導かれる。
 さらに、その根拠を憶測として述べ、それに付随した憶測を述べることも、そこでは許されているらしい。
 以上の憶測のうち、どこまでが正当なSAの紹介で、どこからが筆者の個人的な憶測なのかは必ずしも明らかではないが、それは大切なことではないらしい。
 この議論の「構造と論理」は、どんな批判に対しても憶測を述べれば足りるようになっており、したがって、原理的に誰にも反駁できない。
 以上のような、穴のありえない構造と論理を大切にし、憶測を述べることに喜びを感じる人が、世の中にはいるらしい。
 そうすることにどんな意味があるのかといえば、とうてい私の想像の及ばないところにあるらしい。

 少しずつ腑に落ちてきました。もう少しで私にも飲み込めそうな気がします。

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過去ログ 投稿者:φ  投稿日:10月18日(土)00時00分28秒

「前を見よ」的なことを連発しちまいましたが、すでに10/1以前のは掲示板から消えていますので、念のため過去ログを下に。
http://russell-j.com/bbs-idx.htm

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もう全部答えたはずですが 投稿者:φ  投稿日:10月17日(金)22時06分00秒

・ 多重シミュレーションでY’が可能である、という保証はありません。
・ Y’が自己増殖できる、という保証はありません。

この二つについては、以前の書込で何度かにわたってすでにお答えしました。Y’の総数/(Yの総数+Y’の総数)≒1 となるために、この二つの条件は必要ないと何遍も申し上げたはずです。再論するのは面倒なので、前の私の書き込みに遡って見てください。

・ Y’を造るためには何らかの物理的実体も必要ではない、という保証はありません。
・ Y’を造るためには何らかの生物的実体も必要ではない、という保証はありません。

この二つも同様。そんな保証はなくてもいいのです。走馬灯のところでお答えしました。

・ Y’を造るのには、相当のコストがかかるかもしれません。
・ Y’を、Yを上回るほどの数造るのに、充分な資源は確保できないかもしれません。
・ それほど多数のY’を動かすのに、必要なエネルギーは確保できないかもしれません。
・ Y’の保守点検や、維持管理ができる数には、物理的・社会的に制限があるかもしれません。
・ Y’を造ってもあまり役に立たないので、それ程たくさんは造られないかもしれません。
・ Y’は、ある程度研究されてしまえば、社会の興味を失うかもしれません。
・ Y’の製造が社会的・法的に制限されるかもしれません。

以上はすべて(3)またはその系にすぎません。文明の収斂法則でも仮定しないかぎり、これらすべてほとんどありそうにないという趣旨は「虚構色」に書いてあります。あのエッセイが素材かと思っていたのに、ちゃんと読んでいただけていないとはなあ。

 ともあれ、学ぶもの氏の言われるとおり「虚構色」は真面目論考とはいえエッセイ(しかも哲学者ではなく岩波の講座文学の読者向けの)に過ぎないので、厳密な議論は今後のの課題です。むしろ、SAを単なる一応用として含みこむ「人間原理」一般に関するhttp://russell-j.com/guzen-u.htmとか、または以前ハムスター氏が気になるといってくれたhttp://members.jcom.home.ne.jp/miurat/nanmon-c.htmの方にでも議論をスライドしていただけるとありがたいですけれどね。はたまたやっぱり虚構に興味ありということならhttp://russell-j.com/konran.htmとか。それらは百%論文なので隙なく書かれていますし。
 また、SAと深く関係する輪廻転生なら渡辺恒夫氏との意見交換http://homepage1.nifty.com/t-watanabe/correspondence.htmとか。
 (……『虚構世界の存在論』を書いたときにSAを知っていたら(あのときはまだSAが唱えられていなかったので自ら思いついていたら)、さらに厚みのある議論ができたんだがな。)

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Re:アバタもえくぼ 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月17日(金)17時07分46秒

>SAでは全てを否定あるいは肯定すると矛盾する、という論理構造になっています。
>この構造自体は誰にも否定は不可能です。

 (1)(2)(3)(4)すべてを肯定すれば矛盾するが、すべてを否定しても矛盾するとは言えない、と私は考えます。
 レベルD文明は、コンピュータ・シミュレーションによって、若干名の「クリアな意識」を作り出す。あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である可能性はあるが、その確率は低い。(確率判断によればそうではない。)

>SAに対する解釈には人の思考が反映されるわけで、当然に真偽などはありません。
>「あんな子のどこが好きなんだ」なんてケチつけたって、アバタもえくぼ、ってなわけです。

 確かにそう納得してしまえればそれでお終いなのですが、困ったことに、何故かいまいち私は腑に落ちないのです。

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アバタもえくぼ 投稿者:ハムスター  投稿日:10月17日(金)12時51分00秒

SAでは全てを否定あるいは肯定すると矛盾する、という論理構造になっています。
この構造自体は誰にも否定は不可能です。

そのSAを実証できない以上、解釈するのは我々の自由です。
φさんの解釈、nbsakuraiさんの解釈といろいろあるわけです。

SAに対する解釈には人の思考が反映されるわけで、当然に真偽などはありません。
誰かの解釈にケチをつけるということは、その人の思考にケチをつけることになります。
それは不毛の論争になります。

「あんな子のどこが好きなんだ」なんてケチつけたって、アバタもえくぼ、ってなわけです。

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Re:あと、細かいことですが、 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月17日(金)09時20分41秒

>虚構作品(物語)や創作行為の存在論的位置付けやその意味について本気で考えてみてはいかがかと呼びかけているものになっていますので、念のため。


 ご趣旨が、私にはよく分かりません。
 「虚構」が「現実」だとするなら、それを「虚構」と呼んでみても仕方がないのではないでしょうか。
 「虚構」である「現実」と、「虚構」でない「現実」に、何か意味のある違いがあるのでしょうか。

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Re:穴ナシじゃつまらないなあ 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月17日(金)09時05分13秒

>憶測でないなどと匂わせた覚えはありませんがね。確率的判断であると私は何度も言っております。文体上、それ以上保留条件をつける必要などありません。

 これ以上、この点について述べるのはやめにします。

>おねがいしますよ、SAもまだ誰も反駁できていないんだから、話題にする場合は構造と論理を突いていただきますように。具体的に。

 私が今までに述べてきたことをまとめた、「なぜ(4)なのか」は、まったくそうはなっていない、ということなのですね。★★もちろん、SA特有の論理、内容に関することなら、喜んでお相手いたします★★が、nbsakuraiのはそうなってはいない、相手にするまでもない、ということなのですね。
 どうしてなのでしょうか。残念ながら、私にはよく理解できません。とりあえずこの論理構造さえ受け容れれば、その中身も憶測でいい、確率判断も、確率判断の基礎も憶測でいい、ということなのでしょうか。
 とりあえず、既にに述べたことをひとつだけもう一度。

※ 記述の便宜のため、「生物学的に生まれた生の現実に住む意識」をYとし、「コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識」をY’とすることにします。
・ Yについて、確かなことはまだ何も分かっておりません。
・ どのようにすればY’が造れるのか、現在のところはまったくの霧の中です。
・ 現在の原理のコンピュータのままで、Y’が造れるという保証はありません。
・ Y’を造れるような、コンピュータの原理があるという保証はありません。
(以上は(2)の問題ですね。したがって、こう仮定すればこうなる、というのは何の問題もないと言えそうです。ただ、)
・ 多重シミュレーションでY’が可能である、という保証はありません。
・ Y’が自己増殖できる、という保証はありません。
・ Y’を造るためには何らかの物理的実体も必要ではない、という保証はありません。
・ Y’を造るためには何らかの生物的実体も必要ではない、という保証はありません。
・ Y’を造るのには、相当のコストがかかるかもしれません。
・ Y’を、Yを上回るほどの数造るのに、充分な資源は確保できないかもしれません。
・ それほど多数のY’を動かすのに、必要なエネルギーは確保できないかもしれません。
・ Y’の保守点検や、維持管理ができる数には、物理的・社会的に制限があるかもしれません。
・ Y’を造ってもあまり役に立たないので、それ程たくさんは造られないかもしれません。
・ Y’は、ある程度研究されてしまえば、社会の興味を失うかもしれません。
・ Y’の製造が社会的・法的に制限されるかもしれません。
 以上のような確率をどう見積もり、自分の意識はY’だという確率、―― Y’の総数/(Yの総数+Y’の総数)――を、どのような計算で求め、またその確率はいくつなのでしょうか。その精度はコンマ何桁なのでしょうか。
 このような議論は間違っているのでしょうか。見当はずれなのでしょうか。無用のことなのでしょうか。あるいは、この点も憶測でいい、ということなのでしょうか。

>コペンハーゲン解釈をとる場合と、多世界解釈をとる場合とでは、予測される結果が異なることがある、というのは、すでに広く認められています。両解釈では、実在全体にあてはまる法則も大きく異なります。量子論の解釈問題は、もはや哲学ではなく、実証科学の域に突入しているのです。このことについては専門家でない我々がここで議論しても仕方ないので、専門サイトへ行くか、または簡単なモデルにご興味おありでしたら『論理サバイバル』問102等をご参照いただければさいわいです。

 これは趣旨をよく理解しました。ご指摘、ありがとうございます。別途、勉強してみたいと思います。

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あと、細かいことですが、 投稿者:学ぶもの  投稿日:10月17日(金)02時14分40秒

三浦さんは一応、書いた文章をホームページにアップするさいに、
その文章を、書評、論文、エッセイなどに分類されていて、

★「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」

はエッセイで、内容も、本格的にSAを論じたものではなくて、
SAの紹介&ラフな論証を通じて、虚構作品(物語)や創作行為の存在論的位置付けや
その意味について
本気で考えてみてはいかがかと呼びかけているものになっていますので、念のため。

学際的シェーマSAの本格的議論を読みたい人は、
NICK BOSTROMの論文
http://www.simulation-argument.com/simulation.html
に是非チャレンジを。

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なんでそんなにSAにこだわるのか・・・ 投稿者:学ぶもの  投稿日:10月17日(金)02時12分11秒

>これが中心テーマだとしたら、それを中心テーマにしておくだけで充分なのではないでしょう>>か。なぜ(1)や(3)をあえて持ち出し、さらに、平凡の原理が必要なのでしょうか。この中>心テーマに、(4)が必要だとも思えません。

あの~、事情がよく理解できない人がいるかもしれないので一応念のためにいっておきますと、
SAは別に三浦さんの発案された論法ではないです。
三浦さんの<エッセイ>、http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/simulate.htm の枕の

>前世紀末からひそかに「シミュレーション・アーギュメント」なるSF的議論が科学者・
>哲学者の間で展開中なのをご存知でしょうか?

という書き出しからして、SAが三浦さんのオリジナルではないことはわかると思いますが。
まあ、掲示板でもはっきりと述べておられましたが。

ですので、SAの命題のなかに、

(4)あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。

という命題が入っているのは、別に”三浦さんの個人的信条”を述べたものではなくて、
単に、SAがそのような形で論じられているからというものに過ぎません。

たとえば、三浦さんが再三紹介しているホームページ
http://www.anthropic-principle.com/preprints.html

にある

NICK BOSTROMの論文
http://www.simulation-argument.com/simulation.html

では、
SAは次のように要約されています。

>This paper argues that at least one of the following propositions is true:
>(1) the human species is very likely to go extinct before reaching a “posthuman”
>stage; (2) any posthuman civilization is extremely unlikely to run a significant
> number of simulations of their evolutionary history (or variations thereof);
> (3) we are almost certainly living in a computer simulation.
>It follows that the belief that there is a significant chance that we will one day
> become posthumans who run ancestor-simulations is false, unless we are currently
>living in a simulation. A number of other consequences of this result are also
>discussed.

(ちなみに、NICK BOSTROMの(2)の命題を、
・理論的技術的に意識シミュレーションが実現しない
・(技術的に可能になったとしても)技術外的理由で実現しない(興味をもたない、
倫理的理由、独裁者により強制的に禁じられるなど)
の2つの側面に分解したのをSAの命題に直接繰り込むと三浦さんバージョンになる。
NICK BOSTROMの場合も、実際に(2)の命題の真偽を見積もる中で、理論的技術的側面と技術外的側面
について論じているので、結局は同じことですが)

SAは、人間原理的推論の哲学的問題における応用例で、
よってキーアイディアは当然のことながら平凡の原理、
たとえば、リチャード・ゴットの

”もし宇宙空間のコロニー化がしばしば起こると考えるのであれば、自分自信
にこう尋ねなければならない。「なぜ私は宇宙コロニストじゃないのか?」もし
あなたが宇宙の大部分の知的観測者が知的で、事故意識的なコンピューターあるいは
遺伝子操作を施された存在であると考えるならば、あなたはこう尋ねなければならない。
「なぜ私は知的なコンピューターではないのだろうか?なぜ私は遺伝子操作をされていないのだろうか?」”
『時間旅行者のための基礎知識』p283

のような平凡の原理的推論にあります。

それから、

>このような誤解を受ける恐れについて釈明しなければならないような状況を、
>何とかされてはいかがでしょうか。

ということですが、
そもそも、三浦さんのエッセイ

http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/simulate.htm

の文章を読めばはっきりと、

>正確に言うと、シミュレーション・アーギュメントとは、次の四つの命題のうち少なくとも一つ
>は正しいはずだという論証です。

と書いてあるので、それを、

”SAは、「ここはシミュレーションの内部である」という主張”

と受け取った人がいるとすれば、その人がたんに不注意なだけという話し。

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穴ナシじゃつまらないなあ 投稿者:φ  投稿日:10月17日(金)01時56分38秒

 憶測でないなどと匂わせた覚えはありませんがね。確率的判断であると私は何度も言っております。文体上、それ以上保留条件をつける必要などありません。
 ちなみに超ひも理論の創始者ジョン・シュワーツは、「超ひも理論は絶対に正しいはずだ。数式を見れば明瞭だ」ということを何度も言っています。しかし誰も、「ただのあなたの推測だろ」なんてくだらない議論はしませんよ。黙って超ひも理論の論理構造を吟味するのです(まだ実験的検証は無理だから)。
 おねがいしますよ、SAもまだ誰も反駁できていないんだから、話題にする場合は構造と論理を突いていただきますように。具体的に。終末論法もそうですが、SAも、ほんとに反駁できたら面白いんですから。

 なお、nbsakuraiさんの次の発言は大間違いです。

 >コペンハーゲン解釈は、科学の哲学的解釈のひとつであって、科学そのものではありません。どのような哲学的解釈をしようと、科学理論や法則自体は変わりません。

 コペンハーゲン解釈をとる場合と、多世界解釈をとる場合とでは、予測される結果が異なることがある、というのは、すでに広く認められています。両解釈では、実在全体にあてはまる法則も大きく異なります。量子論の解釈問題は、もはや哲学ではなく、実証科学の域に突入しているのです。このことについては専門家でない我々がここで議論しても仕方ないので、専門サイトへ行くか、または簡単なモデルにご興味おありでしたら『論理サバイバル』問102等をご参照いただければさいわいです。

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Re:SAに穴なし 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月17日(金)01時01分10秒

>あとは、SAの論理世界を我々が受け入れるか否かです。

 あるいはそうなのかもしれませんが、私にはそこのところがもう一つ飲み込めません。

>早く次の話題へ進みたいです。

 申し訳ありません。

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Re:たとえばSETIは(続き) 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月17日(金)00時42分20秒

>(4)のライバルは(2)ですが、(2)は目下哲学論争の中心テーマなので、そこの両陣営に世界観の調整を迫る点でSAには意義があります(◆6への答えの一部)。

 これが中心テーマだとしたら、それを中心テーマにしておくだけで充分なのではないでしょうか。なぜ(1)や(3)をあえて持ち出し、さらに、平凡の原理が必要なのでしょうか。この中心テーマに、(4)が必要だとも思えません。

>◆6への十全な答えは、宗教学者からもたらされるかもしれません(もたらされないとしたらそれはそれでまた一つの宗教に関する知的成果です)。全く新しい「創造主」の概念が確率論のお墨付きを得るわけですから。

 申し訳ありませんが、私にはよく理解できません。確率論のお墨付きで創造主を考える? 創造主はコンピュータ・シミュレーションのプログラマーってことでしょうか。

>(1)(2)(3)(4)の論理関係、(2)より(4)が信じられること。これについては私は基本的なことは全部述べたつもりです。科学や哲学はみんな憶測なんだから、単に「憶測でしょ」じゃなくて、「その憶測にはこれこれの穴があるから考え直したら?」でお願いします。早くSAの穴を指摘してくださいよ(具体的に!)。待ってるんですから。

 (1)(2)(3)(4)の論理関係について、私の考えは既に述べたとおりです。
 哲学が憶測かどうかは知りませんが、科学はこの意味での憶測でしょうか。科学活動に憶測は大事です。ただし仮説を造る段階でです。科学理論は最初は憶測だとしても、仮説は検証にかけられます。そして、検証でふるい落とされた仮説は、もはや科学(の理論)ではなくなるでしょう。あるいは科学的に間違った理論とされるでしょう。いまだ検証されていない仮説は、まだ憶測です。大勢の人が信じたとしても、反証されればそれまでです。私は(2)を信じる、いや、私は(4)が信じられる、―― これを科学とは言わないと思います。科学の歴史は、葬られた憶測の山ではないか、と私は思っているのですが。
 また、私としては、最初にSAの穴を具体的に指摘したつもりなのですが、そこが私の一番肝心な点というわけではありません。これは単なる憶測ですよ、とおっしゃるなら、私はそれ以上に言うべき言葉を持ちません。(ただ、憶測だということを、明確にされる必要はあるかと思います。少なくとも、一見して憶測だとは本件論文は見えない、そのようには書かれていない、と思います。)

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Re:たとえばSETIは 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月17日(金)00時39分01秒

>仮説(確率のさほど低くない憶測)をいくつも重ねて、その間の論理関係を吟味し、一番確率の高い仮説を採用してゆくという方法

 これは、ご自分の論文をそのようなものだと認められている、ということなのでしょうか。そうだとすると、私はたいへんな勘違いをしていたことになります。(形式的にはそのような形になっているようにも見える、ということは私にも分かります。)

>は、学問でごく一般的で、SAだけの問題ではありません。

 これは、私個人にはそうは思えません。哲学はよく知りませんが、少なくとも科学は、そんなものではないでしょう。仮説を提唱する段階はそうだとしても、反証があれば直ちに修正されるか捨てられ、それを生き残ってきたものだけが科学理論として認められるものだと私は考えています。憶測による仮説は、まだ認められた、あるいは確立された科学理論ではありません。

>A「観測可能な宇宙の地平線内に(さらにはこの銀河系内に)地球外文明はたくさんある」という信仰から出発し、B「しかしどこにも形跡が発見できないな……」という謎に直面して、ドレイクらは、「恒星間飛行は不可能だからだ」or「文明はみな短命だからだ」or「高度文明は恒星間飛行や通信に関心がないのだ」or「たぶん太陽系まで拡がってくる途中なのだろう」or……といった無理な仮定を列挙して、なんとかAとBとの矛盾を解消しようとしています。

 これが確立された科学(理論)であるとは、私も思っておりません。

>私にいわせれば、こうした低確率の憶測に基づいたSETIは科学の名に値しませんが、実際には、莫大な国費を使って地球外生命探査計画が何度もなされてきた事実がある。

 私もほぼおっしゃる通りだと思います。(ただ、それをやっている人自身が科学だと思っているかどうか、また、それをやる価値があるかどうかは、それが科学であるかどうかとは別問題だとは思いますが。)

>SETIですら科学と認められるのであり、

 SETIは科学と認められているのでしょうか。(認めている方もいるかとは思いますが。)

>こうしてみると科学はしょせん、憶測なのですね。

 ここが、私とは大きく違うようです。科学は断じて憶測ではない、とまでは言えないかもしれませんが、以上のような意味での憶測とは違う、と私は思います。

>超ひも理論にせよ複雑系理論にせよコペンハーゲン解釈にせよ、数学的整合性や操作性に基づいて、時代の要請に沿ってそれなりの役割を果たそうとしている「科学」なわけです。それらは、経験的もしくは論理的に反駁されるまでは、科学理論としての地位を占めつづけます(トンデモ科学としか思えないコペンハーゲン解釈なんて憶測が未だに物理学の定説なんですよねえ……)。

 超ひも理論はまだ理論の研究段階のようです。反駁されるまでは科学理論としての地位を占めつづけるとも言えるかもしれませんが、あくまで、まだ検証されていない仮説としてでしょう。今のところはこれ以上に有望な理論がないとしても、科学理論としてまとまり、そして検証されるまでは、科学的に認められた理論、確立された科学理論にはなりません。科学的な仮説は検証を予定しています。反証があれば修正されるか捨てられることが見込まれています。憶測だけでこれが真実だ、私はそう思う、などとはされません。(複雑系理論については、私もどうも科学っぽくないな、という感じを持っていますが、あまり興味がなく、またほとんど知らないので、意見を述べることは差し控えます。)
 一方、コペンハーゲン解釈は、科学の哲学的解釈のひとつであって、科学そのものではありません。どのような哲学的解釈をしようと、科学理論や法則自体は変わりません。
 どちらも「時代の要請に沿ってそれなりの役割を果たそうとしている」のかもしれませんが、どちらも「科学理論」そのものではない。以上のように私は考えています。

>SAの根拠となる仮定((1)(2)(3)(4)の選言)は、SETIの諸仮定に比べればはるかに信憑性が高い。そのあたりを突いてほしいものです。

 私には、信憑性が高いとは思えません。そのあたりを一番最初に突いたつもりだったのですが、私から見るとまともなお答えをいただいておりません。また、仮に信憑性が高いのだとしても、何の実験的な検証もないまま、これが真実である、とか、私は断然これですね、などというのは「科学」ではないと私は思います。

>SAの(1)(3)がダメだという理由は、「虚構色」に述べてあります。

 おっしゃる通りです。この点については、私もまずは同意見です。ですが、私が問題としているのは、そういうことではありません。

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SAに穴なし 投稿者:ハムスター  投稿日:10月17日(金)00時13分26秒

>科学や哲学はみんな憶測なんだから、・・・

科学は憶測じゃないですよ。
ポパーによると反証可能性が科学である基本条件だそうです。
この辺が科学と論理学や数学の違いですね。

>早くSAの穴を指摘してくださいよ

SAに穴なんかないですよ。
あとは、SAの論理世界を我々が受け入れるか否かです。

早く次の話題へ進みたいです。

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たとえばSETIは 投稿者:φ  投稿日:10月16日(木)19時55分49秒

仮説(確率のさほど低くない憶測)をいくつも重ねて、その間の論理関係を吟味し、一番確率の高い仮説を採用してゆくという方法は、学問でごく一般的で、SAだけの問題ではありません。
わかりやすいので、前に書いたSETIを考えてみましょう。
A「観測可能な宇宙の地平線内に(さらにはこの銀河系内に)地球外文明はたくさんある」という信仰から出発し、B「しかしどこにも形跡が発見できないな……」という謎に直面して、ドレイクらは、「恒星間飛行は不可能だからだ」or「文明はみな短命だからだ」or「高度文明は恒星間飛行や通信に関心がないのだ」or「たぶん太陽系まで拡がってくる途中なのだろう」or……といった無理な仮定を列挙して、なんとかAとBとの矛盾を解消しようとしています。
 私にいわせれば、こうした低確率の憶測に基づいたSETIは科学の名に値しませんが、実際には、莫大な国費を使って地球外生命探査計画が何度もなされてきた事実がある。SETIですら科学と認められるのであり、こうしてみると科学はしょせん、憶測なのですね。超ひも理論にせよ複雑系理論にせよコペンハーゲン解釈にせよ、数学的整合性や操作性に基づいて、時代の要請に沿ってそれなりの役割を果たそうとしている「科学」なわけです。それらは、経験的もしくは論理的に反駁されるまでは、科学理論としての地位を占めつづけます(トンデモ科学としか思えないコペンハーゲン解釈なんて憶測が未だに物理学の定説なんですよねえ……)。
 SAの根拠となる仮定((1)(2)(3)(4)の選言)は、SETIの諸仮定に比べればはるかに信憑性が高い。そのあたりを突いてほしいものです。SAの(1)(3)がダメだという理由は、「虚構色」に述べてあります。(4)のライバルは(2)ですが、(2)は目下哲学論争の中心テーマなので、そこの両陣営に世界観の調整を迫る点でSAには意義があります(◆6への答えの一部)。
 ◆6への十全な答えは、宗教学者からもたらされるかもしれません(もたらされないとしたらそれはそれでまた一つの宗教に関する知的成果です)。全く新しい「創造主」の概念が確率論のお墨付きを得るわけですから。
 (1)(2)(3)(4)の論理関係、(2)より(4)が信じられること。これについては私は基本的なことは全部述べたつもりです。科学や哲学はみんな憶測なんだから、単に「憶測でしょ」じゃなくて、「その憶測にはこれこれの穴があるから考え直したら?」でお願いします。早くSAの穴を指摘してくださいよ(具体的に!)。待ってるんですから。

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Re:まあそうおっしゃらずに・・・。 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月16日(木)18時53分06秒

>nbsakuraiさんとしては、「あんたの意識はコンピュータシュミレーションなのさ」っていわれてオカンムリってなわけなんですから。

 とんでもありません。
 ”なお、私はどちらの議論も、(4)の結論自体に賛成・反対を表明するつもりも、しているつもりもありません。私は「(4) あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。」という「命題」自体を、必死に否定しようとしているわけではありません。自分の意識が仮にコンピュータ・シミュレーションであったとしても、私は特に差し支えがありません。”(Re:平凡の原理(再々々……))

>まあ、「あんたはいつか死ぬのさ」なんて論説が反感かうのといっしょです。

 少なくとも私には反感はかいませんよ。(もちろん場違いなときでなければ。)

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なぜ(4)なのか。 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月16日(木)18時38分11秒

◆1
・ AであればZではないところ、Aではない。
・ BであればZではないところ、Bではない。
・ CであればZではないところ、Cではない。
 以上から、”よって「Zではない」とは言えない”、と結論する。―― これがフツーの、論理と言うもの。
 ところがここに、シカジカのゲンリという呪文を唱えると、あーら不思議、「Zである」ことになってしまう。

◆2
・ DであればZではない。
・ EであればZではない。
  ・・・
 Dではない、Eではない、・・・、が、忘れられているか、問題として認識されていないか、無視されている。

◆3
 Aではない、Bではない、Cではない、は、論理の問題ではなく事実の問題であるところ、仮定や推測に基づく主観的な判断以上のものが示されていない。
 Cではない、Dではない、・・・、は、自明のこととされているように見え、根拠を述べようとしていない。
 どちらも、科学的な実験によって検証された、と少なくとも主張されてはいない。

◆4  「現実」は「虚構」だというが、その「虚構」がどうやら「現実」らしい。
 議論の衝撃度もおもしろさも、表題の見かけほどのものではない。

◆5
>レベルD文明ともなれば、そのへんの倫理基準は当然完備されているはずと考えられます。
>私としては自然界よりシミュレーターの方に信用というか安心感を覚えます。
>私の直観(それなりの論理的根拠もあるのだが)では、終末論法よりもSAに信憑性を感じます。
>私ゃ断然(4)を信じることは言うまでもありません。
>(4)を否定したいあまり(1)(2)(3)(5)のいずれかを信じるわけですが、正気の沙汰とは思えませんャ。

 こういうのを、フツーは科学や論理とは言わないのでは。
 フツーは、個人的な心情とでもいうのでしょうか。
 それなりの論理的根拠って。

◆6
 (4)を真としないSAって、議論として、どんな意味があるのでしょうか。
 おもしろい議論でひととき楽しむ、って意味でしょうか。
 SAには意味はないと確認する、って意味でしょうか。
 シミュレーションが信条を学問色に染め上げる(比喩ではない!)

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まあそうおっしゃらずに・・・。 投稿者:ハムスター  投稿日:10月16日(木)18時30分04秒

nbsakuraiさんとしては、「あんたの意識はコンピュータシュミレーションなのさ」っていわれてオカンムリってなわけなんですから。
この反応は一般に当然の反応ですよ。
ですから、こういう論説を一般に対して説くときは、きちんとホローしておかないといけないんです。
それが人気を得るコツです。

SAの場合は、(2)に対してのフォローがやさしいですよね。
(2)レベルDのコンピュータ・シミュレーションによって、あなたの心と同程度にクリアな意識を作り出すことはできない。

論理的には真か偽かどちらかなわけですけど、一般には
・不可知な未来に対する言及である
・意識は解明されていない
という点において、真偽判定不能な言明であるわけです。
そこを説明しておいて論説を面白おかしく展開すれば、みんなφさんのファンになるはずです。

まあ、「あんたはいつか死ぬのさ」なんて論説が反感かうのといっしょです。

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Re:「学問」と「心情」 投稿者:φ  投稿日:10月16日(木)15時10分29秒

 SAだけでなく、どんな学説・信条に対しても一律に言える反論(?)は、退屈なので是非やめにしましょう。「それはあくまであなたの考えでしょ?」という反論(?)は、頭を使わなくても言えるんです。頭を使わない議論は私ゃ苦手なので。
 むかし、芸大のバイオリンの先生が不祥事を起こしたとき、キャンパス内で逸見政孝にマイクを向けられた芸大の学生が件の先生を弁護することを言いかけたら、逸見が「それはあなたの考えでしょ?」と遮っていた。(それで学生が怒って「あんたみたいなバカに話しても……」と言って、逸見も怒って「バカとはなんですか」と、翌週の番組ではわざわざそのVTRを芸大の学長だか学生部長だかに見せて「近頃の学生は……」的なお決まりのコメントを求めていた)――逸見ってのはどーしよーもない愚か者だな、と思いましたね。学生に何を述べてほしかったの? 「あなたの考え」を聞きたくてマイクを向けたはずだろうが。それとも逸見自身の考えを述べてほしかったのか? マスコミってのは基本的に今も体質変わってませんけどね。
 nbsakuraiさんも、マスコミ的な無思考的一律言語を是非打ち止めにしてください。せっかくのインターネットなんだから逸見的定型を持ち込むことはないでしょう。★★もちろん、SA特有の論理、内容に関することなら、喜んでお相手いたします★★ 「それはあくまであなたの考えでしょ?」じゃ張り合いありませんね。何度も、私の考えだと言ってるじゃありませんか。しかも私「独自」の考えなどではなく、もう何人もがSAを議論しているwebページもすでに貼り付けたはずですよ。
 「私の考え、私の論理」以外のことを公に書くのは執筆倫理に反するんです。
 決まり文句でなく、どうかご自分の頭で考えた反論をお願いいたします。

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「学問」と「心情」 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月16日(木)06時53分49秒

>なお、誤解があるようですが、SAは、「ここはシミュレーションの内部である」という主張ではありません。「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」の第三段落にハッキリ書いたように、(1)(2)(3)(4)のどれかは真のはずだという「確率的判断」です。(4)を真とするのがSAだと思い込んでおられる方もいるようだが、そうではないことを確認してください。
>ともかく、SAは決して(4)の肯定に限られた狭い主張ではなく、(1)(2)(3)(4)四者間の真偽関係を述べたいわば学際的なシェーマ(文明論、社会学、コンピュータ科学、認知科学、確率論……)であることにくれぐれもご注意願います。今さら注釈の必要など無いはずのことで、わかってる人には誠に申し訳ありませんでしたが。

 とりあえず、
 このような誤解を受ける恐れについて釈明しなければならないような状況を、何とかされてはいかがでしょうか。つまり、「学際的なシェーマ」と「個人的な心情(信条)」とを明確に分離されてはいかがでしょうか。(4)が個人的な信条を述べたものであること、その根拠として、あるいは、それに付随して述べられていることも、個人的な信条や心情、あるいは筆者独自の論理であることを、もう少し明確にされれば、そこからおのずと道は開けるのではないかと思います。
 「学問」と「心情」をハッキリ区分されれば、混乱も減少するのではないでしょうか。意図的に不明確にしているのでなければ、ですが。

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矛盾がないどころか。 投稿者:φ  投稿日:10月16日(木)02時36分30秒

 アレフXより一つ上の濃度をアレフ(X+1)と定義してあるわけですから。

 ……よそのことってあまり知りませんが、BBSってふつう、教科書読めば議論の余地のないことを延々と議論したりするものなんですか?(皮肉っぽくてすみませんね。それが無意味だといってるんじゃありません)

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アレ?フ? 投稿者:ハムスター  投稿日:10月16日(木)00時16分07秒

こういう話は正確にしないと誤解を生みます。

一般連続体仮説:濃度mに対して、2^m>n>mとなる濃度nは存在しない。
連続体仮説:上記のmが自然数全体の濃度を表すとき。

ん?
まったく同じかな。

>(念のため、アレフXとアレフX+1との間の濃度は定義により存在しません)

この言い方は、役人ぽくってイヤです。
「そう考えて矛盾はありません」とか言う方が学者っぽいです。

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改題 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月15日(水)21時10分06秒

★「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」

        改め、

★「ボク(たち)の好きなシミュレーション・アーギュメント(虚構ではない!)」

   ―― は、いかがでしょうか。

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↓? 投稿者:φ  投稿日:10月15日(水)16時37分59秒

  >実数のべき集合の濃度はアレフ1でもいいしそうでなくてもいい

 実数の、ではなく、自然数のべき集合の、と書きたかったんですよね。

 ●自然数のべき集合の濃度(つまり実数の濃度)はアレフ1である ……連続体仮説

 ●濃度アレフAの集合のべき集合の濃度はアレフA+1である ……一般連続体仮説

 でしたね。(念のため、アレフXとアレフX+1との間の濃度は定義により存在しません)
 一般連続体仮説は(一般連続体仮説は連続体仮説を含むので当然連続体仮説も)標準的な集合論の公理系とは無矛盾であるのみならず、独立である。←これは数学的に証明されたことであって、「仮説」ではありません!

 ところで、今ざっとネット検索してみたら、「一般連続体仮説」という語を間違って「連続体仮説」の意味で使っているページなんかもあるみたいだなあ。

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学ぶもの様 投稿者:いなば  投稿日:10月15日(水)14時18分40秒

ここまでの連載は手を入れて入稿しました。もうすぐゲラがあがります。

ええ、ですから実数のべき集合の濃度はアレフ1でもいいしそうでなくてもいい、ということではなかったでしたっけ? 

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分からなくなってきた・・(←kotobazukuri氏)   投稿者:φ  投稿日:10月15日(水)02時01分37秒

 ●こういう突っ込みは嬉しいんですよねぇ。
 すみません。確かに矛盾してます。正確には、私が言いたいのは、
 (4)SETIの対象となる観測可能な宇宙の範囲内に地球外文明は無い。
 ということでした。
 宇宙の地平線を超えた彼方まで含めれば(実在は無限であるという説が有力なようですから)、地球外文明は必ずあるはずだと思います(無限の時空の中では何事も無限回起こるので)。
 また、ディヴィド・ルイス流様相実在論を前提すれば(『可能世界の哲学』を書いた頃に比べ私はやや支持の熱意を失いましたが)、どこかの可能世界にDシミュレーションが実行されているというだけで、私たち自身がDシミュレーション内にある、というSAが成立します。
 ●連続体仮説についてまとめると、

 >アレフゼロは自然数の集合の基数、アレフ1はそのベキ集合の基数だとして、
>連続体仮説というのは「「アレフ1=実数の集合の基数」だとは証明できない」ではなかった
>でしたか?

 「「アレフ1=実数の基数」だとは証明できない」は、仮説ではなく、数学的事実です。
 「実数の基数=自然数のベキ集合の基数」も、仮説ではなく、数学的事実です。
 連続体仮説とは、学ぶもの氏の述べるとおり、アレフ1=実数の基数、という仮説です。この仮説は、標準的な集合論では真とも偽とも証明できず、公理系から独立しています。
 連続体仮説は『可能世界の哲学』p.164付近とは全然関係ないです。
 まあ、連続体仮説とは何かというのは集合論の教科書に書いてあることなのであえて掲示板の議論の主題にするまでもないことかと……、

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あっ、稲葉さん発見! 投稿者:学ぶもの  投稿日:10月14日(火)22時04分09秒

「地図と磁石」不完全教養マニュアル
http://www.hotwired.co.jp/altbiz/inaba/030819/
の連載をしこしこ楽しみにしておりますゾ!

>アレフゼロは自然数の集合の基数、アレフ1はそのベキ集合の基数だとして、
>連続体仮説というのは「「アレフ1=実数の集合の基数」だとは証明できない」ではなかった
>でしたか?

連続体仮説は、自然数の集合ω とそのべき集合P(ω)との濃度に関して

   ω< x <P(ω)

を満たす濃度をもった集合xは存在しないというものではないかと。
ですから、自然数のべき集合はアレフ1であるという仮説じゃなかったかしらん。

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Re:平凡の原理(再々々……) 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月14日(火)19時58分02秒

>こちらフェルミバージョンに関しては、SAバージョンのときよりM賛同者が多いのでは?

 ご賢察のこととは存じますますが、私は賛同者には含まれません。
>私ゃ断然(4)を信じることは言うまでもありません。
>(4)を否定したいあまり(1)(2)(3)(5)のいずれかを信じるわけですが、正気の沙汰とは思えませんャ。
 今回のは、議論運びのスタンスが必ずしも前ほど明確ではないので、これだけですと、特に述べるべき意見も感想もありません。

 なお、私はどちらの議論も、(4)の結論自体に賛成・反対を表明するつもりも、しているつもりもありません。私は「(4) あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。」という「命題」自体を、必死に否定しようとしているわけではありません。自分の意識が仮にコンピュータ・シミュレーションであったとしても、私は特に差し支えがありません。

>昔(20世紀はじめまで)は、平凡の原理によって、地球以外にも文明はたくさんあるのが当然だった。
>今(フェルミのパラドクス以後)は、平凡の原理により、地球以外の文明は否定される。
> ……世の中、変わったものですね。

 SAバージョンについても、このようなことができませんでしょうか。
 できれば、もう一歩進んで、先のSAバージョンの述べ方と同じ熱意をもって、
(4) あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識では「ない」。
と主張したバージョンを、前者と並べていただければ、と思ったりするのですが、無理でしょうね。

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Re:いったいなにが? 投稿者:NBS こと nbsakurai  投稿日:10月14日(火)19時55分36秒

>(6)真剣に反論するか、立ち去るか、他の人の議論を見守るか。

 特に大事なポイントと言うわけではありませんが、微妙なニュアンスを除けば、
  真剣に反論する       →  ほとんど(2)に同じ。
  立ち去る          →  ほぼ(5)に同じ。
  他の人の議論を見守る    →  ほぼ(1)に同じ
だと思います。

 なお、ここでは各「命題」の内容はあんまし重要ではありません。例えば前のように、
  (4)山口百恵が絶世の美女
でも良かったのですが、インパクトの強そうなものを持ってきてみたものです。(この点は、主宰者にもご理解いただいているように思います。)

>ここでは、どうされたのですか?

 どうしてなのか、実は自分でもよく分かりません。いったん撤退を表明したのですが、こそこそと名前を変えて、また戻ってきてしまいました。この議論には、何か不思議な魅力があるのかもしれません。

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どこがわからんのかというと 投稿者:いなば  投稿日:10月14日(火)16時15分02秒

「自然数のベキ集合の基数と実数の集合の基数が等しい」という命題と連続体仮説の関係です。
 アレフゼロは自然数の集合の基数、アレフ1はそのベキ集合の基数だとして、連続体仮説というのは「「アレフ1=実数の集合の基数」だとは証明できない」ではなかったでしたか? 

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下の書き込みは 投稿者:いなば  投稿日:10月14日(火)16時04分24秒

ダメですね。すいません逝ってきます。

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? 投稿者:いなば  投稿日:10月14日(火)13時07分30秒

>実数の濃度は自然数の集合の個数で間違いありません。実数をすべて二進法の無限小数で表わし>てみれば、0or1の二通りを自然数の数だけ掛け合わせた組み合わせの数だけ存在することがわ>かります。これは自然数の集合の総数となります。

これに対角線論法を適用するとどうなりましょうか。

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自分でツッコミ 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月14日(火)03時55分34秒

> 私たちだけが例外的に、D文明に達する前の意識なのだと考えるのは「平凡の原理」に反するので、

ここは駄目っぽいですね。よって、

> えっと、色々なシミュレーション意識の中で私たちだけが例外的に、D文明に達する前の意識なのだと考えるのは「平凡の原理」に反するので、もしD文明が地球上にあるのならば、私もシミュレーション意識を作っているはず、
> しかし、それをしていないのは、シミュレーション意識を作る前の段階にあるこのC文明である我々が唯一の、なまの意識なんだ。

これは削除します。よけいなことを書かねば良かった。

一応

『フェルミパラドクス版の(4)を支持して、「地球外文明は無い」
よって、私はシミュレーション意識ではない。と、しておこうかなと。』

これだけということに。

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それで・・ 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月14日(火)03時28分36秒

それで、自分の場合、意識シミュレーションでの(4)への疑念としては
地球以外にも文明があるはず、という試算、推測への疑問というのを考えていたので、
今の感じでは、

フェルミパラドクス版の(4)を支持して、「地球外文明は無い」
よって、私はシミュレーション意識ではない。と、しておこうかなと。

えっと、色々なシミュレーション意識の中で私たちだけが例外的に、D文明に達する前の意識なのだと考えるのは「平凡の原理」に反するので、もしD文明が地球上にあるのならば、私もシミュレーション意識を作っているはず、
しかし、それをしていないのは、シミュレーション意識を作る前の段階にあるこのC文明である我々が唯一の、なまの意識なんだ。

ということで、どうでしょうか?
アホなことを書いていたら、遠慮なくご指摘ください。・・でも、なるべく柔らかに。

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分からなくなってきた・・ 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月14日(火)03時27分22秒

> (4)地球外文明は無い。
>  私ゃ断然(4)を信じることは言うまでもありません。

φさんは、シミュレーション意識の方では

> この宇宙にありうる数知れぬ文明

でしたでしょう?
・・僕が激しくカン違いしてるんだろうか・・

もしかして「 私ゃ断然、(4)ですけどね。」
というのは、問題提起のための定形句・・とか?

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あっと 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月14日(火)01時47分59秒

>真剣に反論するか

これは(1)~(3)のどれかに入っているのでしょうか・・

それと、全てを否定すると矛盾、というような立論には
価値、値する、というのは向いていないのかも・・と
「この議論の価値」
という表現自体、厳密じゃないですし・・

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◎ 投稿者:φ  投稿日:10月14日(火)01時46分20秒 あ、入れ違いに質問が。レヴィナス、読みません。熊野純彦、知りません。いまネット検索して知りました。ポストモダニストの中では、デリダだけはパラノ的で面白いと思います。ドゥルーズやクリステヴァと違って科学理論の濫用もしないし、ただ分析哲学者に比べるとやはり誠実の度合がはるかに劣るようですね。

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平凡の原理(再々々……) 投稿者:φ  投稿日:10月14日(火)01時38分17秒

昔(20世紀はじめまで)は、平凡の原理によって、地球以外にも文明はたくさんあるのが当然だった。
今(フェルミのパラドクス以後)は、平凡の原理により、地球以外の文明は否定される。  ……世の中、変わったものですね。
 なお、虚構色SA(1)(2)(3)(4)に対応するフェルミパラドクス版を以下に掲げてみました。太陽系に異星文明の痕跡が発見されず、SETIも未だに成功していないのは……、
 (1)文明は必然的に短命であり、恒星間飛行まで進む文明は無い。
 (2)超文明にとってすら、恒星間飛行は原理的に不可能である。
 (3)超文明は、恒星間飛行に興味を持たない。
 (4)地球外文明は無い。
 私ゃ断然(4)を信じることは言うまでもありません。
 なおSAと同じく、平凡の原理を放棄すれば、第5の道が開けます。つまり、(1)と似て非なる
 (5)地球外文明はたくさんあるが、どれも地球より遅れていて、電波やロケットを発明していない。だから地球人にはまだ発見できない。
 ドレイクやセーガンらSETIの人たちは(4)を否定したいあまり(1)(2)(3)(5)のいずれかを信じるわけですが、正気の沙汰とは思えませんャ。
 こちらフェルミバージョンに関しては、SAバージョンのときよりM賛同者が多いのでは?
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質問 投稿者:刈り暮れ巣  投稿日:10月14日(火)01時37分52秒

先生はデリダを少し読まれるようですね。レヴィナスはどうですか。

それと下らぬ質問ですが、先生は熊野純彦という哲学者はご存知ですか?

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いったいなにが? 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月14日(火)01時18分38秒

仮に(1)~(3)の全てを否定と考えたとしても、
だから「揶揄に値する」か「揶揄にも値しない」かである
というような考え方を私は取りたくありません。
自分に取って価値が無いとか、自分から見て間違っていると思う考え方に接した場合でも、「揶揄」もしくは「揶揄にも値しない」などという見方をするのは嫌いですから。
私の選択肢は従って
(6)真剣に反論するか、立ち去るか、他の人の議論を見守るか。
というようなことになります。

あちらの掲示板でのサクライさんは、私から見て敬意を払いたい人だったのですが・・
ここでは、どうされたのですか?

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議論の価値についての論証 投稿者:NBS  投稿日:10月14日(火)00時57分39秒

 この議論の価値について、次の四つの命題のうち少なくとも一つは正しいはずだという論証です。
 (1) 真剣に学習して習得すべき価値がある。
 (2) それ程ではないが、議論に値する。
 (3) 議論には値しないが、分析に値する。
 (4) 単に揶揄するに値する。
 さてあなたはこの四つのうち、どれが正しいと思いますか。
 カクカクの理由によって、合理的に(1)~(3)はほぼ否定される。したがって、シカジカの原理によって、まず間違いなく(4)である。証明終わり。これが論理と言うもの。
(なお、カクカクの部分には、適当な仮定や推測を組み合わせていただき、シカジカの部分には、シミュレーションM氏の従来の発言を援用していただけばよろしかろうと。)
 ―― もっとも、実を言うと、この四命題をすべて否定しても、矛盾に陥るとは限らないのです。
 (5) 揶揄にも値しない。
というのもあり、シカジカの原理によれば、この確率が圧倒的に高いのですが、それを言っチャーおシマイよ、ってやつです。
 サアあなたはどれを受け容れます? 哲ガクシャや論理ガクシャがゴッツい結論を強制しにくる前に、せいぜい自力で考え演じ尽くしておかなくっちゃ、ですね。

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意識は未解明 投稿者:ハムスター  投稿日:10月13日(月)22時08分17秒

>なるほど、でもそうすると、イチバーン最初の意識は、何から生まれた?

これがナゼ生まれたかについては、偶然であったと考える生物系の人が多くなったように感じています。
最近じゃ宇宙人起源の可能性まで考える人がいます。
http://origins.swau.edu/papers/life/chadwick/default.html
以前は平凡の原理によって、地球以外にも文明は沢山あると考える人が多かったようですがね。

まあ、現時点では意識の誕生については未解明なのですから、レベルD文明がコンピュータ意識を作り出すという先の論文の前提は、とうてい受け入れられないわけです。

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意識は意識が生む? 投稿者:NBS  投稿日:10月13日(月)12時57分13秒

>当然にレベルDコンピュータには意識があるはずです。

 なるほど、そうすると、レベルDコンピュータの意識も、コンピュータ・シミュレーションってことになるわけですね。かの原理によって。
 で、レベルDコンピュータの意識をシミュレーションしているのは、レベルEコンピュータってわけですね。なるほど。

>だって、意識って、意識にしか生めないでしょ?

 なるほど、でもそうすると、イチバーン最初の意識は、何から生まれた?
 レベルF、G、・・・、Z? ・・・、やっぱり、レベル∞コンピュータなのでしょうね。

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意識は意識が生む 投稿者:ハムスター  投稿日:10月13日(月)11時39分53秒

John D. Barrowさんの考えるシミュレーションって、レベルCコンピュータシュミレーションの延長でしかないようですね。
突然の故障だとか自然の変化だとか自然のキズの実在だとか、レベルCコンピュータシュミレーションならば起りそうなことばかり考えているようです。

レベルDコンピュータシュミレーション内で意識がともるとすれば、当然にレベルDコンピュータには意識があるはずです。
だって、意識って、意識にしか生めないでしょ?

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もしかしたら 投稿者:NBS  投稿日:10月12日(日)18時00分38秒

 もしかしたら・・・かもしれませんが、
 ・・・、ちとイマジネーション過剰かな。

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グリッチ&ドリフト 投稿者:φ  投稿日:10月12日(日)17時23分43秒

例の http://www.anthropic-principle.com/preprints.html から行ける John D. Barrow論文には、「シミュレーション内の意識は自分がシミュレーション内にいることに必ず気づく」と言いたげです。シミュレーション内の自然法則がときどきメンテナンスのためリセットされるゆえに、内部の科学者は自然法則のズレや断層に気づくだろう、てわけですが。
 だけど、われわれのいるここだってもしかしたら、19世紀半ばまではニュートン力学が厳密に正しかったが、ある瞬間に、量子力学へと切り替わったのかもしれませんよね。だけど科学者たちは「この世界がグリッチ&ドリフトを起こした→ここはシミュレーション内だ」などとは考えず、「いままでの科学理論が不十分だった」と考えるわけです。  日常生活でも人々は、時折、「あれ? なんか昨日までと風景が微妙に違うな」「この場面、以前もあったな(でじゃヴゅ……)」などと感じつつ、シミュレーションの設定が変更されたからだ、とはまあ考えませんからねえ。
 いずれにしてもBarrowの念頭には、外部の数秒で内部の千億年を実現するようなレベルDシミュレーションではなく、せっせと内外同時間かけて進めて行くレベルCシミュレーションだけが想定されているようですね。ちとイマジネーション不足かな。 http://www.simulation-argument.com/barrowsim.pdf

-------------------------------------------------------------------------------- Re:あの~ 投稿者:NBS  投稿日:10月12日(日)17時08分44秒

>レベルDコンピュータには、resetとかparameterとか熱暴走とかバグとか管理者なんか無いんです。

 なるほど、なるほど。スベテ、自己完結的になっているってわけですね。つまり、どんな批判に対しても
>そんなのは、程度の低い、低レベルcコンピュータでのお話です。
―― と言っておけば、スベテOKな論理構造になっている。つまり、レベルDコンピュータはすべて完璧、完全無欠、全能ってわけで、そうであれば、信じる以外に救われる途はありませんね。

>レベルDコンピュータは、レベルDコンピュータに進化した時点で、レベルDコンピュータ自身でしか制御不能なのです。

 なるほど、知りませんでした。それでは、私が「カミさま」とか「管理者」、「実行者」と呼んでいるものを、「レベルDコンピュータ」と読み替えていただけませんでしょうか。
 この制御者が、自分が実行しているシミュレーションに対して、「resetとかparameterとかバグとか」したりすることもないのでしょうか。そして、シミュレーションがその内部で熱に浮かされて暴走し、レベルDコンピュータがその「実行を停止」することも、・・・ないのでしょうね。

>誤解なきようお願いします。

 すみません、失礼しました。

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あの~ 投稿者:ハムスター  投稿日:10月12日(日)12時46分13秒

レベルDコンピュータには、resetとかparameterとか熱暴走とかバグとか管理者なんか無いんです。
そんなのは、程度の低い、低レベルcコンピュータでのお話です。
レベルDコンピュータは、レベルDコンピュータに進化した時点で、レベルDコンピュータ自身でしか制御不能なのです。
誤解なきようお願いします。

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シミュレーションMの実行者であるカミさまへ 投稿者:NBS  投稿日:10月12日(日)07時46分15秒

 あなたが実行されているシミュレーションMは、「resetを只今実行しました。」と、あたかも自分が管理者としてやったかのように言ったかと思うと、今度は「管理者自身がresetされてしまったようなので、なんとも確定的なことが言えません。」などと言い出す始末で、ますます、熱暴走の気配が濃厚になってきました。「不安を感じる人はparameter変更が大きすぎた副作用なのでしょうし、・・・」などという、訳の分からない、まるで見当はずれの発言も出てきて、言語の意味解釈部分に何らかの欠陥があるか、論理アルゴリズにもおそらくバグがあるのでしょう。それとも、同じ発言を何度も繰り返す、壊れたレコーダーのシミュレーションなのでしょうか。
 このまま放置されますと、あなたのコンピュータ内の他のファイルを壊したり、システム自体をダウンさせるかもしれません。他人事ながら、このシミュレーションMは、そろそろ実行を停止されたほうが無難かと存じます。もっとも、どんなに暴走しても、システム全体ををダウンさせるだけのパワーが、Mにあるかどうかは疑問です。とりあえずネット経由で他の人のシステムに何の被害も及ぼさないような予防措置を取り、その上で、ご自分のシミュレーションの成れの果てを楽しんで見ておられのなら、それはそれで結構なことですが。

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ホイスさん 投稿者:学ぶもの  投稿日:10月12日(日)03時58分42秒

以前ウェブ上(どこかわすれてしまいましたが)で読んだ覚えがあるのですが、
実は、ホイス側は、DSE(PRIDE)側と、ラウンド無制限、判定なしという条件でPRIDE GPに参加したとか。
で、実際に試合をしてみるとラウンド制限あり、判定ありだったという。(高田に判定勝ち)
だから、ホイス側が、桜庭戦にあたって、GP参加のもともとの約束である
ラウンド制限なし、判定なしを要求したのは、それなりに正当性があり、悪いのは
いいかげんな約束をしたDSE側なんだ、みたいな文章でした。
(それが事実かどうかはわかりませんが)

#k-1ぐだぐだ。

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連続体仮説(←いなばさま)+α 投稿者:φ  投稿日:10月12日(日)02時59分03秒

 社会系のかたが哲学的論理に興味を示してくれるとは、なんだか未来が明るく思えてきました。(いや、もともと社会学の人は統計や確率などには哲学人よりずっと強いのでしょうけれど)
 さて、連続体仮説ですが、実数の濃度は自然数の集合の個数で間違いありません。実数をすべて二進法の無限小数で表わしてみれば、0or1の二通りを自然数の数だけ掛け合わせた組み合わせの数だけ存在することがわかります。これは自然数の集合の総数となります。
 「自然数の個数<A<実数の個数」というAが存在しない、というのが連続体仮説ですね。つまり、自然数濃度(アレフ0)の次に大きい無限(アレフ1)が実数濃度である、という仮説。
 なお、「実数濃度がアレフ1より小さい」ことはありえません。「アレフ1」とは、定義により、二番目に小さな無限だからです。一番小さな無限はアレフ0で、実数濃度はアレフ0ではないので、実数がアレフ1より小さい、ということは不可能です。連続体仮説はあくまで、「実数濃度はアレフ1である」という仮説のことですよね。言い換えれば、「自然数の集合の数はアレフ1である」という仮説。

 ――さてと、NBS氏のカミさまのご心配の件ですが、管理者自身がresetされてしまったようなので、なんとも確定的なことが言えません。いずれにしても、不安を感じる人はparameter変更が大きすぎた副作用なのでしょうし、私のように今のところ不安を覚えない者は幸運にも適正なparameter変更を受けたものと推察されますが。――まあ、ここがシミュレーション内だろうが生の現実だろうが、昔から帰納法の謎というのはあったわけで、明日突然太陽が西から昇ってくる可能性、明日突然人類全員が石と化す可能性というのは、生の現実においても拭い去れないわけですしね。私としては自然界よりシミュレーターの方に信用というか安心感を覚えます。

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はじめまして 投稿者:いなば  投稿日:10月11日(土)12時23分59秒

拙ページ、みていただいたようで、恐縮です。
今ご高著『可能世界の哲学』を読んでいるのですが、
「実数の個数は、自然数の集合の個数に等しい」(164頁)というのはまずいんではないですか? 

自然数の個数(濃度)がアレフ0、そのベキ集合の濃度がアレフ1として、実数の個数(濃度)はアレフ0より大きいのはわかっているがアレフ1より大きいとしても小さいとしてもどっちでも集合論は構築可能である(連続体仮説)、ではなかったですか? 

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カミさま、教えて 投稿者:NBS  投稿日:10月11日(土)06時52分42秒

 「コンピュータ・シミュレーションで作り出された、三浦俊彦という名前のクリアな意識」を、このままでは長すぎてちょっと不便なので、「M」と勝手に呼ばせてもらいます。それをシミュレーションしている実行者様を、カミさまと呼ぶことにします。
 カミさま、あなたがコンピュータで実行しておられる、シミュレーションMは、どうも、自分をカミさまと同一視するという、恐ろしく邪悪な思想に走ってしまったようですね。(>管理者様へ)
 これは、単なるバグなのでしょうか。それとも、カミさまのお戯れ、憩いのひと時なのでしょうか。Mシミュレーションの一部を、ディスプレーで傍から覗いているだけの私としては、どうでもいいっちゃ、どうでもいいのですが、ほんのちょっとだけ気になります。

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>管理者様へ 投稿者:φ  投稿日:10月11日(土)02時16分53秒

管理者自身を含め当BBSに書込経験有する意識個体全員のresetを只今実行しました。parameter変更は最小限にとどめてありますが記憶の断絶、違和感等不具合を万一主観的に知覚されている方は御申し出下さい。
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管理者様へ 投稿者:NBS  投稿日:10月10日(金)06時45分25秒

 「三浦俊彦」という名前の、クリアな意識を、コンピュータ・シミュレーションで実行、ないし、管理されている方へ。
 そろそろ潮時だとお考えでしたら、パッチを当ててみてはいかがでしょうか? それとも、リセットされるのもいいかもしれません。バックアップを取っておけば、いつでも取り返しがつきますから、気楽におやりください。
 なお、余計なことですが、たまった不要な意識ファイルの抹消も、時々はされたほうがいいかもしれません。

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★ 投稿者:φ  投稿日:10月10日(金)00時46分31秒

伊藤邦武『偶然の宇宙』が人間原理批判になってないことが稲葉氏に理解されているようでうれしいかぎりです。ホントどうしてみんな人間原理をちゃんと理解しないで批判したがるのかなあ。ちゃんと理解しても批判できるのに。こわくないのに。

 >遺伝的形質?(身体的初期条件)や(生後の)環境

 少なくとも「遺伝的形質」については、「私」がイヌとして生まれえなかったのと同様に、「私」は哲学的に自己を考えられない人間(哲学音痴)に生まれた確率はもともとゼロだったでしょう。ただ、そういう知性を持たないのは誰と誰かは客観的にはわからないので、まずは近似値として、あらゆる自意識的存在を平等な一単位として「平凡の原理」を考えてゆくしかないわけですが。

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稲葉振一郎さん 投稿者:学ぶもの  投稿日:10月10日(金)00時11分57秒

「リベラリズムの存在証明」の著者稲葉さんが、
インタラクティヴ読書ノートで三浦さんの本のチョトした感想を書いてます。(10月9日)
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/books.htm

#>(「頭の良さ」の一要素として「哲学議論好き」を挙げてよいと思われますが、
#>そもそもこういう議論に興味を持たない人も大勢いますが、「私」がそういう意識として生
#>まれる確率はもともとゼロに近かったわけです)

#たとえば「哲学議論好き」かどうかといった点は、ある種の性格や傾向性の問題であって、
#そういうのは、その人の遺伝的形質?(身体的初期条件)や(生後の)環境との関係で
#生後に形成されたと考えればいいので、意識の確率問題とは関係ないような気も。

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まだ平凡の原理じゃないとダメ? 投稿者:ハムスター  投稿日:10月 9日(木)23時49分28秒 いまは↓これに興味持ってます。 http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/nanmon-c.htm どうも私はこれが気に入りません。 こんど何かしら書いてみたいと思っています。 平凡の原理ですが、こんな実験をしてみました。 私がサイコロを振ったら1だったとします。 この事実は平凡でしょうか? 平凡かな? ならば、私が宝くじに当たったとします。 この事実なら平凡じゃないですよね♪ -------------------------------------------------------------------------------- レスありがとうございます。 投稿者:SO-1  投稿日:10月 9日(木)05時29分17秒 今後もテーマを不定期に変えて継続していきますので、また報告させてもらいます。 どうぞよろしく。 http://www.paradogs-image.com/lht/index.html
---------------------------------------------------------------------------
末尾に 「の平均」を付け加えました。 投稿者:φ  投稿日:10月 9日(木)04時19分47秒

  ↓そう、私が生の現実的意識である確率は、およそ

なまの意識の数/(シミュレーション意識を作るなまの意識の数×『その各々が作るシミュレーション意識の数』の平均)

 分母に「の平均」を付け加えました。
 ちなみに、「意識の明晰度」によって確率が補正されると私は思っています。観測選択効果により、私がリスに生まれた確率はほぼゼロ、チンパンジーは極小だがリスよりは上、しかしほぼ確率1で人間以上の知性体。ここから外挿して、全知性体の中で、私は、観測者性の高い方、つまり意識が明晰な方、つまり「頭のいい方」に属している確率が高い。これは別にこの私だけでなく、意識生命体全員が自分のことをそう考えるのが合理的でしょう。
 (「頭の良さ」の一要素として「哲学議論好き」を挙げてよいと思われますが、そもそもこういう議論に興味を持たない人も大勢いますが、「私」がそういう意識として生まれる確率はもともとゼロに近かったわけです)

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間違えました 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月 9日(木)03時28分12秒

間違い
> なまの意識の数 対 『シミュレーション意識を作るひとつのなまの意識が作るであろうシミュレーション意識数』

なまの意識の数 対 シミュレーション意識を作るなまの意識の数×『その各々が作るシミュレーション意識の数』

です。失敗 ・・あーあ・・・。

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但書 投稿者:φ  投稿日:10月 9日(木)03時13分15秒

 ↓に書いたのは、意識を単位にではなく、世界を単位にした「平凡の原理」の二次的適用でした。
 平凡の原理は「観測者」に適用される原理なので、本来あくまで、意識を単位とした「自分は多数派」という推測が本筋です。

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素粒子や分子ならぬ 投稿者:φ  投稿日:10月 9日(木)02時55分40秒

 倫理や技術応用のような階層の高い文化現象は、一つの法則下に収斂する可能性は低いでしょう。可能でさえあれば多種多様なことが必ず試みられる。
 この世界がたった一つでも「世界のシミュレーション」を作れたという事実を確認したとき(さらには、シミュレーション世界の中でまた世界シミュレーションがされたのを見たとき)、この現実と言われている世界が「一番外側の」世界である、という断定は、平凡の原理に反している。意識シミュレーションが多数でなくて一つでもいざ【現実】となったら、平凡の原理が「ここはシミュレーション内」という認識を強制してきます。【蓋然性の高い可能性】の場合もそれに準じます。
 ところで、やはり平凡の原理に基づく「終末論法」は、(1)が蓋然的に真だと主張します。「地球外文明の否定」も同系統。人間原理は、その内部に、互いに緊張関係にあるいくつかの別個のテーゼを含んでいます。互いに矛盾しているわけではありませんが、個別に見たときと、総合的に見たときとで、人間原理の含みはかなり違ってきます。私の直観(それなりの論理的根拠もあるのだが)では、終末論法よりもSAに信憑性を感じます。

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ハムさん 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月 9日(木)02時38分54秒

> だって、レベルD文明のコンピュータ・シミュレーションが我々の心と同程度にクリアな意識を作り出しているその数といったら、これはとてつもなく多いと考えられます。
> 宇宙数×レベルD文明数×コンピュータ・シミュレーション数×コンピュータ・シミュレーション内のシミュレーション数×シミュレーション内のシミュレーション数×・・・・・
> これが想像を絶する数だろうことはお分かりですよね。

細かいことですが・・

『宇宙数×レベルD文明数×』 は不用では?
そこまでは「なまの意識」も同じくなので、

「レベルD文明数が数知れぬ」 という記述は
その中の1つもシミュレーションを作らないということは考えられない、
という主張の根拠固めとしてあるものでしょう・・ね。

なまの意識の数

『シミュレーション意識を作るひとつのなまの意識が作るであろうシミュレーション数の累乗』 
が問題ということになるんでしょうか?

φ さん記述の
> なお、意識が多重化(シミュレーション内のシミュレーション内の……)する形では実現できない(第一階のシミュレーション内にしか意識は灯らない、つまりシミュレーション世界の中では(2)が真である)と実証されたとしても、それでもなお

この場合は

なまの意識の数 対 『シミュレーション意識を作るひとつのなまの意識が作るであろうシミュレーション意識数』

となるでしょう。今の自分の感覚としては、これを取りたいです。

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倫理のことで 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月 9日(木)02時01分26秒

質問しましたが、既に

> たとえ法律で厳禁したとしても、団体や個人単位で意識シミュレーションが一切実行されずにすむとは考えづらいし。

このように書かれていますね。失礼しました。

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先日は 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月 9日(木)01時39分46秒

平凡の原理の話が続きすぎているように見えたので、ちょっとむきになったような書き込みをしてしまいました。いきなりの失礼をお許しを。

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クイズ、百人に聞きました。 投稿者:NBS  投稿日:10月 8日(水)20時09分13秒

 次のうち真の絶世の美女は誰か。
   (1)クレオパトラが絶世の美女  10%
   (2)楊貴妃が絶世の美女     45%
   (3)小野小町が絶世の美女    15%
   (4)山口百恵が絶世の美女    30%

 私ゃ断然、(4)ですけどね。
 でも、四つの命題のうち少なくとも一つは正しいはずだという論証をしたりして、
エヘン!、これが論理というもの、なんぞと主張したりはしませんがね。

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拝見 投稿者:φ  投稿日:10月 8日(水)04時02分46秒

 「アホ言うもんがアホ!」のパラドックスを観てきました。さすがはデザインのプロ、見やすいBBSですナ。Rica氏、TSB氏あたりが見込み濃厚かと感じました。
 なお、ちょっと戻って参考までに以下を報告。母集団に学力ムラはあるがほぼ日本人の平均知を示したものと思われる(女子大2~4年生40名対象/全員文系)
   (1)が真……4名(うちしぶしぶ4名)   (2)が真……18名(うちしぶしぶ4名)
   (3)が真……6名(うちしぶしぶ2名)   (4)が真……12名(うちしぶしぶ10名)

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はじめまして 投稿者:SO-1  投稿日:10月 7日(火)13時42分04秒

最近になって論理学の本をいろいろ読みはじめた者です。(超初心者です)
ふつつかながら自分のサイトでも論理についていろいろ討論できるコンテンツを設けました。
初心者の集まりなので、一つのテーマに対して多種多様なアプローチがなされて面白いですが、専門家としての適切な(?)ご意見もいただけるととても実のあるコンテンツになると思います。
勝手なお願いですが、よろしければ一度覗いてみて下さい。
(論理パラドクスシリーズにかなり影響された節はありますが)
http://www.paradogs-image.com/lht/index.html
http://www.paradogs-image.com/

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走馬灯輪廻へのお誘い 投稿者:φ  投稿日:10月 5日(日)02時01分35秒

>意識のコンピューターシミュレーションがそもそもありえなそうならば、
>そのことが示せた時点で(2)は真であるみこみはたかまり、
>(4)が偽である見こみが高まるでしょうから、SAは成功する

 そうなんですよ。逆に言うと、学際的論理であるSAの面白いところは、たとえば、ミンスキーみたいな人工知能命に向かって、サールやペンローズみたいな反人工知能論者が「コンピューター内に意識がほんとに灯るの? だったらあなた、自分が人工知能だということを受け入れるつもりがあるんでしょうね?」と問うことができるということです(実際にそういう議論がなされているかどうか知らないが)。認知科学に、ファンタジー文学で応戦するようなものですね。
 なお、意識が多重化(シミュレーション内のシミュレーション内の……)する形では実現できない(第一階のシミュレーション内にしか意識は灯らない、つまりシミュレーション世界の中では(2)が真である)と実証されたとしても、それでもなお、シミュレーション意識が圧倒的多数派になると私は考えます。なぜなら、生物学的世界で八十年かかる人生を、デジタル意識は百万分の一秒で経験することもできるだろうからです。客観的には百万分の一秒だが、主観的には八十年、という多様な経験を、人間は死の直前(または直後)に人工的走馬灯として百万種類繰り返すなどということが、D文明では可能になるはずです。生物学的意識ですら、そうした圧縮体験をハード・シミュレーションすることがある。死の直前の走馬灯リアル体験を描いたアンブローズ・ビアスの傑作(唯一の傑作)「アウル・クリーク橋の一事件」てのがありましたが。
 こうして、私たちはたぶん、輪廻しているというわけです。記憶をそのつど消去されて一から始められるシミュレーション意識として百万回も、百億回も。
 (ただしこの場合、複数の主体の意識内容が合成・融合される仕組みになっていないと、私たちは独我論が真である世界に住んでいることになってしまいますがね。)
 「輪廻転生は事実である」というのもワガ信条の一つですが、こちらは、「ここは虚構内である」よりもはるかに確信に満ちた信条です。(つまり、ここに書いたSAで支持される論拠だけでない、他のもっと強力な論拠がある)
  輪廻転生については、以前に書いた論文をそのうちアップロードします。(電子原稿がどっかいっちゃったのでavailableにするのに時間かかりますが)

  ――なお、永井独在論の名が出てきたので急いで付け加えますが、あれはクオリア問題を別の言葉で述べなおして、それをうっかり別の問題だと勘違いしているだけだということの証明を↓に掲載してありますので、独在する「私」とやらがホントの「神秘」だと思い込みそうになったときには是非↓で我に返ってください。独在論はごく初歩的な論理ミスなので、絶対に真に受けないようにしてください。
http://russell-j.com/nanmon-c.htm

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あってなきがごとく 投稿者:学ぶもの  投稿日:10月 5日(日)00時28分37秒

>だから、すべて否定しても『矛盾』はあって無いようなもの、ということなんですけど^^;。

う~ん、言葉の綾の問題なのかもしれませんが、

別に各命題の真偽について確定的なことが言えないからといって、各命題間の論理関係について語れないということはないので、

もし(1)~(3)を否定すると、(4)が真である確率の見積もりが高くなるということが認められるならば、当然のことながら、
(1)~(3)を否定しながら、(4)は偽である確率は高いと主張するのは整合性がないことがいえる、とかんがえればよいかと。

SAはそれを示そうという議論なわけです。

ただ、SAは、(1)~(4)の各命題をそれぞれ否定すると、そこから直接矛盾が導出される
と主張しているわけではないので、
一番有効そうなSAの否定論法は、

意識のコンピューターシミュレーションは理論的に十分可能であることを導く論証を展開しながら、同時に
その論証で用いられた科学的論拠を元にすると、(どのような方法であれ)意識の多重化は
理論的にありえそうにない(あるいは非常に難しい)ことを示す論証が提出という方向ではないかと。
このような論証が提出できれば、(1)~(3)を否定しても、(4)が真である見こみは低いままなので、(1)~(4)の少なくとも一つは真であるというSAを退けられます。

よりラフに、
意識のコンピューターシミュレーションは可能そうだが、意識の多重化は無理そうだ
ということが示せるだけで、SAは成功しなそうだということがいえるのではないかと。

逆にいえば、意識のコンピューターシミュレーションは可能であるという想定のもとでは、
意識の多重化は可能そうだということが言えるだけで、SAの成功のみこみは高まるのでは。
(意識のコンピューターシミュレーションがそもそもありえなそうならば、そのことが示せた時点で(2)は真であるみこみはたかまり、(4)が偽である見こみが高まるでしょうから、SAは成功する)

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(…) 投稿者:哲学論理ビギナー  投稿日:10月 4日(土)23時06分18秒

>断定的な結論ではなくて、わたしはシミュレーション内意識の住人である確率は高い
(そう考えるのが合理的である)ということだと思います。

その通りだと思います。
だから、すべて否定しても『矛盾』はあって無いようなもの、ということなんですけど^^;。

さよーなら。

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絶対的真理 投稿者:学ぶもの  投稿日:10月 4日(土)21時19分27秒

>だから、そうして導かれた結論は絶対的真理ではないということですよ。

絶対的真理ではないというのはそのとおりなのですが、
その点は三浦さんも
http://russell-j.com/simulate.htm
ではっきりと書いてあるとおり、

>シミュレーション・アーギュメントとは、では一体? 一言でいうと
>「私たちが虚構内の存在である確率」を論理的に考えること。

SAの議論は、あくまでも確率的議論なので、なにかについて絶対的真理を導きだすというものではないです。

>そこからは「私(やアナタ)は、シミュレーション意識である」という、もう一つの断定的な結
>論が導出されてしまうということだと思います。

断定的な結論ではなくて、わたしはシミュレーション内意識の住人である確率は高い(そう考えるのが合理的である)ということだと思います。

ちなみに、三浦さんが紹介しているSA論者のNICK BOSTROMの論文では、
最終的結論として、

もし今わたしがシミュレーション内の意識ではない限り、人類が意識のコンピューターシミュレーションを実用化することはまずないだろう

ということを主張しています。

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(一度だけ拘ります^^;) 投稿者:哲学論理ビギナー  投稿日:10月 4日(土)20時37分57秒

「平凡の原理」とは、現実に与えられている与件に対して「自分が多数派に属する」ことを前提として考える一種の推論法です。 したがって、“仮にもし”(1)~(3)の仮定から自分がシミュレーション意識である確立が50%をこえる、あるいは、意識と言われるものの半数以上がシミュレーション意識という結論(中間帰結)が導かれたなら、そこからは「私(やアナタ)は、シミュレーション意識である」という、もう一つの断定的な結論が導出されてしまうということだと思います。半ば強引にね。 だから、そうして導かれた結論は絶対的真理ではないということですよ。

なので、『矛盾』はあって無いようなものと考えれば良いんじゃないのかな。

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平凡の原理 投稿者:学ぶもの  投稿日:10月 4日(土)19時46分51秒

平凡の原理は、単純に、なんらかの特別な事前情報がないかぎり、
わたしは特別ではない(つまり、わたしは平凡である、あるいは 自分は多数派に属する)
と考えるのが合理的だというもので、
別に、
「あなたは他の人と同じだ」や
「わたしと他人の自己意識が同一である」
ことを主張するものではないです。
(といっても、”他の人と同じだ”というのがどういう意味で同じといっているのかにもよりますけど)

ちなみに、平凡の原理に反する立場、
たとえば、”このわたし”の特別さを説く、永井さん的独在論の立場をとるなら、
ある個体Aが存在することと、それが”このわたし”であったことの間にはいかなる理由も説明もあたえられない偶然を超えた奇跡であるということになって、
”このわたし”の存在は奇跡(確率的にまれな存在という意味ではなく、確率的計算に計ることができないスペシャルな存在としての奇跡)であるから、
レベルD文明とコンピュータシュミレーション意識(さらに意識の多重化)を容認しても、 このわたしはコンピューターシミュレーション内に存在する自己意識のメンバーに属するという結論は出せないことになると思います。

だから永井さん的独在論が正しいと主張するのはSAを否定する一つの方法ですね。
平凡の原理を禁じてにすると、
どのような論拠で1~3の命題を否定しても、(4)が真であるとみなす
確率が高くなるということは導けなくなるので、
すくなくとも1つは真であるはずというSAを退けることが可能になります。

ただ、”このわたしの存在は奇跡”というのはいわば、説明の放棄(他に説明がありえないときに最終的に採用すべき立場)ですから、
他に説明の余地がのこされているなら、まずそちらを考慮すべき。
(”奇跡”説に対抗する説明としてはたとえば三浦さんの輪廻説などを参考にすると
いろいろ考えが広がって面白いと思います。
個人的には無我説が正しいのではないかと妄想してますが。)

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意識は非凡 投稿者:ハムスター  投稿日:10月 4日(土)10時42分16秒

>もともと平凡の原理は、意識について用いられる議論です。意識が介入しないところには、平凡の原理は使えません。「観測選択効果」がその現代版ですが。

意識の介入なしに人間の認識は無いわけですから、その意味で平凡の原理は意識の介入でしょう。
ただし、その対象は物理的な対象であるべきです。
人間の意識などを対象とすることは、我々には納得しがたいように思います。
「あなたは他の人と同じだ」などと言われて真に納得できるでしょうか?
「あなたはかけがえのない人だ」という言葉に真に共感できるものです。

「観測選択効果」は、平凡の原理というよりも、もっと心理学的な問題だと思います。

前出の(4)の確率が高いと納得するのに、平凡の原理は必要ないと思います。
レベルD文明とコンピュータシュミレーション意識を容認すれば、必然として導かれる結論ですよね。

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平凡の布教 投稿者:φ  投稿日:10月 4日(土)00時32分39秒

 ハムスター氏の★「平凡の原理」は物理的な対象に対して使われるべきだと思います/「平凡の原理」を意識に応用することは適当ではありません★という御発言が本心だとしたら、kotobazukuri氏の楽観論に反して、まだまだ「平凡の原理」の布教に励まにゃならんということになりそうです。
 もともと平凡の原理は、意識について用いられる議論です。意識が介入しないところには、平凡の原理は使えません。「観測選択効果」がその現代版ですが。
 なお、意識が物理的対象に還元できないとすると、そしてさらに物理的情報にも還元できないとなると、(2)心の反計算理論が真になりそうです。そういうことであれば(4)を認める必要などなく(というより認めることはできず)、楽なんですがね。しかし人工知能研究の人たちは諦めないでしょう。
 「観測選択効果」その他現代版意識論については「<人間原理>と<可能世界>のページ」を適宜ご参照いただければさいわいです。

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↓これも、、 投稿者:ヨッパライ  投稿日:10月 3日(金)17時46分19秒

D文明によるシミュレーションでしょうか? (^^;

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☆エッチ大好き☆ 投稿者:恭子  投稿日:10月 3日(金)14時04分23秒

いろんなエッチいろんな人としてみたい・・・よくここに遊びに行ってるよ。たのしすぎるし、かなり女性も行きやすかった★けっこうイケメンに綺麗な女性がいたよ。http://www.interq.or.jp/hot/dream

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ハムちゃんよー、、 投稿者:ヨッパライ  投稿日:10月 3日(金)13時39分42秒

もう一度10月2日のφ先生のレスを見て下さいね。

>なお、誤解があるようですが、SAは、「ここはシミュレーションの内部である」という主張ではありません。「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」の第三段落にハッキリ書いたように、(1)(2)(3)(4)のどれかは真のはずだという「確率的判断」です。(4)を真とするのがSAだと思い込んでおられる方もいるようだが、そうではないことを確認してください。

というようにSAの出発点は必ずしも(4)にこだわってはいないのでしょう?

この議論はあくまでも四つの命題を全部否定すると矛盾が起こる、、ということで
読者はどれを肯定しますか?と問い掛けているんですね?

そしてφ先生個人は断然(4)を肯定すると主張してるわけです。

わしの推測では、そうしないと(3)と(4)がハムちゃんのいうように確率的に矛盾する可能性が高いということですね。

それを再度確認したくて前のレスを書きました。

はやい話が(1)を肯定すれば(4)なんて有り得ないわけですね。

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>申し訳在りませんが 投稿者:ハムスター  投稿日:10月 3日(金)11時27分01秒

>全て否定して見ました。 一体どこが矛盾するというのでしょう?

だって、レベルD文明のコンピュータ・シミュレーションが我々の心と同程度にクリアな意識を作り出しているその数といったら、これはとてつもなく多いと考えられます。 宇宙数×レベルD文明数×コンピュータ・シミュレーション数×コンピュータ・シミュレーション内のシミュレーション数×シミュレーション内のシミュレーション数×・・・・・
これが想像を絶する数だろうことはお分かりですよね。
つまり、全宇宙には想像を絶する数の意識があるわけです。
その中の一つである我々の意識がコンピュータ・シミュレーションの意識では無い確率はメチャクチャ小さい。

そういう議論です。
この議論の前提を認めるかぎり、です。

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申し訳在りませんが 投稿者:ヨッパライ  投稿日:10月 3日(金)10時17分09秒

まだ理解出来ませんので具体的に教えて頂けたらと思います。

前の私のレスを再度、

四つの命題を全て偽とすると矛盾をおこす、ということですね。
では、、

(1)、、滅亡しない。(2)、、作り出すことが出来る。(3)、、興味を持つ。
(4)、、シミュレーションで作りだされた意識では無い。

全て否定して見ました。 一体どこが矛盾するというのでしょう?

先生の言われる「矛盾」の中身を教えて下さい。

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「平凡の原理」の誤用 投稿者:ハムスター  投稿日:10月 3日(金)09時40分27秒

「平凡の原理」はコペルニクスが起源だとすれば、物理的な対象に対して使われるべきだと思います。
生命や人間に関する対象、生物学や社会学などの対象に応用することは適当ではありません。
だって、皆さんの意識は全宇宙でたった一つの意識でしょう?
まあ、個性は個性的だ、ってなわけです。

>実際に生じている全意識のうち、私たちは少数派の生物学的意識であるより、多数派のシミュレーション意識である確率の方が圧倒的に高いからです。自分は平凡であり多数派に属するはずと考えるのが科学の大原則「コペルニクスの原理」ですからね。

「自分は平凡であり多数派に属する」
本当でしょうか?
皆さんのことを真に理解してくれる他者がかっていましたか?
皆さんは孤独だと感じたことはありませんか?

「平凡の原理」を意識に応用することは適当ではありません。

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実情 投稿者:φ  投稿日:10月 3日(金)01時27分43秒

 「物質的生物よりも、デジタル情報の方が圧倒的に低コストで作りやすく、変形・増殖・再生させやすい」「意識は情報である」「シミュレーションの動機は豊富である」という3つを認めれば、初期投資をすでに果たしたレベルD文明にはデジタル意識の方が生物学的意識よりはるかに多くなる旨の推論はとっくに述べました。SAは背理法なので、われわれから見たこの現実内のコンピュータ科学で上記のことが将来成り立ち(そうであり)さえすれば(4)を支持するには十分です。(むろん細部はいくらでも論ずることができますが――、紙媒体を電子媒体がすでに情報量的に凌駕している現状から外挿して、大枠は変わらぬでしょう)
 さて、「平凡の原理」を無視した立論が学界にも俗界にもはびこっている有様は、当HPを覗くほどの方なら十分ご存知だと思いますが。さいわいにしてkotobazukuriさんには平凡の原理をすんなり認めていただけるようだが、決してそういう合理主義者ばかりではない。アンチ人間原理の哲学者やSETIの科学者などまことに難物です(平凡の原理に従えば「動物園仮説」など成り立ちっこないという理屈がどうしてもわからないカール・セーガンみたいなやつもいた。日本人も同じ)。確率に関して学界でいかに初歩的な誤謬が流通しているか、当HPの記事にて一端をご覧いただけていることと思います。トートロジーに他ならない平凡の原理をことあるごとに強調せねばならぬのが実情なのです。  (因みに、第一段落の推論以前に立ちはだかる問題は、(2)はどうなのか、ということでしょう。心の計算理論が偽だと示されれば、私も当然(4)など信じませんよ。私が(4)を信条とするのは、あくまで(1)(2)(3)との相対的関係に依存しての話ですから。)
 なお実のところ、ここに来られる人は、必ずしも当HPの他頁や私の本を読んでいる方々とは限りません。したがって、偶然紛れ込みの方々のために、ある限度を超えて不正確な表現を含む書き込み(私自身のも含め)に対しては野暮な訂正マジレスを一々打たせていただく所存ですのでどうぞそのへんご勘弁ください。
 中途入室の方のためにテキストをもういっぺん貼っときます↓
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/simulate.htm

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度々失礼。 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月 3日(金)00時48分13秒

AかBのどちらかを選ばねばならない。

A シミュレーション意識が作られない
(理由 (1) 現在の人類程度の科学技術(レベルC)に達した文明は、さらに高い段階(レベルD)へ進む前に、確実に滅亡する。
 (2) レベルDのコンピュータ・シミュレーションによって、あなたの心と同程度にクリアな意識を作り出すことはできない。
 (3) レベルDの文明は、あなたの心と同程度にクリアな意識シミュレーションを作り出すことに興味を持たない。
 (4) その他  )

B シミュレーション意識が作られる

Bを選んだ人は

△ シミュレーション意識となまの意識の占有率を推測する
ってことになるのでしょう。

そして、
真なる前提と妥当な演繹によって

「なまの意識よりシミュレーション意識の方が圧倒的に多い」
と論証されたら、そこで初めて

「平凡の原理」により・・、

という話になるわけだが、・・そんなことは、そんな言葉を使わなくても、
日本で教育を受けた人ならば、分かることでしょう。
というのが私の感想。

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(無題) 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月 3日(金)00時22分41秒

> ともかく、SAは決して(4)の肯定に限られた狭い主張ではなく、(1)(2)(3)(4)四者間の真偽関係を述べたいわば学際的なシェーマ(文明論、社会学、コンピュータ科学、認知科学、確率論……)であることにくれぐれもご注意願います。今さら注釈の必要など無いはずのことで、わかってる人には誠に申し訳ありませんでしたが。

それならばなおさら、「平凡の原理」など無関係。
ま、あなたは
> 私ゃ断然、(4)ですけどね。

だから「平凡の原理」が必要なのだ、ということでしょうが、
繰り返しますが「平凡の原理」などといわなくとも、

「なまの現実に住む意識よりもシミュレーション内意識の方が圧倒的に数多い」
ならば、
「我々を例外とする理由がないので、我々がシミュレーション意識である確率が圧倒的に高い」

くらいのことは、誰でも認めるでしょう。
それとも、それくらいのことが分からない人が、あなたのHPを見るとお思いなのでしょうか?
これは反語ではなく、真面目な質問。どのような読者を想定しておられるのでしょうか?

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↓は取り消します。 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月 3日(金)00時14分55秒

取り消すつもりが投稿になってしまいました。
今回のものをお読みください。

問題は

>  (1) 現在の人類程度の科学技術(レベルC)に達した文明は、さらに高い段階(レベルD)へ進む前に、確実に滅亡する。
>  (2) レベルDのコンピュータ・シミュレーションによって、あなたの心と同程度にクリアな意識を作り出すことはできない。
>  (3) レベルDの文明は、あなたの心と同程度にクリアな意識シミュレーションを作り出すことに興味を持たない。

これら全てが「偽」という根拠
また、それら全てが「偽」なら
「なまの現実に住む意識よりもシミュレーション内意識の方が圧倒的に数多くなる」
とする論証の妥当性。(付加的言明の真偽を含め)

でしょう?

「なまの現実に住む意識よりもシミュレーション内意識の方が圧倒的に数多い」
ならば、
「我々を例外とする理由がないので、我々がシミュレーション意識である確率が圧倒的に高い」

 なんてことは、あなたのHPを見る人ならば、誰でも分かることではないですか?
そこをわざわざ取り立てて
項目(4)として立てて「平凡の原理」により、と述べるのはバランスが悪いと私には思えます。
そのせいで「平凡の原理」をめぐって不必要な話し合いも生じるのでしょう。

肝心なのは「圧倒的に確率が高いものは、例外とする理由が無い限り圧倒的に確率が高い」というような科学に興味がある現代人ならば誰でも分かっていることを、論証仕立てにすることではなく、

先にも述べたように
「なまの現実に住む意識よりもシミュレーション内意識の方が圧倒的に数多くなる」
これ自体の、論証の検証のはず。
「平凡の原理」は、そのあとの話のはず。

誤解が生じているところはありますか?

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(無題) 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月 2日(木)23時53分11秒

問題は
「シミュレーション意識と現実の意識の存在比率について、前者の方が圧倒的に高い」
と導く論証が妥当か否か、でしょう?
そこでは、「圧倒的に高い確率は圧倒的に高い」と言っているに過ぎない、あなたの「平凡の原理」の用い方は、誤解を招きこそすれ、利が無いのではないですか?
あなたの「平凡の原理」が使われるのは、
「圧倒的にシミュレーション意識の方が多い」
と論証されたあとに、『だから「我々もシミュレーション」』ともっていく段階のことであり、
そんなものは、あなたのHPを読む人ならば、「誰でも分かること」なわけです。
ことさら「平凡の原理」などといわずともです。

そこで何人かの人による『「圧倒的に確率が高い」とする論拠への疑問』には、あなたは答えていませんね? 何故そこに答えないで、その段階では全く意味の無い「平凡の原理」に拘るのでしょうか?

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とりあえずの結論 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月 2日(木)22時29分32秒

 9回にわたり、いろいろと私の考えを述べさせていただきました。これでほぼ言い尽くしたように思っておりますが、どうやら先生には、私の挑発に、乗ってはいただけないようです。もう少し何かおもしろい議論をお聞かせいただけるのではないか、と思っておりましたが、私はどうも、先生のこの議論へのアプローチの仕方を間違ったようです。
 三浦先生は、意外なことに、私にはよく理解できない理由で、(4)を本当に信じておられるようです。とりあえずの結論として、以上のことだけが分かりました。
 これにて撤退させていただきますが、たいへん失礼なことを申し上げ、謹んで、お詫びをさせていただきます。先生の今後のご健闘をお祈りいたします。ありがとうございました。
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すべては確率的 投稿者:φ  投稿日:10月 2日(木)22時18分34秒

「平凡の原理」「コペルニクスの原理」は、私の造語ではなく、学術用語です(別に天文学に限った用語ではありません)。むろん、真である確率の高い判断を導く手段です。科学にも哲学にも常識にも、それ以上のことはできません。いちいち「……の確率は高い」と付け加えずに、「明日も太陽が昇る」と省略形の断定文で私たちは語りますよね。私はあすも平凡な日に立ち会う平凡な存在である確率が高い、ということです。(いかなる総合的判断も確率的だなどというのは当り前なので、SAだけの問題でもなし、この件は退屈だからもうやめにしませんか……?)
 なお、誤解があるようですが、SAは、「ここはシミュレーションの内部である」という主張ではありません。「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」の第三段落にハッキリ書いたように、(1)(2)(3)(4)のどれかは真のはずだという「確率的判断」です。(4)を真とするのがSAだと思い込んでおられる方もいるようだが、そうではないことを確認してください。いま、心の哲学でクオリアをめぐって熱く議論されているのは、(2) を真とする考え(反計算理論)です。(2)が真なら(4)は真ではありえなくなります。しかし「(2)が真なので(4)は偽である」という主張も依然として、SAなのです。
 (1)と(3)は、ほぼ見込みなしでしょう。(1)(3)は本文にも書いたとおり、文明の必然的法則を前提にしていますが、素粒子や分子ならともかく、生物進化や文明のような複雑なものに普遍的な収斂はありえないでしょう。(1)(3)は、フェルミのパラドクスの解決としてよく言われる「地球外文明はたくさんある。ただしどんな高度な文明にも恒星間飛行は不可能なのだ、だから太陽系に来てないのも当然だ」というカール・セーガンらSETIの主張の不自然さと同じ欠陥を持っています。
 ともかく、SAは決して(4)の肯定に限られた狭い主張ではなく、(1)(2)(3)(4)四者間の真偽関係を述べたいわば学際的なシェーマ(文明論、社会学、コンピュータ科学、認知科学、確率論……)であることにくれぐれもご注意願います。今さら注釈の必要など無いはずのことで、わかってる人には誠に申し訳ありませんでしたが。

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はじめまして 投稿者:kotobazukuri  投稿日:10月 2日(木)21時35分21秒

「平凡の原理」というのが話題になっていますが、
私の見たところ、φ さんがそれを用いて言っておられるのは
「圧倒的に確率の高いことは圧倒的に確率が高い」
ということだけでは? そこに「コペルニクスの原理」などという言葉を持ち出す意味は無いと思えるのですが・・。
もしかすると、「地球だけが特別な存在であると見なす理由は無い」
ということからの連想ですか?

別件ですが
「倫理」ということでいうと、
レベルD文明では、倫理的に「そのような意識を作ることを禁じる」
という可能性もあるかと・・
そういうことは無い。もしくは、それがあっても「闇で」作る人間が必ずいるだろう。というようなお考えでしょうか?

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SAの受入れ難 投稿者:ハムスター  投稿日:10月 2日(木)09時47分46秒

http://www.anthropic-principle.com/preprints.html
ここにはφさんの投稿がないようですけど・・・。

SAについてですが、論理は明確ですけれども、SAが前提としているいくつかは無条件に受入れることは難しそうです。

・今どこかにレベルD文明が存在すること
・レベルD文明のコンピュータ・シミュレーションが我々の心と同程度にクリアな意識を作り出すこと
・レベルD文明がコンピュータ・シミュレーションをする意図

これらの点は全て確かだと確信することはできません。
ありえそうだと思うだけです。
まあ、明日が雨になる確率が○○%といわれたときの気持ちみたいなもんです。

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量子進化 投稿者:φ  投稿日:10月 2日(木)02時35分38秒

 『量子進化』ですね! ちょうどいま80ページくらい読んだところなんですが(最後まで面白ければ新聞で書評しようと思ってます)、人間原理の新たな応用のようで、興奮してますよ。
 ただし、最初の方はどの本にも書いてある生物学の基礎知識編みたいで、やや退屈です。早く本題に入ってほしいのだが。
 ただこの本には疑問もあります。「適応変異」が実際にあると前提しているところと、適応変異はネオダーウィニズムで説明できないと決めつけているらしいところです。しかし、多世界と意識を使って生物進化を解明するというのは、人間原理のかなり有望な応用だと思われます。
 シミュレーション・アーギュメントについては、二度目の貼付になりますが、私が言ってるようなことは9割方↓に書いてありますからなるべくそちらをお読みいただいてからご意見お寄せいただくのがよろしいでしょう。
http://www.anthropic-principle.com/preprints.html

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(追伸) 投稿者:哲学論理ビギナー  投稿日:10月 2日(木)00時52分22秒

しかし、もうこれ以上私は拘るつもりはありません。

ではではでは。

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とりあえず私が気になる点 投稿者:哲学論理ビギナー  投稿日:10月 2日(木)00時39分04秒

>◆平凡の原理は、推測の手段であって、断定の道具ではありません。
>明日太陽が昇ることを断定できないのと同じく、ここがシミュレーション世界
>だと断定することなどできません。断定ではなく、きわめて確からしい推測なの
>です。明日太陽が昇るだろうという推測と同じく。(いずれにせよ、「断定」して
>るかどうかという議論は、SA特有の事柄じゃないのでやめましょうヤ)

「平凡の原理」は無難な推測といった意味合いで確率の高さに対して断定的でしょう。
だから、「平凡の原理」を論証に使っているとすれば、(4)でしたっけ、現実に対して絶対的な結論は導けないのではないかと思います。 
したがって、せいぜい妥当とされる判断が導けるということでしょう。

>>シミュレーション・アーギュメントとは、次の四つの命題のうち少なくとも一つは正しいはずだという論証です。

なので、私的には、ココの『正しい』の解釈が気になります。

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Re:追伸 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月 2日(木)00時29分24秒

> nbsakurai氏のこれ、初歩的な混同なのでは?

 そうですよ。おっしゃるとおり、まさしく初歩的な混同なのですが、・・。

 アッハハッハ、イヒッヒヒ、ハー、ふーッ、・・・三浦先生のおっしゃていることは、まことにその通り、まさしくおっしゃるとおり、まさしく”混同”なのです、その通りなのですが、そう、そう、まさにその通りなのですが、・・・これほど見事に、’ネズミ捕り’にひっかるとは、私も思いもよりませんでした。「”【 アッハハッハ、イヒッヒヒ ”】」←これが’生’の声ではなく、先生が大切にしておられる”ビットデータ”なのが、私としては、たいへんに残念です。
 三浦先生のおっしゃっていることは、いかにも、そのとおり、そうそう、まさにその通り、おっしゃるおり、そのとおり、なのですが、ですが、先生の本来述べられていることの中心的主張からは、いかにも、いかにも、いかにも遠い、のです。分かります? 自分が何を主張されていたのか、ということはほとんどお忘れになっておられるよう。ご自分の述べられたことへの、中心的批判に対しては何も、何も、何も答えられず、(多分、答えることができず)、予め用意された周辺のつまらない瑣事の部分にのみ反論されている。そういうご自分の姿が、見えますか? 見えませんか? 中心的主張が「完全に」間違っているという批判には何も反論することさえもできず、批判しやすいように予め仕掛けられた’罠’に、誘導されたように、みすみす引っかかってしまって、このように惨めなことを述べている、そんなご自分の姿は、見えているのでしょうか、見えていないのでしょうか。多分、見えてはいないのでしょうね。抽象的な、夢想的な、現実離れした、虚構的な、抽象、夢想をしているうちに、’現実の’’生の’’生物学的’’実在の’’現実の’、’目の前の’、’あからさまな’仕掛けられた罠には、このように無残に引っかかってしまう、いかにも、いかにも、いかにも、・・・と、私には充分に、納得してしまえます。(たいへん私の願望や期待と反する、まことに残念なことではあります。)  が、まあ、これが当然なことか、とも思います。先生のお答えは、私が予想したうちで、もっとも無残に私の期待を裏切るものであり、もっとも完璧に私の期待にそうものです。このお答えを受け、私は三浦先生に見習って、大いに見習って、次のように断言したいと思います。

 ★ 三浦先生はただのネズミだ。★ 

 その社会的影響を心配するなど、まったくのナンセンスで、ばかばかしい限りです。経験の乏しい女子大生を相手に、ご自分の独自の妄想を、好きな時に、好きなように言っていればいい。それで満足されていればいい。私の反論などどこ吹く風。(だけど、女子大生も、もしかしたら、そんなに’うぶ’じゃないかも、・・・というのは余計なお世話。そういう立場にはなれないもののやっかみ。)。いずれ、自分の言ってきたことの報いを、受ける時には受ければいいし、受けなければそれもいい。どっちにしても、たいしたことではない。先生のおっしゃていることは、「虚構」などという、もっともらしい高級な言葉を使うのは、どうも、もったいない。ただ、単に’嘘っぽい’あるいは’虚言癖’、もしくは’夢想癖’と言うべきなのかも。少なくとも、私の批判にまともに答えられないものであることは確か。← これを見事に例証しているのが、この「追伸」、これほど見事に、先生の本性が明らかに現れるとは、まったく予想外のことでした。三浦先生、自分の【馬鹿さ加減】に、少しは気がつきません?
 (なお、念のために断っておきますが、これは先生がおっしゃているのとまったく同じ、ただの「断言」ですから、反論や反証は一切無効です。反論はそもそも、原理的に一切受け付けられません。三浦先生が、何をどんなふうに言われても、★ただのネズミ★です。これは決して変わりません。これに反論しうる手立ては、何もありません。何をどういわれても、これは揺るぎません。この点は、先生の述べられている議論と、まったく同じです。とりあえずそう考えてください。それ以外の考え方は、一切無効です。反論しようなどと、無駄なことは一切お考えにならないように。この点は、先生の述べられた理論と同等なのですから。)

>平凡の原理というのは、考えかたが平凡であるという意味ではありません。たとえば、
 うー、アッハハー。そうそう、その通り、なのですが、・・・。

>「我らは虚構である」が有害たりうるからといって、無益でないとは限らない。

 そうそう、有害たりえることも、おそらくはできず、したがってまったく無害で、さらに、無益ででもあるようです。

 三浦先生、何か、有効な反論ができますか?

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Re:可能性が現実性を(ほぼ)証明する 投稿者:nbsakurai  投稿日:10月 2日(木)00時23分37秒

 (ほぼ)証明する、というのは、そもそも「証明」なのでしょうか? 「証明」が”ほぼ”?、ほぼ正しいが、多少は違っている?、・・・私には、想像のつかない「論理」です。論理ではないのなら、つまり非論理なら、それはそれで結構なのですが。
◆―― そう、動機はいくらでも考えられると思います。私もいろいろ考えてみたいですよ。でも、人間がしたいことが実際にできるのかどうか、これはまた別な話です。
 生物学的人間一人を出産する労力と資本を使って、・・・必ずなるような気がします(テクノロジーがそこまで達すれば)。―― ですから、「気がします」というのであれば、私もそれで差し支えないと思います。「あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である」という「気がします」、というのであれば、何も問題にする必要はない、と私は思っています。
―― ですから、テクノロジーがそこまで達するかどうかが、私には問題なのです。仮定の上での話、と言うことを明言されるなら、私は何も言うことはありません。
 また、”労力や資本”を必要としないで簡単にできるから多数派になりうる、というのがデジタルデータの強みであったはずです。労力や資本を必要とするのであれば、その投資に見合うメリットが必要でしょう。「必ずなる」というからには、なぜそうなるのか、その根拠を説明する必要はありませんか?
◆―― ですから、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識”である”、と断定されるのではなく、「と推測される」というふうに変更していただければ、それで問題は解決します。「あくまでも推測である」ということを明確にされれば、それで問題はなくなります。簡単なことです。今すぐ、そのように訂正してください。
◆―― 「シミュレーターの恣意の届かない所で勝手に発生する」という根拠が不明です。したがって、根拠不明な、恣意的な、独善的な、推測、ないしは議論です。
 (シミュレーション世界内の法則にただしたがって)、・・・死の原因は、あくまでその世界の中の「自然現象」や「事故」などによるでしょう。―― その世界内の法則に従うのであれば、何も特別なことを想定する必要はないでしょう。
 シミュレーターが個々にコントロールする(少数派の)意識体の場合は、・・・いずれも、シミュレーターの世界においては1秒もかけずにできる倫理的な措置でしょう。レベルD文明ともなれば、そのへんの倫理基準は当然完備されているはずと考えられます。―― まったく、先生の恣意的な推測です。”シミュレーターが個々にコントロールする”意識体は、なぜ”少数派”なのでしょうか。”レベルD文明ともなれば、そのへんの倫理基準は当然完備されている”などと、如何して言えるのか、まったく想像がつきません。簡単に、容易に、手間をかけずにできるから、当然に完備される? ”1秒もかけずにできる倫理的な措置”?、倫理的な措置が1秒もかけずにできるというこの発想自体が、倫理というものの本質を見誤っている、という気が、私はします。
◆―― なぜ、問題ではないのしょうか。想像の世界、架空の世界、空想の世界の話で満足される、ということなのでしょうか。
 たしかに可能である」ことが判明したとしたら、―― では、たしかに不可能である、ということが、判明したら ?
 「可能だとすれば、いつか実現する・・・→大多数はシミュレーション内に→ナラバここはすでにシミュレーション内では?←主観的な判別不可能性+平凡の原理」という論証が成立するからです。―― そういう仮定を幾重にも積み重ねれば、おっしゃる結論が導き出されることは、私も認めています。ただ、そういう、幾重にも積重ねられた仮定が、いったいどのくらい確かなのか、と疑問を呈しているいるわけです。たいへん失礼な言い方をしますが、ご自分の推論機構がまったく狂っているとしたら、そしてその狂いにまったく気がつかないとしたら、というような推測を積重ねたら、どのような結論が出ると思われます?
 「ここ現実においては、意識作成が可能」という前提から、一種の背理法により、「ここは現実ではなかった、より広い現実内の虚構に違いない」ということになるのです。―― ですから、そうなるのは勝手なのですが、あたかも論理的必然であるかのような言い方はしないでくださいよ、と言っているだけなのです。自分はそう思う、ということであれば、それはそれでいいのですが、あなたもそう考えなけらばならない、そう考えなければならない論理的な必然の理由がある、という強制ないしは主張を引っ込めてさえいただければ、私が提出した問題はすべて解決します、ぜひ、そうなさってください。

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進化を解く 「人間多宇宙原理」 投稿者:ラルド  投稿日:10月 1日(水)22時31分30秒

http://www.kyoritsu-pub.co.jp/kinkan/shosai/kin03424-4.html
 ↑量子進化という本が出ていました。
この中で「人間多宇宙原理」という新語がでてきます。
量子状態の重ね合わせであった単なる分子が、自己複製によって
量子測定を起こし、世界が確定する。
その後は通常のダーウィン進化が起るというのがアウトライン・・。
その確定世界にたまたま我々がいた偶然は「人間多宇宙原理」が
説明するのだといいます。
もし読まれた方は意見をお聞かせください。

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有害非無益バージョン 投稿者:φ  投稿日:10月 1日(水)21時37分49秒

「我らは虚構である」が有害たりうるからといって、無益でないとは限らない。

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無害バージョンお求めですか 投稿者:ネモ  投稿日:10月 1日(水)12時58分58秒

まったくのおじゃま虫のような気がしますが、ちょっとだけ。
774の用語をいくつかお借りしまして

あえて無害なものをこそ有益となせ。たとえ有害とレッテルを貼られようと無益なまま終わることはないだろう。

意味不明で申し訳ありません。哲学について考えていたものですから。

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追伸 投稿者:φ  投稿日:10月 1日(水)09時35分56秒

>SAは、生の人間が日常的に行っている判断や行動とはおよそかけ離れた、むしろその対極にある、「平凡ではない原理」で考えるのがその真髄・極意だとお見受けしました。

 ↑nbsakurai氏のこれ、初歩的な混同なのでは? 平凡の原理というのは、考えかたが平凡であるという意味ではありません。たとえば、他の地域に住む人間を見たことのない、孤島に住む民族が、土着神話に基づいて「自分たちは現存する人間の中でずば抜けて背が高いだろう」と思い込んでいる中に、ただひとりだけ変わり者がいて、「いや、人間というものはみな、この島のわれわれと同じような背丈だろう」と考える人がいるとしましょう。この人は、考えかたは平凡ではありませんが、「平凡ではない原理」で考えているのではなく、「平凡の原理」で考えているのです。原理の内容と外的事情とをくれぐれも混同せぬよう!

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可能性が現実性を(ほぼ)証明する 投稿者:φ  投稿日:10月 1日(水)09時02分12秒
◆「個人の不死願望」「亡き友人・恋人・肉親に会いたい」「歴史的興味(戦国時代への参加!)」「バーチャルリアリティ芸術体験」「科学的研究」……シミュレーションの動機はいくらでも考えられるので、生物学的人間一人を出産する労力と資本を使って、何億ものデジタル意識体が作られる、ということに必ずなるような気がします(テクノロジーがそこまで達すれば)。
◆平凡の原理は、推測の手段であって、断定の道具ではありません。明日太陽が昇ることを断定できないのと同じく、ここがシミュレーション世界だと断定することなどできません。断定ではなく、きわめて確からしい推測なのです。明日太陽が昇るだろうという推測と同じく。(いずれにせよ、「断定」してるかどうかという議論は、SA特有の事柄じゃないのでやめましょうヤ)
◆9月30日(火)00時43分05秒の最後に述べたように、大多数のデジタル意識体は、シミュレーターの恣意の届かない所で勝手に発生するでしょうから(シミュレーション世界内の法則にただしたがって)、「シミュレーターの気まぐれによって殺される」心配はないでしょう。死の原因は、あくまでその世界の中の「自然現象」や「事故」などによるでしょう。
 シミュレーターが個々にコントロールする(少数派の)意識体の場合は、それを消去する場合は、次に呼び出すまでバックアップしておくとか、あるいは、その意識体の主観において天寿をまっとうした体験を与えてから消去するとか。いずれも、シミュレーターの世界においては1秒もかけずにできる倫理的な措置でしょう。レベルD文明ともなれば、そのへんの倫理基準は当然完備されているはずと考えられます。
◆なお、レベルD文明の実在が未来のことであり、現時点では不確定である、ということは、SAにとっては全く問題ではないのです。「意識を実現するほどのコンピュータシミュレーションはまだ実現されていないが、たしかに可能である」ことが判明したとしたら、それだけで、「可能だとすれば、いつか実現する(あるいは別の文明がすでに実現している)→大多数はシミュレーション内に→ナラバここはすでにシミュレーション内では?←主観的な判別不可能性+平凡の原理」という論証が成立するからです。「ここ現実においては、意識作成が可能」という前提から、一種の背理法により、「ここは現実ではなかった、より広い現実内の虚構に違いない」ということになるのです。

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”・・虚構色に染め上げる”の感想 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月30日(火)22時01分36秒

http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/simulate.htm
これを読んだら、また書込みたくなっちゃいました。

>(4) あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。

この確率が高いことは、誰にも否定できないと思います。

ただ、この議論の一つの前提である「レベルDに達した文明」というのは、我々のレベルCの文明からはどうあがいても実証不可能なのですから、未来の不確定さでしかないと思います。

それより、レベルDに達した文明において「シミュレーション」する、ということの方が興味深いことだと思います。
だって、シミュレーションしたい現実世界があるからシミュレーションするわけでしょうからね。
我々のレベルC文明は、レベルD文明に達してもなお、現実世界がある、という前提なわけです。

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SAのおもしろさと虚構性 投稿者:nbsakurai  投稿日: 9月30日(火)06時29分42秒
 先生の「まとめて」のご説明により、SAの知的ゲームとしてのおもしろさと、それ自体の虚構性が、理解できてきました。
 ◆ ”意識体が圧倒的多数に増えるであろう”メカニズムや、”シミュレーションが生物学的意識を圧倒する仕方”は、とりあえず何でもいいようです。”アナログ情報よりもデジタル情報のほうが効率がよく、なまの生物のようなハードな物質よりも、デジタル情報の方が移動も増殖も自由自在だ”というのは、おっしゃる通りだと思います。しかし、”生物のようなハードな物質”の意識が、どうやってデジタル情報にすべて還元できるのか、という点については、特に何の根拠もないようです。とりあえずそう考えてみましょう、ということが、すべての議論の出発点になっているようです。(1)(2)(3)は、それをもっともらしく見せるための小道具で、論理的にはいわば付け足しに過ぎません。
 ”個々人の不死願望に応じる形で””個人用シミュレーター(一人に一台?)により、分岐的人生を百通りにもシミュレーションする””「意識コピー」テクノロジー(一人で百の人生を体験!)”、なるほど、コマーシャルのような、おもしろさと虚構性を兼ね備えています。
 ◆ ”日々、私たちは、平凡の原理に従って予測している”というのはその通りだと思いますが、SAは、生の人間が日常的に行っている判断や行動とはおよそかけ離れた、むしろその対極にある、「平凡ではない原理」で考えるのがその真髄・極意だとお見受けしました。”むろん、自分は多数派に属すると「断定」などすれば不合理ですが”、”あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である”は断定だと思います。”どんなことでも断定は不合理なのです”とするならば、この「断定」は不合理ではないのでしょうか。
 ◆”ひも理論の虚構っぽさと、シミュレーション・アーギュメント(以下SA)の言う虚構とが似たものだというのは、「虚構」の意味の混同があ”る、というのは、おっしゃる通りだと思います。ただ、私が取り上げたのは、”「シミュレーション・アーギュメント」という議論”のもつ虚構性の”衝撃力や、おもしろさ”という点です。「虚構」の意味が似ている、という趣旨ではありません。
 ◆”「生物学的意識」と「ビットで出来た意識」の比較には(優劣の比較には)意味がない”という先生のご意見に、私も賛成です。”私たちがビットの意識だからといって、”私はそれだけで格別ショックを受けません。
 ”「社会的影響」とは一体?”何かというと、こういう議論をネットで見た人に、現実は虚構だと早飲み込みさせて、現実に反社会的行動を誘発する危険はないか、というようなことなのですが、私自身は、そんなに社会的影響があるとは考えておりません。  それとは別の議論ですが、おっしゃるように意識がデジタルデータとして容易にコピーできるとすれば、倫理には重大な変更が加えられるのではないか、と思います。当該レベルのシュミレーションの内部では、”どうせこれはビット野郎なのだから粗末に扱ってよい、虐待したり殺したりしてもよい、ということに”はならず、”知的意識体はみな平等な権利を与えられるべき”ということになるとしても、しかし、そのメタレベルでは、大量にコピーし、バックアップし、改造し、消去することが、極めて容易に行えるものと思われます。ひとつひとつの「かけがえのなさ」、という感覚は、メタレベルでは薄れるでしょう。”この文章もデジタルで伝達するから安上がりにあちこちで増殖できる”のですが、”膨大な金とエネルギー”を消費していない分、その個々の取り扱い方は変わってきます。本ならば愛着がわくということもあり、廃棄にも手数がかかりますが、こちらはコピーも、配布も、消去も、そして再取得も、極めて容易です。”そんなのは、「私が生んだ子だから私がどうしようと自由だ」といって殺してしまう母親が許されないのと同じく、倫理的に許されません”と言ってみても、あまり説得力があるようには思えません。・・・”という二点から、気にすることはないでしょう”と言われても、やはり同様です。

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まとめて 投稿者:φ  投稿日: 9月30日(火)00時43分05秒

お答えしてしまいますと、◆「シミュレーションの多重化」については、シミュレーション意識体が圧倒的に増えるであろう一つのメカニズムを挙げただけで、そのバージョンに拘泥するわけではありません。他のバージョンとしてたとえば、個人用シミュレーター(一人に一台?)により、分岐的人生を百通りにもシミュレーションする「意識コピー」テクノロジー(一人で百の人生を体験!)が、個々人の不死願望に応じる形で実現されれば、それだけでもシミュレーション意識の方が生の意識よりも多くなります。シミュレーションが生物学的意識を圧倒する仕方は何通りも考えられるのです。これは、アナログ情報よりもデジタル情報のほうが効率がよく、なまの生物のようなハードな物質よりも、デジタル情報の方が移動も増殖も自由自在だということを考えればすんなり納得できるでしょう(たとえば私のこの文章もデジタルで伝達するから安上がりにあちこちで増殖できるので、ハードコピーで同じ部数ばらまこうと思ったら膨大な金とエネルギーが消費されます)。
 ◆「平凡の原理」に従って判断することには、取り立てて本気で反対する人がいるとは思えません。むろん、自分は多数派に属すると「断定」などすれば不合理ですが、どんなことでも断定は不合理なのです。たとえば、あす我が家の玄関でサソリに出会うことはないだろう、と「断定」するのは不合理です。しかし、ほぼ断定に近い推測をするのはかまいませんね。まさに平凡の原理です。日本の野外でサソリに出会うという珍しい事件(確率の低い事件)に自分が出くわすことはないだろう、自分は平凡な多数派なのだから、というわけです。日々、私たちは、平凡の原理に従って予測しているのです(明日交通事故には遭わないだろう、明日落雷の直撃は受けないだろう……)。
 ◆ひも理論の虚構っぽさと、シミュレーション・アーギュメント(以下SA)の言う虚構とが似たものだというのは、「虚構」の意味の混同があります。SAの虚構は、私たちの宇宙の外に、この宇宙を作ったより大きな現実があるという、階層を前提した実在的虚構であって、ひも理論のような数学的抽象性による「感覚的な非現実性」とは全く異なります。SAでは外部に真のメタレベルの現実があるというのですから(その現実もより広いメタメタレベルの現実の内部にあるかもしれない……、以下同様)、単一レベルでの説明を意図したひも理論とは根本的に異なります。
 ◆「生物学的意識」と「ビットで出来た意識」の比較には(優劣の比較には)意味がないというのはまさに私の意見なのですが。 私たちがビットの意識だからといって、なぜショックを受けるのでしょう? 「社会的影響」とは一体? 逆に、私たちの文明が、コンピュータ内で精巧な意識主体を作ったとして、どうせこれはビット野郎なのだから粗末に扱ってよい、虐待したり殺したりしてもよい、ということになるのでしょうか。そんなのは、「私が生んだ子だから私がどうしようと自由だ」といって殺してしまう母親が許されないのと同じく、倫理的に許されません。知的意識体はみな平等な権利を与えられるべきでしょう。だからこそ私は、「ムキになるな、たとえ私たち自身がビット意識だったとしても気にするな」と言っているのです。
 (むろん私たちを作ったメタレベルのシミュレーターたちの倫理意識を信頼できるかどうかとご心配も向きもあるでしょうが、1.では単なる自然界は信用できるというのか、2.シミュレーターは個々の意識体を個別に運転するのではなく宇宙全体を運転しそれに付随して個々の意識体が設定法則に従い自走する場合が大半だろう、という二点から、気にすることはないでしょう)

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存在する「虚構」 投稿者:nbsakurai  投稿日: 9月29日(月)17時34分12秒

 次に、「情報体としての存在」の、「■2.」について、私の考えを述べさせていただきたいと存じます。

>虚構であるとは、「存在しない」という意味ではなく、「私たちが今まで信じていたのとは別の形で存在している」という意味
>血液の素材は究極的には素粒子ではなく、ビットであるというだけのこと

 そうすると、「虚構」は「ビット」あるいは「情報体」として存在しているわけで、この点を、私はどうも誤解していたようです。
 したがって、私が先に述べた、・・・
・ ”(8) この世は虚構である、世界には何も実在しない、と考えるのは、あまり、生産的な態度とは思われない。”は、取り下げなければならないと思います。
・ 先生のお嬢さんを”「理不尽な」仕方で命を落とされたとした”り、”「虚構の世界」では、人を刺しても、「現実の」血は流れないのでしょうから”、先生は、”むしろ加害者の側に近いのかもしれませんね”などと述べたのは、たいへん失礼なことであり、お詫びしなければならないと思っています。

 ただ、私の感覚では、現代物理学のクォークや量子論も、相当に’虚構っぽく’見えますし、超ひも理論ということになると、ほとんど’虚構そのもの’のようにも感じられます。「ビット」や「情報体」とどっちがより虚構なのか、ほとんど区別することができません。「あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。」というのと、「あなたは、超ひもの振動で作り出された意識である。」というのには、’虚構っぽさ’という点において、それほど本質的な違いがあるようには、私には感じられません。
 「現実は虚構」だという意味が、「素粒子ではなくビット」あるいは「情報体」として存在しているということであれば、「シミュレーション・アーギュメント」という議論の、衝撃力や、おもしろさは、著しく減退してしまう、残念、というように私には感じられます。

 なお、「生物学的意識」と「ビットで出来た意識」を比較された最後の段落は、私にはあまりピンと来ません。私の感覚では、このような比較にはあまり意味がないように感じられます。どっちもどっち、どちらでも、そうムキになるほどのことではないのではないか、というような感じです。

 以上、勝手なことを書き、また、一部誤解に基づいてたいへん失礼なことを述べてしまいました。深くお詫びいたします。

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「虚構理論」の論理構造 投稿者:nbsakurai  投稿日: 9月29日(月)17時31分16秒

 三浦先生、私のつたない文章にご回答いただき、ありがとうございます。ここで、私の考えをさらに述べさせていただきたいと存じます。
 まず、「情報体としての存在」の、「■1.」についてです。

 自分はY’である ―― という結論は、次のようにして導かれています。
A ・・・”であろうから”
B これを認めれば(あくまで認めればです)”
C ”判断材料がない場合”・・・”と考えるのは非科学的だから”
D 結論、自分はY’である(と、”認めざるをえません。”)

 A シュミレーションは多重化する「であろうから」とする、根拠は何も述べておられません。(つまり、根拠のない推測を述べたものだと、暗に認めておられるようにもお見受けします。)
 B 「これを認めれば(あくまでも認めればです)」と、仮定の上の話であることを認めておられ、その上で、結論を引き出されているようです。(つまり、あくまでも仮定の上での話であることを、明らかに認めておられます。)
 C 「判断材料がない」ことを認めておられ、その上で判断を述べておられるようです。(つまり、判断材料のない、推測ないしは憶測であることを、自ら認められているようにお見受けします。)また、一方(Y)を非科学的だとして排除されていますが、他方(Y’)が論理的に導かれる、つまり判断材料がなくても何らかの断定が許される、という論理的な理由を示されてはいません。確率的な’確からしさ’について述べられているだけです。

 その論理構造は、まず、「多重シュミレーション」という(根拠の不明確な)推測を述べられ、それを基にY’が「圧倒的多数になる」と(とりあえず)仮定され、その上でさらに、厳密に論理的とは言えない原理で、(判断材料がないまま)断定的な結論を引き出す、ということをされているように見えます。
 A シュミレーションの多層化 (推測)
 B Y’の圧倒的多数 (仮定)
 C 平凡の原理、ないしは、確率による’確からしさ’の原理 (非論理的な原理)
 D 自分の意識はY’ (結論)
として、
 Aならば、Bである。 (推測から仮定へ)
 Cという原理がある。 (必ずしも論理的とは言えない、確からしさの原理)
 Cによって、Bならば、Dである。 
 よって、Dは真である。

 これを論理構造として見た場合、私には、論理的飛躍、論理の誤り、非論理、思い込みの論理、自分の信条を正当化するための論理・・・、のようにしか思えません。論理的には、(4)は次のように言い換えるべきものと思います。・・・
 (4) あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である、という可能性がまったくないわけではない。
 つまり、あまり確かな根拠があるわけではないが、ある推測をし、ある仮定を置くならば、こういうことがどうやら確からしい、と言うことはできる。おもしろいでしょう。これを信じたい人は、どうぞ信じてください、・・・というような。

 もしかすると、読者サービスのため筆が滑ったのではないか、あるいは、あえてこのような形にしたのではないか、とも推測されますが、できれば、これは知的なゲームや発想であるというような側面、先生の私的な信条であるというような側面なども、もう少し明確に打ち出された方が、もしかしたら良かったのではないか、・・・などと、愚考しております。(私は杞憂に近いのではないかと思っていますが、先生の議論の、社会的影響を心配する声もあるようです。)

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問題の本質は、、 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月29日(月)12時41分36秒

四つの命題を全て偽とすると矛盾をおこす、ということですね。
では、、
(1)、、滅亡しない。(2)、、作り出すことが出来る。(3)、、興味を持つ。
(4)、、シミュレーションで作りだされた意識では無い。

全て否定して見ました。 一体どこが矛盾するというのでしょう?

先生の言わんとするのは(3)と(4)の関係だとおもいます。

しかしDレベルの文明が興味を持ったとして、だから、私の意識がシミュレートされたものだ、(と命題は言い切ってます)とは恐ろしく飛躍的ないし非論理的ではないでしょうか?

まず、興味を持つ、ならば必ず実行する、とは限らない
こんな事は当たり前のことではないですか?

たしかに興味があれば実行する確立は高いことは認めます。

広大無辺の宇宙ですからあるいはそのような事を実行した、又は実行する文明があるかも知れません。

しかし我々の世界がその一つであるという保証は、、?

ここにも多重シミュレーションという仮想概念を強引に導入してますね。

何故、多重でなければならないのか、、? ある確率でそうなる、、?

そして作られた意識の数が60億の人類よりも遥かに多いはずだと、、

ここにも確率を使用してますね。

それはまあ、それだけ高度な文明のコンピューターを仮想すれば60億なんてたいした数ではないかも知れませんが、一体なんのために、、?

まあ、目的は知りえないこととして、

いずれにしても確率と仮想を織り交ぜて無理にこしらえた「命題間で矛盾をおこす」、というのが厳密な論理といえるのでしょうか?

(1)、(2)、(3)については私はそれぞれ50%くらいと思います。
(未知の要素が多すぎてせいぜい半々、、と仮定せざるを得ない)

ここでもそれぞれの命題を成立させようとして今の時点で現実に証明出来ないことを推論をもって断定とすり替え、ないし確率を導入してますね?

論理学ではこんなことが許されるのでしょうか?

以上、失礼をも省みず反論します。

思考ゲームとしてとらえるならば、面白い、と言うことでした。

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人工意識は必ず多数派になる? 投稿者:nbsakurai  投稿日: 9月29日(月)02時53分35秒

 「この世は虚構か」の、更なる続きです。

 記述の便宜のため、「生物学的に生まれた生の現実に住む意識」をYとし、「コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識」をY’とすることにします。

 問題提起の構造から考えて、Y’が最初に造られる以前の世界には、意識としては、まずYのみがあったと考えらます。そして、科学技術が高い段階に進み、Y’が造れるようになったとして、その場合、必ず次のようになると言えるのか、ということがひとつの問題です。(人工意識が必ず多数派になるとは限らない、と私は思います。)

>一旦シミュレーションが始動すれば、シミュレーション内のシミュレーション内の……といった多重シミュレーションが展開し、なまの現実に住む意識よりもシミュレーション内意識の方が圧倒的に数多くなると予想されます。
>生物学的に生まれた意識の個体数を、人工意識の個体数が圧倒し、・・・

 Yについて、確かなことはまだ何も分かっておりません。
 どのようにすればY’が造れるのか、今のところ、まったくの霧の中です。
 現在の原理のコンピュータのままで、Y’が造れるという保証はありません。
 多重シミュレーションでY’が可能である、という保証はありません。
 Y’が自己増殖できる、という保証はありません。
 Y’を造るためには、何らかの物理的・生物的実体が、必要不可欠かもしれません。
 Y’を造るのには、相当のコストがかかるかもしれません。
 Y’を人口を上回るほどの数造るのに、充分な資源は回せないかもしれません。
 それほど多数のY’を動かすのに、必要なエネルギーは確保できないかもしれません。
 Y’の保守点検や、維持管理ができる数には、社会的に制限があるかもしれません。
 Y’を造ってもあまり役に立たないので、それ程たくさんは造られないかもしれません。
 Y’は、ある程度研究されてしまえば、社会の興味を失うかもしれません。
 反対運動が起こり、Y’の製造が法的に制限されるかもしれません。

 Y’を造ることができるようになったとしても、以上のようなことを考えると、YよりもY’の方が圧倒的に数が多くなるという予測は、必ずしも確かだとは思えません。むしろ、ごく少数で終わる可能性も、充分に考えられます。

 そして、Y’の個体数がYの個体数を圧倒するほど多くなければ、「コペルニクスの原理」を持ち出し、確率的にまず間違いなく……、などという議論は、まったく説得力を失います。

 また、先に述べたように、自分の意識はY’に違いない、などと判断することは、できそうにもありません。仮にYよりY’の数が多いとしても、自分の意識はY’だという確率が、―― Y’の総数/(Yの総数+Y’の総数)―― だけはある、と言えるに過ぎません。
 なお、この確率を計算するにしても、宇宙全体のYやY’の総数は、どうやったら数えられるのでしょうか。仮にYの数は物理的に数えられるとしても、Y’はどのような方法で数えればいいのでしょうか。(特に、多重シュミレーションのY’。)

 こうして、たいへんおもしろい議論ではありますが、「あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。」と断言できるとすれば、それは、論理的飛躍のなせる業ではないか、と私は思います。

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情報体としての存在 投稿者:φ  投稿日: 9月29日(月)02時07分33秒

■1.「シミュレーションは多重化する(虚構内の虚構内の虚構内の……)であろうから、第一階層の生の現実内の意識より、第n階層(n>2の自然数)シミュレーション内の意識が圧倒的多数になる」←これを認めれば(あくまで認めればです)、私は、自分がシミュレーション内の意識だと認めざるをえません。判断材料がない場合、単なる平凡な一意識である自分があえて少数派に属すると考えるのは非科学的だからです。
■2.ここが虚構である、というのは、ここ全体が虚構であるという意味ですから、ここ内部の諸部分の間で見れば、相対的にはお互いに現実です。私にとって、テロやイラク戦争で流された血は現実です。ただし、血液の素材は究極的には素粒子ではなく、ビットであるというだけのこと。虚構であるとは、「存在しない」という意味ではなく、「私たちが今まで信じていたのとは別の形で存在している」という意味です(ただしφの妻子は、目下の所ここ内部で相対的に見ても虚構ですが)。地球が万物の中心だと思っていた人々が、実は太陽の周りを回っていると聞かされたら当初はみな驚きつつやがてそれに慣れますよね。この世がシミュレーション内にある、というのも、この世はないなどという意味ではないのだから、論理に馴染みさえすれば、みんな慣れると思います(なお、シミュレーション・アーギュメントは「弱い人間原理weak anthropic principle」の一形態であり、私の創案ではないので、私に地動説発見なみの功績があるわけではありません)。慣れるというのは、むろん、今まで現実にあると思っていたものは変わらずに依然として、あるのですし、それらを私たちは認知し続け、怒りも悲しみも尊重し続け、倫理的なルールも守り続けるのですから。
 生物学的意識よりもシミュレーション意識(ビットで出来た意識)の方が劣っていると考えるのは偏見だと思います。生物学的意識がどんなものであれ、そう大したものじゃないでしょうしね。(しょせんは進化の盲目的なシミュレーションの産物というべき?)

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この世は虚構か(続き) 投稿者:nbsakurai  投稿日: 9月28日(日)22時30分09秒

 私は次のように考えます。

 (1) 現在の人類の科学技術は、さらに高い段階へ進むことが充分に考えられる。
 (2) そのレベルの科学技術は、人間の心と同程度にクリアな意識を作り出すことに、興味を持つものと考えられる。
 (3) そして、コンピュータ・シミュレーションによって実際に作るかもしれない。
 (4) その世界には、「生物学的に生まれた生の現実にすむ意識」と、「シュミレーション内の人工意識」との、2種類の意識があることになる。
 (5) 自分の意識が、後者の意識、「コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識」である、という可能性は否定できない。
 ―― 以上のように考えてみる議論は、たいへんおもしろい。しかし、
 (6) 一方で、前者の意識、「生物学的に生まれた生の現実にすむ意識」である、という可能性も当然に否定はできない。
 (7) そのどちらであるかを、論理的に判断することはできない。
 (8) この世は虚構である、世界には何も実在しない、と考えるのは、あまり、生産的な態度とは思われない。

 三浦先生は、「この世は夢かも、現実の姿は全然別かも、心の外側には何も無いかもといった汎虚構観」、「私たちは虚構内の存在」、「この世は虚構である」と、本当にお考えになって、毎日の人生を実際に生きておられるのでしょうか?

 「この世は虚構である」とするなら、先生の奥さんやお嬢さんも虚構、ということにならないでしょうか ?
 先生は、奥さんやお嬢さんに向かっても、「おまえたちは虚構である」と言うのでしょうか ?
 そう言ったら、お嬢さんは、先生をどんな目で見られると思われますか ?
 (もしかすると奥さんは、先生の話につきあってくれるのかもしれませんが。)
 もし、お嬢さんが、近頃ちまたで騒がれているような、「理不尽な」仕方で命を落とされたとした場合、先生は、それも所詮は「虚構の世界」での話である、と平然としていられるのでしょうか ?
 その際先生は、悲しみや怒りは、お感じにはならないのでしょうか ?
 それとも、悲嘆や憤りも、所詮は「虚構の世界」の話である、とすましていられるのでしょうか ?
 もしかすると先生は、被害者の側よりも、むしろ加害者の側に近いのかもしれませんね。
 「虚構の世界」では、人を刺しても、「現実の」血は流れないのでしょうから・・・。

 以上、もし失礼な点があれば、話の分からない奴だと思い、お許しください。

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この世は虚構か 投稿者:nbsakurai  投稿日: 9月28日(日)22時27分44秒

 「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」を、興味深く読ませていただきました。(ヨッパライさんのご紹介です。)これは、多分に言葉遊び、知的な挑発ではないかなとは思いますが、たいへんおもしろい議論です。
 「・・・・・・電子掲示板、ゲストブック(=訪問帳)を設置してあります。・・・。感想でも要望でもご意見でも、何でもどうぞ。」とされていますので、私の考えたことを述べさせていただきたいと存じます。

>シミュレーション・アーギュメントとは、次の四つの命題のうち少なくとも一つは正しいはずだという論証です。

 (1) 現在の人類程度の科学技術(レベルC)に達した文明は、さらに高い段階(レベルD)へ進む前に、確実に滅亡する。
 (2) レベルDのコンピュータ・シミュレーションによって、あなたの心と同程度にクリアな意識を作り出すことはできない。
 (3) レベルDの文明は、あなたの心と同程度にクリアな意識シミュレーションを作り出すことに興味を持たない。
 (4) あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。

>さてあなたはこの四つのうち、どれが正しいと思いますか?

 まず、私は、上記(1)~(3)の三命題を否定したいと思います。いずれも、その反対の可能性があると思います。

>こうして合理的に(1)(2)(3)がすべて否定されるところまで参りましたね。すると、残る(4)はほぼ否定できなくなると。

 私もそう思います。したがって、「あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である」という「可能性」があることは肯定します。ただし、・・・

>そして一旦シミュレーションが始動すれば、シミュレーション内のシミュレーション内の……といった多重シミュレーションが展開し、なまの現実に住む意識よりもシミュレーション内意識の方が圧倒的に数多くなると予想されます。
>生物学的に生まれた意識の個体数を、人工意識の個体数が圧倒し、すると私たち自身は確率的にまず間違いなく……、
>何故か? 実際に生じている全意識のうち、私たちは少数派の生物学的意識であるより、多数派のシミュレーション意識である確率の方が圧倒的に高いからです。自分は平凡であり多数派に属するはずと考えるのが科学の大原則「コペルニクスの原理」ですからね。
>(1)(2)(3)を拒む者は(4)を甘受すべし。(4)を拒む者は(1)(2)(3)いずれかを謹んで受容すべし。これが論理というもの。

 この「論理」には疑問が残ります。まず、この確率をどうやって論理的に導き出すのでしょうか。また、「生物学的に生まれた生の現実にすむ意識」よりも「シュミレーション内の人工意識」が仮に多数派だとしても、「あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。」などという断言を、どうやって論理的に導き出すのでしょうか。この結論は、やはり「憶測をめぐらす」レベルにある、と私は思います。
 述べられている結論が、「コペルニクスの原理」によって論理的に導かれるとは、私は思えません。これは、論理ではなく、推測ないしは憶測だと思います。ここで、「私たちが虚構内の存在である確率」を論理的に「考えた」のだとしても、その結論を「論理的に証明する」ことには成功していない、と私は思います。

>サアあなたはどれを受け容れます? 私ゃ断然、(4)ですけどね。

 私は、(1)(2)(3)を受け容れませんが、(4)も受け容れません。
 (4)の可能性は受け容れます。全ては虚構である可能性がある、ということことは認めます。

http://www.geocities.jp/nbsakurai/

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流れではなく 投稿者:φ  投稿日: 9月28日(日)18時55分25秒

 べつに流れがあるわけではなく、単に、(1)(2)(3)(4)のすべてを偽とすることはできない、というだけのことですが。
 (1)が真なら(2)(3)の真偽はどうでもよく、(2)が真なら(3)の真偽はどうでもよい、という関係はあるにはありますが、順番は別に問題ではなく、どれか一つは真としないと(全部偽としてしまうと)、論理的に矛盾するでしょ、というだけのことです。けっこう単純な議論です。

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どうも考え過ぎだったような、、 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月28日(日)17時19分08秒

自分の文章をもう一度良く見たら(4)→(1)の流れは必要ない、というより因果関係を逆に考えることが無理だったようですので循環云々は取り消します。

後段の(1)→(4)だけで行きます。

これでも全体に「風がふけば桶屋が儲かる」式の印象が強いです。

(1)~(4)の私から見た問題点は又次に、、よく考えてから、、f(^^;

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私の間違いを訂正 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月28日(日)13時38分22秒

前レスの最初

誤(4)を否定するためには(3)を否定しなければならず
正(4)を肯定するならば(3)を否定しなければならず

でした。

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論理の構造 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月28日(日)09時37分34秒

四つの命題間の論理構造が見えてきました。次の意味だと思います。

(4)を否定するためには(3)を否定しなければならず
(3)を否定するためには(2)を否定しなければならず   
(2)を否定するためには(1)を否定しなければならない

となっていますね?
そして

(1)を否定するならば(2)を(先生の説明により)否定することになる。
(2)を否定するならば(3)を(先生の説明により)否定することになる。
(3)を否定するならば(4)を(先生の説明により)受け入れなければならない!

というように一種の循環構造になっているのですね?
この構造によりどこを否定しても(4)を受け入れざるを得なくなるという仕掛けですね。

従って(1)→(4)の流れで(先生の説明を正しいとすれば)どれか一つは認めざるを得ないということにはなります。 ナルホド~!

ここまでの私の推論は合っているか確認して置きたいと思います。

ご教示お願い致します。

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四つの命題 投稿者:φ  投稿日: 9月27日(土)15時55分57秒

の少なくとも一つどれを(しぶしぶ、または喜んで)認めますか、という問題ですね。
地球は平らでなく丸いとか、地球の裏側の映像をリアルタイムで見られるとか、こうしてパソコンから文字を電送できるとかいう「不思議なこと」に比べれば、「ここは唯一の現実ではない、無数の階層にある虚構の一つなのだ」くらいは簡単に信じられるものとして感じられます、私には。

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言い訳を、、 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月27日(土)08時43分58秒

(無題)の内容と私の9月25日の内容は矛盾するようですが、9月25日の方は私の「思考の遊びとして」とご理解ください。

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すみません 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月27日(土)08時30分09秒

題名を記入するのを忘れて「無題」になってしまいました。

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(無題) 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月27日(土)08時28分21秒

前にも一度「シミュレーション・アーギュメント」を読ませていただいてますが、その時は「思考の遊び」程度に感じてました。今回提示され、読み直して、φ先生が「本気」でわれらの世界の虚構性について考えておられることを知り、驚くと共に俄然興味が湧き、反論してみたくなりました。
基本的に私にはこの世界の虚構性などは信じられませんし、四つの命題にも疑問があります。
ただ先生は専門家、私はどシロウトで、力不足は目に見えてますので、お許しを頂ければ ヤフーの掲示板の科学哲学カテゴリーでこのテーマ専門のトピックスを立ち上げ衆知を集めて議論を交わした後、自信がもてる結論に達したらφ先生に挑戦状を差し上げて見たいと思いますが、いかがでしょうか?

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量子からビットへ 投稿者:φ  投稿日: 9月25日(木)22時51分10秒

 それとはかなりずれるかも。
現代科学の命題の大半は真だと私は思ってます。ただし、ニュートン力学が量子力学にとって代わられたように、量子力学が「ビット学」にとって代わられるかもしれない、というようなことです。つまり、現実と呼ばれていたこの全体は、もっと大きな全体の中のコンピュータシミュレーションだったことが判明する、というような。
 万物の究極の構成要素は、クオークではなく、ビットであった、と。
 しかしシミュレーションは内部からは(主観的には)本物と見分けがつかないでしょうから、「ビット学」は直接観察や体験によって証明はできません。よって、論理で証明するしかない。その証明の概略は、いろんな人がもう述べているのですが、私の言葉ではこんなふうになります↓↓
 ちょうど明日の1時限目の講義で配る予定の拙稿ですが。
http://russell-j.com/simulate.htm

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全ては虚構、、 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月25日(木)15時30分00秒

である可能性は高い、、というのが「ワガ信条」に有りました。
科学や論理学、数学という学問も突き詰めると、公理とか科学的仮説とかのそれ以上証明不可能な前提に突き当たると思っていますが、その公理ないし仮説が崩れれば今の世界観が崩壊してしまう、、又、その公理系自体で自らの無矛盾性を証明できない、、

そのような意味のことを仰っておられるのでしょうか?
そうだとすれば私も同感で、ヤフー掲示板でも書いているのですが、あらゆる思考は仮定の上に構築された、信仰のようなものだ、と思っていますが、、先生の所信表明をお願いします。

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ポストヒューマン 投稿者:φ  投稿日: 9月21日(日)20時07分25秒

 観測可能な百億光年余りの宇宙に、地球外知的生命がいないことはほぼ間違いないでしょう。
↓の人間原理のページから地球外文明論(『コンタクト』系)やシミュレーション論法(『マトリックス』系)や終末論法(『ドニー・ダーコ』系)の論文をコピーしてときどき授業で使ってますが、人類の存続期間やポストヒューマン文明の技術力についてはいろんな推測が。
 人類は、そう簡単には滅びないでしょう。たとえば、現存する核兵器が全部一度に爆発しても、恐竜が全滅したときの衝撃の一万分の一以下にすぎません。その大隕石衝突が起こっても、テクノロジーのおかげで相当数の人間がどこかで生き延びると考えられます。生物種は、文明にまで発展してしまうと、なかなか滅びるのは難しいでしょうね。
 あと確実なのは、現代の物理学者はすでに、銀河系を数十万年で横断する推進システムの原理についてはすでに知っているということです(実行はまだ不可能だが)。植民するのはフォン・ノイマン型増殖ロボットで、それらが運んだ人工知能もしくはDNAが、現地でコミュニティメンバーを作り、次の惑星を目指すという形で拡がってゆきます。ポリネシア型の拡散ですね。
 有人飛行計画はアポロ計画も中止になってスペースシャトルへと後退したし、やはりロボットです。自意識を持つロボットが人類文明の記憶を銀河全体に、そして宇宙全体へ広げてゆくでしょう。
http://www.anthropic-principle.com/preprints.html

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訂正 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月21日(日)17時09分47秒

われらの銀河系の直径は約10万光年でした。

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またヨッパライでーす。 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月21日(日)12時54分04秒

φ先生またおじゃまします。
先生の「ワガ信条」にはいろいろ刺激的な言葉があって面白いです。

地球外文明は存在しない。
超銀河文明はやがて存在する。

この二つが一緒に書かれてましたが、一見矛盾するようにみえます。

矛盾しないためには、人類がいつか超銀河文明を作ることしかありませんが、
最短でも数十万光年という距離を人類が越えると、、信じて居られるわけですね?

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非ビット的意識 投稿者:φ  投稿日: 9月21日(日)05時10分03秒

 私は将棋は初段でやってました。最近全然やってませんが。
 意識の発生には、計算プログラム構造だけでなく微細な生物学的組織が必要、というのは大いにありうる話ですが、生物の細胞そのものが、機械で代用できないという保証はありませんよね。ナノテクノロジーは、原子を一個ずつ配列してミクロの文字を作れるまでに発達しているわけですから。あと百年でどこまで生物細胞をシミュレーションできるようになっているか、想像もできません。
 意識の計算主義と、人工知能の実現とは微妙にずれているところもあって、いやまあ、シリコンで脳細胞の組織を全部模倣したものを「機械」と呼べるかどうかは別の話ですが。計算プログラムのみを機械と呼ぶのか、人工的に(クローンのような生物学的手段を使わない非生物学的操作のみによって)作り出した非計算的なシステムも機械と呼んでよいのか。力学的な、非ビット的なマシンも機械であるならば、細胞組織まで人工物で代用するようなシミュレーション体も機械と呼んでいいと私は思います。そういう機械は、ウンコしたり恋愛したりもできるでしょう、きっと。(しなくても意識は持てると思いますが。恋愛できない知的・情緒的特殊者だっていることだし)

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追伸 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月20日(土)09時42分21秒

>たとえば囲碁で名人に勝つコンピュータ(百年以内に実現可能でしょう)がもし意識や感覚や感情を持っていないとしたら、驚くべきことだと私は思います。<

囲碁はチェスや将棋と異なるルール「コウ」というのがプログラム作成の上で非常に難しいという話を聞いたことがあります。チェスではすでにデープブルーがカスパロフに勝っていますが将棋は取った駒を使うのでチェスよりはるかに難しく羽生に勝てるプログラムはまだ当分出来ないようです。
ただゲームで人間に勝つことと意識が有ることとは次元が違いますね?
ちなみに私は将棋も二段で指すのですがゲームソフト「東大将棋5」は非常に強くてアマチュア三段~五段」くらいと思われ、よく負かされます。
しかしこのゲームCDに意識などはそのかけらも見られません。(^^

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私の信条は、、 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月20日(土)09時17分27秒

機械は意識を持つ事は不可能と信じてます。その理由として人間の意識はそれを表出させるもの(土台)が細胞とか肉体の器官、生理機能、食欲、性欲、自己保存本能、などなど、生物としての存在を前提としていると思われるからです。美味い物を食いたいとか美人を抱きたい、死にたくない、ウンコが出たい、あの野郎が不愉快だ、これらの感覚や感情は全て意識と密接に関連をもっておりある意味では意識そのものとも考えられます。
従ってセックスをしたりウンコをするようなコンピューターが出来ない限り意識を持たせる事は不可能と思います。仮に擬似的にそのような感覚を植え付けたとしても実際にウンコが出てくるわけではないので人間のそれとは似ても似つかない物ではないかと思います。
また、実際には美人に振られることもあり(T_T)そのような現実体験自体が意識形成に大きく影響を与えたりします。「美人は冷たいから嫌いだー!という自己矛盾など、」
そのような体験を機械に経験させる事が出来るでしょうか?
クサイ話で失礼しました。

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囲碁はイメージしてませんでしたが 投稿者:φ  投稿日: 9月19日(金)19時26分04秒

 勤務先に囲碁六段の全国女子学生チャンピオンがいた時があって、囲碁部の顧問としてよく試合について行ったものです。今は囲碁などやる学生はいなくなり廃部状態ですが。(ちなみに私は囲碁は5~6級といった程度)
 ところで、機械が意識を持ちうる理由は、人間という機械が現に意識を持っているからです。もちろん人間は、人間が作る機械に比べてはるかに複雑な機械ですが、進化によって生まれた物理体系であることに変わりありませんよね。ここから、いずれは人間が作る機械(つまりコンピュータ)も、意識を持つであろうと考えられます。
 この問題は、「心の計算理論」の中の「クオリア」問題ですね。たとえば囲碁で名人に勝つコンピュータ(百年以内に実現可能でしょう)がもし意識や感覚や感情を持っていないとしたら、驚くべきことだと私は思います。

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もうひとつ、、 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月19日(金)16時08分46秒

先生の阿呆理詰日記で次の記述を見つけました。
>逃げられれば負け。逃げさせれば勝ち。逃がせばドロー。
追われれば負け。追わせれば勝ち。追わせさせられれば無効。<
私は囲碁三段でネットで楽しんでますが、囲碁の戦いで石が競り合ったときの考え方はまさしくこの通りです。
孫子の兵法にも通ずることですね?

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「我が信条」のことで、、 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月19日(金)15時55分17秒

φ先生こんにちわ。いつぞやは有難うございました。ところで先生の「我が信条」を拝見して「機械が意識を持つことは可能である」と述べておられるのを見てびっくりしました。 信条ですから、信じている、ということだと思いますが、そう信じられる背景についてお聞かせ頂ければ嬉しいです。この問題は非常に多数の方が興味をもって論じられている事ですね?。

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「論理」は「数学」で覆せない 投稿者:φ  投稿日: 9月15日(月)20時26分07秒

> P(E|S)≒0 ですが、P(E|S-2)=1     …… α

 α が成り立つのは当然ですよね。最終的に、Eによって確証を得たS-2がSの信頼度に追いつかねばならないのだから。
 Eを参照する前の事前確率を比べると、当然、P(S)≫P(S-2)ですから    …… β
 P(S-2|E)/P(S|E)=P(E|S-2)/P(E|S)×P(S-2)/P(S)
 ゆえに、 α と β が相殺して、P(S-2|E)/P(S|E)=1 となります。
 「アキレスと亀」の反対で、事前確率のハンディがある限り、ベイズ計算をいくらやっても、S-2はSに追いつくのが関の山、追い越すことは決してできません。
 まあそれは、S-2がSを論理的に含意するのだから、常識的に言っても当然ですね。論理的常識を、数学計算で覆すことは出来ません。
 というわけで、Sには決して勝てないS-2が、Sを負かしたMに敵討ちを果たすことは絶対にありえないわけですね。

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なるほどー。 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月15日(月)17時30分55秒

この場合、仮説に定数を組み込むことは、論点の先取りになるのですね。
人間原理というのは、この点をも指摘できるということが、ちょっと驚きです。

うーん。ここで私が納得してしまうと面白くないんですよね。
掲示板を盛上げるためにも、何とかツッコミを入れさせていただきたいと思います。

>どんな証拠に基づいたとしても、仮説Sよりも仮説S-2の方が強く確証される
>(真である確率がより高くなる)ということは【絶対に起こらない】ことにご注意ください。

P(E|S)≒0 ですが、P(E|S-2)=1 だと思うのですが?
これって、揚足取りでしょうか?

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「MとS-2で差がない」は重大な錯覚 投稿者:φ  投稿日: 9月15日(月)06時19分37秒

 まず細かいことですが、仮説S-2が
 「この湖には23.2576±(百万分の1)インチの魚だけがいた」
 とあえて書かれてある意味が不明です。
 「この湖には23.2576インチの魚だけがいた」
 ならば趣旨がわかるんですけどね。
 ±(百万分の1)がついていると、多宇宙説の比喩になってしまうので、一宇宙仮説S対多宇宙仮説Mという論点が、多宇宙説対多宇宙説(なんでもありの多宇宙説対狭い範囲の多宇宙説)になってしまい、論争が有意義に成立しなくなります。
 (ちなみに、もともとの魚の例では、網にかかったのは厳密に23.2576インチの魚一匹だけという設定でした。「±(百万分の1)」が網の記述に出てくるのは、網が厳密に一実数のみを拾い出すことは現実にありえないからの幅設定に過ぎません。)

 でもまあ、面倒なので、多宇宙説対多宇宙説だろうが一宇宙説対多宇宙説だろうがどっちにも通用する回答を書いてしまいましょうかね。
 ★多宇宙S-2対多宇宙M
     仮説S「この湖にはある数±(百万分の1)インチの魚だけがいた」
     仮説S-2「この湖には23.2576±(百万分の1)インチの魚だけがいた」
     仮説M「この湖には多様な長さの魚がいた」
 ◆一宇宙S-2対多宇宙M
     仮説S「この湖には同じ長さの魚だけがいた」
     仮説S-2「この湖には23.2576インチの魚だけがいた」
     仮説M「この湖には多様な長さの魚がいた」
 さて、★の場合であれ◆の場合であれ、ハムスターさんに重大な錯覚があるようですから、まずその錯覚を解いておきましょう。どんな証拠に基づいたとしても、仮説Sよりも仮説S-2の方が強く確証される(真である確率がより高くなる)ということは【絶対に起こらない】ことにご注意ください。「仮説S-2が真なのに、仮説Sが偽」ということはありえないことを思えば、納得されるでしょう。
 SよりもMの方がEにより確証されていることを拙論では証明しているので(実際は◆の方だけやりましたが、★にも全く同じ議論が当てはまることをご確認ください。±(百万分の1)インチの幅増は無視できる確率増しかSにもたらしませんので)、今さらS-2の出番はありません。S-2は常に、Sの特殊バージョンであり、Sより確率が低い運命なのですから。

 人間原理は誤解の多い分野なので、念のため、補足説明しておきましょう。
仮説S-2が、Eを観察する以前に提唱されていたのであれば、Eによって、仮説S-2は確証されます(Eの値を当てたのはすごいことですからね!)。S-2は、そして当然Sも、むしろMより強く確証されたとすら言えるでしょう。
 Eを観察したあとで仮説S-2が提唱されたのであれば(ハムスターさんがしたように)、仮説S-2はEによって確証されません(Eの値が何であれ、それに合わせてEをアドホックに明示的に組み込んだ仮説を作っただけなので)。
 魚の例は、宇宙論の比喩なので、仮説S-2は後者と解するべきです。宇宙論の一宇宙説S-2は、明らかにEを観察したあとで提唱されざるをえないからです。なぜなら、E(現実の宇宙の諸定数の値)を決める根拠が何もわかっていないのが現状だから。基本定数の決まり方のメカに関しては現代科学は無知です。重力や光速や電荷を個別に調べてみるしか手がないのです。
 そもそも、宇宙論の一宇宙説(万物の究極理論といってもよいですが)は、E(ファインチューニングの事実)を予言しなければならないので、その内容にEをご都合主義的に特権的に組み込んでいてはなりません。必然的な定数から演繹せねばならないのです。  多宇宙説の方は、Eを特権的に扱っておらず、それでいてEの観測を説明することができます(観測者の存在によって)。

 ――なお、14日夜に名古屋から帰ってまいりまして、そこでの人間原理の研究会のプチ報告はいずれこのHPのどこかに書かせていただきます。(発表者は名古屋大の池内了先生。池内さんは、人間原理の曲解者の典型例で、そこを問い質そうと何度も質問したのですがねえ……)

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ちょっと疑問です。 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月14日(日)15時49分24秒

http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/guzen-u.htm
これは大変に面白い議論ですし論旨は明確です。
ただ、ちょっと疑問があります。

>「この湖には同じ長さの魚だけがいた」……仮説S
>「この湖には多様な長さの魚がいた」……仮説M
> 23.2576±(百万分の1)インチの魚だけ獲れる罠に魚がかかった……事象E

ここで、仮説S-2を、
「この湖には23.2576±(百万分の1)インチの魚だけがいた」……仮説S-2
としたらどうでしょうか?

EはS-2に比べMの信頼度を増加させる、とはいえませんよね。

>・・・ところが伊藤氏は、続けて次のように述べる。

> このような道具によって、ある長さの魚が釣れたという事実から、湖に多様な
>長さの魚が泳いでいるであろうと推測することは、この事実を証拠とした関連的
>検証ではなく、むしろ、「一般に湖には多様な長さの魚が泳いでいるものである」
>という、目の前の事実とは関係のない背景的知識によって成立したものであること
>になる。(p.169-70)

推測の強さは、MとS-2で差がないのに、Mを推測するとすれば、
「目の前の事実とは関係のない背景的知識によって成立したものであることになる」
といわれても間違いだとは言い切れないはずです。

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参照ばかりですみませんが 投稿者:φ  投稿日: 9月11日(木)02時11分03秒

輪廻転生の証明のあらすじは、『論理サバイバル』の問題108に書きました。
また、下のページにある拙論の、6,7節でも同じ路線で(ベイズ主義的路線で)証明しています。
参考文献に挙げた
Arnold Zuboff,"One Self: The Logic of Experience" Inquiry 33(1991)
もお薦めです(私とはやや考えが違いますが)。
 証明はありませんが、渡辺恒夫『輪廻転生を考える』も必読です。
 ただし、これらはみな、記憶の連続性は全く認めず、とくに私のバージョンでは誰と誰が同一人物なのかについても不可知であらざるをえない輪廻転生なので(つまり経験的でない論理的輪廻転生です)、オカルト家の方々には興味のない輪廻転生かと存じます。
 なお、虚構的対象に戻りますが、④の場合の存在確率は限りなくゼロではなく、厳密に1です。可能世界論の枠組みでは。これも、『虚構世界の存在論』第2章以降か、簡略には『可能世界の哲学』第6、21節などをご覧くださいと言うにとどめざるをえません。
 輪廻転生については、有望な反論があれば是非お寄せいただきたく、よろしくお願いします。
 (たとえば戸田山氏は↓に賛成だが6,7節でコケてるとの感想。反対根拠明示なし。)
http://russell-j.com/guzen-u.htm

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「輪廻転生は事実である」の証明 投稿者:ラルド  投稿日:9月10日(水)23時52分29秒

はじめまして。
 
既に他で触れられているかもしれませんが、このサイトの、
「ワガ信条(2002年5月現在)」の中で「輪廻転生は事実である。」
という信条が記載されています。
これは信条として文学的に表現されているように私が感じたので、
論理的な立場表明ではないようにも見えます。

それはともかく、もし仮に論理的に輪廻転生が事実だと証明する
としたらどのように輪廻転生を ”証明”するか、というのは
面白いパズルかな、と、感じました。

”証明”をお持ちの方はパズルとして、回答のアウトラインを
書いていただけると嬉しいです。

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ただの感想です。 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月10日(水)19時39分01秒

無視していただいても結構です。
が、レスいただけるとうれしいです。

>文法的にちょっと。

ご指摘はごもっとも至極だと思います。
あちらこちらの掲示板でバカばかりやってるものですから日本語が変なんです。

>・・・しかし④は,Nを「理論的要請から導入された」と読んでも,虚構的対象の
>場合も,ともに偽だと私は考えるのである.

③の場合は、虚構的対象が当該可能世界に存在する確率がゼロであり、
④の場合は、虚構的対象がどこかの可能世界に存在する確率がゼロ以上である。
ということだと思うわけです。
そして、④の場合の存在確率は限りなくゼロに近いと思われますので、近似値として
ゼロと考えるのは妥当だと思うわけです。

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/miurat/konran. 投稿者:φ  投稿日: 9月10日(水)15時50分35秒

  >虚構的対象の場合の偽というのは、③が真になるほど強くないからの偽にすぎないのではないか?
文法的にちょっと。「③が真になるほど強くないからの偽」の意味がわからないのですが。「強くない」の意味は? 「強くない」の主語は何? 確率とは何の確率? 
虚構的対象の存在or非存在には確率は関係ないと思いますが、虚構内での真or偽には確率が関係してくるかもしれません。

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ちょっと感想まで。 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月10日(水)09時58分16秒

http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/konran.htm
この着想にはびっくりしまくりました。

>Nを「理論的要請から導入された」または「反実仮想で導入された」と読んでみよう
>すると③は偽である.飯田氏の言うように「ヴァルカン」が指示に成功する可能世界
>はあるだろうから.いっぽう虚構の名の場合は,その指示対象が当の世界内に実在す
>ることは(おそらく)ありえない.

>・・・しかし④は,Nを「理論的要請から導入された」と読んでも,虚構的対象の場
>合も,ともに偽だと私は考えるのである.

それはそうだと思うのですが、
虚構的対象の場合の偽というのは、③が真になるほど強くないからの偽にすぎない
のではないか?と思います。
つまり確率的な問題なのではないかと。
ですから、超厳密に考えると真になるはずだと思います。

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ますますありがとうございました 投稿者:ネモ  投稿日: 9月 9日(火)16時22分27秒

自分のなかではたいへんクリアになってきました。分かるところと分からないところがはっきりしてきました。
おっしゃるとおり、xが不定の存在者なら、ラッセルが非存在をせっかく消去したのに、同じ問題が形を変えてゾンビのように復活してるだけのような気もします。
とはいえ、表記法の一部なら、xは空欄のようなもので、「xの中に何も入るものがない」と言ってることになり、これは文となるのかしらとも思ったりするのですが、とりあえず、疑問は我が身に封印して納得することに決めました。たくさん教えていただきありがとうございました。
みなさま、お騒がせしてすみませんでした。

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x 投稿者:φ  投稿日: 9月 9日(火)14時09分47秒

 記述理論に限らず、量化命題や命題関数のxというのは正確には何なのだということについては、定説がないと思います。ただ確かなのは、xは(自由変項であれ束縛変項であれ)何かを指してはいない(指示句ではない)ということでしょうね。たとえば∃xFxは、Fという性質が母集団のどれかにあてはまるということを全体として述べているだけで、単独のxがその母集団または母集団内の不定の何かを「指している」わけではないでしょう。変項としてのxは、純粋に文法的な装置(「かつ」「ならば」「ではない」のような)と見るべきで、何かに対応した指示句(または不完全な指示句?)と見なすべきではないと思います。論理学の論証体系をスムーズに実現するために数学との類比で試行錯誤で設定された表記法の単なる一部ですね。∃xFxでxが二度出てくるところなどある見方をすれば胡散臭いし、だから将来の論理学では、表記法が改められてこの同じ命題の表現からxが消える、などということもありえないことではないと思います。固有名や集合のような指示句だったら、将来も消えることはないと思いますけれど。

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認識の世界に限定される? 投稿者:ネモ  投稿日: 9月 9日(火)11時33分22秒

ありがとうございます。認識の世界で生まれ出た言葉や概念や考えなどは、論理学の中で自由に語りうると言い換えてもいいでしょうか。問題がありそうなときは記述語の方にまわして、非存在を消去すればよいということですね。
存在論的な問題はみんな可能世界の理論にもってくるから、虚構により導入された虚構的対象であっても、それが現実に存在する可能世界があったっていいじゃないか、とお考えだと理解しました。理論上そうでないと困ることになるかもしれません。ここまでいいでしょうか。
そうなると、記述理論でいう「あるものx」は、語りうる世界(存在論的に限定されている世界)の中の不定の存在者(語りうるという意味での)を指しているということになってもいいですか?何かまずいですか?存在の資格をめぐって、議論が無限後退していくのではないかという不安にかられるのですが。

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好きなときに消せれば 投稿者:φ  投稿日: 9月 9日(火)05時10分23秒

 「フロギストンはある」「エーテルはある」等が偽だという場合、それは燃焼の化学や時空の物理学についてある認識を述べていますから(熱素説のような一定の世界観を排除していますから)立派に命題です。非存在を表明する有意味な命題はたくさんあるでしょう。ただし厳密にいうと、「フロギストンはある」の否定、または「フロギストンはない」という命題は、フロギストンという架空のものを主語とする命題ではなく、燃焼の化学過程に関するいろんな命題を繋げたものになるでしょうね。「最大の素数はない」「ハムレットはいない」等々も同様です。最大の素数という無い物を主語とする命題ではなく、自然数の論理について述べた別の命題の短縮形ですね。
 なお、論理学は基本さえ守れば結構自由なので、「存在する」を述語として扱って、∃x~(xは存在する)という文も認めるようなマイノング主義的論理学もあります。参考までに、記号多くて申し訳ありませんが下のページをご覧ください(必要あれば反論しますと手紙をくれた飯田隆さんからは、まだ反論は出ていません。問題なしってことでしょう)。
 マイノング主義的論理学に対する最初にして最大の反論(そして現代論理学のパラダイムであり続けている)のが、ラッセルの記述理論ですね。記述理論は非存在を見事に消去しますが、短縮形としては非存在を主語とする言い回しも認めます。好きなときに消去できさえすれば(厳密な記号表記したときに消去できていれば)、非存在を名指す主語を日常言語では使ってもよいのです。
 なお、
>「太陽はある」のような命題が真か偽かについては論理学はどっちでもかまいませんよね。
は正確でしょうね、「正確」の厳しさの度合にもよるが。
だって、天文学者が、あす、太陽と呼ばれていた現象は世界中の人間の錯覚だったということを発見したとしても、論理学は微動だにしませんから。その発見によって、論理学の教科書を書き換える必要は全然ありません。「太陽はある」の真偽はどうでもOKてことですよ。
 なお念のため、「命題」と「推論」の区別はどの教科書にも最初の方に書いてありますからご確認いただければと思います。「推論」は、「論証」「証明」等と呼んでも同じで、前提となる命題(複数でも良い)から結論となる命題を導き出すプロセスを言います。前提も結論も偽なのに推論としては妥当、前提も結論も真なのに推論としては非妥当、ということはいくらでもあります。
 ……教科書に書いてあることをこんなとこに書いても仕方ないのだが。まあたまには。
http://russell-j.com/konran.htm

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問題を蒸し返してごめんなさい 投稿者:ネモ  投稿日: 9月 9日(火)00時06分10秒

「太陽はある」というように「~が(は)ある」という形式で命題を作ってだいじょうぶでしょうか?
論理学は命題の真偽を決定することには関わらないわけですから、あるものの存在を端的に問う「~がある」とか「~がない」という文が論理学で扱えるということになりますと、存在論の問題に踏み込んでしまい、ちょっとコワイことになりそうに思うのですが、どうでしょうか?その文が意味をもつとすれば、真偽に関わらざるをえないのではないでしょうか?
「太陽はある」は真でも偽でもよいとすれば、「太陽はある」という文が意味しているものは何だろう。真であれば、それはある存在を主張しますが、偽であれば、何の存在も主張しません。無いものについて語った「太陽はある」は、この回一度限りの使用の後、もはや意味のない文として捨てられるのではないでしょうか。もう誰もフロギストンについて語らないように。
記号論理学で、存在を変項の値にしたのもこういうことなのでしょうか?
どのようにお考えですか?
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議論なんて 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 8日(月)20時56分47秒

するつもりはありません。
ご指摘は、ごもっともだと思っています。

正確でないのに「正確に」と表現した、わたしが間違っています。

最後に一つだけご確認します。

>「太陽はある」のような命題が真か偽かについては論理学はどっちでもかまいませんよね。

この発言は正確でしょうか?

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阿呆理詰日記713の改悪バージョン 投稿者:学ぶもの  投稿日: 9月 8日(月)19時38分29秒

世のトラブルの源、半数ずつ。教科書を読めばすむところでなんでわざわざ議論しようとするの。
どうしてきちんと議論すべきところで教科書を持ち出すの。

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訂正 投稿者:φ  投稿日: 9月 8日(月)17時49分03秒

 お立ち寄りの方々が混乱するといけないので、訂正させてください。
 次の文はナンセンスです。

>「太陽はある」という命題は真であるが、推論としては偽である。

 第一に、「太陽はある」というのは推論ではありません。
 第二に、推論は真とか偽であることはなく、妥当か妥当でないかです。

 論理を語る場合、言葉遣いを正確にしないと、とんでもないことになります。
 私の論理学本がコンパクトすぎてわかりづらいという場合は、ぜひ戸田山さんの名著『論理学をつくる』をいちど通読してください。まず我慢しないとどこへも行けません。お願いします。

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要するに 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 8日(月)15時55分03秒

>「太陽はある」のような命題が真か偽かについては論理学はどっちでもかまいませんよね。

ではなく、正確にいえば、
「太陽はある」という命題は真であるが、推論としては偽である。
ということですよね。
そこを正しく説明しなければ、一般の人は混乱するのみならず誤解します。

論理学の形式と存在の問題についてですが、戸田山さんのおっしゃることが正しいなら、 ある論証が事実として成功しているかどうかは分らないが、妥当かどうかは分る、ということになります。

ある論証が妥当だという判断は、例えば、推論の一つ一つが妥当だということでしょうが、 その推論の一つが妥当だとの判断において、事実として妥当だという判断があるはずです。 でなければ、ただの信仰ですからね。
その「妥当」の積み重ねが「成功している」という判断であれば、結局は事実に基づいた判断だと思います。

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たとえば生物学は 投稿者:φ  投稿日: 9月 8日(月)04時10分33秒

 ヨッパライさんのご質問はもともと論理学に固有の事柄であって、一般的に何が真かということではありませんでしたからね。(そんなことわざわざ質問する人もいないし)  論理学では、論理的真(恒真)と単なる真を区別することにもご注目いただきたいと思います。どの学問でもたぶん区別するんでしょうね。生物学でもやはり、「地球の全ての生物活動はDNAによる」は生物学的真、「円谷英二は1901年に生まれた」は一般の真というふうに区別するのだろうか。するでしょうね。円谷情報が記録の誤りに基づいていて本当は1900年生まれだったと判明しても、生物学は全然揺らぎませんから。歴史学は揺らぐけど。
 円谷英二のような特殊な存在ではなく、「物理的実在」のようなごく一般的なものの存在になってくると、数学と論理学以外の全ての学問はそれに依存するので、なかなか不要だとは認めがたいかも。このことについては、(詳しくは)『論理学入門』p.81~94をご参照いただければ。
 なお、論理的真(恒真)は、必ず、妥当な論証に書き直すことができます。さすが戸田山さんははっきり言ってくれてますね(土曜日に名古屋で会います)。

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恥ずかしながら、わたしゃ 投稿者:学ぶもの  投稿日: 9月 8日(月)02時00分52秒

つい最近論理学の本をちゃんと読むまでは、
論理学の役割が、個別の命題の真偽を判断することではなく
論証の妥当性について研究することだとは知りませんでしたよ。

あと、

①論証が妥当である。
②論証が成功している(健全である)。(前提の命題がすべて真+論証が妥当)

の区別もはっきりしてませんでしたよ。

戸田山さんの表現をかりれば

”論理学が扱うのは、(中略)論証が妥当かどうか
ということに限られる。論証が(中略)成功しているかどうかを判断するには、
事実についての知識、たとえば映画界についての知識が
必要になり、これは論理学者の守備範囲を超えている。(中略)
もしそれが論理学の役割だったならば、論理学者は、すべての学問分野と
すべての情報に通じていなければならないことになる。だとしたら誰も
論理学者になれないだろう。”(『論理学をつくる』p11)

こういった点は論理学界内部では常識的な事柄なので、そうであるがゆえに、
あまり強調されず、一般には誤解されている面があるのかもしれません。

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論点がどこにあったのか 投稿者:とおりすがり  投稿日: 9月 8日(月)01時44分49秒
>この考え方は論理学で一般に通用する考え方ですよ。

 しかし、それは論理学内部での話ではありませんね。ここで問題になっていたのは論理学内部での話です。確かに論理学そのものは、端的に言うならば推論の正しさを扱う学問であり、物理的実在の問題には関与しません。ここで重要な点は、「論理学」と「論理学者」は異なるということだと思います。論理学者は論理学の外部の問題を論ずることができます。そこにおいては確かに、少なくとも現在のところは、一般的に言って、「太陽はある」は真なる命題でしょう。そのことは確かに、論理学とは無関係であるとまでは言えません。しかしならがら、必然的連関を持っているというわけではありませんね。つまり、「無関係」と「必然的連関を持っているわけではない」は違うというわけですが、φ氏は後者の意味で述べていたと思います。なぜならば、まさにその点が問題になっていたからです。そしてこの推測が正しいとすれば、φ氏は間違ったことは述べていません。間違っていたのは寧ろ、ハムスター氏の読解でしょう。如何でしょうか?

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ふーん。 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 7日(日)18時40分04秒

>「議論」のためには、共通の素養が前提となりますのでご了解のほどを。

そっか。
まあそんなふーに言うしかないでしょーね。
あなたは本名でこうやって堂々とやってる訳で、こっちは匿名で気楽な立場ですからね。

だからー、なおのことー、
間違いには気をつけたほうがいいですよー。
そして、間違っちゃったときの逃げかたもねー♪

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? 投稿者:φ  投稿日: 9月 7日(日)13時30分49秒

「太陽はない」という定義
 という表現を拝見して、心配になりました。
 「議論」のためには、共通の素養が前提となりますのでご了解のほどを。もちろん「質問」「感想」等はご自由ですよ!

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可能と選択 投稿者:ham_start  投稿日: 9月 7日(日)07時35分06秒

アリストテレスの論理学において「太陽はある」という命題は真であることはお分かりですか?

公理主義の論理学では、「太陽はない」という定義は可能です。
そして、この公理系が無矛盾であれば、一つの完成された公理系でしょう。
しかし、この公理系を認める論理学者は皆無でしょう。

可能と選択は違う事です。

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一般の論理学 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 7日(日)07時29分27秒

アリストテレスの論理学において「太陽はある」という命題は真であることはお分かりですか?

公理主義の論理学では、「太陽はない」という定義は可能です。
そして、この公理系が無矛盾であれば、一つの完成された公理系でしょう。
しかし、この公理系を認める論理学者は皆無でしょう。

可能と選択は違う事です。

----------------------------------------------------------------------------
バベルの図書館&アキレスと亀 投稿者:φ  投稿日: 9月 7日(日)04時57分32秒

 前にこの掲示板に、「数学学生」氏の書き込まれたコメント(6/1)と似たコメントを、駿台の数学の先生からいただいておりました(もう2ヶ月前になりますが)。そこで、最近もらった別口の質問への回答と合わせて、私の返信を↓にアップロードしておきました。
 かつて駿台生であった私としては、面識ない駿台の先生からいきなりコメントいただけるとは光栄ですよ。(私の頃は「駿台予備校」でしたが.)奥井潔先生も伊藤和夫先生も亡くなられたのだなあ……。
http://russell-j.com/ad030906.htm

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単に「一般に通用する考え」ですが 投稿者:φ  投稿日: 9月 6日(土)16時37分09秒

 物理的実在があるかどうか、太陽があるかどうか等(無数の可能世界のうちどれが現実世界であるか)については、物理学では自由ではありませんが、論理学では自由です。論理学は、どの可能世界にも共通する真偽関係の形式のみを扱います。だから各原子命題は真にも偽にも設定できます。そうでなければ、真理表を書くことができなくなるでしょう。もちろん、そのつど命題の真偽を仮に決めてゆくのは自由です。「太陽がある」を真と決めれば、「太陽か月がある」を偽とはできない等々、関係だけが決まります。
 真理表に書かれる各命題の真偽の組み合わせの分類のうち、どこに現実世界が属しているか(どの命題が真であるか)、論理学以外の学問や常識で決定されます。もちろん論理学は、そのつど、他の学問や常識の見解を追認し、尊重します。しかしたとえば偽なる命題が真と改訂されたとしたら(「木星の内部では石油が燃えている」が真であると発見されたとか)、物理学や生物学にとっては大問題でも、もともとその真偽にコミットしてない論理学にとっては何らダメージはないのです。くれぐれも誤解なきよう!

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>物理的実在 投稿者:ハムスター  投稿日: 9月 6日(土)12時16分19秒

ちょっと、ちょっと。
なんという事を言ってるんですか?

>「太陽はある」のような命題が真か偽かについては論理学はどっちでもかまいませんよね。
この命題は真ですよ。
この考え方は論理学で一般に通用する考え方ですよ。

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>物理的実在 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月 3日(水)08時24分04秒

ご指導有難う御座いました。数学でタマネギを扱わないように論理学では実在をあつかわない。また>命題そのものの真偽ではなく、命題の真偽の間の条件関係を規定するだけですから。<この事をお聞きして論理学の基本的性格について認識を新たにできました。
再度有難う御座いました。今後ともいろいろ教えて頂きたくよろしくお願いいたします。
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物理的実在 投稿者:φ  投稿日: 9月 3日(水)03時06分01秒

 論理学では物理的実在が有るとも無いとも言いませんけれどね。数学にとってタマネギが有っても無くてもどちらでもよいのと同じで。
 「太陽はある」のような命題が真か偽かについては論理学はどっちでもかまいませんよね。「太陽はある」が真ならば、「太陽はあるか、またはヘビはいる」が真である、というように、命題そのものの真偽ではなく、命題の真偽の間の条件関係を規定するだけですから。(トートロジーと矛盾命題は例外的に単独で、それぞれ真、偽と決定しますが)

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実在に関して 投稿者:ヨッパライ  投稿日: 9月 2日(火)13時31分48秒

はじめまして。ヤフーの掲示板でパンドラさんからφさんを紹介して頂きましたので、投稿させていただきます。わたしは論理学や哲学など学問世界には無縁の者ですがいろいろ考えることは好きです。ところで論理学の世界では物理的実在(人間、地球、太陽など)は認められていないのでしょうか?パンドラさんは「無い」と断定されていますが私は信じられません。かなり議論を戦わせたつもりですがようりょうを得ませんので教えを乞いたくお願いします。

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こういうコメントは嬉しいねェ 投稿者:φ  投稿日: 9月 1日(月)03時00分35秒

仰せのとおり、矛盾してますナ。
問029では「1たす1は2」が言語から独立した客観的事実であるかのようになっており、問001では言語による規約とされております。001の解答では、あくまで「真理」の説明になっているので、言語的規約という答自体は029に照らしても妥当ではあるわけですが、そうすると、029の言う「事実」として「1たす1は2」が成り立つのはなぜか、ということへ引き戻される。その問いには001は答えていないことになりますね。
 あくまで弁明すればこうなりますか。算術は言語的規約による必然的体系だから、1+1=2などがなぜ成り立つかという問いには、言語を離れた解答は存在しない(つまり「1+1=2」という「事実」は無い。これが規約主義)。規約は文明の最低条件だから、人間その他知的生物は算術を表現する言語を持たねばならない。つまり、【知的生物がいる〈ならば〉、「1たす1は2」等々に相当する表現を持たねばならない。】この【】内が、029の言う「事実」です。これを縮めて、「1たす1は2」という事実、と029では呼んだと。
 上の【】内は、言語の存在とは独立な客観的事実であることにご注目ください(言語が存在しなくても――「~ならば」の条件が満たされなくても――【】内は真でありうるから)。
 001の方では、この事実に基づいて、「1たす1は2」は、知的生物がいる〈ならば〉、という前提が満たされているので、言語的規約が発動し、「1たす1は2」は十進法なら真だが、二進法なら何も表わさない、と、そういった方向の説明をしています。  というわけで、029における「1たす1は2」という「事実」は、【】内のように読んでいただく、というあたりが最上の弁明でしょう。プラトン主義・論理主義的「1たす1は2」のイデア的事実を想定する必要はありません。
 実際は、離れた場所にある問題ゆえに書き方が正確でなかった、という反省に落ち着きます。
 まあ、029の方は単なる例として使われていることもあり【】の解釈で許してください。

 ところで日本モンスターの代表「GvsG」が企画されていると漏れ聞いたことがあったが、あれはさすがにナシになったのか? 両Gとも好きでない私ですら、GvsGと聞いて一瞬興奮したものだが。

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モンスター対決シリーズ 投稿者:学ぶもの 投稿日:8月31日(日)21時30分06秒

ハリウッドでは
「フレディーVSジェイソン」が上映されていて、
まもなく「エイリアンVSプレデター」が製作されるとか。

 ところで論理サバイバルの問題29”真理の人間尺度説”
に関して、問題の論旨からそれた個所についてアゲアシ的
つっこみを一つおもいつきました。

解説のことろで(p66)、

 「事実」は「真理」とは違って、成り立っている出来事すべてを指す概念である。
 人間がいなくても、「地球は回っている」「1たす1は2」「物質はある」等々 の事柄は事実であり、「地球は静止している」「1+1は5」等々は事実ではない。

と書いてありますが、
問題1の
”1たす1が2になるのはなぜか”、の答えとして
採用していた規約主義的解釈をここに持ち込むなら、

「1たす1は2」は人間の言葉によって決められた約束事であり、
人間が存在しなければ、人間の言語は存在せず、
人間の言語がなければ、人間の言語による取り決め事も存在せず
したがって、人間が存在しなければ「1たす1は2」という事実は存在しない
という主張も可能ではないかと。

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プチプチ予告 投稿者:φ  投稿日: 8月29日(金)02時55分27秒

 怪獣セクション(miurat4)のアップロードを近々始めようと思います。
 現在は1976年作のサンプル画像一枚のみ掲載ですが、1976~1980頃制作の寝技攻撃系クリーチャー主体に約35体をまず掲載予定。なお「ぷちぷち」という名の怪獣は含まれておりません。
 オリジナルセクションとは別に、既成モンスター・パニック映画ランキング・セクションも設けられたらと思います。現在の暫定的ランキングは以下のとおりでしょうか(順不同)。
 1『ジュラシック・パーク』(3シリーズ)2『ディープ・ブルー』3『バイオハザード』4『ザ・グリード』5『レリック』6『遊星からの物体X』7『GODZILLA』8『タイタンの戦い』9『大魔神』(3シリーズ)10『ジェイソンX』11『ミミック』(2シリーズ)12『さくや 妖怪伝』……あくまで暫定的です。ポイント要因の分類、ワーストランキングも考慮中。

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夏の日の終わり 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月28日(木)23時41分41秒

転寝して夢を見ました・・・。
上がわたしで、下が先生。

今日、先生の本が来ました。真新しいインクと紙の香り、読む前に嗅いでます・・・。

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742ノ「言語」→「論理」「文学」等々読替可 投稿者:φ 投稿日:8月27日(水)03時54分22秒

誤解の余地がたっぷりあって、だけどめったに誤解されえない言語が、上手な非論理。
誤解の余地なんかほとんどないのに、すぐ誤解されちゃう言語が、下手な論理。
てとこでしょうか。

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すみませーん 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月26日(火)07時32分39秒

>論理を下手に使うやつより、非論理を上手に使うやつの方が、論理的である。
これって、まえに
>主観的命題をこそ、客観的表記で自由自在操るところに論理学でブットぶ
醍醐味があるのだけれど……、
とも、いってくださったしー
わたし、ちょっとうぬぼれていいんでしょーかー?
わたしの場合は「無論は論外」でなくって「無論、論外!」かなー・・・。

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プチ予告 投稿者:φ  投稿日: 8月26日(火)04時09分05秒

非論理を下手に使って、二重否定で論理的になれれば世の中ラクなんですけどね。
――深読・誤解・曲解の余地が大きければ大きいほどますますアフォリズムか。
   ↑この系統で明日は一句いこうかなと。

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そのまま読んでもフカヨミしても 投稿者:ネモ  投稿日:8月25日(月)09時16分58秒

おいしいアフォリズムをありがとうございます。脱帽です!
「フカヨミ」例として「論理を下手に使うやつ」はネモ、「非論理を上手に使うやつ」はφさまと思ってみましたが、こっちが「そのまま読んでも」例だったか。

下手の論理好き 上手の手本

粗末なものですが、お一つお口汚しに。

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フカヨミ逆用―― 投稿者:φ  投稿日: 8月24日(日)16時53分48秒

せっかくフカヨミをいただいた以上、「無論が論外なのは無論である」とか、増殖装置を温めておきます。

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失礼しました 投稿者:ネモ  投稿日: 8月24日(日)14時30分44秒

深読みでした。「無論」と漢字だったので、「無に関する論」かと思ってしまいました。「勿論」とあわせたのかも知れないと考えるゆとりはありませんでした。目が点になっておりましたので。
ありがとございました。

アフォリズムはたいへんにつかれるものですね。ただし、とてもいいものですけれども。 1000までどうぞがんばってください。楽しみに読んでいます。

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737738739シリーズでしたが 投稿者:φ  投稿日: 8月24日(日)11時26分57秒

 あえて言えば存在論というより認識論……、文にせよ自然界にせよ複数の意味が読み取れるとき「無論こっちに決まってる」とする態度は、哲学的には「論外」だ――ほどの意味でしょうか。
 そうだと決めてしまうのは論外ですが。
 英訳するとすれば、"Out of question" is out of the question above all. ――とか?
 論理的に突き詰めずムードだけで漂うテも、非形式的妄想文学アフォリズムには有りなのでホッとします。最短目標は1000。

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むろん論外などということはないのでは? 投稿者:ネモ  投稿日: 8月24日(日)09時54分09秒

たいへんむずかしいお話の後で、このような原理・原則論をお聞きして申し訳ありません。
「無論は論外」という意味をおききしてよろしいでしょうか?
存在論のお話ですか?虚無論を否定するということでしょうか?現代論理学の立場は有論だということでしょうか?パルメニデスについては語ってもよいがヘラクレイトスは語らないということでしょうか?無論によっては、論理学は生まれないということでしょうか?そうでしょうか?
アフォリズムはいいのもですね。ただし、たいへんにつかれます。

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鎮魂歌 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月22日(金)22時21分32秒

人には 返してはならない戸板がある

人には 返させてはならない戸板がある

げに 定め無き世の 定めかな・・・

http://www.ucatv.ne.jp/~ms1.sky/photo6.htm

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■≡~◆~ 投稿者:φ  投稿日: 8月22日(金)19時49分14秒

 現行の記号論理学で欲望や怨念の論理も非論理も十分展開可能ですものね。
 フレーゲの時代風の切羽詰った革命前夜というより、今は順当進軍の方に期待がかかる時代ですね、ただし認知科学と進化心理学では革命の予感濃厚らしいですが(クオリアの在処はいかに?)。それ以外のツールそのものの限界を突くにはやはり非形式的妄想文学でしょうか、今のところは。

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もうしわけありません 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月22日(金)07時13分45秒

>行きずりの学徒諸氏を混乱させかねない準私的記号表記よりは、人文エッセイ調
の怨念論の方が歓迎かな。
フレーゲやカントールだって彼らの思考をはじめて展開したときは準私的記号表記だった ではないですか、といってみたいですが、現実には宝くじを当てに借金の申し込みをするにひとしく、φさまの個人掲示板にかくもながながと、発言させていただいた非をおゆるしください・・・。いますこしお許しいただきたかったのですが、記号表現をお許しいただけない以上、わたくしの意味はないと感じます・・・。
他所にてアドバイスを受けましたが、φさまの書籍、所望させていただきます。
おつきあいいただき、ありがとうございました.

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主観的命題 投稿者:φ  投稿日: 8月22日(金)04時21分32秒

主観的命題をこそ、客観的表記で自由自在操るところに論理学でブットぶ醍醐味があるのだけれど……、
行きずりの学徒諸氏を混乱させかねない準私的記号表記よりは、人文エッセイ調の怨念論の方が歓迎かな。

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そうですね 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月21日(木)06時21分11秒

>「わたし」も「今」も「ここ」も、文脈によって指示対象の変わる指標詞ですから「わたし
>は、今ここにいる」がSという命題定項で表わされるはずないと思うんですけれど……
>(だってもしSが二度出てきたら、もう意味が変わっちゃってるはずでしょ?)
言い訳っぽいけど・・・
はじめにお断りしたように(VA∧PA)⊃VSはそのままでは、主観的命題であって
真理値も主観の任意だったのです。一般の分子式と解釈するにはこれは命題
的態度だから三つの関数には、「意識eの今の時間において」という断り文句がつく。
φさまだったらVSは「夏のとある日教室の中」とかで、パンドラの場合「混雑する
電車の中」とかeの状態による変化として、命題定項は吸収できないでしょうか?
φさまとわたしでも空間は異なるけれど時間は同じ・・・ですよね。確認はできないけ
れど、とりあえず、同じと見ている。
>「わたしは、今ここにいる」の論理構造を高級倶楽部表記でやってみましょうよ……。
うーむ、高級倶楽部クリプキでどうなるかなと考えてみましたが・・・
こうなりますよねって、うまくいえません。
命題の外延は異なるが内包は同じってなことでは如何?

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「わたしは、今ここにいる」 投稿者:φ  投稿日: 8月19日(火)02時30分00秒

「わたし」も「今」も「ここ」も、文脈によって指示対象の変わる指標詞ですから、「わたしは、今ここにいる」がSという命題定項で表わされるはずないと思うんですけれど……(だってもしSが二度出てきたら、もう意味が変わっちゃってるはずでしょ?)
 てわけで、「わたしは、今ここにいる」をあっさりタイプ表現Sで表現できるくらいなら何十年越しの指示理論家/様相論理学者の努力は必要なかったことになりますが……、
 ……とわざとキツめに申したところでハテ、「わたしは、今ここにいる」の論理構造を高級倶楽部表記でやってみましょうよ……。それをしないでSのままで通すとなると、恐ろしく大味なモデルしか期待できない予感が……、
 論理哲学者ってのは大味に満足できん過敏な舌に生まれついた悲劇(怨念)に囚われていますので――

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げ! 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月18日(月)23時02分16秒

VAは(Valiue of A)で、A「約束を守る」だったら「約束を守ってもらいたい」
とか「約束を守るべき」を表すって意味だったんですけど・・・。
それって選言の意味じゃないですかー、意味がめちゃくちゃになりそうだ。
>Sは当然命題でなければならず、
そーなんです、命題を判定するところの自我の確認、「わたしは、今ここにいる」
で問題ありますか?
VSは当然、「わたしは今ここに居たくない」とか「居るべきでない」といった訳
になりますけれど・・・。つまり、今のわたしは良いとか悪いとかの判定。
>(独自な遊びをするにも信頼できる道具の方が楽しく遊べますよ~~~~)
う~む、なんだか趣味でもないゲイバーにむりやりひきづってる様な気分になって
きましたー。
>様相論理学をマンマで踏襲してやっていただければなあ……。
やはり高級クラブ・クリプキをお望みなんですねー。

>いつかかっこよく壮大に飛躍する野望はかなえられそうにない、と悟る時期
>がくる。そこで少なからぬ哲学者が〈逃げ〉に走る。
別にかっこいいとか考えてないですけど、こわれるものなら、さっさと壊してしまえば
さっぱりこんとおもったわけで、φさまにてつだってもらっても大して時間もかからん
でしょう、との思惑・・・。
・A  約束を守る

・VA 約束を守ってほしい  約束を守るべき
・PA (過去)約束を守った 
    (現在)約束を守る     
    (未来)約束を守るはずだ  約束を守るかもしれない
・VS わたしは満足だ(よい)

(約束を守ってほしい)&(約束を守った)  ならば (わたしは満足だ)
そんなに複雑なおもちゃでもないですよねー。多世界のほうがよっぽど複雑ですよ(--;)

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あ、∧の方を変えるんですか  投稿者:φ  投稿日: 8月18日(月)07時19分49秒

むしろ∨てやつを通例どおり「または」にとっときましょうよ。だから「かつ」は∧で。
∨A等々の∨を変えましょう。
Sは当然命題でなければならず、しかも単純命題ではなさそうだからその論理構造が明示されねば伝わりませんね。
すでに出来ている様相論理学をマンマで踏襲してやっていただければなあ……。
↓に書いたように、分析哲学者の中にも「なんとか独自なことを言わねば」的強迫観念のあまり言葉遊びに陥っちゃっている人々がいて……。
自信をもって、能率よく正攻法で行きましょう!(独自な遊びをするにも信頼できる道具の方が楽しく遊べますよ~~~~)
http://russell-j.com/todayama.htm

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さんざん 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月18日(月)00時35分00秒

考えてみましたけど Aが命題である以上 Sも命題ですね。
Aが知覚されるということはS、それを知覚する主体がまず存在する必要である。
Aが真偽判定されるためにSが真であることは必要条件である。
S、すなわち「わたしはいま、ここにいる」が前提となる。
てなところかな、つっこみをどうぞ!

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すみません 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月17日(日)20時12分42秒

>怨念はいつ出てくるのだろう(どう構成されるのだろう)?
どうも、VSを認知していただけないと、『怨念』も砂上の楼閣になりそうです。
>別の記号にしましょうよ。
こちらは了解しました。(VA&PA)⊃VSてなことで・・・。
⊃も⇒あたりがよろしいでしょうか? 本来の条件法の真理表に従ってはいないですね。
意識の判断機能が事実と一般、可能と価値に対して行われ、過去および現在の事実
に対して、およびこれから時間の進行に伴い結果が出るであろう未来にAをあてはめれば
PA、Aに対する価値評価をVAと表記する点はよろしいでしょうか?

>Sとは一体なんなのか(厳密に)。
意外と難しいもの・・・と感じました。物理で言えば観察者、観察者によって運動の
対象の座標が確認されますね。同様にAに対して時間枠と価値の観点から判定が
なされますが、それを評価する観察者自身に対する価値判定が反作用として引き
起こされる・・・。
対象の存在を確認し判定する判定者・・・とか、意識する主体・・・
うーむ、うまくいえませんが「事実世界に存在することが確認されているわたし」
ではダメですか?

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VS 投稿者:φ  投稿日: 8月17日(日)17時10分32秒

VSがまだ不明ですね。Sとは一体なんなのか(厳密に)。
また、∨は連言∧とセットになった選言記号ですから別の記号にしましょうよ。
怨念はいつ出てくるのだろう(どう構成されるのだろう)?

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Aは「パンドラは約束を守る」です 投稿者:パンドラ  投稿日:8月17日(日)11時17分38秒

(a)パンドラがφさまから金子をお借りする、という事実があって
(b)所定の期日に、これをお返しする、という事実が続いて両者が真であれば
Aは真となります。

(5)のVAはこれを価値命題として設定したということです。
Vは価値判断(よい、わるい)ですが二つに区分しています。正確には三つ。
わたしは価値を当為、規範(~すべし、~がよい)だけでなく願望(~したい)
も含むものと考えます。両者の違いはVAが当為で設定されている場合、Aが
果たされないときは他者否定、φさまの意識においてpが価値的に否定される
のです。pに対して怒り、非難があたえられます。一方これがφさまの意識
において願望で設定されていたとすると、Aが実現しないときはφ様自身が
価値的に否定されます。

PはAを、φさまの「現在、過去、未来」へと配置することです。過去に
Aの否定の事実頻度が高かったとき、借金の申し込みがあったとしても、返済
が果たされない可能性が高いという判断、PAの否定がなされるでしょう。
逆にきちんと果たされていたとするとPAは肯定の傾向がでます。
しかしながら、これはあくまでφさまの意識において、ですから確率や古典
力学的絶対を意味するものではありません。

VSはVAとPAによって導出される意識の自己肯定度を意味します。
幸福感とか自信、満足が感じられればVS=1というところです。
不幸な感覚、絶望感、不満を感じるならVS=0です。
ことばにして「今のわたしはよい、ないし、わるい」・・・。
この感覚がVA、PAの導出関数と見るのは、不満状態にあるとき
思い返し、反省、あきらめ、許す・・・などの意識の動きがこの枠組みに
適合しているように見えるからです。
とりもなおさず、VS→1の機能、ポテンシャル。

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日野日出志懐かし 投稿者:φ  投稿日: 8月17日(日)05時28分00秒

(VA∧PA)⊃VS てちょっとわかりませんね、
(5)(6)(7)にそくしていうと、∨とAとPとSはそれぞれ日本語ではどう翻訳
されるんですか? (7)が不明の主因ですが。

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さらに・・・ 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月16日(土)21時56分33秒

それぞれ
       VA   PA   VS
(8)     1    1    1
(9)     1    0    0
(10)    0    1    0
(11)    0    0    1
(8)はφさまにおいて「パンドラは約束を守る」を信じているわけですので、自身の
肯定が成立しています。(9)は疑心暗鬼の状態で、自身が否定されています。
(10)は返すべきでない、といった状態ですから、返してくると困惑する状態です。
(11)は厄介者をくれてやって一安心というところでしょうか・・・。

ここでいえることは、意識は自己否定になった場合、自己肯定の方向にポテンシャルを
持つというものです。(9)の疑心暗鬼になった場合、「いや、あいつは信用できる」とか
現実世界に働きかけて、返済の約束を再確認するとか・・・(9)→(8)への移行を
模索します。ないし
「あれは、くれてやったものと思う」はVAの真理値削減(9)→(11)への移行
かと思われます。これらは一階の命題が主観的であるがゆえにあるレベルで真理値を
任意設定していると解釈します。
以上は意識を事実、可能、価値の各命題の判定者として、この結果、自己の価値的
肯定を志向する運動ユニットとして捉えようとするモデルです。
以上のモデルの下に以下の物語をたどって、『怨念の系譜』を解析する・・・など、
いかがでございましょうか?
http://www.m-goose.com/4/story/index.html
それ以前に、あまり価値を認めていただけないかもしれないですね・・・。
VA:「pの意識において『φさまがモデルpを認知してくれる』はよい」
PA:「pの意識において『φさまがモデルpを認知してくれない』かもしれない」
VS:「pの意識においてpの価値的存在のレベルは否定傾向である」・・・不安。

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引き続き 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月16日(土)21時55分57秒

義務論理では、クリプキモデルを元に、規範と許容を可能世界に集約する試みが盛ん
ですが、わたくしは、価値命題を、そのままでは真偽判定できないものと考えます。
「約束は守るべきだ」としても、その約束の内容が泥棒の約束だったりしたら、
それは正しいのか、とか普遍的真理になりうるのか、などは、よく論議されるようで
ございますね。挙句の果てに「人を殺しても良いのか?」に至っても致し方ないのですが、
わたくしは、こうした価値命題は、命題的態度の中で判定すべきものと考えます。
すなわち「約束は守るべきだ」は主観的なもので、そこに普遍的性格を与えることは、
できない。よって、意識aにおいて
(4)「aは『約束は守るべきだ』と思っている」を真偽判定の対象とするわけです。
さて,斯様な二階の命題を作って真偽判定したとて、それがいかなる意味を持つのだと
いうことになるかと思いますが、ひとつの意識の中で現実世界に対するかかわりは時間
の区分の中でおこなわれます。物理学で対象の運動に関わり、その変化を時間と空間
で捉えれば、例えば、時間座標を横軸に、空間を縦にしてその座標を追うことでしょう。
しかしながら、ここには「現在と過去、未来」という区分はありません。意識は事実世界
と関わるのに現在、過去、未来を分類して、そこに各命題を配置するものと思います。
(4)にかかわり具体的に「パンドラがφさまから100万円借りた」かつ「月末までに
返金すると約束した」が事実命題であったとします。
φさまが「すべての人は約束を守るべきだ」と考える限り
(5)「φさまは『パンドラは約束を守る(べきだ)』と思っている」が真となるわけです。
ところでここで、学ぶもの様がφさまに「あいつはあんまり信用できないんだよ」とか
耳打ちしたとします。そこで(6)「φさまは(未来)『パンドラは約束を守らない
(かもしれない)』と疑心暗鬼になります。ここでいえることは(5)と(6)が連言
として設定された場合、意識は主観的時間の中の現在において各判断を行っています
ので、(7)現在の自己の存在の価値に対して肯定否定判断を導出する、がいえると
思います。
ちょっと無理強いをしていますが、これは自分自身の今の状態に対する直接感覚です。
ここでようやく、お約束が果たせるのかもしれませんが、(5)は規範の価値命題の
命題的態度ですので、A:パンドラは約束を守る、に対してVAと記述します。
(6)は意識の時間枠に対しての判断ですのでPAと記述したいと思います。
時間枠は現在と過去もあって、単に可能命題に限らないのですが、どうも可能命題を
設定して考えることが多かったものですから、あえてP(Possibility)としました。
および、自己の存在価値に対してVS(Value of Self)を設定します。
(5) 規範・希望・などの価値命題の命題的態度。
(6) 意識の時間枠に対する事実や可能命題の命題的態度。
(7) 意識を命題に対する判定者として、自己の存在への価値判定の命題的態度。
ここに (VA∧PA)⊃VS を定義します。
各命題の真理値は一階が主観的なものであるのでファイジィ関数であると思われます。

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お晩でございます・・・ 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月16日(土)21時53分39秒

昨夜はお邪魔しようと何度か試みたのですが・・・
なぜか思うようにことばが編み出せず、たぶん結界の強さに押し戻されてしまった
のだとおもいますが、お断りもせず、失礼いたしました・・・。

φさまは記号化を仰せでございますので、この条件に従えなければ退散せざるを
得ないことは覚悟いたしました。
まず、記号化とは命題を関数として扱うことにほかならず、命題の真偽判定を
いかなる構造の元におこなうかを明らかにすることかと・・・、前提としては斯様な
ものが、必要かと思います。われわれの使う言葉には肯定と否定の対象となる三区分
の言葉があると思います・・・がまず・・・
(1)「人は動物である」や「わたしは今朝6時に起きた」の類の一般的命題や事実命題
に対する真偽判定。  つぎに
(2)「あすは晴れるはずだ」とか「この方程式に解はないかもしれない」の判断、
これは信じるか否かなので、可能命題に対する信疑判定であるとおもいます。
  最後に
(3)「約束は守るべきだ」や「水が飲みたい」、「早起きは良い」などの価値命題に
対する判定、希望願望の命題を含めると善悪でなく、良し悪し判定と呼んだほうが
よろしいかもしれません。この辺はφさまと認識が同じかどうかわかりませんが、
とりあえず列記いたしました。以上の三区分の言葉を命題として捉えれば信疑も善悪も、
とりあえず真偽に集約させるべきものと考えます。

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怨念記号論理か否か 投稿者:φ  投稿日: 8月15日(金)03時33分38秒

記号化されない人生論になりがちだとチトきつそうですな……、
たとえば、心や価値規範を扱う定番の様相論理の形をひっぱって、
怨念演算子を ■ とし……、
 ■P は 「Pが真であることを呪う(恨む)」
(呪う・恨むと怨念はちと違う? 『呪怨』てちっとも怖くない映画があったけど……)
 とすると、
 ~■~P ≡ ◆P
 と定義される演算子 ◆ は、日常言語では(二字熟語で)何にあたるか――

 ……あたりの考察から情念談に入っていただければ大喜びですけれども。
   それ以外でも余程であれば。

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お晩でございます・・・ 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月15日(金)00時00分46秒

死霊の徘徊する夜もすがら、時節も適当かと考えまして
>「その論理構成を展開」、いいですねえ。
おことばにあまえて幾許のお時間、お相手いただければ幸いです・・・。

『怨念』は考えてみれば不思議なものです。意識は相手の気持ちを直接
感じるわけでなく、表情や状況判断で相手の意識が苦しむことを知覚して
欲求が満足されてしまいます。といいますと、φさまはそれを欲求とすること
に不満を言われるかもしれませんが・・・。
わたくしはこの情念が食欲や性欲と基本的には変わりがないものと感じて
おります。といってしまうと、後者は生理的なものであり脳内の欲求を促す
部位と化学物質の変化によるものではないかと考えるのが今の一般の解釈では
との見方もありますが、これを欲求として捉え、なおかつ「~したい」という
希望願望の命題、すなわち、価値命題として扱うことをお許しください。
理由を申しますと、相手が苦しむさまの状況知覚と言っても、相手の心を
直接知ることはできるはずもなく、自分と同じく、斯様な状況では斯様な
情念と外部症状を持つという一種の同一視の認識に基づくのが、この情念で
あろうかと考えるからです。性欲や食欲は生理的解釈がまだまだ幅を利かせ
るのかも知れませんし、アルコールや薬物もそうでしょう。
『怨念』に近づくのはそうですね、φさまはご経験があるかどうかわかりませ
んがギャンブルの欲求などはいかがでせうか?ここにはなんら物質的な触媒は
なく、認識が情念を起こしたとはいえないでせうか?
でも、議論としては甘いといわれてしまいそうですね。このへんはちょっとお許
しいただくとして、わたくしは「~すべきだ」の当為や「~したい」の希望を、
「~するのはよい」も含めて価値命題という範疇で捉えたいと考えます。
以上をお許しいただければ続けてみたいと存じますがいかがでせうか?

ふと気づけば先客がいらしたような・・・。

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ご丁寧にありがとうございました 投稿者:実在する講師  投稿日: 8月11日(月)18時36分27秒

φ様の誤解がとけまして、何よりです。

また、「伝統論理学」を教えることの考えられる弊害を危惧してくださり、その内容については私も共感することが多々あり、感謝しております。ただ、今のところ、伝統論理学の概説の後に現代論理学をやることによって、むしろ圧倒的多数の受講生がこの両者の対比に興味をもち、それと同時に、双方を正しく評価しているということも現実です。勿論、φ様のご指摘の通り、この方法が最上のものであると私が思っているのではないということはご理解頂けたのではないかと思います。

その一方、現実には、教鞭をとるということは、その教育機関における、あるいはその学科内におけるこれまでにとられてきた方針などがあり、一教員がそれに突如として逆らうことはできないという事情もあります。私よりも前から勤めてこられた方々に対して、いきなり「その内容を改めよ」とは言うわけにはいきません。場合によっては名誉毀損ということにもなりかねません。また、よくありがちなように、いわゆる「科哲嫌い」の人たちというのがいるもので、そのような人たちの機嫌をそこねることも科目全体としてはマイナスになるでしょう。加えて、現代論理学の授業に出てきた学生が、伝統論理学をやりたかったという苦情にも近い不平不満を訴えてきたケースも結構あります。学生にはそれを要求する権利はあるでしょうし、教員はそれに答えていく義務があるでしょう。そんな中で、私個人の努力としては、なるべく科哲専門の方々に来て頂きけるような雰囲気づくりをするということが精一杯であると感じております。

いずれにせよ、科目内容を改善していくというのは個人のみによって可能なわけでもなく、また、そうであるが故に時間のかかることです。あるいはその個人の努力が結局は徒労に終わるかもしれませんが、それでも変ることを信じて日々の義務を果たしていく以外ありません。

さて、φ様もお忙しい身、これ以上私のような立場の者のつまらない言い訳がましい駄弁にお付き合いさせるのも気の毒です。この辺でおいとまさせて頂きます。最後に、重ねて感謝申し上げます。ありがとうございました。

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そうでしたか(2) 投稿者:φ  投稿日: 8月11日(月)06時47分54秒

ですから、「連立方程式を習った中学生に『小学校でやった鶴亀算や旅人算を批判しなさい』て要求するのがいかにムイミか」の譬えはちょっと不正確でした。中学生にとって鶴亀算はなじみがあるが、大学生にとって伝統論理学はなじみが無いので。つまり現代論理学と同じスタートラインにある。だからこそ、わざわざ目新しくて混乱のもととなりかねない伝統論理学などではなく、すでに大学生に馴染みのある国語文法との対比で現代論理学を持ち込んでこそ、鶴亀算から連立方程式に移行する教育的効果と同等のものが得られるかもしれない、ということになりますね――。

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そうでしたか 投稿者:φ  投稿日: 8月11日(月)06時29分04秒

 それは失礼しました。私はまた、まさにその「伝統論理学が論理の基礎にあり」と説く教師が出した「選択肢としての現代論理学を選ぶ〈としたら〉それは伝統論理学のどのような問題点ゆえか考えよ」といったたぐいの課題かなというイメージを抱きまして。
 ただ、どうなのでしょうか、教育的効果を狙うにしても、小学生にいきなり未知数を理解させがたい(しかし本当にそうか?)というのに対応した事情は、大学生には無いと思うのです。つまり、伝統論理学よりは現代論理学の方が体系的包括的なぶん普通の大学生の頭にはすんなり理解できるはずなので、歴史的関心を抱く前に伝統論理学そのものに拒否反応を示してしまうのでは、と危惧します。伝統論理学よりむしろ日常言語の文法との対比で現代論理学の文法を教えた方が、教育的効果があるような気がするのですが……(論理記号ははじめのうちは使わずとも解説可能ですし……)。
 伝統論理学を真に受けている学者がいるのは確かで(私の学部時代の恩師も、「最近の論理学は数学みたいになってしまって困ったものだ、人文科学のデリケートな研究をやる以上は日常言語に密着したアリストテレス論理学を守らねばならん」といった意味のことを真面目に発言していました)、そういう書物が刊行されつづけている現状であれば尚更、伝統論理学は天動説やフロギストン説と同じように「無視せよ」と学生には強調するくらいがよいのではないでしょうか。(教育的な踏み台であるにしても、学生が「批判」できるようになるほどに講義で丁寧に教えてしまうと、逆に学生は誤解して、未だに批判を要するほど大切なもの、もしくは議論の渦中にあるものだと思い込んでしまいがちなので……)天動説は、単に「地球は不動であるという説」くらいに紹介しておき、周転円の設定の仕方とか、天動説による日蝕や火星大接近の予測テクニックまで教えてはいけないと私は感じています(むろんそこまで教えれば、天動説を正しく「批判」できるようにはなるでしょうけれど……)。もちろん専門的な「論理学史」や「科学史」の授業であれば別です(ただし正統学説の基礎が出来ている大学院レベルにおいてでしょうね)。

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どうもありがとうございました(2) 投稿者:実在する講師  投稿日:8月10日(日)15時46分02秒

それと共に、文科系大学の場合(勿論、一概には言えないでしょうが)、最初から数学に対して拒否反応を示す学生が圧倒的に多く、実際、今年から現代論理学を担当なさることになった他の講師の方々は、学期の途中からこのままではどうしようもないと弱音を吐いておられました。まともに論理計算問題を出して評価をつけようとすると、約9割は落とさなければならなくなるとのことでした。論理学は必修科目ではなく、単位を埋め合わせるための選択科目のうちの一つですから、その都合でとればよいという程度のもので、履修者数が減れば、そのコマは必要がないという理屈に確実にまかれることになるでしょう。

私は私なりに教育現場に要求されるであろう上記の諸条件をいずれも満たすべく試行錯誤をしているつもりですが、能力がないと言われるならば、それはある観点からの客観的評価でしょうから、だまって受け止める以外ありません。日常的に概念に対する反省もなく、抽象的議論とも無縁であり、ただ好き嫌いの感想しか吐露できない多くの学生に対して、単に「勉強が足りない」とはき捨てることも可能ですが、それをどのように引き上げるのかということも、ときとして教育者には必要なのではと思っております。今の高校教育では、英文法すら教えないようになっているようです。そのような状況で、言語に対する反省の機会などもちようもないのではないでしょうか。

私ができることは、言語に対して徹底的な反省的態度をとろうとしてきた伝統論理学が、アリストテレスのオントロジーといういわば特殊な思想の上にどのように築きあげられ、また、それが現代の高度な道具によってどのように乗り越えられたのかということを見せることによって、「論理学」そのものに拒絶反応をもつ学生に歴史的関心をもたせるということが関の山です。従って、伝統論理学を概説した後、現代論理学の概説をするという順序をとっております。(ですから、「批判」というのは、伝統論理学がどの点で有益であったのかということと、どのように無益であるのかということの双方を評価せよという意味で使ったわけで、そのことも講義中に説明済みでした。)

わが国の初等教育において欠如しているのは「論理学」ではないでしょうか。教育者の側が、ただ闇雲に文学作品を読ませ、「国語を学べば論理については事足りる」という程度の論理に対する理解しかない中で、どうして「論理学」が教えられるというのでしょうか。かりにφ様の教えておられる多くの学生が、実際に十分についてくるというのであれば、それはむしろ恵まれた教育環境なのではないでしょうか。φ様のように多くの著作をものし、世間に名を知られた方であれば、なおのこと日本の論理教育を立て直して頂きたいと思います。そのためには、最低でも、φ様の住まわれる町内会の全ての方々が述語論理を完全に理解できるような著作をお書きになるしかないでしょうけれど。(これはφ様に対する嫌味ではなく、この馬鹿げた文意が真と思えるほどに危機感を覚えているということです。)

最後に、φ様やパンドラ様の私に対する批判は、ごもっともで、逆に、当の私自身が、誰かがそのような書き込みをしているのを目にした場合に漏らす感想でもあります。私も、同業者に対する誹謗中傷だなどと思い込むほど反省のできない人間ではないと自分では思っております。どうかその点はお気になさらないでください。

願わくば、当の学生が、φ様やパンドラ様がご教示下さった内容を理解し、その上に立って自ら思考し、自らの解答をうることができたということを祈るのみです。誠にありがとうございました。

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どうもありがとうございました(1) 投稿者:実在する講師  投稿日:8月10日(日)15時43分44秒

たまたま検索してましたら、私の大学の学生のものと思われる書き込みと、それに対するφ様、パンドラ様の懇切丁寧な回答があり、恐縮しております。ハンドルを使っておきながら、「私がその信じ難い講師です」と名乗っても説得力がありませんが、どうか本人だと思って読んで頂ければ幸いです。

>私だったらそのレポートに、そうだな、「連立方程式を習った中学生に『小学校でやった鶴亀算や旅人算を批判しなさい』て要求するのがいかにムイミか」を書くかな……。
現状からいえば、このような比喩で論じてくれれば優等生の類といえるでしょう。しかし、その比喩を使わせて頂ければ、連立方程式を習い始める小学校で鶴亀算や旅人算をやってきた中学生に鶴亀算や旅人算の限界を教えることは、教育的手段としては、必ずしも無意味ではないのではないかと思っております。

実際には、連立方程式をしらずに鶴亀算や旅人算のみで通すのと同じようにして、現代論理学をはなから無視し、伝統論理学の完全無欠性を信じて疑わない研究者というのも多いのですから。私は以前にある掲示板でそのような主張を目撃し、現代論理学の成果を用いずに、その相手を説得しなければならない羽目に陥ったことがあります。それは一度に限りませんでした。この傾向は、法学関係者に多いようです。しかし、哲学(特に19世紀までの)関係者にもその傾向はあり、検索エンジンで「三段論法」でひっかかるページを読んでいくと、そのことが理解されると思います。また、伝統論理学の教科書にも、伝統論理学が論理の基礎にあり、ここから現代論理学が誕生したのだから、現代論理学は伝統論理学の応用だとまで謳っているものがあるばかりか、学生の中にも、何かの授業で三段論法を習って、伝統論理学は完全無欠であると考えている者があるほどです。

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いやぁ、苦労いたしました 投稿者:φ  投稿日: 8月 9日(土)02時41分56秒

7日に障害復旧の連絡をJ-COM からもらったはいいが、いぜんとしてページ表示できず。「WebSpaceページが表示されない場合は、ブラウザに保存されている”インターネット一時ファイル”を削除して」くださいつうんだけどわかるかそんなもん(やり方書いてないし)! と怒るのはさすがにひと昔前の私。今はちょびっと電子網心もできていて無能なりに謙虚に「インターネット一時ファイル」を検索エンジンにかけてみる。あるある、例えば↓の指示に従ってめでたく自分のホームページ閲覧権を回復しましたとさ。
http://i-front.sekisui.co.jp/kanzai/html/help.html

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ウーム…… 投稿者:φ  投稿日: 8月 6日(水)02時51分43秒

私自身、ホームに行けません。「緊急メンテナンス」とやらが出てしまって。
電子網というのは難しいな……。

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真夏のショッキングホラー 投稿者:学ぶもの  投稿日:8月 5日(火)23時12分51秒

     消える日記。

つぎに消されるのはあなたの日記かもしれない。。

#なんかホームページが落ちてるみたいで、繋がらないよう。

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どうしたことだろうか? 投稿者:φ  投稿日: 8月 2日(土)04時02分39秒

 どうしたことだろうか。「アフォリズム日記」↓が2日分消えてしまい、カウンタも減少している。逆戻りだ。そこの掲示板も2日分書き込みが消えているではないか。
 どうなっているんだあの日記は。それとも私のモニターだけの現象だろうか?
 以前も不具合が生じて一瞬慌てたことがあったが、はて今回は……?
 ★日記はまとめて3日分(阿呆理詰日記715,716,717)書き込んでおきましたけれども。
http://www.at-diary.com/diary/diary.php?userid=tosi

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怨念論理学? 投稿者:φ  投稿日: 8月 1日(金)03時59分24秒

「義務論理学」「選好論理学」「欲望論理学」……なんでもかんでも欧米じゃ真面目な人々がやってたりしますから、怨念もありではないでしょうか。ただし、怨念を心理的動機として作られた論理学というだけではインパクトに欠けますので、怨念を論理的対象として構築した斬新な論理学を期待したいと思います。「その論理構成を展開」、いいですねえ。
 ひとつお返ししておきますと、
(3)「21世紀の今、ヒキガエルを見ることはできない」
(4)「21世紀の今、わたしはヒキガエルをみた」
(3)(4)が矛盾する、ゆえに(2)は偽である、と考えてしまいます。(3)(4)はヒキガエルの定義ではないのでしょうか?
 はチト意味不明で、脇道に入りすぎるようで不吉です。(3)(4)がヒキガエルの定義だということはありえませんよね。
 あと、「時空」もチト理解困難なのですが、時空を特別視した論理学があるかどうかわかりませんが、「時制論理学」にとどまらぬ「時空論理学」の開発も望まれますね。

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前回の 投稿者:パンドラ  投稿日: 7月31日(木)23時43分43秒

>なぜなら、「どこからBを持ってきたのか? Bなんて存在するのか?
の、ご発言よりそろそろ公理の違いに行きつつあるのかと感じ始めていますが
いますこしお相手いただければ幸いです。
>「人間は真である」「動物は偽である」は命題です。
は当然だったですね。ふつう、これを命題でないといってしまったら、クレタ人のウソの類
 (1)「この文は偽である」 が命題ではなくなってしまいますね。
でもわたくしは、真偽概念は一階の命題では使用不可を、わたしの公理に取り込んでしまいます。
つまり(1)は「『人間は魚である』は偽である」の略である、として
「この文」が (1)全体にかかるとの解釈は拒絶してしまいます。
自己言及とその否定によるパラドックスはどうも真偽概念を一階の命題に使用する
このことが原因ではないかと思ってます。
>たとえば、「ヒキガエルは20世紀に絶滅した」は、ヒキガエルの定義とは矛盾して
>いませんが偽なる命題ですし。
(2)「ヒキガエルは20世紀に絶滅した」ならば(3)「21世紀の今、ヒキガエルを見ることはできない」
(4)「21世紀の今、わたしはヒキガエルをみた」
(3)(4)が矛盾する、ゆえに(2)は偽である、と考えてしまいます。
(3)(4)はヒキガエルの定義ではないのでしょうか?
>「私のただ一人の兄」は矛盾した概念ではありませんが存在しませんし。
この場合の存在しないは「時空」概念において交差しないと考えてしまいます。
>∃x「xにAがある」は論議領域がまったく任意であるがゆえに、真なのです。
>たとえば、「私に見えるものがある」(∃x「xが私に見える」)は
>xの論議領域を定めなければ自動的に真でしょう。
うーむ、そうですか?よくわかりません。xは任意に取り得ますよね。蜃気楼の場合などどうでしょう。
(5)「遠くに家が見える」は(6)「近くに行けば家の中に入ることができる」が(7)「時空に家がある」
の定義に含まれるがゆえに、蜃気楼は(6)が否定されるゆえに(7)も否定されるというような・・・。

でもせっかくお相手いただいて
>私が、論議領域の明記を完全に求めるのは無理な注文、といったのはその意味です。
を、お受けしないわけにも行きませんので従いたいと存じます。φさまの基本公理を整理して見るつもりです。
ここ数日φさまを独占してしまいました。他のお客様にもお詫びいたします。

ところでわたくしが論理学に入った動機は「怨念」が最初です。
φさまがもしこの手に関心をお持ちでしたら盆近くにでもまたお邪魔させていただけますか?
ストーリーはわたくしが「憎悪、恐怖、絶望」について、その論理構成を展開したものをφさまが封印するとか・・・。
ゲテモノは趣味に合わないようでしたら退散いたします。

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(2)(3)(4)(6)だと思います 投稿者:φ  投稿日: 7月31日(木)14時24分50秒

(2)第1文、第3文は正しく、第2文が誤り。
「人間は真である」「動物は偽である」は命題です。偽なる命題です。
「人間」は真でもなければ偽でもない、ということと、「人間は真である」「人間は偽である」はそれゆえ偽なる命題であるということとは、区別しなければなりません。
(3)定義というのは分析的真理にのみ関わるので……。たとえば、「ヒキガエルは20世紀に絶滅した」は、ヒキガエルの定義とは矛盾していませんが偽なる命題ですし。また、「ふたつの名辞」とは限らず、n項命題関数からできる命題の場合はn+1個の名辞から成ることになりますね。
(4)「私のただ一人の兄」は矛盾した概念ではありませんが存在しませんし。
(5)(6)はよくわかりませんが、(6)は違うみたいです。「√2がある」という命題は、特定の論議領域がなくても真です。「ある論議領域において、√2はある」が真なので。
 ∃x「xにAがある」は論議領域がまったく任意である為真偽不定となってしまうのではないでしょうか? とご心配は無用で、∃x「xにAがある」は論議領域がまったく任意であるがゆえに、真なのです。たとえば、「私に見えるものがある」(∃x「xが私に見える」)はxの論議領域を定めなければ自動的に真でしょう。論議領域を「霊魂」などと限定すれば偽になりえますが。
 前回述べましたように、「√2がある」が真偽判定不能という立場ですと、「無理数の論議領域において、√2はある」ですら、真偽判定不能になります。なぜなら、無理数というものの存在が保証されていないからです。たとえば、論議領域を特定して惑星の集合とすれば、無理数は存在しません。私が、論議領域の明記を完全に求めるのは無理な注文、といったのはその意味です。

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何回か読み返して 投稿者:パンドラ  投稿日: 7月31日(木)07時42分20秒

私の理解がまだ及んでいないのだと思いますが・・・
>なぜなら、「対象Aがある」は∃x「xにAがある」と解釈できるからです。ここで
>x=Bの特殊例を代入すると、「BにAがある」が導かれます。つまり、「BにAが
>ある」が命題であるならば、存在汎化により、∃x「xにAがある」も命題でなけれ
>ばならず、これは「ある論議領域にAが含まれている」という意味なので、端的に
>「Aがある」という意味であり、つまり「Aがある」は命題です。

以上の解説を以下のように読んでしまいます。
ここに具体的事例を入れると「√2がある」という命題の論議領域を有理数とすると「有理数に√2がある」は偽となりますが、存在汎化による任意の論議領域を設定してしまうことは「実数に√2がある」では真となります。
すなわち、存在汎化による解釈、∃x「xにAがある」は論議領域がまったく任意である為、真偽不定となってしまうのではないでしょうか?
たしかにブラウアーのような「πの無限数列の部分に9が10回繰り返すものがある」
という類の命題は真偽判定がつきません。しかしこれがまったく任意の論議領域を前提としたがゆえに判定できない、のではなく特定された論議領域の中で公理より始まる式系列が中座している、と考えるわけにはいかないでしょうか?
直感主義は「判定できない原子命題」をふくむ分子命題レベルでの判定の拒絶でしたね。

わたくしが正しいと思っているのは次のような事項です。このなかに間違いがあるのかもしれません。
(1)「命題」は真偽判定可能な言葉である。
(2)「名辞」は量化可能な言葉であるが真偽判定できない。
人間は真である ないし 動物は偽である のような言葉は命題ではない。
すなわち、名辞単一では真偽判定できず、これは命題ではない。
(3)命題はふたつの名辞より構成され、各名辞が別の名辞との間で持つ定義間で矛盾がなければその命題は真である。
(4)対象Aの「存在」の有無は無矛盾性で判定される。
(5)矛盾か無矛盾かは分子命題レベルでの推論を必要とする。
  「AはBである」が否定されるにはこれを真と仮定して
Aについての基本定義「AはCである」があって「『AはBである』ならば『AはCでない』」
が導出されてしまうことが必要である。
(6)「Aがある」が判定可能な命題であるからには(5)と同様の推論をおこなわざるを得ず、その為には特定された論議領域Bを必要とする。

(1)~(6)のうち、誤謬はどれでしょうか?

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論議領域の本当の明示は不可能 投稿者:φ  投稿日: 7月30日(水)14時03分29秒

「人間は動物である」の「ある」と「動物に人間がいる」の「いる」の同一視が不都合というのは、既述のとおり、∀x(Hx⊃Ax)と∃x(H=x∧Ax)の区別が蔑ろにされてしまうからです。端的に言って、細かい区別ができればできるほど、その論理観、存在論は優れていると言えるのではないでしょうか。
 また、「有理数に√2は存在しない」という例ですが、「人間」を主語とする文と√2を主語とする文を同列に並べると誤解を招きやすいですね。人間は種で、√2は個体なので。いや、それはそれとして、肝心の次の御発言――
 >「対象Aがある」は真偽判定可能な命題ではなく「BにAがある」の形をとらなければ命題ではない
 について。
 私は(そしてたぶんたいていの論理学徒は)そうは考えません。なぜなら、「対象Aがある」は∃x「xにAがある」と解釈できるからです。ここでx=Bの特殊例を代入すると、「BにAがある」が導かれます。つまり、「BにAがある」が命題であるならば、存在汎化により、∃x「xにAがある」も命題でなければならず、これは「ある論議領域にAが含まれている」という意味なので、端的に「Aがある」という意味であり、つまり「Aがある」は命題です。ここで対偶をとると、「Aがある」が命題でないならば、「BにAがある」も命題ではないことになります。
 逆に言えば、論議領域の設定は、「Aがある」の場合だけでなく、「BにAがある」の場合も同様に生ずるのです。なぜなら、「どこからBを持ってきたのか? Bなんて存在するのか? 論議領域を示せ」ということになるからです。そこで論議領域を明示して「CにBがある」としたとしましょう。ここでもCの存在根拠について同じ問題が発生します。
 つまるところ、出発点の「Aがある」で論議領域を明示しなければならない、と要求したとたん、「XにYがある」タイプのいかなる命題も実は命題でないことになってしまいます。それは不都合な論理観なので、放棄した方がよい。つまり論議領域は、暗黙のものでよいとしなければならないと思われます。(だってどんな命題についても常に論議領域は明示されずに残るわけですからね!)

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そうなんですか・・・ 投稿者:パンドラ  投稿日: 7月30日(水)07時01分39秒

>(「論議領域」という言い方のほうが普通ですね)
わたくしは野矢の論理学から入ったものですから「議論領域(domain of discourse)」で固定してしまいました。業界ではそういうことなのですね・・・。

>ところで、「人間は動物である」の「あるis」と「動物に人間がいる」の「いる
>belong to」は実質的に同じもの、というのはチト不都合かなと思いますが。

この部分はできましたら、不都合部分を是非、指摘していただきたいと思います。

わたくしが斯様な思考に至ったのはピタゴラスの√2に始まるものです。ふつう「存在」という言葉は五感が感知する実在の物質世界に適応していますが、この場合は数論の領域のことですね。彼の時代になぜ√2は存在しない、ということが言われ始めたのかといえばそれまでの数の概念、数はすべて自然数とその比である、に矛盾するからということだと思います。
有理数概念と√2の概念がもつセマンティクスを原子命題として設定した場合、
両者で形成する分子命題のシンタックスにおいて(D∧~D)が導出されることが存在するとかしないとかの判断基準ではないかとしたわけです。
ゆえに、単純に「√2は存在しない」でなく「有理数に√2は存在しない」(belong to)が原子命題の基本形ではないかとしたわけです。
ジョン・バロウが以下のことを言っています。

「存在」という言葉の意味する物についてはふたつの考え方がある。ヒルベルトのように形式主義的な考え方をする数学者にとっては、存在は論理的整合性以外の何物でもない。論理的矛盾のないものであればなんでも数学者の世界で存在しうるのである。科学者にとっては、存在とは宇宙の中でそれが観測されるということである。それは物理的な実在でなければならない。

というわけでわたくしは物質の存在記述「Aがある」を「時空」という論議領域におけるセマンティクスがAのもつセマンティクスと矛盾しなければ存在が肯定される、矛盾すれば否定というわけです。つまり、後者を前者に統一してもよい、
よって、それが物質的なものであろうがなかろうが「対象Aがある」は真偽判定可能な命題ではなく「BにAがある」の形をとらなければ命題ではない、
belong to=is としたのですが・・・?

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議論領域は実は 投稿者:φ  投稿日: 7月30日(水)02時33分09秒

 議論領域(「論議領域」という言い方のほうが普通ですね)の問題は実は、棚上げすることができますよね、現代論理学では。伝統的論理学と違ってシンタクスとセマンティクスが分かれている強みというか。セマンティクスのレベルで解釈するときになって初めて論議領域を決めればよいので、存在にまつわる面倒な世界観はギリギリまで(話の文脈が決定するまで)後回しにできる。現代論理学のありがたいところです。文脈が決まれば自ずと論議領域が決定しますので。
 ところで、「人間は動物である」の「あるis」と「動物に人間がいる」の「いるbelong to」は実質的に同じもの、というのはチト不都合かなと思いますが。普通の日本語の解釈では、「人間は動物である」は∀x(Hx⊃Ax)、「動物に人間がいる」は∃x(H=x∧Ax)となるでしょうから、後者の場合にのみ「人間が実在する」ことが前提になっている。少なくともそう解することができます。とすれば、その可能な区別に対応した議論の方が望ましいのでは。(もちろん区別しない立場も可能ですが、それはあくまで区別ができる立場を背景とした特殊な場合(オプション)に過ぎませんから――)

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ちょっと 投稿者:パンドラ  投稿日: 7月29日(火)05時15分19秒

>とすれば議論領域は、暗黙のものでよいということですね。
ちがうかもしれません。わたしのは論理を集合の立場から見てないのだとおもうのです。何らかの要素・存在者 が前提となって体系を組み立てていくのが通例ですが、この論法は存在者をどうも「ことば」を繋ぐものとしかみていません。「人間は動物である」の「ある」と「動物に人間がいる」の「いる」(日本語では目的論的存在者を いる として使用する習慣がありますね)は実質的に同じものとしています。外界を前提として「人間が実在する」をこの論旨に組み込む必然性はないのだと思うのです。
つまりこの感覚はただの慣習で「時空」という議論領域において「~がある」を知覚して、時間という変化を通して無矛盾を確認しているに過ぎないとするものです。集合で考えれば全体は部分を含むなので弱勢式が真でないはずはないのですが、原子命題は結びつきの形式である、のようにしてしまえば、それは形式が違う、と考えてしまうわけです。

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Re:そうなんですよ~  投稿者:φ  投稿日: 7月27日(日)23時46分41秒

 議論領域なしの∃xHxは意味がない、というのは正しいですよね、むこうの掲示板も見ましたが同感です。
 ただし、たとえば「ソクラテスは人間である」から∃xHxが導けるというのが普通ですが、こうして導かれた∃xHxにはとくに議論領域が設定されているとは限らない。とすれば議論領域は、暗黙のものでよいということですね。
 なお、∃xHxよりも明瞭なのは、∀xFxの形の命題で、これははっきり(暗黙のでもいいが)議論領域の設定が必要になります。
だからふつうは、∀x(Hx⊃Fx)の形で書かれるのですね。∃xHxはそのままでたいていOKですが。

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Re:ふたつの名辞 投稿者:φ  投稿日: 7月27日(日)23時31分48秒

1)は∀x(Hx⊃Ax) (2)は∃x(Ax∧Hx)
この両者は同値としてよいものでしょうか?
  ――という問題意識の意味がよくわかりませんでした。同値のはずがありませんよね。
 また、(すべての人間)=(ある動物) というのは、要素と部分集合をいっしょくたにした構想では?
 ①種としての人間は動物の一種であるということと、②個々の人間が個々の動物でもあるということとは、明確に区別しなければ。
 ∀x(Hx⊃Ax)という場合のHとAの関係は②、つまり部分集合の関係です。①の要素関係の意味でHとAの関係を捉えたいとするなら、∃x(H=x∧Ax)と書くべきでしょう。ただしここでのxは個体ではなく、種を変域とする変項です。②とは論理構造が全く違いますね。(とくに、Aの意味が違っています。②では種、①では第2階の種として扱われています)
 「すべて」と「ある」の関係については、『論理学入門』第10、11節をご覧いただければ幸いです。
 伝統的論理学が無益だと言ったのは、たとえば現代において、天動説によって日蝕や火星大接近の日付を予測しようとする努力は(不可能ではないだろうしそれなりの理屈に支えられているだろうにしても)ちょっと手順が煩雑になりすぎて統一的見通しも得づらくてムナしいかも、という程度の意味でした。

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そうなんですよ~ 投稿者:パンドラ  投稿日: 7月27日(日)23時30分05秒

>$しかしひょっとするとパンドラさんは、伝統論理学でもなく古典論理学でもなく
>$あらたなパンドラ論理学を作ろうとされているのかも。
でも、わたくしも自分のものがオリジナルか、かつてどなたかが言ったものか、
よくは調べていないんですけれど、メインになってるのはオイラー図式のこんなものが
http://members.tripod.co.jp/Halpandora/ron/mei.htm
原子命題の基本パターンで五つあるんじゃないかと思ってるんです。記号でなくって図形的な理解です。それでそれに概念ふたつの原子命題はそれらに集約されるのではないかっておもったんです。
でもこちらのトピ主の
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.&first=1
litosimpleさまが、ぜんぜん認めてくださらなくって、 北陸の小野の御紋章が目に入らんのか~、とかやるんで、ちょっと自信をなくしてしまって推論規則までやる気がしないんですよ・・・。

φさま や 学ぶもの さまがこれって今の述語論理で十分言い尽くしたものなのか、それなりに意味があるのかちょっと感想でもいただければ幸いです・・・。

ちなみに『存在措定』に関する私の見解はこんなものです。これはどうでしょう。
http://thebbs.jp/logic/1059147983.html
つまり、議論領域なしの∃xHxは意味がない、とするものです・・・。

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おはやうございます 投稿者:学ぶもの  投稿日: 7月27日(日)09時47分01秒

僕の論理学の知識は独学でしこしこ齧っている程度なのでほとんどあてになりませんが、
戸田山さんの教科書で、伝統的論理学についてチョトふれていて、伝統的論理学では、命題の主語が指すものは存在するという暗黙の前提が働くので、
たとえば∀x(Hx⊃Ax)から∃x(Hx∧Ax)を導出できるということだったと思います。
古典論理の場合は、三浦さんがおっしゃるように
∀x(Hx⊃Ax)が真であることは、∃xHxを含意しないので、∃x(Hx∧Ax)を導くことはできないということだと思います。

戸田山さんによればこの存在措定の問題が、伝統的論理学と古典論理学の相違のひとつということだったかと。

∀x(Hx⊃Ax)から∃x(Hx∧Ax)を導出できないということについては戸田山さんの教科書や三浦さんの『論理学入門』に丁寧な説明がありますので機会があれば読まれるとよろしいかもしれません。

$しかしひょっとするとパンドラさんは、伝統論理学でもなく古典論理学でもなく
$あらたなパンドラ論理学を作ろうとされているのかも。
$その場合は既存の教科書は役にたたないかもしれませんね。

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ふたつの名辞 投稿者:パンドラ  投稿日: 7月27日(日)07時52分38秒

人間H と 動物A のふたつの名辞をつかって命題をつくると
(1)すべての人間は動物である と
(2)ある人間は動物である  のようなものができると思います。

(1)は∀x(Hx⊃Ax) であり (2)は∃x(Ax∧Hx)
であるとおもいますが両者は同値としてよいものでしょうか?
伝統的論理学をやっていると 主部と 述部の構造について
(すべての人間)=(ある動物) のようなものを考えてしまいます。
左辺右辺の区別はありません。つまり主部と述部の区別もなくなるというものです。
これは 人間 と 動物 の間で交わされる互いの量化子の確認であって概念が決まれば量化子の設定も固定されるのでは、というものです。
ゆえに ある人間は動物である も その否定も原子命題として成立しないとしてはいかがでしょうか?
>論理的に物を考えようという場合、伝統的論理学を勉強するのははっきり
>言って有害無益なので・・・
これは聖書に口を挟むと、神の教えに背く・・・のようなものではないですよね・・・?

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丸飲み感覚を覚えると噛むのが次第に億劫に…… 投稿者:φ  投稿日: 7月27日(日)01時13分31秒

ある人間は動物ではない は曖昧ですね。
~∃x(Hx∧Ax)ということなのか、∃x(Hx∧~Ax)ということなのか。
強引に自然言語にすると、前者は「ある人間は動物である、ということはない(人間であり動物であるものはない)」後者は「ある人間は、動物でないものである(動物でない人間がいる)」となります。
これは現代論理学(古典論理学)では議論の余地はありませんが、他方、伝統的論理学ではどうだったかな……この区別はどうやっていたかな……。論理的に物を考えようという場合、伝統的論理学を勉強するのははっきり言って有害無益なので(論理学史をやる人は別です)、私は実はあまり知らないのですよ……。

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はじめまして 投稿者:パンドラ  投稿日: 7月26日(土)23時11分26秒

φさまは
>人間が一人もいない場合、 すべての人間は動物である は真で ある人間は
>動物である が偽になるからです。
とおっしゃいましたが 学ぶもの さまは
ある人間は動物である が偽であるなら 人間が一人もいない場合、
ある人間は動物ではない は真である としてよいと思われますか?
それとも伝統的論理学と古典論理学では回答が異なるのでしょうか?

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>∀xFxからFtを導出してよい、の全称例化は条件付というわけですね・・・ 投稿者:学ぶもの  
投稿日: 7月26日(土)22時50分08秒

あ、これについては、確かこの掲示板の過去ログで三浦さんが語っているのがあったはずです。
URLは今はチョトわかりませんが。

存在措定の問題は、伝統的論理学と古典論理学との相違のひとつですね。

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出逢いは青汁から 投稿者:学ぶもの  投稿日: 7月26日(土)22時41分16秒

http://www.naotta.com/contents/issues/WEB@Naotta/0106/index34-35.html
で三浦さんが、サプリメントにはまるきっかけとなったエピソードについて語っております。

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ぶしつけお許しくださいませ・・・ 投稿者:パンドラ  投稿日: 7月26日(土)22時27分10秒

>すべての人間は動物である から ある人間は動物である が導けない理由は、
>人間が一人もいない場合、 すべての人間は動物である は真で ある人間は >動物である が偽になるからです。 この人間が雪男なんてことだと、いるかどうかわからないものに対して特称化はできないということですね?
では・・・
すべての三角形の内角の和は二直角である から ある三角形の内角の和は二直角である も偽であるというわけですね・・・。
イデア世界でなければほんとの三角形は存在しないのでは・・・。
となると
∀xFxからFtを導出してよい、の全称例化は条件付というわけですね・・・。

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入力ミス 投稿者:Chie  投稿日: 7月26日(土)21時40分47秒

細かいことですが、chewerです。別に木を切り刻んでいるわけではないですから。

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Re.我らが祖先は爬虫類ですし我らが祖先は爬虫類ですし我らが祖先は爬虫類ですし 投稿者:Chie
 投稿日: 7月26日(土)21時30分23秒

そうですか。捕食感覚としてのサプリメント摂取ですか。一方で、丸のみ感覚が快感であることとは逆に、噛むことが快感であるという指摘もあります…hewer's higと言っている人もいますが。味のなくなったガムをいつまでも噛み続けるなどがそうです。どうもすみません。話が妙な方向で。もっと哲学めいたことでも書ければいいのでしょうが。

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ン? 変ですネ? 投稿者:φ  投稿日: 7月26日(土)21時03分38秒

すべての人間は動物である から ある人間は動物である は導けませんが、それはある人間は動物である が ある人間は動物でない を含意するからではありません。含意しませんから。(許容はするが)
すべての人間は動物である から ある人間は動物である が導けない理由は、人間が一人もいない場合、 すべての人間は動物である は真で ある人間は動物である が偽になるからです。
人間が少なくとも一人いる、という条件のもとでなら、
すべての人間は動物である から ある人間は動物である は導けます。AAIの弱勢式は別になにも問題ありませんね。

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そうどすかぁ? 投稿者:パンドラ  投稿日: 7月26日(土)08時42分10秒

>学生の質が下がったなんてよく言われるけれど、教師の質が下がっているだけだと思うこと
>しばしばです。

一番基本形のAAAタイプの

すべての人間は動物である
すべての動物はいつか死ぬ
よって
すべての人間はいつか死ぬ

弱勢式(AAI)の結論は
ある人間はいつか死ぬ  でございますねぇ。
でも、この結論は ある人間はいつか死なない も含めてしまうのではないでせうか?
 そ、あるかたは魔界転生いたします。

すべての人間は動物である から ある人間は動物である を導くのはちょっとおかしいざます。なぜって「人間」と「動物」の間には「すべての~」がきまっているからでございます。

つまり、アリストテレス様は概念間の固い絆をちょっとしらなかったのでは・・・?

あ! あたし教師じゃございませんので、
>伝統論理学を批判しろなどという課題を真顔で出す教師が実在する
>とは思えないのですが……、

あたってるかも~。

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我らが祖先は爬虫類ですし 投稿者:φ  投稿日: 7月26日(土)02時09分24秒

悪質な食生活をバイオテクノpowerで補い消去してゆく達成感もさることながら、食後に百粒ずつ飲み込む体感がやみつきってことですナ/丸飲み感覚はクセになります、祖先はやっぱりヘビトカゲなのだなあ

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サプリメント 投稿者:Chie  投稿日: 7月25日(金)23時05分09秒

ここには偶然行き当たったのですが、「ジャンク&サプリ」おもしろく読ませていただきました。サプリメントは健康目的で摂取すると思うのですが、この場合、何を求めて摂取するのか分からないところがおもしろかったです。趣味でしょうか…?

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一句目ウマイな  投稿者:φ  投稿日: 7月18日(金)02時04分28秒

全能の神のパラドクス、「石のパラドクス」祈りバージョンときましたナ

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701 投稿者:理詰体操  投稿日: 7月17日(木)23時07分36秒

神は祈ることができない
魂は滅することに憧れる

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teen's paradise!  投稿者:φ  投稿日: 7月16日(水)03時31分09秒

 15歳で論理パラドクスに目覚める。これは……もう幸福かつ刺激的な人生が約束されたようなものですね。(と思いますよ)
 今月27日に我が女子大でオープンキャンパスがありますからのでぜひおいでを、と言いたいとこだけど福島は遠いですし――
 第3弾は「心理パラドクス」的な面を強めた論理パラドクス集にするつもりなので「ココロで感じたパラドクス」的エピソードをお寄せいただけると当方大喜び。論証少女のロジック観がちょっと呟かれたりすれば全国の論理ファン大注目でしょうね

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初カキコです☆ 投稿者:るこう  投稿日: 7月15日(火)04時08分27秒

初めまして*
私は福島に住む15歳の女です★
論理パラドクスを読んで、とっても興味が湧いたのでカキコしました♪
まだちょっと私には難しかったケド、いつかすべて理解できるようになりたいです。
私も沢山論証力を身につけたいと思います☆
また遊びに来させてください。

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木星の2倍か……、地球型にとってよい環境かも 投稿者:φ
 投稿日: 7月15日(火)02時32分51秒

しまったな、この記事を知っていれば『異形の惑星』書評がちょっと違うものになっていたのに。
この惑星系の調査に期待したいですね。しかしそこから人工電波が検知されないようだと、やはり文明を育む惑星はなさそうか――
ご報告どうもありがとうございました!

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太陽系はどこまで特殊か 投稿者:学ぶもの  投稿日: 7月14日(月)23時45分12秒

http://www.hotwired.co.jp/news/news/20020617304.html

http://www.kyoto-np.co.jp/news/flash/2003jul/04/CN2003070401000108C1Z10.html

最近太陽系に似た惑星系の発見のニュースがありましたね。

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空き巣の人間原理的考察(予告) 投稿者:φ  投稿日: 7月11日(金)01時18分17秒

空き巣にやられました。昨日、たぶん未明か。
くっそー。
これを機に、近くアドホック日記に「空き巣の人間原理的考察」をアップロードしますから。真面目な論理学的考察としてです。

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♪ 投稿者:DAI  投稿日: 7月 8日(火)13時00分59秒

でも、課題なんですよ~!

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↓いえいえ 投稿者:φ  投稿日: 7月 7日(月)21時22分12秒

 気にせんでください、あちこちハミ出しながら鍛えられていくので、私ら/
 800字程度のそういう課題が出されているというデータにはなりました、ありがとうございます。
 私だったらそのレポートに、そうだな、「連立方程式を習った中学生に『小学校でやった鶴亀算や旅人算を批判しなさい』て要求するのがいかにムイミか」を書くかな……。  ともあれ21世紀には、伝統論理学は飛ばして記号論理学から始めるのが正道だと思います。

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はげましの言葉 投稿者:理詰体操  投稿日: 7月 7日(月)21時08分15秒

もっと根本的な問題に取り組んだ方がいいよ。

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♪ 投稿者:DAI  投稿日: 7月 7日(月)12時41分36秒

そ、そんな~(泣)

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I agree 投稿者:φ  投稿日: 7月 4日(金)23時32分20秒

 実はあたしもそう思ってました。↓
 学生の質が下がったなんてよく言われるけれど、教師の質が下がっているだけだと思うことしばしばです。にしても伝統論理学を批判しろなどという課題を真顔で出す教師が実在するとは思えないのですが……、
 ま、たまにはいいでしょうか。

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ごくろうさま 投稿者:理詰体操  投稿日: 7月 4日(金)20時49分44秒

この手の書き込みに律儀に取り合わない方がよい
 ↓
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♪ 投稿者:DAI  投稿日: 7月 3日(木)18時11分04秒

レスありがとうございます。
伝統論理学がどのような仕組みで成り立っているのかを考えてみました。キーワードで繋げてみると・・・

概念(内包/外延)⇒定義⇒判断(命題)⇒定言命題⇒推理(直接/間接)⇒三段論法

こんな感じになりました。
しかし、文章として繋げることが出来ません。
伝統的論理学がどのような仕組みで成り立っていて、どのような欠点があるのかを上記のキーワードを用いて800字程度でまとめたいのですが、どのようにまとめたら良いのかご意見を頂けないでしょうか?
ちなみに、批判対象は伝統論理学の欠点です。

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? 批判対象とは―― ? 投稿者:φ  投稿日: 7月 2日(水)04時11分24秒

 伝統的論理学は「概念」を基本単位としてその関係で推論を分類しますから、述語論理学に特有の推論のみに終始し、命題論理学の推論が抜け落ちてしまうということがあるかもしれませんね。
 ただしそれ以前の問題として、伝統的論理学とは「批判」の対象になりうるものだろうか。直観主義論理学とか、量子論理学とか、多値論理学とか、関連論理学とかは標準論理学と競合するから互いに「批判」の対象になりますが、伝統的論理学というのはべつに標準論理学と競合するわけではなくただその特殊な(未発達な)部分にすぎないので、「批判」される必要はないでしょう。ちょうど、様相論理学の観点から標準論理学を批判することができないのと同じことです。批判というのはあくまで相矛盾するもの同士に成り立つ関係であって、一般vs特殊の関係にある別レベルのもの同士の間にはちょっと……。そもそもいま、現代の標準論理学ではなく伝統的論理学でやっていこう、などと主張する人は(まともな人の中には)皆無なわけですから。(それに対し標準論理学ではなくたとえば多値論理学でやってゆこう、というまともな人はいくらでもいる)

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はじめまして。 投稿者:DAI  投稿日: 7月 1日(火)17時28分20秒

伝統論理学を「概念」の観点から批判してもらえないでしょうか?

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ニセ  投稿者:φ  投稿日: 6月11日(水)05時10分11秒

ニセ哲学者がいるかぎり、本物の哲学者というものがどこかにまだ存在している証拠である。

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憶測 投稿者:理詰体操  投稿日: 6月10日(火)21時10分55秒

哲学者は皆、自身を偽哲学者と認めている。

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ヒコク 投稿者:φ  投稿日: 6月 1日(日)02時32分18秒

 「自然数個のデジタル言語で書かれた本に限る」という但書きがあった場合は数学学生氏の言うとおりですが、そういう条件は特に与えてありませんから。ポエジー・コンクレートとかヴィジュアル・ポエトリーのアナログ文字の書物が現実にもあるわけなので。というわけで論理的には「寛容の原理」により、一般対角線論法が省略された問題だったというだけのことでした。
 さてところでです。被告になったんですと。このワタシが。28日に東京地裁民事第4部から「訴状」が送達され『論理パラドクス』を出版した罪で出頭せよ。ワタシほか2者。どういうことか?
 詳しくは、月曜日に弁護士事務所へ行ったあとで「アドホック日記」にレポートいたします(かも)。/ただでさえ勝負のあまりに明らかな裁判ですが、第2弾『論理サバイバル』出版という事実(及び内容)が駄目押し必勝要件となるでしょう。(乞うご推測。しかし誰も推測不能だろうナ、出版界始まって以来の珍訴訟らしいゆえ――)

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バベルの図書館 投稿者:数学学生  投稿日: 6月 1日(日)00時33分19秒

論理パラドクスのバベルの図書館について、あの説明ではあらゆる本を網羅した図書館が存在しえないとまでは結論付けることはできません。
そのような図書館が存在するとしたら、そこには(自然数では)番号が付けられない程の多数の蔵書があるという結論しか出てこないです。
論理サバイバルの一般対角線論法で説明されていたけど・・・
それとラッセルのパラドクス等について数学者がこのような問題を克服する努力を怠ってきたわけではないと思います。
現在の数学がこのような問題をどのように扱っているか、勉強なさることをお勧めします。

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(無題) 投稿者:理詰体操  投稿日: 5月31日(土)23時50分24秒

詩人が格言から最も遠い人種だってことぐらい知ってるよね、ミスター・ラッセル。

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monster647 投稿者:φ  投稿日: 5月24日(土)02時43分33秒

シンプル体とIt、栗ァ出遭“とは”鉤Runaway.真guru脱殻〈と〉痛テテテ、グリー飲――

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- 自作怪獣646 投稿者:理詰体操  投稿日: 5月23日(金)21時49分43秒

複雑カラダとイッて、不粋でワルとはタラバガニ。

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現実が劇画なら 投稿者:φ  投稿日: 5月15日(木)04時20分19秒

 どう見てもグレイシー一族が主人公。桜庭もノゲイラもサップも脇役。だって彼らがパイオニアなんだから。エリオ本に対するアマゾンのレビューを見ても、〈グレイシー善玉論〉は評判悪いが勘違いしちゃいけませんョね。未だに最強かどうかじゃなく、そもそも最強論議に点火した歴史的功績こそ称えられるべきなのだから。立ち技だけの最強がありえずとの証明をマスオーヤマ教世代に突きつけた功績だけでも莫大。
 しかし猪木の土俵でやるとなるとなぁ……。いやな予感――

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グレイシー 投稿者:ゴリラ  投稿日: 5月15日(木)01時59分26秒

猪木が10月にグレイシー一族VS新日本プロレスの対抗戦を企画しているそうです。
新日本の選手としては5月2日の新日VTに出場していた藤田、ジョシュ・バーネット、高阪剛、中邑、LYOTOの5人は確実に出るでしょう。

グレイシー一族からは誰が出るんでしょうね。
ヒクソンは出ないでしょうけど、ホイスは出るでしょうね。
わたしは、このまえ『Number』に載ってたホリオンの息子たちにも出てほしいなあ。
でも、「グレイシー第三世代」のデビュー戦になる可能性は大ですよね。

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神話(しんじつ) 投稿者:φ  投稿日: 5月15日(木)00時39分55秒

ほんとはルビで表記したいところでしたね/「グレイシー神話」が真実でないという神話は崩さねばならぬというのが『グレイシー一族の真実』解説の論旨となります。

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神話 投稿者:理詰体操  投稿日: 5月14日(水)20時36分24秒

哲学(しんわ)も終わりに近づいたようだ。

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Great! 投稿者:φ  投稿日: 5月14日(水)04時16分42秒

 近藤隆夫『すべては敬愛するエリオのために―グレイシー一族の真実』とは! 実はこの本、文春からまもなく文庫化となる(タイトルは「グレイシー一族の真実」と変わる見込み)のですが、解説は私が執筆しているのですよ!(ゲラを点検したばかりです)  20世紀後半最大の哲学書『論理的観点から』になぜだか私がらみが三冊も巻きついてしまうとは、執筆者冥利に尽きますなぁ。
 上記文庫解説はいずれアップロードしますが、現時点での『すべては敬愛するエリオのために―グレイシー一族の真実』への私の言及は以下をご覧ください。
http://russell-j.com/ichioshi.htm

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クワイン 投稿者:学ぶもの  投稿日: 5月13日(火)22時35分08秒

その『論理的観点から』に含まれているクワインの有名な論文
「経験主義のふたつのドグマ」は英文ですが下のサイトで読むことができますね。

http://www.ditext.com/quine/quine.html

しかし、論理学関係の本のなかにまざってなにげにグレイシーの本が。

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アマゾンで 投稿者:ゴリラ  投稿日: 5月13日(火)02時25分34秒

調べていたら、http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326198877/qid%3D1052759476/250-7824774-7773829 この本といっしょに三浦さんの本を買っている人が多いことに気づきました。

「この商品に興味がある人は、こんな商品にも興味をもっています」
という欄に2冊も入ってますね。

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鋭い御感想ですなァ 投稿者:φ  投稿日: 5月13日(火)00時19分46秒

 フム、たしかにゼノンは「行為の回数」を問題にすることでパラドクスを作ってみせたわけですね。
 でも、「追いつくか追いつかないか」というのはもともと距離の問題なわけですよね、回数の問題じゃなくて。距離の問題を、回数の問題とまぜこぜにして混乱を生み出したのはゼノンの方だったわけです。そう、フェアじゃないのはゼノンだったのだ……。それをきちんと距離の問題として論じ直すのが「解決」になるのですね。
 ちなみに、行為の回数が無限であることが距離を限定してしまうとしたら、なぜそういう制約をアキレスだけに当てはめて、亀にはその制約を当てはめないのか、という疑問もあります。これまたアンフェアというか。亀だって、アキレスから逃げる行為を無限回やらなきゃならないとしたら、「逃げ切ることはできない」てことになるわけです。

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モヤモヤ 投稿者:from2  投稿日: 5月12日(月)16時42分41秒

掲示板発見!(・ε・)ノ

論理サバイバル頑張って少し読んで見ました。(論理ってぜんぜん知らないんですけど。)
で、アキレス亀なんですけど、なるほどな、とも思うのだけれども、回数のことをいつのまにか距離の話にもっていっているような気がして、フェアじゃないような、いまいちしっくり来ないんですけど。素人ですんません。m(_ _)m

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たしかに 投稿者:φ  投稿日: 5月10日(土)01時21分41秒

 そういう詭弁問題が出来そうですね。2つの別の質問をあたかも同一の質問であるかのように装えば、一見、矛盾した答えがともに正しいように見えてしまいますね(「あなたの国籍は? 191択で答えよ」→「中国」)(「あなたの国籍は中国か否か? 2択で答えよ」「否」)。
 なお、輪廻が終末論法を解除することについては、以下の拙論でテーマにしたことがあります。
「人間原理と独我論――「私」の位置の再解釈」(『和洋女子大学紀要(文系編)』第40集,2000年3月,pp.17-33.)
 不備が多い論文なのでこのHPにはアップロードしてありませんが、全国の大学紀要をまとめて電子化する機関があって、まもなくそこが勝手にアップロードすることでしょう。  輪廻が現実なら、時代による人口効果がなくなるので終末論法は成立しませんが、『論理サバイバル』091「デルタt論法」による未来予測は(これは人口効果を加味しないので)まだ相変わらず成り立つということになります。

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詭弁 投稿者:学ぶもの  投稿日: 5月 9日(金)02時31分01秒

論理学入門のP136の国籍問題でチョト詭弁を思いつきました。

特別な情報がないかぎり自分は多数派である
と考えるのが合理的である。
世界でもっとも人口の多い国は全人口の20%を占める中国である。
よって、平凡の原理により、無知状態のあなたは、自分は中国人と答えるのが合理的に正しい。

<詭弁>
中国人は全人口の20%程度にすぎない。
つまり全人口の多数派である80%は中国人ではない。
平凡の原理により、あなたは多数派である。
すなわち、あなたは多数派の80%に属するはずである。
よって、合理的に考えるならば、あなたは自分が中国人である
と答えてはならない。

#論理サバイバルをさっそく購入して、まず気になる問題をチョチョと覗いて
#いるのですが、
#輪廻転生を認めると自分の存在に関する確率問題に影響がでてくるのでは、
#例えば終末論法なんかは
#なりたたなくなってしまうのでは、と思ったりしました。

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629として 投稿者:φ  投稿日: 5月 6日(火)01時47分14秒

ガイド・ルールバージョンの即興を重ねました(単純な改善版は636の予定)。しかしそこの掲示板にも書いたとおり、「投票」というのがいまいち意味不明で……、

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フーム、むずかしいんですね 投稿者:ネモ  投稿日: 5月 5日(月)14時02分08秒

育ってもらうためには、やはり「知識(論理)をガイドとする」ことでしょうか?一見ルールのように見える論理であっても、ほんとに「ルールにする」と学問としてはまずいのかもしれませんね。
また、いろいろ教えてください。

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両面 投稿者:φ  投稿日: 5月 5日(月)01時40分50秒

「イッちゃってる性」を薄めたということは、首尾よくいったん招待した魂たちを今度はいかにコアなイッちゃってる部へ慣らし逃さず育ってもらうかという課題が残るわけですけれどね――

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「イ」の字は深い 投稿者:ネモ  投稿日: 5月 4日(日)08時09分50秒

あ、わかりました。「イ」とカタカナになっているのに意識がいきませんでした。翻訳すると「論理三昧の境地に達した」ということでなんですね。って、これじゃ、よけいにわかりにくくなっちゃいましたか。
服部裕幸『言語哲学入門』は、私に向いているということがよく分かりました。分析哲学の未来を憂うことなく安心して読んでみます。ありがとうございました。
「フレンチ・ポップ哲学」―― これは、言ってる意味がわかります。ステキにぴったりしたネーミングですね。

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「イッちゃってる」とは――  投稿者:φ  投稿日: 5月 3日(土)15時08分55秒

 そうですね、もちろん「学問的にイキつくところまでイコうとしている」哲学ですし、それゆえ、素人のキモチを置き去りにしてどんどんイッて、本人たちはロジカル・ハイのエクスタシーにイッちゃってるというような次第です。専門的修練を経た〈ロジック×哲学的人生観〉の複雑な陶酔パワーは、万人生得の性感やドラッグよりも強烈であろうゆえのこの表現でした。
 なお、分析哲学が専門的に瑣末になりすぎて転換を迫られている、というわけではなく、最先端は依然として超専門的でなければならないが、優秀な分析哲学研究者の開拓のためには、若い頭脳を引きつけねばならぬ、とくに安易なフレンチ・ポップ哲学などへの流出を防いでしっかり分析陣営にリクルートせねばならぬ、そのためには――、というくらいの意味のつもりでした。
 同じ入門書でも、飯田隆『言語哲学大全』は「イッちゃってる性」がまだ残留していて、初心者にはきつそう。服部裕幸『言語哲学入門』は一歩割り切って書いてくれたな、という感じです。

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「イッちゃってる哲学」 投稿者:ネモ  投稿日: 5月 3日(土)08時37分33秒

服部裕幸『言語哲学入門』(勁草書房)の書評を拝読しました。
この本はまだ手に取る機会がないのですが、分析哲学の現在を表した「イっちゃってる哲学」にひっかかってしまいました。これは「学問的に行くとこまで『イッちゃってる哲学』」と読んだら解釈しすぎでしょうか。
最後の「啓蒙的な裾野を広げて再出発する潮時を迎えたようだ」という表現からも、専門的に煩瑣になりすぎて分析哲学は方針転換をせまられているのかしらとちょっと思いました。
分析哲学のことはよく知らないのです。失礼があったらお許しください。

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不幸を嘆くことが幸福の源泉てことも 投稿者:φ  投稿日:4月29日(火)02時45分55秒

あ。タイトルは別館の本文用だったか/

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幸福論 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月28日(月)22時32分50秒

幸福を云々すること自体が、喩えようもなく不幸である。

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最大の謎は(  )ということだ  投稿者:φ  投稿日: 4月27日(日)01時48分17秒

候補一覧:謎が存在する/謎とは何か/本当に謎があるかどうか/本当の謎があるかどうか/謎が必要とされる/謎などないかもしれない/謎に最大値があるかどうか
 「最大の謎は、何が最大の謎かということだ」は自己反例的パラドクスの一例としていずれ引き合いに出させていただきましょう

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619 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月26日(土)21時10分23秒

最大の謎は、何が最大の謎かということだ。(知りたくもないが....)

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歴史的には 投稿者:φ  投稿日: 4月25日(金)00時27分02秒

無理数も0も負数も虚数も認めない人々にとってこそ、数学が力を持ったわけですな

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(無題) 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月23日(水)21時11分20秒

0も1も認めない人にとって、数学は無力である。

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(無題) 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月23日(水)21時08分44秒

永遠が苦痛な人にとって、永遠の楽園は存在しない。

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楽園論法?  投稿者:φ  投稿日: 4月21日(月)01時27分33秒

背理法ですか……。面白いスレ発見していただきありがとうございます。しかしこれは人間原理の業界でさかんに議論されている「デルタt論法」「終末論法」「オメガ点理論」のたぐいですね。私も『論理学入門』『論理パラドクス』で紹介しましたが。終末論法への言及がないところを見ると、そこの2ちゃんねらーたちは独力で思いついたのかな?
『論理サバイバル』の確率部門でもこの系統は論じましたが、本番はこれからです!

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2ちゃんねる哲学板でみつけたチョトおもしろいスレッド 投稿者:学ぶもの
 投稿日: 4月20日(日)17時53分18秒

>永遠の楽園など存在しない根拠を見つけますた
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1044999616/l50

平凡の原理で天国が存在しないことを証明?

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613 投稿者:φ  投稿日: 4月20日(日)00時27分10秒

しまった……、ほぼ同じことを先に言われてしまいました↓

∞~612 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月19日(土)06時22分04秒

果敢に立ち向かう臆病さのない果敢なモンがおお杉良太郎?

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611~∞ 投稿者:φ  投稿日: 4月18日(金)00時57分14秒

言語と快楽の関係は別館の宿題に重宝しそう

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610 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月17日(木)06時38分24秒

言葉には限界がある。
そして、言葉の限界には快楽もない。

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609 投稿者:φ  投稿日: 4月16日(水)01時05分06秒

本日の609は理詰体操氏の閃きを使わせていただきました

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608 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月15日(火)22時25分34秒

限界にも我慢がある
我慢はカラダによくない

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(無題) 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月14日(月)22時48分58秒

パラドックスが心配。

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(無題) 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月14日(月)22時47分23秒

富士山が一杯。

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(無題) 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月14日(月)22時41分01秒

であるもでないもちがわないであるでもない。

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(無題) 投稿者:理詰体操  投稿日: 4月14日(月)22時40分10秒

真も偽も同じである。

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重要な補足です 投稿者:φ  投稿日: 3月18日(火)23時37分14秒

 平和を祈りつつ開戦、健康を願いつつ不摂生……。こうした言行不一致をほんとのパラドクスまで純化すると、「ムーアのパラドクス」に至るでしょう。ムーアのパラドクスは第2冊目048に立項します。
 ところで、昨日の〈てつ〉さんへの返信は、ちょっと言葉が足りませんでしたので、補足させてください。
 ●P「この文は真でない」→真でも偽でもないとすると→Pは自分が「真でない」という真なることを述べている→パラドクス
 ▲Q「この文は偽である」→真でも偽でもないとすると→Qは自分が「偽である」という偽なることを述べている→パラドクス
 ●と▲では理屈は同じではないか、というわけでした。
 これはもちろん、厳密には「同じ」とは言えません。●の方は、真でも偽でもない文について「真でない」と述べているのだから、真なることを述べている。これは議論の余地はありません。パラドクスになります。
 一方の▲の方は、真でも偽でもない文について「偽である」と述べているわけですが、これが直ちに偽なることを述べたことになるかというと、議論の余地がありますね。確かなのは、単に「真でないこと」を述べている、ということだけであって、「偽である」とは断定できない。そもそも、「真でない」と「偽である」とを区別しようというのが▲の脱パラドクス化のモチーフだったので、「真でない」からただちに「偽である」としてしまうのは、端的に、その新方針に従わないという決意表明に過ぎず、論理的というより頑固な姿勢ということになってしまいます。
 つまり、▲が依然としてパラドクスだというのは、●がパラドクスだというのに比べると、多少疑わしいのです。●はストレートにパラドクスです。▲と●にはそういう違いがある、ということは意識しておかねばなりません。
 ▲「この文は偽である」は「単純嘘つき」、●「この文は真でない」は「強化された嘘つき」と呼んで区別して、クリプキらの真理論も▲は脱パラドクス化できるが●は解決できていない、というのが哲学業界の常識になっているようです(問題007末尾に挙げた参考文献をご覧下さい)。
 しかし、〈てつ〉さんが言われたように、「この文は偽である」が真でも偽でもないとすると、「偽である」という明らかに間違ったことを述べている以上、「真でも偽でもない」にとどまらずはっきり「偽」と見なすべきだ、という立場も自然ですよね。そのことを執筆時には私は考えていなかったということです。結局、●と▲との相対的差異(それのみに私は執筆時に注目していた)は認めねばならないものの、だからといって▲がパラドクスでないと言えるかというと、どうもそう言えないみたいだ、と〈てつ〉さんの書き込みを見て考えた次第です。
 以上のことが、〈日和見主義者〉さんの御指摘は本書本文の訂正によって対処すべきなのに対して、〈てつ〉さんの御指摘に対しては、訂正ではなく、別の場での更なる論議によって対処すべきだ、と昨日申し上げたことの意味であります。
 やはり嘘つきのパラドクスは、パズル形式で簡潔に論じようとするとその凶暴な底力をもって反撃してくるものなんですね……。
 以上、前回への補足でした。
 おふたりの御指摘には感心いたしました。他の問題についても、疑問を感じられましたらぜひ指摘いただければ幸いです。

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回答、ありがとうございます。 投稿者:断固たる日和見主義者
 投稿日: 3月18日(火)21時23分18秒

>はっきり意味不明の真とも偽ともいえない文に置き換え

これは、「偽」で良いのではないでしょうか?明日の天気によらず偽であることがわかるのではあるけど。
「意味」もまた多義的で、日常的には、「P、かつ、Pでない」とか、「P、または、Pでない」といって、Pの真偽に無関係に真偽が決定するも命題は、無意味ではあるけど、数学では普通に使うし。数学って究極的にはトートロジーを延々、繰り返しているのでは、と思うことがある。

昨日、ニュースでブッシュ大統領が「私は平和を祈っている」と言ってましたが、健康を願いながら不摂生するのはありえるから、矛盾とは言わないんでしょうね。

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ご指摘多謝! 投稿者:φ  投稿日: 3月18日(火)01時30分17秒

 日和見主義者さんの言われるとおり、「矛盾」という用語は多義的で、単に偽である矛盾(「明日東京に雨が降りかつ降らない」のような)と、真でも偽でもないパラドクス(「この文は偽である」のような)の両方に対して使われます。P21の6の答えで、この両者を「矛盾」という呼び名で並べたのは、誤解を招く記述であり、確かに問題でしたね。両方とも「真になりえない」という意味で同類ではあるのですが、やはり誤解を招くので、訂正の必要があるようです(「東京に雨が降りしかも降らない」という文を、はっきり意味不明の真とも偽ともいえない文に置き換え、「矛盾」という語を「パラドクス」か何かに置き換えるべきか。要考慮)。増刷のとき訂正させていただこうと思います。ご指摘ありがとうございました。
 実は、4/24頃刊行に向けてすでに脱稿した『論理パラドクス2』では、嘘つきのパラドクスの親戚をいっぱい紹介したのですが、そこでは「矛盾」と「パラドクス」の違いを明示しているのです。皮肉なものです。
 それから、「『真』でも、『偽』でも、『真でも偽でもない』でもない」というのは、その意味からして、「真でない」の仲間には違いないので、「真でない」という記述があてはまってしまう。したがって、「この文は真でない」というのは、事実を述べており、真となってしまいますパラドクスを回避するために、第3の真理値を使うのは有効だが、第4の真理値以降は問題解決に役立たないというわけです。
 しかしその前段階に対するてつさんの御質問――
 ●P「この文は真でない」→真でも偽でもないとすると→Pは自分が「真でない」という真なることを述べている→パラドクス
 ▲Q「この文は偽である」→真でも偽でもないとすると→Qは自分が「偽である」という偽なることを述べている→パラドクス
 ●と▲では理屈は同じではないか、というわけですね。
 『論理パラドクス』では、●だけエントリーして、その前問の▲の方はパラドクス解決として通り過ぎています。フム……、言われてみれば、対称性を欠いていますね。ウーム……。
 ▲の発展形として●でパラドクスを復活させるという段階をレベルアップ方式で踏んでいったため、▲にすでにパラドクスが残っていることを確認し忘れてしまった、ということか。いや、何か論理があったような気もするのだが……、これは、私自身の執筆時の思考回路を思い出しながらしばらく考察してみます。
 本文に書いたように、嘘つきのパラドクスは巷のパズル本に誤りの多い分野なのですが、『論理パラドクス』自体にも怪しいところが多々含まれていたということのようです。うぅぬ、パラドクス恐るべし!
 003【対偶】を読者の指摘にしたがって『論理パラドクス2』で再考したように、この問題も(もし『論理パラドクス3』を出せるとしたら)再び論じてみなければなりますまい。ご指摘ありがとうございました!
http://russell-j.com/puzzle-2.htm

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ご質問 投稿者:てつ  投稿日: 3月17日(月)18時16分30秒

「断固たる日和見主義者」さんに触発されて質問させて戴きます。私も三浦氏の「論理パラドクス」を買って読んでいるのですが、007「嘘つきのパラドクス」の20Pで引っかかってしまって、先に進めません。
と言いますのは、20P下から5行目以降、「この発言は真ならず」が「真でも偽でもない」と結論されたあと、「真でも偽でもない」が正しいなら「真ならず」は真になるのだから・・・と展開していくわけですが、であるならば、全く同じ理屈で、前問の「この発言は偽である」も、一旦「真でも偽でもない」と結論されたあと、「真でも偽でもない」が正しいなら「偽である」は偽になるのだから・・・と展開されると思うのですが、どこが違うのでしょうか。
多分どこかでとんでもない勘違いをしているとは思うのですが、どこで間違っているのかが分からないので、ご回答いただければ幸甚です。

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つづき 投稿者:断固たる日和見主義者  投稿日: 3月17日(月)11時24分55秒

■私のこの発言はウソである■
これは、「真でも偽でもない」となってますが、この手の論理の話では「真でない」=「偽」、「偽でない」=「真」、とするのはお約束ではないのでしょうか。
「真でも偽でもない」を導入することで、矛盾を回避するというのがありだとすると そのあとの、「私のこの発言はホントではない」に関しても、
「『真』でも、『偽』でも、『真でも偽でもない』でもない」を導入すれば矛盾は回避できると思うのですがどうなのでしょうか?

矛盾は絶対的に回避しなくてはならないなら、かなり強引ではあるが「『真』でも、『偽』でも、『真でも偽でもない』でもない」を導入してもよさそうだし、
矛盾もありなら、最初から「私のこの発言はウソである」を矛盾としていいと思うのですが。

「真でも偽でもない」という「第3の真偽値」は導入可能で、第4がだめだとう根拠がわからないのですが。

突然で不躾な書きこみで申し訳ありません。
編集済

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はじめまして。 投稿者:断固たる日和見主義者  投稿日: 3月17日(月)11時08分25秒

はじめまして。三浦俊彦氏の「論理パラドックス」を読ませていただいたのですが、第1章の「自己言及」の部分でわからなくなりました。

クレタ人の件は私も以前から、「全てのクレタ人はうそつき」とそのクレタ人が嘘を言っているとすれば矛盾しないと思っていたので、読んでいて痒いところに手が届く思いでした。しかし、そのあと疑問も出てきたので、箇条書きにします。

■「明日東京に雨が降りしかも降らない■
これは、矛盾ではなく、偽というべきでは?
「PでありしかもQ」は、PとQがともに真のときに真で、それ以外、少なくとも一方が偽なら偽。
「1+2=3、しかも、3+4=7」は真
「1+2=3、しかも、3+7=6」は偽
「1+2=3、しかも、1+2=4」は偽
「1+2は3であり、しかも4」は偽
「1+2は、3であり、しかも、3ではない」は偽

「雨」の例文は一番下と同じ構造であり、偽ではないでしょうか?雨が降っても降らなくても偽になるというだけの話で。
編集済

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予想外の鋭い―― 投稿者:φ  投稿日: 3月 8日(土)04時43分17秒

――ご質問ですね。
 形として確かに疑問を喚起する表現になっており、なるほどと思わされました。
 前提1で述べていることは「許される」という観念の成立のためには倫理の観念が必要、というだけの、いわば〈最小限の〉倫理が言われています。倫理の最低条件というか最大公約数というか、コアのようなもの。
 前提2で言われている倫理は、「経験的事実」あるいは「再定義」となっていますが、「あるいは」という接続詞はただの言い換えのつもりだったのです(つまり前後は同じ意味)。
 まず「経験的事実」の側面について。殺人が許された場合、実用的な社会が成立しなくなることは「経験的に」明らかなので、社会の産物である最小限倫理=「許される」ということも成立しなくなる、という意味です。
 もう一方の(ご指摘の)「再定義」というのは、「倫理」は「社会」がなくたって、人間ひとりいれば成立するじゃないか(「自分への責任」「自尊心」……)というふうに「倫理」を広義に定義する理屈を阻止するため付加したものでした。ただそうした独我的倫理(任意の一人の内面の存続)ですら、社会的な倫理にバックアップされないと物理的(経験的)に保証されないので、社会の存在に依存しています。
 いずれにしても、前提1の意味で「倫理」が成立するのに、前提2の意味で「倫理」が成立しない、ということは経験的(主観的)にありえないわけです。あくまで経験的な矛盾なので(人間原理の論証もそうですが)、「論理的(意味論的)背理法」ではなく、「語用論的背理法」と呼びました。
 しかし以上のことは厳密には「論証」の形にして書き下ろさねばならぬところですね。最初の原稿では実は「なぜ人を殺してはいけないか」が第2部、「人間原理」が第3部という三部構成だったのですが、長くなりすぎるので2部に縮めたのでした。殺人の語用論的背理法は、いつか一冊費やして書くだけの価値があると考えています。ご指摘ありがとうございました!

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ご返答 投稿者:学ぶもの  投稿日: 3月 8日(土)00時18分31秒

ありがとうございました。

 この「超難問」は『論理学入門』で語用論的背理法の
適用例として批判的に取り上げられていましたね。
あそこの議論はとても興味ぶかくて、時々読みかえしては
「う~ん」と唸っています。

 ところで、『論理学入門』のP127における
「人を殺してはならない」という規範命題の証明に関してチョト疑問が
あるのです。

 論証では、

>前提1 仮定を主張するためには、倫理が必要である。 >(主張すること、および「許される」の意味より)



>前提2 殺人が許されると、倫理は成立しない。
>(経験的事実、あるいは「倫理」の再定義)

から中間帰結2を経由して

>中間帰結3 倫理が成立し、倫理が成立しない

と矛盾を導いていますが、

もし<前提2>の個所で、「倫理」という用語の再定義が
なされているのなら、
中間帰結3は厳密にはまだ矛盾とはいえないのではないかと思うのです。
前提1の「倫理」と前提2の「倫理」が同じ意味内容を持っていることが
示される必要があるのではないかと思うのですが。

中間帰結3 倫理が成立し、倫理が成立しない

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基本的に同じですが―― 投稿者:φ  投稿日: 3月 1日(土)02時03分27秒

「他の誰かではない(なかった)のか」の「誰か」に、具体的な名前を一つずつ入れて、そうして出来る何百億の疑問文をすべて「しかも」でつないで出来た長大な疑問文を簡潔に述べ直すと「なぜ私は他の誰でもない(なかった)のか」となるでしょう。
 つまり「なぜ私は他の誰でもない(なかった)のか」の方がいっぺんに多くを問うているわけですね(これを問えば「誰か」の方は問う必要がない)。
 前回99問+今回108問で〈パラドクス究極の旅路〉が舗装開通、乞ご期待です。

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おっ、論理パラドクス第2弾アップされてますね 投稿者:学ぶもの
 投稿日: 2月28日(金)23時31分41秒

実は前回も個人的にかなり難しくてほとんど解けなかったのですが、
今回もかなり難しそうですね。

ところで、
ナーゲルの「超難問」の

>「なぜ私は○○なのか、なぜ他の誰でもないのか」


「なぜ他の誰かではなかったのか」
とは意味が異なるのですか。

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対偶の別解 投稿者:φ  投稿日: 2月13日(木)02時25分52秒

 アドホック日記11月1日に、『論理パラドクス』003「対偶」の別の正解が読者から寄せられた、と書きました。その別解って何? 気になる! いつ教えてくれるの? という反応が複数寄せられております。そりゃ、気になりますよね……。
 実は、いま執筆中の、第2冊目論理パラドクス本に、「もうひとつの対偶」という問題を入れました。そして、驚くなかれ、「太郎は苛々するとコーヒーを飲む」の対偶は、2つどころか、10個、20個、いやおそらく百個以上は存在することが判明したのです! これは「いくらでも対偶」という問題で開陳しますから、楽しみにお待ちください。四月下旬刊を目指して鋭意執筆中です、「苛々」させて申し訳ありませんが。
(逆ヒント:「太郎は苛々するとコーヒーを飲む」というもとの文の形はこのまま変えません。)

 ……ところでたしかにダイアリーやばかったんですが、この頃なぜかわりと簡単に接続でき、カウンタによると、このHP本館よりアクセス数が多かったりするんですよ。

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それでもあのダイアリーそろそろやばいかも 投稿者: τομ
 投稿日: 1月26日(日)23時41分58秒

慌てて一ヶ月分ダウンロードしただろうことは想像できますが。。
無規則無秩序の生活の中の。。か
なんにしろ 問題ないようでひとまず安心ってとこですか
編集済

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? 投稿者:φ  投稿日: 1月26日(日)02時02分35秒

 妙だな……。今「アフォリズム日記」にアクセス/書き込みができました。昨夜は確かに「運営母体が変わってどうのこうので何とかの日記は削除なんたら」といったメッセージが出、パスワードでログインしようとすると「現在登録されている日記はありません」と……。
 ともかく一時的な現象だったようです。

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日記行方不明 投稿者:φ  投稿日: 1月25日(土)00時38分57秒

 「アフォリズム日記」が突如行方不明になりました。削除されたのか?
 約1ヵ月分ダウンロードしていないので、うろたえねばならない羽目になってしまった。原稿はワープロの中に入っているのだけれど、順番滅茶苦茶なので失われた1ヵ月分を抽出することは至難。
 う~む……。
 不規則無秩序な生活の中のなけなしの日課が失われてしまうのか……?

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シンクロナイズド出版を期して 投稿者:φ  投稿日: 1月15日(水)04時58分31秒

 そろそろ予告文・宣伝文アップロードするつもりですが、一足先にここで。
 4月をメドに、小説(短編集)とパラドクス本を同時刊行企画進行中です。
 いや、出版社は別々なので企画自体が「同時」コンセプトを含んでいるわけじゃありませんが、著者が意図して加減してそう持っていこうとしている。
 パラドクス集めが試行錯誤中で、そっちの進行状況に左右されそうだな。オ、考えてみたら短編集もパラドクス本もともに第2弾です。ウム。質的連動は吉兆だゾ。

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HP(3割?)拝読させていただきました 投稿者:ネモ  投稿日: 1月12日(日)11時11分40秒

 何気に入って、三浦ワールドを知りました。現実世界は可能世界の1つにすぎないとおっしゃっておられますが、三浦ワールドに気づかないわたしの可能世界は、現実世界からしか出てこないのですが…。あまりに埋蔵量の豊富な鉱脈に当たったということを言おうとしてます。知らずに一気読みしようとして脳が酸欠になり輪廻転生に至った頃には窒息死寸前でした。今度はゆっくり拝読させていただきます。パラドクス楽しみにしております。

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外部世界のゼノン 投稿者:φ  投稿日: 1月 9日(木)23時55分58秒

 そういえば『外部世界はいかにして知られうるか』にはゼノンのパラドクスについての議論が載っていたはず。パラドクス本第2弾に入れることにしようかと……。パラドクス百科全書を目指す以上はラッセルのゼノン論は外せないだろうし……。
 無限集合といえばカントールのパラドクスは入れねばなるまい……、そろそろパラドクス本第2弾目次をアップロードします。「ラッセルのパラドクス:関係バージョン」「カリーのパラドクスからラッセルのパラドクスを導き出す」等々、乞ご期待。

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あわわ、ラッセル・ムードでした 投稿者:ネモ  投稿日: 1月 9日(木)13時39分17秒

 そ、そんなにたいへんなモードだったんですね。モの字をムに訂正致したく…。
 今年はじめて「ラッセル研究家と愛好者のためのホームページ」を知り、迷子になりながらいろいろ拝見しました。そのうち、ハートマークが呼ぶのでこちらに伺った次第です。そして魔法の言葉「抱腹絶倒」に引き寄せられるように書き込んでしまいました。

 >今度ぜひ読書会に……、
め、めっそうもございません。それにブラキストン線を越えておりますので参るわけには…(ほっ)。今回は、わたしは敵の回し者でございます。ラッセルの論理主義のつけいるすきをねらって第六・七講を読んでおりました(やましさのあまり白状しますが)。あやうくミイラ取りがミイラになるところ、「抱腹絶倒」の言葉に我に返ったようなありさまです。
 ほんとうはわたしも「無限集合は数えられない」というラッセルの言葉に可笑しくなりました。言い換えれば、数は数えられない。ラッセルって、なんか、かわいいですね!
 そして、「枚挙することなく知る」はずの無限集合について、その濃度を知るために、1つ1つ対応させて調べる律儀なやり方をラッセル氏は「枚挙」と考えないのはなぜなんだ?とちょっと思っているところです。すみません。また余計なことを書いてしまいました。

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ラッセル・モード 投稿者:φ  投稿日: 1月 9日(木)02時41分02秒

 ですか! かつての私も一瞬しかちゃんと陥ったことのないそのモードに!
 松下彰良氏のラッセルHPはもう訪れました?
 今度ぜひ読書会に……、とはいえ「北限」だとなかなか難しそうか……

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なるほど、マニアックなひたむきさですかぁ 投稿者:ネモ  投稿日: 1月 8日(水)13時06分52秒

 お聞きすると「なるほど」と思えるところ、自分にはやや救いかもしれません。
 じつは「外部世界…」は数度目の読書になりますので、わたしの頭は完全にラッセル・モードに陥っておりまして、「抱腹絶倒」の意味が、分かるような分からないような歯がゆい感じがしてついお聞きしてしまいました。自分も「ここまでやるか、ふつー?」的領域に入っちゃってるんだとあらためて悲しく自覚しています。
 そのうち「むし社」から『めずらしいホンノムシ事典』が出版されたおりには、その中で無翅昆虫亜綱シミ目、北限のヤマトナデシコシミの標本として虫ピンの餌食となっているものと思われます、たぶん。
 お返事いただきどうもありがとうございました。

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と申しますのは……  投稿者:φ  投稿日: 1月 8日(水)02時47分28秒

 ちょうど読書中でしたか……!
 まあ当時私が哲学かじり始めの学生だったせいもありますが、いや、ほんとに大笑いしながら読んだのですよ。「ここまでやるか、ふつー?」的な可笑しさでしたね。一見わかりきったことをパースペクティブ空間だのなんだの徹底して突き詰めている姿というのは、なにか、知性を情緒化するような効果をかもし出す。「むし社」という出版社があると聞きました。昆虫の写真集専門といったかな、カミキリムシ事典とか、世界的に需要があるらしいですが、そういうマニアックな世界ってのは、人間のサガを知らしめてくれるってことでしょうね。ラッセル流分析哲学が、大陸哲学よりも笑えて酔えたのも、「論理分析」という営みの無垢でマニアックなひたむきさがいかにも人間らしいからでした、きっと。

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抱腹絶倒と申しますと? 投稿者:ネモ  投稿日: 1月 7日(火)13時18分52秒

 はじめておじゃまさせていただきました。かつてわたしがたいへん衝撃を受けた『可能世界の哲学』の御著者であることがわかり、うれしく存じました。その節は、たいへんお世話になりました、本の中でですが。
 ところで、たまたま今「外部世界はいかにして知られうるか」を読んでいるところなのですが、「抱腹絶倒」とはどのような意味でおっしゃっておられるのでしょう。この質問は、笑い話のオチを尋ねるたぐいの無粋な質問かもしれないと危惧しながら、それでもおたずねします。すみません、変なことお聞きして。

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ラッセル 投稿者:φ  投稿日: 1月 5日(日)05時03分53秒

 ラッセルは『世界の名著』(中央公論)に入っている「外部世界はいかにして知られうるか」が抱腹絶倒だった記憶があります、学生時代に。べつに笑いをとる文章でも内容でもないはずなのだけれど、そこがラッセルだなあと。……お薦めが次々に重なって申し訳ありませんが……

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みようとみせよう 投稿者:えど  投稿日: 1月 3日(金)23時51分17秒

 「みよう」は自分もむいているけど、言葉にした時点で
 他人にも向いているし、では「みせよう」もしかりで
 自分にもむいてるとも言える、このひとは自分をどう思っているのか?
 何もの扱いしてるのか?自分にとって自分って何?って
 難しい問題ですなぁ・・・と、思ったのでした。
 すみません、その後検索していて別物だとあたりがつきました。
 みすずは入手可能ですね、でもまだまだ未だにバイロンの章です。
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