三浦俊彦「アドホック日記」(2003年9月6日) -【バベルの図書館】と【アキレスと亀】についての回答

  
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 『論理パラドクス』『論理サバイバル』への質問・コメントをいくつかいただきました。そのうち掲示板にていただいたものは掲示板でお答えしてありますが、電子メールや郵便でいただいたもののうち、ここに2つ掲載しようと思います。

 回答1は、『論理パラドクス』017【バベルの図書館】について。
 回答2は、『論理サバイバル』005【アキレスと亀】について。
    (質問文は、回答文から推測できると思われますので、掲載してありません。)



    ★回答1(2003年7月10日 2:54)

F 様

                三浦俊彦

 コメントどうもありがとうございました。
 数学を実地に教えておられる方の御意見とは、まことにうれしい限りです。

 さて実は、017【バベルの図書館】については、類似の質問(批判)を他に何人かの方からいただいたことがありました。
 たしかに、「図書館」とは何か、「本」とは何かについて、問題文の意味が限定不足なので(そう、ちょうど「ベルトランのパラドクス」のように!)、図書館の概念を拡張すれば(つまり本棚にあらゆる本が一列にならんでいるような図書館ではない超越的図書館まで考えれば)、あらゆる本を所蔵するバベルの図書館は有ると言えるのではないか、という疑問だと理解してよいでしょうか。

 その疑問を抱かれる人の正確なイメージを確かめたことはないのですが、私の方で疑問に思うのは、その方々は、なぜ「図書館」の概念だけ拡張して、「本」の概念の方は常識のままに留めておくのか、ということです。
 常識を超えてよいのだとすれば、「本」の中にある文字の種類や数(長さ)は、有限個や可算無限個とは限らないわけですね。図書館概念の拡張に伴って、「本」の方も拡張してゆきます。バベルの図書館にある全ての本を全文引用する本、というものも考えられます。その本は自分自身をも全文引用していることになり、カントールのパラドクスの路線にはまり込むことになるでしょう。[R^N の濃度 = Rの濃度 ≠ Nの濃度]というにとどまらず、R^R の濃度……を(本の冊数として)どんどん考えねばならないのではないでしょうか?
 つまり、パラドクスをなくすために「図書館」の概念を拡張したとたん、「本」の概念の方も拡張を強いられ、パラドクスは復活するだろう、というのが私の考えなのですが。

 しかし多くの人が017【バベルの図書館】に疑問を抱く傾向があることは事実のようなので、第3弾を出すことがあれば(未定ですが、出すとすれば「心理パラドクス」的側面を強調しようと編集者と考慮中)、ご意見を採り入れた新たなバベルの図書館問題を書くつもりです。
 今考えると、017【バベルの図書館】や018【リシャールのパラドクス】は、むしろ『論理サバイバル』の第6章、とくに066【一般対角線論法】のあとに置くのが正しかったか、とも思っているのです。017【バベルの図書館】は可算無限と実数濃度のズレの話で止まっており(精神は止まっていないのですが少なくとも文面上は)、一般対角線論法を知っている人は不満に思うのでしょう。とりあえず【バベルの図書館】は一般対角線論法の省略形としてお読みいただいて、疑問を抱く優秀な生徒諸君には、『論理サバイバル』の066【一般対角線論法】へ案内していただければと思います。

 まとめると、017【バベルの図書館】は、常識的な可算無限までの話で論理が止まっているか(文面上)、いくらでも巨大な無限の実在を論理的に認めるか(一般対角線論法へ)、いずれか一方の論理で語られているが、いずれの論理の場合でも、バベルの図書館は論理的に存在できない(全ての本を所蔵できない)、ということになります。

 017【バベルの図書館】は誤りというよりも言葉が足りない系の不備だったかと思いますが、私として数学者のコメントをぜひいただきたいと感じているのは、確率の問題です。2冊とも確率問題はかなりの比重を占めていますが、とくに『論理サバイバル』091~103あたりには、構成上自信たっぷりに書いていながら、実は「これ間違ってる確率5%ほどあるかも」と疑っている答えがいくつかあるのですよ。特に著しい一つを挙げるとすれば、097【射撃室のパラドクス】の中の自作問題である問4とか……。

 確率はつくづく難しいというか(Fさんのご専門「組み合わせ論」は確率とはどのくらい近縁なのでしょうか?)、分析哲学には数学に強い学者がたくさんいるのですが、それでも時々とんでもない初歩的な勘違いをされることがある例を、近刊の学会誌(『科学哲学』36‐1)で指摘しておきました。(ここに全文載せてあります↓)
 http://russell-j.com/miurat/guzen-u.htm

 経済大国になって久しい日本とはいえ、文明レベルの真の尺度/独創的な科学理論に関しては、日本はまだまだ欧米に大きく水をあけられていますね。ぜひ、フィールズ賞を取るような数学青年を続々育ててください! 少年たちのささやかな動機付けの役割を拙著が果たせればうれしいのだが……。

 数学の先生方のコメントはほとんどいただいたことがないので、これからもぜひご指摘、ご教示お願いできればと存じます。



    ★回答2(2003年9月4日 4:47)

O 様

           三浦俊彦

 「アキレスと亀」についての御説を拝読いたしました。
 夏休み中、ずっと大学に出ていなかったものですから、昨日初めて受取った次第です。返事が遅れて申し訳ありませんでした。

 さて、『論理サバイバル』に書きましたとおり、アキレスと亀の問題は、すでに解決済み、というのが私の立場なんです。
 「それら特定の時点以外に別の時点がありうるということをゼノンを説得できる形で明らかにしないと真の解決にはならないのでは」とのことですが、これは話が逆でありまして、「全ての時点を網羅している」ことを説得的に提示しなければならないのはゼノンの方なのです。なぜなら、あえてパラドクスを自分から提示してきているわけですから、立証責任はゼノンにあります。聞き手にはその責任はありません。これは語用論の最低条件だと思います。
 ゼノンが「全ての(つまり無限に拡がる)時点を網羅している」といえる唯一の根拠は、「無限個の数の量を足し合わせている」ということだけですが(その他に何があるでしょうか?)、これは、簡単な計算をすればわかるとおり、アキレスが亀より早いならば有限数に収束する無限級数でしかありませんので、数学的に言って、無限に拡がる時点を網羅できていません。よって、全ての時点においてアキレスは亀に追いつかない、という証明にはなっていないのです。(ゼノンの条件に合致する時空点内ではアキレスは亀に追いつかない、それは誰もが認めることはもちろんです。)
 Oさんが最後に書かれているように、「アキレスの俊足・亀の鈍足の具合など、さらなる初期条件が必要」というのはそのとおりで、実際に「アキレスの方が早い」という初期条件が与えられているわけですから、ゼノンの記述は有限の時点しかカバーできない。それで問題は消滅しています。
 また、「感覚の誤謬」を言うならば、アキレスと亀の問題自体が感覚に依拠しています。そこからもしも「条件外の時点はない(時空の感覚は信頼できない)」ことを証明したのならば、ゼノンは背理法的に感覚の誤謬を証明したことになりますが、「条件外の時点はない」ことは証明されておらず、前提されているだけです。つまり背理法になっていませんね。

 「ゼノンの議論のループに入る」必要はないわけだから、軽く一蹴すべきだろう、というのが私の立場です。
 これについては疑問の余地はないと思います。しかし哲学者の中には、一旦生じた問題をいつまでも尊重する人々がいるので(そして、謎を感ずることそのものが哲学的感性の証しだとまで言う人々がいて)ちょっと困ったものだと思ったりもするのですが……。問題によっては、謎を感じないことのほうが感度が高いということもありうると思うのです。
 駄目押し的にあと一言。もしある特定の記述の範囲内にあてはまる要素が全体を網羅していると主張してよいならば、「偶数はみな2で割り切れる、したがって数はみな2で割り切れる」というのも正しくなってしまいます。「偶数でない数もある」と反論しても、「だって偶数は無限個あるだろ? 全ての数じゃないか」というわけです。そういう詭弁をまともに取り合う人はいませんよね。ゼノンのアキレスと亀もまったく同じです。もはやまともに取り合うべき問題ではないとキッパリ認めたほうがよいと私は考えます。哲学も進歩するというわけですね。無限級数の和の計算法をゼノンがもし知っていたら生じなかった問題でしょう。

 なお、「意識の超難問」と呼ばれている擬似問題等々、哲学や論理学のニセの問題を追放する仕事に私は興味を持っていますが(クオリアの問題など、本物の謎と区別するためです)、その方面の拙論は以下にアップロードしてありますので、よろしければご覧ください。
 http://members-abs.home.ne.jp/miurat1/
 アキレスと亀でも他のことでも、またお考えお聞かせいただければと思います。それでは。