三浦俊彦のページ


三浦俊彦「大正の日本とラッセル−「哲人ラッセル」
という大時代的な鏡が逆説的に映し出す現代の空虚と老成−

『TBS調査情報』n.353(1988年8月号)pp.4-9.


(p.4=1ページ目)
 自分が体験したわけではないにもかかわらず、何かやたらと懐かしい現象というのがあるものだ。例えば、バートランド・ラッセルというイギリス人がいた。「哲人」という大時代な呼び方が似つかわしかった、おそらく世界最後の思想家である。デモ行進の先頭で東西両陣営の首脳に呪いの怒号を投げつけながら一九七〇年数え年九十九で死んだときのラッセルのイメージは、単に反核平和運動のリーダーという他にもさまざまな色を帯びていただろう。
 ヴィクトリア時代の最後の生き残りを自称する貴族哲学者。古きよき科学的進歩原理とヒューマニズムの権化。世界の著名人の中で最も年をとった老聖人。そしてとりわけわれわれ日本人にとっては、ラッセルとは、最後の西洋哲学者ではなかったろうか。鷲のように尖った表情で世界情勢を睨みつけながら人類の愚行を叱りつづけたあの姿は、まさに人類の頭脳としての西欧、というイメージを体現した最後の図像であったろう。ラッセル生前にその言動に触れた記憶を持たない世代の人間が、いまこうして彼について書き始めようとした途端なぜか無性に懐かしさを覚えずにいられなくなっているというのも、「西洋」なるものが進歩のモデルたることをやめ、それに代わる規範が空白のまま久しい今日だからであるに違いない。

 −目じるし−

『来日したイギリス人』の表紙画像  ラッセルは一度日本に来たことがある。彼の生涯のちょうど半ば、一九二一年すなわち大正十年の七月十七日から三十日まで、まだ「西洋」という概念が生きていた時期である。その西洋的科学主義の先端にいたラッセルは、大正の日本人の目から見てすでに世界で特異な存在であった。すなわち数学基礎論で革命をなし遂げた論理哲学の第一人者であり、第一次大戦に遭っては象牙の塔から一転して反戦運動に走りそのためにケンブリッジの教職を失ったあげく投獄までされた活動家であり、また、共産革命後のロシアを初めて視察した西欧人のひとりであった。これらのうち第一の側面に注目していたのは言うまでもなくアカデミズムの哲学研究者たちであり、二番目の側面は大正デモクラシーを背負う自由主義的論客たちに強く訴えかけ、そして最後の側面はいわゆる社会主義者たちの関心を惹いたわけである。ところで、ラッセルが来る二年前にはジョン・デユーイが来日して一連の講演を行なった。またその前後にタゴールが何度か来ており、ラッセルの去った翌年にはマーガレット・サンガー夫人とアインシュタイン、やや下って昭和八年にはバーナード・ショーと、外国の著名人たちが相次いで招かれ話題を呼んでいる。だが、それらの人々の場合、たとえば「実用主義」の代表者、アジア唯一のノーベル賞詩人、相対性理論の物理学者、産児制限の主唱者、等々というようにほぼ肩書が決っており、日本人の側の反応も大体それにふさわしいパターンに則っていたように思われる。
 それに対しラッセルの場合は、右に挙げた三つほどの目じるし以外にも、たとえばヴィクトリア時代の首相ジョン・ラッセルの孫にあたる英国貴族という顔も持てば、イギリスに妻を残したまま愛人とともに世界を遊説して歩く(日本にもその愛人ドーラ・ブラックを伴っている)反キリスト教的道徳家という顔を持つ、といった具合で、彼を迎える然るべき反応形式というものはもともとありえなかったと言ってよい。だから、日本の知識階級はそれぞれがそれぞれの関心にしたがってラッセルの一側面を切り取り、専らその部分に感応するということにならざるをえず、大正のラッセル・ブームはきわめて統一のない、個別的反応の寄せ集めといった様相を呈したのだった。現代の感覚ではちょっと掴みにくいその多様なありさまを見るのに一番手頃なのは、ラッセル自身による記録だろう。ラッセル自叙伝に、日本訪問時の体験を書いた部分が二ぺ一ジほどあるが、そこに次のような記述がみえる。
 船が埠頭に近づいたとき、幟(のぼり)をおしたてた長い行列が行進してくるのが見えた。日本語が読めるものが驚いて言うには、それらの旗にはラッセル歓迎と書いてあったのである。・・・。私たちは始終フラッシュの光に追い掛けられ、眠っている姿までも写真を撮られた。京都と東京で、私に会いに来るようきわめて大勢の教授たちが招かれた。両地で私たちは極端にへつらったもてなしをうけるかと思うと、警察のスパイに絶えず尾行された。ホテルの私たちの隣の部屋はいつも、タイプライターを持った大勢の警察官に占領されていた。ホテルの給仕たちは、私たちをあたかも皇族であるかのよううに取り扱い、部屋から出てゆくときは後ずさりするという具合だった。私たちはよく、「この給仕めが!」と言ったものである。すると直ちに、警察官のタイプがカチカチ鳴り出すのだった。私のために催された教授たちのパーティーでは、私が誰かと少しでも活気ある会話に入るやいなやフラッシュをたいた写真を撮られるのが常で、その結果、会話はもちろん中断されてしまうのだった。
 ここにはまず、著名な社会主義思想家を熱狂的に迎える労働者の一群がいる。つぎに、とにかく世界的に有名な哲学者だというので朝に晩につきっきりで写真を撮りまくるジャーナリスト、カメラマンの一群がいる(実際ラッセル滞在中には各新聞が、彼の動向の一々−(大阪に着いた、労働演説会に現われた、誰々に会った、帝国ホテルに着いた、帝劇を見物した等々)−を多くは写真つきの記事にしてほぼ毎日報道していた)。また次に、反戦運動と共産主義に関わった外来の危険人物を露骨に警戒する官憲の目がある。そしてまた、純粋に学者としての興味で会見に臨んでくる教授・思想家たちがいる。そして最後に、何でも英国の偉い貴族さまだそうだというので「極端にへつらって」もてなす庶民たちがいる。

 −多重性−

 このような、「対応の多重性」とでもいうべき事態が、大正デモクラシー真只中の日本社会を特徴づけていると見ることができるだろう。そもそもが、例えば昭和四十年代以降の日本であれば、いくら外国の著名人が来日したとて、政界の要人などではなく、たかが哲学者とか思想家とかにすぎないのであれば、その人物の移動経路や観劇のさまなどを、文化欄での特集というのではない普通の紙面で一々報道するというのは、まず考えられないことである(昭和四十一年秋にサルトルとボーボワールが来日したときにやや似たような状況だったのだが唯一の例外で、おそらく最後であろう)。当時の各新聞の見出しをざっと眺めると、

 「愈よ来るラ氏に尾行はつかぬ……公私の會合は遠慮する意嚮」
 「初めて刑事の出迎を受けた哲人ラ氏」
 「千餘の聴衆熱狂裡に八名検束さる ラッセル氏より労働者へ」

 …といったものが散見され、まるで新聞記者と警察とが競争でラッセルを見張り、追いかけているかのような印象を受けるのだ。ラッセルは日本に来る前に中国で重い肺炎に罹った。そのため日本での連続講演の予定を取り消してじっくり静養することにし、報道陣とは極力接触せずにすませたかったらしいが、自伝によれば「記者団はたった一つ、警察のルートを通じて私たちの動静を嗅ぎつけ、押しかけた」という。当時にして、これは確かにありそうなことである。ラッセルは警察の監視にはだいぶ閉口したようだが、それよりも彼を悩ませたのはカメラマンの攻勢であった。そもそも彼は日本に入る前から、日本の報道陣には良い印象を持っていなかった。というのも、その年の三月、彼が神戸に入港する四か月ほど前だが、ラッセルが北京の病院に入院し重体に陥っていたところへ、日本の記者たちが連日つめかけて看護団を煩わせたということがあったからである。しかもそのあげく、「大阪毎日新聞」の上海特電でラッセルは死んだと報じ、日本の各新聞そして英国その他の国々の新聞にも、ラッセル死亡の記事が載ることになってしまった。
「誤報:ラッセル死亡」を報ずる新聞記事  因みに、「大阪毎日」をはじめいくつかの新聞におけるこの記事を見てみると、一哲学者の死を報じた記事としては、しかも四八歳という比較的若い哲学者の死を報じた記事としては、意外なほど扱いが大きいような気がする。比較的若くして著名な思想家が死んだという最近の例としては、昭和六十一年にミシェル・フーコーが確か五九歳で亡くなっているが、その新聞報道はごくごく小さなものだった。この違いを例えばラッセルとフーコーの格の違いなどということで説明すべきではないだろう。現に、昭和四十五年にラッセルが、大正当時から半世紀さらに多くの活動を積みいっそう「偉く」なってから本当に死んだときの新聞記事と比べても、この大正十年の誤報は量的にはほとんど見劣りしないばかりか、質的にはよりセンセーショナルだとさえ言えるのだから。つまりは、ロシアにも国際関係にも科学にも革命が起こったあの戦間期にあっては、思想とか哲学とかいうものが現在とは比べものにならぬほど重要視されなければならなかったということでもあるのだろう。ラッセルが死んでいないことはすぐに判明したのだが、誤報の元凶である「大阪毎日」は訂正記事の一片も載せていない。情報社会も細かいところまで洗練されておらず、端的に言ってまだ若かったというところだろうか。ともかくこんなわけで、ラッセルは日本の報道陣を快く思っておらず、たとえば横浜では、フラッシュ攻勢に倒れそうになった妊娠中の愛人ドーラを守ろうと、ラッセルが怒鳴りながらステッキを振り回しカメラマンを追いかけるという一幕があったりした。このようなハプニングも今日では、哲学者来日の折に生ずることなど考えられもしないだろう。レヴィ・ストロースであろうとチョムスキーであろうと、みな然るべく紳士的友好的に、定められた儀礼に則って帰っていく。ラッセル来日に最も雰囲気が似ていたサルトルとボーボワールのときも、一度自動車がぶつかったということが小さく報じられたくらいで、とくに予想外の何事も起こしはしなかったようだ。
 この横浜での出来事についてラッセルは、これほど逆上したのは生涯で二度あるかないかだった、もしカメラマンに追いついていたら自分は殺人を犯していたに違いないと書いている。それほどの出来事だったわけだが、ラッセルの横浜到着については長文の記事を各新聞が掲げているにもかかわらず、この活劇については、まあ当然のことかもしれないが、どの新聞も一行も触れていない。しかし雑誌紙上には、すぐ後に紹介するように、この事件によせてラッセルの「我儘、頑固、短癖症」に眉をひそめた文章も見受けられる。

 −反応−

 ラッセルに関する論文はその頃のどの雑誌のどの号にも載っていたといってよいが、一番面白いのは、ラッセル離日直後発行の『改造』九月号に組まれた「ラッセル教授の印象」という特集だろう。改造社はラッセル招聘の企画元。そこに文章を寄せたのは、京都のみやこホテルと東京の帝国ホテルに設けられた懇親会席上でラッセルと話をした学者・知識人五十人余りのうちの六名である。
 そこに述べられたいわゆる知識人たちの反応というのは、すでに見たように、当時の日本人各層の反応のうちの一角にすぎないと言える。三たび現在を引き合いに出せば、レヴィ・ストロースの場合もクーンやデリダの場合もそしてサルトルの場合でさえも、彼らの訪日に対する日本側の反応というのはとりもなおさず知識人・思想家の反応であり、それに尽きていると言ってよい。しかし当時のラッセル来日への反応は、彼の多面性ゆえにか時代の特質ゆえにか、たぶん両方だろうが、思想的・学芸的な反応だけではとうてい履い尽くせないのだ。だが、知識階級の反応なるものが、その反応様式をメディアによって普及させるという前提のもと、いくらかは客観的・自覚的であることが期待されているだけに、最も洗練された反応となりがちだというのも事実である。ではラッセルに、大正の指導的思想家たちはどう接したのだったか。
 「ラッセル教授の印象」の内容は次のとおりである。

 西田幾多郎「學者としてのラッセル」
 土田杏村「ラッセル氏と露國及日本を語る」
 桑木或雄「文明は寧ろ一様性」
 北沢新次郎「ラッセル及其の一行」
 大杉栄「苦笑のラッセル」
 桑木厳翼「鋭角的人物」

 まず、早稲田の経済学者北沢新次郎の文章だが、これはのっけから次のように述べる。「ラッセルに会見しない内は自分はああした社会問題の識見を有する人であるから極めて砕けたサッパリした人だと思った。しかるに此の想像は全く裏切られて彼れは甚しく我儘な頑固な性質の所有者である事を知った」そして「其の性格の放射的実例」その一として北沢がまず述べるのは、あの横浜港での出来事である。
彼れが横浜の埠頭に上った時に新聞記者の連中が一斉にレンズを向けてマグネシュームを燃いた。由来マグネシュームが大嫌いな彼れは之れを止め様と試みた。然し職業柄記者の連中は、一切関係なしにドシドシ燃いた。ためにラッセル及び其の一行であるブラック嬢並にパワー嬢は白煙の為め苦しい様に見ゑた。茲に於て彼れは生来の短気が爆発して彼れの所持してゐるステッキで写真班を散乱せしめんとし、其れでも聞かざる時に彼れは憤怒の余り You Beast! と叫んだそうである。……写真班の人々は決してラッセル及び其の一行に対して悪意を持ってやったわけはない。……其れに「此の畜生!」は少しひどい申分である。……これが為めにラッセルは横浜のホテルに入り、かくの如き無礼の新聞記者の存在するからには東京へは行かない。横浜からすぐ帰国すると頑張つたと云う事である。流石は英国の由緒正しい貴族の仲間に発育して今迄我儘勝手に振舞っただけに随分思切りのよい事ではあるが、我々から見ると如何にも御坊ちゃん気分に思われる。
 なるほど単純ではあるが、西欧人の不覇奔放に対する当時の日本人、いや日本国の反発を典型的に示しているようで興味深い。マグネシュームのフラッシュといえば現在のストロボライトに比べ白煙を発するなどの分さらに攻撃的な光景を呈したに相違なく、そうした包囲攻勢に対し殺意をもって応ずるラッセルの図は、大戦後の動乱さめやらぬ国際情勢の縮図であるともいえようか(ラッセルはこの時の自分の気持ちを、「ベンガルの有色人叛徒にとり囲まれたインド在住英国人が抱いただろう感情」と記述している)。
 この四十五年後、来日したサルトルがビフテキにかぶりつく姿に西洋人のいやらしさを見たと書いた林達夫の口調がすでに時代錯誤的だったのに比べ、この北沢の「英国貴族の御坊ちゃん気分」といった批判は、単純かつストレートであるだけ迫真性があるように思われる。このあとさらに、一貫して資本主義を嫌う素振りを見せ資本主義的な新聞には会見に応ぜずと言い張っているラッセル一行が、それこそ「資本主義のかたまり」である帝国ホテルに滞在しているのは矛盾も甚だしいではないかといった苦言がひとしきり吐き出される。が、それでも北沢は最後に、ラッセルが離日二日前に一度だけ行なった講演については、聴衆三千六百人余りを集めたその熱気に満足感を吐露してみせている。

 −可能性−

慶應義塾大学大講堂の写真  その慶応大学(大講堂:右写真)でのラッセルの講演「文明の再建」は実際大変な成功であったらしい。ラッセルは何といっても、戦時中に政府を批判して投獄された反帝国主義の闘士として、日本では大いに崇拝されていたのだ。例えば大正デモクラシーの代表者の一人福田徳三は、ラッセルの反帝国主義的姿勢、とくに反英的姿勢に共感して、一時期自らを「日本のベルトランド・ラッセル」と称するまでになっていたし、するとそれに対し直ちに福田批判の論文が現われ(室伏高信「福田博士とベルトランド.ラッセル」『中央公論』大正六年七月臨時増刊号)、ラッセルの真の面目は単に反英的というにあらず、勇気をもって敵国ドイツのみならず自国をも等しく批判した点にあり、それに比すれば英米帝国主義をだけ攻撃し日本の政策には同調するのみの福田はただのショウビニストにすぎない、と叩いている。当時の進歩的文化人たちのラッセルヘの心服は、端的に大正デモクラシーの自己批判・自己反省にまで高まっていたわけである。大戦で堕落したと思われた西欧自由主義を超えるために、日本はなおもやはり、一人の西欧人の思想をモデルと仰ぐ必要を感ぜざるをえなかったわけだ、北沢のあの一見反発的な口調も、こうした西欧自由主義への変わらぬ信頼と渇仰が裏返って表出されたものにすぎず、ラッセル熱の雰囲気を昂めるのに不可欠の貢献をしていることは間違いない。
 改造社社長・山本実彦の回想記によると、京都の会見では土田杏村が一時間余り熱心に質問していたのが目立ったという。彼の報告「ラッセル氏と露國及日本を語る」は、自由主義と社会主義の闘士ラッセルに進歩的知識人がこぞって傾倒していた雰囲気を素朴に代表した資料である。共産主義や日本の対外政策についてかなり突っ込んだ論議がなされ、あちこちが伏せ字や「以下二行削除」の印などで抹消されている(ところでなぜ削除は必ず「二行」なのだろう…?)。しばしば、文脈からしてなぜここが抹消でそこが許されるのかなど首尾一貫しないところもあり、雑誌の進歩性を誇示するために編集部が適当に抹消印を書き加えた部分もあるのではないかと思えるほどだが、当時としてはかなりきわどかっただろう話題が次々に飛び出してきていることは事実だ。
 革命ロシアの状態と日本改造の可能性についてさかんに語り合ったあげく、終り近くでは「一体日米は開戦に至るであろうか、又開戦すれば其の結果はどうであろう……ラッセル氏は此れに関して確固たる意見を持って居られたけれども」云々などあり、現実の開戦に二十年先立つこの時点で日本と英国の哲学者が、早くもかの見通しを論じ合っていた熱い雰囲気が伝わってきたりする。

 −逆説−

 土田のこの手記は、ラッセルの多くの側面のうち、革命ロシアを最初に視察した思想家という面に密着した反応を代表するものであるのは言うまでもない。それでは生粋の社会主義運動家の目には、ラッセルはどう映っていたのか。ラッセル来日直前にたとえば雑誌『社会主義』などで、社会主義者がさかんにラッセル批判の文章を書いていたことがある。ロシアを訪問した際ラッセルは、ソビエト政体はユートピアにはほど遠いという批判的な意見を表明したのだが、それに対し、社会主義者を自称しながら共産革命を批判するとは何事か、というわけで、「お上品學者ラッセル」(堺利彦)、「ラッセルの正體」(近藤栄蔵)といった挑発的な題を掲げた論文が「裏切り者」ラッセルを椰楡し攻撃したのである。『改造』に会見記を寄せた大杉栄は、そうした論陣に参加してはいなかったようだ。彼の「苦笑のラッセル」は、ほんの一ぺ一ジ半の、一見申し訳程度の印象記である。
 …・僕は、実ははじめてあの帝国ホテルと云ふ建物にはいったので、ちよっと面喰ってもゐましたよ。こわごわ玄関にはいって行くと、とっつきの広いホテルのあちこちに、日本人だか西洋人だかがごちゃごちゃゐるんでせう。……誰も知ったやうな顔は見えませんしね。仕方なしに、ずっとはいって行って見たら、改造社の誰れだかにつかまったのですよ。..…すぐ隣りの室に案内されて行くと、…殆んど知らん顔ばかりが集まってゐて、……ぼんやりしてゐる間に、『どうぞあちらへ』と一つの椅子のところへ導かれて、そこでラッセルと向ひ合ひになって、……座ると直ぐ、十幾人かの写真屋が代る代るボンボンやるので、ラッセルは例の口の両角に濃いくまを見せて、「堪りませんな」と云ふやうな意味の事を、其のボンボンのたびに目をつぶっては云ってゐました。
 ことさらに軽く書き流している感じで、深みに立入ることを慎重に抑制しているようだ。甘粕事件に遭う二年前の大杉にとっては、こういう席への出席も命がけであったのかもしれない(因みにラッセルは自伝に、Ozuki(ママ) と Miss Ito が憲兵に殺害された事件について怒りと悲痛の情をこめて述べている)。帝国ホテルでのこの会見は、大杉のほか堺利彦や石川三四郎のような人々が呼ばれていたために多くの警官が派遭されて内外を警戒していたという。さらに加えて、大杉が書いているように近距離からのカメラマンの干渉が頻りで、落ち着いた論議はどうも行なわれなかったようである。それでもこのような会見の場が少なくとも一つの意義を持っていたことが、例えば「殆ど知らぬ顔ばかりが集まっていた」という大杉の何気ない報告から、見てとれるような気がする。つまり、今日以上に階級分化していた学界、普通ならほば繋がりのないアカデミズムの学者たちと在野の思想家たちとが、ラッセル来日のような出来事に遇って初めて顔合せをし、日本思想界が統一的に交流する可能性が与えられた−そういうメカニズムがここにチラリと示されているだろう。
 むろんそれはあくまで可能性であって、ラッセルを契機とした日本思想界の自己確認のようなことは全く進展しなかった。当時は知識階級にとってと同様に警察や新聞雑誌にとってもラッセルのような客は重要だったのであり、いかなる交歓の席にもそれらの勢力が介入し、そのため思想界全体としての反応が有機的な形を持つようになることはついぞ許されなかったのである。自己批判する大正デモクラット。社会改造の託宣を真剣に求めようとした反骨の思想家。英国貴族の不覇奔放に反発した経済学者。ロシア革命を支持せぬ「エセ社会改造家」を非難した運動家たち。賓客を迎える公式の場で右往左往した無政府主義者。…・それぞれが別々の方向を向き、統合を見ずに放置されている。そしてその根底は大衆労働者の歓迎の旗に支えられ、それら全ての上に、官憲とジャーナリズムが強力に覆い被さっている。
 そこにはいかなる外交辞令も礼節もない。あれから七〇年近く経つ今日となっては、現在のいかなる学者・思想家が訪れようとあのような雰囲気が再現されることはなかろう。そしてあの無秩序不統一は、とりもなおさず可能性の表出でもあった。国際的にも国内的にも己れの方向を定められずにいた日本、あるいは緊急に一つの道を見出さざるをえなくなる寸前にありながら事実上まだ大戦景気の猶予を娯しむことができていた日本という社会全体の、当時における様々な選択肢・ポテンシャリティを図らずも、生き生きと象徴していたのが、あのラッセルをめぐる騒然たる奇妙な現象だったと言えるだろう。
 そのような現象をいま振り返えることは、だから、とてつもなく懐かしいことであるはずだ。多分、とりわけ若い世代にとって。なぜならあれは、西欧という模範からいわば親離れをまさぐっていた若い民主国家の肖像なのだから。そういう雰囲気への懐かしさは言うまでもなく、体験に基づく懐かしさではない。またそれは、あの時に戻りたいといった懐かしさでもない。警察の目を盗んで外国の思想家相手に日本の革命や戦争の見込みを語りあう、そういう時代に戻りたいと思う人はおそらく、ほとんどいない。だがあの日本には何か颯爽とした気負いがあった。偉い社会科学者が「日本のラッセル」などという恥かしい称号を大威張りで名乗っていた時代だ。彼に心酔するにせよ反発するにせよ常にうらやましいほど命がけな姿勢が要求された時代だ。戦後、一九六〇年代に、「バートランド・ラッセル平和財団」日本支部をはじめとして日本に四つないし五つのラッセル関係団体が相次いで結成され、ラッセルの反核運動やベトナム戦犯裁判いわゆる「ラッセル法廷」に対する熱列な支持(あるいは反対)の気運が盛り上がったことがあった。その頃出版された平和運動の本のいくつかには、あの老哲学者をほとんど神と崇めた熱烈な叫びがほとぼしり、大正デモクラットの素朴な情熱の残響を確かに伝えていたものである。
 八○年代となってはその余韻もない。もはや例えば「日本のハーバーマス」や「日本のカール・ポパー」が得意げに名乗り出ることなどありえないということをわれわれは知っている。そういう恥かしい憬れが、ラッセルの死を境に少なくとも表面上消え去ったとき、背景となる何かが同時に失われたのである。国家の、世界情勢の若さだろうか。どんな選択肢だろうか。いまだに「西洋の哲人」が日本でもてはやされていたとしたら、それは日本が、世界がいかなる進路をとった場合だっただろうか。いかにもありそうにみえて実は不可能だったその選択肢が、奇妙に懐かしさを喚ぶのである。いつか体験したというのではない、いつか体験したいというのでもない、過去とも未来とも現実的に関わらないどこか空虚な懐かしさ。その情感はたぶん、あの「哲人ラッセル」という熱い鏡が逆説的に映し出すこの現代、ここまで収斂し老成してきてしまったそれこそ空虚」な時代への愛おしさと言うべきものだろう。(終)