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三浦俊彦「B.ラッセルとベトナム戦争−倫理の核時代−
『比較文学・文化論集』(東京大学比較文学・文化研究会)1986v.2-1(通号n.3)pp.86-98.

* 最初の18行分は、筆者の意向により削除。本雑誌 1985 v.1-2 掲載の論文を読んでないとわかりにくいため。

 R.D.レイン(Ronald David Laing, 1927〜。イギリスの精神分析医)は、思想的にラッセルとはまず対極に位置する人物である(前号拙稿注(1)参照)。その差異は、純理論的であるにとどまらず、いやむしろ純粋理論の濃密な深部に発しているのだからこそ、現実の人間世界を見(診)る二人の姿勢、実践的態度へと相応の相違として沁み出してきて然るべきでもあろう。しかるに、レイン、ラッセル、この二人の、生活規範という現実への意識の何とよく似通っていることか。根本的にそれらは同一と言ってよい。「正しい生き方があるに違いない」(前号拙稿50頁下段)というレインの確信は、そのままラッセル=ドンキホーテの行動の基盤に他ならなかった。
 「哲学は、科学のように『真実(ファクト)』と一致することを目標とすべきであり、言語を自律的なものとして取り扱うことはできないと思います。(1)」と最晩年まで言いきるラッセルの哲学観からすれば、−論理と実践の矛盾をしばしば云々される彼とはいえ− ある意味で、一つの倫理的真実を求めて奔走する姿勢が当然のものとして出てくることになろう。しかし、ラッセル的真理対応説や実在論とは最も遠い地点にいると考えられる反科学主義者レイン、最近では「受胎の精神分析」という異次元的な洞察をまさぐってもいる(2)神秘家レインにとっては、臨床医としての使命感に辛くも繋ぎとめられつつ幻想的内観にまかせた詩作へと上昇した際においては、あらゆる half-truth を文学的に相対化し、自由な戯れのうちに採り容れる構えこそがふさわしいと思われる。ところが、レインは「言語を自律的なものとして取り扱う」戯れのエクリチュールに満足することはできない。還るは所詮真理対応説−確固とした明晰な真実を究めずばやまないのだ。
 正反対の思想家がなぜ一致してしまわざるをえないのだろうか。詩人レインの Russellization は、(唯一の倫理的実在への奉仕というその束縛ゆえに、)彼の文学的飛翔力を少なからず損なっているかもしれない。あの『結ぼれ』にしても、真の詩的価値を実現するにはあまりに作者自身による歯止めがききすぎていたではないか(前号拙稿42頁初め参照)。こうしたいわば美学的不幸を呼ぶものは何か。
 それはたぶん、核時代の圧倒的危機の意識なのである、とひとまず言い切っておこう。ラッセルは改めて言うまでもなく、レインにもこの意識が恐怖のイメージを伴って濃い翳を投じていた事実は、前号で摘出しておいた。もちろん、思想家知識人の一様化問題は、ひとりレインとラッセルに関わるのみではない。さまざまな立場から各々豊かな虚構世界をものしている文学者たちが一堂に会して、意外なほどの揃いようで反核を叫ぶ状況を、あえて思い浮かべるまでもないだろう。本来的に多種多様なるはずの世界観・思想的色彩が、コノ一事においては一致しなければならない−グローバルなヒューマニズムヘの収斂。汎く広く一様な一点に狭まってゆくというこの逆理的還元を、使命感厚き知識階級のうちにもたらすものこそが、核の危機という覆いがたい現実なのである。(3)
 世界的な反核平和運動の高まりが真に危険を孕んでいる −孕んでなどいないかもしれないが− したら、それは例えば「反核・軍縮の訴へなどは、多少とも知識人の呼びかけに反応することのあり得る民主主義国には或る作用を及ぼすかもしれないが、元来言論の自由を認めず、民間からの呼び声には聞く耳を持たぬことになってゐる全体主義国家には兎の屁ほどの意味も持たないだらう、・・・・・・それは相対立する二つの陣営の一方にのみ抑制的に働きかけ、他方には何の反応も惹き起さない。(4)」といったローカルな小規範的意味においてではない。人類史の包括的記述の視野で見れば、本当の危険とは、思想の一様化、ヒューマニズムヘの阿諛という事態のもとで、知性行使の基層レベルからの均質化がもたらされざるをえないという意味においてのみ存在する。今日、思想の展開可能性は依然さまざまに信じられえても、例えばもはや、プラトンやへーゲルがそうであったごとき、戦争を積極的に肯定するタイプの巨きな哲学が存立する余地はないだろう(権力の核戦略という杜撰安直な「哲学」は別にして)。多様性の根源的抹消。これは核兵器が生み出したものの中で、核戦争の脅威をさえしのぐ人間知性の危機でもありうる。そして状況の論理に直接起因するこの脅威は、誰々を批判・非難して責めを負わすべきような脅威ではなく、道徳的存在としてのわれわれがただ肯定し、記述することができるのみの脅威なのである。
ラッセル著『ヴェトナムの戦争犯罪』の表紙画像  本稿では、世界的拡がりにおける対極的思想家の一様化的協力、その最もめざましい事例の一つを考察する。それ即ち、ラッセルの提唱にサルトル、ボーヴォワール他の知識人十数名が応召した、1966〜1967年開設の「べトナム戦争犯罪国際裁判」(「ラッセル法廷」)である。レインに大きな影響を与えた実存主義者サルトルと、論理主義者ラッセルとは哲学上は重なりあう部分の一片だにない。しかし、ラッセルは「哲学上の問題におけるわれわれの不一致にもかかわらず私は彼の勇気を大いに賞讃していた」がゆえに、サルトルの参加を「特に嬉しく思った」(5)と述べる。これは、核状況の現実を前にした緊急実践にあっては、思想的基礎の相違などは問題視する必要はないとの知識人一様化現象の顕著なあらわれである。今日、哲学は、圧倒的事実の背後に置いてけぼりにされねば正しくないという運命に(文字通りただ)置かれているかのようだ。
 しかし同時に、この一様化の表面下に潜んだ核時代の複雑な様相を見逃すことはできない。その複雑さは、知識人同士の水平のつらなりの場では一致共鳴のうちに没するが、もう一つの垂直の関係において他のいかなる時代にもなかった鮮かな(そして深刻な)形で表われてきている。本稿は、以上瞥見した思想家一様化問題は通奏低音として保ちつつも差し当り二義的とし、ヒューマニストと戦争現場との交流にはっきり顕在しているにもかかわらず従来なぜか殆ど論じられてこなかったと思われるある論理的なズレを、ラッセルに密着しながら真に明るみに出すことを試みるものである。

  1.論理的断層

 利己心の啓発 −聖人と市民との異なった動機が同じ目標に向って合体するこの現象(6)が最も劇的に表われていたのが、べトナム戦争に際してラッセルか主にラジオで民族解放戦線に送ったいくつかのメッセージである。
 わたしは、連帯と尊敬のふかい感情をこめて、あなたがたヴェトナムの英雄的人民にあいさつをおくります。(中略)あなたがたは、あなたがたの勇気の実例とあなたがたが記録したおどろくべき成功とによって、三つの大陸の抑圧された人民に希望をあたえてきました。(中略)あなたがたは、正義のための世界の戦士であり、男と女とが高貴な理想に傾倒すればどういう英雄的行為をおこなうことができるかを永遠におもいださせるひとびとです、わたしはあなたがたに敬意を表します。(後略)(Message from Bertrand Russell to the Peoples of Vietnam on Radio Hanoi, 24 May, 1966, mimeographed copy, p.1 = 「ラッセル平和財団日本資料センター・資料1」所収。引用は同センター所長・岩松繁俊著『20世紀の良心』理論社、昭和43年、p.206 の改訳による。下線は、三浦)
 ここでの「敬意」「尊敬」といった語は、ラッセルの抱く解放戦線派との連帯感の自然な現われであろう。ラッセルはまた、第三世界の反米闘争派に遍く呼びかけて「好意をいだいています(7)と言い、「感謝せざるをえないのである」(8)と語る。あるいはもう一つ引用すると、「第三世界の人民へのメッセージ」で彼は言っている。
 (前略)ヴェトナム人民の英雄的行為には根本的に重要な教訓があります。あなたがたも、かれらの実例にまけないように努力することを希望します。ヴェトナム人民が抵抗してきたように、アメリカ帝国主義に抵抗することが可能な場合にはどこででも、そうすることが必要です。これが、ヴェトナム人民を援助し、かれらが多大の犠牲をはらってたたかっている理想を実現しうる唯一の方法です。(後略) (A Message to the Peoples of the Third World from Bertrand Russell, 19 October, 1966, mimeographed copy, p.3. 前掲資料n.9所収。前掲書p.206 改訳による。下線三浦)
 これらは、われわれが何気なく見過ごしがちな、一見パターン化された決まり文句のようなものである。ラッセルのこれらの語句は、「ラッセル法廷」に「証人」として出廷し陳述したベトナム民主共和国代表団長および南ベトナム解放戦線代表団長の、それぞれ次のような言葉と大変美しい型通りの対応をなしているのが見てとれよう。すなわち、
……わが国の人民は、犠牲がいかなるものであろうとも、このたたかいを最後までたたかいぬくことを決意しています。なぜなら、われわれは、ただたんにわれわれの独立、われわれの自由、われわれの統一のためにたたかっているのではなく、われわれはまた、全世界の人民の自由のためにたたかっているのだからです。……(ファン・ゴクタク「北ベトナム侵略の拡大」『続ラッセル法廷』ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会編、人文書院、昭和43年、p.232)
 ……われわれは充分に自覚していますが、われわれは自分たちの民族的権利のためにたたかうことによって、国際的責務を果たしているのであり、(中略)五大陸の友人たちがしめしてくれる信頼にたえず答える努力をしています。・・(グエン・バンチェン「解放民族戦線はかくたたかう」右掲書、p.258。下線三浦)
 むろん、ラッセル−ベトナムの語調の対応を、単なる儀式的型式と見倣し去るわけにはいかない。かの状況を、決まり文句や空虚なレトリックを駆った決意表明の交響としてのみ見るのでなく、ラッセルとべトナムの本物の真剣さに応じてひとたび彼らの語句の意味をとことんまじめにとってみるとするならば、さて−ここで問題がおこる。「ヴェトナム人民」は、字義通りの「理想」「全世界の人民の自由」「国際的責務」のために闘っていたのだろうか? 第三世界の蜂起が実際「理想」と「正義」のためのものである、すなわち、単に「われわれの独立・自由・統一」「民族的権利」を求める根本的には利己的なナショナリズム、「アメリカ帝国主義」とは規模の差はあれ質的には同種の国家主義民族主義、のため以上のものであると判定しうるとすれば、その根拠は何か?
 証拠は全く逆の方向を示しているだろうか。つまり、彼らの戦いはラッセルの考えるような理想に導かれたものでないのはもちろんのこと、もしもサイゴン陥落後十年間における国境紛争多発および難民113万の国外脱出(9)という現状の観察をもって単純に当時を推測するを許されるなら、ベトナム他の抗米ナショナリズムは、ラッセルが民衆に次善に期待した「啓発された利己心」でさえなかったのであって、もっと単純素朴な生(なま)の本能的利己心が専らの支えであったのだ、と断じてはいけないだろうか。そこにはもとから、博愛に事実上通ずるコンポッシビリティの利己意識はなく、侵略に対する単なる民族的自我の反発、残虐に対するに憎悪をもってする本能の迸りのみがあった、とするのは誤りであろうか−。
 ラッセルの全声明、全記述のどこを探してみても、彼が自分のいわば「ベトナム理想主義者論」のための経験的証拠を明らかに示している箇所が見当らないということは注目に値する。ラッセルは一貫して根拠なきまま、第三世界即ち理想主義世界と断じているようにみえるのである。
 −いや、証拠はある。この上なく一貫した証拠が。それは、すでに見たごとく、ベトナムをはじめとする第三世界がアメリカ帝国主義を相手どって「英雄的」な「抵抗」を敢然と行なってきているという紛れもないこの事実そのものだ。これこそが、そしてこれのみが行動人ラッセルの示す用意のある必要にして十分な証拠であるに違いない。
 この証拠をもって第三世界に「理想」と「正義」を帰する論証は、いかなる種類のものであろうか。われわれの念頭に直ちに思い浮ぶのは、ニ一チェが、排斥すべき「奴隷道徳」を論ずる中で「仔羊ども」に語らせた、次のような倫理法則であろう。「あの猛禽は『悪い(ベーゼ)』、従って、猛禽になるべく遠いもの、むしろその反対物が、すなわち仔羊が−『善い』というわけではないか(10)」。この道徳は一般に、「お前は悪い、ゆえに私は善い。」という定式の形で理解されているものである。ニーチェに言わせれば怨恨と反動と否定にもとづいているこのようなニヒルな推論は、第三世界に向かうラッセルの場合、「彼らは悪い、ゆえにあなたがたは善い。」という形をとったことになるだろう(あるいは、連帯感を強調するならば「彼らは悪い、ゆえに私たちは善い。」)。
 『西洋哲学史」(1945)において独特の二ーチェ批判(というより論難、攻撃)を展開したラッセルは、「奴隷道徳」の右掲の通りの定式には直接ふれることはなかったけれども、結局、その「奴隷道徳」の論理を自らの理想主義倫理の基盤として迎えることを肯じたであろうか? 「私たちは善い」と言うために、「彼らは悪い」ということとは独立の・もしくはそれを超えた証拠をラッセル道徳は必要としなかったであろうか? いや、ラッセルの情緒主義的メタ倫理もコンポッシビリティの規範倫理も、その論理からいって(細かい哲学的斟酌は今は省略するが)仔羊の道徳と調和することはほとんど不可能であると思われる。つまるところ、「奴隷道徳」に対してはニーチェのごとき規範的攻撃を加えることはしないまでも、論理的批判をラッセルは投ぜずにはすまなかった筈なのである(それは、彼が、「私はよい(、ゆえにおまえは悪い)。」という「高貴な道徳」の論理的欠陥を難ぜずにはいなかった筈であるのと同じことだ)。かくするならば、ラッセルが、彼の人道の通常のいみに照らしてアメリカを糾弾しべトナムを現実的に支持する限りでは全く正しいとしても、べトナム等を道徳的に賞賛する段になると、困難な問題が生じてくることになろう。そうした賞賛の足場は単なる「奴隷道徳」の虚空でしかない −或いは、一足とびに言うならばラッセル法廷」か典範としアメリ力に逆用したニュルンベルク、東京裁判(11)のシステムが、規範道徳上のことは別として、「勝者は敗者を倫理的に裁く資格がある」との論理に立っていた限りでは問題を負うべきだとすれば、このラッセル法廷は「弱者(被抑圧者)は強者(抑圧者)を倫理的に裁く資格がある」との同じく問題的な論理に立っていたのだと言えるかもしれないだろう。

  2.加えて実践的撞着

 これは詮ずるところ、規範と論理の混同という問題である。実践と論理というふうに単純化しても構わない。むろん、人民の利己心の重要性・利用価値をしかと意識していたラッセルが、これらの間の混同を論理的レベルでなしていた筈はない −実践と論理との彼の混同は、それ自体、確かに実践上なされたものに過ぎまい。「アメリ力帝国主義」打倒という実質的目標さえ一致するならば、人民戦線の行動原理のことはさておいて− サルトル他との立場の相違を不問に付したと同様− 連帯感を、「敬意」「理想」にまで高め表明することにためらいは要らなかったかもしれない。しかし、(「理想」レトリック論の前節触れた不適切を別にしても、)それでは糊塗できない、つまり戦略上にみてさえも深い断層がここにはあるように思われるのだ。何よりも問題となるのは、原理的道徳の衣を被ることによって第三世界のナショナリスティックな利己的自己主張を幇助することが、本来のラッセルの聖人的動機による理想の実現と、原理的にのみならず実践的にさえ相容れるかどうかということである。事は、論理から規範の問題へと移行する。
 1966年6月4日から展開したベトナム・ソリダリティ・キャンペーンにおいて、ラッセルは常に people という語を用い nation は使わなかったといわれる。が、そうだとすれば、べトナムその他での人民闘争は、結果としては世界における分立的ナショナリズムの強化につながり、ラッセル一流の世界政府の構想とは対立する事態を招くことになりうるということを、彼自身はどう考えていたのだろうか? ラッセルを典型的な反主権国家主義のアナキストと見る見方(12)は、おそらく正しいだろう。彼にあっては、国際的無政府状態の野蛮な闘争が絶え、愛と正義の理想が達成されるのは、夙に世界政府の樹立にかかっていた。しかるに、「ラッセルは晩年の、5年間に不可解で根本的な変化を経験した。彼はナショナリズムの支持者となったのである。(13)
 これは、15年前の対ソ予防戦争論−ソ連が原爆を持つ前に、アメリカは原爆使用をもって脅かし、ソ連を屈伏させよ− とならんで、ラッセルの政治倫理・社会思想を研究する人々にとって最大の謎と言ってよいと思う。しかも、今度は彼は、強大な一国が実力で世界政府を樹立すべきだとかつて主張した全くその逆を邁っていることになる。この「根本的な変化」について、ラッセルはどこでも何の説明もしていない(14)。のみならず、この予盾にラッセルははっきりと気づいてさえいなかったと思われる。ここで何か満足のゆく解決を与えようとは筆者も企てない。ただ、インドシナ半島のことなど一瞬たりと念頭を占めはしなかったろう昔に、彼自身が次のように書いていたということを、最晩年のラッセルがどれほど憶えていたものだろうか、ということはしばし推し巡らしてみたくなる。
 弱小民族の国家主義は、掠奪民族国家の国家主義に対する防衛である。弱小民族が搾取を行なうかわりにそれに反抗しているというその限りでは、強国の立場よりも正しい道義的立場にあると言える。しかし、独立のために戦っている弱小国家において生み出される感情とは、民族が勝利するやいなや、それまでは非難の矛先を向けていた抑圧者たちの邪悪さをすべて備えるようになってしまうという類のものである。ポーランドは、二百年近い屈従のあとようやく自由を得た。しかるに、ポーランド人たちがそれまでに耐え忍んできた責苦を、今度はウクライナ人たちにかぶせるようなことをしないだけの理性を取戻すことができなかった。国家主義というものは、原理として悪質な(vicious)ものであって、たとえ民族の自由のために戦っている人々の場合であれ、賛美されるべきではない。(Education and the Social Order, George and Allen & Unwin, 1932, pp.205-206)
 むろん、そのあとは次のように続く、
これは、諸民族は抑圧に反抗してはならないということではない。抑圧に反抗するには、単なる民族的視野に立ってでなく国際的視野に立ってなすべきだと言っているのである。
 確かにラッセルは、ベトナム戦争に「国際的視野」を賦与するためにできる限りの活動をした。われわれが問題視してきたあの「正義」「理想」「全世界の人民の自由」「国際的責務」といったコトバも、ベトナム闘争の現実を記述したものととって訝るよりは、唯に願望を力強く押し出した言質として考えるべきだったかもしれない(事実と当為との文法的混同を注意深く調整した上で)。あらゆる方向から国際的視野を追いかけるラッセルは、集会、メッセージ、報道、裁判、デモ、といった精神面での支援にとどまらず、「ベトナム支援義勇軍」(主としてイギリスの青年から成る)の結成・派遣を呼びかけ(15)、また、コスイギン首相に対しソビエト空軍の提供を要請する電報を発信して世界を驚かせもした。(16)  だが、これらは、肝腎の現場の「国際的視野」成熟如何には基本的にお構いなしに叫ばれたのであった。ラッセル自身の「国際的視野」こそ生き永らえつつも、国家主義は「原理上悪質」と釘を刺しておくだけの懐疑性の方は、すでに彼の中にはなくなっていたとみられよう。言うなればラッセルは、最晩年に至って、自らのすぐれた思想「啓発された利己心」の真髄を見失ってしまった感がある。ここでのズレは、ベトナム側がラッセルに真剣に応えていただけに、彼50年の「邪悪な」英米体制との対決における空回り状況よりも却っていっそう深刻でさえある。断層は双方の美しき交感の奥深く匿されてしまっており、道化的空転がここにも確実に存在していながら誰の目にも明らかでない。そうしてみると或いはラッセルにとっては、あれほどの悲願であったベトナム戦争終結を見ることなく死んだのは、かえって幸いであったかもしれないのである。そう、すぐあとに続いたカンボジアなど近隣諸国との争いを知らずにすんだという意味で。理想への同盟者のはずだった小国ベトナムの国家主義的「裏切り」は、キューバ・ベトナムのアメリカや、ハンガリー・チェコのソビエトのような大国へのそのたびの失望、そして党員証を破らずにおれなかったほどの英労働党政権への失望などとは異なった、さらに悲酸で根本的な打撃を、老ラッセルの心に与えたものに違いなかろう。ドン・キホーテ−啓発されていようがいまいが人々の利己的欲求に鋭敏に反応し、理想と憐欄に導かれてときには囚人たちの鎖を解き放って不当な利己心への奉仕をなし、ドゥルシネーア(理想)ヘのご挨拶発足を拒む彼らから石つぶての返礼を蒙った[にがり顔の騎士]傷だらけの図(『ドン・キホーテ』正編、第二十二)と、このラッセル−ベトナム状況とをオーヴァーラッブさせるとしたら、確かに、ベトナムの悲劇をあまりにも冒涜したことになるだろう(か)。しかし、構図としての類似性−理想家と民衆との間の史上宿命的とも言える関係の共通性は否めないのである。
 可能性としての核の脅威のもとにおける対応策=世界政府主義と、現実性として進行しつつある残虐行為を前にして緊急に発動されたナショナリズム称揚の姿勢とが、何ら規範的調整なしに共在するというラッセル内における矛盾、そして、一貫した理想と未開の国家主義とが見かけの一致融合をなす背後に厳存するラッセル−ベトナム間の倫理的断層、この二つが相からんで醸し出しているのは、実に、深阻なる錯誤の一大政治空間である。ベトナム戦争などの第三世界蹶起をめぐって繰り展げられたラッセル現象は、その本来あるべき基本的型式が急性に歪曲された、いわば無意図的に擬装された形のものに他ならない(「彼らは悪い、ゆえにあなたがたは善い」→「この愛がこの憎悪の帰結であるということ、これを隠すことが最も重要である。」(17))。しかし、この歪曲された状況を気遣うことによって、逆にわれわれは、論理的規範的に本来かくもあるべき真のラッセル現象というものをいっそう強くイメージできるようになることは確かだ。それはすでに部分的に実現してもいた、例えば民族主義とは無縁な個々の地球人として街頭のラッセルに従った「啓発された利己主義者」たちの団結する光景である。そして、核状況の中で演じられた出来事であるからこそベトナム戦争がとくに重い意味を持ったのであることを考え合せるとき(「想像もできぬ大破局を免れるべきだとすれば、私たちは、大小にかかわらずあらゆる戦争を回避する道を見出さねばならない(18)」− 因みにそれだからこそ、ラッセルのあの対コスイギン要請は、単に衝動的激情によるものでなかったとするならば、われわれには深い謎として残されるのだが)、あの戦争は、権謀複雑な世界において純一無雑を貫いた −ようにみえる− ラッセル的理想の光と影を、この上ない強さ激しさをもって例証していると考えられるのである。

 われわれは以上で、ベトナムその他のナショナリズム一般に対して批判を与えたのであろうか。あるいは、ラッセルの政治的「錯誤」を暴露し論難せんとしてきたのであろうか。無論、「序」に述べたように、筆者の意図に関するかぎりそのようなことは全くないし、また実際に、いかなる道徳的立場へもコミットせずに切り抜けるべく、筆の運びを操縦してきたつもりである。(アメリカのベトナム破壊についてさえ、人道的非難を明示するようなことは避けおおせていたはずであった。第1節終りから2番目の文の、筆者が付して慎重を期したつもりの「彼の人道の通常のいみに照らして」という句などに注意していただきたい。)つまりは、ラッセルの思想を内在的に追跡していくならば、思想内部および内外間においてラッセルの与り知らぬ興味深い不整合が生じていることが示されるという事実を、単に記述し明確化することが本論の目的であったわけである。ただ、明記されぬまま確と暗示されてしまっているに違いない価値判断 −中には筆者の本音と対立するものもあると推測されるが− に関して筆者自身か責任を持たねばならないことは言うまでもない。レインは、核時代に生きる英国の精神医学者として、病者・東洋・子どもという異文化たちとの遭遇を自己のヒューマニズム形成への不可避的な刺激かつ糧としていった(前号拙稿参照)。そして、「白人の健康なおとな(の男性)」という基本文化の主導によってグローバルなヒューマニズムが世界各地を席捲した、そのめざましい象徴が反核運動であり「ラッセル法廷」だった。(ラッセルおよびラッセル法廷は、アメリカの残虐行為を狂気と呼び、その重要動因がアジアヘの人種差別意識にあることをくりかえし弾劾したものである、また、戦争の残虐をとりわけ強烈に印象づける媒体といえば、どこにおいても、婦女子、とくに母と子の犠牲者を記録した写真であろう。(19))そこには基本文化と異文化との地球規模での対立を経た融合、人道的一様化が実現している。基本文化にすわったラッセル的特権者を強者、虐げられし第三世界などの異文化を弱者と直観的に規定してみるならば、われわれはここで、世界知識人の思想一様化を脅威とする「序」で述べた見解に立って、二ーチェとともに「弱者に対してはつねに強者を擁護せねばならぬ(20)」という判断へと導かれざるをえなくなるだろうか。弱者に特有の混乱・錯覚か、強きものをも巻き込み、高貴な能動的力は畜群の反動的力に汚染されてゆく(21)……しかしこれを単なる知的可能性としてだけでなく、道徳的情緒のレベルにおいて脅威と納得実感できるのは、ニーチェというそれ自体特異な、「異文化」、それも核の世界を知ることのなかった異文化なればこそだろう。倫理は核状況に則って変化しつつある。 ラッセルもレインもサルトルも、そしてわれわれのほとんど全てか、これも「序」に述べたごとく、その変化を是認し推進するすべしか知らない。ニ一チェといえぱ論証ではなくただ叫びのみをもってする非哲学的非論理的な予言者・警世家であったが、その思想を図らずも背景に負って核時代の倫理を掘り起してきたわれわれの論考は、皮肉にも、主として論理的な問題の摘出から成り立っていた。しかし、われわれはこれをもって核状況の倫理の論理的欠陥を突いたことになるとは限らないのだ。そうではなくて、真相はあるいは、核時代においては規範倫理が論理の制御を超越しつつあるし、せざるをえない、という事態が以上示されたということなのかもしれない。そしてこの事態を最も直截明瞭に告げ弘めているのが、これまた皮肉にも、当代における論理主義の権化たる一人物の活動に他ならなかった、ということに、更にわれわれは皮肉とか論理の超克とかでなく、論理そのものの変貌をこそ読みとりつつあるのだと言えもするであろう。核時代が一つの巨大な、さよう、論理的「異文化」を生(な)し遂げかねないとしたならば。


 
(1)B. Feinberg, R. Kasrils, ed. Dear Bertrand Russell, George Allen & Unwin, 1969, p.141
(2)The Facts of Life, 1977, The Vice of Experience, 1982.
(3)「技術世界の倫理学は必要である。なぜなら、平和は、真理に基礎を置いているばあいに限り永続するから。」(C.F.v.ヴァイツゼッカー『核時代の生存条件』講談社、遠山義孝訳、昭和45年、p.18。下線三浦)と、物理学者も(こそ?さえ?)この一様化の例外ではない。
(4)小堀桂一郎「戦後思潮の超克」日本教文社、昭和58年、p.12。同書が学術研究とは、一応切り離された社会評論であることを明記しておく。なお、戦略的利害のことを言うなら、西側の一方的軍縮が行われたときそれがソ連にとっての不利を招きうるという可能性にも注意。(ハーバード核研究グループ『核兵器との共存』1983、邦訳TBSブリタニカ、等を参照。)
(5)Russell, Autobiography, Unwin Paperbacks, 1971, p.667
(6)以下、本稿の第1節と第2節は、筆者の昭和59年度修士論文の準備草稿の中から、提出論文に含めなかった箇所をとりあげ、補訂したものである。本論の理解には、ラッセルの状況思想「啓発された利己心」の説明が要るであろう。それは、核時代では対立より調和の方が実際有利であるゆえ、利己的存立欲求に本当に従って行動すれば、結局愛や人道による行動と一致することになるとの洞察にもとづいて、人々に利己心に従って考え行為するようすすめた教説である。
(7)岩松繁俊氏宛書簡(1965年8月20日付)。岩松前掲書、p.133。
(8)Message sent to Rally in Havana, 10 Jan. 1966, mimeographed copy, 3 pp. 岩松同書、p.255。
(9)UNHCR(=国連難民高等弁務官事務所)調べ。「読売新聞」昭和61月1月21日夕刊第二面による。
(10)二ーチェ『道徳の系譜』岩波文庫、昭和15年、p.46。
(11)ニュルンベルク裁判を模範にするとのラッセルの言明は『ラッセル法廷』人文書院、昭和42年、巻頭メッセージ参照。また、ラッセルのニュルンベルク裁判批判は、彼の War Crimes in Vietnam, George Allen & Unwin, 1967, pp.125-130 にある。なお、ラッセル法廷が準拠すべきはニュルンベルク裁判よりも東京裁判であるとの指摘、および同裁判の文献分析は、フランスの歴史家ジャン・シャスノーの報告証言(『続ラッセル法廷』pp.260-266)を見よ。
(12)Noam Chomsky, Problems of Freedom, Barrie & Jenkins, 1971.
(13)L.グリーンスパン『科学と自由』野村博訳、世界思想社、昭和57年、p.113。
(14)対ソ予防戦争論への弁明は Common Sense and Nuclear Warfare, George Allen & Unwin, 1959 の Appendix II で行なわれているが、ベトナム戦争に関しては彼の自覚的内省がなされたことはなかったようである。
(15)義勇軍については、Message to the First National Youth Conference for Solidality with Vietnam, 10 April, 1967(「ラッセル平和財団日本資料センター資料 n.11」所収)を参照。
(16)電報発信は1966年7月20日、コスイギンからラッセルヘの返書は8月2日、ラッセル平和財団により初めて新聞声明がなされたのが8月15日で、これらの邦訳が右資料センター資料2(9月13日)に載っている。これは世界の主な新聞がトップで報道しており、米ソの直接衝突という事態への危倶の念が少なからず表明されている(例えば『朝日新聞』であれば8月18日夕刊一面と19日朝刊三面)。
(17)G.ドゥルーズ『二ーチェと哲学」足立和浩訳、国文社、昭和49年、p.222。
(18)Russell, Common Sense and Nuclear Warfare, p.29.
(19)例えば、前掲『ラッセル法廷』や『ヴェトナムの戦争犯罪』河出書房、昭和42年、の巻頭写真(WWP、JPSほか提供)を見られたい。
(20)『権力への意志』695.にこうある。「弱者に対しては強者を、不幸な者に対しては幸福な者を、零落して悪質を遺伝された者に対しては健康な者を、つねに立証しなくてはならないのである。」(理想社版『ニーチェ全集』第十二巻、昭和37年、pp.180-181。)
(21)「低級種(「畜群」、「大衆」、「社会」)が謙譲を忘れて、おのれたちの欲求を宇宙的価値や形而上学的価値にまでふくらましあげる。このことによって全生存が卑俗化される。つまり大衆が支配するかぎり、彼らは例外者を圧制し、そのため後者は自信を失ってニヒリストとなるのである。」(同書27.同全集十一巻、p.38。下線原文) 本文中みてきた「正義」「理想」といった諸概念の形而上学性に注意)

付記:
 筆者が先に『正論」(サンケイ出版)1986年1月号所載「反核平和運動における利己心」p.125に掲げた、反核平和の利己心の諸相を類別した(修士論文第八章より)は、本稿に提示した知見を加えるならば、次のように改訂されるということに注意を促しておきたい。(付加は上の矢印および二行分)