三浦俊彦のページ


三浦俊彦「反核平和運動における利己心−バートランド・ラッセルと核時代−
『正論』1986年1月号,pp.112-127.

* pp.117-118は広告のみ


 ラ・ロシュフコーの『箴言』に、「老いてますますかくしゃくたることは、狂気を去ること遠からざるものだ」というのがある。イギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872〜1970)による十数年前までの熾烈な反核平和運動ほど、この警句を妙を得て体現した現象はないであろう。世界を突き離して眺める機知と皮肉の散文家として知られた冷徹の数理哲学者が、とくに晩年に向って、世界の苦悩に没入し一体化した燃える情熱をもって奔走したという不可解、そして、四十年代末から五十年代初めにかけての極端な反ソ的言動からビキニ以後の中立非同盟を経てベトナム戦争以降の反米的姿勢へと至る過激な変貌−こういった矛盾転変はもちろんのこと、彼ラッセルが死の前日まで一貫して人類の未来に注ぎつづけた異常なほどの関心と執念そのものが、いまだにわれわれの中に独特の驚きの念を響かせずにはいない。あのラッセルにとって核時代とは、また、この核時代にとってラッセルとは一体何であったのか。

1.核時代のドン・キホーテ

 ラッセルの大衆不服従運動最高潮の年は、一九六一年であった。二月十八日、トラファルガー広場において二万人の大衆集会を指導し、ホワイトホール官庁街への平和行進の先頭に立って国防省玄関前に坐り込みを行なう。ついで四月三日には、過去百年で最大と報じられた八万人デモ、十五日にはケネディやマクミランをヒトラーより邪悪な史上最悪の人間と罵った怒りの大演説、八月六日ハイドバークにおけるヒロシマ・デー抗議集会へと続き、九月十二日には、ついに百人委員会のメンバーおよびエディス夫人とともに逮捕され(一三六一年条令違反・治安紊乱扇動罪)、ボウ・ストリートで裁判にかけられることとなる。
 そのときの模様を、ラッセルは『自叙伝』(1969)で次のように書いている。
 法廷も警察も私が望める以上に優しく振舞った。裁判が始まる前、一人の警察官が私たちの座っている狭い木のベンチの苦しさを和らげるために、私の腰に当てるクッションを探しまわってくれた。それに対して私は本当に感謝した。クッションは一つもみつからなかったけれども、彼の骨折りを私は嬉しく受けとった。
 二か月の判決が私に言い渡されたとき、「シエイム、シエイム、八十九歳の老人だぞ/」という叫びが傍聴席から起こった。私はその叫びに腹が立った。それが好意から出ていることは私にもわかっていた、しかし私はわざと罰を受けていたのだったし、いずれにしても、有罪かどうかということに年齢が関係あるということは納得しかねたのである。
 ラッセルは、手加減されることを拒否した。ラッセルは第一次大戦中、一九一八年に反戦活動の廉で(領土防衛法違反)すでに一度投獄されているが、戦時下ならぬこの六一年には彼は、もはや体制にとって現実的脅威となる壮年の危険分子ではなかった。尊敬され労(いたわ)られるべき老人であったのだ。「私はわざと罰を受けていたのだった」というのは、ソクラテス的な逆説的服従の姿勢を示しているわけだが、二十世紀のイギリスは、古代アテネに比べて遙かに情け深く、学識名声ある老人を大切にする国だった。弁護団と医師団の供述書が通って、二か月の刑はただちに一週間に切り替えられたのである。
 ラッセル夫婦が運び込まれた先は、監獄ではなく、ブリックストン刑務所附属の病院だった。禁固とはいいながら、実質的には安楽なホテル暮しに等しい待遇であった。食事は自由、面会も自由、電話も自由で、当局から言われたのは『何をしてもよいけれども、たった一つ、外には出歩かないで、ここで一週間だけ静養していただきたい」ということだった。つまるところ、当局の全ての裁決・執行・応対が、単なる儀式にすぎなかったと言えるかもしれない。ラッセルは病室からメッセージをいくつも送って、自分の不在の間の平和行進、坐り込みを指揮し、出獄前日(九月十七日)のデモ「成功」の報に歓喜した。
 確かに何かが空回りしている。だが、言うなればこれは、現在まで続く市民平和運動そのもののドン・キホーテ性を顕わしているのではないのか。真剣な反核平和の叫びは、イギリスなどではしばしば皮肉なジャーナリズムの好餌となってきた。例えば、一九六二年十一月十二日付『ガーディアン』に、「キューバ危機直後の高揚感の波の中で」生じたラッセルと一股市民との大いなる交流を報じた記事がある(右下写真参照)。キューバ危機の間ラッセルは秘書とともに殆ど不眠不休の活動を続け、ケネディとフルシチョフ双方に説得の電報を何通も打ったのだったが、それによって「幾千のミサイルの発進がおしとどめ」られ「第三次世界大戦が回避され」た、そこでこの記事はラッセルを評してsavior つまり救世主としている。
 北ウェールズにあるその「救世主」の家へ、感激した何百人もの人々が「バート、ありがとう、私たちは無事でした」と押しよせていく、そして「ひょろっと か弱い 英雄をつれ出してきて彼の前にマイクが据えられる、人々のこの感激に感激したラッセルが「わっと泣き崩れ」そうな感動の声で演説を行なう、そのあと拍手や歓声や合唱が起こるなかでラッセルヘの感謝の式が行なわれる−そのさまが報じられているのであるが、この長い記事の詳しい引用紹介は別の機会にまわさねばならないけれども、ともかくここには、ウェールズ、ケルトヘの地域的・言語的・民族的特殊意識までもがからかい気分の文体のうちに含められていて、全体が、勇み足の反核運動家たちへの徹底的な滑稽化となっているのである。ここでラッセルはまさにドン・キホーテ的人物として風刺されている。平和運動のドン・キホーテ(的)宿命は、ラッセルのような傑出した中核を戴いたとき最も明白となる、つまり、予言者のまわりに市民の熱狂の声が渦巻き高く響きわたれば響きわたるほど、非情に運動する政治システムの前における一般市民の無力がいよいよはっきりしてくるという逆説を、この記事は示しているかのようである。
 しかし、こうした記事に描かれた光景はむげに皮肉られているとはいえ、これが民衆の自然な情緒に沿った出来事であるという印象までもが歪曲されてはいないようである。民衆がラッセルに示した感動の念は、言うまでもなく、核への激しい拒絶反応そのものの裏返しである。つまりあのような記事からわれわれがもう一つ教えられるのは、核時代の幕明けたる現代にこそ、この未曽有の脅威に対するショック症状が民衆の中に、多少ともヒステリックな形で現われることは、人類という集合が一つの有機体である以上、生理的な必然とも言えるだろう、ということなのだ。
 そして、ラッセルのような然るべき哲人、人類の最長老 −右掲の記事は殉教者とも表現しているが−、そういう存在が人類の情緒を一身に体現した一連の行動に出、大衆に号令しかつ応えられたということは、歴史への実際的影響力云々は別として、核時代初期に、いわば、美的必然性をもっていた、ということになりはしないだろうか。−−このことには後の方でもう一度触れるつもりである。
 世界を現実にどれほど変えることができるかはともかく、核戦略や戦争へのラッセルの怒りは本物であった。キューバ危機からさらに三年後、一九六五年十月十四日(ラッセル九十一歳)、ロンドンのマハトマ・ガンジー・ホールにおける「核兵器撤廃青年運動(青年CND)」の集会で彼は「労働党の外交政策」と題する講演を行なって、アメリ力のベトナム戦争を支持している廉で労働党政府を批判し、五十一年間所属していた労働党からの脱退を宣言、その際ラッセルは、怒りにまかせて壇上で自分の党員証カードを引き裂いてみせたのだった。
 それは一部の人に困ったスタンドプレーと受けとられ、例えば、そのとき一緒に壇上にいた反政府主義の下院議員ウィリアム・ワービーは当惑して途中で集会を脱け出し、十五日付『タイムズ』に、ラッセル卿の行為はみえすいた舞台演出(ステージ・マネジメント)だという談話を寄せている。また、その集会の主催者であるCND委員長オリーヴ・ギブス夫人も、ラッセル卿のジェスチュアはステージド・マネージドだったと思う、と『ガーディアン』に話している。サンチョ・パンサもしばしば主人の狂乱に困惑したというわけだが、しかし、基本的にはこの集会の人々は、殆ど全てがラッセルに合流したのである。十五日付「ガーディアン』によると、
 彼は党員証をポケットから取り出すと、ゆっくりとそれを四つに引き裂き、そして紙片をテーブル上に投げつけた。彼がテーブルから離れると、狂喜した聴衆の拍手喝采が爆発して、数分間にわたって続いた。誰かが「紙片を上に掲げて新聞記者にみせてやれ!」と叫んだ。ラッセル卿は言われた通りにした。さらに聴衆は彼に党員証をもっと破らせようとしたが、ラッセル卿は四つの紙片を高く掲げるだけで終った。
 もっと破れと叫んだ人々の意識は、面白がってドン・キホーテをまわりから焚きつけて狂態を演じさせた人々の意識に似ているとともに、基本的にはやはり、ドン・キホーテに無心に従う忠実な従士サンチョ・パンサの心理だったと言えるだろう。
 ラッセルの脱退が労働党政権にとっていくらか痛手になったかどうかは定かでない。ただ、ラッセル生前は(むろん現在も)核廃絶の兆しすら見られなかったし、彼の悲願であったベトナム戦争終結は彼の死後五年にして実現したにせよ、それはラッセルの意図や行動には直接全く関係がなかったと言ってよい。この激怒する老人の行動・言説の全ては、現実世界に殆ど所期の効果を表わしえていないようにみえるのである。
 つまるところれわれにとって、ドン・キホーテ一流の騎士道的理想の内容よりもその人間そのものの方が面白く意義深いのと同様、老ラッセルの言動のことごとくについても、彼の語ること目指すことよりも彼の姿が醸し出す雰囲気の方にわれわれは一層の興味を惹きつけられるのではないか。
ドン・キホーテ= ラッセル
黄金時代= ヴィクトリア時代
騎士  = 哲学者
ドウルシネーア姫= 人類
サンチョ・パンサ= ラッセル平和財団
霊水 = 経験主義論理
幻術師 = 政府首脳
巨人  = 核兵器
−−単にこう言い切ってしまうならば、そう、ドン・キホーテの思い姫ドゥルシネーアが、悲槍な騎士のすばらしい口上に対して下卑た返辞をし、あの崇高な決意(「ただ幻術の解けたるドゥルシネーアの姿を見ることさえできたら、わしは、望みうる幸福が全部一時(いちどき)にやってきた思いをいたそうぞ」)を到底理解しえない口の臭い田舎娘であったように、笑われるべきはむしろ、かの哲学者とその同志たち以外のわれわれ人類一般の方だということになるかもしれない。が、それならばそれでまたいっそう、ラッセル=ドン・キホーテの言葉と行動は、その明示的な意味内容通りに世界のことを語っているよりも実はずっと多く、彼自身についていろいろと暗示していることになるのである。


2.啓発された利己心

『倫理と政治における人問社会』の表紙画像  さて、しかし、意図して語るところよりも意図せざる姿そのものが意義深い、語りよりも姿、ということに気をとられていると、ラッセルが実際に何を語りかけていたかを見失ってしまう恐れがある。そこで、核状況への実践的対応という点で重要なラッセルの思想、一般に「啓発された利己心」と呼ばれている思想を少し見てみなければならない。これは、ビキニ水爆実験の年、一九五四年に出版された『倫理と政治における人問社会』以降さかんに説かれ始めたものである。
 政治的議論において倫理的考慮に訴える必要があるのはまれである、なぜなら、利己主義も啓発されたものになると、一般的善に則って行動するよう、十分に動機づけてくれるものだからである。(ラッセル『倫理と政治における人間社会』)
 現在では、世界を統一して戦争を全く廃棄すること、貧困を一掃することが、技術的に可能だろう。こうしたことは、人間が敵の悲惨よりも自分の幸福を望むときに実現されるであろう。(『記億の中の肖像』1956)
 理想主義的な動機だけでなく、最も素朴かつ執拗な自己本位の動機も、東西両陣営は問題を戦争の脅威によって解決しようとすベきでないということを至上命令とするのである。(『常識と核戦争』1959)
 この「啓発された利己心」という思想の特色は、利己心という一見非道徳的な原理に強く訴えることにより、惑乱した人々の目を醒まさせようとするところにある。しかし、この啓蒙思想の真のポイントは、核時代においては競争よりも調和の方が実際有利であるゆえに、利己的存立の欲求に本当に従って行動すれば、それは愛や人道にもとづいた行動と結果的には一致することになろう、という、願望にも似た洞察にあることは明瞭だ。ラッセルは『自叙伝』まえがきにおいて、「単純ではあるが圧倒的に強い三つの情熱が私の人生を支配してきた」と言い、それは「愛への熱望、知識の探究、人類の苦悩に対する耐えがたい憐憫の情」であるとしている。そこにみるように、「啓発された利己心」の説教の、真の動機も、愛と憐憫につながる理想主義的な情緒であったに違いない。しかし、直裁に愛や人道を叫ぶだけでは間に合わぬ状況を核兵器が生み出したと感じたラッセルは、全滅は万人の利己心に反する、という信念にもとづいて、人々の利己的知性への訴えを人道主義的理想のために利用しようとしたわけである。
 すると、ここでわれわれが気がつくべきは、ラッセルのこのような啓発の手法が、いみじくも、ドン・キホーテがサンチョ・パンサを鼓舞したやり方と酷似しているということである。かの郷士は、一人の百姓に対して、じきに攻めとるはずの島の大守に取り立てようという約束を結んで、つまり百姓の世俗的利己心に訴えることによって、彼を自己の高潔な理想の実現にあたっての味方につけた。同様にこの哲学者も、地球人民および政府に向って、人類絶滅を避けるという物質的意味での彼らの利己心に訴えることにより、より高い道徳的情操的ユートピアの実現にあたっての味方につけようと目論んだのである。サンチョ・パンサは妻子を振り捨ててドン・キホーテの旅に従った。地球人民の若干も、逮捕投獄や失業の危険を顧みずラッセルとともに行動した。そしてともに、残る大多数の人々の批判と嘲笑を浴びた。そしてサンチョも一部地球市民たちも、理想家につき従った動機が根本的に利己的なものであるという点で、同じなのである。
 平和運動の中心的な力の一つがスチューデント・パワーであるのに応じて、ラッセルの最も近くに集結した人々の多くは青年だった。一九六三年九月設立の「バートランド・ラッセル平和財団」の要人をみても、晩年のラッセルの片腕として活躍したユダヤ系アメリカ人ラルフ・シェーンマンが六十年初めてラッセルを訪れたとき二十四歳であったのをはじめ、クリストファー・ファーレー、ケン・コーツなど殆どが二十代から三十代であった。ここで、ラッセルにつき従う青年たちとラッセルとの、反核平和への関わり方の意識は、確かに異なっているはずである。ラッセル対民衆の構図は、老人対青年という側面から例解したとき、最も著しくその本質を開示する。死にゆく老人と、これから生きる青年と、未来を望むにまず自分が生きたい、これが青年に本質的な第一の願望だ。ラッセルが著書や講演でくりかえし恐れを表明した、核実験による放射性降下物は、若い活発な体細胞・生殖細胞には迅速に作用しうるとしても、ラッセル自身の新陳代謝の鈍くなった肉体に影響を顕わすまでには彼がさらに何十年と長生きする必要があっただろう。今にも起こりうる全面核戦争の恐怖にしても、自分が生きたいから、という動機は、すでに九十の老人にはそうあろうはずがない。
 そこにあるのは、あらゆる分野でやるべきことはなしたと実感しうる充実した長い人生を送れた自分にひきかえ明日もわからぬ核爆発の影に怯え過ごさねばならぬ(はずの)若い人々への憐憫の情、美しい理想が喪われそれに代って世界を支配しつつある狂った原理への憤り、そういった感情である。それらは根本的に非利己的な・利他的な心理なのだ。
 先ほどふれたキューバの危機直後の『ガーディアン』の記事、民衆からラッセルヘの感謝表明の式を描いた記事の中で、人々は「バート、ありがとう、私たちは無事でした」と書いたプラ力ードを持ち、小さな子どもたちの背中に「ぼくは死にたくない」という貼り紙をして行進したと報じられていたのだが、まさに死にたくない死にたくないと叫ぶ民衆の素朴な、しかし啓発された利己心と、子言者の非利己心・憐憫の情との合体が、体制側の利己心を啓発するべくそこになしとげられているのをわれわれは見るのである。

3.聖なる利己心

 さて、苦悩する一般大衆の世俗的利己心から隔絶した核時代の聖人としてラッセルが立ちえたのは何故かといえば、一つには彼が訓練を積んだ哲学者であったこと、もう一つにはすでにみたように、彼が老人であったということによるだろう。老人であることについては、八十歳のとき彼は次のように述べている。
 戦争で殺される恐れのある若い人たちが、人生のよきさまざまなものを欺しられたという苦い感じをもつのは、当然だろう。しかし、人間の悲喜こもごもを知り、なすべきあらゆることを仕遂げた老人の場合には、死の恐怖はなにか卑しく恥ずべきことである。死の恐怖を征服する最良の法は、自分の関心を次第に広汎かつ非個人的にしてゆき、ついには自我の壁が少しずつ後退して、自分の生命が次第に宇宙の生命に没入するまでにすることである。個人的人間存在は河のようなものであろう−−最初は小さく、狭い土手の間を流れ、烈しい勢いで丸石をよぎり、滝を越えて進む。次第に河幅は広がり、土手は後退して流れはゆるやかになり、ついにはいつのまにやら海へ没入して、苦痛もなくその個的存在を失う。老年になってこのように人生を見られる人は死の恐怖に苦しまないだろう、自分の気にかけ育む物事が存在し続けるのだから。そして生命力の減衰とともにものうさが増すならぼ、休息という考えはむげに斥けたものでもないだろう。(『記憶の中の肖像』1956 所収)
 これは確かに、無私の広大な視野を獲得した老賢人にふさわしい言葉だと言える。しかし−果してラッセルは、この文章通りの平穏な晩年を送れたのであったろうか。右に描かれた河と海のイメージ(そう、なにか老荘的な美しさを秘めた神秘的とも言えるイメージ……)に注意されたい。ところが現実には、死して没入すべき海、つまり人類の普遍的生命そのものが核戦争によって消滅しようとしているのではないのか。ここに老いの安らぎはありえない。逆にラッセルは、自分自身に残された余命が少なくなれば少なくなるほど、人類に残された年数も等しく少なくなりつつあると感じ、怯えたのではないだろううか。ラッセルは純粋な非利己主義者だったのではない、人類に生き続けてほしいというラッセルの願望は、彼の利己心そのものだったのではないだろうか。
 一九六七年ラッセルが、サルトル、ボーヴォワールほか世界の知識人を裁判官として招集し五月、十二月の二度にわたって開催したベトナム戦犯裁判、いわゆる「ラッセル法廷」のための子備会議(六六年十一月十六日)のあとで記者団に対し発表された声明の中で、ラッセルはこう言っている。「この裁判によって沈黙の罪を犯さずにすますことができるというのが、私の切実な信念であります。」つまり、「ラッセル法廷」は、人類への義務としての(良心としての)裁判だというわけだ。しかし同時に、同じ声明の中でラッセルはこうも言っているのである。
 私は、傑出した人物から構成される厳粛な裁判を開催するのは必要だと信じています.これらの人物は権力によって傑出しているのではなく、私たちが楽天的に「人類文明(human civilization)」と呼んでいるものに対して、知的道徳的に貢献している程度によって傑出しているのです。もしも文明がはかない幻想以上のものであるべきだとすれば、文明にひたすら貢献しようと努力してきた人々が、文明の名において語る権利、および文明を擁護する権利を主張することは許されるべきです。(「ラッセル平和財団日本資料センター・資料」n.5:一九六六年十二月十二日、より部分的に訳出)
 つまり、ラッセルの活動は、人類への義務であるだけでなく、きわめて正当な権利であり一種利己心の発動だったのである。右の声明の趣旨はそのまま、この「ラッセル法廷」の十二年前にノーベル賞級科学者十一名の署名を付した「ラッセル=アインシュタイン宣言」や、それに続くパグウォッシュ世界科学者会議の意識でもあったろう。
 ラッセルは「人類文明」と言った。彼がキューバ危機をふり返って「この短い時間のうちに、シェイクスピアの詩、バッハやモーツアルトの音楽、プラトンやニュートンの天才にふれる楽しみもおしまいとなったであろう。一歩一歩、芸術・科学・美術の面で文化を築き上げる一切の営みも、永久に−この地球に関する限り、終りとなったであろう」(『武器なき勝利』1963)と言ったとき、その「営み」の年代的末端には、ラッセル自身の大著『数学原理(Principia Mathematica)』が輝いているはずだった。二歳のとき、祖父邸を訪れたヴィクトリア女王の前で立派なお辞儀をし、十七歳のとき差しでグラッドストンのお茶の相手を努めて以来、イギリスという一流国家の政治貴族の知識人として常に地球文明の中枢を歩み続け巨きな足跡を残した自覚を有するラッセルとしては、それだけに、一つの大河としての自分が人類の大海原に参加している実感は強烈であり、その文明そのものが堕落してゆく光景、さらに今は限り失われてしまうという想像は、とても耐えられるものではなかっただろう。晩年ラッセルが死ぬまで住んだ北ウェールズ・ペンリンダドレス村の自邸から、彼はよく、平地が山並みへと続く美しい眺めを見渡したというが、そのときの彼の意識は、まさに、人類文明全体を脾睨(へいげい)しつつ自己の所有とするものの心ではなかっただろうか。ラッセルが各国政府に放った呪誼の言葉は、こうしてみると、自己の正当な財産・権益を奪われんとする動物の本能的防衛の叫びに他ならなかったわけである。押しつけられる死に反発する青年の利己的叫びとラッセルの叫びとは、ミクロ−マクロの対照をもちながら、同質のものとして完全に協和していたのだ。
 ラッセルは言う、
 悲観論者は論ずるかもしれない−なぜ人類を保存しようと思うのか。悩みや憎悪や、今まで人類の生活を暗黒にしてきた恐怖やらの、莫大な重荷を終らせる見込みがたって、われわれはむしろ嬉しくはないだろうか? 苦痛と恐怖の長い悪夢の終末にきて、ついに平和となり、静かに眠れるこの地球の新しい将来を、歓びをもってじっと見つめようではないか? と。しかし、悲観論者は、真理の半分を持っているにすぎない、そしてそれは私の心にとっては、重要性の少ない方の半分である。人間は、残酷と苦悩に密接に関わる能力を持っているばかりでなく、偉大さと素晴らしさの可能力をも持っている。人類が合理的に幸福を望むならば、貧困・病気・寂寥は、ごくまれな不幸となるだろう。現在あまりに多くの人々が悲嘆に暮れさまよっている恐怖の闇は追い払われるであろう。進歩の発展につれて、現在はごく少数の優越者の輝かしい特質であるものが多数の人々の共有となりえよう。こうしたことは、われわれの前途に横たわる幾千世紀の間に可能であり、また事実ありそうなことなのである。悲観論者には耳を傾けまい。もしそうするなら、われわれは人類の未来への叛逆者になるからである。(『人類に未来はあるか?』1961)
 そう−あたかもドン・キホーテにとって、立ち寄る街道宿のことごとくが城であり、行き会う女すべてが美姫貴妃であったように、ラッセルにとってこの世界は、悲観論者には想像もできないほど輝かしく価値高いものでありえたのだ。理想家の目には全てが輝いている。しかもラッセルの場合は、世界の美化は、ドン・キホーテにとってのドゥルシネーアのごとく永久に手の届かぬ憧れのようなものにはとどまらない。覚醒した名士の目には、全てが親しく触知しうるもの、わがものである。だからラッセルは第一になによりも自分のために、人類滅亡を避けたいと思ったのである。こうして、ラッセルの反核平和運動の根底にあるのは、紛れもない利己主義である。しかるに、既にみた彼の「憐憫」の情、利他的慈愛の精神もそれはそれで確かに本物である。ラッセルにおいては、利己心と利他心とが全く同じ目標・同じ対象に向いている、つまり融合していると言えるのである。ここまででわれわれは、反核平和運動という舞台に作用している利己心の、三つの相を切り出すことができた。まず、端的に私は死にたくないという青年・民衆の利己心。次に、そうした民衆に憐憫を覚え、彼らの利己心を啓発鼓舞しようとする老聖人の理想主義的な利他心。そして三番目に、人類の生命を自己の生命と同一視する、文明所有者の利己心である。この三番目の利己心を、人類との融合を表わすあの河と海のなにか神聖なイメージに因んで、私は、「聖なる利己心」と名づけてみた。以上三つの利己心利他心のうち、後の方の二つがラッセルに顕著にみられるものなのである。

4.ファウストとしてのラッセル

 さて、しかし、それで終りだろうか。ラッセルは、憐憫(惻隠)の情と生命への合一感と、この二つのみに動かされた核時代の聖人だったのであろうか。
 'ラッセルの『自叙伝』の中で、第一次大戦勃発当時の自分をふり返った部分に、次のような注目すべき記述がある。
 私の人生は、一九一〇年の前と一四年の後では、はっきり違っていた。それは、メフィストフェレスに会う前と後のファウストの人生と同じであった。私はオットーリン・モレル夫人によって回春を味わい、それが世界大戦によって持続させられた。戦争が人を若返らせるとは奇矯に聞こえるかもしれないが、事実、その大戦は、私に新しい種類の活動を始めさせてくれた。この新しい活動に対しては、数理論理学に立ち返ろうとするときいつも私を悩ませていたあの味気なさを感じることがなかった。
 ラッセルは確かに、ファウスト的人間である。一九〇〇年からまる十年にわたる苦闘の末、二千ぺージに及ぶ『数学原理(Principia Mathematica)』を完成させるとともに数理の専門的探究からさっぱりと足を洗ったラッセルは、まさしく学問と知識では世界の理法を認識しえないと失望したファウスト博士である。
 ただ、ラッセルの『自叙伝』を通読するに、彼が自分のファウスト性ということを明瞭に意識していたかどうかは定かでなく、右に引用した一節なども、表面的連想によるちょっとしたウィットの産物であったと見た方がよいかもしれない。しかし、ラッセルとファウストとの間には現に、内面に及ぶ深い類似が存在したのである。例えば第一次大戦中、ラッセルが愛人のオットーリン・モレル夫人に書いた手紙に、次の一節がみえる。
 当局が僕に対して同情をよせるような兆しがみえます−ちょっと残念な気がしますがね! 自分が真に求めているものを妙なことで発見することがあるものだし、またそれが常にとても利己的なものだというのも妙なものです。ぼくが永遠に求めてやまないのは、意識はしていないがたぶん心の底の方では−刺激です。即ち、ぼくの頭脳を活き活きとさせ、元気旺盛ならしめておくようなものです。蓋しそれは、ぼくを一箇の吸血鬼たらしめるものなのです。ぼくは成功という本能的感情から最も刺激を得ます。失敗はぼくをだめにします。
 このラッセルの「吸血鬼」的な性格は、実際、晩年の反核平和運動にあっても見出されるのである。九十歳誕生日直前、一九六二年五月十三日付『オブザーヴァー』紙に彼はこう書いている、
 私はかつて、老年に達したら、世界から引退し優雅な文化生活を送ろうと考えていたものである。どのみちそれは、怠惰な夢であったろう。重要であると信ずる目的を抱いて働く、という長年の習慣を破ることは難しい。それで私は、たとえ世界が今よりも良い状態にあったとしても、優雅なレジャーを退屈だと思ったことだろう。それがどのようなものであろうとも、私は、起こりつつあることを無視することは不可能だと思う。(イタリック筆者)
 これは、ゲーテのファウストが語る言葉、「もし私がのんびりと寝椅子に手足でも伸ばしたら、もう私もおしまいだ」という言葉と比べることができるだろう。重要なことは、外(ソト)の悪如何ではなく自己の内の行動欲求如何だというわけである。
 そうしてみると、先に整理してきたラッセルにとっての反核平和運動の意味というものは、ここでさらにもう一転しうるかもしれない。すなわち、利他的であれ利己的であれ注意の焦点はともかくも外界にこそあった聖人的動機に加えて、そこには、もっと個人的な、精力的な人間の自己向上の衝動に発したというべき、俗な動機が併存していたのだということである。戦争や核戦略といった世界の悪は、ラッセルにとって、この意味で確かに「常に悪を欲して善をなす力」であった。まさに、ラッセルの精進を刺激促進する伴侶メフィストフェレスだったのである。ラッセルのこの精進は、おそらく、多くの業績を生み出した専門哲学者としての活躍の延長であったろう。ラッセルは最後の哲学書『人間の知識』を書いた十一年後、一九五九年に、自己の理論哲学の解説書である『私の哲学の発展』を書いて、当代流行の日常言語学派(オクスフォード学派)への反論を展開した章で次のように述べている。
 自分の哲学がしばらくのあいだ世にもてはやされたあと、時代遅れだと捨てられるのを見ることは、必ずしも愉快な経験ではない。この経験を上品に受け入れることはむずかしい。
 それだからラッセルは、些か(いささか)上品ならざる平和デモに挺身したのだろうということが、これは決して茶化しではなくして、言えるかもしれない。ラッセルは平和運動家として自らを開いたとき、それとは対照的に、哲学においては彼は自らを閉じ、もっぱら自己の哲学のみを回顧的に気遣いはじめたのであって、若い頃『哲学の諸問題』(一九一二)などでさかんに行なったような、哲学そのものへの省察も消えた。ファウスト博士の生への失望も、あの作品の宇宙的規模の拡がりから推測されるように世界の奥深さに対する学理そのものの弱さを思い知ってのことというよりは、単に自己の学理技術の挫折への苛立ちによる方が遙かに大きかったはずである。真の事態は、徹底的に個人的である。学理と世界とどちらの方が奥深いかはもはや問題ではない。
 挫折感を吐露するファウストに対して弟子のワーグナーはこう言って慰める、「どうしてそんなことでおふさぎになる必要がございましょう。やがてお子様が更に高い目標にもご到達なさろうというものです。」しかし、ファウストにとっては、子孫がどうしようが、とにかく自分が己れの力で医学を窮めそこねたことのみが重大であった。
 ラッセルは、自分の子孫たるウィトゲンシュタインおよびオクスフォード言語哲学などより自分の哲学の方が絶対に優れていると最後まで信じ続けえた点で、ファウストより遥かにましであったと言うことはできる。しかし、やはりかの悩める博士と同じく、もはや自分には現在的貢献をなす力なしと見限って、その代償に、現実世界の血の冒険へと飛び込んでいったわけだろう。一時ラッセルと短くも熱烈な親交を結んだD.H.ロレンスは、第一次大戦のときのラッセルの反戦運動を、欺瞞的な血の欲望(ブラッド・ラスト)だと言って激しく攻撃したのだったが、実際、微小な個人の誇りと精進が地球的規模の舞台で演じられてしまったところに輝き出る対照性(コントラスト)の悲劇、これがラッセルとファウストのドラマであると読むことができるのである。
 かくして、本節までで概観しえたところの、反核平和運動を舞台に繰り広げられる利己心の諸相は、下図のごときものとなる。ラッセルを聖人(セイント)だったと評したのは、例えば彼の娘キャサリン・テートだったが、しかし、下の表のうちファウストとしてのラッセルは、もはや青年や民衆の叫びと呼応し協和する聖者ラッセルを示しはせず、もっと個的に世界から切り離された一実存バートランド・ラッセルを示すのみである。
 ただ、ファウストとは本質的には聖人であったのだと言えるかもしれない。ファウストの自我拡大の欲望を叶えるために働いたメフィストフェレスが、行きすぎにより丘上の老夫婦を殺してしまったことを知るや、ファウストはメフィストを呪い、重苦しく悩むのである。老ラッセルを活気づけファウストと同じ百年になんなんとする寿命を授けた戦争や核も、その活気づけの力の本質は、ラッセルの真剣な呪いと悩みの対象となる性質にこそ負うていたわけである。
ファウスト=ラッセル
学問=理論哲学
ワーグナー=オックスフォード学派
神の恩寵=人類の理性
メフィストフェレス=第一次世界大戦
(以後の戦争・核戦略)
地獄=核戦争
憂愁=ビキニ水爆実験
賭の言葉=世界政府樹立
(第1節末尾の対照表と比較されたい)

 悪が、真のいみで「悪を欲して善をな」しうるのは、おそらく、悪を本当に憎む資質を持った一種の聖人に対してだけであった。
 従って、われわれはラッセルの言動を追いつつその利己心の諸相を見ることによって、史上聖人と目されうるような人一般の典型的モデルを眺めることができている、とも言えるかもしれないのである。 

 

 

 

5.美しき時代

 以上、われわれは、自己犠牲的な道化ドン・キホーテから利己的な吸血鬼ファウストまで、反核運動家ラッセルの諸相を、核時代におげる利己心の分析を通じて眺めてきた。そこに展開している光景は、『ドン・キホーテ』『ファウスト』両物語の論理構造が核時代へと写像変換された結果だと言えよう。ラッセルにとって反核運動とほ、邪まな政府首脳の幻術にかけられた人類に向ってその術を解こうと奉仕する努力奮闘の場であり、同時にまた、核戦略という悪魔の血を啜り享楽しながら核戦争という地獄には陥ちまいと足掻いた修羅場であったのだ。
 昨今、文学研究の場で「ソクラテス道化説」なるものが唱えられることがあるようだが、われわれはここで、「B・ラッセル道化説」ともいうべきものをささやかに確立しえたと言ってよいと思う。また私は先に(第一節)、核時代における予言者と民衆の情緒的な反応は美的な必然性をもつと語った。それをいま一度、もっと広い視点から述べ直しておきたい。すなわち、西欧近代文明の極限形態である核戦略の時代に、その西欧内部から、ヨーロッパ文化の基底にある普遍的な二つの文芸的人格類型を体現したラッセルという人物が出現し壮大な愚行をくりひろげたということは、いかにも核時代にふさわしい雰囲気をもたらしたのであり、反核運動有益か有害かという問題を超えて、これは世界史の美的必然ではなかったか、そう問いかけておきたいのである。
 唯一の戦争被爆国である日本でこそともすれば感情的に縛りつけられて身動きができなくなる実用的・政治的(プラグマティック)な観点、そこを離れて現象に即して核時代を捉えてみるとき、われわれには何が観えるか。最も人間らしい情緒である利己心が平和運動の祝祭空間に交錯するさまを目のあたりにして、死の前の人類が醸し出す美というものが全ての根底にあるのが観てとれないか。もし全滅がありうるとすれば伝染病か天変地異か、ともかく否応なしの外的な災難によるしかなかった人類が、史上初めて、自らの手で瞬時に壊滅する能力を獲得した、しかるにそれでなおかつ生き続けている、ということ。こういった核の下での生存は、それまでの時代における生存とは根本的に意味が違う。そこでの生存は、自然委せの生存・惰性での生存では決してありえず、あからさまな生の意志と常に一体化した生存であることが運命づけられているのであって、ここで初めて人類は、生き続けるならぱ絶えず生の価値を肯定しながらでなければならないという、真の自己意識覚醒の段階へ高まったと言えるのだ。
 われわれは、ラッセルにとってこの世界は、ドン・キホーテにとっての騎士物語世界のごとく価値高きものであったことを思い出すべきである。核の下の人類はすなわち、価値高き世界の人類である。そして核時代とは、人類が自らの死を初めて具体的イメージとして捉えることができるようになった時代でもある。死の自覚は、確かに生を美しくする。死を知らぬ動物より死を子期する人間の生の方が意義深いと言えるとするならばそれと同様に、具体的な死のイメージを持たなかった人類よりも今日の人類の方が、より有意義な生を生きていると言えるだろう。全滅のイメージは強い感情的性質を喚起するとともに、その性質の下に−映像としてはキノコー雲の傘の下に−人類の意識を強く統一する。このような核の世界、統一され・複雑で・人間的性質強きこのような世界を、われわれは今や、この上なく美しい世界だと感ずる。核時代とは、ラッセルが叫んだように、人類史史上最も悪い時代なのであろうか? だがわれわれは、以上のごとく、核戦略という現実そのものを(政治的人道的にはたとえ否定するとしても)美的には肯定するところまで辿り着くことができるのだ。その語りよりも姿に注目したわれわれのラッセル認識に対応して、核世界から何が起こりうるか・何がもたらされるかではなく核世界とは何なのかを美的に味わってみることができるのだ。この美意識を倒錯と感じたときには、例えば核廃絶の努力が実った暁を想像してみよう。核戦争という想像上ながら未曽有の危機を人間社会が無事乗り越えたならば、文明は、その危機をはじめから知らずにすませた場合よりもいっそう高い水準に達することができよう。そのときには、ちょうどメフィストフェレスが結局は人間の理性を信頼した神の掌上で踊っていたにすぎないように、核戦略という悪魔は「人間の活動はとかく弛みがちなもので、得てして無制限の休息を欲する。だからわしは彼らに仲間をつけてやって、彼らを刺激したり促したり、悪魔としての仕事をさせるのだ」という神の意図に沿った意義をば有することになり、人類はファウストのような救いに与かることとなるのだろう。ラッセル個人のファウスト的問題は、つまるところ全人類のファウスト的問題でもある。而していずれにしても、悪魔−核戦略は、状況全体にとって何よりもまず美的な価値の輝きを放っていることは確かなのである。
 核の危機をのりこえる原理の一つとして想像力を称揚した(『人類に未来はあるか?』)ラッセルは、プラグマティックな反核の方向以外には彼自身の想像力を働かせはしなかった。これは一種の知性の死滅を意味する。しかし、彼の直載の語りではなく姿が、核の下あらゆる方向へのわれわれの想像力の発動を現に刺激しているわけである。イヴェントとしてのラッセル−結局自分自身にしか反射してこないむなしい活動によって危機状況における西欧文明およぴ人類文明の高度の自意識の存在を象徴し証しとすることとなったこの精神史上然(しか)あるべき現象−を詳しく研究する機を得、核状況の人間的価値を実感することができた私は、実際、自分がこの核時代に生きていること、このような時代が成立してきていることを喜びに思う。核を絶対悪として一方的無条件的に弾劾する姿それ自体が、核の最も深い意味での積極的美的意義を啓き示してくれているというこの事態は、数理と情熱、機知と怒り、名声と受難、貴族意識と大衆運動、反共と反米、ドン・キホーテとファウスト、等々さまざまなラッセルの矛盾対の中でも、最大の逆説であると言えるかもしれない。(終)(1986年1月、当時筆者は東京大学大学院博士課程に在籍)