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アラン・ウッド(著),碧海純一(訳)「青年のような八十翁 - バートランド・ラッセル」

* 出典:『みすず』v.35(1962年2月)pp.15-21.
* 再録:『バートランド・ラッセル-情熱の会議家』(みすず書房、1963年2月 382,viii p. 20cm)
* 原著:Bertrand Russell: the passionate sceptic, 1957, by A. Wood.
* アラン・ウッド(1915~1958)略歴

碧海純一(記):ここに掲載したのは、アラン・ウッド著『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』(Bertrand Russell - The Passionate Sceptic, by Alan Wood, 1957)の最終章の邦訳である。著者ウッドはオーストラリヤの生れで、シドニー大学歴史学教授を父とし、同大学を卒業したのち、オックスフォードで哲学を専攻した。かれが本書出版後間もなく四十そこそこの若さで逝去したことは、学界のために借しんでも余りあることであった。ウッドは、一般教養人士向きのラッセル伝としての本書のほかに、ラッセル哲学の専門的な解説・批判にも手をそめていたが、このほうは未完に終った。(1961年12月8日)
 松下注:ウッドの『B.ラッセル-情熱の懐疑家』は名著です。残念ながら絶版ですが、アマゾン・コムか古書店で購入してお読みになることをお薦めします。

 当の御本尊の在世中に書かれる伝記というものは当然未完に終わるものであり、強いて結末をつけようとすれば、著者は予言にたよらざるをえないのだが、この予言というのは、ことわるまでもなく、実にあぶない冒険なのである。私はあえてこの危険をおかしてみよう。
 私が本書を書きはじめたとき、ラッセルはもう八十歳に近かったが、そのころでも、かれがまだまだ長生きして、充実した日々を送るであろう、ということは容易に予言できた。第二次大戦後のイギリスは言わば老大家の国だった。何かある問題について面白くて示唆にとむ議論が求められると、誰か老大家に白羽の矢が立つ、ということがよくあった。この種の老大家としては、わがラッセルをはじめ、G.E.ムーア、バーナード・ショー、ウィンストン・チャーチル、ギルバート・マレー、H.N.ブレイルス・フォード(松下注:Henry Noel Brailsford, 1873-1958:英国のジャーナリスト)などが名をつらねていたが、このひとびとは今後もおそらく類を見ないと思われるようなユニークなグループを成していた。かれらの若いころは第一次大戦前の平穏な黄金時代であったし、また、その晩年には医学の進歩によって長寿が可能となった。かれらより一世代前のひとびとは若死にしてしまったし、かれらよりひとつ後の世代は神経をすりへらすような緊張の世界戦争の恐怖やたびかさなる経済上の不安にみちた世界で人となった。この老大家たち、たとえぱギルバート・マレー(G. Gilbert A. Murray, 1866-1957)のような人に会うと、誰しも、そのいかにも学者らしい落ちついた、温和な人柄に感銘を受けるものであるが、年をとってもこのような性質をもちつづけることはこれからの人間には、いかに長生きしても、無理だろうという気がしたものである。
 この八十翁たちは、いうまでもなく、みな人並みはずれた人物だった。(医学のおかげで長寿が可能になったと言ったが)私は、決して、ウィンストン・チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874-1965)の偉大さがサルファ剤やぺニシリンのせいだなどと言っているわけではない--もっとも、こういう薬がなかったら、チャーチルは一九四三年に死んでしまったかも知れないが。こういうひとたちが年をとっても精力を失わなかったのはかれらがたまたま生れあわせた時代のせいだけではなく、何かやはり生来の活力によるものであろう。チャーチルの場合も、ラッセルの場合も、人の手による偉業というものは、煎じつめるところ、エネルギーの横溢に由来するものだという説のよい例証となろう。私は、かつて、ある若いアメリカの大学教授をつれてラッセルに会いに行ったが、たて続けに二時間も哲学上の議論をしたあげく、当のラッセルよりもお客のほうがすっかり疲労困憊してしまったことがある。また、あるとき、BBCで五時問もかけてテレビ討論のリハーサルと本番をやってから帰宅したラッセルが、夜中をすぎても元気一杯だったことを私は憶えている。しかも、この日、かれは午後はやくリッチモンド・パークで遠くまで散歩に行っていたのである。それよりも、私の記憶に最もあざやかに残っているのは、ラッセルと一緒に劇場に行ったのちに、夜おそくなってから夕食を共にしたときのことである。夕食をとりながら、かれが子供のときに憶えたギリシャ語の成句をいくつか正確に暗誦するのを聞いたりなどしてから、午前一時半に私の車でかれをリッチモンドのラッセル邸まで送ったのだが、ラッセルは、その間じゅうずっと、自分がなぜ一八九〇年代にへーゲル主義と訣別することになったかということを克明に話し続けていたので、私はかれの話しに魅きつけられてそちらも存分に聞きたいし、そうかと言って、運転者としての注意義務を怠るわけにも行かず、困ったことを億えている。(ふつうの老人とちがって、ラッセルは車をゆっくり運転すると御機嫌が悪かった。)
 ラッセルは人をからかいたいという稚気をいつまでも失わなかった。いつだったか、イギリスでも定評ある一有カ紙の少壮編集者であるマイクル・力ーティス氏に向って、かれが、「日々の出来事の真相を公正に報道する新聞は、勿諭、ニューズ・オヴ・ザ・ワールド紙だけですよ」と大まじめに断言したことがあった。(注:イギリスの事情に通じない読者のために説明しておくが、ニューズ・オヴ・ザ・ワールド紙というのは、実は、殺人、離婚事件などの詳報を専門とする日曜紙なのである。) ラッセル夫人は、カーティス氏のほうに体をのり出して、「この人にかまわないで下さいね」と言った。また、このおり、かれは「新聞を見て私が信用するのは、クリケット競技のスコアと株の相場だけだ」とも言ったが、若干の真理をふくむことをおよそ最も挑発的な形で表現するこの言葉もやはりいかにもラッセルらしい。
 イギリス人の中には自分の口から出た冗談でみずから笑ったりするものではないと考えている人があるが、ラッセルにはこんなきざで不自然な抑情は全然なかった。かれの冗談は、無尽蔵に、しかも火花のようにたくまず、すはやく飛び出してくる。そして、当の本人は一座をさっと眺め渡してみんながその意味をさとったことをたしかめてから、一緒に笑い出すのである。

 ラッセルに対する後世の評価はどう在るであろうか。この点についても、私は、ある程度正確な予言ができる、とあえて言おう。
 バーナード・ショーの場合もそうだったが、まずはじめに〔ラッセルの死後、かれに対する〕反動と悪評の一時期が到来することはほとんど避けられないであろう。有名人の声価を貶すような本を書いてみようという人にとって、ラッセルは実に恰好の相手であるかれの思想はたえず発展してきているので、前に言ったこととちがう内容の発言をしてみずからの誤りを衆目にさらしてしまったことも一再ならずある。事実、私自身も、多年に渡るかれの厖大な著述を渉猟すれば、どんな問題についても、たがいに矛盾するふたつの発言を引用することができる、という気になることさえある。それに、ラッセルの思想は当代のほかの思想家たちの考えとすっかり入りまじってしまっているから、少し気の利いた批判者ならかれの独創性を大幅に否定するのにさほど困難を感じないであろう。ことによると、これだけは余人にあらずひとえにラッセルの独創の所産だと言えるめぼしい創見は、関係の論理、記述の理論(Theory of Description)、および(『人間の知識』の中に出てくる「経験的推理の五つの」公準だけだ、ということにもなりかねない。
 何よりも、ラッセルは、晩年の著作が過大評価されているのに対し、初期の作品がしばしば忘れ去られているということで損をしている。第一次大戦前のかれの著述をくまなく渉猟する者は、誰しもその知的なエネルギーと活力の偉大さだけでまず圧倒されてしまう。ところが、この厖大でしかも多彩な著作の或るものは聞いたこともないような定期刊行物の中に埋もれているのであり、しかし、その多くは、少数の専門家は別として、普通の人には全く理解できぬものなのである。奇妙なことに、ラッセルは、その最上の作品がごく少数の人にしか理解されえぬために、深遠さを欠いているといって非難されるのである。これらの事情は、すべて、かれが今までに勝ち得た声望に対して、何か反動が起るであろうということを示している。現に、イギリスのアカデミックなひとびとの間では、この種の反動がすでに相当進行しているのだが、まだ一般人士にまでひろがるにいたってはいない。
 長い眼で見たとき、哲学史上におけるラッセルの地位はどうなるであろうか。この点でも、かれには重大なハンディキャップがある。哲学者として不朽の名声をかちうるための最も確実な道は、鬼面人を驚かすような新説を発表し、そしてその説が全然まちがっていたことが後になってわかることである。大抵の哲学者の名はその後継者の手によるその説の論駁を通じて後世に残っている。オースティン教授の言葉を借りれば、「大哲学者になるには、偉大な誤りを犯さなければならない」のである。ラッセルがはたしてこの種の大誤謬をおかしたかどうか、また、誤りをおかした場合にも、(後に)それをみずから指摘することによって、後世史家の楽しみを台なしにするようなことはなかったかどうかは、疑問であろう。かれは幾多の論理学上および哲学上の貢献を残し、それまで不明だった点をいろいろあきらかにしたが、その功績にもかかわらず、かれの不朽の名声は誰かがかれの業績に根本的な欠陥があることを指摘することにかかっているとさえいえよう。もっと正確に言うならば、哲学史上におけるラッセルの確乎(確固)たる地歩は、ある程度まで --ヒュームの場合と同じように-- かれの出した結果が到底満足できないものであるがゆえに、後世の哲学者は誰しもかれの仕事の到達点を自分の出発点にしなければならない、という事情に立脚するものだとも言える。
 私のこの見かたにラッセル自身が賛成してくれるかどうかは疑わしい。かれが哲学上の問題をいろいろ提起したのは、ほかでもない、その解答を見出したいと心から願ったからなのであるから、もし問題を未解決なまま残したとすれば、そのかぎりで、自分の生涯は失敗だったと考えざるをえまい。私は、本書の副題を[「情熱の懐疑家」とするかわりに、「偉大な問題提出者(The Great Questioner)」にしようかと思ったこともあるが、それに対して、ラッセルは、自分は問題提出だけでなく、それに答えることも多少はやったつもりだ、と言ったが、これはいかにもイギリス人らしい控えめな言いかたである。しかし、私自身は哲学者の出す問題の中には解答不可能なものが相当あってもよいのではないかと考える。また、ラッセル自身も、哲学の価値の大きな部分はその問題自体にある、と書いたことがある。私見によれば、哲学者が到達する結論よりは、それに到るまでの議論や、その過程での探究の精神のほうがしばしば一層重要ではないかと思われる。スティーヴンソンによれば、「目的地へ到達することよりも、希望をもって旅をするほうがよい」そうだが、同じことは哲学にもあてはまる。哲学は、多くの場合、どこかへ到達することをめざす活動であるというよりは --もしそうなら、われわれはときにいたく失望することになりかねまい-- むしろ、最良の伴侶とともに、何か意義のある目的を追求する仕事なのである。誰か大哲学者の著作を原典で読んでその頭脳の動きを追うほうが、後世の学者によるその哲学者の結論のダイジュスト --たとえどんなに明快にできていても-- を読むよりもつねにずっと有益であるのはこのためである。そして、まさにこのゆえに、ラッセルの著作は今後もずっと読まれるであろう
 このことは、結局、偉大な哲学というものはそもそも存在しないので、存在するのは偉大な哲学者だけである、ということではないかと私は思う。私が、本書で、「人間ラッセル」についてこれほど多くをのべた重要な理由のひとつはここにある。同じことは政治学や社会学についてのラッセルの著作について一層よくあてはまるであろう。というのは、この方面では確たる知識というものが哲学の場合よりも一層とらえがたいからである。この方面でのラッセルの著作は、少なくともひとつの点で、永続的な価値をもつ。それはかれが〔社会変革の原動カのひとつとして〕「権力欲」を重視し、マルクシストおよびフロイディアン(フロイド主義者)の行きすぎた単純化を拒否したことである。その他の若干の点については、ラッセルは、今から考えれば誰にも容易に指摘できるような誤りを犯したために、批判に身をさらすことになった。けれども、かりにラッセルが同胞たる人類の日々の闘争や苦悩から超然としてきたと仮定しても〔事実そうでなかったのだが〕、そのためにかれに対する我々の尊敬の念が強まったりすることはないはずである
 ラッセルの筆になるジャーナリズム的な、哲学と関係のない著述を通読する者の受ける第一印象はその量の厖大さと実に多種多様な見解がそこに含まれていることから生ずる、途方にくれた、という気持であるが、これは〔サミュエル〕ジョンソン博士が〔エドマンド〕バークを評した次の言葉を思い出させる。「かれは実に大変な人物だ。かれの心の流れはとどまるところを知らない。」 私は、勿論、ポピュラーな著作をも含めて、ラッセルの書いたものなら片言隻句も読む値うちがある、と言うわけではない。しかし、私自身の研究の体験から見ても、少なくとも、かれの器量を本当におしはかろうとする者は一語ももらさず読破すべきだ、と断言してよいと思う。その場かぎりとしか思われないような新聞記事や、あきらかに糊口のために書かれた著作の中にも、ほかでは決して見られないような面白いアイデアやめずらしい事実がのべられているかも知れないのだから
 このおびただしい言葉の集積--ラッセル自身も「多言症」(logorrhoea)という表現を用いたことがある--をかきわけて進む研究者は、一体、とどのつまりどこに行きつくであろうか。〔ラッセルを研究する〕熱心なアメリカ人の中には、深遠な著述の研究対象たるに値いするような託宣的な政治理論や社会理論がそこに見出されるはずだ、と信じている人もあるようだが、私はそうは思わない。そうではなくて、われわれがゆくてに見出すのは、結局、一個の非凡な人物にほかならない、と私は思う--それは、信じられぬほどの学殖をもつと同時に、人に教えることの喜びを知る人物であり、温い人間的な理解をもって、〔人類の〕幸福に資するような考えかたを多くの人々の間に弘めた人物であり、また、愚行と残虐とを心から憎み、全身全霊をこめてそれと戦う力をもった人物である。我々が見出すのはひとりの合理主義者であり、かれは、一生の総決算として、人類は果して今後生存し続けることができるだろうかという問いを発し、それに対して、「私は『然り』ということを絶対に確信している」と答えた人物である。
 宗教や政治の面での「信仰」を求めてやまぬ世界に対して、ラッセルは、いささかも妥協することなく、絶対的に確実なものは何も存在しないという結論をもって答えた。しかし、同時に、かれはまた不可知論者かならずしも怯者ではない、ということをも身をもって示したのである。シニカルな懐疑家が何ものをも生み出さぬことは否定できないが、「情熱的な懐疑家」の生涯は勇気と偉業に充ちたものでありうるのである
 私がここで言おうとしていることを実に見事に示してくれるような論評がオーストラリアの新聞「シドニー・ブレティン紙」に載っている。これはラッセルがオーストラリア旅行中に記者会見をした後で出た記事であるが、それによると、この記者会見は何か悲壮な雰囲気に包まれていた。
「重大な不安の時代に生きる民衆は、同族の長老たる賢人に指示を仰ぐものである。ところが、バートランド・ラッセルほどの賢人ですら、徹底した社会主義と個人の擁護とをいかにして両立させるべきか、共産主義によっておしつけられた専制の時代にいかにして自由主義を堅持することができるか、平和主義を守りつつソヴィエトに対抗するにはどうすべきか・・・などという問題への解答を与えることはできなかった。また、戦争が起るかどうか、戦争を防ぐには軍備以外にどんな方策があるか、というような問いにも答えられなかったのである。」
と同紙は報じている。
 それにもかかわらず、シドニー・ブレティン紙はつきのように結んでいる。
「ラッセルは、一方では、我々にはげましをも与えてくれた。それは全くかれの無尽蔵の活力と快活さのせいである。この世界には原子爆弾もあるが、しかしまた〔ラッセルのような〕不屈の人間精神もやはり存在するのだ。」
 ラッセルが当代の厳しい一論客に与えた印象は以上のようなものだったが、実は、これが私自身の印象でもある。こう私が告白すると、点のからいことをもってよしとする現代の人には耳ざわりであろうし、また、今まで私の公平さに対して読者が多少なりとも持ってくれた信頼感を台なしにするかも知れない。しかし、私はラッセルが何世紀にひとりというほどの偉大な人物であることを寸毫も疑わないし、ラッセルを多少ともよく知る人ならば誰でも同じ結論に到達するはずだと信ずる。
 今から何年も経った後に、盲蛇に怖じずの譬え(たとえ)のとおり、かれを遠くから攻撃することは誰にでも容易にできよう --ちょうどウィンストン・チャーチルを貶すことが未来のどんな三文記者にもできるように。我々の世代の者は、いずれに対しても、「君はかれを知っていないからなのだ」と答えうるのみである。もし本書が幸いに何かの役に立つならば、それは、古来、真理の国の奥深く思いを馳せることによって人類に希望を与えてきた、たぐいまれな、勇気ある人間のひとりについて、也人の理解を助けることにほかならないであろう。