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上木敏郎「若き日の土田杏村(2) - 土田杏村とバートランド・ラッセル」

* 出典:『成蹊論叢』第7(1968年9月)pp.73-85
* 土田杏村(つちだ・きょうそん,1891-1934:評論家)は,1918年京大文卒。西田幾多郎に師事して哲学専攻。大正中期には文化主義を提唱。1934(昭和9)年4月25日、43歳の若さで永眠。 参考:土田杏村「ラッセルの恋愛観」

 ・・・前略・・・。
 現在(1968年)>90歳を越えるイギリスのバートランド・ラッセルが、そのまれにみる長い生涯を通じて、わが国を訪れたのは、この年、大正十年(1921)7月、中国旅行からの帰途、改造社社長・山本実彦の招聘で>*18、2週間(松下注:7月17日~7月30日)立ち寄った時だけである。
 杏村(きょうそん)は彼の来朝(来日)に最も大きな期待をよせる者の1人であった。そして、ラッセルが京都に滞在した3日間(松下注:正確には、7.20夕刻~7.24早朝まで)、いな日本滞在中の全期間を通じて、ある意味で杏村ほど彼に近づき、彼から多くを引き出した日本人は他にないのではあるまいか。杏村のラッセルに対する関心はすでに久しく、大正7年に提出した卒業論文のなかでも、彼の新実在論的立場を論じている。その後も『文化』誌上などにおいて、時折ラッセルについて言及した。すなわち、前年1巻2号(大正9年2月号)に「マルクス、ラッセル及び文化」を、同4号にラッセルの2論文「自由人の崇拝」(A Free Man's Worship. In: Independent Review, Dec. 1903)および「哲学の価値」(The Value of Philosohy. In: The Problem of Philosophy, 1914(松下注:1912の間違い)の最終章)の翻訳と、「ラッセルの思想の根本的立場」という論文を掲載した。同論文の冒頭に杏村は言う。
「…さて余輩(よはい:我々)は……英国のバアトランド・ラッセルの思想の徹底的研究を試みることとする。…思想は瞬時も止まらず、絶えず動き進んで居る。余輩が本誌初号以来解説研究しようと試みて居るものは、此の急激に変化する現実の思想に比較して、或るものは殆ど沈腐(ママ)に属するに至ることが無いとも限らない。此処に研究を始めようとして居るラッセルの如きも或時は其の如き運命にも逢はう。併し熟々考へて見るに、マルクスと言ひ、ラッセルと言ひ、ボリシェヴィズムと言ひ、何人が其の結論をまで現実化して見たか。其等の結論が現実となる事がありとすれば、其は恐らくは何千年何万年の後代の事であらう。我々は少くも其れを五年十年の後に期待し得べくもない。然らば其の何千年何万年の後まではマルクスもラッセルもボリシェヴィズムも水久に新らしく、永久に研究せられる価値はあるのである。伸びんとする溌剌の生命は其をして直に不堯不屈の堅実性を与へんが為め、此の学究的道途を倦むところ無く辿り行かう。」「…ラッセルは米国でも英国でも一向にもてて居ないとか、此れを研究する人などは見ないとか言ふ事を臆面もなく公表して居るものがある。彼の思想が持てようが持てまいが、其の研究者が西洋にあらうがなからうが、我々の研究は其んな事に頓着するものではない。……」
さらにこの年に入って、2巻3号(5月号)には「ラッセル氏に就いて」なる小論文を発表し、冒頭にこう書いた。
「…ラッセル氏が北京で逝去を伝へられた。*19恰かも、風邪の為めに臥床して居て、検温器の度盛リを許り見詰めて居た自分の手に、其の報道の掲げられた新聞が開かれた時には、私の心は、飛び立つ許り喫驚させられた。何にせよラッセルが斃れる(たおれる)には未だ余りに早過ぎる。世界には彼の哲学的忠告を要する問題が余りに多く堆積して居るのである。併し其の後の電報では、氏の肺炎も次第によい方へ見直したといふ事である。此れは又何といふ嬉しい報道であらう。我々は氏に一日も早く快癒の日の来る事を祈る許りである。実の処を言ふと、私は現在の社会改造論者の中で、ラッセルに最も多くの尊敬を払って居た。ラッセルの批評はどんな短かいものでも、其れには哲学者の冷静公平の上着を着せられた社会改造家の情熱誠意が躍つて居た。私は其の議論の内容によって教へられるよりも、寧ろ其の批評の態度によって陶冶せられるところ甚だ多かったものである。・・・」
 ラッセルの来朝を日前に、7月号の[改造』に発表された杏村の「ラッセルの哲学」は、きわめてタイムリーな啓蒙的文章であった。*20>  バートランド・ラッセルは1872年、ヘンリー8世いらいの名門に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業後、数学者として出発し、ホワイトヘッドと協力して「プリンキピア・マティマティカ、(『数学原理』1910-1913)を著わし、いわゆる「ラッセルの背理」('Russell's paradox)を立て、純粋数学の論理学的原理からの導出を試みたが、これは記号論理の基礎を樹立したものとして永く記憶されるべき一大業績となった。
 哲学者としては、初期においてはマイノングの影響によって実在論的傾向が強かったが、『外界の認識』(Our Knowledge of the External World, 1914)の頃から、次第に経験論的傾向を強めつつあった。社会思想についての関心も古く、そもそもの処女作は、卒業後ドイツにおける社会主義研究の成果をまとめた『ドイツ社会民主主義』(1896)であった。ラッセルは同書において、マルクスの『共産党宣言』を「……古今の政治の文献中で最高傑作のひとつである」と推賞するなど、マルクス主義にたいしては深い理解を示しながらも、これに全面的に賛成した訳ではなく、その公式主義的、教条主義的な側面、また階級闘争理論について批判的な態度をとった。*21
 第1次世界大戦にさいしては、その反戦運動のゆえに6カ月の禁固刑をうけた。彼が釈放された年に試みたロンドンでの一連の講演をまとめたものが『精神の分析』(The Analysis of Mind, 1921)である。
 1917年10月、ロシアに革命が起り、ボリシェヴィキが権力を掌握した時、ラッセルは当時の一般社会主義者達と同様、この革命を熱烈に歓迎した。そして、この革命の過程とその成果とを自らの眼で確かめるべく、1920年5月、イギリス労働党代表団の非公式メンバーとしてソビエト・ロシアを訪問し、約1カ月問滞在した。そしてかってドイツで研究したマルクス主義が、ここでどのように具体化されているかをするどく観察し、その成果を『ボリシェヴィズムの実践と理論』(The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)にまとめた。同書は訪露見聞記と、その理論の批評の2部に分れている。ラッセルは当時のロシアの国情からは、ボリシェヴィキのとった行動は恐らく不可避であったろうと、多分の同情を寄せながらも、しばしば彼らの間に見られた「宗教的・メシア的狂信」に対しては、極めて批判的であった。しかしその批判も、カウツキーやスバルゴーに見られたような感情的な議論ではなく、終始哲学的な冷静によって貫かれていたから、杏村も同書をポストゲイトの「ボリシェヴィズムの理論」(R. W. Postgate, THe Bolshevik Theory)とともに高く評価し、その見解に多大の敬意を表していた。*22
 右のラッセルの著書は、熱烈な革命礼賛を彼から期侍していたイギリスの社会主義者たちからは、はなはだしい不評を買い、「革命への裏切り者」として彼から離れてゆく友人たちも少なくなかった。さきには戦争反対のために友人たちを失い、今またロシアヘの批判のために、平和運動を通じて得られた別の友人たちを失なった孤独のラッセルを力づけ、励ましてくれたのは、のちに彼の2番目の夫人となるドーラ・ブラック(Dora Black)嬢であった
 ロシアから帰国後まもなく、ラッセルは中国を訪れ、各地で講演し、半年の契約で北京大学の講壇に立った。同じ頃ジョン・デューイも中国を訪れている。彼らが、各分野で新旧2勢力の対立する中国を訪れたことは、日本のジャーナリズムの注目をひいた。大正10年3月から7月にかけて、芥川竜之介が大阪毎日の海外視察員として中国に派遣されたのも、けっして偶然ではないであろう*23
 大正10年(1921)7月17日、ラッセルを乗せた営口丸は神戸港に碇泊した。

 「…此日恰も大倉山公園にて催された労働者の運動会にて勢揃ひせる各労働組合代表者約百余名、数十梳の赤旗を押立て、労働歌を唄ひつつ波土場に来て整列出迎へた。ラ氏は白の背広にヘルメットを冠り、籐椅子に凭って(もたれかって)居た・・・(右写真「大阪朝日新聞」1921年7月18日参照:「日本では死んだはずだと、門司で書いたラ氏の筆跡)」*24
 「……折柄自動車で賀川豊彦氏が来て籐椅子に寄りかかったラ氏と初対面の挨拶を交し、ラ氏は『兄(ママ)が神戸の労働争議の中心になって運動しつつある元気さが私を愉快にする』と述べ、賀川氏が『神戸4万の労働者は世界的哲学者の来朝を歓迎して居る』と云ったのに対してラ氏は、『労働組合の自然的の成長を期待して居ると諸君に伝へて呉れ』と再度堅い握手を交した。それからラ氏は愛人に助けられて上陸し、自動車の傍で記念撮影をなし、車上から歓迎の労働者連に会釈し・・・…」*25、同夜は神戸に投宿した。
 翌18日は大阪で、19日は奈良で過したラッセルが京都に入ったのは、20日の午後だったが、杏村がはじめて彼に会ったのは翌21日である。この日の杏村の行動はほぼ左の如くである。
「ラッセル氏案内のため自動車朝はやくより来る。都ホテルにてラッセルと会見、議論など盛に出づ。四時頃一旦帰宅、午後5時頃より又ホテルヘ行く。夜は大学の先生方も一緒に会食。」*26
 この日のラッセルとの「会見、議論」の内容を杏村は、『改造』9月号に詳細に報告しているが、同文の冒頭にラッセルとの初対面の時の光景と印象を次のように記している。
『九時頃になってもラッセル氏は容易に食堂へ出て来さうになかった。病後に加ふるに連日の疲労で無理も無い。もう間も無く食堂がしまふからといふのでラッセル氏に其の旨を通ずると、『今直ぐに行く』といふ返事があって、暫くすると、応接室の前の廊下にシガアをくゆらしながらびっこを牽いて歩いて来るラッセル氏の白服姿が見られた。側にはジャパン・クロニクルの主筆ヤング氏及びブラック女史が立って居た。一見して私は此の丈の高い、身体の細い、眼の鋭い人をラッセル氏であると見た。私は『改造』の社員の人達と一緒に静かに氏の後へついて食堂へ這入って行った。朝の時刻がもう大分に遅いので、都ホテルの広い食堂には、残って食事をして居る客が少なく、『しんみりする会合をするには却て都合がよいな』と思った。食卓に就いた処で私は山本氏から一同の人達に紹介せられた。
 ラッセル氏は見るからに哲人らしい、瀟酒(しょうしゃ)な姿をして居る。社会評論家として見ても、情熱の力を以て民衆を煽動するといふ側の人では無い。ただすべての慣習や権威に誤魔化されないで、自己の学的良心の命ずる儘に正義と自由との声を挙るといふ人だ。氏を危険人物だと言ふものは、自分等の不公平な慣習や権威に執着し過ぎて居る人だ。私は氏の著書で読んだと全く同じい(まま)感じの風采の中に見た。哲人といふよりは科学者といふ方が寧ろ適当して居るかも知れぬ。氏と会見した3日間を通じて、氏はどんな処でも他人に無意義なお上手を言はなかった。換言すれば、氏は少しも外交家としての交際振りを見せなかった。其の論ずる問題が、日本のものであれ、英国のものであれ、すべてに通じて至極公平冷静な、インタアナショナルの態度を取って居たのである。其の態度は私をして直ぐに氏に馴れ近づかした。そしてゆっくり氏と英国や日本の問題を話し合ふ悦びを私に持たせてくれた。……」
 ラッセルとの会見では、
あなたは哲学の上では新実在論の立場を取って居られる。然るに社会哲学の上では本能論を非常に重要なものとして取って議論して居られる。私は未だ此の両者の間の中継ぎをする貴方の議論を拝見しない。両者の間に何等かの矛盾を来す事は無いであらうか。
といった杏村の質問にはじまる哲学上の議論から、ラッセルの見聞した労農ロシアの現状およびボリシェヴィズムにかんする理論的な問題、さらには各国の思想自由の問題や、それについてのイギリスの政策、日本の政策等々、きわめて多岐にわたるテーマが話題となった。
「…ラッセル氏の来朝がもっと早くから分って居ったならば、私はうんと整頓せられた質問を持って行って、正当に自分の疑問を明らかにし、又同時に氏の学説に対する私の不満を或る程度まで言ひ現はす事が出来たかも知れぬ。けれども私は過日来の自分の専門的研究に時間を取られて了って居て、其れだけの整頓をする余裕も無く、ただ不断に考えて居る様な疑問を勝手に一端から述べて見るより外は無かった。加之(これにくわえるに?)自分の英会話は甚だ不完全であるから、話すといふ事に多くの努力が注がれて了って、自分の思索を妨げてはいけないと思ひ、始終橋口氏の通訳を待って完全な理解を得る事にした。…
「朝から随分長い会話であった。ラッセル氏が時計を出して時間を見られた時には、もう午後の一時を過ぎて居て、一同は軽い空腹を意識した時であった。前後四時間に亙る長い会話で、しかも始終精神の緊張を要する問題の論議に病後の氏を疲労させたのは大変に済まない事であったと私は思った。
一同は頗る愉快に既に遅い食堂の方へ席を立って行く事にした。」
 夜は改造社が西田幾多郎をはじめ、京大教授その他合計27名を都ホテルに招待して、ラッセルの歓迎会を開いた。厨川白村の歓迎の辞にはじまって、ラッセルと西田との哲学論議その他が交されたあと、杏村はラッセルに対して、さきの会談で意をつくさなかった点を質問した。この時の光景にふれて、改造杜長山本実彦は次のように言っている。
「・・・その夜は、もちろん、哲学上の意見についての話が主であったが、このほど死んだ土田杏村君はロシア渦激派の問題について、一時間あまりも、質問してをったのを記憶してをる。…」*27
と書き、この時同席した恒藤恭も、
「……そのとき土田君が広い室の一隅で、ラッセルと膝を突き合はせていろいろと熱心に質問し、ラッセルが親切にこれに答へてゐた光景を私は今でもはっきりと記憶してゐる。」*28
と書いている。
 杏村はさらにラッセルが京都を離れてからも、書信を送っていくつかの疑点を正そうとした。徹せずんばやまず、という杏村の面目躍如たるものが感ぜられてならない。翌22日には、杏村はラッセルを知恩院、清水(寺)その他の名所旧蹟に案内し、午後4時頃帰宅した
 杏村のラッセルとの会談や京都案内などは、恐らく5月8日、山本実彦が杏村を自宅に訪れた時にその計画が打合わせられたものであろう。
 この2日間にわたる緊密な交渉によって、恐らくラッセルも杏村に非常な親しみを感ずるようになったもののようである。杏村の紹介によって彼を訪問した一青年とも快く会っている。若き日の英文学者左右田実は、ラッセルとの面談の喜びを杏村にこう伝えている。
「……今朝八時、都ホテルに橋口氏を訪問、待つこと暫時にして、ラスル先生自ら会はんと言はれ、ここに思ひがけなくも、天下の大思想家と会見の栄を得ることになりました。……博士は至極御機嫌よろしく、始終にこにこしてわたくしの質問に答へて下さいました。Russellの発音は、やはりジョウンズの発音辞書の示すごとく〔RASL](ラスル)只一つでした。面会の時間はただの三分でしたけれど、真の学者の謦咳に接することを得、且つ永年の疑問を永解することができたのはこの上ないよろこびです。これ尊兄御紹介のお蔭と、深くお礼申上げます。……」*29
 あたかも語学雑誌の上などでRussellをラッセルと読むのか、ラスルと読むのかが問題になっていた頃であった。
 24日、杏村は午前10時発の汽車で東上するラッセルを京都駅に送りに行った。東京でもラッセルは20数名の学者、思想家たちと帝国ホテルその他で会見し、ただ1度ではあったが、慶應義塾で「文明の再建」と題する講演を行なった。 (右写真:当時の慶應義塾大学大講堂)
「犬養、尾崎氏の憲政擁護のときの演説会より、もっと盛んであった、と云はるる多人数の聴衆を前に見、彼は感激の絶頂に達して、自分が病であることを打忘れて、一時間あまり、突っ立ったまま、息をもつかず、滔々(とうとう)と一大演説をオっぱじめた。そのときは眼からは、まったく火が出るやうで、熱烈そのものであった。演説がしまったとき、カーキ色の洋服は、しぼるやうに汗がいっぱいであった。……」*30
と、その時の印象を山本実彦は書いている。
 杏村は新聞紙に報道される東京でのラッセルの消息にも大きな関心を払わないではいられなかった。3日間を共にすごした自分を、ラッセルがどの様に見ているかといった様なこともやはり少しは気になっていたのかも知れない。杏村は次のように書いている。
「ラッセル氏が東京で新聞記者に語った感想に、『日本人は意志的だ。人の考へも顧慮しないで、無理遣りに自分を押し通す。』といふ風な事を語っておったので、少しひやりとした。僕などと来たら、まるで外交を知らないから、偉い学者だらうが運動家だらうが、遠慮無しに質問したり攻繋したりする。気に入らぬ事を言って感情を害したりする事が随分あるかも知れない。」*31
 7月30日正午、ラッセルらを乗せたカナダ太平洋汽船エムプレス・オブ・エイシャ号(Empress of Asia)は、バンクーバーに向けて横浜を出帆した。
「……ラッセル博士は愛人ブラック嬢とタツー女史に助けられ、徒歩で其疲れた身体を桟橋に現はしたが、見送り人は改造社の山本氏、大杉栄氏、其他20余名で、殊に大杉氏の無雑作な浴衣姿が人目を惹き、大哲人ラッセル博士と東洋の社会主義者との最後の堅い握手が交はされた。『機会があったら又日本へ』といふ名残りの言葉と共に船は奏楽の裡に徐々と埠頭を離れた……」*32
 8月3日、船中でラッセルは東京滞在中、杏村から受取っていた書信への返事を認めた。それが哲学と社会思想に関する杏村のいくつかの質問に対して要領よく、簡潔に答えたものであることは左に見る通りである。*33
SS Empress of Asia, Aug. 3, 1921

Dear Sir,
I must regret that during my brief stay in Japan I had no time to answer your kind letter. I will attempt to do so now.

1. With regard to sense-data and sensation, I have somewhat modified my position, as you see from my The Analysis of Mind, now on sale at Maruzen in Tokyo. I do not distinguish two words, one 'real' and the other 'ideal'. I think there is only the 'real' world.
2. Sense-data are defined as those sensibilia of what we are aware. Presumably there are innumerable sensibilia of which we are not aware, but by definition we can have no empirical evidence of their existence.
3. I do not believe in a dualism of matter and spirit. Both matter and spirit are to my thinking, logical constructions not existing things. This point also you will find explained in The Analysis of Mind.
4. I think there are no logical grounds for either asserting or denying the existence of an external world. Psychology only explains why, in fact, most people do assert it.
5. I think very likely your criticism of guild socialism may be sound in theory, but in practice I do not know of any better system suitable for industrially backward countries such as Russia and China.
6. I do not believe in the 'general will'. I think it is a fiction. In philosophy I am an atomist. Even the individual seems to be already a complete logical structure. I think all government is essentially the imposition of the will of the strong upon the weak.

Yours faithfully
Bertrand Russell


(18)山本は大正8年、『改造』を創刊していらい、ラッセルのほか、ジョン・デューイ、サンガー夫人、タゴール、パーナード・ショー、アインシュタイン等を自費で招聘しており、文化史的に大きな役割を果した...、
(19)北京電報の報道を総合すれば、ラッセルは3月中旬肺炎に冒され、23日入院したが、26日には病勢危篤を宜告され、27日朝死去したことになっている。「東京日日新聞」上海特派員の村田君が、どこでどう早耳に聞いたたのか、『ラッセル、北京において客死す』と電報をうってきた。近く改造社の招待で日本に渡来することになっていた時のことであるから、相当センセーショナルな大見出しで報道された。この報道が、東京電報となって北京に逆輪入された。……」(横関愛造「バートランド・ラッセル」――『思い出の作家たち』――昭和31年・法政大学出版局刊・所収)。こんな事からラッセルは日本の新聞記者ないしジャーナリズのあり方には一種の反感を抱いていたらしい.…
(20)改造社社員・横関愛造が社を代表してラッセル招聘のために北京に入ったのは前年秋である。すでにその頃、杏村がラッセル来日のことを知っていたかどうかは不明。なお、この文章は「現代八大哲学者と其の思想」という特集の1つとして書かれたもので、他に「ベルグソン哲学の精神」(金子馬治)、「オイケンの思想」(安倍能成)、「ハイソリッヒ・リッカート」(佐竹哲雄)、「ジョン・ヂュゥゥェイの哲学」(田中王堂)、アインスタインの哲学(桑木或雄)、『芸術の哲学者サンタヤナ」(礫川道人)、ベネデット・クローチェ」(桑木厳翼)の諸文があった。
(21)ラッセルのこのような考え方には今も変りがない.「なぜ私は共産主義者でないか」(『自伝的回想』)参照。
(22)土田杏村「ボリシェヴィズム研究」「ポリシェヴィズム研究書目並びに方法」(『文化』大正10年4月)。
(23)今村与志雄「日本文化・魯迅・ラッセル」(大修館刊『日本文化と中国』(昭和43年)301頁)。)
(24)『東京朝日新聞』(大正10年7月18日号)。
(25)『読売新聞』(同上)。
(26)『記録』
(27)山木実彦「ラッセルの来朝」(『世界文化人巡礼』(改造社、昭和23年2月刊))。
(28)恒藤恭「土田杏村の社会哲学への方向」。
(29)土田杏村宛書簡(大正10年7月23日付)。
(30)山本実彦「ラッセルの来朝」。
(31)『文化』(大正10年9月)編輯余録。
(32)『東京朝日新聞』(大正10年7月31日号)
(33)自筆、エンピツ書き