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土田杏村「ラッセル氏に就いて」

* 出典:『文化』v.2,n.3(1921年5月号)pp.31-36.
* 土田杏村(つちだ・きょうそん:1891~1934/右下写真): 評論家/1918年京大文卒。自由大学運動で有名。
* 『文化』はv.8,n.5で廃刊(Willams and Norgate 社から依頼された Contemporary Thought of Japan and China に執筆に専念するため/なお、杏村は1922年頃咽頭結核を発病している。)

 

ラッセル氏の危篤

 ラッセル氏が北京で逝去を伝えられた(「毎日新聞」掲載記事)*1 恰も風邪の為めに臥床して居て、検温器の度盛りを見詰めて居た自分の手に、其の報道の掲げられた新聞が開かれた時には、私の心は、飛び立つばかり喫驚させられた。何にせよラッセルが斃(=倒)れるには未だ余りに早過ぎる。世界には彼の哲学的忠告を要する問題が余りに多く堆積して居るのである。併し其の後の電報では、氏の肺炎も次第によい方へ見直したという事である。此れは又何という嬉しい報道であろう。我々は氏に一日も早く快癒の日の来る事を祈る許りである。
 実の処を言うと、私は現在の社会改造論者の中で、ラッセルに最も多くの尊敬を払って居た。ラッセルの批評はどんな短かいものでも、其れには哲学者の冷静公平の上着を着せられた社会改造家の情熱誠意が躍って居た。私は其の議論の内容によって教えられるよりも、寧ろ其の批評の態度によって陶冶せられるところ甚だ多かったものである。
*1 北京電報の報道する処を総合すれば、ラッセル氏は三月中旬肺炎に冒され、二十三日、北京の独逸病院に入院したが、二十六日には病勢危篤絶望を宣告せられ、二十七日朝卒去したと伝えられた。併し其の後の状態は次第によくなって行かれる様である。
 

理論と経験論

 ラッセルは、論理の良心から来る冷静なる推論と、経験の現実性から来る情熱的なる直覚と、其の両者の素質を併せて公平に持って居た哲学者である。即ち彼は、英国人本来の気風である経験論風の論じ方を飽くまでも捨てようとはしないで、其の哲学は誠に常識的、誠に自然科学的であった。否、寧ろ彼は自然科学、数学、哲学などの取扱方に根本的の区別を欲しなかったものである。*1 然るに他方では独逸風の「アプリオリの哲学」に心からの執着を感じ、此によって英国の余りに経験的、余りに常識的なる思想傾向を批判する事を忘れはしなかった。*2 其の爲めには彼の哲学、即ち新実在論なるものは、所謂独墺学派と称せられるものの、哲学、特にマイノングの其れに近接する事となって居た。*3 彼は個人的の嫌悪僻愛に災わされない「宇宙の市民」の態度を以て、個人的着色を離れた哲学を組織し、又此の態度を以て、宇宙人生のすべての問題を批評しようと欲して居たのである。
*1 即ち彼は、其の書の表題にさえ、『哲学の科学的方法』(Scientific Method in Philosophy)と命名した。
*2 此れは哲学問題に就いてのみいうのでは無い。社会問題、政治問題の場合にも其の傾向は強く発揮せられた。彼は英国を熱愛した。然るが故に又、英国の一敵国であるかの如くに、英国の嫌う可き欠陥を批評した。世界大職の開始にあたり、憶面も無く非戦論を主張して、英国の政策に反対した如き、其の一つの現われである。
*3 此の事は前号に記した。併し其の議論の仕方は、マイノングに比して常識的、経験論的である事も其の論文の中に記した。


 経験論と理論とを調和融一するという事は、哲学の上での一つ重大問題である。此の解決さえつけば、認識論は其の全部の解決を済ませたといってよい位のものである。ラッセルの思想的問題も又此の調和問題の上にあったといってよい。而して其の解決の誠に立派に表明せられたものは、彼の著『数学原理』『哲学の諸問題』『自由への途』の三著であった。恰も彼は此等の著によって、一には数学と論理との交渉に就き、次には経験論的所与とアプリオリの形式との関係に就き、最後には国家社会主義とクロポトキズムとの折衷に就き、卓識ある解決案を提起したのであった。此等の問題は数学、哲学、社会問題と、其れ其れに議論の範囲を異にしては居るけれども、ラッセルは此れを等しく経験論と唯理論との対立問題として取扱って来たのである。
 数学と哲学との問題に就いては今此処に詳説しない。社会問題の解決に就て一言するならば、彼が屡々(しばしば)アナァキストと呼ばれし如く、クロポトキンの要求本位の自由社会論に満腔の同情を表しつつ(概ね此れを基調と為しつつ)、しかも他面に於いては法律的制度の無用を叫ばず、国家社会主義の形式的社会統制を重要視して居るのは、例の如くに彼の哲学的冷静さを発揮したものである。現在社会問題の解決に当たって此の公平なる態度を探るものは甚だ少ない。先づラッセル一人位のものである。後にギルド社会主義が現れて、兎に角にも其れを主問題と爲したが故に、ラッセルは『自由への途』の中では、此の立場が先づ最も実行の可能性の豊かなるものであると論じて、自らもギルド社会主義者なるかの如き観を呈せしめた。(ギルド社会主義者も又其の参考書の中に必ずラッセルの『自由への途』を書いた。) 併し其の所説の根本基調は必らずしもギルド社会主義と一致するものでは無い。ただ両者は問題解決の傾向を一致せしめる処があった。
 

改造への手段

 彼は一個の学者である。筋肉労働の世界、単に食うが為めに人間の働く世界を、人間の住む可く恵まれた唯一世界として考えるには、彼の科学的、芸術的の要求は余りに強すぎた。ラッセルに取って社会主義の問題は、常に、人間は如何にして自由に其の科学的、芸術的追求を為す事の出来る社会組織を造る可きであるかという事であった。其れ故に彼の考えて居る社会組織は、余程の程度までクロポトキンの其れに近いものとなって居た。彼が暴力的社会革命を否定した理由は、一に其の冷静なる人格的道徳的判断より来たものであるとはいうもののの、併しなお一面には彼が既成の文化の華麗を此の革命の随伴的現象として壊滅せしめるに至ると、憂慮したからに相違ない。此最後の傾向は、彼の露西亜革命の批評に於て最も強く発揮せられて居た。
 英国社会思想の一般的左傾と共に、ラッセルは其の後年有力なる社会思想家によって、なお且つ緩慢なりとして非難せられる様になって居た。其れは彼の賛成したギルド社会主義中のメラア君の如きによってすら発せられた非難である。即ちメラアの如きは、ラッセルを評して、「彼の動機と目的とは甚だよきものなるも、彼は毫も事実に面接を欲しない論者である。彼は暴力革命に反対するけれども、然からば彼は其の目的に達する爲め如何なる手段を取る可しと教示したか。若し其の手段を教示せずして無下に我々の手段に反対するものなりとすれば、我々は彼の動機の善き事を容認すれども、しかも尚彼の論を目して我々に反対する資本主義の合い言葉であると排斥せざるを得ない」と言って居るのである。*1
 私は此の非難に一面の真理ある事を認める。彼のソビエト露西亜の批評の如きは、時に寧ろ其の保守的色彩を濃く発揮し過ぎたものであったかも知れない。始めにアナアキストと称せられて、甚だ過激なる革命家の如くに見られて来た彼も、最近には次第に其の左翼から右翼の方へ取り残されて行く傾向が無いでもなかった。此の状勢を、如何にして彼は乗り切る事かと注目するのが、私の一つの大きな興味であったのだが、幸いにして氏の病いの快方を聞くのは此の上も無く嬉しい事である。

*1 『バアトランド・ラッセル及びフィリップ・スノードン婦人は、-有能な又真摯な型の人ではあるが- 事実に面接する事が出来ないか、又は欲しないかの型の人である。全く真面目に彼等に経済的奴隷かち自由なる世界を願い、全く熱心に彼等に貧乏なる人の悲苦を歎いては居るが、併し彼等は奴隷性を終らせ、苦悩を禁絶するに必要なる順序を取ろうとはしない。彼等は力を恐れて居る。併し其の外に彼等は一体其の目的を達する何の方法を提起しようとするのであろうか。泣く事によってか。其れは何人をも損じない。説教することよってか。其れは氷を破る訳にいかない。
By appeals to the rich to get off the backs of the poor? That only fixes the rich firmer in the middle against the power of threatened interests weeping, preeching and appealing can accomplish nothing ....(Mellor, Direct Action, pp.61-62.)