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バートランド・ラッセル『産業文明の前途』への訳者(塚越菊治)序文

* 出典:バートランド・ラッセル(著),塚越菊治(訳)『産業文明の前途』(早稲田大学出版部,1928年4月 9+5+421p. 19cm.)
* 原著:The Prospects of Industrial Civilization, in collaboration with Dora Russell(London; Allen & Unwin, 1923. 283 pp. 19 cm.)
* 右下写真(神戸に上陸したラッセル及び迎えにでた賀川豊彦)出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981.


訳者序(1928年4月2日)

の画像  この書の原著 The Prospects of Industrial Civilization の第1版が、1923年、ロンドンで出版されると、イギリスおよびアメリカの読書界はもとより、世界各国の読書界に異常なる感銘を与え、たちまちにして数版を重ね、いわゆる普及版をさえ出すに至った。そしてついには遠く日本の知識階級の間にも相当多く読まれるようになり、現にある大学ではこれを社会科学の1教科書として採用しつつある位である。幸いにして、私はその第1版が出ると間もなく、恩師杉森孝次郎先生のおすすめにしたがって、それを試読し、ついでその翻訳に著手したのであった。したがってこの訳書が原著の第1版からの翻訳であることは言うまでもない。
 かえりみれば、私がこの書の翻訳に着手してから今日に至るまで、かなり長い年月(松下注:5年)が経過したことではある。しかし、この遅延は必ずしも私の無力と怠慢の罪ばかりではない。その間には、やむを得ずこの仕事を中絶せざるを得なかった外的事情が2,3生じてきたのも事実であった。そういうわけで、これほどの名著の翻訳を早く世に公にすることのできなかったのは、かえすがえすも遺憾に堪えないことではあるが、ともかくも、今日ようやくその仕事が完了したので、私としては、心中、悦びなきを得ない次第である。

 原著者および原著の内容に関しては、前掲杉森先生の文章中に完全に紹介批評されているので、私がここに蛇足を加える必要は毫(ごう)もない(松下注:1本の毛ほどもない)。ただ私の老婆心から、この種の翻訳に余り親しみのない読者に大して一言しておきたいと思うことは、この書の中にしばしばでてくる「産業」という言葉の意義についてである。即ち、標題中の「産業文明」という語を始めとして、書中いたるところにでてくる「産業主義」「産業社会」「産業国」等等における「産業」という言葉は、普通一般に用いられている広い意味の「産業」を意味するのではなくて、あくまでも産業革命によって特徴づけられたる「産業」、言いかえれば、機械を方法とする生産および分配、即ち、「機械産業」の謂いであるということである。
 次にこの翻訳を完成するにあたって、私はこに是非とも一言せざるを得ないことがある。それは外でもない、恩師杉森先生に対して衷心からの感謝の意を表すること、これである。先生には、単にこの世界的名著の試読ならびに翻訳を慫慂(しょうよう)してくださったばかりでなく、それに付随しておこったいろいろなご迷惑をもかえりみず、絶えず力添えをしてくださったのであった。そればかりではない、訳者の浅学未熟ゆえの原著内の疑点に対しても、いちいち明確なる解釈を与えてくださったので、若しこの書にして多少とも従来の翻訳書に優った点があったとすれば、それはひとえに先生のおかげであると言うの外はない。

 最後に、原著の内容の一部は、かつて雑誌『改造』に何回かにわたって掲載されたという関係もあったので、その翻訳権の如きも改造社社長山本実彦氏の手にあったのであるが、交渉の結果、同氏が快くそれを譲渡してくださったことを深く感謝する次第である。
 こういうわけで、原著者ならびに出版者とは、事務上の交渉を必要としなかったので、この書の翻訳及び出版に関しては、改めて直接交渉はしなかったが、今それを出版するにあたり、原著者たるバートランド・ラッセル氏ならびに同氏令夫人、および原著出版者に対して、厚く謝意を表する次第である。
 昭和3年(1928)4月12日  塚越菊治