E. W. F. タムリン「バートランド・ラッセル: 人と作品」(北川五郎訳)
* 出典:『ラッセル;チャーチル』(主婦の友社、1971年。ノーベル賞文学全集・第22巻「月報」),pp.155-167.* E. W. F. タムリン(Tomlin, Eric Walter Frederick,1913~1988):英国勲功章者、王立文学学士院会員、オックスフォード大学文学修士
* 訳者・北川五郎氏については不詳
長い、しかも積極的な生涯のあいだに、バートランド・ラッセルは、大部分の人には得られない利益を受けた。かれは、一度に多くの経歴を追求することができた。ラッセルは、数学者、哲学者、教育家、政治家、博愛家、それから国際的調停者であった。これらの活動のそれぞれの方面で傑出していた。そのうちのどの1つをとっても、それだけで、おそらくかれは偉大の域に達していたと言えよう。
しかしながら、ラッセルの人柄には別な一面がある。深い感受性の持ち主であるということである。それは、かれを「理性」の使徒ではなく、むしろ「感情」の使徒としている。かれのなかには、なにかしらルソーを思い起こさせるものがある。幼少のころから、かれは、一般の青年よりははげしい憂うつ症の発作にかかりやすかった。かれの端正な、しかも輝かしい散文は、現代英語のもっともすぐれたものの一つであるが、その底には、人類の不幸に対する溢れるような同情、人間の条件を改善したいという熱烈な希望、普遍的愛への渇望がかくされている。この潜在的情熱の力と鋭い知性の不屈な主義との争いが、かれの個人的問題に混乱を招いた責任があったことは、ほんとうのように思える。かれの手をつけたほとんどすべての領域で成功したとしても、私生活ではそうはいかなかったからである。したがって、かりに、かれが90代で家庭のなかに平和を見いだしたとするなら、われわれは、そのために、かれがいままで生きてきたことは幸運であったと考えることもできるであろう。
かれはスパルタ式青春を送った
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ラッセルには、厳格なことでは似たような家庭環境に生まれ、そして育ったジョン・スチュアート・ミルの極端な早熟は見られないとしても、かれは、早くから人びとに知的期待をいだかせた。幼年時代に重要な契機があった。11歳のときに、兄フランクに教えられて幾何の勉強をはじめた。これがすぐにかれの数学に対する天賦の才と献身を刺戟した。かれは、この薫陶には永遠の負債がある、と言っている。はじめて生存の意義を教え、あるいは少なくとも永遠の真理の王国をかいま見させたのは、この薫陶であった。このような明るい希望を懐くことによって、生活は堪えられるものとなった。ある子どもにとって、数学は苦痛と強制の同意語であるとき、ラッセルにとっては、深い喜びと高まる興奮の源泉であった。この抽象的完成の世界は、かれをまったく無我夢中にさせた。ラッセルは、このようにして自分は生来の自殺の傾向から救われたと考えている。
かれは、数学に心酔したばかりでなく、さらに飽くなき読書家であった。歴史と文学は、かれの変わらぬ興味の中心となった。かれは、多くの詩を暗誦した。その結果として早くから古典に親しんだことが、かれに非常に役立った。ラッセルのあらゆる著作は、与えられたどんな小さなテーマでも、ときには神秘的、ときには見当ちがいもあったが、しかし常に興味のある巨大な知識が刻まれている。多くの偉大なヴィクトリア王朝人のように、ラッセルは、16歳のころ宗教的懐疑に襲われたにもかかわらず、聖書の深い知識を獲得した。未来の懐疑論者は、常に、論拠として教義に関する文献を引用し、宗教上の論敵を驚愕と絶望におとしいれた。
かれの大学生活は、「日々のプラトン学派の対話」であった
ケンブリッジ大学入学は、ラッセルにとっては、新しい一章のはじまりではなく、全く新しい本のはじまりであった。かれは、厳格な生活と縁を切った。かれの経歴にきわめて重要な役割を演じた組織であるトリニティ・カレッジ(*10)は、常に、非常に優秀な教授と学生を集めていた。とくにその時代は、俊才がきら星のように群がり、燦然(さんぜん)と輝いていた。ラッセルの同時代の数人を挙げるだけでも、マクタガート(*11)、ワード(*12)、シジウィック(*13)、ホワイトヘッド(*14)、ムーア(*15)、ラムゼー(*16)、ブロード(*17)、少しおくれてヴィットゲンシュタイン(*18)などのような、すでに名声がイギリスの哲学史上に確立されている人びとのリストを作成することができる。マッシュー・アーノルド(*19)により非常に熱心に説かれた「高度の真剣さ」のモットーのもとに、これらの思想家と何百人という大学の栄誉の候補者たちは、今日から考えれば、過度な特権を与えられ、世間から孤立し、しかも「社会参加のない生活」を送っていた。この時代と、オックスフォードやケンブリッジの学生が狂乱の「カクテル・パーティー」を開き、あるいははげしくスポーツをやる、いまのテレビ時代とのあいだには、越えがたい溝が掘られている。イギリスの大学生活に関しては、第一次世界大戦の衝撃は、知的伝統の終末を告げた。確実な進化にもかかわらず、この伝統は、プラトンのアカデモス学園(*20)とアリストテレスの学園(*21)の雰囲気を、その古典と洗練された閑暇と同様に、いくらか、保持してきた。この異常な水準の大学生活は、「日々のプラトン学派の対話」であった。これらの学生たちにとっては、これは理想を磨く場であった。そして純枠な学問に没頭しながら、かれらは社会的な大きな出来事にも熱中していた。というのは、当時の学生はみな社会的役制を果たすことに備えていたからである。ラッセルの経歴のある時期に、この影響は、円熟していない人びとの受けつぐことのできない遺産である権威と責任感にみたされながら、あらわれている(?)。
ケンブリッジでは、哲学の新派の先頭に立った
かれのもっとも親しい友人の一人となったラッセルの同僚 G.E.ムーアは、かれの数年後輩(松下注:1年後輩)であったが、旧派の典型的な代表(松下注:原文はわからないが、誤訳あるいは不適切な訳と思われる)であった。かれは、人道主義者、教養のある紳士の典型そのもの、この上ない話し上手、対話の名人、それにまた、非常に魅力的な人物であった。古典の学問は、当然、古代哲学の深い知識をふくんでいる。食事後、カレッジで討論の時間がくる。すると、ムーアは、絵のように美しい、風変わりな、だが非常に鋭い思想家ジョン・マクタガートと長い討論を行なう習慣があった。いろいろな哲学的テーマのうち、とくにマクタガートは、時間の非現実性を立証しようと努めた。ムーアは、かれと争った。ラッセルは、数学の教員免許証(松下注:原文が手元にないのでわからないが、不適切な訳/多分トリニティ・カレッジのフェローの資格)をとる準備中であったが、この対話にすっかり魅惑され、間もなくその討論に加わった。かれをひきつけたのは、とくにムーアによる「常識の擁護」であった。かれはムーアに真剣に哲学に献身するように説いたばかりでなく、かれ自身も同じ方向にひきつけられていた。ケンブリッジにはいる以前にも、かれは、ジョン・スチュアート・ミルを研究していた。一時、かれはミルを自分の「ローマ法王」と仰いでいた。ミルがかれの両親の親友であったことを知ったのは、ずっとあとになってからである。このミルの経験論には完全にひきつけられた。にもかかわらず、かれは、数学の真理は経験主義的批判から保護されているという信念を持ちつづけた。かれは、1894年にケンブリッジ大学の優等卒業試験に合格し、道徳科学のトリポス(トライポス)(*22)の免状を与えられた。ただちに、かれは哲学の研究に没頭した。
それ以来、ムーアとラッセルは、見解と気質の著しい相違があったにもかかわらず、ケンブリッジで哲学の新派の先頭に立った。新派哲学は、のちにアングロ・サクソン世界の思想を揺がすこととなった。しかし、その結果イギリスの思想にあれほどの影響を与えたウィーン学派も、そのはじめはラッセルに非常におかげをこうむっていたことは、興味があり、かつ注目に値する。
思想の歴史を叙述することで単純に満足するのでなければ、人はみずからの定言的命令に動かされる場合のほかは、一般に、哲学の方に向かわない。そしてこの定言的命令は、自分にとって解決されていない問題に直面したときの困惑から生まれる。ラッセルは、数学的真理の本質と位置がどんなものであるか自問した。もしも経験論者が信じているように、われわれの知識が、もっぱら、感官の印象からくるものならば、どうしてわれわれは数学の真理に到達できるか。また、そのような真理がどうして存在しうるか。なぜならわれわれは、たとえ、ミルがその反対を確信していたにせよ、それを感官のデータにより証明することも説明することもできないからである。数学的真理は、時間に関係のない、しかも永遠なものをふくんでいる。時間の非現実性に関するマクタガートの論拠は軽々に拒否さるべきではない。ムーアとともにわれわれの「知識」で、時間は常識の現実であると主張することは不十分であった。なぜなら、われわれは、また、同じように確実な直観により、数学は「時間」とは独立に、かれらの真理を有することを知っているからである。ラッセルが、「幾何学の基礎」(An Essay on the Foundations of Geometry, 1897)に関する論文をかれの教授資格(松下注:正確には、フェロー資格)のテーゼとして書いて、これをマクタガートに捧げたことは驚くにあたらない。そのうえ1893年に、オックスフォードの哲学者 F.H.ブラドリーは、かれの大著『外見と現実』を刊行した。その後われわれはこれを、マクタガートの特有の著書『存在の性質』とともにイギリスの理想主義の城塞とみなさなければならなかった。ブラドリーの功績は、分析の大きな力を現実の性質に関する大胆な思弁に結びつけたことであった。ラッセルは、ブラドリーが現在認められている観念を分析により破壊したとき、かれがへーゲルの「絶対」のなかのいっさいを否定したとき以上に確信を深め、まったく不本意ながら、かれの理想主義を自覚した。それから(その後)突然その理想主義から離れたにせよ、かれは、もしも哲学が単純な哲学的思索を越えることを目的とするなら、哲学は物事の基本的本質をとらえるように努めなければならぬという信念を絶対に捨てなかった。哲学は、普遍を渇望しなければならない。われわれは、どうしてあの高齢でこの信念がラッセルをして、かれの特有な著作によって啓発されているにもかかわらず(なぜ)哲学を無味乾燥な方法の一そろいとしようとした哲学者たちとはげしく争わしめたか、を理解できるであろう。
1896年にかれは最初の著作を発表した
1894年にケンブリッジを去り、ラッセルは、別な、いっそう波瀾に富んだ経歴に進んだ。かれは、ラッセル家の伝統に忠実な、「社会問題」に興味を持った。パリの英国大使館の名誉館員として短期間勤めたあと、フィラデルフィアのクエーカー教徒の娘アリス・ピアーサル・スミスと結婚した。新婚旅行中、かれらはドイツを訪れた。ラッセルは、このへーゲルの国の哲学思想に非常な興味を懐き、そのうえ、ベルリン大学の教授の職を引き受けた。しかし一方、この国の社会状態を研究する時間を見いだした。1895年にロンドン経済大学(現・ロンドン大学)で、デモクラシーについて数回の講演を行なったあと、この問題に関する著書、『ドイツ社会民主主義』(German Social Democracy, 1896)を発表した。これが、ラッセルの社会問題に関する辛辣で暴露的、時として偶像破壊的な、長い一連の著作の皮切りであった。その後、かれは、いよいよ精力的に、かれの生涯にわたる2つの大きな興味の中心、すなわ純粋理論と社会批評に献身した。トリニティ・カレッジの「フェロー」(*23)に選ばれたかれは、1896年にアメリカを訪れた。そしてジョンズ・ホプキンス大学とブリン・モア女子大学で幾何学の講演を行ない、1898年にケンブリッジに帰った。それから、重要な哲学的活動の一時期、かれの名を決定的ならしめた論理学と数学の概論の基礎を確立した多産な時代がきた。純粋な抽象であるにもかかわらず、それらの著作は、後日ラッセル特有の才気と明晰によって、大学出でない人びとをふくむ何百万と数えられる読者を獲得した。
バートランド・ラッセルと数学
これらの論文を基礎として、かれは、はるかに重要な著作を企画した。若いラッセル夫妻は、イングランドのサセックス郊外の邸宅に居を構えた。かれは、数学の基礎に関する徹底的研究に精進する計画を立てた。かれは、この仕事に A.N.ホワイトヘッドと共同して、ときどき中断はされたが、ほとんど10年間心酔した。ラッセルはこの概論を孤立した研究とする意向はなかった。かれは数学の性質を抽象が具象に代わるあの限界、すなわち生物学の世界まで深めたいと思った。それと反対に、かれの社会的論文では、基本の抽象を見つけるために、具象を徹底的に研究したいと希望していた。これは、数学の数学的復帰をめざす出発であった。この2つ(2方向の)の巨大な知的思索の結果は、総合の著作でなければならなかった。この野心を果たすため、かれはへーゲルの『哲学的諸科集成』を範とした。
かれの『プリンキピア・マテマティカ』は、危く、かれに理性を失わせるところであった
1900年来、かれは、数学は論理(松下注:論理学)の延長のほかのなにものでもないとの結論に達した。この意見を表明したのは、かれが最初ではなかった。当時ラッセルがそれを知らなかったとしても、フレーゲ(*24)は、ドイツでかれの思想を同じ方向に向けていた。1900年のパリで開催された国際哲学会議は、ラッセルを大陸の多数の論理学者と接触させた。これが、かれには『数学の原理』(The Principles of Mathematics, 1903年)を発表する励ましとなった。だが、巨大な『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』(1910~1913年)は、1913年までは完成しそうもなかった。その刊行は、ラッセルがいまにも理性を失うと感ずる瞬間があったほど、精神の集中を要求した。ある矛盾した論理的命題、それから論理の内部における明白な矛盾にまで直面して茫然としたかれは、2年間その研究を中止した。ほとんどの人は、この『プリンキピア・マテマティカ』の全体を読んでいなかったか、あるいは人間頭脳のもっとも異常な産物であるこの著作を理解するため必要なこの種の思索を十分積んでいなかった。ラッセルがただひとりで書いた序論は、とくに方程式でみたされた書物のなかでは、連続した散文のユニークな文章である。膨大な原稿は、辻馬車で出版社に運ばれた。
かれは、同時に、常に社会の職責を果たすことに心を奪われた。1907年にかれは議会に打って出ようとした。これは、一連の空しい試みの第一であった。かれの自由主義者に加担する第二の試みも失敗した。人びとは、かれが公然と自由主義者であることを非難した。戦争の年であったつづく数年のあいだ、そして実際はそれより多年のあいだであったが、教会は絶えずかれの経歴を妨害した。かれは戦争反対のためしばらく投獄され、のみならずケンブリッジの教職を奪われた。1961年、89歳のときかれは、ふたたび、核兵器反対の坐りこみデモを扇動したかどにより短期の懲役に処せられた。
しかしながら、ラッセルは、最初の入獄の経験から恩恵をこうむる結果となった。かれは、獄中の時間の一部を、通俗書『数理哲学序説』(An Introduction to Mathematical Philosophy, 1919年)の執筆にさいた。これは、秩序を乱すものは書かないという誓約をしたあとで選んだものである。かれはまた、かれのもっとも力強い、しかも破壊的と一般に認められている著作『自由への道』(Roads to Freedom, 1918年)を書いた。これは無政府主義的あるいは産業組合主義的哲学を述べた論文である、かれの社会革命的信念にもかかわらず、かれは断じて、このとき、あるいはこのあとでも、マルキシズムの魅力に屈しなかった。この姿勢は、かれが専制の性質をかれの知的同時代人のある人たちよりはるかに理解していたことを示した。ラッセルは、極右の独裁主義を嫌っていたとはいえ、そのことは、断じて、反動でかれに極左の独裁主義を認めさせはしなかった。かれは、プロレタリアの独裁がただ一人の独裁より好ましい理由はないと思った。
戦争につづく期間中、ラッセルの哲学は、かれがすでにかれの体系から排除した、あの哲学的理想主義の最後の痕跡しか、もはや、反映していなかった。というのは、かれは哲学および抽象的論理学の限界をいっそう明瞭に感じていたし、それにやはり世界の激動に心を奪われていたからである。世紀のはじめから研究され、捕われの身からケンブリッジに帰ってきたとき、ムーアとヴィットゲンシュタインによってさらに拍車を加えられ、そしてかれの最初の純粋哲学概論を特徴づけたライプニッツの影響は、かれの(哲学的)改宗に決定的役割を演じた。かれは、後日このことを『私の哲学の発展』(My Philosophical Development, 1959年)のなかに次のように書いている。
「ブラドリーによれば、常識のすべてのデータは外見に過ぎない。極端に反対な定立(テーゼ)を主張して、われわれは、哲学や神学から解き放された常識が現実と認めるすべてのものが、現実であると考えた。このような議論の牢獄から脱け出たい気持ちで、われわれは、草は緑であり、また太陽と星は誰が意識しなくても存在するだろうと自由に考えた。世界は、貧しくかつ論理的ではあったが、突然豊かな、多様な現実となった。」かくして、ラッセルは、かれの取り戻された知的自由を非常に喜んだ。オックスフォードで、ある日、真理は絶対(者)のなかで考えられた観念から形成されると主張した一理想主義哲学者、バリオル・カレッジの J.A.スミスに答えて「それは、もしも絶対(者)が私の頭の髪の毛のことを考えるのをやめると、私は禿頭となるという意味か」と言い返した。
ラッセルは、論理学は本来矛盾であると主張した
かれの哲学的改宗にもかかわらず、ラッセルは、「時間から解放されたプラトン学派の観念の多元世界」を信ずることをあきらめかねた。実際、かれの数学論理学(数理論理学)の研究は、数学の概念において、また哲学のかれの一般的洞察においても、理想主義の残滓(ざんし)を「清算すること」はできなかった。ユークリッド(*25)の理論が、現実世界に関してわれわれになにも教えないこと、その上、論理学が確実な方法でなんらの真理も設定できないことをかれは認めざるをえなかった。事実、論理学は一つの知識を提供したが、それは本来仮定であった。三段論法で、前提は「外的、偶然的なもの」からこなければならない。人は単純にこの前提を圧延機にかける。三段論法は中立である。『プリンキピア・マテマティカ』のなかで、ラッセルは、論理学には本来矛盾があるとの疑問を提起した。かれは勇敢にその解決に熱中したが、決して満足のいくようにその疑問を晴らすにはいたらなかった。かれの愛好する例の一つを引用しよう。ある男が「私の言うことはすべて嘘である」と宣言する。そこでわれわれは疑う。「そう言いながら、かれは嘘をついているのではないか。かれが嘘をつくなら、本当を言ったのであろう。だが、かれが本当のことを言っているなら、かれは嘘をついていたのである。」
ラッセルがこのような矛盾の解決を「そのクラスに属しないクラスのクラス」という言い表わしのなかにあると主張したところで、かれの因惑は残るであろう。
いっそう深い矛盾が起こった。それは、「確実性に対する人間の欲望」と「科学的断言が数学的仮定の上に築かれていることを認めること」との間の衝突から生じた。この問題に関して、ラッセルはかれのもっとも雄弁であり、ときには感動的でさえあるページのいくつかを書いた。「私はもはや数学的真理の考察において、なんら神秘的な満足を感じない……。数学のなかに私が常に希望したすばらしい確実は、茫然自失の迷宮のなかに見失われた……。消滅したのは、完成と究極と確実を達成しようとする希望であった……。」しかしながら、ラッセルは、かれの持ちまえの正直さで、「なにものかが残されて私のなかにとどまっている」という従前の信条を完全に捨てることはなかった、と告白している。
われわれも認めることができるように、ラッセルは、「哲学の大部分」は先験(ア・プリオリ)をめざし(『懐疑論』Sceptical Essays, 1928年)、しかも、それはかれの讃美する哲学の大部分をふくむことを容認せざるをえない。かれの伝記作家、故アラン・ウッドが、かれを「情熱的懐疑論者」と呼んだことは適切な表現であった。その情熱は、欺瞞、悪意、残酷および不正に対するかれの嫌悪を鼓舞したばかりでなく、哲学において懐疑の絶対に到達しえない境地に到達しようとする無限の欲望を懐かせた。ヴィットゲンシュタインの影響を受けて、数学的命題は同語反復であることを認めざるをえなかったときに、かれは心中に、1914年の(第一次世界大戦)宣戦布告でかれが「抽象の世界のなかで(のみ)生きつづけることは不可能」であると感じたときと同様な深い苦悶を感じた。ラッセルの全体の著作は、かれの精神的責め苦、すなわち懐疑論者の宣告は受けながらその科せられた刑に潔く服し得ない人間の「苦悩」を反映する。かくして、永遠の争いにさいなまれる2人のラッセルが存在する。一方は情熱的懐疑主義者、他方は懐疑主義の限界を受動的に受け入れることのできない懐疑主義者である。なぜなら、極限とみなされる懐疑主義は、かれがあれほど熱意を傾けて主張してきた、あの自由に対する信条と相容れないからである。かれのもっとも有名な論文『自由人の尊厳』(A freeman's worship, 1903年/松下注:「自由人の信仰」あるいは「自由人の信条」とでも訳すべきもの)のなかで、かれは禁欲主義の根拠を確立し、非常な賞讃を博した。しかしながら、このような領域における尊厳の概念そのものは、価値とメリットの観念をふくむ。そして価値は、形而上学的概念であり、また、想像の創造(誤訳?)である。ラッセルがその一人である、ある自称現実主義者たちが、先験的なものを捨てるために、かれらの信条については保証のない基準にしたがうようになることは、奇妙である。ラッセルは、『権威と個人』(Authority and the Individual, 1949年)のなかで、「極限の意識がなければ、生命は憂うつとなり、無味乾燥となる」と意味深長に言っている。同じ著書のなかで、かれはまた、「科学はそれ自身では中立であり、良くも悪くもない。したがって、対象に与うべき価値の度合に関するわれわれの結論は、科学以外の他の領域からくる」と述べている。しかし、何がラッセルにとっては他の領域であるか。かれの唯一の体系的道徳である『倫理と政治における人間社会』(Human Society in Ethics and Politics, 1954年)の初めから終わりまで、一つの回答も探しあてることはできない。ときどき、われわれはかれ特有の道徳的信念の起源をかいま見ることができるだけである。
ラッセルの著作の中心自体におけるこの争いは、その発展の跡を、かれが両大戦のあいだに書いた多量の著作のなかにたどることができるが、かれ流に暴露的である。しかし、われわれは、これを混乱や無秩序と同一視すべきではない。それは、かれが十分意識した争いであり、かれは、これを鋭さと公平無私の偉大な天賦の才により分析してきた。しかも、このことは常にかれの念頭を離れない。
ホワイトヘッドは、ヨーロッパの哲学は「プラトンに対する一連の脚注」に過ぎない、と言う。われわれは、同様に、ルネッサンス以後の哲学は、大部分デカルトの知識論に対する傍注から成り立っているに過ぎない、と言えるであろう。精神と自然とを分けて、デカルトは、さまざまな形で実際に現代思想を支配した、一つの問題を提起した。知識の理論のない現在の哲学者は、対外政策のない政治家に類するであろう。かれは、外界に関するわれわれの見解の正確さの最高の保証として、神に訴えた。神は、知性のある人びとを創造して、かれらをその精神が理解できない世界におかなかったはずだからである。しかしながら、その信条に基づいたデカルト哲学の解決は、合理主義者とそれにつづいた経験主義者とを結びつけなかった。物理学と心理学の大きな進歩に伴い、その問題は、いっそう面倒なものとなった。ラッセルは、この問題に対するかれの考えを著しく修正した。かれのへーゲル時代をのぞいて、かれは、哲学思想を動かしえざる、あるいは「神 聖な」真理を恐れての承認とは、断じて考えなかった。
ラッセルは直接の知識と間接の知識を区別した
物理学者が絶えずその理論を訂正しているように、同様に、その仕事の一部が「物理学の普遍的見通し」を分析することにある哲学者は、その見解を、たとえそのような精神的訂正がはげしく、また苦痛であっても、修正しなければならない。素晴らしい成功をおさめた小著『哲学の諸問題』(The Problems of Philosophy, 1912年)のなかで、ラッセルは、「出合いによる知識」(松下注:「直知による知識」)と「記述による知識」、すなわち直接の知識と間接の知識とのあいだに、はじめて、かれの有名な区別の太い線を引いた。この区別により、ラッセルは、例えば、テーブルの観念は感官の所与によりわれわれに直接伝えられるが、有形の物体(=感官の所与の「原因」)としては間接に伝えられるのみであると解した。だが、この区別は、それがなければ人間の知性が誤謬の具となる直接の知識の存在を、われわれが直観的に認知していることを明らかに示していた。このことは、また、知識のもう一つの要素である個人的同一性の現実(存在)をふくんでいた。なぜなら、われわれは、この真理、すなわち「私はこの感官の与件を知っている」したがって「"私"と呼ばれるこのなにものかを知らなければ、どうしてわれわれはこの真理に達し、ないしはその真理の意味を理解できるかを見きわめることはむずかしいこと」を知っているからである。
かくして、ラッセルは、例の用意周到さで、このわれわれ自身についての知識は、たとえ非常に確からしくても、確かではないとほのめかすようになった。レスリー・ボール(*26)によると、ラッセルは、その懐疑とデカルト(*27)哲学の「われ」とを対立させた一時期さえあった。その後の著作のなかで、かれの懐疑主義は、デカルト哲学の二分法(松下注:精神と自然)の他の側面、すなわち自然に注意が向けられた。もしもわれわれが時間を貫く同一の存在としてのわれわれ固有の存在を疑うならば、また、もしもわれわれの感官の所与がそれを「与える」物体をふくむことを証明できないならば、どうしてわれわれは自然の存在を認めることができるか。そのことは、かれを「偏見と慣習以外に世界がたしかに存在すると主張する要素はほとんどない」という極端な考えに導いた。(『科学的展望』(Scientific Outlook, 1931年)
かれをもっともひきつけたのは論理実証主義(*28)であった
いくぶんはかれの正統派を打破する欲望によるものであることは認めなければならないが、しかし、とくにかれの論理学の厳密性に対する服従によっていだかれた、この完全な懐疑主義は、純粋に科学的な世界観のために、少なくとも伝統的な意味で、哲学を粛正しようとするラッセルの試みからきていた。われわれは、かれがそれをどのようにして行ったかを見ることができる。『われわれの外界の知識』(Our Knowledge of the External World, 1914年)のなかに、かれは「哲学的問題を必要な分析に付し、その問題をいっそう明らかにしようと試みるとき、人は哲学から離れるか、あるいは文字通り論理的となる」と書いた。われわれは、ここにヴィットゲンシュタインと初期の論理実証主義者たちの影響を見る。『トラクタトゥス・ロジコ・フィロソフィクス』(論理学的・哲学的論文)(1921年)(*29)におけるヴィットゲンシュタインの目的は、事実、哲学を意味のある命題と意味のない命題とを区別する方法に還元することであった。それで、『西洋哲学史』(A History of the Western Philosophy, 1945年)の刊行まででさえ、ラッセルは、総じてかれをもっともひきつけたのは論理実証主義であった、と言っていた。実証主義を生んだ伝統は、少なくともイギリスでは、ヒュームにさかのぼる。そこでヴィットゲンシュタインは、イギリスの学界で、ヒュームの重要性を思い出させるために、また、かれの独創的な考えを発表するために、さかんに活躍した。最近の学者が認めているように、ヴィットゲンシュタインは、当時、現代のヒューム以上であった。かれは、あまつさえ形而上学者の一面があった。かれが「いっさいの形而上学に解決をもたらす形而上学」の大成を試みたとすれば、それは、同様に、ラッセルについても言うことができる。かれの有名な『神秘主義と論理』(Mysticism and Logic, 1918年)のなかで、ラッセルが論理(学)に対立させた神秘主義は、事実、伝統的形而上学のそれであった。それで常に形而上学と理想主義を結びつけたから、かれは、科学がその検証できる仮定の体系によって保証するより多くの世界の事柄を肯定できると理想主義者風に主張するあらゆる形式の思想に対して、非常な疑念を懐いている。したがって、ラッセルは、「断片的で詳細かつ検証しうる結果により、われわれの想像だけで設定された、あの巨大な、検証できない一般論を取り代えること(『われわれの外界の知識』1914年)を勧めた。そのことは、まさしく、物理のために哲学を放棄することになる。なぜなら、もしも科学が「断片的で詳細かつ検証できる」結果を有しないなら、あるいは少なくともその結果を達成する希望を有しないなら、科学は、論理が斥ける「欠陥」を表わすからである。「哲学の今後の動機」(『反俗評論集』)(Unpolupar Essays, 1950年)と題する論文のなかで、ラッセルは、「伝統的」哲学を、「知的発展途上における」特別な、一時的「段階」、すなわち「精神の成熟」とは相容れない段階として廃止している。しかもかれは、これは、「誤った推理に導く異常に巧妙な一つの試みである」とまで極言する。要するに、「すべての知識は、われわれが科学的方法により確証しなければならない科学的知識である。」(『懐疑論』)
ラッセルは、科学はめったにわれわれを誤らせないことを肯定した
ヒュームは、かれの推理が導いた懐疑的結論に直面して、知的苦悶を癒すため、なにか精神の転換をはかることを勧めた。しかし、ラッセルの解毒剤は、責任を回避しない。われわれは、その説明を容易に見いだすことができる。ヒュームの時代とラッセルの時代とのあいだに、物質世界は、大部分は科学と工業技術の発達に基づき、驚くべき変化をこうむった。科学的命題が仮定の上に立てられていたときでさえ、その応用は明白に具体的結果を与える。それは、ラッセルによれば、他のいかなる形式の思想も受けることができないような信用を科学に与えなければならないからである。言葉を換えると、科学の発達は、論理がその固有な方法でその方向に向かう完全な懐疑主義を無効にする。「論理的には非の打ちどころのない懐疑主義は、心理的には不可能である。しかも、それを受け入れることを装う哲学は、不誠実と矛盾を示す。」(『人間の知識-その範囲と限界-』(Human Knowledge; its scope and limits, 1948年)「科学的知識は、その一般的所与のなかで受け入れらるべきである」ことを既定原理とみなし、ラッセルは、論理に与うべき場所に関するかれの見解を修正する。「論理は」とかれは結論する、「哲学の一部をなさない。」この結論に達するため、かれは、科学の真理に関するかれの仮定と相容れない思考方法を放棄しないばかりか、すでにかれの語義の一つから廃棄された哲学なる語に、かれの応用の成功により正当と認められた「哲学の集成」の意味を持たせていることは明らかである。このようにして「断片的な、詳細かつ検証できる結果」は、互いに付け加えられて、古代の形而上学的体系の地位を占める。『物質の分析』(The Analysis of Matter, 1927年)のなかで、ラッセルは「人間のすべての知識は不確実で、部分的である」と主張したが、かれ以前のデカルトのように、ラッセルは、科学、さらに正確には「知識」は、めったにわれわれを誤らせないというかれの信条を肯定する。われわれがわれわれのすべての希望をおくのは、デカルトが「神」においたように、「科学」である。この推論が最高度に達するとき、ラッセルの思考形式は、一つの体系と類似する。かれは、それをいわゆる物心二元論に対する中立一元論と呼んでいる。『物質の分析』のなかで、はじめて使用されたこの名称は、それがたとえそのなかにふくまれていたとしても、ラッセルの中年時代のもっとすぐれた著作、すなわち、かれのめざす総合を構成する著作である『人間の知識』のなかには(もはや)現われていない。中立一元論によって、ラッセルは、同一性の観念を物質と精神の2つの世界の「物質」のあいだに持ってくることを要求する。なぜなら、現代物理学に照らすと、「物質と自我は、両方とも事象の適当な集合に過ぎない」からである。昔は互いにあれほど離れていた物質と心理学は接近した。かれらは(松下注:それらは(物質と心理学)、の誤訳か?)は、唯一の科学、すなわち精神物理学を形成するため、結合した。精神と自然が、もはや別々ではないから、どのようにして一方が他方を認めるかを知ることは、現実性のない問題となっている。精神と肉体との間のデカルト哲学の二分法を解決したあと、われわれは、デカルト哲学の認識論から免れる。「精神と物質とのあいだの区別は、知識の理論に属し、形而上学に属しない。」(『人間の知識』)
ラッセルは、やはり正統派キリスト教信者である
たとえ古典的物理学の上に築かれた哲学的世界を考察することを断念したにせよ、ラッセルは、現代科学が17世紀以来正統性を認めてきた、あの宇宙の概念を保持する。カント派哲学の三位一体、すなわち神・自由・不滅のうち、自由のみが存続する。神と不滅は、へーゲルの絶対のなかに投げ捨てられる。相対性理論と量子力学理論の上に築かれた現代物理学は、かれにとっては、科学的新約聖書に過ぎない。しかし、かれはそれを廃棄することなく、ガリレオ、ケプラー、デカルトおよびニュートンにより制定された旧約聖書につづかせる。なぜなら、2つの聖書は、一体となって伝統的宗教の見解と直接対照をなす世界観を形成するからである。厳密に科学的なかれの洞察において、ラッセルは、やはり正統派キリスト教信者である。このように解されても、物理学は、そして、とくにアインシュタイン以後は、自然についての完全な科学を提供すべき具体的性質を欠いていることは免れがたい。ラッセルはそれを認め、「物理学の目的は、常に世界の因果関係を示す構造と呼べるものを発見することであった」と『物質の分析』のなかに書いている。ところが、このような肯定こそ、われわれがソクラテス以前の哲学者この方アリストテレスを経てラマルクとダーウィンにいたるまで理解していたような自然の本質を見失っていたことを考えさせる。そこに、かれの有機的な側面がある。体系に関するラッセルの無関心は、かれのホワイトヘッドとの仲たがいを示す。というのは、ホワイトヘッドは、完全な体系的哲学を丹念に作りあげることをつづけていたのであるが、ラッセルは、かれの青春時代の論理的原子説に愛着していたため、「体系の概念をむやみに使う」哲学に対して、本能的不信を懐いていたからである。
かれの『哲学概論』(The Outline of Philosophy, 1927年)が、進化論に言及していないことは、非常に注目に値する。もしも科学がわれわれに骨と皮ばかりしか与えないなら、また、もしも学者が原子論者に過ぎないなら、それは、結局、肉と血という自然の有機的過程は、生物学者と呼ばれる山師により研究され、心理学者と呼ばれる詐欺師により巧妙に、賢明に、信じさせられた幻覚に過ぎないことを意味するであろう。しかし、このような過程は、「骨と皮」と同じように、確実に自然の事実であり、したがって、これらの有機的過程は、科学的洞察のなかに、物理学の抽象的原子論的真理と同じ資格で、一地位を占める価値がある。われわれはさらに進むことができる、すなわち、体系的世界の向こうに、それに意味を与えるもの、そしてカントが「究極の王国」と呼んだものがある。これは価値の世界である。われわれは、ラッセルが、科学は倫理的に中立である、生命の価値に関するわれわれの「結論」は「外的、偶然的なもの」からこなければならない、と断言したことを想起する。ふたたび、2人のラッセルが、あからさまに対立する。一方は、科学と知識の同一性を主張し、他方は、この同一性は生命からすべての、意味を奪うと考える。かれは、科学を「越えて」、したがって、科学知識の向こうに、かれのような寛容で激しい気質では「悪意と矛盾」のみが受けつけない価値を追求する。かれの論戦の著作『宗教と科学』(Religion and Science, 1935。再版1958年)のなかで、この争いは、一ページ一ページごとに明白である。かれは、実用主義的伝統にしたがい、「知識は物質を操作する簡単な道具である」と宣言する。しかしながら、それより先のページで、かれは、「宗教が一そろいの信条でなく、精神の状態から成り立っている限りは、科学は宗教に達することはできない」と肯定する。また、「科学の発見とは関係のない、しかも宇宙の性質に関するわれわれの未来の確信がなんであるにせよ、残存する、おそらくはもっとも貴重な宗教生活の一面」が存在すること、そして聖者や神秘主義者のもっともすぐれた人びとのなかにその例のあることを肯定した。同じ確信は、『権威と個人』(1949年)の最後のページを輝かしている。かれは次のように述べている。
「私が理解させようと試みたことは、キリスト教の倫理と密接に調和する。ソクラテスとその使徒たちは、われわれは人間よりもむしろ「神」にしたがわなければならないと立言する。そして福音書は神をわれわれの隣人と同様に強く愛することを厳命している。すべての「偉大な」宗教家、それからすべての偉大な芸術家と知的研究者もまた、かれらの創造的衝動に直面して道徳的強制の感動(センス)を示し、完成された仕事に直面して道徳的高揚の感動を示した。この感情は、福音書が神に対する義務と呼んだものの基礎で、これは、私が繰り返し言っているように、神学的信念とは切り離せるものである。私の隣人に対する義務、少なくともそれについて懐く観念は、必ずしも私の義務の概念とは一致しない。もしも私の良心に顧み、私が支配権力の目にとって非難すべき行動をとらなければならないという深い確信を持つなら、私はやはり私の確信にしたがわなければならない。それに対して、社会は、私を阻止する万やむをえない理由のない限り、自由に私の確信にしたがわせるべきである。」かれ自身の心底では、
ラッセルはやはり伝統的理想の擁護者である
『自由人の尊厳』や『なぜ私はキリスト教徒ではないか』どころではない。しかし、このことは、自由の使徒、専制の敵、平和のために戦う男、永遠の価値を追求する男ラッセルの人格を完全に照明する(照らし出す)。われわれは、それについて、おそらく、正統派の敵手ラッセルの心のなかに、このような価値をみとめさせたものは何か、と自問することになるであろう。われわれは、これに対して、われわれが本文の別なところですでにほのめかしてきた一つの回答を提案する。それは、伝統的教義の敵ラッセルは、かれ自身の心の底では、依然、伝統的理想の擁護者であるということである。かれは、ミルとジョージ・エリオットと T.H.ハクスリーとトーマス・ハーディと、それからかれ自身のラッセル家とに調和している。かれはキリスト教の制度と戦った。しかし、キリスト教の倫理を、少なくとも「すべての法と予言者たちが支えとした」十戒のはじめの2つの戒律、すなわち唯一の真正の神に対する礼拝と偶像の禁止に関しては、擁護した。この点で、かれは、すぐれたヴィクトリア王朝人の最後の人である。かれが主張したように、もしも、宗教が知識には関係ないが感情に関係があるとするなら、かれは理性によるキリスト教徒ではないとしても、「ホモ・ナツラリテル・クリスティアヌス、すなわち、生まれつきのキリスト教徒である。だから、T.S.エリオットは「なぜ私はキリスト教徒ではないか」のかれの批評をいみじくも「なぜバートランド・ラッセルはキリスト教徒か」と題した。
前述の文章は、1950年にかれがノーベル賞を受けたとき「常に人類と思想の自由の擁護者たらしめているかれの作品の多様性と重要性」に対して祝われたラッセルの感情を言い表わしている。かれの生涯中、少なくとも2回、ラッセルは、支配権力に挑戦する行動をとった。この2回とも政府は、かれに反対する「やむにやまれない」理由をみとめていた。それにもかかわらず、人びとは、ラッセルがソクラテスのように、かれがしたがわなければならない法律を尊重し、しかも、かれの行為は非難をまねきながらも、道徳的無関心が定着している時代に、人類の道徳的良心を覚醒させたと感じている。
1927年に、ラッセルはかれの2度目の妻と協力して、ハンプシャー州ピータース・フィールドのビーコン・ヒルに学校をひらいた。その学校は、進歩的傾向のため多くの非難をまねいた。この経験は、教育の改革に対するかれの唯一の実際的貢献であった。しかし、ほとんどすべてのかれの著作は、論理学と数学に関して書かれたものをのぞけば、教育学の範囲内にあるものであった。そのとき、かれは、全人格の形成をめざす理論を丹念に構成するために、哲学では廃棄された体系的見解をとりもどしている。その上、教育に関するかれの経験は、デモクラシーに対するかれの信念を固めるために、おそらく、かれの政治介入以上に、多大の貢献をした。というのは、かなり多くのかれの同時代人、ショーのようなフェビアン協会(*30)会員およびウェッブ夫妻(*31)それからベロック(*32)のようなカトリック教徒は、ときどき、独裁主義に誘惑されたからである。「すべての文明国における国家の防衛は、軍隊と同数の教師の双肩にかかっている。国家の防衛は、独裁諸国をのぞけば、望ましい。したがって、この目的のために教育を利用する単なる事実は、それ自身非難さるべきものではない。それは、国家が蒙昧主義を擁護し、不条理な情熱に呼びかけるのでなければ、批判の対象にならない。国家の防衛に教育を利用するというこれらの方法は、もしも国家が防衛に値しないならば、まったく無用である。ところが、教育の真の知識を持たない人びとは、これらの方法を採用する傾向がある。人は、一般に、意見の一律と自由の抑圧が強国を作ると信じている。たとえ1700年来のすべての重要な戦争において、勝利は常にもっともデモクラティックな陣営にあったにせよ、デモクラシーは戦争において一国を弱めるとは、繰り返し繰り返し言われていることである。」(「教授の任務」『反俗評論集』、1950年)
90歳までラッセルは驚くべき活動をつづけた
1935年に、かれは学校(=Beacon Hill School)におけるいっさいの活動をやめたが、それにもかかわらず、教育を見すてなかった。多くの国で教授の肩書を持っていたばかりでなく、かれは、驚くべき活動力と体力の持ち主であった。かれは、さまざまの聴衆にかれの雄弁と才知で影響を与えた。かれは世界を遍歴した。1948年に「戦争の防止」に関する講演をおこなうためノルウェーに向かう途中、飛行機が海上に墜落した。ラッセルは重いオーバーを着ていたのに、救援のくるまで、しばらくのあいだ、泳いでいた。1962年のキューバの危機のあいだ、かれのウェールズの家は、国際的折衝の重要な中心となった。90歳にもめげず、ラッセルは何時までも起きていて、フルシチョフとケネディに電話をかけ、多数のジャーナリストと応対して一睡もしなかった。しかし、社会の問題に没頭したことは、かれの哲学的研究を中断しなかった。1954年、すべての問題を言語学で片付けて哲学を「表面的な興味のない研究」としてしまう傾向のあるイギリスの分析哲学者たちを批判したとき、かれは、イギリスの哲学界に大きな波紋を投じた(松下注:5年後の1959年、ラッセル87歳の時にも、同様の波紋を起こしている。/市井三郎「ゲルナー事件」は、オックスフォード学派を批判した Ernest Gellner の Words and Things, 1959 に関連して起こった事件について紹介したもの。即ち、Mind 誌の編集長であるギルバート・ライルはこの本の書評を載せることを拒否したが、ラッセルの抗議文が The Times 紙に掲載され、多くの人を巻き込んで論争が起こった。)。この攻撃は大学の内外に非常な反響を呼んだ。タイムズ紙のきわめて控え目な見出しにまで投書が殺到した。1949年この偉大な過激論者は、大英国が与えうる最高の勲章の一つ、すなわちアカデミー・フランセーズの選定にも比すべき名誉のメリット勲位章を授与された。
とくに道徳上あまり正統派でないかれの見解にもかかわらず、ラッセルは、全経歴を通じて、終始、どのような仮借ない敵手でも尊敬せざるをえなかった高潔と正義と正直の美点の持ち主であった。しかし、遺憾ないくつかの例外があった。1940年のニューヨーク市立大学における正教授の任官の取り消しは、あとから考えれば、かれ自身より、はるかに、かれの検閲官たちの権威を失墜させたエピソードであった。かれの作品に負わせた「背徳」のリストを作成することなどは、まったくの喜劇である。人びとはかれの著作に「卑猥、好色、猥褻、無神論、不敬、狭量、虚偽、それから道徳性の欠如」というレッテルを貼った。猥褻と色情狂の氾濫している時代において、これほど健全な生活を心に描いていたラッセルのような人間に、このような誹謗を加えたことは、どれほど偽善がヴィクトリア時代から今日まで残存していたかを露呈する。かれらのすぐれた賓客を正しく擁護したのは、多数のアメリカの名士たちの声であった。そのなかには、老哲学者ジョン・デューイがいた。その後カリフォルニアを訪れたとき、ラッセルは英雄として歓迎された。それにもかかわらず、かれは重大な財政困難に直面した。しかし、それはかれの快活な気分を傷けなかった。かれは、「自分の収入が収入に対する所得税を下回っていたこと」に気づいて、「政府がどのようにしてこの問題を解決するかは、まったく面白い見ものである」と強調した。注意深くラッセルを読むと、論争をまきおこした著作『結婚と道徳』(Marriage and Morals, 1929年)には、淫奔の片鱗も見いだせない。ある人たちがかれに浴びせた狭量は、非難された者より非難した者にはねかえる。われわれは、『結婚と道徳』のなかの性欲に関するラッセルの見解は、ある点では、かれの祖国でラッセルを不忠実で無道徳であると非難した、ある宗教団体の最近の見解よりリベラルではない、と付言できるであろう。
かれは常に言葉の厳しい節約を実行した
文学者ラッセルに関して最後に言えることは、平和に対するかれの努力もさることながら、文学(松下注:著作=散文、の誤訳?)がノーベル賞に値したということである。なんらの疑いもなく、ラッセルは、イギリス散文の巨匠の一人である。かれは、そのことではバークリー、ヒュームおよびミルの伝統に属する。かれの名著『懐疑論』は、時に超自然に近づく光輝にちりばめられている。多くの作家は、哲学において、とくに古代の観念論学派にあてはまるが、あたかもその思想家が、ほんの一瞬のあいだ、言葉の混乱に打ち勝つことができたように、照明の電光によりわれわれを驚かす。それにしても、カント、へーゲル、ハイデッガー、それにサルトルでさえ、その作品のどの部分がすぐに理解できるであろうか。たしかに、ある種の哲学的名声は、もしもスタイルの難解が思想の貧弱をかくさなければ、崩潰するだろう。ラッセルは完全に明瞭でない意味文章を決して書かなかった。ミルトンやウォーター・ペーターに心酔した短い期間をのぞけば、かれは常に厳しい言葉の節約を実行することを理想とした。「私は、意味の十分通ずる成句を改めようとは思わない。」かれは、スタイルを「有効な表現」とみなしたショーの意見に賛成した。したがって、ラッセルの散文は、簡潔を守りながらも、一種の洗練ささえ見られた。このきわめて控え目な表現方法は、かれが老年に敢然と立ち向かった朗らかさを、いくぶんか反映している。
われわれは、それをよく物語る『自伝的回想』(Portraits from Memory and Other Essays, 1956年)からの2つの抜粋で、本稿を終わりたいと思う。その一つは、「私の80歳の誕生を迎えての感想」と題するエッセイの結論である。
「私の純理(論)的な真理に対する考えはまちがっていたかもしれない。だが、純理的な真理が存在し、われわれがそれに忠誠を誓う価値があると信じたことは、まちがいではなかった。私は、あの自由で幸福な人類の世界に導く、実際よりは近い道を想像していたかもしれない。だが、そのような世界が存在し、生命は、もしもわれわれがいつかはそこに近づけると考えるなら、生きるだけの価値があると思ったことは、まちがいではなかった。私は、自分の生涯を、個人的であると同時に社会的な幻影を追いながら、過ごした。個人的幻影とは、美しいもの、高いもの、尊いものを探し求めること、および直観の時代がそのメッセージ(英知)をより世俗的な時代に伝えられるようにすることである。私の社会的幻影は、人びとが自由に生き、憎悪と羨望とどん欲が育たずに死滅するような世界を私に想像させた。私は、つくづくそう考える。世界はどのような恐怖をもってしても、私のこの確信をゆるがすことはできなかった。」二つ目は、「年をとる術」に関するエッセイの結論である。
「死の恐怖に悩まされている老人がいる。青年にあっては、この感情は正当である。戦争で殺されることを恐れるのが当然である若い人びとは、生命が与えるもっとも良いものを捲きあげられたとの思いに悲痛な気持をいだく権利がある。しかし、人間の喜びと悲しみを知り、かつ、みずからの可能性によりみずからの仕事をなし終えた老人にあっては、死の恐怖は、なんとなく恥ずべき、また、浅ましいものに思える。死の恐怖に打ち勝つ最良の方法は、自分の興味をだんだんと広げ、『自我』の国境から、自分の個人的生命と宇宙の生命とが合流するまで、徐々に退却することであると、少なくとも私には思われる。個人の存在は、河のようなものである。源は小さく、両岸のあいだを狭く流れ、岩に激し、滝となって落ちる。しかし、川幅は次第に広くなり、土手が見えなくなり、水の流れは穏やかとなり、しまいには、目立つ決壊もなしに、水は海と合流し、苦もなく、その固有の存在を失う。老人となって、このように自分の運命を直観できる者は、死を恐れないであろう。なぜなら、かれの望む仕事はつづけられるからである。その上老衰がはげしくなれば、休息の考えも、また、かれにとって楽しいものとなるであろう。私は、ほかの人びとが私のもはやできない私と同じ目的を追求することを知り、人間として可能であったすべてのことが成し遂げられたという思いに満足して、最後まで仕事をしながら死にたいと望んでいる。
注
1.(1809~1898)イギリスの政治家
2.(1809~1892)イギリスの詩人
3.(1812~1889)イギリスの詩人
4.(1694~1778)フランスの作家、哲学者、啓蒙思想家
5.(1713~1784)フランスの哲学者、批評家
6.(1717~1788)フランスの数学者、哲学者
7.(1723~1789)フランスの唯物論者
8.百科全書の編集に従事、あるいは協力した18世紀のフランスの思想家、学者たち。
9.農業を重視する18世紀のフランスの経済学者の一派。
10.オックスフォードとケンブリッジでは多くのカレッジが集まって大学(ユニヴァーシティ)を構成する。カレッジは独立した自治体で伝統的な特色を誇る。トリニティ・カレッジはケンブリッジのカレッジの1つ。
11.(1868~1941)イギリスの哲学者
12.(1851~1920)女流小説家。マッシユー・アーノルドの姪
13.(1838~1900)イギリスの哲学者、経済学者
14.(1868~1941)イギリスの数学者、哲学者
15.(1873~1958)イギリスの哲学者
16.(1903~1930)イギリスの数学者、哲学者
17.(1887~1958)イギリスの哲学者
18.(1889~1951)イギリスの哲学者。分析哲学の創始者の一人。
19.(1832~1904)詩人、批評家、教育家。教育者としては、視学として、イギリスの教育制度の改革につとめ、近代的国民教育の建設に貢献した。
20.プラトン(紀元前427~前347)がアテネの西郊外にたてた学校。
21.アリストテレス(前384~前322)がアテナイの東北部に営んだ学園
22.ケンブリッジの文学士の試験。
23.教授と同格の研究員、すなわち、大学教授資格者。
24.(1848~1925)ドイツの哲学者
25.紀元前300年ごろのギリシア数学者。
26.(1905~ )イギリスの哲学者
27.(1596~1650)フランスの哲学者
28.1930年ごろにウィーンの学者たちから始まった実証主義哲学。経験的に検証不可能な命題は無意味であるとして形而上学を排し、哲学の仕事を科学的言語の論理的分析にありとし、記号論理学の研究を発展させた。
29.ヴィトゲンシュタインの著作で、アフォリズムの集積。論理学の無内容な同語反復としての性格を認識し、マトリックス(数学の行列)の方法を導入した。さらに哲学を言語批判として規定し、哲学的命題を否定し、意味分析という知的活動にとどまり、学としての哲学は不可能であるとした。
30.漸進的的社会主義を採っている。
31.シドニー・ジエームズ(1859~1947:イギリスの経済学者、社会学者)と妻ベアトリース(1858~1943:イギリスの経済学者)(松下注:シドニー・ウェッブの間違い)
32.(1870~1953)フランス生まれの随箪家、詩人。