高木貞治「ラッセルの謎-その2」
* 出典『数学雑談』(共立出版,1935年12月刊)pp.209-215.* 「ラッセルの謎その1(限定語数)」
5.ラッセルの謎-その2
それ自身を含む集合が無法であることを見せる為に,Russellが次のような謎を提出した。集合はそれ自身を含まない集合であるか,或はそれ自身を含む集合であるか,いずれかでなくてはならない。
言語短縮の為に前者をM集合と総称し,後者をN集合と総称する。然らば,集合はM集合か或はN集合かでなくてはならない。
さて,すべてのM集合を成分として一つの集合を作ったと仮定して,仮にその集合をRと記(し)るそう。
Rも集合であって見れば,必定M集合か或はN集合かであろう。
RはM集合か? 然らば,RはすべてのM集合を含む筈だから,RはRを含む。即ちそれ自身を含む。然らばRはN集合である。
RはN集合か? RがN集合ならば,Rはそれ自身を含む。郎ちRの組成分子の中にRなるN集合が入っている。M集合ばかりでRを組成した筈であったのに。
RがM集合でも困るが,N集合でも困る。進退ここに谷(きわ)まるのである。
Mだの,Nだの,又はRなどいう記号を使っては,この謎の興味を損ずる。どこまでも「それ自身を含まない集合」,「それ自身を含む集合」,「それ自身を含まないすべての集合の集合」と言葉で言えば更に妙である。このようにして一、二回繰り返えして見ることを,初めての読者に勧告するのである。
或は又論点を鋭く見せる為にRussellに倣うて次のように言うて見る。
すべてのM集合を成分とする集合Rを作ったところから始める。
然らば任意の集合Xに関して「XはRに含まれる」「XはXに含まれない」
特にX=Rとすれば
「RはRに含まれる」「RはRに含まれない」(終り!)
→ は左の仮設から右の終結を得ることを示す。従っては左と右との二つの命題が「同等」であることを意味する。
さきに進退谷(きわ)まったと言うた。そこで終り! と叫んで「ストップ」したのである。進退果して谷まったのか? しかし,あそこで「ストップ」しないと謎の興味がなくなるのである。
さて我々はしばしば帰謬法を用いる。矛盾に逢着して前進不可能となった所で,さては出発点が不合理であったのかという所に活路が開けるのである。
我々の出発点は,「すべて集合はM集合か或はN集合か」であった。M集合は勿論可能だから,N集合が不合理なのではあるまいか。
N集合即ちそれ自身を含む集合を承認しないとすれば,我々の出発点は眉唾物である。それはあたかも凡て四角形は四角な四角形か丸い四角形かであるというに類する。これ必ずしも不合理ではない。形式論理的には不合理でないが,実質的に四角な四角形もあり,同時に又丸い四角形もあるという所までも含めて言うならば,未だにわかに合理的とは言われない。形式的と実質的とを自由に混用して進むならば,随分矛盾も出そうである。矛盾にでくわしたときには,一応四角な四角形は実際あるか,又丸い四角形は実際あるかと反省するのも悪くはあるまい。
N集合を承認しないならば,「すべてのM集合の集合R」は即ち「すべての集合の集合」である。N集合を承認しないならば,「すべての集合」は勿論承認されない。然らばRは幽霊である。
謎の作者Russellは勿論それ自身を含む集合を認めているのではない。矛盾の起こりは,むやみに「すべて」「すべて」と一口に言うてしまう所にある。あまりに放漫なる「すべて」の使用を如何にして制止すべきかを問題にしているのである。(Russe11のtype論はその制止の試みである。)
自己を含む集合――それ自身を包む風呂敷――それは無法であるが、「すべて」「すべて」の濫発を許容すれば,形式上では,自己を含む集合などと言うても,妄語戒を犯さないことになる。所謂法網をくぐるのである。それを拒(ふさ)ぐ為には「すべて」の濫発を如何に制限すべきであるか。謎の作者はそれを解くに悩んでいるのであるが,謎の聞き手は多数である。そこで思いも寄らぬ局面が展開される。
自己を含む集合。そういう言葉があれば,そういう実物もあろうというのである。思想交通上,数干年来あまりに言葉が使用され過ぎて,いつか主客転倒して言葉の裏には思想があるというように bons esprits が思うようになったのも無理はないかも知れない。
そこで,自己を含む集合を作って見せてやろうという親切なのがちらほら出る。読者よ,それが秀句たらば,どんなに奇警であろうか。奇警に於いてRussellの「レコオド」を破り得るであろうか,と緊張して謹聴するのもよいが,これは生真面目なのだから,少しく勝手が違う。しかし,標本として二つだけ今思い当ったのを紹介するから,しばらく忍耐を乞うのである。
その一つは某老教授(勿論外国人だが,名は忘れた)の考案である。自己を含む集合の実例は,どれもこれも非数学的だから,自分は数学的なる実例を提供しようという御託宣であったと覚えている。趣意だけを言えば次のようである。
先ず二つの球を考えよ。それらを各二つの球で置き換えよ。叉それらの球を各々二つの球で置き換えよ、等等。このような操作はどこまで行っても行き詰まらないが,そういう操作を「限りなくやってしもうた」と考えよ。(「 」内の含蓄の多さよ! 慾張り爺さん!)「繰り返しても終ることのないことを終ったかのように言うのが我々の特権である!」
少々むずかしい註文で呑み込み兼ねるけれども,仮に呑み込んで見たところで,それが自己を含む集合の実例だと言われると,消化が困難である。他人の精神状態は必ずしも付度(そんたく)し易くはない。言語は(外国語でなくても)必ずしもよくは通じない。先生何を考えているのであろうか。自己の一部分と対等なる集合ぐらいならば,おぼろげに付度されるが,それを自己を含む集合と思えとは,一寸難物である。
上記は筆者の記憶に由って書いたのである。たしか原文では2球でなくて,6球を杉形に積むのであったようであるが,6でも2でも趣意は同じだろうと思うて,同じくは少しでも緊縮のつもりで6の代りに2としておいた。そもそも,どういう理由で6にしたかが付度し難い。このような場合2で事足るのではなかろうか。
[鳥有生の注意】2でも6でも同じだなどと速断するが,ここは6に極める所であろう――「ろく」でもない!(松下注:駄洒落) と言われない予防線も必要だから。
さて第二の実例に移る。これも国産ではない。これは所謂「数学的」ではなくて,通俗的,常識的である.。俗的,常識的と言うても,「学者」が考えることだから,先ず集合から書物の集合即ち図書館を連想したのは尤である。周知の通り,図書館には「カタログ」(蔵書目録)というものがある。然るに「カタログ」も亦これ一つの図書であるに相違ない。そこで今S図書館の「カタログ」の中に,S図書館「カタログ」が載せてあるとしてもおかしくはない。なんと,自己を含む集合の実例,見たか見たか,と言うのである。これは有限集合で,自己を含むのだから,実に珍品ではあるまいか!
1.古事記 | 4.資本論 |
2.論語 | 5.S図書館「カタログ」 |
3.大蔵経 | ... ... ... |
何と手軽にも自己を含んでしもうた集合よ! しかし,自己を何処に含んでいるのであろうか。黒枠が「カタログ」ならば,黒枠の中に黒枠が含まれていないではないか。何? 5.を見よというのか。5.はS図書館「カタログ」という八文字の印刷だ。その八文字を「カタログ」などとは――通俗的などと触れ込んでも,常識はこんなのは受け付けない。
[鳥有生曰く]カタログ流で言おうなら――「名刺持つ人は自己を懐中して歩行する!」
成程,烏有生は面白いことを言う。自己を懐中して歩行する人が出現する以上,自己を含む集合などは問題になるまい。しかし,これはお化けの世界である。我々の世界とは違う。数学危機の警鐘が鳴るか鳴らぬかに,救援者の驚くべき集合である。火事は何処だ,何処だ!