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高木貞治「ラッセルの謎(限定語数)」

* 出典:『数学雑談』(共立出版,1935年12月刊)pp.191-198.
* 高木貞治(たかぎ・ていじ:1875.4.21~1960.2.28)氏:東京帝大卒。ドイツに留学,ヒルベルトなどに師事。明治37年東京帝国大学教授。昭和15年に第1回文化勲章受賞。
* 東京の多磨墓地にある高木貞治氏の墓(写真)
* 高木貞治博士(Wikipedia の説明)

2.ラッセルの謎(限定語数)

 これは古物ではないが,短縮の為に形式だけを少し変更して言うならば,次のようでもあろうか。
 「百音以内の日本語で言い表わすことのできない自然数の中で最小のもの
 それは何であるか。

高木貞治  形式を変更したというても(ママ),実質に変わりはない積もりである。Russell は勿論日本語などとは言わない。便宜上日本語とすれば,書き方がまちまちだから「百音」にしたが,「百」には別段意味はない。「二百」でも宜しい。Russell は数を指定しているが*1,それでは枝葉の議論が出るから,無益の面倒が生ずる。「百音以内の日本語」で差支えないのである。

 さて百音以内の日本語では,とても言い表わすことのできないような自然数が,限りなくあるとしても,自然数ならば,限りなくあっても,その中最小のものがある。
 故に「百音以内の日本語で言い表わすことのできない最小の自然数」といえば,それは一定の自然数であろう。それが一定の自然数ならば,それは「百音以内の日本語で言い表わすことのできない最小の自然数」という文句で言い表わされている。「 」の中は百音以内の日本語である。即ち再言すれば,
 百音以内の日本語で言い表わすことのできない最小の自然数は,百音以内の日本語で言い表わすことができるのである。これが実質的にいうて, Russe11 の謎である

 ポアンカレ(Poincare)は上記の謎に次のような解釈を下した(想華終篇)*2
 ポアンカレに従えば,矛盾は百音以内の日本語で表わされる自然数と然らざる自然数との類別(classification),二つの類(class)の区別,或は二つの集合の定義が predicative(前定(ママ)的)でない所から生ずる。定義は前定的たるべしというポアンカレの要求は,しばしば引合いに出されるから,その大意を話して見よう。
 「二人の兵卒があって,彼等が同じ連隊に属するならば,それを前提として彼等が同じ旅団に属することを断定する,又それに由って彼等が同じ師団に属することを断定する。所謂三段論法の原則はこれに尽きている。
  (そもそも)第一連隊は第一師団に属する。
  (然るに)アンリは第一連隊に属する。
  (故に)アンリは第一師団に属する。
 然らば如何なる条件の下に於いて,このような論法が有効であるか。それは類別が「確定不動」であることである。同一連隊のジャンとジョルジュとが同一師団に属すると言いたいのだが,ジャンがいつのまにか他の連隊に移ったのでは仕方がない。
 「このように簡単明瞭なる条件に注意を払うことを忘れるならば,二律背反がたちまちに生ずるであろう。それは確定不動でない。又あり得ない類別に基づいて議論をするからである。勿論確定不動であると宣言するだけの用意はあっても,それだけの用意では不充分である,実質的の確定不動が必要なのだが,それが不可能なる場合がある」云々。

 さて百音以内云々の一件であるが,この場合,類別が確定不動であろうか。類別を完成する為には,百音以内の文句を片端から検閲して,自然数を表わさないものは捨てて,確定の自然数を表わすもののみを採用せねばならないが,さてこれらの文句の中には,類別そのものを引合いに出しているものがあって,それらの文句は類別が完成されない間は,如何なる自然数を表わすか(又は自然数を表わさないか)不確かで,採否が決定されないことがあり得る。
 例えば問題の文句「百音以内の日本語で表わされない最小の自然数」などがそれである。又は「百音以内の日本語で表わされる最大の自然数の次の自然数」というても同じである。
 このような文句があって見れば,類別が完成しない間は文句の選定がおわらないが,文句の選定が未了では勿論類別は完成しない(いたちごっこ!) この類別は確定不動でない,不合理である,「よた」である。

 一つの集合を定義するときに,或る「もの」がその集合の組成分子であるかないかが,それ自身で確定して,他の「もの」が組成分子であるなしに関係しないならば,その定義をポアンカレは前定的(predicative)と名づけて,すべて集合の定義は前定的であることを(ポアンカレは)要求するのである。
 若しも反対に,或る「もの」が組成分子であるかないかが,他の組成分子或は非組成分子に影響されるならば,集合が完成しない間は組成分子が確定しないから,集合をその未成なる集合に由って定めようということになって,それは注文が無理であろう。「締切りをしない寄附金の募集に決算の附く筈がない」とポアンカレは言う。
 このような意味に於いては前定的なる定義の要求はその趣意に於いては Russe11 の 「いたちごっこ止め」の戒律(vicious-circle-principle)と同様である。」
 No totality can contain elements defined in terms of itself.
 「集合はその集合自らに由って定義される組成分子を含むことを得ない」
 この名句はあまりに簡勁(かんけい)であるが為に往々誤解又は曲解をされるように見える。例えば,ここに実数の集合があって,その中に最大の数があるとする。その最大数は集合が出来た上で初めて定まるものであるに拘らず,集合に含まれているではないか? このような異議である。それは,しかしながら,曲解でなければ聞き下手というものであろう。成る程最大という資格は集合が定まった後に初めて決定されるが,その最大たる数は既に始めから一つの組成分子として集合に含まれていたのであって,即ち集合の最大数として定義されることに由って集合に含まれることになったのではない
 議会が議会に由って選挙される議長を「含むことを得ず」では勿論ない。彼は議長に選ばれる前に,既に議員になっていたのである。
 議員が揃うた上で,議会で議員を選挙しようというのではいけないというのである。議員が揃わねば選挙が出来ない,選挙が出来ねば議員が揃わない。それでは困るであろう・

 さて話が前にもどるが,ポアンカレの解説に由れば,百音以内の日本語で表わされる自然数の集合は不合理であって,謎の主題になっている「百音以内の日本語で表わされない最小の自然数」なる文句にのみ責任が帰するのではない。それは不合理から派生した矛盾に外ならない。前にも書いて置いたが「百音以内の日本語で表わされる最大の自然数の次の自然数」というような文句が百音以内であって見れば,上記のような集合を組立てることは,始めから思い切らねばなるまい。
 百音以内の文句を単に文字の陳列として取り扱うならば,それらの集合は有限集合である――それは無難である。しかし文句の意味にまで立入って,それらの文句が確定的に表わすと称する自然数を以って集合を組立てようとするときに,意外の故障が起こるのであった。そもそも文句は数に限りあるとしても,或る特定の自然数があるときに,それが百音以内の文句で表わされないということが言われるであろうか。試みに読者から数千億の数字を以って記される一つの自然数の提出を乞うことにして,それを此処に記載する。実際記載することは省略しておくが,その数が百音以内の日本語で表わされないであろうか。
 「数学雑談の何頁から何頁までに記載の自然数」などは如何。それは「いんちき」であると抗議が出るかも知れない。引照に由って意味を有する文句は無効だと言うのであろうが,そもそも言語なるものが引照も示唆もなしに何を表わし得るか。文句に制限を附けるならば,始めから明確にその制限を宣言して置くが宜い。例えば百音以内などは断念して,百個以内の数字で常用の記数法で表わされる自然数とでもするならば,集合は無難に出来上がるが,謎は消滅する。数字ならば安全であるのに,文句文句という中から,「文句」が生じたのである。言語言語というて,言語に表わされることだけが考えられることだと思う善男善女(bons esprits)にもこまる,というような意味をポアンカレが言うているが,又考えられることが,言語に表わされるものでもあるまい。言語は単に示唆するのみであるから,存外通りの悪いものかも知れない。「言語で表わす」が出て来ると,兎角議論の枝葉に無駄花が咲く。
 そこで成るべく無駄を省くつもりで,Russell の謎の変形を試みよう。次の形式は Finsler の考案に由る。

 1,2,3,4,5,
 この黒枠の中に表示されていない最小の自然数.

 (この黒枠の中に表示されていない最小の自然数)=6であるか? 然らば,その6が「この黒枠の中に表示されない最小の自然数」として表示されているのではないか。通例は6をこの落語の「落ち」とする。しかしこの落語は無限に続けられる。既に黒枠の中に6が標示(ママ)されているならば,表示されていない最小の自然数は7である。然らば7が表示される。7が表示されるならば,8・・・・・・
 この流儀ならば,上記1,2,3,4,5も,むだであろう。それを削ってしもうて,黒枠の中に,ただ「この黒枠……自然数」だけを書いて置いても効果は同じことである。そのとき,それは1と言えば,1が黒枠の中に表示される。6の代りに1である。
 「自然数」は「最小」を言い出すためのきっかけに過ぎない。無数にある数の中に最小があるとは言えないが,自然数なら,無数にあっても,その中に最小の自然数があるからである。自然数の為に,この謎を数学の責任に帰してはいけない。謎は論理的であるから,論理の厄介になるすべての人の関心を要求する。自然数なしにも勿論上記の謎を表わすことができる。差当って,うまい思い付きもないが,ここに烏有生の考案がある。――若しも大臣が右大臣と左大臣とだけなら,黒枠の中に右大臣の写真を出して,この黒枠の中にない大臣と記してもよいというのである。なるほど,それは左大臣だと言えば,然らば左大臣は黒枠の中にある。「うそつき」の謎も同型である。

 ・・・ ・・・ ・・・
 ・・・ ・・・ ・・・
 この黒枠の中に書いてあること,皆うそ

 どの場合でも「この黒枠の中云々」の文句を黒枠の中に書く所が謎の種である。それを黒枠の外に書けば,謎は消滅する。謎は自己引照から生ずる
 黒枠も知恵がないようだが,Russellの階級別(type)を目に見える形に表わす手段に外ならない。黒枠の中に記すべきものは「初級もの」(第1階層のもの)に限るのである。それらの「もの」の全体に関して云々する命題は「二級命題」(1つ上の階層の命題)である。それは黒枠の外に書くべきである。勿論,何処へ書いても二級と断われば差支えない。二級と断わってなくても,二級と初級とを混同しない用意さえあれば,矛盾は生じ得ないのである。
 この黒枠の中云々の文句も「此の文句は除く」と断われば宜い。無論故意に曲解しない限りは,その断わりが明記されなくとも,当然諒解されている筈である。
 「此所貼紙無用!」 そういう貼紙は当然二級貼紙であって,初級貼紙無用を意味する。即ち本貼紙以外の貼紙無用なのである。その当然の黙会を無視して,断わりが明記されないのに乗じて,先ず「貼紙無用」の貼紙をはがしてしもうて,なおその跡へ広告やら,「ポスタア」やら勝手に貼り付けるならば,いざこざが生じても不思議はあるまい。
*1 原文では次の通り(American Journal of Mathematics, v.30, 1908).
 The least integer not nameable in fewer than nineteen syllables.
 この文句が丁度十八音である。もっとも英語と断わることが省略されている(が)。
*2 Dernieres Pensees, 101頁