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(訳者解説)「ラッセルの思想と生涯」

* 出典:石本新・山元一郎(共訳)『外部世界はいかにして知られうるか』(中央公論社版・世界の名著第58巻『ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド』(1971年9月刊。554pp.)
* 原著:Our Knowledge of the External World, 1914.
* 石本新氏略歴
 

第二次世界大戦とその後

岩松繁俊著『20世紀の良心-バートランド・ラッセル』の表紙画像  6年間のアメリカ滞在期間は、世界がふたたび第2次世界大戦に狂乱していた時期である。(第2次世界大戦前夜の)危機迫るころに書かれた『平和への道』(Which Way to Peace?, 1936)において、彼は、依然として熱烈な平和主義者である。航空機を利用する化学兵器や細菌戦術は、これまでの戦争からでは想像もできぬ大規模な混乱と破壊と死をもたらすであろう。不幸にして生き残った者にも、もっとも恐るべき精神の死は避けられまい。仮にイギリスが勝利を占めることがあるとしても、そこにあらわれるものは、ドイツのヒトラーに代わるイギリスのヒトラーであろう。イギリス人は、ナチスと戦うことによって、結局は自分自身もナチス化するであろう。もしナチスがイギリスに侵入してきたら、抵抗なしに入国させて、観光客を迎えるように歓待してやろう。そうすれば、いつかはドイツ人の気持も変わるであろう…。(松下注:ナチ・ドイツがオーストリアを併合したのは、1938年3月のこと。ラッセルの Which Way to Peace? はその2年前に出版されたものであることの注意)これだけ見ると、宗教的無抵抗主義に近い平和主義の主張のようであった。そうした彼が、しかし、開戦(=1939年9月1日)と同時に、もしも私が兵役年齢だったら、直ちに武器をとるであろう、といいだす――かつて第1次世界大戦のとき、開戦と同時に彼を裏切ったケンブリッジの反戦の同志たちのように。
 2つの戦争に対する彼の態度の大きな相違は、しばしば世の疑惑を招いた。それに対して彼は答える。
「世界でもっとも重んずべきは平和だと考えているという意味では、私は依然として平和主義者である。けれども、ヒトラーが栄えているかぎり、世界に平和が可能であるとは考えられないのだ」
 平和主義を貫くためにも、ヒトラーを打倒する戦争が必要なのである。第1次世界大戦のときには、平和を守るためにはカイゼルとの戦いは必要ではなかった。そのときには、何よりもまず、戦争をこそ、ドイツの脅威以上に恐れるべきであった。第1次世界大戦に対する彼の憎悪は、第2次世界大戦にいたるヨーロッパの不幸のすべてを、その(=第1次世界大戦の)必然的な帰結と見なすほどに根ぶかい。しかしヒトラーの脅威は、どのような戦争にもまして恐るべき人間性の抹殺である。1914年には平和を守るために戦うべきではなかったが、1939年には平和を守るために戦争以上の惨害であるナチズムと戦わねばならなかったのである。明らかに、その平和主義は、クエーカー教徒のような主義としての、むしろ信仰としての絶対的反戦主義ではない。平和のために戦うべからざる戦争と、戦うべき戦争との区別は、確かに内外の諸情勢についての、彼なりの綿密な政治状況判断に裏づけられていたのであろう。

 第2次世界大戦後の旺盛な評論活動も、このような視点から一応の説明はつくであろう。戦争末期の原子爆弾は、スターリン体制下のソヴィエトの状況を考慮するかぎりは、やむをえぬものと考えられた。ソヴィエトの横車をおさえて世界政府を樹立するまでは、西欧は、そして西欧だけは、原爆を保有すべきであって、ソヴィエトはそれを所有すべきではない、という。彼は、労働党政府の委嘱で世界の各地に次々に講演旅行に出かけたが、彼のこうした論旨は、米ソの冷戦におびえた聴衆に大きな感銘を与えるとともに、戦後の進歩的知識人からは、時局への便乗や迎合だという非難を浴びた。(松下注:このあたりの記述は誤解を与える恐れがある。ソ連が核兵器を保有するようになる前に、アメリカの核の力で戦争のない世界政府実現を「示唆」したことはあるが、日本に対する原爆投下を「やむをえないもの」と発言したことはない。それどころか、日本の敗戦はあきらかであったのに投下したのは、対ソ連に対するアメリカの示威行動であり、恥ずべき行為であると非難している。)
 1950年には、イギリス最高の栄誉である「オーダー・オブ・メリット」勲章と、ノーベル文学賞が与えられる。1952年、すでにパトリシアと別れていた彼は、アメリカの作家エディス(松下注:「作家」というと誤ったイメージを与えそう。大学の英文学の教師といったほうがよいだろう。)と4回目の結婚をする。1953年には、初めての短篇小説集『郊外の悪魔』(Satan in the Suburbs)を、1954年には、風刺小説『著名人の悪夢』(Nightmares of Eminent Persons)を発表する。80歳の老人とは思えぬ意欲である。1954年3月のビキニ環礁の水爆実験は、彼に第1次世界大戦にも比すべき大きなショックを与えた。彼は、原爆のときから水爆の可能性を予見していたそうであるが、実験成功のショックは、それまでの西欧中心的平和思想をゆるがすほどのものであった。水爆による戦争は、もはや、スターリンやヒトラーにくらべればまだしも耐えやすいというような比較を許さない。最終最悪のものだ。これを防ぐことが、地上のいかなる政治的・思想的対立をもこえた人類共通の至上の課題である。彼は、その廃棄を米・英・仏に、さらにソヴィエトや中国にアピールし、実験の翌1955年には、世界の代表的科学者を集めたパグウォッシュ会議を提唱、開催する。1961年には、みずから結成した「百人委員会(Committee of 100)」の委員長として国防省玄関前に坐りこんで逮捕され(3月)、さらにトラファルガー広場で「市民不服従運動」の大集会を指導し(10月)、イギリス全土の核兵器基地にデモをかける(12月)。1962年には、ケネディとフルシチョフに長文の電報を送って、キューバ危機の回避に努力し、1965年には、ヴェトナム危機についていくたびかのアメリカ非難の声明を発し、1967年には、サルトルなどと協力、戦犯裁判(いわゆるラッセル法廷)をパリに開催してアメリカの有罪を宣告する。

 半生の哲学的課題

 このたぐいまれな長寿者の哲学的半生の哲学的課題後半生は、『数学原理』や『外部世界はいかにして知られうるか』以後、50余年のひろがりをもつ。その大まかな傾向を要約するならば、論理数学的分析から認識論的分析への展開であるといえよう。その成果を代表するものとして、『外部世界はいかにして知られうるか』と同様な分析的方法で「中性一元論」ともいわれる立場に近づいた『心の分析』(The Analysis of Mind, 1921)、言語(「対象言語」と「論理言語」)・意味・真理などを取り扱った『意味と真実性の探求』(An Inquiry into Meaning and Truth, 1940)、その哲学の体系的総合ともいうべき『人間の知識-その範囲と限界-(Human Knowledge, its scope and limits-, 1948)などがある。この書物で取り上げられた問題は、きわめて多面的であるが、そのうちとくに重要なものは、ラッセル自身の分類にしたがえば、(1)人間の精神と行動、(2)経験的な認識とア・プリオリな認識、(3)意味と言語、(4)「非論証的推論」をも含む分析的方法の展開、に大別できよう
 まず、人間の精神と行動の問題については、その基本的主張は、人間の精神や行動は、生物の精神や行動との連関において自然主義的に解明されるべきであって、逆に生物や自然を人間的に解釈すべきではない、ということである。これらの分野で彼は、ソーンダイクやケーラーの心理学と、行動主義やその基礎にある条件反射学の影響を受けたが、とくに、そのうちで心理学が、人間を自然主義的に解明すると称しながら、じつは自然を人間主義的に解釈していることを非難する。これに対してラッセルは、人間を生物の立場から追求すると同時に、生物や自然は結局は物理学のことばで語られるべきものと考える。人間に固有のものといわれた価値についても、基本的には変わらない。カントのように、われらの頭上に輝く星空を、われらの内なる道徳法を通して眺める代わりに、道徳法もまた星空を支配する物理学のことばで解明されるべきものと、彼は考える。現状はともあれ、そうなることの可能性を期待し、模索する。
 世界は、人間の外に実在するのであり、それゆえ、世界を人間的経験の相においてのみとらえようとする経験論を、彼は、そのまま是認することができない。大まかにいえば、論理学や数学に専念した前期に対比すると、後期の彼は、自然・人間・言語などの経験的諸問題への関心を深めたともいえよう。しかし経験への接近は、古典的な経験論の方法でなされたわけではない。経験から、直接的には経験できぬものを推論し、直接的には経験できぬものを、経験によって検証するというしかたで、経験に近づくのである。このような意味で、素朴な経験論者ではない。経験的検証をも拒否する素朴な先験論者でもない。
 「経験的」と「先験的(ア・プリオリ)」ということは、古典的伝統哲学の主要問題であるとともに、新しい論理実証主義の中心問題でもあった。この由緒ぶかい問題についてのラッセルの解決は、おそらく2つの方向をもっている。第1は、実在論(とくに「新実在論」とも呼ばれる)的解決であって、経験をこえた実在の立場から主観主義的経験論を克服するとともに、経験をこえた実在はどこまでも経験的データの分析から推定されるべきであるというしかたで、伝統的先験論をも克服しようとする。第2の方向は、「経験的なるもの」と「先験的なるもの」とを「対象言語」と「論理言語」という言語の視点で意味論的に解決しようとする。
 1944年にアメリカから帰国したラッセルのケンブリッジでの講義は、「非論証的推論」と題された。それまでの哲学者や論理学者は、非論証的推論をとくに帰納的推論と同一視する傾向が強かったが、ラッセルは、常識的で日常的な推論としての帰納法の有効性は認めながらも、単純枚挙にもとづく帰納法は科学の基礎的な方法ではありえないという。帰納法が経験的事実に立脚して経験的事実を一般化するにとどまるかぎり――つまり経験的事実の枠内にとどまるかぎり、帰納法にのみ依存する科学の成果は貧しい。非論証的推論の積極的意義は、経験的な帰納法そのものではなくて、それに与えられる「蓋然性」(probability)の程度であり、それを保証する根拠、むしろ要請である。
 そのようなものとしての(1)準永続性の要請、(2)因果の線の分離可能性の要請、(3)空間と時間の連続性の要請、(4)構造の要請、(5)アナロジーの要請、をあげている。
5つの要請を個別的に検討することは省略するが、それらは、従来の自然哲学で前提されてきた自然の連続性(自然は飛躍しない)・因果性・恒存などの形而上学的原理を分析的に定式化したものである。たとえば、第2の要請は、「もろもろの事象の系列をつくり、その系列中の1つまたは2つのメンバー(事象)から、他のすべてのメンバー(事象)について何ごとかを推論できるようにすることは、しばしば可能である」ということであるが、知覚にもとづく部分的知識から蓋然的推論によって知識を拡張することは、このような要請なしには可能でない。人は自分の意識から他人の意識を類推するが、(5)のアナロジーの要請(この場合は、自分の意識と他人のそれとのアナロジーの要請)なしには、直接的には経験できぬ他人の精神が存在するという信念(むしろ「動物的期待」)を理由づけることは不可能であろう。彼のいう「知識」は、(a)自分自身についての知識、(b)他人(その証言をも含む)についての知識、(c)物理的世界についての知識、という3段階を含む。科学を(c)だけに限定するなら、5つの要請はさらに単純化できるであろう。しかし、自分についての直知的ではあるが非論証的な、さらに他人やその証言についての類推による推論をも含ませるならば、いままでの哲学が形而上学的に前提してきたさまざまな要請を整理して、論理的に分析し、定式化することが必要である。『人間の知識』で示された5つの要請は、その試論的な試みである。

 ラッセル哲学の要約

 以上は、後半生のラッセルの主要な問題意識を素描したにすぎないが、さらに立ち入って問題の解決を求めるには、ラッセルの著作の論説を、そして「論理実証主義」を経て「分析哲学」にいたる現代哲学の形成史を、みずから検討していただくよりほかない。「人間の精神と行動」「経験的と先験的」「対象言語と論理言語」「非論証的推論」などの後期の問題を通覧し、さらに前期の「内的関係と外的関係」「記述の理論」「集合論のパラドクスと階型理論」などを回顧するならば、ラッセル哲学の展開をたどることは、論理実証主義と分析哲学の形成史をたどることにほかならないと知るであろう。さらにまた、2つの世界大戦を含む時代の激動にまともに取り組んだ彼の社会活動をあわせて考慮してみれば、その思想と生活は、まさに現代の百年に近い歴史とともに成長してきたものであることに気づくはずである。
 その理論的研究は、大まかにいえば、観念論から論理学へ、そして論理学から科学への方向をたどった。後半生の科学的関心の増大とともに、論理主義の形式的堅固さは、いくらか柔軟なひろがりをもつようになる。自然や人間の現実的諸問題への接近とともに、『外部世界はいかにして知られうるか』の用語を借用するならば、「かたいデータ」の「かたさ」の度合は、いくらかは減少したともいえよう。長期間の研究生活のうちには、その後の論理実証主義や分析哲学の発展によって克服された理論もある。後期の著作では、同じ問題がいくたびか重複して論じられたり、その考えかたに大幅な修正が加えられていることもある。この点をとらえて、その理論が終始一貫していないと咎める人もないではないが、一世紀近い研究生活を通じて不変の一貫性ということは、はたして研究者としての美徳なのであろうか。それとも、非生産的な硬直性のあらわれなのであろうか。その途中で失われたものや残されたものを回顧しながら、ラッセルは、自分の哲学の方向を、次のように要約している。

「いまなお私は、真理とは事実との関係において成り立つものであり、事実とは一般に非人間的なものと考えている。宇宙的に見るならば、人間は重要ならざるものであり、いまここの歪みなしに宇宙を公平に眺めわたせる存在者ならば――そういう者があるとして――おそらくは人間のことは一巻の終わりに近い脚注で述べるだけであろうと、いまなお私は考えている。しかしながら私は、いまでは、人間の領域をそのあるべき場所から追放しようとは望まない。知性が感性にまさり、プラトンのイデア界のみが実在界への道を開くとは感じない。かつては、感性とその上に築かれた思想とは、感性を離脱した思想によってしか逃れでることのできぬ牢獄であると考えたものである。いまではもう、そうとは感じない。感性とその上に築かれた思想とは、牢獄の格子ではなくて、窓であると考える。われわれは、完全にとはいえないにしても、ライプニッツのモナド(単子)のように世界を映すことができるのであって、可能なかぎり像を歪めぬ鏡となることこそ哲学者の義務だと考える。と同時に、われらの本性のために避けることのできぬ歪みを確認することも哲学者の義務である。そうした歪みのうちもっとも基本的なことは、ここといまの視点から世界を眺め、有神論者ならば神に帰するであろう広大な公平さで眺めてはいないということである。われわれは、それほどの公平さには到達できないとしても、その方向に何がしかのところまで旅することはできよう。そして、目標への道案内をすることこそ、哲学者の至高の義務である」(『私の哲学の発展』(My Philosophical Development, 1959)