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柴谷久雄(著)『ラッセルにおける平和と教育』への序文

* 柴谷久雄(著)『ラッセルにおける平和と教育』(御茶の水書房,1963年6月刊。 5+285 pp. 22 cm.)
* 柴谷久雄氏(1910~?)略歴
* 本書は柴谷久雄氏の博士論文(広島大学)を公刊したものです。
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 バートランド・ラッセルは二〇世紀の思想界にそびえ立つ一大巨峰である。巨峰といっても、それは孤立してそびえる単独の高峰ではなくて、いくつかの高山から成る巨大な連峰といった方がよりふさわしい。というのは、哲学に対して、政治に対して、宗教に対して、道徳に対して、世界平和に対して、そしてまた教育に対して、ラッセルは今世紀の開幕以来つねに「現代最大の問題提起者」として刮目すべき活躍をつづけてきているからである。このささやかな研究は、ラッセル連峰の一つである教育峰に向かって登頂を試みた著者のたどたどしい足跡である。首尾よくその頂上をきわめ得たか否か、著者には自信はない。同学の士のご教示・ご批判をいただいて、後日加筆の機会をもちたいと念じている。

 著者がラッセルの教育思想に心をひかれるようになったのは、太平洋戦争後のことである。旧制大学の教育学教室にあっては、ジョン・デューイが問題になることはあったが、ラッセルが問題として採り上げられるようなことは、絶無であったといってよい。著者の学んだ広島文理科大学(現広島大学)においてもまったく同様で、われわれはもっぱらドイツ教育学で教育されたのである。六ヶ年にわたる軍隊生活とシベリアでの抑留生活とをおえて、著者は昭和二三年の夏、ようやくにしてふたたび故国の土をふむことができた。当時のわが国教育界は、いまさらいうまでもなく、アメリカの教育思想によって一色に塗りつぶされていた。著者が一召集兵として故国を後にした昭和一八年当時の軍国主義的な教育論が一掃されていたのは当然のことであったが、それとともに、その頃も依然として有力だったドイツ教育学もまたほとんどその光彩を失っていた。しかし著者は、何としても腑に落ちないものを感じた。それは著者のドイツ教育学的教養のせいばかりとはいいきれないものがあった。昭和二六年五月の日本教育学会第一〇回研究発表大会において、「新教育の日本的現実」と題してささやかな研究発表をおこなったのも、著者の教育学徒としての悩みからであった。それは研究発表というよりも、むしろ、アメリカ教育学とドイツ教育学とに板ばさみにされた著者自身の悩みを卒直に披瀝したものであった。まだ判然とつきとめてはいないながらも、当時の新教育には、教育的な浪費と呼んでよいような点が多すぎると思われた。著者はあえてそれらの諸点を指摘して、参会者の批判を仰ぐという心構えであった。ただ、ラッセルの「教育論」だけを心のささえとして。そこには、旧教育は児童の意志を鍛錬しようとして、その知性と感情とを抹殺した。これに対して、新教育は体系的知識の育成に欠けているという意味の、きわめて示唆にとんだ文章が秘められていたからである。しかし、質疑応答の時間に、これは予想していたことではあったが、数人の質問者から手きびしい反発をうけた。著者はただ黙々とそれらの批判を甘受したことを、いまもはっきりと思い出すことができる。
 その後、ラッセルの教育思想に親しさを増していくにつれて、著者の直観のけっして誤りではないことが次第に証明されていった。けれども、著者がラッセルの教育思想に強く心をひかれるのは、単にこうした点だけにとどまるのではない。教育という問題を教師や学校やあるいは教育学者の独占から解放して、社会科学的照明の下においた彼の研究態度からも、著者は多くのものを教えられた。ことに、世界平和を確立するために教育はいかにあるべきかという熾烈な問題意識こそ、著者の心を捕えてはなさない魅力なのである。著者は大学卒業後、召集兵として入隊するまでの数ヶ年間、師範学校の教壇にあって、教育学・哲学および倫理学を講説した、当時の国情下においてはやむをえないものがあったとはいえ、著者の講義が戦争に協力する結果となったことは事実である。これは、教育者として、また一個の教育学徒として、著者生涯の一大痛恨事である。天も地も凍てついた荒涼たるシベリアの山中にあって、アジア大陸の一隅で、あるいは、太平洋の一角で、黙々と散っていったであろう多くの教え子のことに思いを馳せては、誰に向かってたたきつけてよいかわからない憤りの念に、著者は眠れぬ夜々を送り迎えたことであった。ラッセルが、祖国よりも、教会よりも、その教え子をより強く愛することのできないような教師は、真の教育者とはいえないと述べているが、奇しくも生きてふたたび祖国に帰ってのち、この言葉にふれ、それが著者回心の主要な契機となった。ラッセルの愛国心に対する峻烈な批判も、著者の傷ついた心を慰撫しかつ導いてくれた。こうした意味において、本研究は著者の前半生を葬る墓碑銘であるとともに、後半生を記念するスタート・ラインでもある。
 なおこの機会に、恩師皇至道博土(広島大学学長)および畏友杉谷雅文博士(広島大学教授)に対して、ここに衷心からの謝意を表しておきたい。両博士のご指導・ご鞭燵がなかったなら、このささやかな研究も完成の日をみなかったであろう。また、学術書出版の困難な今日、あえてその難事を快諾された御茶の水書房と係の棗田(そうだ?)金治氏とに対しても、ここに心からお礼を申しあげる次第である。  一九六二年初冬 著 者