佐伯彰一「理性の王者の落とし穴(バートランド・ラッセル)」(その3)
* 出典:『自伝の世紀』(講談社、1985年11月刊行)pp.270-300<3
ラッセル著書解題 |
「私のすべての友人の中で、いやおよそ私の世界に属するすべての人々の中で、最もずば抜けた人間といえば、バートランド・ラッセルにとどめを刺す。彼には生れの良さ、天分、学識、不屈の熱意と精力、ブリリアントな知性、そして断乎たる誠実と勇気があった。彼の正義愛は、そのユーモアのセンスに劣らず鋭かったし、数学、自然科学、そして歴史にも通暁していた。重要な外国語はことごとくよく出来たし、政治と文学の世界の現状にもすこぶる詳しかった」と書いたのは、哲学者のジョージ・サンタヤーナ(George Santayana,1863年12月16日 - 1952年9月26日)である。これは、彼の死後刊行された自伝の第3巻『わが宿主(ホスト)なる世界』(1953)の一節で、執筆当時の彼は、すでにローマの僧院でひっそりと隠遁生活を送っていた。ラッセルとは、もともと9歳年長の先輩格にあたる上に、古くから気のおけない友人づき合いであり、遠慮、気がねすべき筋合いはなかったし、いわんや社交的なお世辞をわざわざ書きこむような人柄とは縁遠い。サンタヤーナは、ラテン系らしい、都雅な物柔かさの反面、現実の人づき合いにおいてもまことにシャープな観察眼、批判力の持主であったことは、彼の自伝の随所にうかがい見ることが出来る。そうしたサンタヤーナの、これは頌め言葉であった。実際、ラッセルには、ぼくら凡人から見てまず溜息でもつく他ない、恵まれた素質と才能、そして家柄と環境がそなわっていた。サンタヤーナのいう通り、人間として望み得る限りの要素と条件、いわばプラスの札ばかりをそろえた生涯であった。そして、90代半ばに彼の書き出した自伝を開いてみれば、
「わが人生を支配したものは、単純だが圧倒的に強力な3つの情熱、愛への憧れと知識の探求、そして人類の苦しみに対する耐えがたい哀れみの念と」といかにも昂然たる調子の「序文」がすえられていた。先にひいたブレナンは、ラッセルについて「プロメテウス・コンプレックス」といった巧みな評語をひねり出したが、今の「序文」など、まさしく「プロメテウス」宣言とでもいう他ないだろう。あまりに若々しく高揚した調子であり、あまりにも翳りがない。さて、サンタヤーナのラッセル評には、まだ後があるのだ。「彼は指導者となり、幅広い名声と影響力をふるって然るべき人物であった。実際、彼は数学と論理学において鮮やかな足跡をのこし、『論理実証主義者』なる哲学上の新流派を生み出す影響源ともなって、卓越した人物とひろく認められもした。しかし、彼の能力に比してみれば、総体として彼は失敗者であった。彼の仕事ぶりには、先細りの趣がある。彼は時間と精力、さらには金までも、つまらぬ対象に浪費してしまった。ホワイトヘッドと協力して書いた『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』をべつとすれば、彼の能力を十分発揮して、歴史にのこるような記念碑的な作品は、何一つ残さなかった」(松下注:確かに,1953年以後,ラッセルは独創的な著作は執筆していないが,サンタヤーナは1952年になくなっているので、もちろん1953年以降のラッセルについては知らず、「ラッセルの生涯を総括」することはできない。)
この執筆当時、ラッセルはもちろん存命中で、ノーベル文学賞までさらったりした訳だが、サンタヤーナは、あっさり、きっぱりと一切を過去形で書いてのけている。修道院住いの隠者・哲学者らしい超脱ぶりには違いなかったが、こうした彼の裁断のうちに、同時代の同業者らしいけちくさい嫉妬や敵意は、いささかも影さしていない。と言い切るためには、サンタヤーナについて、とくに彼の自伝全体についての立ち入った検証が不可欠の作業であるけれど、ここでは敢えて省略させて頂く。一つには、そうした傍証のためにだけ引き合いに出すには、サンタヤーナ自伝が、それ自体ゆたかすぎ充実しすぎている。ただ、ラッセルと彼の間には、長い友情関係があり、気質や出身などの差をこえて、サンタヤーナの理解と熟知は、ラッセルの女性関係の機微にまで及んでいる。相手構わずともいいたいほど多数で多岐にわたるラッセルの性行動のいきさつに通じながら、「彼には詩人風、ドン・ファン風なところは全くなく、移り気なギャラントな恋人めいた所も全くなかった」と言い切っており、ラッセルが、晩年、4度目の若い妻君(松下注:相手の Edith Finch は当時52歳なので、「若い」妻とは言いがたい。)と結ばれて、はじめて安定した家庭生活の楽しみを覚えたという事情についても、家政婦と結婚したゲーテの場合を思い合せてこれを大らかに祝福している。いかにも行きとどいた観察と判断力にうなずかざるを得ない次第で、先に引いたラッセル裁断は、じつはそうした年来の知己による、いわば考えぬかれ、練り上げられた結論であり、断案であったのだ。
しかし、この点に立ち入る前に、ラッセル自伝の語り口の見事さについてふれねばならない。「幼年期」「思春期」あたりが、かくべつ印象深いのだが、ラッセルは、幼時に両親を相ついで失って、祖母のもとで育てられた。母親代りをつとめたこの祖母の風貌、振舞いが、まことに鮮やかに描けている。彼女は23歳も年上の祖父のそれも後妻となった直後に、夫が首相に就任というめぐり合せになった。少女時代には、人前で口もきけないぐらい「しごく内気」だったから、首相夫人としての社交といい、義理の子供たちとの関係といい、そのストレスは想像にあまる。しかし、彼女は一面、いわば骨髄までのヴィクトリア朝的ピューリタン道徳のしみこんだ女性でもあって、その行動と判断の基準は、ほとんど終生ゆらぐことがなかった。たとえば、'swearing'(罵り言葉)を口に上せるような人間に、「善良さなど求め難い」という鉄則を持してゆずらず、ただやはり例外はあって、18世紀の有名な文人貴族のホレス・ウォールポールに可愛がられたベリー嬢姉妹などには、「古風なお育ちだから、仕方がないのよ」と、「罵り言葉」の特権をみとめていたという。こうした細部の挿入によって、古いイギリス貴族社会の風習にふと生きた呼吸を通わせる手際が、まことにうまい。「恋愛などといったつまらぬ主題を扱った詩が、これほど多いのは嘆かわしいわ」とのたもうた由で、それほどお固い老女だから、文学などはまるで無関心かといえば、フランス、ドイツ、イタリーの古典は一応目を通していたし、バイロンには、「報いられざる初恋の気の毒な犠牲者」という訳で、ファンめいた共感をよせていた。ただし、無神論者のシェリーは、「とにかく悪い人(ウィキッド)よ」と切りすて、キーツとなると、名前をきいたこともなかったらしい。「ツルゲーネフとかいう人から直接小説を贈られたけれど、読む気にならなかったわ」といわれた由。早くから孤児となったラッセルにとっては、しんから可愛がってくれた母親代りで、「4、5歳のころ、夜中にふと目がさめて、祖母がもし死んだらと考えたら、怖くて眠れなくなった」覚えがある。「しかし、祖母が実際に亡くなった時、こちらはもう結婚していて、彼女の死もまるで気にならなかった」と言ってのける所がラッセルらしい率直さだが、先にクックが引いていたイギリス貴族の美質というのも、じつはラッセルがこの祖母のうちにみとめ、おのずと範とするに至ったものであった。ヴィクトリア女王とも、いわば内輪のつき合いというに近く、うやうやしいどころか、むしろ不躾に女王の口のきき方を面白がって真似て見せたりした、という。
してみると、ラッセルの相つぐ反俗的、反抗者的な言動というのも、その底ではいかに貴族的なものだったと認定せざるを得ない。祖母ゆずりで、いつか骨の髄までしみこんだ「大胆不敵さ」であり、「勇気」であった。バイロン風な貴族的反抗者の20世紀版といってもいい。むしろ意識の的に「群から離れ」て独行し、反俗的な主張と行動とを挑戦的、挑発的にひけらかしたという点で」も、意外なほどバイロンと通じ合うものがある。ラッセルが、『哲学史』のなかで敢えてバイロンに大きな位置をあたえたという所にも、こうした貴族仲間の共感の働きをみとめざるを得ない。彼が幼少年期をすごした大邸宅は、ヴィクトリア女王から下賜されたもので、もともとジョージ三世が愛人であった貴族女性に贈った邸で、「ペンブローク・ロッジ」という呼び名は、その女性の名前から出ている。その庭園も11エーカーという広大さで、茂るにまかせてあった林には、かしわ、ぶな、栗、ライム、美しい糸杉などが立ち並び、幼時からこの庭園は「自分の生涯にとってじつに大きな役割を果してくれた」由であり、西の方を望むと、白亜のエプソム丘陵からウィンザー城まではるかに見渡すことが出来た。「広い地平線、さえぎられることのない夕日の眺望に馴れ親しんでいたので、以後もこの2つなしには、私は幸福になれなかった」と、ラッセルは言い放つ。さもありなんとは思いながらも、ラッセルの憚るところのない自主独立、そのエゴチズムを支え、育くんだ地盤と背景を考え合せずにいられないのだ。
さてラッセルとT.S.エリオットとの入りくんだ関係にも、こうした貴族的なステータスと奔放さが、見のがせぬ一役を買っている。年齢も16歳も違う両者は、まず師弟として知り合った。1914年、エリオットが哲学専攻のハーヴァード大学院生だった時、ラッセルが招かれて来て、「記号論理学」のセミナーを受けもった、という。当時26歳のエリオットはすでに詩も書き出していたが、ラッセルの記述(女の友人あての手紙)によれば、「目立つほど内気な」学生で、「すこぶる身嗜みよく、趣味も非の打ち所なし」だが、「まるで生気も熱情も感じられない」。ただセミナーの際、ヘラクレイトスの話が出たとき、「ヴィヨンになぞらえたのが印象に残った」。エリオットはすでに3年前ヨーロッパに出かけ、ソルボンヌに留学した体験もあったのだが、依然としてアメリカ東部の伝統的なピューリタニズム風の躾と気質のしみついた青年であったらしい。ところが、こうしたエリオットが同じ年のうちに奨学資金を受けて、ヨーロッパに出かけることとなって、思いがけない女性と出くわすめぐり合せが生じた。一応オクスフォードに籍はおいたものの、第一次大戦が勃発して応召する学生も多く、落着かぬ雰囲気であった所へ、ロンドンで同国人のエズラ・パウンドと知り合い、パウンド一流の熱っぽい前衛的な詩論、芸術論のしぶきを浴せられるに至って、それまでの「内気さ」、つよい自己抑制の絆が、次第にほぐれ始めた。詩作に一層身を入れるようになったばかりか、ボヘミアン風な生活の雰囲気の中にじりじりと誘いこまれてゆく-いや、これ迄の反動というように、我から進んでこうした渦の中へ身を投じていった趣もみられる。エリオット家という旧家の強い絆に対する青年らしい反撥の気分も働いたらしい。そういう所で出会ったのが、同じ年齢、いやほんの6ヵ月ながら年上の女のヴィヴィアン・ヘイグウッドであった。彼女にはすでにいくつかの愛の前歴があって、エリオットに彼女を紹介してくれたアメリカ人の友人とも、スイスで出会って以来交渉が続いていたらしい。かくべつ放埒なタイプの女性とはいえなかったが、それ以前に婚約者がいた時期もあり、複数の男性との性体験を経てきた、当時のいわゆる「新しい女」、「解放された女」のひとりであったことは疑いない。エリオットとの結婚後に始めて顔を合せたラッセルは、「軽快で、少々下品で、冒険好き……」と第一印象を記しているが、これは少々酷な見方で、出身からいえば、むしろ物固い典型的な上層中流階級の女性で、それだけに新時代の「解放」のスローガンをまともに信じすぎたともいえる。これに対して、エリオットは、当時まだ明らかに童貞であり、性的抑圧が、ひときわ強く、親しい女友達も全くなかった。これがヴィヴィアンとつき合うに至って、にわかに解きほぐれ出したらしい。当時2人が一緒にいる所を見かけただけで、エリオットの彼女を見る表情、態度から、そうした性的変化がありありとうかがい知れたという第三者(オルダス・ハックスリー)の証言も残っているほどだ。ヴィヴィアンの一種並外れた活溌さ、急激な気分の変り方、素早い機知と皮肉をふくんだ口のきき方なども「内気」なエリオット青年にとっては、今までついぞ知らなかった新鮮な魅力であったが、やはり何よりも彼女による性の手ほどきが、この際の主役を果したといわねばなるまい。
もっともそれだけなら、詩人エリオットにとってむしろ慶賀すべき出会いであり、解放のきっかけといえそうだが、さらに厄介な事情がからんでいた。これは『エリオット伝』のアクロイドの綿密な身元調べで明らかになった所だが、ヴィヴィアンには、少女時代から頭痛や痙攣という神経性の持病があり、12歳で始まったメンスも不規則かつ異常な頻度を示したという。そのせいで、ホテルに泊った際でもベッドのシーツを自分で洗わずにいられないというオブセッションの持主で、彼女の母親は早くから「精神病」の心配につきまとわれていた。事実、すでにモルヒネをふくむ抑制剤も常用していた由であり、どうみても前途多難そうな女性といわざるを得ない。少くとも当時のエリオットにとっては、いかにも不運な出会いであり、不吉な性的開眼という他なかった。しかも、そこへ不羈奔放(ふきほんぽう)の貴族、世の習俗を立ちこえたラッセル教授がもう一人の役者として割りこんできたのだ。エリオットとヴィヴィアンは、知り合って間もなく一気に結婚へとつき進む。双方とも家族の諒解をとりつけることもぬきにした熱中ぶりだったが、そのつけは忽ち廻ってきたらしい。第1に、2人の性生活自体が、早くも破綻をきたした。ラッセルによれば、結婚間もないヴィヴィアンから、「自殺をほのめかす」手紙がまいこんできた由で、その原因は性的なものとしか思われなかった。知り合って間もないラッセルにいきなりそんな手紙を書くというのも非常識な話だが、「解放された女」という自負もあったろうし、頼もしい年上の男性、いや代用の父親といったイメージさえヴィヴィアンの脳裡には働いていたのかも知れない。しかし、夫婦の性生活にかかわる問題は、一方の側にだけ責任を押しつける訳には参らない。もともと性的抑圧の強かったエリオットは、どうやら性的に弱い男性で、しばしの開眼の喜びがすぎ去ると、たちまち性関係もうまく運ばず、不能の恐れにとりつかれて、性恐怖、女性嫌悪といった兆しさえ見え出したことは、アクロイドのいう通り、当時のエリオットの詩作品のうちにも跡づけることが出来る。こうした「問題夫婦」にラッセルが庇護の手をさしのべることになって、2人を自宅に招いて泊めてやったりした。そして、ラッセルとヴィヴィアンとの間に、性交渉が生ずるに至ったのは、間もなくのことだったらしい。
この三者関係については、幾通かの手紙をのせているほか、ラッセルの記述はこれっ切りである。アクロイドが跡づけてくれた内情を知った上で、この箇所を読めば、いろんな深読みも出来て、興味津々ともいいたい。債券の処分、貸与について、「平和主義」と結びつけずにおかぬ所もラッセルらしいし、さらに「知り合う機会もぐっとふえた」という箇所に、註をつけずにすまなかったラッセルの心理的機微に至っては、さらに面白い。しかし、それだけを独立した自伝的記述として受けとる限り、これではいかにも物足りない。という以上に、一種の巧妙な知能犯的な言い抜け、事実やり過ごしの戦略ではないのか。口を拭って素知らぬふりといわずにいられない。「大胆さ」と「勇気」を表着板にかかげたラッセル卿の書き方としては、あまりに率直さを欠き、心理的、性的真実からもほど遠いものではなかったか。エリオットは、1965年に亡くなっている。この自伝の執筆、刊行がエリオット歿(没)後という事情を思い合せるとき、サンタヤーナによるきびしいラッセル裁断が、さらに一層の重味を帯びて蘇ってくるのだ。 (続く)