バートランド・ラッセルのポータルサイト

佐伯彰一「理性の王者の落とし穴(バートランド・ラッセル)」(その2)

* 出典:『自伝の世紀』(講談社、1985年11月刊行)pp.270-300

 

ラッセルの言葉366
 ラッセル自伝のまず第一の強味が、こうした逸話の語り口の魅力、一筆描きのキャラクター・スケッチの冴えに存するといい出せば、ラッセル崇拝者ならずとも眉をひそめられる読者が多いかもし知れない。
 公人としてのラッセルの本領は、すでにふれたように、目ざましいアクチヴィスト(activist)としての言説と活動にあり、宗教論、哲学史から、結婚論、幸福論に至るまで啓蒙家として、すこぶる幅広い活動ぶりを示した。しかも、たんに一般向けの歯切れのよい解説家にはとどまらず、初期のラッセルには、ホワイトヘッドとの共著になる『数学原理』の刊行(1910~1913)があり、いわゆる論理実証主義の現代哲学に及ぼした衝撃と影響の大きさについては、素人が今さらさし出口をはさむにも当らない。学者、思想家としての堅固、独創的な業績の上に立って、明晰、達意のスタイルで、さまざまな分野、トピックを楽々とこなして見せた。げんに少年期のぼくなども、ラッセルには思いがけぬ恩恵を蒙っている。戦前のわが国の深刻めかした哲学書は全く受けつけなかった人間にも、たまたま買い求めた「ホーム・ユニヴァーシティ文庫」版 The Problems of Philosophy(1912)は、英語で読んで楽々とたどってゆけたばかりか、その冒頭に出てくる認識論の解説ぶりの新鮮さに、哲学開眼の喜びを味わった覚えが、いまだに忘れ難い。
 また彼の『西洋哲学史』(1945)は、800ページをこえる大著ながら、すこぶる楽しい本で、敗戦後間もなくアメリカの兵隊からもらい受けて以来、折にふれてのぞき読みして、一向に飽きない。いや、コクのある思想書とはいえないのだが、この戦闘的な啓蒙主義者、徹底した合理主義者にして、意外なことに中世のキリスト教神学やスコラ哲学の部が詳しかったり、「哲学史」の中に、なんとマキァヴェリやバイロンが大きく扱われていたりするという不意打ちの楽しみにも出会える。古来の哲学者たちを大別、二分して、数学的な発想の人々と、経験科学に親近感をいだく人々にわけて見せるあたりも、ラッセルならではの着眼で、感心しない訳にゆかないし、さらには彼自身明らかに前者に属する哲学者だから、とかく数学的発想派に点が甘いかと思うと、さにあらず、プラトンあたりにずばずばと忌揮ない批判を浴せかけている。正統的な哲学史からはおよそ縁遠く、つむじ曲りの奇書という他ないが、そのつむじの曲り方が、とにかく素人読者をこれだけ楽しませてくれるのだから、近ごろのはやり言葉でいえば、大したパフォーマンスぶりに違いない。とにかくぼくとしては、ラッセルの『哲学史』を、いわば舞台にのせた知的喜劇の連続シリーズとして楽しませてもらってきた。必ずしも大思想ドラマとはいえないが、コミカルな味わいの幕間劇の立てつづけの上演といった所で、一時にそう沢山はとても頂戴しかねるけれど、時折、1つ、2つとのぞいてみると、必ず気のきいたアイディアや警句、アイロニィに出くわして、微苦笑を誘われずにすまない。
 もっとも、こんな当方の気軽なかげ口、幕間の感想を、ご当人のラッセルがもれ聞いたとしたら、どんな反応を示したろうかは、保証の限りではない。「狐みたいにくしゃくしゃの」破顔一笑、とは到底ゆかず、むしろ鷹のような鋭い眼ざしで、一にらみ、さらには手ひどい警句を浴せられたかも知れない。ラッセルの『哲学史』は、いわば彼の主宰する思想道場、哲学ジムのリングヘ、次次と古来の哲学者たちを呼びこんでは、エキシビション試合を展開して見せる。終始道場主ご自身が、リングに上って、直接相手とやり合ってみせるのだから、ご苦労さまには違いないし、かなり重荷すぎるとはた目にはうつらずにいないけれど、ご当人には、そうした自意識は全く欠けている。しかし、どうした仕掛け、また戦略によるのか、この思想的格闘技においては、われらが道場主は決して敗れない。いつも確実に勝星をあげるにきまっているのだが、その割に退屈しないですむというのは、このエキシビション試合、大方の場合、意想外の奇手がとび出したり、封じ手をばっとくり出したりで、恐らく相手もあっけにとられているうちに、勝負が片づいてしまう。そこにおのずとコミカルな味わいがただよわずにいないというのは、思いがけない相手の虚をついてみせる道場主の機知、奇手の面白さのほかに、あたかも仕組まれたプロレス試合のような、おきまりの筋立てのせいもあるに違いない。相手がスター・オン・パレード、名選手総登場で、たえずこちらが勝ちっ放しということなど、じつはあり得べくもない。ところが、わが道場主、ラッセル老卿は、いつもじつに軽々と相手をいなし、料理して見せるのだ。

 丁度プロレスの仕掛けを観客として十分承知しながらも、それぞれの試合のプロセスを楽しむことが出来るように、ラッセル卿の終始颯爽たる勝ちっぷり、パフォーマンスぶりをもこちらは笑顔で眺めることが出来る。つまり、まともな果し合い、真剣勝負というよりは、道場主が必ず相手を軽々とあしらい、料理して見せるという仕掛け、からくりの喜劇性、おかしみが、ぼくらに訴える。プラトンがそうあっさりと退治されるとは思えないけれど、とにかくラッセル・ジムのパフォーマンスを見物人として眺めている限りは、そんな幻影、錯覚を楽しむことが出来る。というのは、この道場主が、練達のマジシャンなみに、自分の技倆にすこぶる強大な自信をいだいていて、どんな相手に対してもいささかも臆することなく、余裕をふくんで立ち向ってゆくばかりでなく、伝統的な大選手たちが相ついで手もなくあしらわれ、敗退をしてゆくという光景に、そもそも本質的に喜劇的な要素がふくまれているからだろう。思いもかけぬ逆転、不意打ちは、人をおどろかせると同時に、しばしばとめどない哄笑を引き起さずにおかない。あり得ないことと知りながら、権威失墜、落ちた偶像のドラマは、ぼくらを笑わせるのだ。その意味で、ラッセル卿は、第一級の哲学的コメディアン、思想史のクラウン、道化役だったともいいたいのだが、こうしたぼくの評語が、彼自身をうなずかせ得るかどうかは、別問題である。『哲学史』と限らず、ラッセルの本を読んでゆくと、知的格闘技において、たえず相手を出しぬいて、優位に立とうとする語り手の姿が浮んでくる。さらには、みずからを遥かに高い台座の上にすえて、並いる相手たちを眼下に見おろし、しばしば高らかに嘲笑、哄笑を浴せずにおかない老翁の姿が浮んでくる。(ラッセルの笑いっぷりを友人のひとりは「ハイエナの笑い」とよんだことがあった。)じつは、ぼくら観客の眼からすれば、こうした彼自身の反応、身ぶりこそ、知的喜劇の欠くべからざる中核的要素とうつるのに、ご自身に果して、そうした自覚があったかどうか。ラッセルの言い分は、平和論といい、愛のモラル論議といい、いかにも杓子定規の、ほとんど強ばった合理主義ともひびくのだが、同時に論旨も語り口も、まことに明噺判然として、澄み切ってさえ見える。そこに一種の知的軽みさえただよっている。これが、乾いた喜劇性、道化性へとおのずとぼくらの思いを誘うのであるが、ご当人としては、あるいはあくまで大真面目に、自分の主張の合理性、いや哲学的、窮極的な正当性を確信なさっていたのかも知れない。いや、そうでなくては、あれほどのパフォーマンスを、丸半世紀以上も持ちこたえられたはずもなかった。われ一人正しく、真理を見ぬいていて、あらゆるすぐれた先人たちも、また同時代の世間の連中も、ことごとく偏見、妄説にとらわれていて、真理、真実を受け入れようとしない。そうした確信を内に燃え立たせていない限り、丸一世紀にも近かったその生涯、98歳というおどろくべき高齢のほとんど最後の瞬間まで、世間にはびこる偏見、無知をあばきつづけて、攻撃しつづけて、いささかも批判の刃を休めないという訳にゆくものではなかったろう。しかし、やや冷淡に彼から身を遠ざけて、眺めやるなら、これは、じつは自らを神の台座にすえようという倨傲(きょごう)ではなかったか。たしかに、神の台座の高みにわが身をすえて、はるか眼下に、下界の人間どもを眺めやっているなら、すべては愚かしくも笑うべき喜劇とうつるに違いない。何という偏狭さ、頑迷ぶり、この世の一切は、度し難い喜劇にすぎないと、神ならぬ身として、「ハイエナの笑い」をしばしば響かせずにいなかったのも、当然の成行きともいえるだろう。しかし、ここですこぶる興味深い点は、ラッセルがほぼ終生 'agnostic'(不可知論者)として、さらには戦闘的無神論者として、はげしい宗教批判、ドグマ攻撃をつづけたことで、『何故私はキリスト教徒でないのか』(1957)というタイトルをかかげた本まで書いていた。(もっともこの宗教論を集めた本自体は、べつの人の手で編まれたものだが、こうしたタイトルの論文が中心をなしている。つまり、彼のキリスト教批判は、たんに非合理や独断性に対する反撥という以上に、至上神のうちにわが好敵手、ライヴァルを認めたせいではなかったろうか。キリスト教の神の代りに、理性を台座にすえ、みずからその祭司役を買って出ようとした。『哲学史』のなかで、辛辣な潮笑を浴せていたニイチェとはからずも軌を一にして、キリストに対する嫉妬に駆り立てられた男と見なすことも出来るだろう。
 ここに、長くスペインに住み、個性的な『スペイン文学史』を物したジェラルド・ブレナン(1894~1987)による興味深い証言がある。彼のマラガにある住いにラッセルが遊びにきたのは1930年代半ばの話だが、その後サセックスの卿の邸宅に招かれて、長い間泊めてもらった。その折の会話の内容を、ブレナンは書きとめていて、彼の自伝の第二部『個人的な記録(1920~1970)』(1975)の中で、かなり詳しく紹介している。ラッセルの話は、「いつも逸話がちりばめられていて、その多くは、彼の嫌いな牧師、哲学者を槍玉に上げるものだった」。「軽蔑する」('despise')という言葉が、ラッセルの会話にしばしば使われる愛用語の一つともブレナンは教えてくれるが、さらに面白いのは、ラッセル家では夜好んで、聖書の朗読がなされたという。主人が先に立って朗読し、彼がパイプをくゆらせたくなった時だけ、ブレナンに頼んだ。ラッセルは意外なほど聖書に精通していて、「とくにその愚かしく、スキャンダラスな章句が大好き」で、そうした箇所は章ごと暗誦出来るほどだった。おそらくそうした朗誦、暗誦の度ごとに、ラッセルは例の「ハイエナの笑い」をひびかせたに違いない。こうした、いわばとく神的な嘲笑、宗教風刺は、戦闘的な無神論者として当然の振舞いといえるかも知れないが、たとえばブレナンが、旧約『サムエル記』のアブサロムの死を描いた一節や、ソロモンの箴言の中のエジプトの魔術師のくだりを朗読して見せたとき、ラッセルはありありと強い感動の表情を示して、こんな箇所はすっかり忘れていたと正直にもらしたという。こうしたエピソードにふれると、ラッセルのキリスト教批判、とく神的な言動も、にわかに陰影が深まってくるのだが、同時に公人として、物書きとしての彼に関する限りは、終生あくまで反宗教、合理主義の立場を変えようとしなかったことも確かであった。少くとも、こうした陰影の深まり、そうした余韻を求めて、彼の自伝3巻を読み通してみても、空しい探索に終らざるを得ない。ラッセル自伝が刊行されたのは、1967年から1969年にかけてであり、90代の彼の作品ということになる。彼がほとんど丸1世紀に近い長寿を全うして亡くなったのが、1970年だったから、自伝3巻は、文字通り、最後の著作であり、後世への遺言ともいえる書物であった。この3巻は、いかにも数学者出身の彼らしく、『初期』("The Early Years")、『中年期』("The Middle Years")、また『晩年』("The Final Years")と、まず整然たる3区分にわかれており、『初期』が第一次大戦までを扱っていれば、『中年期』は「1914~1944」として第二次大戦末期までを含み、最終巻は「1944~1969」とほぼきっちり彼の全生涯をカヴァーしている。すでに90代半ばの老翁の著作としてみれば、驚くべき一貫、整序ぶりであり、これら3巻が、それぞれほぼ同じ分量の書物としてまとめ上げられている点にも讃嘆の声をもらさずにいられない。
 その意味で、まことに恐るべき離れ業ともいうべき自伝には違いないのだが、たとえばイギリスの教授.批評家、A. 0. J. コックシャットの言うように「20世紀の自伝として、もっとも見事な、そして読者をもっとも満足させるもの」(『19、20世紀イギリスの自伝芸術』1984)とまで言い切れるかどうか? ぼくとしてはこの評言ににわかに賛同しかねる。第1巻の、それも発端の部分が、「もっと見事」で説得力に富み、第2巻、第3巻と巻を追うごとにむしろ魅力は弱まり、薄れてゆく。クックのいわゆる「理性の王者」としての自負と活動ぶりは、全3巻を通じて一貫しているものの、反面、年輪のゆたかさ、人間的叡智の深まりをこの自伝に求めても空しい。この章の冒頭で、ラッセル自伝の第一の強味は、シャープな逸話の語り口の冴えにあるとぼくが書いたのは、こうした意味合いをこめてのことであった。そして、人物と時代を生き生きと蘇らせてくれるこの種の逸話が、第1巻にかくべつ豊富なのである。(続く)