橋本峰雄 [解説]『哲学の諸問題』(The Problems of Philosophy, 1912)
* 出典:『世界の名著』(中公新書,1963年刊)pp.188-193.*(故)橋本峰雄氏は当時,神戸大学教授(哲学・倫理学専攻)にして京都・法然院(第30世)貫主。
* ラッセルの The Problems of Philosophy はこれまでに何度も訳されているが,現在では,詳細な解説付の高村夏樹(訳)『哲学入門』(ちくま学芸文庫)がある。
ラッセルは,なによりもまず,アリストテレス以来最大の論理学者である。論理主義の数学基礎論たる『数学原理(Principia Mathematica)』全三巻(ホワイトヘッドと共著)の完成,いわゆる「記述の理論」「型の学説」などの創唱は,ラッセルの真に画期的な業績である。かれはまた,人生論,政治論,文明批評,科学的啓蒙の多彩な論客であり,偉大な教師である。さらに平和運動の先達であり,小説家ですらある。この多方面の天才の著書五十幾冊のうちから,むしろ小著ともいうべき『哲学の諸問題』(The Problems of Philosphy)を,ここに代表作として選びたい。
かれのこの最初の哲学的著書は,20世紀に飛躍的進歩をとげ,現代英米の哲学の主流をなす「分析哲学」(論理的分析の哲学)の出発点の一つとなった。さらに本書は,こんにちの分析哲学の極端な偏向と末期的症状にたいする処方をも,あらかじめ保持していたともみられる。
哲学者としてのラッセルは,現代の代表的哲学者のうち,この時代の運命たる「経験科学」を最もまじめに凝視したひとである。かれは,科学的方法,すなわち論理的分析をもって人間知識の諸条件を反省し,「経験論」の現代における帰趨をみきわめた。本書の冒頭で,「この世のなかに,まともな人間ならだれも疑いえないほど確実な知識というものがあるか」と問うたラッセルは,以後のながい哲学的思考の道程でそれをもとめつつ,また論理的経験論に徹底せんとした。そしてかれは,自分の見解の決定版たる1948年の『人間の知識-その範囲と限界』(Human Knowlede, its scope and limts)の最終ページで,「人間の知識はすべて不確実,不正確,かつ部分的である」と,その限界をほぼ最終的に承認したのである。
ラッセルがたどったこの「科学的哲学」の命運は,そのまま哲学そのものの命運でもあろう。ラッセルに哲学を学ぼうとするものは,たえず『哲学の諸問題』に回帰して,問題の所在をたずねねばならない。これは,すでに古典的な哲学入門の書である。ラッセルが生涯に学問として論じた哲学的問題は,およそ,知覚と物理学との関係〔心身関係〕,言語と事実との関係,非論証的推論,これら3つの問題に要約できるが,かれの問題提起の仕方は,すでに本書においてあたえられている。そして「哲学は解答のためではなく,むしろ問題そのもののために学ぶべきである」。かれ自身,本書での回答の多くをのちに捨てたのである。
「感覚所与」でなく,アインシュタイン=ホワイトヘッドの「出来事」を基礎概念にとり,それを原材料として物心両面の論理的構成をめざす「中立的一元論」にかたむいた。(The Analysis of Mind, 1921; the Analysis of Matter, 1937 参照)
かれはまた,本書における,普遍概念ないし一般的原理の先天的ないし直覚的知識(それは物理的対象の知識のようないわゆる「記述による知識」に必要とされるもの)への強い確信も,のちにしだいに失った。『人間の知識』では,科学的・非論証的推論を正当づける5つの一般的原理も,たんなる「要請」としてたてられている。この移行に応じて,かれは,本書(『哲学の諸問題』)で事物の法則ともみなしている論理法則を,のちにはたんに言語的なものと考えるようになった(The Inquiry into Meaning and Truth, 1940)。
さらにかれは,客観的な倫理的原理の存在にたいする信念をもサンタヤーナの批判で捨て,道徳的な判断はすべてまったく主観的なものとみなすにいたる。かれは,本書以後,もはや倫理を学問(=科学的哲学)の対象とは考えない。このようなラッセルの変化は,すべて経験論に徹しようとする努力のあらわれであった。したがって,本書で説かれた「知識」が正確な概念ではなく「蓋然的意見」ときっぱり分たれないものであること,一般的原理に関する直覚的知識の「自明性」は程度をもつものであること,存在命題はすべて経験的・仮言的であること,というような信念は,かれにより変りなく保持される。
しかしかれは,経験論のみですませられるとは信じなかった。一つの一般的命題は,それの真理を示すただ一つの例をも知らなくても知ることができるという信念は,どこまでも堅持される。これは,「独我論」におちいらず「科学」を成立させるために,ぜひ必要である。
本書の重要な特色は,「事物の知識」と「真理(命題)の知識」「直接知による知識」「記述による知識」,おおまかにいえば経験論と合理論との見地,の二元性とその相補性の主張である。そしてその核心に,「真理」を信念と事実との「対応」で定義し,いわゆる体系的整合性をむしろ真理のたんなる基準とみなす,ラッセルの二元論的真理説がある。これは,後者のみによって「真理」を一元化しようとする伝統的形而上学や論理実証主義の知識論の偏向を救うべき,重大な見地といえるのである。
だが,本書の最大の意義は,終りの2章「哲学的知識の限界」と「哲学の価値」とにあるだろう。ラッセルはそこで,先天的・形而上学的な推理によって宗教の根本的教説,宇宙の本質的な合理性,物質の虚妄,悪の非実在性などを証明しうるとする,伝統的な哲学の希望をすべてむなしいものとしりぞける。かれは,そのいわゆる外面的関係の理論により,「真理は全体である」というへーゲル主義のテーゼを粉砕し,哲学の方法を論理的・科学的「分析」に定着させようとする。それは,問題を明確な諸問題に分割し,各個撃破的に解剖してゆく方法である。そして,哲学的知識が本質的にみて科学的知識と別種のものでないことを,つよく主張するのである。わたしたちが明確な知識を得るとき,それはもはや科学となる。その残余のみが哲学の領域なのである。
ただ,哲学が科学と異なるところがあるとすれば,それは旺盛な「批判」,デカルトの「方法的懐疑」である,とラッセルはいう。その武器は,存在を必要なくしてふやさず,ものの説明原理をできるだけすくなくするという,いわゆる「オッカムの剃刀(カミソリ)」である。
しかもラッセルは,哲学の価値を,このような知識批判にのみみとめたのではなかった。哲学の主要な価値は,むしろ観想の自由にある。それは,狭い人間中心主義を離脱し,非情な宇宙を客観的に観想することを通して得る精神の「自由と公平」である。そしてかれは,こういう哲学的観想の精神は,「行為と情動の世界においても同じ自由と公平をいくらかは保持するであろう。」という。本書の結語には,ラッセル終生の叙情がこもっている。
「哲学を学ぶべき最大の理由は,哲学が観想する宇宙の偉大さを通して,精神もまた偉大となり,その最高善であるあの〔スピノザにおけるような〕宇宙との合一をはたしうるようになるからである。」
ラッセルは,1901年(ラッセル29歳)のはじめ,「宗教的なひとびとが改宗とよぶものに似た体験」をした。かれは「たいていの人間の生活をとりまいている孤独を,忽然と,しかも身近に感得し,この悲劇的な孤立をすこしでもやわらげる方途をなんとかして見いだしたい,という情熱を感じた。」のである。この「改宗(回心)」の表現が,かれの有名な文章「自由人の信仰」(A Free Man's Worship, 1903)であった。
人間は,いわば宇宙的孤独の状態で外的運命と戦っている。ラッセルは,この人間の「共通の運命というかたいきずな」の意識から「純粋な愛」が生まれる,と感じた。人間は「おなじ闇のなかでおなじ苦しみをもつ」「おなじ悲劇の演者」なのである。こうして,かれは,口ごもりつつ,この「愛」を生涯堅持し,この人間的連帯感のゆえに,人間間の憎悪をふくむキリスト教も,マルキシズムも,ともに是認しないのである。
存在の知識と善への信仰との二元性にたち,後者を潔癖に学問の対象とはみなさなかったラッセルは,もはやこのような「愛」を哲学としては論じなかった。この両者が,『哲学の諸問題』には,簡潔で平明な姿で共在し,ラッセルの全貌を明示しているのである。われわれが本書から学ぶべきものは,真に「宇宙的」な哲学のあり方であり,究極的には,学問と倫理との二元性にたえる勇気である。