勝部真長「バートランド・ラッセルの倫理学」
* 自分(勝部)が訳したラッセル(著).宮崎佐知子・原一子[共訳]『ヒューマン・ソサエティ』(玉川大学出版部、1981年)の紹介* 原著:Human Society in Ethics and Politics, 1954
* 出典:『全人教育』(玉川学園、1981年8月号) p.35 所収
* 勝部氏は当時、お茶の水女子大学名誉教授
* その他の書評: 『毎日新聞』掲載分
哲学者とか哲人という言葉にふさわしい人物を現代に求めれば、やはりラッセルが一番であろう。98歳で死ぬまで元気で、愛用のパイプを口から離さなかった。妻を三度離婚し、四人目の妻にみとられて死んだ(ちなみにジョン・デューイも四度結婚している。)
ロンドンに行くとラッセル広場という地下鉄の駅があるが、もとラッセル家の領地だった場所で、ロンドン大学の続きである。何しろ彼の祖父ジョン・ラッセル伯爵は英国の宰相として、セント・ヘレナにナポレオンを訪ねた政治家で、ラッセル自身も伯爵家をつぎ、代議士に出たこともある(松下注:伯爵を継いでから上院議員に)
その彼が第一次世界大戦には反戦運動で捕われ、六ヵ月の入獄を経験し、獄中で『数理哲学序説』を書いた。が第二次世界大戦では、ヒトラーのナチズムを憎んで戦争支持に廻った。
しかし核兵器ができてからは、核反対の平和運動の先頭に立ち、八十九歳のときトラファルガー広場でのデモで坐り込みをやった。つねに情熱と英知の人であった。
教育について研究し始めると、自らビーコン・ヒル・スクールという私立学校を開いて、教育の実験と観察を試み、ロシア革命が起るとソ連に旅行して実地に調査し、『ボルシェヴイズムの実践と理論』をまとめ、ソ連の行き方には否定的となった。
ソ連の帰途、中国(松下注:ソ連からの帰途ではなく、一度英国にもどってから訪中)と日本にも旅行し、日本の太平洋戦争の敗北を予言していた。
『ライプニッツの哲学』、『数学原理(プリンキッピア・マテマティカ)』(三巻)、『西洋哲学史』は、哲学界で不朽の名著となろう。その他、『意味と真理の研究』、『人間の知識』も、彼ほどの博識にして始めて書ける哲学書といえよう。
倫理学としては、『倫理学原理』(一九一〇年)と『宗教と科学』(一九三五年)があるが、その集大成としては『ヒューマン・ソサエテイ(倫理学から政治学へ)』が、彼の本音を語っている。
今度(=1981年)、玉川大学出版部から出たこの書は、本邦初訳で、一九五〇年にノーベル文学賞をうけた時の記念講演(「政治的に重要な欲望」)が含まれている。
現代世界の政治の動向、とくに米ソの対立、南北問題を解決してゆくための指導原理をどこに求めるか、その政治の基礎としての倫理をどう考えるべきか、について、ラッセルが八十二年にわたる人生の経験と思索とを注ぎ込んだ、英知の結晶といえよう。