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「パグウオッシュ会議18年の歩み(1)
『朝日新聞』1975年8月25日付夕刊第6面掲載

* Pugwash Online: Conferences on Science and World Affairs
* Nobel Peace Prize - 1995


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 核兵器廃絶の道をさぐる科学者の国際会議「第25回パグウォッシュ・シンポジウム」が、(1975年8月)28日から9月1日まで、京都市・国立京都国際会館で開かれる。被爆国日本で初めて開催される意義は大きい。これを機会に、パグウォッシュ会議の満18年の歩みを振りかえってみた。(朝日新聞)

 海辺の小さな村で

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 パグウォッシュ村、1957年7月7日−−カナダのノバスコシア州にあるエビが特産物の、静かな入江の小さな漁村に、22人の外国人科学者があらわれた。この村は、昔の逗子、葉山を思わせる高級別荘地で、ふだんはめったに訪れる人もない。この日から3日間、アメリカ(松下注:カナダ人の間違い)の億万長者、サイラス・イートン(Cyrus Eaton 右写真出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981.)の別荘で、徹夜で続けられた米ソを含むこれらの科学者たちの熱っぽい討論から、この村の名前は、一躍、世界の歴史に残ることになった。
 この3年前の1954年3月1日−−西太平洋のビキニ環礁から160キロ東方で、日本のマグロ漁船第5福竜丸が、アメリカの水爆実験で「死の灰」をあびた。人類絶滅の危機がついにはじまったのである。
 ビキニ実験から1年後の1955年7月9日、ロンドン。−−カクストンホール会議室では、哲学者バートランド・ラッセル卿が、熱気むんむんの部屋で記者会見にのぞみ、宣言を読み上げていた。のちに「ラッセル=アインシュタイン宣言」と名づけられたこの宣言は、世界中に流され、ニュースとして大々的にとりあげられたのである。(右下写真参照)
 この宣言は、ラッセル、アインシュタイン(発表数週間前になくなっていた)に、湯川秀樹、マックス・ボルン、ジョリオ・キュリーら11人が署名していた。署名者は、物理学者がほとんどだが、うちノーベル賞受賞者がなんと9人もいた。

 人類の一員として

 人類絶滅が可能な水爆兵器出現という水爆時代がはじまった上、米ソの冷戦時代という危機を背景として、この宣言は、核兵器と戦争の廃絶のために「あれこれの国民や大陸や信条の一員としてでなく、その存続が疑問視されている人類」の一員として、東西両陣営の科学者が一堂に集まって、原子力国際管理の会議をひらくことを呼びかけたのである。
 それから2年後、ラッセルの発意にそって、このパグウォッシュ村に「自分自身の良心」(ラッセルの言葉)だけを代表して、10ケ国22人の科学者が集まってきたのだった。日本から湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄の3物理学者がはるばる出席した。民間の自然科学者の会合とはいえ、この冷戦時代に米ソの科学者が、核軍縮や平和問題について意見を交換するのは、はじめてのことであった。この第1回の会議は3つの小委員会にわかれ、原子力の危険、核軍縮、原子力時代の科学者の責任を討議したのである。
 第1回会議に湯川、朝永両氏とともに出席した小川岩雄立大教授は、当時の思い出をこう語る。

 部分核停条約の芽
「被爆国日本から代表がくるというので、熱烈な原水爆禁止をぶたれるのではないかと心配していたようですが、こちらは、ビキニ死の灰以来の精密な放射能測定分析のデータをもっていって冷静に科学者らしく話したので評判はよかった。冷戦時代なのに米ソとも感情的でなく、客観的、冷静さがまず前面にでて、さすが自然料学者だとほっとしたものです。この結果、核時代でも、科学者間にコミュニケーションがなりたつという自信を深めました。このとき核実験による放射能は、白血病と骨がんの発生率をふやし、次の世代に遺伝的影響を残すことが確認され、のちの部分核実験停止条約のきっかけを作ったのです。」
 こうして原水爆生みの親である物理学者たちが、一方では核全面軍縮と戦争廃絶の平和運動の生みの親ともなったのである。その1年後の1958年9月20日、第3回パグウオッシュ会議は、ウィーンで開かれ、有名なウィーン宣言を発表した。この宣言は「戦争廃絶の必要性」と題され、はっきりと核戦争だけでなく、戦争そのものをなくすことを宣言していた。このため科学者が、専門家として政府のために働くだけでなく、世論や政治指導者に原子時代の危険性や諸事実を教える自発的先駆者の役割を果たすよう、全世界で一致して手をたずさせる必要を呼びかけていた。
 これをなくなった物理学者坂田昌一博士は、「科学党宣言」と命名したのだった。