D. F. ピアーズ「論理的原子主義-ラッセルとウィトゲンシュタイン」
* 出典:エイヤー他著『(改訂)哲学の革命』(1957年)pp.57-72.* Pears, David F.(1921 - 2009))
* 本書は、英国放送協会(BBC)第3放送の番組として放送された連続講義の原稿を論文集の体裁で1巻にまとめ、1956年に刊行された図書 The Revolution in Philosophy(London; Macmillan & Co., 1956)の全訳。
*(訳者)福鎌達夫氏(フクカマ・タツオ:1919~?)は当時、千葉大学助教授?
今世紀の初頭に哲学は、思想史家が革命とよぶところの急速な発達の時期を経過しました。新たな運動の中心は英国、もっと詳しく申しますとケンブリッジであり、そしてその指導的人物はムーアとラッセルとウィトゲンシュタインだったのです。このような急速な変化を革命として描きだすのを当然とみなすのは、おそらくは遺憾なことであります。なぜならば('革命’といったような)こうした政治との類比(analogy)は過去からの断絶のおよぶ範囲を往々ひとびとに誇張させることになるからなのです。最近の哲学の歴史のこういうふうな呈示の仕方には、たしかにつぎの結果が伴われました。そのためこんにち英国で支配的な型の哲学と十九世紀後半の観念論との結びつきが、ひとびとにわからなくなっています。しかしその結びつきは存するのでありまして、しかもそれは特記するに値するものなのです。たとえばラッセルは経験論者であり、彼はロックやヒュームの直系の後裔(こうえい)の位置にあります。だがそれにもかかわらず彼は、カント*1に由来する哲学を奉ずる観念論者たちに多くのものを負うています。「経験論者」とか「観念論者」とかいう称号そのものは、とかくゆきすぎた単純化を助長します。ドイツ観念論は十九世紀前半のイギリス思想にひとつの革命をひきおこす結果になったものの、その革命は敵対者たちをことごとく除去するまでにはいたらず、同世紀の末になって経験論がかなりな成果をおさめた反革命にのりだした頃、やっとその支配権を確立したと云われています。この描写が実は偽りだというわけではありません。しかしそれには非常に重要な制限をいくつか加える余地が残されているのです。
かかる制限のうちのいくつかは、おそらく、ラッセルの哲学を F.H.ブラッドリーの哲学と較べてみればまとめられるでしよう。ブラッドリーは、すでにこの連続講演の第一講でウォルハイムさんが指摘されたように、(観念論にたいする)その忠誠心を通してよりも、むしろ(経験論にたいする)その敵愾心を通して、いっそうよく理解されるのです*2。彼が経験論の伝統にたつ当時の代表者たちにはげしい敵意をいだいたのは、かれらのえた結論の一般性質のためであると同時に、かれらの方法が心理学的であると考えたためでもありました。つまりかれら(経験論者たち)は、判断や命題よりもむしろ観念でことを運びましたが、これをブラッドリーは間違いと考えたからなのです。ところで経験論者たちが無視した判断は、常に観念論的批判主義の主目標でありました。そしてそれがじっさいカントとヒュームとのもっとも大きな相違点なのです。ラッセルがやったのは、観念論の伝統のこの部分を吸収し、それを経験論に役だたせることでありました。というのもじっさい新しい哲学は、観念にもとづかないで判断や命題にもとづく経験論であるからなのです。そしてこのことが重大な前進であるわけは、観念が,名辞やばらばらの単語と同様不完全な断片であるのに反して、命題は,完全な思考の単元(unit)だからであります。私はなにも、ラッセルだけにこの種の新しい経験論を発達させた責任(貢献)がある、などと申すつもりはありません。ムーアやウィトゲンシュタインもその発達にそれぞれ独自の貢献をいたしました。さらに私は、命題を形づくるもとになるばらばらの名辞でなしに、むしろ命題全体を研究するというならわしがまるきり観念論者に由来するものであるなどと申すつもりもありません。それはまた他のいくつかの源に由来しており、それらのうちもっとも重要なのがフレーゲの著作です。けれども観念論に負うているところは、それがあまりにもしばしば忘れられているため、強調しておく必要があります。
さて私は、お話をもっとぴったり私の主題に限らねばなりません。私の主題は、一般的には今世紀初頭の急速な哲学の発達であり、いっそう特殊的にはラッセルが論理的原子主義(論理的原子論)と名づけるところの哲学運動であります。このように私の主題をせばめるならば、ムーアよりもむしろラッセルとウィトゲンシュタインに注意が集められることになります。というのはこの運動をささえる諸思想のうちには、ムーアの初期の著作に影響したものもありますけれども、彼はむしろそれから超然としており、その端に立っていたのに、他方ラッセルとウィトゲンシュタインは、その中心におったからです。ラッセルとウィトゲンシュタインを論理的原子主義者と評し、そしてそれだけですましておくわけにはゆきません。こんな扱いは誤解のもとでしよう。ラッセルの著作は六十年にわたり、またウィトゲンシュタインの著作も四十年近くにわたっています。ラッセルは今世紀はじめの二十年間に論理的原子主義の主要思想を除々に展開しましたが、さらに後年の著書のうちで右の思想の全部ではありませんけれどもその若干を放棄するにいたりました*3。ウィトゲンシュタインは、今世紀の1920年代にラッセルの弟子となり、かかる思想をうけいれ、それを修正し、さらにラッセルよりもいっそう深味のある仕方でそれを発展させましたが、ついにはラッセルがこれまでおこなったよりもっと徹底的かつ包括的にそれを批判し、拒否してしまいました*4。しかし私は、これら二人の哲学者の後期の思想にはふれないでしよう。私のとりあげる時期は、1900年から1920年まで、主題は論理的原子主義、そして舞台はケンブリッジ*5なのであります。
「論理的原子主義」という名称は、その理論の創唱者たるラッセルによって拵(こしら)えられたものですが、それはまったく当をえた名称であり、じっさいその理論の特質についてわれわれになにごとかを会得させます。それが明らかにするのはヒュームとの関係であります。つまり彼もやはり一種の「原子主義者」でした。なぜならばヒュームは、あらゆる事柄を印象と観念とによって説明しようとこころみたからです*6。つまりそれらは、彼によると、人間の心の唯一の内容なのです。「原子主義」という言葉は、もちろん隠楡であります。ちょうど科学者は事物を分割しつづけ、ついにはそれ以上分割できない究極の部分にまで達すると推定されたのと同様、哲学者の課題は思想を分析してその究極の単純な要素にまでさかのぼる、一種の思想の分析と考えられたのです。けれどもヒュームが、哲学者は観念の心理分析をおこなうべきだ、と信じたのに反して、ラッセルは、分析は命題にかかわらなければならぬ、と主張し、それゆえラッセルは、彼の主張する類いの原子主義を論理的と限定したのであります。だからこの点でラッセルは、むしろヒュームよりかブラッドリーと同意見だったことがお判りでしょう。なぜならばウォルハイムさんが指摘されたように、哲学者は論理学を学び、心理学を避けねばならぬことを、プラッドリーは大いに主張したからです*7。しかしこの意見の一致のあとでラッセルとブラッドリーとは大きく意見が分れました。ラッセルは一九一八年におこなった論理的原子主義講義*8の冒頭で、分析が歪められざるをえない観念論の見解を拒否しました。そこにおいて彼は次のように述べたのです。「分析の過程は偽造にほかならぬ、諸君がなにかあたえられた具体的全体を分析するばあい、諸君はそれを偽造している、だから分析の結果は真でないということがしばしば云われます。私はそれが正しい見解だとはおもいません。」 ここでみなさんは、ブラッドリーが「分析は変更でないという推定はごくありふれた、だがもっとも破滅的な迷信である*9」と語ったのをおもいだされるでしょう。
ラッセルは、分析がものを歪めないですむという彼の見解を証拠だてるために詳細な論議を披瀝しませんでした。つまり彼は彼自身の論理分析の計画が首尾よく遂行されうるとすれば、右の見解は十分に確証されるだろうと考えたからなのです。しかしそのばあい首尾不首尾の基準となるものはなんでしょうか。この問いはわれわれを新しい運動のまさに中核に迫らせます。そこで私は一九一四年に公けにされた「哲学の本質としての論理学」と題するラッセルの小論文*10を引用して、右の問いに答えさせてもらいます。彼はそこで次のようなことを述べたのです。つまり哲学者たちは「科学や日常生活の世界を説明しなければならぬ。しかるに多くの哲学者たちになにもこのような説明ができないことがあきらかになったのは、「かれらは科学や日常生活の世界を理解しようと心がけず、むし超感覚的な実在の世界に惹きつけられるあまり、科学や日常生活の世界を非実在的なものとおもいこんだからだ*11)」というのであります。これがラッセルの思想なのです。日常世界をめぐるわれわれの話し方や考え方を首尾よく理解できさえすれば(われわれはこの世界を斥けて、その背後にひそむもうひとつの世界に目をかけるにいたるようなことはありますまい。実のところこの点彼は、その反対者たちにたいし、いくらか公正を欠いておりました。ウォルハイムさんが指摘されたとおり、ブラッドリーのような哲学者たちは、世界にかんするわれわれの平常の信念を、なにもじっさい拒否しているわけでにありません*12。かれらはただ、それらの信念はとどのつまり知的に納得がゆかない、そして究極の実在はこうしたものでありえない、と言っているだけなのです。そこでラッセルの論点は、僅かばかり表現をかえ、次のような具合に述べられるべきだったのであります。==われわれが平素の信念を首尾よく理解したとすれば、われわれは結局それが知的に納得のゆくことを認めなければなるまい。==そしてこの理解はただ分析によってのみ達せられうるのです。
この計画は平坦で単調なようにおもわれましょう。もはや哲学者たちは高度の想像的理性の所産である形而上学の体系をうみだすべきではなく、そのかわり人間の思考を現にあるがままに記述し、そしてそれを理解するよう努めねばなりません。こうした企てはこんにち時代精神のうちにありますから、ひとびとは想像的理性への反抗にあまりにも慣れすぎており、そのためにかれらは、人間の思考を理解するのが退屈でもなければ容易でもないと反省することにためらいをおぼえぬくらいです。けれども、やがてお判りのように、論理的原子主義はこの企てをまっとうしませんでした。本当に終始それに忠実であり、いつもわれわれの思考の真の姿を理解しようと努め、また思考の範型(パターン)が存しないばあい決してそれをみとめなかったのは、分析の計画の創始者たるムーアでありました。ムーアの洞察およびその不屈の精神は、真にソクラテス的であり、またたしかにそれらによって彼の論理的原子主義からの超然ぶりが説明されます。というのもこの時期においてラッセルやウィトゲンシュタインがおこなったのは、ある範型の痕跡をわれわれの経験のうちに垣間見ることであり、そしてさらに眼を事実からそらし、この範型を事実によって保障されている事柄のはるかかなたまで発展させることだったからなのです。かれらは眼を論理学に固定させました。というのは、この連続講演の前回の講演でニールさんが述べておられた、近頃における論理学や数学基礎論の前進*13に力づけられ、かれらは、おそらく同じようなことが論理学や数学以外の他の分野でもやり遂げられうるのではないかという希望をいだいたからなのです。多分日常の経験的概念でさえ、いくつかの定義によって少数の単純要素に還元されうることでしょう。しかし論理学が典型(モデル)をあたえたにしても、審美的考察もやはり一役を演じたのです。おもうに論理的原子主義者たちは、他の形而上学者同様、明晰と秩序をもとめており、そして明晰や秩序を見いだしえなかったばあい、かれらはそれらを捏造したのであります。
論理的原子主義を形而上学的理論と特色づけることはかなりうけいれがたくおもわれるかもしれません。なぜならばそれは経験論者たちの提起した理論であり、そして経験論者たちは周知のとおり、反形而上学的であるからです。しかしわれわれは経験論者が、おおっぴらに形而上学を弾劾するそのやり方で惑わされてはなりません。このような弾劾はたしかにかれらの意向を反映しておりますが、しかしこうした意向にもかかわらず、多くの経験論者はちょうど形而上学者と同様な哲学的幻想家なのです。このことは、論理的原子主義をよく検討してみれば裏書きされうるのであります。つまりそれもある種の哲学的幻想の成果なのです。そして経験論者が決して形而上学者でないという信念は、思想史にかんする現今の大きな謬見である以上、右のことは裏書きされるに値します。
ラッセルとブラッドリーが想定したのは、言語のうちにこそ、思想はその表現をみいだすのだから、思想を理解しようと欲するならば、言語を検討しなければならぬ、ということでした。このありふれた想定は、当然かれら両人をして、哲学の本来の研究が論理学であると考えさせるにいたったのです。さらにもっと納得しがたいことは、ラッセルがブラッドリーと意見のわかれた点、すなわち彼の原子主義なのです。ヒュームの心理的原子主義にはまったくもっともなところがあります。すべての複合概念が単純観念からできあがっているという理論*14は、われわれに容易にうけいれられます。しかし論理的原子主義となると、おそらくそれほど容易には納得できますまい。ラッセルはまず命題の解説をはじめていますから、われわれもこの点からはじめるといたしましょう。命題は事実を陳述し、そして文によって表現されます。それは大ざっぱにいって、われわれが通常陳述とよんでいるものなのです。しかしどのようにしてそれが、それをつくりあげている諸原子に分割されうるのでしょうか。まあ例として、「私のまん前にあるこの事物-この万年筆のことなのですが-は黒い(黒である)」、という陳述をとってみましょう。ブラッドリーは、誰にしろこのような陳述をおこなう者は、不法にもその事物を、「黒さ」というその事物の性質から分割しており、しかも「である」の語で表される繋辞(コプラ:けいじ)は、この裂け目を繕うことができないと主張しました。このばあい、ウォルハイムさんの指摘されたように、分離性のない多様性が存する芸術家の体験という類比がなりたちます*15。これにたいするラッセルの応答は、右の陳述にふくまれている二つの要素、つまり事物とその性質とが、ある絶対に自然な仕方でまさにぴったり適合しているということなのです。なるほどわれわれはそれらをめいめい別々に考察し、めいめいにあてはまる言葉をみいだすことができます。けれどもこうすることは、われわれの経験を粉砕したり歪めたりすることになりません。したがってその事物に黒さを帰属させるばあい、われわれはとりもどしようもない統一をとりもどすという、到底不可能な任務を繋辞(コプラ)に課してはいないのです。
この応答は新しい運動の精神によく即応し、いかにそれが冷静で分別があり、しかも実在論的であるかに御注意ください。ラッセルは芸術家の体験にけちをつけているのではありません。彼は単に、より日常的なわれわれの経験が前述の高い標準にそぐわないからといって、それを咎めぬことをわれわれに要求しているにすぎません。ところでこうした寛容への呼びかけはたしかに正しいのです。なぜならば、ブラッドリーの理論が最後にゆきつくところは結局沈黙になってしまうでしょう。つまり言語の網で実在を害わずに捕えるためには、言語は常にあまりにもその目があらく粗雑なようにおもわれるからなのです。したがっていずれの陳述も、限りなく制限をくわえる必要がなく、さもなければなにも云えなくなってしまうでしょう。ブラッドリーは到底達することのできぬ標準にてらして言葉を裁判にかけ、そして有罪の宣告を下したのであります。
ある哲学説が真であるばあい、それにはしばし一種の明白さとそうならざるをえない性質とをともない、そしてこれらのことがその説をくだらなくおもわせます。だからラッセルによる日常的陳述の擁護も、おそらくその重要さが強調されてよいでしょう。ラッセルの論点は、性質と事物とは本来たがいに適合しているということにあり、ぞして彼はまた、このことは、関係と事物とにもあてはまると云っております。右のいずれのばあいにも論理的適合は完全であり、しかもこの事実はラッセルの論理学の表記法によって明らかにされています。すなわちそこでは述語が主語のすぐあとにおかれ、そして繋辞はあっさり省かれているのです。ラッセルは性質や関係を対象とみなしているが、それはもちろん特殊な事物としてではなしに、一般的な対象としてのことなのだ、とみなさんはおっしやることでしょう。性質や関係のこうした扱い方は、ある点でフレーゲのそれらの扱い方に似ておりますが、それによっで観念論者たちのどちらかといえば逆説的な見解を斥けることができたのです。なぜならばこのものは黒い(この事物は黒である)という陳述をブラッドリーがとがめた理由の一つは、馬鹿げたことですが、事物を黒さと同一化(identify)しようとすることにあったからです。ところで観念論的論理学の特色であるこうした論議は、「黒さ」を特殊な事物として扱い、一般的対象として扱っていません。そのためこの陳述中の「である」は繋辞ではなくて、同一性の「である」でなければならぬとおもわさせることになるのです。だがこれはもちろん馬鹿げています。なぜならば万年筆は、「黒さ」と同一化されるわけにはゆかないからです。しかるにこの逆説からの一つの逃れ道は、「黒さ」は一般的対象であり、それは事物と同一化されず、単にそれに帰属させられるだけだ、と主張することであります。そしてラッセルはこの逃れ方を用いました。けれどもそれのみが唯一の逃れ方ではありません。
論理的原子主義の理論がいかに展開されるかがみなさんにお判りのことでしょう。まず陳述を手がかりとし、それを分析にゆだね、それが諸部分からできあがっていることがみとめられます。さてこれらの部分のうちには、世界における対象の名称であるものがあります。あきらかに繋辞は対象の名称ではありませんが、その他の多くの言葉は対象の名称です。しかるに対象には二種類あって、第一には特殊な事物があり、第二には一般的対象であるところの性質や関係があります。そこでわれわれは世界を、分離できる事物、性質および関係の集りとして描きうることになり、それらはいわば(世界を構成する)微粒子なのです。こうした描写を正当づける理由は、もしこれらの微粒子がどのようなものであるかを知らないとすれば、それらのどれも知るようにしはじめることが到底できないからなのです。それはちょうど、いくつかの象牙の小片をつみあげたやまがあって、そのやまから他のどれも動かさずにその一片だけをとりださねばならぬ、あの苛だたしい遊戯に似ておりましょう。それらの小片は非常にからみあい、ひっかかりあっているため、これはほとんど不可能なことです。しかしこの例は正確な類比ではありません。なぜならば、かりに観念論者が正しいとすれば、すべての分離や論理分析はまったく不可能なことだろうからであります。
これまで私は分析および微粒子のことをお話してまいりましたが、しかし原子についてはほんの僅かしかふれませんでした。さて「原子」という語は「不可分な微粒子」*16を意味しております。そこで残された問題は、ラッセルとウィトゲンシュタインが不可分な論理的微粒子が存するにちがいないといかにして信ずるにいたったか、さらに論理的不可分性の観念にはどんな意味がつけられうるか、をあきらかにすることなのです。この理論(論理的原子主義)が実在論的でなくなって、形而上学的になるのは、まさしくこの点においてであります。なぜならば、こうなるといまやその理論は、われわれの現におこなう考え方や語り方を記述しないで、現実には存しない、あるいはむしろそっくりそのままの形では存しない範型をみようと主張するからなのです。またラッセルとウィトゲンシュタインがみたと語った範型の痕跡は現に存しますが、しかしその痕跡の範囲は、あまり広くはありません。かれらが主張したのは、範型が消えうせたばあいにも、実はそれは始終見当ちがいな些細事のために姿をひそめさせられているのだ、ということなのでした。
ある一般的対象が原子的であるという説にはじっさいもっともなところがあります。それがもっともでなくなるのは、この理論が特殊な事物にまで拡張されるばあいです。そとでまず一般的対象、たとえば性質を考察することにいたしましよう。ある性質は複合的であり、それを指すいくつかの形容詞の意味を知ることは、すでにひとが他のそれほど複合的でないいくつかの語の意味をこころえていなければ不可能です。たとえばこのことは凋落 deciduousness という性質にあてはまります。つまりその性質は、こういう具合に樹の葉 foliage と落下 falling とにかかわるからなのです。観念論者はこの種の関係を「内面的」*17と呼びますが、それがどのようにして定義に依存するかをはじめてはっきりと説明したのはフレーゲ*18でした。さてわれわれがこのような複合性質について考えるとしますと、他の性質を内含する諸定義によって手引される必要のない、「黒さ」のような単純性質もまた存するにちがいないようにおもわれます。これがそうなるにちがいなくおもわれるのは、さもないとわれわれはどんな一般語の意味も決して習得しはじめることができないだろうからなのです。これはヒュームにそった思想の筋であります。ラッセルがおこなったのは、それを心理的にではなしに論理的に示すことでした。そこで彼は単純性質を原子的と呼んだのです。かくてここにわれわれは、論理的原子の一種をもつことになります。*19
さてこれまでのところでも、この理論には咎める点がたくさんあります。おもうにわれわれは、すべての一般語の意味を、別な一般語を指示することによって誰にでも教えるわけにはむろんゆかないでしょう。つまりこういう教え方はどうどうめぐりにほかならぬからです。けれども、原子的性質が絶対にたがいに独立していると説く以上、この理論には誇張がふくまれています。そしてウィトゲンシュタインが『論考』のうちで指摘しているとおり、このことはわれわれの知るどの性質にもあてはまるわけではありません。そこでいかなる事態が生じたかがお判りでしょう。観念論者への反動はあまりにゆきすぎてしまったのです。むろんわれわれは、あらゆるものがあらゆるものと論理的に結びつく、というかれらの考えを斥けねばなりません。しかしだからといって、あるものがどんなものとも論理的に結びつかない、ということにはなりません。とはいえこの理論にもっともなところがあるのは、それが一般的対象に適用されるばあいです。それが特殊な事物に適用されるならば、それはもっともでなくなります。
ではこの理論は特殊な事物をどう論じているかをみるとしましょう。まえに私のとりあげた例は、「この万年筆は黒い」という陳述でした。こう申しますばあいみなさんは、私が私の手にもっている万年筆を指示しているのを御存知です。このことは、私がその陳述をしている脈絡(コンテキスト)から、みなさんにお判りになります。ところでブラッドリーは、脈絡にてらしてみることなく、こうした指示の唯一性を確保しょうと努めました。なるほど論理的原子主義者たちもやはりこういうことをやろうと努めましたが、しかしそうしようとするそのやり方が非常に違っていたのです。ブラッドリーは、事物の一般的記述を、たとえばそれが黒く、中ががらんどうで、ほっそりとしている等々という風に、だんだんとふやしてゆくことだけがせいぜいわれわれにやれることなのだ、と説きました。しかしそのばあいでさえ彼は、指示の唯一性は到底われわれに確保されるものではあるまいと申しました。なぜならばどんなに多くの記述をそれにあてがおうとも、なおこれらすべての記述に応ずる、それにそっくりそのままな他の事物の存することが可能だからなのです。ところがラッセルは、これと反対な方向に議論をもってゆきました。彼はこう語ったのです。つまりもしわれわれがこれらすべての記述の主張をもとめるとすれば、それこそブラッドリーが「特殊」と呼ぶ当のものであり、しかもこの特殊はまさしく彼が「論理的に固有な名称」*20と呼んだものをその唯一の名称としている、というのです。このようにラッセルは、より単純性の方向にだんだんとすすみ、ついに特殊なものにまでおよぶならば指示の唯一性に達しうる、と考えたのです。しかるにブラッドリーはだんだんと複合性をます、絶対をめざす方向にすすみましたが、しかも彼はそうすれば指示の唯一性の確保に決して成功しないであろうことを知っていました。ラッセルの特殊は、もちろん論理的原子の別種なのであります。
以上のことはすべて、ある語の意味はその語によって指名された事物にほかならぬ、という想定にもとづいていることに御注意ください。いったんこのことが認められるならば、ラッセルは、事物のいくつかの名称の意味が別々に、しかも他のすべてのことから完全に孤立させてとらえられなければならぬ、と考えたのですから、絶対に単純な特殊が存しなければならぬことになります。ラッセルの理想とするところは、実に科学言語のような文脈の拘束をうけぬある種の言語だったのですが、ただそれには科学の教科書にみいだされるような一般的陳述ではなしに、特殊な陳述がふくまれております。しかもこの理想言語*21は、なんらかの仕方で日常言語のもとにひそんでいると考えられたのです。なぜならば日常的事物は複合的であるという理由から、特殊はこの万年筆のような、日常的事物ではないからなのです。私がこの事物を万年筆として指示するならば、万年筆であるこの事物はなにか、とさらに誰かが訊ねうるでしょう。ところで論理的原子主義者たちは、こんな具合に記述内容をつぎつぎにむきだしてゆくならば、結局最後にはすべての論述の本当の主語である、絶対に単純な特殊におよぶことだろうと考えたのです。ウィトゲンシュタインは『論考』のうちで、この説が旧式な個体実体論*22についての新しい見方にほかならぬことを明らかにさせています。しかもこの説は、その旧式な理論がうけたと同じ反駁をうけるのです。ある哲学者がはじめに論理的観点から、事物はシナ(シナの木?)の箱のようなものだと主張するとすれば、彼はじっさいこの説を最後までおしとおさなければなりません。彼はおじけがつき、その箱の中には、箱とちがって固くて、分割できないなにものかがあり、それは記述することができないが、しかし名称だけはあたえうるもの、つまり個体実体がある、と語ってはならないのです。ところでこの反駁は、旧式な個体実体論を奉ずる哲学者たちをかならずしも納得させませんでした。しかしその反駁がウィトゲンシュタインの同理論の見方にたいしてむけられるならば、それを納得させることができると私はおもいます。なぜならば、万年筆であるこの事物はなにかと訊ね、そしてこんな具合にその記述内容をつぎつぎにむぎだしてゆくならば、われわれの最後の陳述の主張は、論理的原子主義者たちが特殊と呼んだ類いの、なにか隠れた芯のようなものを指しはしないであろうことは、たしかにまったく明瞭だからであります、かれらは、最後の主語がそれぞれ別々な事柄を指さなければならぬとおもいこんだばっかりに、このような特殊がなければならぬと考えたのでした。しかしこうしたおもいこみが間違いだと考えうる理由は十分あります。
これらの理由の多くは、ウィトゲンシュタインがこの問題にかんして、彼の考えを変えたのちに書かれた、彼の二番目の刊行書*23のうちに詳しく述べられています。しかしそれらは分析哲学の発展の後期の段階に属するものですから、私はここでそれらをとりあげますまい。ともあれある哲学者一個人の思想の発展を述べることは私の意図するところではありません。たとえばこれまでにも私は論理的原子主義についてのラッセルの見方との相違にかんしては一言も申しませんでした。私は単に、論理的分析のすこぶる多様な初期の成果にほかならぬ、その理論の主要特徴を示そうと努めてきたにすぎません。折にふれ私はまた、分析哲学の学派がその先駆者たちとどのような関係にあるかを、明らかにしようと努めてまいりました。というのは同学派は、一般にそうおもわれているような晴天のへきれきではなく、以前の哲学諸学派と多くの仕方で結びついているからです。同学派ともっとも縁故のふかいのはロックおよびヒュームの哲学ですが、しかし同学派はまた観念論者たちにも、さらに新しい論理学者たちの一派にも負っております。その狙いとするところはわれわれの考え方の理解にあり、またそれだからこそ論理的原子主義は、同学派の達すべき点とかけはなれた、かくも異様な成果なのであります。おもうに論理的原子主義は、ブラッドリーの一元論にほとんど劣らぬくらい非実在論的です。なるほどそれは一元論と反対の極に立っています。すなわちそれがすべてのものを別々にひき離すのに反して、一元論はすべてのものを結ぴあわせるのです。しかも両者は同じ一般的な型をそなえています。つまり両者とも同じ一組の哲学的概念-対象・微粒子・分割および総合-をあやつり、そしてこれらの概念に論理的解釈をほどこしはしますが、だが両者とも、もしわれわれがそれらの概念を物理的用語で具象化しさえすれば、十分に判るようなことを語っているのです。ほとんどすべての形而上学的理論はこうした策略によっております。私の推察するところでは、プラトンこそはこれを徹底的に活用した最初の哲学者だったのです。多分それは形而上学的実在にかんする唯一の説得的な言い方なのです。けれどもこの策略を用いた哲学者たちは、故意に、あるいは技巧的にそれを採りあげたわけではありません。形而上学への傾向をもたぬひとたちにとってのみ、それは技巧的な策略とおもわれるだけなのです。知性と想像力とがともにはたらく形而上学者にしてみれば、それは世にも自然きわまることなのです。形而上学者というものはこんな具合に事物を具象化せざるをえず、またおのれのみとめる範型が実在するものと確信してしまうのです。もしそうでないとしたら、ラッセルが科学や日常生活の世界を説明しようと企てたさい、それどころか、もっとも深い意味でプラトン的である理論*24をうみだした事情を、どう説明することもできなくなるでありましょう。
注:
(1)カント,イマニュエル: 十八世紀後半におけるドイツの大哲学者。近代ヨーロッパの二大哲学思潮たる大陸の合理論(デカルト・スピノザ・ラィプニッツの系譜)と英国の経験論(ロック・バークリ・ヒュームの系譜)とを総合して批判哲学を確立し、彼よりフィヒテ、シェリングをへてへーゲルに至るドイツ観念論の基を開いた。
主著:『純粋理性批判』(KritiK der reinen Vernunft (1781)); 『実践理性批判』(Kritik der prakischen Vernunft (1748)); 『判断力批判』(Kritik der Urteilskraft(1790))
(2)本書p.15参照。
(3)ラッセルは後年(一九四六年)の「自伝」のうちで、次のように述懐している。「私が『心の分析』一九二一年)およぴ『意味およぴ真理の研究』(一九四〇年)で扱おうとこころみた、語にかかわるものとしての<意義>の定義ということは複雑な問題である。…その問題について考えれば考えるほど、私は確率論理の完全な独立ということについてますます確信がもてなくなった。」 "My Mental Development" in Philosophy of B. Russel, ed. by A. Schilpp, p.14。 しかしまた別な箇処で彼は「私の論理的原子主義にたいして提出された反論を一度も見いださぬがゆえに、私はまったくそれを改める気持はない。」 'Reply to Criticsim', in Ibid., p.717 とも語っている。
(4)『哲学探究』の序言でウィトゲンシュタインは、「十六年前哲学に再び専念しはじめて以来、私はあの最初の書物(『論考』)に記した重大な誤りを認めざるをえなくなった。」(傍点訳者) Philosophical Investigation, trans. by G. E. Anscombe(1958), p.x と述べているが、彼が後年の著書で誤りと認め、放棄したのは、最近公けにされたウィトトンシュタイン伝によれば、主として「言語写像説」picture theory of language 「すべての有意味な命題は要素〔原子〕命題の真理函数であるという説」、および「語りえないものがあるという説」 doctrine of the unspeakable の諸理論にほかならなかった。G. H. von Wright, "Ludwig Wittgenstein, A Biography いた。
主著:『純粋理性批判』Kriti (1781); 『実践理性批判』Kritik (1748); 『判断力批判』Kritik (1790)
(2)本書p.15参照。
(3)ラッセルは後年(一九四六年)の「自伝」のうちで、次のように述懐している。「私が『心の分析』(一九二一年)およぴ『意味およぴ真理の研究』(一九四〇年)で扱おうとこころみた、語にかかわるものとしての<意義>の定義ということは複雑な問題である。…その問題について考えれば考えるほど、私は確率論理の完全な独立ということについてますます確信がもてなくなった。」 'My Mental Development' in Philosophy of B. Russell, ed. by P. A. Schilpp, p.14。 しかしまた別な箇処で彼は「私の論理的原子主義にたいして提出された反論を一度も見いださぬがゆえに、私はまったくそれを改める気持はない。」 'Reply to Criticsim', in Ibid., p.717 とも語っている。
(4)『哲学探究』の序言でウィトゲンシュタインは、「十六年前哲学に再び専念しはじめて以来、私はあの最初の書物(『論考』)に記した重大な誤りを認めざるをえなくなった。」(下線訳者) Philosophical Investigation, trans. by G. E. Anscombe(1958), p.x と述べているが、彼が後年の著書で誤りと認め、放棄したのは、最近公けにされたウィトトンシュタイン伝によれば、主として「言語写像説」(picture theory of language)、 「すべての有意味な命題は要素(原子)命題の真理函数であるという説」、および「語りえないものがあるという説」(doctrine of the unspeakable) の諸理論にほかならなかった。G. H. von Wright, 'Ludwig Wittgenstein, A Biographical Sketch', in The Philosophical Review, v.LXIV,n.4(1959),p.538.
(5)ラッセルはケンブリッジ大学卒業後まもなく一八九五年、母校の特別研究員、一九十〇年から一六年まで同大学講師を勤め、特にこの間に同僚のムーアやホワイトヘッドと提携して「ケンブリッジ分析学派」をつくり、この学派は、一九二四年に結成されたシュリックを中心とする「ウィーン学園(学団)」と並んで、現代分析哲学ないし論理経験主義の発展の基礎を築いた。またウイトゲンシュタインは、一九一二年から一四年まで、ケンブリッジに学ぴ、ムーアの講義に列して異彩をはなち、一九二九年から一九四八年までムーアの席を受けついで同大学の哲学教授を勤めた。彼およびその主著についてムーアは次のように回想している。
'一九一四年以後一九二九年に彼がケンブリッジに戻ってくるまで、私は彼に一度も会わなかった。しかし彼の『論理・哲学論考』があらわれたとき、私はそれを何度も読みかえし、それから教えを得ようと努めた。それは私が絶賛した本であり、また現在絶賛している本である。むろんそのうちには私に理解できなかったたことが沢山ある。しかし私は多くのことを理解したと考えたし、またそれらが非常に啓発的だとおもった。彼が一九二九年にケンブリッジへ戻ったとき、私は続けて数年間彼の講義列席した。・・・彼がケンブリッジの教授として私の後継者であることを私は喜ばしくおもう。」。 G. E. Moore, 'An Autobiography', in The Philosophy of G. E, Moore, ed. by P. A. Schill(1942)p.38.
(6)ヒューマは主著『人間本性論』で次のごとく述べている。「およそ人間の心に現われる一切の知覚は、帰するところ、私が印象およぴ観念とよぶところの二つの異った種類からなるその相違は、その相違は、それらが心を打って思考ないしは意識へ入りこむさいの勢いや活発さの度合いによるものなのである。きわめて勢いよく猛烈に入ってくる知覚は「印象」と名づけてよいだろう。・・・「観念」を私は、思考ないしは推理におけるこれら「印象」の勢いの弱い影像の意味にとる。」 A Treatise of Human Nature, Book I, part 1, sect. 1.
(7)本書十六、十九頁参照。
(8)一九一八年ロンドン大学でおこなわれた講義。その全文は同年、雑誌『モニスト』に掲載された。'Philosophy of Logical Atomism', in Monist, v.65(1918),pp.495-572。 さらに数年後ラッセルは、「論理的原子主義」と題する論文をミュアヘッド編の『現代英国哲学』(第一論集)に寄稿している。'Logical Atomism', in Contemporary British Philosophy, ed. by J. H. Muirhead, I series(1924), pp.359-388.
(9)ブラドリー『論理学原理』(第二版)第一巻九五頁。本書二四頁参照。
(10)'Logic as the essense of philosophy'. この論文は左の論集の第二講に収められている。 Our Knowledge of the External World as a Field for Scientific Method in Philosophy(London, 1914),pp.33-59.
(11)ラッセル前掲書四五頁。
(12)本書三三頁参照。
(13)本書四八頁参照。
(14)本書の訳者註(3)でみたとおり、ヒュームは心に現れる一切の知覚を「印象」と「観念」との二種類に分けるが、さらにそれらおのおの「単純」(single)と「複合」(complex)とに分けて、両者の相違を次のごとくを述べている。「単純な知覚、すなわち単純な印象およぴ観念は、どんんな差別や分離も許さぬものである。複雑なものはこれらと反対であって、諸部分に区別されうるであろう。ある特定の色、味および香りは、それらすべてがこのリンゴのうちに統合される性質であるにしても、それらが同一でなく少くとも互いに区別できることは、容易に看取されうるのである。」 Op. Cit., Book I, Pt. I, sect. 1.
(15)本書三二頁参照。
(16)「原子」(atom)とはギリシア語の atomon (字義どおりには「分割不可能なもの」に由来する術語。一切の事物がかかる究極の構成要素たる「原子」から成ると説く、いわゆる「原子論」は、古代ギリシアにおいてレウキッポスが創唱し、デモクリトスによって体系づけられた。
(17)本書二九頁参照。ラッセルによれば「内的関係」の理論は、「すぺての関係はその諸関係項の本性に基づく」という見解をその基本公理とする、プラッドリーによって代表される「絶対的観念論」の立場にほかならない。Cf. The Monist theory of truth, in Philosophical Essays(1910), p.167。 これに対し「関係は外的であり、ある真命題は、ある所与の体系においてそれ以上単純な要素をもたぬという外的関係の理論」を主張するのが、ラッセルの論理的原子主義の立場である。Cf. Logical Atomism, in The Contemporay British Philosophy, ed. by T. H. Muirhead, p.327f.
(18)ここにあげられた例にしたがい、「樹の葉」をx、「落下をyで表せぱ、xのyにたいする関係も、yのxにたいする関係もひとしく「凋落」であるがゆえに、ラッセルはこうした関係を「対称的」(symmetrical)と名づけ、xRy ならば yRx の関係と定義する。このように複合的な性質がそれを構成する諸要素間のなんらかの関係であることを洞祭した最初の人としてのフレーゲについて、ラッセルは次のように述べている。「<祖先>が<親>によって定義できるにちがいないことは、むろん明白である。しかしフレーゲが彼の一般化されあ(数学約〕帰納法の理論を展開させるにいたるまでは、なにびとも<祖先>を<親>(という関係)によって精密に定義できなかった。」 Introduction to Mathematical Philosophy(1919), p.26(訳者註序(33)参照)
(19)ウィトゲンシュタインの『論考』英訳文では、ドイツ語原文中の Sachverhalt にたいして atomic fact、 Tatsache にたいして fact の訳語がそれぞれあてられているが、かかる「事実」、「原子的事実」およびそれらの「写像」(Bild;picture)たる「命題」、「原子的命題」等について解説を加える、同書の巻頭に寄せたラッセルの序文中の次の一文には、ラッセセル=ウィトゲンシュタインの「論理的原子主義」の骨子がうかがわれる。「世界における複合的なものは、事実である。他の諸事実から成りたっていない事実は、ウィトゲンシュタインが、Sachverhalte と呼ぷものであるが、他方、二つ、あるいはそれ以上の事実から成りたつような事実は Tatsache と呼ばれる。そこでたとえば「ソクラテスは賢い」は Tatsache であると同時に Sachverhalt であるが、他方、<ソクラテスは賢く、かつプラトンは彼の弟子である>は Tatsache であるが Sachverhalt ではない」 ところでこのような「原子的事実は、事実であるところの部分をふくまないけれども、部分をふくんでいる。<ソクラテスは賢い>が原子的事実とみなされるならぱ「それは<ソクラテス>および<資い>という構成要素をふくんでいることがみとめられる。・・・たとえあらゆる事実が無限数の原子的事実から成りたち、かつあらゆる原子的事実が無限数の対象から成りたつとしても、やはりいくつかの対象や原子的事実が存在するであろう。ある複合的なものが存在するという言明は、その構成要素がなんらかの仕方で関係するという言明に還元され、これこそ事実の言明にほかならない。…このように複合的なものの指名は命題を予想し、他方命題は単純なものの指名を予想する。こんな具合に単純なものの指名は、論理学において論理的に真先にやることである事情が明らかにされる。」 かくて「原子的事実を(真あるいは偽と)言明する命題は原子的命題 atomic proposition と呼ばれる。すべての原子的命題は論理的に互いに独立している。いかなる原子的命題も、他のいかなる原子的命題も合意しないし、あるいは、他のいかなる原子的命題と矛盾しない。かくて、論理的推理の全体的任務は原子的ならぬ命題にかかわることになる。このような命題は分子的 molecular と呼ばれてよいであろう。」 Russell's Introduction in Tractatus, pp. 9 & 12f.
なおウィトゲンシュタイン自身の論理的原子主義の骨子は、『論考』中の以下の七つの基本命題に窺うことができる。
1.世界は成立している事柄の総体である。
2.成立している事柄、すなわち事実は、原子的事実の存立 Bestehen; existence である。p.31.
3.諸事実の論理的写像は思想である。p.43.
4.思想は有意味な命題である。p.61.
5.命題は、要素命題の真理函数(関数)である。(要素命題はそれ自身の真理函数である。p.103.
6.真理函数の一般形式は、である。これは命題の一般形式である。p.153.
7.語りえぬ事柄についてひとは沈獣を守らねばならぬ。p.189.
(20)「論理的な意味で「固有な」名称として用いられる唯一の語は、<これ>とか<あれ>とかいったようなものを表わす語である。<これ>はその瞬間に親しく知られる、ある特殊なものを表わす名称として用いられる。…その語が本当に固有な名称であるのは、現実の感官の対象を表わすためにこの語がまったく厳密に用いられるばあいだけにかぎられる。」'Philosophy of logical atomism', in Monist, v.28(1918), pp.524f.(角括弧内及び傍点訳者)
(21)理想言語(ideal language) とは、「定義上、ラッセルが日常言語のうちに見いだすと主張する、哲学的な諸欠陥をまったく免かれているであろうような記号法である。…それは<矛盾を避けるぺしという論理学が言語に要求する事柄>に即応しているという意味において<論理的に完全>である。」 Max Black, 'Russell's phiosophy of languaeg' in Philosophy of B. Russell, ed. by P. A. Schilpp, p.251.
(22)個体実体論。アリストテレスの形而上学では、いろいろな意味で用いられるいくつかの「実体」ousia; substantia が論究されているが、個体のうちにおいてその存在およぴ統一の原因として在るものの意味での「実体」が第一義的なものと考えられる(「形而上学』第十七巻Z一〇四一b参照) このような実体は、「いかなる主語の述語ともならず、またいかなる主語のうちにも在らぬもの、たとえば「この人」とか「この属」とかいうような個体である」(「範疇論』二a)と定義され、通常これが「第一実体」 primary substance と呼ばれている。
(23)訳者註本講(4)参照。
(24)「スコラ的もしくはプラトン的意味での実念論者であった」 初期のラッセルの思想は、たとえば彼自身の次の叙述のうちに端的に示されている。「・・・思想や感情、心や物理的対象は exist 現存する。しかし普遍はこの意味では現存しない。「存在」 being が時間的なものとしての「現存」 existence に対立させられるばあい、それは存立する subsist あるいは存在をもつと云われるであろう。普遍の世界はそれゆえにまた、存在の世界として述べられてよいであろう。」 The Problems of Philsophy(1912, reprinted in 1948)p.100. また訳者註序(32)参照。