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ラッセル氏に対する離婚訴訟は夫人の勝ち-英紙に現れた夫人の離縁物語、ラ氏は何らの抗弁をも提出しなかった

* 出典:『大阪毎日新聞』1921年(大正10年)7月27日付掲載
* 注:当時の英国においては、不倫など充分な理由がなければ、お互い愛情がなくなっても離婚できなかった。ラッセルは離婚を早くしたかったために、何の抗弁もしなかったとのこと。

 五月六日の倫敦デイリー・メール紙は、次の如く興味ある事実を報道している。
(松下注:アリス夫人との離婚は5月3日に正式に成立している。)
 最近日本を訪れた英国の近代思想家バートランド・ラッセル氏(松下注:ラッセルは7月17日に日本に到着しており、5月は中国にいた。5月6日の新聞に、「最近日本を訪れた」と報道されているのは誤報。記者の単純な勘違いか?)が其夫人アリス・ラッセルから離婚の訴訟を提起されて審理を重ねていたが、判事ブランソン氏は理由ありとして離婚の判決を申し渡した。夫人の提起した理由は、ラッセル氏が他の婦人と通じ自分を遺棄したと言うのであるが、此の審理に対してラッセル氏は、何の抗弁も提出しなかった。婦人は語る。
(参考:アリスとの恋愛夫婦以外の性関係

「私は一八九四年、セントマーチンスの一友人の宅で結婚し、ミルハンガー、ファーンハースト、サセックス(右写真:英国 Sussex 州 Fernhurst の Millhanger の家玄関前に坐って読書しているアリス/出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981等で夫と同棲していました。千九百十一年迄は平和な家庭で幸福に暮らしましたが、夫は、'他の婦人と恋をしている、其婦人と一緒に住みたい'と話しました。そこで私は不承知を唱え、'それは大きな問題だからそんな無法な事はしないように'と説きつけました。其年五月に二晩家に帰りましたが直ぐ出て行ってしまいました。夫は其後一人の友達を通じて、二人はお互いに逢わない方が好いし、又お前の家には帰らぬと書いた手紙を寄越しました。此事が訴訟沙汰になって以来、一度も帰ってきません。私は此事件を某弁護士に委託しましたが、夫は八月八日から十一日迄某婦人とチャリングクロス・ホテルに泊まって居たことも判りました。

(同じ紙面に)「千余の聴衆熱狂裡に八名拘束さる、東京神田青年会館に開かれた阪神労働争議報告演説の沸騰、ラッセル氏より労働者へ」の記事あり(省略)