高石眞五郎「ラッセル君と食卓を共にして-時局に触れても飽迄理想と論理で行く
* 出典:『大阪毎日新聞』1921年(大正10年)7月19日付第6面掲載第7面記事
思想界の新人バートランド・ラッセル君は、十八日神戸ジャパン・クロニクル社長ヤング氏の案内で、同行のミッス(ママ)・ブラック、ミッス・パワーと共に大阪へ来た。私はヤング君の招きを受けて、社の河野君と共に大阪ホテル(右写真)の午餐会に臨んだ。陪客は河野君と私だけで、極めてプライヴエトな水入らずの会合であった。座席の位置から、河野君は盛んにブラック、パワー両嬢と、日本を中心とした世間話を交わして居た。私はヤング君が介添えといった形で専らラッセル君と話をした。ラッセル君は写真で見た通りの風采で、病後とはいえ、痩躯鶴の如しと言いたい體(体)付きである。ラ君は、何処からみても学者丸出しで無論能弁ではない。私達の話は深遠な哲理に触れたものでもなく、又、君の日本観は如何といったようなものでもなく、時事を軽く話し合ったのに過ぎない。無論、新聞の材料となるインタビューであるべき会合ではないのだから、私は、此談話を長々と書く自由を有しない。ただ二三、ラ君の面影を髣髴たらしめるような事を書いて見よう。
ラ君が正午ホテルに着くと其処に各新聞社の写真班が伏兵のように現れたが、ラ君は「何故私が写真に撮られなければならぬのか」といってなかな肯(き)かない。食卓でアレは西(ウェスト)から来た慣習を日本でやりだしたに過ぎないと私が言ったら、ラ君は笑いながら「其通りでしょう。併し師匠よりは日本の方が余程上手です。」といって居た。昨今問題の「太平洋会議」はラ君の方から持ち出した。私は日本には、門戸開放機会均等主義を太平洋の此方(こちら)の岸に適用するならば彼岸の米国にも適用せよと主張して居る議論が多い、「大阪毎日(新聞)」も其議論だといったら、ラ君は、議論はないといったような表情で「無論米国にも同一主義を適用すべきである、一体仏国(フランス)も自分の国の英国も米国も、今のように帝国主義では勢い他国を圧っするのは当たり前だ。それではならぬ」と訳もなく答えた。支那国民の自立の能否如何ということについては、「支那人は日本の威圧と干渉とがなければ、今のように神経過敏であり不安である状態には居らぬであろう。従って自ら救う道をもとめるだろう。」といって支那人の自立を大いに可能とし、又、北京に反動勢力が根拠を据えていてはなかなか治平を得られぬと付け加えた。尤もラ君は外力の威圧は日本ばかりではないという、君一流の公平な観察を茲でも下している。日本の人口急増から日本は捌け口を見いださなければならぬという議論に対しては、ラ君の解決策は極めて簡単なもので「それは、出産制限をやればよい、其れがいかぬというなら戦場で生長した人を殺し合う外ない」といってか徐(?)けて居る。
日本の道徳観念がどうのこうのといっても、冷透な数理的頭脳の所有者であるラ君は、線香で大釣鐘を叩くほども響かない。こうしたようにラ君の議論は其食卓の談話に於いても、徹頭徹尾理論と理想に立脚して冗談にも実際論に口を滑らそうとしない。私は「ラ君の立場は能く分かって居る。併し世間はそう理論ばかりでは行かぬ。実際のソリューションを下さねば、対米問題でも対支問題でも片づかぬ」と言ったら、ヤング君もラ君の返事を待ち構えたようにラ君の顔を見つめて居たけれども、ラ君は笑って居て、別に反駁しようともしなかった。私は此時、ラ君の真面目さと其の理想の人、超越した人であるという感に打たれざるを得なかった。ラ君は日本造西洋造大廈小屋雑然として立ち並んで居る街を見ても「私は日本がこういう風であることを予想していたから少しも変わっているとは思わない」といった。それが私には何だか日本の文物もこういう風に混沌として居るではないかといわれたような気がして二の句が出なかった。