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日下部哲夫「ラッセル哲学における宗教の問題」(『大正大学大学院研究論集』n.8(1984年2月)pp.147-158.



 

 イギリスが生んだ今世紀最大の哲学者、バートランド・ラッセル(1872~1970)は、宗教に対する批判の辛辣さにおいて世に名を成している。彼の宗教批判の影響は、良しにつけ悪しきにつけ絶大なものがあり、その結果多くの論争を惹き起こした。その原因は、ただに彼が有名な哲学者であったということのみならず、彼みずからが臆面もなく自分自身を無神論者であると言って憚らなかった*1ということにもある。これらを権威として恰好づけ屋の若者が神の非存在を主張するに及んで、世の良識ある人々に不安を抱かせたことも確かで、したがって、「ラッセル」といえば、あたかも無神論者の代名詞であるかのように扱われるのが常であった。
 なるほど、確かに彼は、キリスト教徒の信じる神、いわんや、イエス・キリストが神であることを信じない、と明言する。さらに、キリスト教における神話的設定や、その設定の政治的利用に対して辛辣なまでの批判を続けるが、彼は、しかし、徹底的な懐疑主義者でもなかった。
 というのも、彼はさまざまな宗教・思想を無批判に信奉することを結局は拒否しながら(知識論的側面)、同時に、あることを信奉する側面があること、彼にとって(個人的信念の側面)どうしても受け入れざるを得ないもの、すなわち、ある超越的設定を残したのである。公的なるものと私的なるものの、その外側に、それらを仲介するであろうある超越的設定を的確に示しているのである――このことが、ラッセル哲学の基盤を、その尖鋭的発展である現代言語哲学よりも、西洋の古典的伝統の哲学に、より接近させるのである*2
 ラッセルの理理論哲学全体の中でいえば、この設定は極めて消極的なものであるが、彼の理論哲学の紆余曲折を理解する上でも、このことは重要な観点を提供しているように思われる。拙論においては、ラッセルがいうところの「哲学(理論哲学)」と、「信念」及び「信念文」との関係に着目して、先の超越的設定、すなわち、ラッセルをして、「スピノザの知的愛」、「この混迷なる世界にもたらすべき、何かしら神的なるもの(something of the Divine)」*3と言わしめたものを少しでも明らかにしようと試みる。

 

 ラッセルの著作が日本に紹介されるのは、中国からの帰途、彼が日本に立ち寄った大正十年(一九二一)以前にさかのぼることができる。その紹介の仕方は、哲学者ラッセルとしてよりも、例えば、第一次世界大戦のさいにみられた反戦運動家としてのラッセルであったり、例えば、共産主義の発展に多くを期待し、わざわざロシアにまで出かけたほどボルシェヴィキの革命に好意を示していた(実際は失望して戻るのだが)*4社会改造論者としてラッセルであった。従って、著作として訳されたのは、まず『ボリシェヴィーキの理論と実際』*5であり(松下注:最初に出されたラッセルの著作の邦訳書は、1919年11月に刊行された、高橋五郎訳『社会改造の原理』/因みに、前田河広一郎・訳『ボリシェビーキの理論と実際』は、三田書房から1921年7月に出されている。)、さらに来日を記念して、ラッセル叢書全八巻七冊*6が出版されている(松下注:「叢書」となっているが、Mysticism and Logic,1918 の全訳にすぎない)。(大正十二年(松下注:大正十一年の間違い)には『数理哲学概論』*7、同十三年には『哲学の問題』*8が翻訳出版されるのである。(松下注:Mysticism and Logic は、稲毛詛風(訳)『新哲学綱領』として、天佑社からすでに1921年1月に刊行されている。/参考:野村博「ラッセルの初邦訳書における'伏せ字'と思想の自由」)
 戦後も、昭和三十年代になると、いわゆる「分析哲学」が紹介され始める。その主流はカルナップを中心とした論理実証主義の紹介であって、その先達として、ラッセル、ヴィトゲンシュタインが注目されたのである。しかし、研究者の着目が、論理実証主義の対立者としての、ウィトゲンシュタインないし日常言語学派に移るにしたがって、ラッセル研究も下火になったとはいえ、昭和三十年代および四十年代の始めにかけて彼の多くの著作が翻訳され、今に残されたのである。
 当時隆盛であった実存主義・生の哲学など世界観の哲学の側からの批判に対する反作用であったのか、今に残るラッセル像はやはり平和運動家・社会改造論者としてのラッセルである。これが日本での彼の名声を高めてはいるが、同時に、彼の哲学者としての威厳を失わせている――ただ権威づけのために「哲学者」が用いられているかのようさえ見えるのである。
 その第一は、例えば、両大戦における彼の反戦思想の異同として評されるものとか、ベトナム裁判に見られるような、平和運動家としての実践にかかわるものであり、第二は、『結婚論』(一九二九)、『幸福論』(一九三〇)などの著作にかかわる、社会改造論者としてのものである。第三に、例えば、ラッセルの宗教批判とか、彼の無神論的言動にかかわるような、科学方能主義者としてのラッセル像である。この三点をつなぎ合わせれば、以下のようになる。
――科学万能主義者としてのラッセルは、科学の認めることのできない宗教を批判し、科学的でない社会的因襲を改めることを提唱し、最大の社会悪である戦争に反対した――この立場を総称して、広義の意味で「社会改造論者」としてのラッセルと呼ぶことができよう。
 この立場を、たんに一般教養人の見るラッセル像だとしてかたずけてしまう訳にはいかないのである。というのは、ホワイトヘッドとの共著『数学原理』(一九一〇~一三)に代表される数理的論理学の先駆的完成者であり、それを知識論に結びつけた哲学説「論理的原子論」(logical atomism)を提唱した哲学者であるラッセルがまず一人あり、と同時に、上述の社会改造論者としてのラッセルがもう一人ある、そして、この両者の間には関係がない、という意味で、「二人のラッセル」という考え方の伏線になっているからである。実際、ラッセル自身も、両者には「論理的な関係は存在しない――心理的な関連はあると思うが、それはまた別の問題である*9」といっているのである。
 さて、ここに一つの疑問点が生じるであろう。ラッセルはわざわざ -ism をつけて論理的原子論を唱道したが、これを狭義の意味での哲学として「理論哲学」と名づけてみよう。すると、先のラッセルの言明を翻えして考えることができる。論理的原子論を唱道するに至った彼自身の立場、こう言ってよければ、基調がさらに言い換えれば、彼のいうところの「心理的な」ものが、この「二人のラッセル」を結びつけているのではないか、たとえ、それが「別の問題である」のでも、いわば広義の「哲学」というものを彼が持っているのではないか、という疑問である。
 しかし、ラッセルが哲学というときは、この理論哲学のことであった。
 ラッセルは、『哲学の諸問題』(一九一二、以後『諸問題』と略す)冒頭において、哲学は批判的に究極的な問題に答えるくわだて(attempt)にすぎない*10、と述べ、さらに同書において、哲学は、わたしたちの一番ゆるがない本能的信念を手始めに、本能的信念の体系(the hierarchy of our instinctive beliefs)を示さなくてはならない*11、と述べている。さらに、後期の著者『西洋哲学史』の中では、哲学とは、神学と科学との中間に立つあるもの(something intermediate between theology and science)である*12、と述べている。すなわち、ラッセルにとって、哲学とは、くわだてにすぎないものであり、本能的信念の体系を示さなくてはならないものであり、神学と科学との中間に位置するもの、少くなくとも、これらの条件を充たすものでなければならなかった。

 

 ラッセルの自叙伝の一つ『私の哲学の発展』(一九五五)によれば、論理的原子論の哲学は一八九九年から一九〇〇年にかけてラッセルがとった手法である*13ことになるが、「論理的原子論」という言葉が実際に使われたのは、一九一四年に出版された『外的世界に関するわれわれの知識』においてである。しかし、この後者の場合も、ラッセルが「より良き名前がないため、『論理的原子論』と呼ばれてもよい*14」とした、きわめて消極的なものであった。
 一九一八年にモニスト誌に掲載された講義には「論理的原子論の哲学』(以後『講義』)という表題を掲げ、一九二四年に『現代英国哲学』の第一巻*15に寄稿した論文には、そのままの「論理的原子論』(以後「原子論』)の題をつけるのである。とはいえ、両者とも「論理的原子論」という言葉が表題に使われているにもかかわらず、例えば、後者の中で「ある形容詞があたまについているか、ついていないかはともかく、実在論(realism)と書かれるより、むしろ論理的原子論と書かれるのを好む*16」といっているように、ラッセル自身にとっては自己の哲学を評価することにあまり積極的ではなかったようである。*17
 この同じ箇所によれば、ラッセルが自己の哲学をあえて論理的原子論と呼んだのは、彼の唱道する哲学が一般にある種の実在論であるとみなされているからであり、しかし、ラッセルの見方では、実在論者とその反対論者との間の問題は基本的なものとみなされないからであった。その理由の一つは、彼の記述の理論がその問題解決にある効用を有する、という極めて技術的なものであり、さらに、諸学派はそれぞれの形而上学によってよりは、むしろそれぞれの論理によって特徴づけられねばならないという一種の格率によるのである。*18
 ラッセルが実際に論理的原子論という言葉を使うのは一九一四年のことである。とはいえ、上記のラッセルの観点、すなわち、彼の哲学が実在論でもその反対論でもない、とする態度には、先の、一九五九年に出版された『私の哲学の発展』の中の記述、すなわち、論理的原子論の哲学は一八九九年から一九〇〇年にかけてとった手法である、というときにも、そこには単に彼の思い違いであるとか記憶違いであるとかで片づけられない何かしら共通する基調を暗示するものがある、とも考えられるのである。『講義』においても『原子論』においても異った体裁の主張がなされるが、それらの主張をあえて論理的原子論と呼ぶ彼の一貫した態度の基調、これをそう呼べるのなら、動機、がまさに彼の論証の意図するものであった、と考えられる。すなわち、広義の「哲学」と呼べるものがあった、と考えられるのである。

 

 論理的原子論は、以下のごとく図式化されるだろう。
 世界は、それ以上分割されない原子的命題(atomic proposition)に対応する原子的事実(atomic fact)から成る。事実にかかわる陳述のほとんどは、原子的命題が論理語によって結合される分子的命題(molecular proposition)から成っており、その分子的命題の真偽は原子的命題の真偽によって機械的に決定される。それゆえ、固有名(proper name)を含まない(したがって、原子的命題の真偽が決定しない)原子的命題を含めて、命題はすべて真理関数と呼ばれる。
 ここでは、ラッセルの名辞(name)についての理論を取り上げるが、この理論には二つある。一つは、「論理的に固有な名辞」(logically proper name)と呼ばれるものに適用される理論があり、いま一つには、「日常的な固有名」(ordinary proper name)と呼ばれるものに適用される理論がある。
 この説明においては、以下の、二つの外観を呈している。まず、第一には、二つの意味論的機能を想定し、この両機能の間に差異を与える説がある。その一つは、直接知の知識(the knowledge of acquaintance)にかかわっていて、<名づけ>とでもいいうる、論理的に固有な名辞のもつ機能があり、いま一つは、記述の知識(the knowledge by description)にかかわっていて、<記述する>とでもいいうる、記述のもつ機能がある。さらに、第二には、実際の日常的表現においては、上記の二つの意味論的機能が英語表現特有の配置づけによって不鮮明になる、というのがその説明である。*19
 「講義』によれば、ラッセルが名辞と呼ぶのは、彼が強調的特定体(emphatic particular)と呼ぶところの、「これ」(this)とか「あれ」(that)のような指示詞のことであり*20、日常的な固有名と呼ばれるものは、それゆえ、彼によれば名辞ではないことになる。ラッセルは、後者を、不完全な、ないし、簡略された記述(truncated or telescoped description)だという*21。というのも、人間の素朴な直観は信用できないという理由で、彼はわれわれが普通「名前」(name)と呼んでいるものには<名づけ>の機能を認めないからである。したがって、もし、F(x)が真理関数としての原子的命題であるのならば、対象aを指し示す名辞 'a' が代入されて、始めて、F(a)が、原子的事実を指し示す原子的命題として成立することになる。簡略にいえば、この 'a'論理的に固有な名辞ということになり、直示的意味を持つという意味で、「これ」「あれ」がそれに当てられたと考えられる。ラッセルによれば、それのみが<名づけ>の機能を持つのである。
 しかし、問題はさらに複雑である。ラッセルは、この<名づけ>の機能を、以下の、二つの前提に基づかせているからである。まず、第一に、直接知の原理(the principle of acquaintance)とでもいいうるもので、すなわち、対象 a はわれわれの経験の中にあるものによって認められるべきものであり、第二に、意味の実在論的理論(the realist theory of meaning)とでもいいうるもので、すなわち、対象 a は何かしら経験外の x(entity)を指しているものでなければならないのである。*22
 ラッセルは、この経験外のものを、何かしらのもの(thing)である、と考える傾向にあった。*23われわれが通常「名前」と呼んでいるものは、記述である。例えば、「マーガレット・サッチャー」は 'a' の述語であるが(松下注:'a'はマーガレット・サッチャーである。)、さて、実際にわれわれがマーガレット・サッチャーを見知っていたとして、しかし、述語マーガレット・サッチャーは、時間的・空間的に制限された、この・いまの<われわれ個々人の経験>以上のものを意味している。<記述する>の機能には、したがって、一般化の機能を有しており、直接知の原理とは完全には一致しないのである。
 意味の実在論的理論による要請と、直接知の原理によって得られた所与とのへだたりを埋めるために、ラッセルは、例えば、『諸問題』の中で、以下のように解釈している。独立した外界を信じるようになるのはもともと論証によってではないことを認めた上で、「反省し始めるやこのような信念が自分のうちにあることに気づく」*24と述べ、さらに、「心(のなか)に」によって「心のまえに」と同じことを意味するならば、ただの同語反復を語っているのである、と意味(関係)の実在論的理論を認めない場合を揶揄した上で、しかし、「これがわたしたちの意味することならば、この意味で心にあるものといえども心的でないかもしれないことを認めなくてはならないだろう*25」と述べている。
 この自分以外のものを見知る能力(faculty)は、ラッセルによれば、心(a mind)の主要な特徴であり、本能的信念(an instinctive belief)なのである。ラッセルの論理的原子論は、したがって、先の図式以上に、言語と、知識と、世界との本性にかかわるさまざまな説が複雑にからみ合った連合体である、というべきである。しかし、意味の実在論的理論、すなわち、ラッセルにおいては、言語の意味が何かしら経験以外のものを指していなければならない、という要請のもとで、先の図式がそれらの中でも大きな位置を占めていることを認めなければならないだろう。

 

 論理的原子論がヴィトゲンシュタインの着想に負うている、といわれることがある。これは、『講義』が最初モニスト誌(Monist)に掲載されたとき、ラッセルがその序文に「私の友人であり以前生徒であったルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインから学んだある着想を説明することにとても大きな比重でかかわっている*26」と認めていることによる。この事情は明らかではない。ヴィトゲンシュタインが第一次世界大戦にさいし、祖国オーストリア軍に一兵士として身を投ずる前、ラッセルにタイプした草稿を渡していったらしい*27ともいわれるし、一九一二~一四年の期間に議論した着想を発展させた*28ともいわれる。さらに、論理的原子論が『論理哲学論考』(一九二二、以後『論考』)にとても似ていることを認めながらも、多くの点で記述の理論の直接的な結果である*29とするものもある。『論考』の出版にさいしては、ラッセルに主な責任があった。さらに、ラッセルがそのために書いた「序文」によって、たとえ着想において論理的原子論がヴィトゲンシュタインのものに負うていようが、少なくとも両者の意見の対立が決定的になった。序文の中でラッセルが指摘している疑問点は、同時にヴィトゲンシュタインがラッセルの以前の論文を批判しているところの再批判であり、 「Aは,(命題)Pを信じる」 という命題にかんするものであった。
 まず、『論考』の記述が発端である。
 (『論考』)五・五四二
 しかしながら、「AはPであると信じる」「AはPと考える」、さらに「AはPと語る」などが、じつは、「『P』はPと語る」という形であることは明白である。*30
 これに対して、ラッセルは、『数学原理』の中で、<思惟>を<集合>に分解していたのである。すなわち、ある<思惟の意味するもの>が他の<思惟を意味するもの>を所有している、と信じられるならば、この二つを関係させるための信念叙述<A関係P>が紹介されるのである。例えば、「Aはソクラテスがギリシア人であると信じる」は、「<xは、思惟集合ソクラテスに属す>かつ、<yは、思惟集合ギリシア人に属す>かつ、<xは、yと関係Pにある>かつ、<xとyとはAに属する>、そのようなxがあり、yがある」*31のように分析される。
 両者の親近性が、この二例において、どれほどのものか明らかではない。少なくとも、信念文に生じる表現は尋常でない意味を持つ、というフレーゲの考え方を、両者とも持っている。しかし、ラッセルがこの<思惟集合>がソクラテスヘの指示によって特殊化されると考えているので、「ソクラテス」が信念文に生じた場合、「ソクラテス」は<ソクラテスを意味する思惟集合>を意味すると考える、反対に、ヴィトゲンシュタインにとっては、信念文は、それ自身を意味するか、それが意味する命題を意味するのである。*32
 これは、『論考』序文において、ラッセルが知ってか知らずか無視している「意味」の用い方の違い、すなわち、ラッセルのそれが<meaning>だけであるのに対し、ヴィトゲンシュタインのそれが<Sinn>と<Bedeutung>とに区別されていたことにも示されている。両者ともに、この場合、意味の実在論的理論を認めていながら、ヴィトゲンシュタインが、どこまでも意味は意味だとし、その解決を実践的なものに譲っているのに対して、そのような傾向を持ちながらも、ラッセルは分析のための分析に飽き足らず、それらをさらに存在論的言質にまで還元したがっている
 『諸問題』においても『講義』においても、その解釈に多少の違いはあるが、原子命題でも分子命題でもない、新しい形の事実として、信念文を取り上げてはいる。しかし、この理由以上に、ラッセルが信念文を取り上げて分析しているその意図は、オセロがデズデモナはキャシオを愛していると信じる」という完全に誤りである信念文を用いることによって、<誤った信念がいかにしてありうるか、が根本的な因難であることを示そうとしている>、このことは明らかである(信念―態度として生じた場合の信念文を、ラッセルが解釈しようとしていることを正当に認めたとしても、彼における信念文が、単に名ざされているのではなく、用いられている、という批判もゆえなきことではない)。

 

 ラッセルの宗教批判には、個人的宗教・神学・組織的宗教の三つの局面がある。
 ブライトマンは、その論文*33の中で、この三局面のそれぞれに渡って批判するが、ラッセルの宗教哲学としては、唯一、個人的宗教の局面においては可能であるはずだと論じている。この論文に対する反論の中で、ラッセルは、ブライトマンのこの評価を好感を持って認めている、すなわち、彼の宗教に対する態度が「宗教的」(religious)である*34、というのがそれである。ただし、ラッセルが認めてもよいと考える、その最良の表現は、『社会改造の原理』(一九一六)の中のものである、という条件がついている。
 ラッセルは、この著作の中で、人間の活動にとって重要な源泉三つに分けている。すなわち、本能(instinct)・心(mind)・精神(spirit)である。このそれぞれを中核にする生活があって、第一には、人間が下等な動物と共有しているようなものをすべて含む<本能の生活>があり、第二には、知識を追究する<心の生活>があり、最後に、非個人的な(impersonal)ものである<精神の生活>がある。<本能の生活>は、例えば、衝動にみられるように誤まることもあるが、成功した衝動は存在理由(raison de'etre)である。
 <心の生活>には、まず、動物にあるような明らかに生命の目的を助ける好奇心もあるが、人間のそれは動物のそれを超えている。これこそが科学的知識を形づくった第一の衝動である。さらに、この<心の生活>は、全体的に、また部分的に非個人的思惟(impersonal thought)からなっている。<精神の生活>は、<心の生活>が非個人的な思惟に凝縮されるように、非個人的な感情(impersonal feeling)に凝縮されるものである。この意味で、芸術は<精神生活>に属すると同時に、本質的に<本能の生活>に結びついている。芸術は、本能から始まり、精神の宗教に昇華する。宗教は、精神から始まり、<本能の生活>を支配し、その本質をなおそうと努力するのである。*35
 さて、<精神の生活>は、この場合、非個人的思惟と感情との結合体だと考えられる。この非個人的思惟がわれわれの考察してきた意味の実在論的理論に類似のものと考えられるのなら、さらに、精神の生活が感情の浄化にあるのならば、それらの統一が、スピノザが神の知的愛と呼んだ永遠なるもの、または、知恵の錠*36とラッセルがいったというところのもの、になる。
 ラッセルは前節までの考察で見られたように経験的実在しか認めなかった。したがって、前記の宗教的用語も、「人間の心のある部分が神的であると言われるならば、それは言い方(facon de parlere)としては認められるであろう」という限りのものである。
 これに対して、ブライトマンは、「神秘的なものの感覚の価値を認めること、また、精神の生活の価値を認めること、さらに、人間以上の何かしらの必要〔を感じること〕は、神的なものの経験である。*37」として、経験内における新たな実在が認め得ることを指摘したが、ラッセルは同意しない。
 なぜなら、例えば、「飢えが、食物を得ることになる証拠ではないのと同様に、人間以上のものを必要と感じる事実が、その必要が満されるという証拠にはならない*38からである。
 こうして、想像とか感情とかのような、ある心的出来事が消去され、認識論的には、感覚〔与件〕のみが唯一の個物として認められた。とはゆえ、存在論的には、その個物をすぐれたものにしたいのである。ラッセルの哲学のこころみは、すなわち、無限という感覚と、全体の中の一員という感覚とを常に持っている。と同時に、推論されたものの代りに論理的構成体を作れ*39、という科学的に哲学することにおける最高の格率が不完全なものをさらに切り捨て、これがまた、彼の個人的宗教心を、なにかしら複雑なもの(something complex)*40にしていったものと思われる。


[註]
(01) Russell, 'Bertrand Russell Speaks His Mind', Greenwood, 1960, pp.21-32, etc.
(02) A. J. Ayer, 'Russell and Moore', Macmillan, 1971, p.10.
(03) Russell, 'Principles of Social Reconstruction', George Allen & Unwin, 1971 (1st ed., 1916), p.169.
(04) 日高一輝訳『ラッセル自叙伝』v.2:一九一四~一九四四年、理想杜、昭四三年、一二五~一六一頁。
(05) 前田河広一郎訳、三田書房('The Practice and Theory of Bolshevism', 1920)。
(06) 松本悟朗全訳(抄訳を含む)、世界思潮研究会('Mysticism and Logic', 1917. →1918の間違い)
(07) 宮本鉄之助訳、改造社('An Introduction to Mathematical Philosophy.', 1919.
(08) 中込本治郎訳、経験哲学叢書、三共出版社('The Problems of Philosophy', 1912.)
 市井三郎氏は、大正十年までに『社会改造の原理』の邦訳が三種類もつづいて刊行されたことを指摘している。(『ラッセル』人類の知的遺産v.66、講談社、昭五五年、九頁)
(09) Russell, 'Reply to Criticisms,' P.A. Schilpp (ed.). 'The Philosophy of Bertrand Russell', The Library of Living Philosophers. Vol. V., 1944, p. 727.
(10) Russell, 'The Problems of Philosophy', Oxford Paperbacks, 1968, p. 1
(11) Ibid., p.12.
(12) Russell, 'History of Western Philosophy', Unwin, 1961 (1st ed., 1946), p. 1
(13) 野田又夫訳『私の哲学の発展』みすず書房、昭五四年(初版、著作集別巻、昭三五年)、八頁
(14) Russell, 'Our Knowleage of the External World', Unwin,1926 (1st ed, 1914) ,p.14.
(15) J. H. Muirhead (ed.) , 'Contemporary British Philosophy', First Series. Unwin, 1924, pp.357-383.
(16) Russell, 'Logic and Knowledge', R.C.Marsh (ed.), Unwin, 1956, p. 323.
(17) Russell, 'Bertrand Russell Speaks his Mind', Greenwood, 1960, p. 15.
(18) Russeil, 'Logic and Knowledge', p.323
(19) R. M. Sainsbury, 'Russell', RKP, 1979, p.57.
(20) Russell, 'Logic and Knowledge', p.222
(21) Ibid., p.243.
(22) R. M. Sainsbury, 'Russell', p.57.
(23) Russell, 'Portraits from Memory', Unwin, 1956 p. 53.
(24) Russell, 'Problems of Philosophy', p. 11.
(25) Ibid., p.22.
(26) Russell, 'Logic and Knowledge', p. 177.
(27) 市井三郎『ラッセル』三三一頁
(28) R. C. Marsh, 'Comment by Editor,' Russell, 'Logic and Knowledge', p.175.
(29) A. J. Ayer, 'Russell and Moore', p. 54.
(30) Ludwig Wittgenstem,'Tractatus logico-philosophicus', Schriften l, Suhrkamp, 1969, s.62.
(31) Whitehead & Russell, 'Principia Mathematica', 1927 (1st ed., 1910), p. 662.
(32) R. M. Sainsbury, 'Russeil', pp.226-7.
(33) E. S. Brightman, 'Rusell's Philosophy of Religion,' 'The Philosophy of Bertrand Russell', pp.539-56.
(34) Russell, 'Reply to Criticisms,' p. 726.
(35) Russell, 'Principles of Social Reconstruction', Unwin, pp.142-143.
(36) Ibid., p. 169.
(37) E. S. Brightman, 'Russell's Philosophy of Religion, p.556.
(38) Russell, 'Reply to Criticisms,' p. 726.
(39) Russell, 'Mysticism and Logic', p.115.
(40) Russell, 'Reply to Criticisms,' p. 725.