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「核の下に平和なし-廃絶の初心を訴え(科学者京都会議)

* 出典:『朝日新聞』1981年6月8日付
* 「核の危機訴える科学者京都会議-15年ぶり7日に」

 危機感高まり議論白熱
核兵器のもとでの平和はありえない。絶望することなく、なんども初心に帰り、核廃絶を訴えよう。
 七日、京都市で十五年ぶりに開催された科学者京都会議には、八十六歳の哲学者谷川徹三氏(松下注:第二代ラッセル協会会長)から三十二歳の新進政治学者まで、二十六人が集まった。「日本への核兵器持ち込み」の疑惑。非核三原則見直し議論と防衛力強化の動き、あくことない核大国の核軍備競争。参加全員が「世界はかつてない危機的状況にある。」と受け止め、非公開で、約六時間に及ぶ白熱した議論を行い、核兵器廃絶への具体的な提案をした。病身の湯川秀樹博士も開会のあいさつで、核(兵器)全廃を訴えた。

 参加者の中で最高齢(86歳)の谷川徹三氏は、、十九年前の第一回会議から出席しており、今回も東京からかけつけた。背筋をピンと伸ばして会議の階段を二段ごとに上がる。「人類の危機だからね。平和への願いから出てきたよ。」 原発反対運動にも取り組んでいる三宅泰雄氏(73)は、「ライシャワー発言を待つまでもなく、日本に核兵器が持ち込まれていたと信じていた。これを機に非核三原則が骨抜きにされては大変だ。」会議ではこの点を憂慮する声が強かったという。
 「レーガン政権が誕生してから世界の核戦力は急激に変化している。わが国も危険な方向に動いている。それを思うといても立ってもいられなくて・・・」と、日本学術会議会長の伏見康治(71)。経済学者として初めて参加した宮崎義一京大教授(61)も、「最近の情勢への危機感からですよ。」 「レーガン米大統領は、経済的困難な状況にもかかわらず、五年間で一兆五千億ドルの国防予算を、と考えている。日本も軍事予算を特別枠におこうとしており、軍事化に向かう恐れは大きい。戦争準備をやめさせねば・・・。」と、参加した気持ちを語る。
 出席者によると、会議の討論は、「核抑止論」に集中した。豊田利幸名古屋大学教授(65)が、「核兵器開発の現状と核戦略の変貌」と題して基調報告。これを受けて坂本義和東大教授(53)らが、「強大な破壊力をもつ核兵器があれば、相手国は破滅を恐れて絶対に戦争を起こさないという核抑止論は幻想だ。限定核戦争論が出てきた結果、核保有国が実際に核兵器を使う可能性が出てきた。」と警告。「こういう状況の中で日本政府は、核を含む『防衛』について、明確な思想を持っているとは思われない。この会議では、軍事力強化へ歯止めを失いつつある政府にきちっとした提言を行う必要がある。」と主張した。
 非核三原則の堅持がこの会議の「原点」だった。第一回会議からのメンバーである評論家、中野好夫氏(77)は、核兵器積載艦の一時帰港など認める「非核二・五原則」論を、「バナナのたたき売りじゃないんだ。当然、三原則から出発すべきだよ」と批判。「そんな会議の意味がわかっていたから、京都へきたんだ。」と強調した。
 元広島大学学長で、原水禁問題にも関心が深い飯島宗一名大医学部長(58)は、「非核三原則を守るためには、核抑止政策や、核のかさ政策に日本は頼らない、という態度をはっきり打ち出すべきだ。正直に国是を押し通す勇気が、今こそ必要だ。」と会議の成果を評価。
 原水爆禁止運動の原点からの参加もあった。広島県原水協理事長の佐久間澄広島大学名誉教授(70)。「声明は現実の国の政策と生々しく結びついたもので、これからの平和運動に大きな影響を持つだろう。特に核抑止論をはっきりと否定し、非核三原則の厳守を求めている点は、原水禁運動の目ざすところと一致する。」と語る。

 議論を終えて谷川徹三氏は、「現実主義者はこんな声明は効果がないと言うかもしれないが、我々は将来の世界と人類を守るために発言しなければならない。私はきょうの会議でずっと聞き役だったけれど、こういう声明が出せて満足している。」と語った。

  「人類が滅びる前に・・・」、湯川博士、病気おし出席
「核兵器の全廃を声を大にして叫びたい。」

--病後をうかがわせる透き通るような顔、七十四歳の湯川博士は、開会のあいさつで、こう切り出した。

「核をめぐる状況はますます憂慮すべきものとなっており、改めて会議を開かねばならぬことになりました。」

「非核三原則には、もちろん賛成です。しかし、もっと大きく考え、一切の核兵器を地球上から無くしてしまうことを改めて声を大にして叫ばねばなりません。」
 ゆっくり、言葉を選んでしっかりとした口調で語った。
 五十年に前立腺腫瘍で倒れ、さらに去年一月には心不全と急性肺炎に見舞われながら、この日の第四回科学者京都会議の発起人となった。やっとツエなしで歩けるようになったばかりだ。
 「湯川さんの(核廃絶への)執念をはだで感じます。」と、参加者の一人。午前十時から午後五時までの討議にはとても耐えられぬ体だが、初めの一時間と閉会前の一時間余だけは「どうしても出る」といいはった。
 湯川博士が平和運動のテーブルにつくのは昭和五十年九月の「パグウォッシュ京都シンポジウム」以来のことだ。戦後間もない昭和二十三年、米国の研究所でアインシュタインと出会い、同じ理論物理学者として平和運動に立ち上がってから三十余年になろうとしている。
「昭和四十一年の第三回科学者京都会議からでも十五年の歳月が流れた。その間、私と同じ発起人だった朝永振一郎さん、坂田昌一さんが亡くなり、私も二度の大病に。しかし、その間、念願であった核兵器の廃絶は実現せず、それどころか、米ソなど数ケ国で核兵器の強化が行われている。」
 と、言葉に無念さがにじむ。
「たとえすぐに実現しなくても、くり返し、何度も核廃絶を訴えねばならない。」
 と強調した。自宅では、最近の核持ち込み疑惑について、「僕たちが、もとから言ってきた核全廃への行動をとっていたら、こんなことにはならないのに。人類が滅びる前に早くやらねば」と、スミ夫人にくり返す毎日だという。