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今村与志雄「日本文化,魯迅,ラッセル」

* 出典:『日本文化と中国』(大修館書店,1968年7月刊/中国文化叢書v.10)pp.288-306.
* (故)今村与志雄(1925~2007年1月22日):中国文学研究者
* pp.288-299までは省略(省略した節は,次の6つ: 「はじめに」「魯迅の訳した日本文学」「あくまでも自主的な選び方」「『ある青年の夢』の魯迅訳」「祖国よ,強くなってくれ」「魯迅の(による)厨川白村著『象牙の塔を出て』翻訳」)
* 魯迅(1881~1936): 中国の文学者,思想家。1902~1908年,日本に留学。1909年に中国に帰国。1917年,雑誌『新青年』を中心に起こった文学革命に触発されて書いた小説『狂人日記』(1918)で,「人が人を食う」という妄想にとらえられた狂人の手記に託し,中国伝統社会の非人間性を告発,これを契機に「病態社会の不幸な人々」の姿を描く小説や社会批評を次々に発表。(『岩波・哲学思想辞典』より抜粋)

 外人観光客の中国観にふれて

 魯迅(1881-1936)は,厨川白村の『象牙の塔を出て』(魯迅による中国語訳)において,中国に対する外人の評価が時代によってちがうことを指摘している。
 私の記憶では,義和団(庚子)事変のころは,中国の悪口をいう外国人が多かったものだが,ちかごろは中国の伝統文明を賛美する声をしきりに耳にするようになった。中国が彼らの自由気ままな享楽の楽土たるの日が間近に迫ったらしい。それらの賛美の声を私は憎まずにはいられない。(前出)
 これは,外人観光客の中国賛美の皮相さを,その観光地たる中国に住み,生活をいとなんでいる中国知識人としての立場から批評した,苦い心で書かれた感想である。だが魯迅は自分の日本での体験を追体験して,相手の立場を思いやってこう書いている。
 だが,なにが幸福といって旅行者より幸福なものはない。私が以前,日本に滞在していたときは,春は上野の花見,冬は松島の雪見,著者(厨川)がかぞえあげているような厭うべきものをなに一つ感じなかった。
 厨川が花見や雪見などへ展開した批判,憤激は,自分(=魯迅)はとてもそれほどは感じられなかったと追懐しながら,主客ところをかえて帰国してみたら,そういう超然たる心境はまったく失われてしまったというのだ。
 これは一般的に,いわゆる観光旅行の感想に対する情理かねそなえた批判にもなるコトバである。中国観というものも,それを語る人の体験の如何,たとえば訪問した時季や場合,対象への没入の深浅によって規定されるもので,相対的なものだといっているわけだが,同時に,見るものへの批判は,見られる者-中国への批判としてグサリとつきささるという機能をそなえていた。

 その意味で,「イギリスの哲学者バートランド・ラッセルが,1920年秋,中国を訪ねたときの一挿話」についての魯迅の批判は興味がある。魯迅は,ラッセルが西湖で「轎(かご)かきの微笑を見て,中国人を賛美しているのは,別の意味があるのかもしれない」(『燈下漫筆』,前出『魯迅作品集』に収む)と記したのち,さらに語をつづけて,もし轎かきが轎に乗る客に微笑を見せずにいたら,中国はとっくに今のような中国ではなくなっていた筈だというのであった。この挿話については,あとでまたふれる。
(松下注:1920年12月5,6日の大阪毎日新聞に掲載された記事(ラッセル「支那の第一印象」)は参考となる。)

 ラッセルと日本・中国

 イギリスの哲学者バートランド・ラッセル(Bertrand Russell, 1872-1970)は,1920年夏,10月革命後のロシアのヴォルガ流域を旅したのち,(松下注:一度帰英した後)中国を訪問して,各地で講演をおこなった。デューイ(John Dewey, 1859-1952)もそのころ中国を訪ねていた。デュ一イやラッセルが,新旧二つの勢力が,社会・思想・政治の各分野で対立している中国をおとずれたことは,当時,日本のジャーナリズムの注目をひいた。たとえば,1921年3月から7月にかけて,芥川龍之介が大阪毎日新聞社の海外視察員として中国に派遣されたのも,これと関係があったようだ。芥川龍之介の「支那旅行」について,大毎(大阪毎日)が同年3月末日に四号活字全文で出した社告が,その間の事情をものがたっている。「舊るき支那が老樹の如く横つてゐる(ママ)側に,新しき支那は嫩草の如く伸びんとしてゐる,政治,風俗,思想あらゆる方面に支那固有の文化が新世界のそれと相交錯する所に支那の興味はある,新人ラッセル氏や,デュウイ教授の現に支那にあるのも,やがて,この点に心を牽かるるに外ならぬ。吾が社はここに見る所あり,近日の紙より芥川龍之介氏の支那印象記を掲載する(下略)」(点=下線は引用者。昭和10年4月,岩波書店版『芥川龍之介全集』月報6にのった沢村幸夫『芥川龍之介君と大阪毎日新聞』から孫引)

ラッセルの『中国の問題』(邦訳書)の表紙画像  ラッセルが中国を訪ねたとき,中国の当面する緊急の問題は,帝国主義日本の侵略であった。すなわち,1915年の対華二十一カ条要求,五四運動の前年1918年の日華共同防敵軍事協定,1919年のパリ講和会議における山東問題の解決の仕方など,一連の対中国政策がそれである。そういう状況の下でのラッセルの中国訪問は,デューイの中国旅行とともに,当時の中国インテリゲンツィアに強い感銘を与えた。デューイのプラグマティズムは,胡適らによって,中国に学術研究の領域で具体化した形で導入され,その後の中国の学術・思想に深甚な影響をのこした。ラッセルの思想は,張東孫らによって中国に普及した。解放後の新中国では,中国に入ったラッセル思想は,社会主義思想の名を借りた反マルクス主義思想としてきびしい批判の対象になった(たとえば,『五四時期刊介紹』第1集p.22,pp.354,人民出版社,1954年,北京)。ということは,逆説的にいって,当時,いかにラッセルが中国のインテリゲンツィアに真剣にうけとめられたかを語るものだといってよいだろう。
 しかしながら,ここで扱うのは,中国におけるラッセル思想の受容の問題ではない。1920年代初期において,ラッセルの眼に中国と日本がどう映じていたか,そのことを以下記述したいと思う。
 ラッセルの中国観(および日本観)をうかがうのに好都合のものは,『中国の問題』(1922年初版,原題 The Problem of China,,by Bertrand Russell, London; George A11en and Unwin Ltd.,1922)である。
 彼は,当時の中国にヨーロッパ人が直面したとき,いくつかの問題がよこたわっていることに気がつくにちがいないという。それらの問題は,経済的,政治的,文化的の3種に分類されるが,この3種はそれぞれ孤立して扱えないものである,なぜなら,それぞれ他の二者と密接に関連しているからだというラッセル自身は,文化的な問題に関心をひかれると告白している。そこで,ラッセルは,中国の問題を理解する手段として,ヨーロッパ文明の侵入以前の中国の歴史と文化を知ること,及び現在(=1922年現在)の中国の文化と伝統的諸傾向を知ることをあげるほかに,アヘン戦争から義和団事件に至る期間の西欧列強と中国との関係を知ることをあげ,ついで,日清戦争以後,中国をめぐる国際関係で主役を演ずるようになった日本をとりあげ,日本を知ることが中国認識への手がかりになるというのである。
 ラッセルが,中国に関心をもちはじめたのは,第一次世界大戦の体験をへて,ヨーロッパ文明への信念が根抵から崩れさったことが動機であったようである。彼によれば,ヨーロッパ文明は,過剰なエネルギイの合理化という仮定の上に築かれているという。ヨーロッパの産業主義,軍国主義,進歩を愛すること,伝道の熱意,帝国主義,支配と組織の情熱,すべてこういうものは,活動の欲望の流露から生ずる。ところが,有効性それ自体への信条,何に向っているかその終局へは無関心である。有効性の信条は,第一次世界大戦後のヨーロッパでは,不信の目で見られるようになった。しかし,アメリカでは,当時まだその信条は普遍的に受けいれられていたし,ラッセルの見るところでは,日本もそうなのである。ボルシェヴィキによって指導される当時のロシアも,彼によれば基本的にはロシアのアメリカ化を目標としているという。そういう世界文明観から,ラッセルは,中国文明に別の新たな価値を求めていたようである。
 さて,ラッセルは中国との関連で日本についてこう記している。

 命題をまず疑う者と信ずる者と

 ラッセルは,日本は中国とちがい,宗教な国だという。「中国人はある命題を,それが真実であると証明されるまでは疑う。日本人は,ある命題を,それが虚偽であると証明されるまでは信じている。」この傾向は近代日本の国家構造に由来するもののようだ。
 日本と列強との関係は,日本自身が求めたものでなく,日本は世界に対して孤立することをむしろ望んでいた。すなわち,鎖国政策の続行である。しかし,白人の諸国,とくにアメリカの政策と日本のそれとは抵触し,ペリー提督のひきいるアメリカ艦隊によって日本の孤立政策は転換させられた。日本ははじめて西洋の侵略性を覚ったのである。白人たちに対処するには,白人に屈従するか,それとも白人自身の武器でもって白人とたたかうか,二つに一つしか道はない。日本は後者の道を選んだ。ドイツによって訓練された近代的陸軍,イギリスに範をとった近代的海軍,アメリカに由来する近代的機械,すべて西洋的なものを模倣した近代的モラル。日本はロシアを破り,青島(チンタオ)を占領して中国を半ドレイ化したのち,世界列強と同等に見られるようになったが,それは日本の軍事力を評価したからであって,日本のそれ以外のすぐれた性質も軍事力がなければ,日本人を有色人種扱い-黒人に対するような-することをやめさせられなかったであろう
 しかしながら,日本の文明は,物質的側面では,産業主義はいまのところそう発達していないが,たしかに西欧のそれに類似している。その精神的側面では,西洋,とくに英米的西洋とはまったくちがう。ラッセルは,そう指摘する。では,どこにそのちがいがあるか。ラッセルは,チェンバレン(Basil Hall Chamberlain,1850-1935)が『新しい宗教の発明』(The Invention of New Religion)という小冊子で指摘したこと,すなわち,「日本の宗教は,最近までは実際上は,他のすべての宗教を除き,仏教であった。太古の昔,神道という土着の宗教があったが,それはアイマイに存在しつづけてきた。明治時代に入って40年のうちに神道は国家宗教として樹立され,近代的要求に適合するように再構成された」という見方を紹介している。
「神道は,土着的で民族的であるから,仏教よりこのましい。それは部族的宗教であり,全人類に訴えることを目的とするものではない。その意図するものはすべて,近代の政治家たちによって発展させられてきたとおり,日本とミカド(天皇)を栄光あるものに仕立てることだ」
 ラッセルがここで述べているのは,天皇制の問題であることはいうまでもない。
 明治維新以降,そのための教育制度の樹立によって,現実に神聖なる存在としての「ミカド」の崇拝が全国の村々で教えこまれて効果をあげ,ナショナリズムの民衆的支持をつくり出している。日本の民族主義的目的は,経済的であるばかりでなく,中世風な王朝的,領土拡張的であった。日本人の道徳は効用を目的とするものではない。熱烈に観念的なものである。「孝」が道徳の基本であり,愛国主義を含む。ミカドがその民衆の父であるからだ。ラッセルの当時の日本文明への批判は手きびしい。それは日本という国家の虚構性を指摘していた。当時の日本人にとって(おそらく今日においても),この指摘は,「常識」をさかなでされた感じのものだったろう。
 ラッセルは,日本文明-その底にある日本人のものの考え方に不合理的なものがあり,合理的思考をはばんでいることを,「天皇制国家の虚構性」について語ったチェンバレンの証言を参考にしつつ,中国との対比において批評していたのであった。
 ということは,逆に中国文明-中国人のものの考え方の方が合理的で,その文明は,より普遍的な性質のものだということになる。ラッセルが『中国の問題』で示した中国および中国人への傾倒ぶりは,近代中国の加害者である近代日本の国家体制に根ざす文化構造と日本をおしあげた欧米の近代文明への批判と裏腹なものであった
 ラッセルにとってボズウェル的存在であったと評されているアラン・ウッド(Alan Wood)は,その伝記『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』(碧海純一訳,昭和38年2月,みすず書房)において,こう記している。かれ(=ラッセル)によれば,当時中国の軍閥相互の間で行われていた戦闘においては,「双方が逃走し,はじめに敵方の逃走を発見した側が勝利を占めるのだが,このことは中国軍人が合理的な人間であることを証明するにすぎない」。事実,ラッセルは,中国で見聞したことをほとんどすべて称揚したのであって,かれが批判したことといえば,負欲と腐敗,ある種の無神経さ(特に他人の苦難などに対する)ぐらいのものであった。かれの全般的な結論は一も二もなく,中国文明肯定の側に傾いていたのであり,かれは,中国および中国人は実に感じがよい」('China and Chinese are most delighted')と思った。かれは中国人は,「芸術的国民であり,芸術家にありがちな徳と悪徳とを持っている」と言い,「かれらが今までにわれわれから学んだことに少しもおとらぬほど,われわれがかれらから学ぶべきことは多いが,われわれが学ぶ機会はかれらのばあいとくらべて,ずっと少ない」と断言する。
 ウッドが伝えているラッセルの中国および中国人礼賛の辞は,どう見てもアバタもエクボ式のところがある。そしてそれは,中国の現実相,あるいはその一側面にふれることによって,その「潜在意識の面でのヴィクトリヤ(朝)時代的な進歩への信仰の残滓と,新しい思想は古い思想よりもかならずよいはずだという想定」(碧海純一訳,前掲書)が「清算」された反動として出たコトバなのかも知れない。しかしながら,彼の中国への判断は,政府と人民,国家と個人とが中国では,日本とちがって一体化しておらず,日本人が一般に中国をば,混乱・腐敗・無統一のかたまりと考える傾向のあった時代に,その中国にじつは個人的自由の伝統があることを洞察していたのであった。いいかえるならば,中国を政治上の一個の実在物であるよりもむしろ,悠久なる太古から今日まで存続している唯一の一文明として彼はとらえていた。

 「中国の希望」-若き知識人

 ラッセルは,中国においてインテリゲンツィアがごく特異な位置を占めていることをあげている。中国において科挙という官吏登用公開試験制度が1000年近くおこなわれていた時代,知識人(それを中国では「読書人」とよんだ)は,支配層に属するもの(あるいはその候補者)として威信があった。古き伝統的教育が表面上消滅し,高等教育によって近代的事物が教えられる時代になっても,教育の重要性はかわらず,知的資格をもった人々,すなわちインテリゲンツィアは依然,世論に影響力をもっていた。ラッセルは中国のインテリゲンツィアを新・旧二世代に分け,古き世代のそれを伝統的な儒教的偏見から,困難な,ほとんど孤独で脱却すべく闘かった人々と規定した。年齢的には30歳から50歳に至る人々で,イギリス思想史でいえば,ダーウインやミルの世代の合理主義者の苦しみに似た,内面的および対世間的苦闘の体験をへているというのである。これに対し,新しき世代は,近代的な学校なり大学なりがすでにあって,彼らの家族制度に対する不可避の戦いに共感を示し,激励を与える近代的知性の世界がある範囲にとどまるとはいえ,周囲にすでに存在している,そういう世代である。これらの若き世代は,その闘争がより少ないだけに,より多くのエネルギイをもち,自信をもつ。先駆者たちの大胆さと率直さが依然としてのこり,社会的にもっと効果ある傾向が強くなってきている。ラッセルは,中国のインテリゲンツィアのこういう若き人々に「中国の希望」をみとめていた。そしてラッセルの描いた中国の未来図の内容が今日の現実からみてどうかという結果論的批評*注1は,いちおう別問題として,中国インテリゲンツィアの若き世代の将来(1920年代初期から見ての)果たすべき役割に望みをかげ,「中国の将来の重要性を早くも力説した」(碧海純一訳,前掲書)ことは注目してよい。
 前にあげた魯迅が,ラッセルの西湖での一挿話についてもらした感想は,たしかに,ラッセルが中国を内在的に理解していないことを調刺したようであり,同時に中国人民への深刻で逆説的な愛の表現であったが,ラッセルの感想は,欄熟せるヨーロッパ文明への批判のうらがえしとして出てきたコトバであった。
 いずれにしてもラッセルは,かの李大釗が,「五四運動ののち,知識階級の運動は続出してやまない。現在,知識階級の勝利はすでに次第に実証された。われわれは知識階級が民衆の先駆となり,民衆が知識階級の後楯となることを待ち望む。知識階級という意味は民衆に忠実な,民衆運動をなす一部分の先駆者のことだ」(李大釗「知識階級の勝利」『李大釗選集』所収,1959年,北京,人民出版杜)と喝破したその動きを彼なりに受けとめていたのであった。(今村与志雄)

注1: アラン・ウッドは,その著書(前出)で,『中国の問題』は,観察の犀利な点においても,年月の経過によってその価値を失わぬ点においても,前著『ボルシェヴィズムの実際と理論』にまさるともおとらぬ名著」だという。中国問題の専門家フイッツジェラルド(C. P. FitzGerald)も,労作であり,好著だと賞賛しているという。また「この本でラッセルが書いた重要なことがらの中で,今までにまちがっていたことがわかったのは,中国は一種の連邦政府をもつようになるだろうという,かれの予言だけである」ともウッドは記している。