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「支那の第一印象-北京にて、ベルトランド・ラッセル」

* 出典:『大阪毎日新聞』1920年(大正9年)12月5日~12月6日掲載
ベルトランド・ラッセル = バートランド・ラッセル
(新聞社まえがき)

 『ベルトランド・ラッセル』の名は今や新文化、新思想に憧憬する隣邦の若き人々に種々の響を与えて居る。ラ氏の支那に遊ぶという噂の伝わるや、彼等は一斉に爪立ちして其来るを待った、而してラ氏の来りて最初の支那批判を試みるや、其批判の余りに忌憚なかりしが為めに彼等は愕然として駭いた斯くして支那の読書階級は今しラ氏の一言一句に深甚の興趣を寄せて居る氏は目下一週二回国立北京大学の講堂に立って『哲学問題』及び『新支那の使命』を講じて居るが、其忌憚なき批判と深奥なる観察とは講演の都度溢るるが如き熱心な聴講者を呼んで居ると伝えられる左の一篇は本社が特に其寄与を得たる氏の論文にして『支那の第一印象』が如何に哲人に映じたるかを語れるもの、吾等は氏自身の感想を端的に之によりて聞き得るを欣ぶものである。

 

古き美の破壊

 初めて欧羅巴から支那へ来た旅人は先ず其支那独特の偉大な芸術美に撲たれる、そして又近代商工主義が侵入した程の処には何処にも無残に打壊された美の廃墟があるのを見て二度吃驚する。若し其旅人の興味の中心が芸術と美とに存するならば恐らく茲にも欧洲文明の影響の著しいのを呪うに相違ない。其人は支那特有の絵画と詩とが捨てて顧られず、又古風な支那独有の四角ばった卓や椅子が誠に平凡な洋風の家具に換えられて居るのを観察する。此趣味の旅行者は残された美を丹念に漁る保守主義を多分思想の世界にまでも持ち入ろうとするのであろう。其処には過去の世界から其儘移された仏寺の美しさと仏教の思想とがある、旅人は外貌も修業も欧洲の学者のそれとは似てもつかぬが其道に智識を積んだ人々が現存して居るのを看て喜ぶだろう。そして世界が忠実な瞑想家の為めに与えたと思われる様なこんな特異性を瞑想の興味と変化とを増す為めに何うかして何時までも残したいと切に希うであろう。然し一介の観光客としてでなく、如実に支那を考察するの労を惜まずして支那の前途を想うならば却々斯んな保守的な態度に満足しては居られそうにはない。支那の古い美には最早何の生命も残って居ない。支那全土を挙げて一個の美術館として取扱わざる限り、此古美術の保存さえむつかしいことが判る。されば支那人中学識あり溌溂たる新進の士は支那の此優れた古来の文化に対して頗る冷淡で殊に外人が之を賞揚する場合には堪え難い苛だたしさをさえ感ずる風がある。事実支那将来の進歩発展は仮令真の価値のある場合に於てさえ古いものを全く捨て去る事に存するのが解る。商工主義、デモクラシー、科学、近代教育というようなものには伝統的にして変らざる文明の落ちついた美と云うものは丸でない。現代の欧洲には四五世紀前の様に人の心を魅するものは何もないが、と云って現今欧羅巴人で誰も中世期の昔を今に繰返そうと希うものはあるまい。之と同じ様に支那でも生気に満ちた人々は其必然的な美の損失を余り惜む処もなく只管に将来の発展に邁進せん事を望んで居るのである。
 

新理想の追求

 欧洲から来たものは先ず支那の青年達が古い伝統に渇仰の念を失い新しい理想を追い教化指導を求むるの切なることに驚くが勿論其間にも孔子教の面影はある。学問の徳聖人の尊崇は偶像破壊者の間にも残って居る。支那は幾世紀を通じて博学能文の故を以て選ばれ人々によって治められた国であるが故に『文字階級』なるものが出来上って居るが、各階級の青年は今や智的指導を米国に或は欧羅巴に向って求め出したのである。所が彼等の就中求むる所は事実の智識でなく所謂智慧である。『聖人あり、治国平天下の道を講ずべし』との一般の信念が現今に至っても尚人心を支配しているを見ては驚嘆せざるを得ない。我等西欧人は最早聖人に対する信仰を悉く失って了ったが之は我等の国家生活、企業或は政党政派の膨大と其組織体制の為に個人の価値を没し従って聖人さえ信しなくなったのである。然るに支那では今尚聖人出でて希臘七賢人に聞くソーロンやリコルゴスの仕事を遂げるかの様な期待を有してる。人に導かれようと云う願があって指導する集合的能力がないことが支那永遠の悩みである。
 

支那を救う途

 最近二十年に支那の成就した所は実に驚くべきものがあるが、私は今の支那に最も必要な事は教育の普及であると信ずる。勿論之は就学期にある青年子女許りでなく、全国民の教化である。支那は元来其社会組織は頗る貴族的で、今日と雖も其伝統は支那社会にあって却々根強いものである。今日の支那社会の生産状態は依然とし手工業が現存して居て産業革命前の欧洲に於ける経済状態の様なものである。精神的方面も同様で伝統的信念に対する懐疑と、新信仰の切実な希求は恰も百五十年前の仏蘭西其儘である。然し私の観る処では支那を救う為めには新信仰の種類は兎もあれ何れにしてももう少しデモクラチックな精神を取り入れなければ到底役に立つとは思われないが、此デモクラチックの精神は第一着手として、労働階級の教育に依って示されなければならぬと考える。勿論其方向に進む為めには幾多の困難と障碍とが横わって居る事は私も熟知して居るが忍耐と強固な決意とに依って遂には勝利を得る事が出来ると信じて居る。支那と列強との関係、支那と泰西の思想及び施設との関係は非常に微妙な問題である。思うに近代的洞察を持った愛国的支那人は若し可能であったなら、出来るだけ諸外国から政治的な或は経済的な制御を受けずに西欧の科学と産業制度とより生ずる最多量の利益を得たいと願ったに違いない。然し思想と思想より来る支配とは恐らく分離することはむつかしいであろう、若し現代支那人が外国の資本、或は種々な方面の外国の侵略を拒もうと企画するにしても、其計画が必然に思想、経済制度、社会組織の範囲に迄及ぶ大愛国的運動と関連したものでない限り成功するとは思われぬ。斯の如き事情の下に悪なしに善を得る事は困難であると思うが、兎に角新来の旅人は此処に至って謎に遭遇し自ら何を欲すべきかをすら判断する事が出来ぬ。
 

新支那の将来

 兎も角も次の二十年に近代商工主義が支那を根本から一変すべきものであることは明かである、然し其商工主義の発達する処何処にも必ず一方に弊害を伴うものであるが、支那に於て此商工主義が弊害を伴わずに発達する事を希望するとしても、唯に望むは宜しが、恐らく望む事多きに過ぐるの結果になるであろう。私は此商工主義の過渡期に処しても鋭い洞察と適当な施設とを以てすれば甚だしい悪影響なしに経過する事が出来るものと信じて居るが、未だ嘗て何れの国も此洞察と施設とを示したものはない。而して支那だけが例外を作るだろうと予想する根拠もないのである。僅数週の極皮相な観察に過ぎぬかもしれぬが、私の観る所では支那の将来の為に嘱目すべきものは、少数有識者が其理想の追求に切実なことと、而して社会的政治的組織の改善を求めて、喜んで之が指導者に服せんとするの意志とであると思う而して順序を漸次に踏み進む忍耐と希望とを有するならば、賢明なる指導者を得て驚くべき国家的覚醒に至るに足るものと信じて居るが、どの程度まで之等の条件が充たされるかはまだ私には見当がつかない。兎もあれ衷心から称賛を禁ずる事が出来ない一事は支那人士の「仁の心」である。私は此度到る処に受けた温情に満ちた好遇には驚き且非常な感動を受けた。御礼心に支那諸問題の解決に多少でも貢献する事が出来たならと思うのは自然であるが、私は何分問題が紛糾し且難解であって其上新来の客で支那語に通じて居ないので、問題の実相さえも捉え難いと思われる。此様な事情の存する限り私が何か申し述べたとしてもそれは皮相的な而して無学から来た観察に過ぎぬとの譏は免れぬ事であろう。