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グリーンスパン(著),野村博(訳)『科学と自由-ラッセルの予言』(世界思想社,1982年6月刊 vi,147,iii pp./世界思想ゼミナール・シリーズの1冊)

* 原著:The Incompatible Prophesies; An Essay on Science and Liberty in the Political Writings of Bertrand Russell, by Louis Greenspan, c1978.)


結びのことば

 ラッセルの生涯のうち最も'論争的な'一時期が一九五〇年代の終わり頃から一九七〇年までの最後の時期であるということは、彼の卓越した生命力の証拠である。彼は九七歳で激論の主であった。この歳月の間ラッセルは、市民的反抗で逮捕され、人類に対する自己任命の'民意調査官'として行動し、ヴェトナムにおける戦争に対する彼の反対を劇的に表現する戦争犯罪法廷を設立した。ラッセルの活動の多くは、私が今まで略述してきた政治哲学の枠組の範囲内で全く理解できるが、しかし、なかには理解できないものもある。私はさらに情報・資料が利用できるようになるまでは、問題に完全に答えることなしに問題を提起することに限らないわけにはいかない(限定せざるを得ない)ように感じるのである。
 ラッセルの崇拝者の多くは、ラッセルの生涯の最後の時期を誤った理由で'不可解な'ものと認めてきた。四〇年代終わり頃のラッセルの著作から反共産主義と経験主義を吸収同化した多くの人々は、ラッセルが左翼革命論者と交際しているのを知ってびっくり仰天した。極端な鷹派から極端な鳩派へのラッセルの明白な転換によって、混乱させられた人々もあれば、憤激させられた人々もある。C.L.ザルツバーガーは、「ニューヨーク・タイムズ」でヴェトナム戦争に関する書物の著者の告発を引用して、次のように書いている。
「具体化の努力をしている N.L.F.[ヴェトナム共産主義者の政治的表現]にとって、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルほど貴重な個人は、共産主義圏の内部または外部にいなかった。彼が最も明白な共産主義者に対するこのような軽率な伝道ベルトになったということは・・・彼が客観性をすべて見捨てて、N.L.F.によって与えられた統計や声明を事実上すべて証拠のない根拠で容認したということは、・・・現代の大きな知的悲劇の一つである。」
 これは確かに誇張的表現であるが、しかし、ラッセルの最後の改革運動が喚起した激情を説明しているものである。
 五〇年代終わり頃のラッセルの立場の進展は、実際、首尾一貫したものであって、ただ晩年の五年間に、彼が生涯の大部分の間唱道してきた原理と劇的な絶交をしたにすぎない。彼の政治哲学に変化と矛盾があったことは本当である。しかし、これらのことは死の近くで起こったのであって、彼がナショナリズムを新たに容認したことに見いだすことができるのである。
 冷たい戦争の初期では、ソヴェート連邦を威嚇すべしというラッセルの提案は、力によって世界政府を確立する必要があるという彼の議論から出ていた。彼はこれらの提案を反共産主義的撲滅運動の重要な部分とは考えていなかったのである。
 冷たい戦争の全期間中、ラッセルは反共産主義を一つの政治的信条として恐れた。彼は文化的自由会議の一員であったが、この会議が冷たい戦争に掛かり合いになるのではないかと邪推するようになって、一九五三年早くも五月に会議の役員の一人に当てて、次のような主張の手紙を出している。「私がアメリカ文化的自由委員会の後援者になるというのは間違いでしょう。と言いますのは、これだけ離れておれば私は、委員会の活動がどうなっているのか、私が支持したいような活動なのかどうかについて、じゅうぶん知ることができないからです。」 アメリカ委員会についての彼の疑惑は、「マンチェスター・ガーディアン」に彼が発表した手紙に対して彼を攻撃した委員が委員会のなかにいたという事実によって、引き起こされたのである。この手紙で彼は、ソヴェート連邦のスパイとしてアメリカで処刑されたローゼンバーグ夫妻は、不当に告発されたのであって、政治的迫害の犠牲である、と主張したのである。ラッセルの公私にわたる著作は、スターリン体制に敵意をもったままであったが、しかし、彼は自由世界の不可謬性を信じる者ではなかった。数年後の一九五六年四月に、「ガーディアン」事件になお憤慨しながら、彼はスティーヴン・スペンダーに次のような手紙を出している。 「[文化的自由会議の]アメリカ支部は、ロシアと中国の文化的自由に賛成しているが、他の場所での文化的自由を非としている」。これは、少なくとも心のなかでは冷たい戦争中、ラッセルの強硬路線が主としてイデオロギー的なものではなかったことを証明しているのである。
 鷹から鳩へのラッセルの旋回は、劇的でイデオロギー的なものではなく、むしろ、彼のそれ以前の確信にもとづいて新しい状況に対した論理的反応であった。ラッセルの鷹派性は、世界政府に対する彼の願望によって鼓吹されたものである。四〇年代の終わり頃、彼はアメリカの権力だけが世界政府を生み出すことができると感じていた。五〇年代の初期までにアメリカ合衆国もソヴェート連邦もともに原子兵器を所有したから、したがって世界政府は、これらの超大国間の交渉によって初めてもたらすことができた。ラッセルは平和と核非武装のために行動をもって応答した。しかし、一九五〇年代の声明で彼は、アメリカとソ連の間の「恐怖の均衡」をなお信じていて、小国家に対してだけ非武装を唱道した。とりわけ彼は、イギリス国民が核体制を撤去するよう説得することに精力を集中させた。この時も、また、その後においても、ラッセルは超大国のいずれかによる一方的な非武装を唱道してはいなかったのである。彼の目的は、全般的非武装になるような核保有国間の交渉を鼓舞することであった。ラッセルは核戦争の危険について警告する声明をつくるために鉄のカーテンの両側の各陣営から科学者を集めた。この科学者の集会がパグウォッシュ会議として知られるようになった。
 マルクス主義者に対してますます増大してきたラッセルの'寛容'の態度と同様に非武装のための彼の活動は、彼を批判する人々にとっては、彼が根本的な信念を事実変えたことを暗示した。しかし私は、彼がもっと早く書いていた書物でマルクス主義の批判を拒否したような例を、全く知らないのである。これらの書物でラッセルが、マルクス主義は先進諸国ではもっていないある合法性を、発展途上諸国ではもっているということを強調したことを想起しなければならない。他方で彼は、決して無条件にアメリカびいきではなかったし、また、アメリカ自由主義を支配したデューイのブラグマティズムの哲学に対するラッセルの批判の多くが、彼がマルクス主義に浴びせかけた批判よりもはるかに厳しかったことも思い出されるのである。
 アメリカに対するラッセルの戦後の態度に見られる決定的な変化は、彼がフルシチョフは交渉を快く受けいれるが、アメリカ政府は猛烈で狂信的な反共産主義に支配されていると結論した時、現われたように思われる。一九五八年ラッセルはフルシチョフとアイゼンハウアーに公開状を送り、超大国間に妥協の精神を勧めた。フルシチョフはロシア人を代表して、ジョン・フォスター・ダレスはアメリカ人を代表して、回答した。ラッセルの反応は、次のとおりであった。 「ダレス氏の書簡に示されている氏の心の正しく金剛石のような表面は、フルシチョフ氏の猛烈な非難と時には矛盾よりも大きな予感で私の心を満たした。後者は他に採りうる道と現実について根元的な理解を示すように思われたが、前者は何もなかった」。
 この点までは、ラッセルの政治的共感における変化は、彼の根本的な確信と、世界政府のための最善の計画を支持しようとする彼の用意と矛盾しなかった。アメリカ人に対する彼の批判は、イデオロギー的なものではなくアメリカ人が安定した世界に必要とする妥協を喜んでしようとはしないという彼の確信が増大してきたことにもとづいていた。アメリカ人は、例えば、フルシチョフが一九六三年の危機に際してキューバからソヴェートのミサイルを喜んで取り去ろうとしたような共産主義者の政治的手腕の行為をすべて'弱体な行為'と解釈したのである。
 ラッセルと新左翼の青年との交際が増大したのは、彼らが彼と同じように核戦争の脅威に深い関心をもっているという事実にもとづいていた。急進主義という新左翼の烙印が結晶し始めた時、彼らの社会改造の計画 -彼らにその計画がある限りにおいて- は、第一次世界大戦中のラッセルの見解に似ていた。科学的な官僚政治の権力に対する警告、制度化からの解放を要求するスローガン、地方分権的社会の要求は、ラッセルの著作の多くに見られるテーマであった。ラッセルが三〇年代後期のマルクス主義的急進主義に通じていたよりも六〇年代の急進主義にはるかに通じていたことは、少しも疑うことができないのであった。
 ラッセルの晩年の活動はすべて、彼の政治哲学と彼が長い年月の間発表してきた計画と調和している。しかし、ラッセルは晩年の五年間に不可解で根本的な変化を経験した。彼はナショナリズムの支持者となったのである。
 明らかに、ラッセルが初めて政治にはいった瞬間からもっていた感慨の一つは、ナショナリズムは悪であるということであった。早くも一九〇一年、ユィリー・アレヴィーとの文通で、彼は自分が国際主義者であると宣言した。この歳月の間、ナショナリズムに対するラッセルの敵意は、被抑圧者の正当なナショナリズムと帝国主義者の侵略的なナショナリズムを区別するのを拒否するほど強烈になっていた。社会主義国家のナショナリズムでさえ疑わしかった。敗北者に対するラッセルの共感は、ナショナリズムに対する共感を決して含んでいなかった。一九六五年の一〇月、アンリーク・ラーブとの会見でラッセルは、ナショナリズムは最も破壊的な狂信的行為と同意語であるという信念を表明した。「私は以前折りにふれて言ってきた -一七八二年、北アメリカの愛国者パトリック・ヘンリーは、あらゆるナショナリズムに自由を与える成句を造り出した。彼は言った、『イギリスの国王に依存するまえに死』と。これが災害の始まった所である。」
 突然に六か月後、ラッセルは民族解放の戦争を支持していた。「私に自由を与えよ、でなければ死を与えよ」はヴェトナム人民のスローガンであるということを彼は思い出した。ラッセルは平和的共存に関するソヴェートの態度をいつでも中傷しようとした。彼は次のように書いている。
「もしソヴェート連邦が平和を希求して -これは感心なことであるが- 民族解放と社会主義のための闘争を最小限度にするか、あるいは闘争に反対さえするかによって、アメリカ合衆国の愛顧を得ようとするならば、平和も正義も達成されないだろう」。
 ラッセルは、これが強調の変化を告げるものであることについて決して説明しなかった。今や、よいナショナリズムが存在した。この可能性は、すべてこの主題に関して彼が書いたものを変えたのである。
の画像  『ヴェトナムにおける戦争犯罪』でナショナリズムに関するラッセルの態度の逆転は、突然で劇的で、とりわけ説明されていなかった。一九六五年までに彼が世界政府の可能性に幻滅を感じるようになっていたことは、実に明白に思われる。ラーブとの会見で彼は、彼が非常にしばしば提案してきたような世界政府の可能性に幻滅を感じるようになったと述べている。国際連合を批判して、彼は次のように言っている。「拒否権を禁止して、すべての国家の軍隊は超国家的な軍隊に参加することが義務づけられねばならないと命ずることなどが必要でしょう。そして、この超国家的な軍隊は単に危機をはらんだ国内の争いの場合に用いられるものではないでしょう。一団のアメリカの兵隊が反抗的なコルホーズの回りを巡察するというようなことが想像できますか。あるいは、一団の中国の兵隊がリトルロックで事態を整えるというようなことを心に描くことができますか。・・・だから私は、世界政府の可能性が減退していると思うのです。一九六一年に『人類に未来はあるか』を書いた時は、まだ私は確信していたのです。しかし今では懐疑的なのです」。この後数か月してラッセルは、民族解放の戦争を支持し始めたのである。
 世界政府の見込みに関するこの懐疑は、至極重大である。世界政府は彼のギルド社会主義計画または人類の最も緊急の問題解決にとってほとんど必須条件である、とラッセルは考えていたのである。ナショナリズムの支持に彼が転向したということは、世界政府によって安定した地球がもたらされるという彼の初期の期待を彼が放棄したことを意味するのである。民族解放戦争の擁護と、晩年における彼の公的声明の多くに見られる耳ざわりな調子は、世界的なギルド社会主義の筋書の終わりを意味する。六〇年代の終わり頃人間に関する諸事を固く握った世界的な暴力が、おそらくはラッセルを、「沈黙の罪」に屈服する唯一の替わりとしてナショナリズムを支持するように駆り立てたのであろう。
 この論文のうちで私は、バートランド・ラッセルの政治哲学というものがあるか否かという問題に明確に答えてはいない。私があると信じていることは、このスケッチから明らかなはずである。それは疑いもなくジョン・スチュアート・ミルの独特な改革版である。抽象的な原理がすべて総合され適当に分類されると、その結果はホイッグ党的社会主義と呼ぶことができるだろう。
 ラッセルが政治における観念論者よりもむしろ経験主義者であると評される時、これによって人は、何らかの確固とした哲学的原理に関係なしに生起したままに各問題に本気で取りかかる人を理解する。これがラッセルに当てはまらないことは確かである。彼の政治哲学で哲学はあまりにも顕著な位置を占めている。「失恋した人への忠告の手紙」と見なされるような論文でさえも、人々は正しい哲学を採用すべきであるという思想を首尾一貫したテー々の一つとしてもっているのである。ラッセルのベストセラーの著書『幸福の征服』と『結婚と道徳』は、不幸や性的抑圧を生じる不適切な哲学に対する反証である。人間に関する諸事に決定的な哲学、少なくとも悪い哲学について考える著者は、ほとんどいない。ラッセルの『西洋哲学史』は、哲学は世界史における決定的な要素であるということを主張している点で、ほとんどへーゲル的である。本書(←『西洋哲学史』)でファシズムはフィヒテの認識論とへ-ゲルの存在論から出ているし、現代の不幸はバイロン卿の原理にさかのぼって詳述されている。ヴェトナム戦争はジョン・デューイに関するラッセルの説明から引き出すことができるだろう。哲学は確かに世界で作用している。それ以上に、ラッセルの研究のすべてに明らかに存在している倫理的な原理、例えば社会を個人の集合より以上または以外のものとして語ることを拒否するような原理がある。
 ラッセルが機械化時代における個人の自由という問題に余念がなかったことは明白である。しばしば彼は、その著作に「社会的人間」という概念が全く含まれていない古い型の個人主義者として簡単に片付けられたこともある。これは確かに本当であるが、しかし、彼の闘争にある辛辣さを与えているものは、彼が祖先の個人主義はもはや適切でないという事実に気づいていたことであった。ラッセルは、われわれには「社会的概念」が必要であると主張しているが、しかし、それを述べてから、どちらかと言えば陰気なベンサムの功利主義的な方式(例えば『倫理と政治におげる人間社会』に見いだすことができるような方式)以上に、あるいは、個人は攻撃的な衡動をどうして脱ぎ捨てるべきかにっいての多少漢然とした説教以上に、進んで行くことはできなかったのである。と同時にラッセルは、『幸福の征服』ですべて個人は社会と永続的な絆をもたなげればならない必要性について書いている。しかし再び彼は、個人にとって彼または彼女が何とつながっているのかを知るに足るだけの充実した社会の概念を用意することはできないのである。この研究で私は「社会的人間」の概念について略述しようとはせずに、むしろラッセルの二側面、すなわち彼が個人に話しかける時に現われる自由論的な側面と、大衆に話しかける時に現われるテクノクラシーの側面、を示そうとしたのである。ラッセルの著作に現われるこの二側面間の緊張は、ちようどローマ教会と常に存在する異端との緊張が中世紀的キリスト教を明確にする助けとなるように、現代の自由主義的文明を明確にする助けとなるような緊張である。この自由主義的伝統の内部におけるラッセルの位置は、自由な宇宙における一切の不一致の激烈な合流点のようである。