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金子光男(著)『ラッセル倫理思想研究』への「まえがき」

* 出典:金子光男(著)『ラッセル倫理思想研究』(酒井書店、1974年6月 3,4,300p. 22cm./箱入)<
* 金子光男(1919~):当時、東京家政大学教授

 まえがき (1974.2)

 世紀の哲学者バートランド・ラッセル逝いてすでに3年(松下注:まえがきの執筆年月が1974年2月であるので、「ラッセル没後4年」)、彼が最期まで念じていたベトナムの和平は訪れたが、世界はいたるところで種々の事件を惹起し、真の民主主義と自由はなかなか期待すべくもない。日本も戦後すでに20数年を経過して、終戦直後に比べれば画期的な発展をとげている。しかし現代社会の価値観の倒錯状況や、激動の時代に生きる青少年の混迷した行動をみるとき、そこには物質的には繁栄しながらも、精神的には空白な倫理的課題が介在していることを知るのである。
 著者は、他の多くの戦中派と呼ばれる世代の人たちと同じく、学半ばにして出陣学徒として約4年間を太平洋戦争に従事し、幾度かの死地を経験しながらも幸いにして生還することができた。もっとも華やかであるべき青春時代を真空地帯のなかで過ごしたということは、まことに残念なことであった。しかしながら、その貴重な体験を通して、教育と倫理における真実と虚偽は何であるかということをハダで体得することができた。著者は、故里の焼けただれた焦土のなかから再度復学し、さらに倫理学の研究を決意したのであった。
 従来の伝統的な倫理体系が崩壊した今日、新しい倫理体系はどのようにして樹立されるのであろうか。これが著者の倫理学研究へのスタートなのであった。そのためにまずイギリスの倫理学を学びながら、近代民主主義の哲学的基盤が奈辺にあるかという問題を考察した。しかし倫理学は決して倫理学プロパーの問題としてでなく、広く思想として社会的諸問題との対応で探究されなければならない。著者の研究は、その後社会科学的照明という方向へ重点がかけられていった。すなわち、政治権力や経済体制や社会構造などが、いかに倫理とからみあっているかという問題である。おもうに日本ではとくに倫理思想は、これらの客観的諸条件を正当化する理論的役割を主体的に果してきたのではないだろうか。しかし倫理は、いまこそかつての御用哲学の地平から離陸して、真に人間の主体性と自由とを確立する歴史的課題にこたえなければならない。

 この歴史的課題にこたえ、人間の疎外的状況を克服する倫理の探究を模索し苦闘しているときに、1つの大きい曙光を与えてくださったのが、かつて師範学校でその薫陶を受けた柴谷久雄博士(広島大学教授)であった。氏は、アメリカ教育学とドイツ教育学とにはさまれていた当時の教育界で、その研究的悩みを、じつにバートランド・ラッセルによって打開されたのである。著者のラッセルヘの関心と研究はここから始まった。しかし彼の業績たるやまことに厖大で、その研究は遅々として進まなかったけれど、氏の適切なご指導と数年間にわたる研究討議を通して、彼の書物を読んでゆくうちに、人間性を改善することを媒介として社会を改善せんとする透徹した知性と烈々たる気概に、しだいに魅せられていくのをどうすることもできなかった。そこには偉大なる思想家ラッセルとともに、最大のヒューマニストとしての人間ラッセルが存在していたのである。(右下写真出典: R. Clark's The Life of B. Russell, 1975)
 ラッセルは、伝統的倫理や狂信に反対し、圧政や不寛容を排撃したのであるが、この抵抗の姿勢のなかに、これからの倫理建設の重要契機があるのではないだろうか。彼が人間性を信頼し、人類の危機を何としてでも救わなければならないという世界平和の叫びは、はじめて平和憲法を世に問うた日本の人びとの心を強く打つはずである。防衛問題がとかく論議されている今日的時点において、多くの先輩と同僚をかつての戦争で散らした著者たち世代のものは、前途有為のこれからの若い人びとに、いつか来た道を再び歩ませてはならないのである。生き残ったわれわれは、貴重なる歴史と体験を、将来に伝えてゆくための発言と行動として展開する責任を荷っているのである。われわれは、そのためには、いくたの苦難を乗り越えて、ラッセルの後につづくことが大切である。彼の不ぎょう不屈の人間精神に励まされながら。
 おもうに、ラッセルの倫理思想の究明は、いろいろの意味でそのまま日本の倫理的課題の解決と直結しているものである。本研究は、厖大なラッセル思想のなかで、倫理という1つの視角に焦点をあてて、これをまとめたものにすぎない。これで果して彼の倫理思想が浮彫りされたかどうかは分らないけれども、同学の諸賢のご教示とご批判をいただければ幸いである。
 あたかもラッセル生誕満100年にあたり(松下注:ラッセルは1872年5月18日生まれであるから、1972年がラッセル生誕100年にあたる。)これまで内外の各地で種々の行事がとり行なわれてきた。著者は、ラッセルからわずか数次の書簡での指導を仰いだだけで、残念ながら直接拝眉の機会を逸してしまった。しかし、この記念すべき時にあたって、このささやかな研究の足跡を活字にすることができたことは望外の喜びである。さらにひきつづいて新しい研究を進めることを約して、これを在天のラッセルの霊に捧げたいと思う。
 なお常時適切なご指導をいただいた柴谷久雄博士に対し、改めて衷心から感謝の意を表したいと思う。氏のご鞭撻がなかったならば、この研究はみのらなかったからである。また長年にわたり日頃から親身になって研究への道をご援助下さった藤本一雄博士(芦屋大学教授)にも、重ねて謝意を表したいと思う。最後に、この研究の出版を、積極的にお引受け下さった酒井書店ならびに編集長の酒井誠氏に対しても、厚くお礼を申し上げる次第である。
 1974年2月 著者 ...