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市井三郎「バートランド・ラッセルと日本」

* 出典:市井三郎(著)『ラッセル』(講談社,1980年2月刊 人類の知的遺産v.66 7+368+4 pp.)pp.349-354
* 市井三郎(1922-1989):哲学者<

IV-3 ラッセルと日本

 ラッセルの来日

市井三郎の肖像写真  最後に当然、このような主題について語らざるをえないわけだが、わたしの心は重い。すでに第I部第3章において、ラッセルの若き日に起きた回心の体験が、日本の福沢諭吉の場合などと案外に近いことを示唆しておいた。しかしそのようなレベルでの、ラッセルと日本人との心の交い(かよい)は、不幸にも生起しなかったように思われる。
 1921年(大正10年)にラッセルは、正式結婚前のドーラをともなって、中国からの帰途しばらく日本に滞在した。その時のことは、第I部ですでに若干書いたからくり返えさない。それは全体としては、不幸な出会いというべきものであった。そのとき会った日本の知識人のうちでは、労働運動の指導者としての賀川豊彦に、いくらか好感をいだいただけであった。中国人への讃美にくらべて、日本の印象はきびしいものであった。(注:1922年のラッセルの著作『中国の問題』のなかに、日本を論じた章が3つほどある。邦訳には、牧野力訳、理想社版がある。)

『来日したイギリス人』の表紙画像  日本でいう「大正デモクラシー」なるものが、ラッセルにとっては、自国の文化伝統をあまりにも軽視して、ひたすら西洋化しようとつとめるあわれなるアジア人と映じたのである。ラッセルは京都と東京しか見なかったのだが(松下注:神戸、大阪、奈良、横浜も短時間だけ訪問)、その大都市の街頭で見かけるふつうの日本人たちが、自分たちには異質の西洋化を行おうとして、表情までひきつらせていると映じたのである。第一印象がどれほど主観的なものにすぎないことが多いとはいえ、まる1年近く、ラッセルは中国社会を体験していた。それとの比較でのべられる印象には、妙に真相をうがっているものがあるのではなかろうか。
 第2次大戦の終った年に出された『西洋哲学史』のなかで、ラッセルはその大戦にあらわれた日本の態度に言及して、<西洋化の努力がうまくゆかないと、とたんに先祖の太陽女神崇拝へ復帰して、狂信的行動に出た日本>といったような表現をしている。西欧の定型的日本観を反映しているとはいえ、ドイツ哲学偏重でイギリス経験論の理解の浅かった(そして自立精神の薄かった)日本に対して、この程度の表現でむくいたほど、心の交流が欠けていたのである。筆者たるわたしにしても、1951年からまる2年間イギリスヘ留学したが、当時ラッセルについては偏見をもっていた。貴族のおぼっちゃんで、頭はいいらしいが近代合理(そして功利)主義だけの哲学者だと思っていた。かつては殊勝にも反戦運動を本気でやったらしいが、第2次大戦ではそれも変節した老人だ、くらいにしか考えていなかった。だから一度、会ってみようなどともまるで思わなかった。人の評価は、まこと浮き草のようなものだ、と今にして心寒い。

 真の交流のはじまり

 「核アレルギー」といわれるほどに、戦後の日本人が広島・長崎の体験に敏感となるのは当然だった。ラッセルはまさにその「アレルギー」に応ずるかのように、1954年末から(松下注:1954年3月1日のビキニ水爆実験を契機に)行動を始める。核兵器廃絶運動である。3年後にその行動は、すでにのべたようにパグウォッシュ会議(松下注:第1回会議は、1957年7月7~10日、カナダの寒村パグウォッシュにおいて開催)という、国際的な科学者の運動に発展する。この時点でようやく、ラッセルと日本人との心が、限定された形ではあれ、本当に交いはじめたのではなかろうか。なぜならそのパグウォッシュ会議には、最初から日本の湯川秀樹氏(ノーベル物理学賞)が参加し、ついで朝永振一郎氏(同じくノーベル受賞者)その他が、多大の熱意をこめて参加していったからである。まるで異なった側面からいっても、ラッセルが自分の数理哲学上の業績を、一般知識人にもわかってもらいたくて獄中(反戦の罪)で書き上げた『数理哲学序説』(1919年)が、日本で邦訳の文庫本として刊行されたのが第1回パグウォッシュ会議と同じころであった。またベトナム反戦運動団体として、「ベ平連」が新しい大衆運動形式を展開し、ジャーナリズムの注目を集めているころ(1960年代)、「ラッセル平和財団」の特異な、しかし同じ目標への動きは、同様に日本でもかなりの注目を浴びていた。(右写真:『週刊アンポ』n.8(1970年2月23日発行/ラッセル追悼号)
*平野智治訳『数理哲学序説』が岩波文庫の1冊として公刊されたのは、1954年であった。ラッセルのこの著作も、初めて邦訳されたのは意外に早くて1922(大正11年)である(宮本鉄之助訳『数理哲学概論』改造社刊)。だがそれは日本の思想界にほぼまるで影響を及ぼさず、昭和17年(1942年)の戦時中に出た平野智治訳(弘文堂刊)の場合も、まったく同様であった。1954年に出た文庫版によって、ラッセルの数理哲学思想がやっと日本で少し普及し始めたことの例証は、ごく最近の経済学者日高普氏の随筆「仕事と気ばらし」(岩波『図書』誌1979年7月号)などにも見ることができる。

 ラッセルとつながった公式組織

 「ラッセル平和財団」が発足し、それが当面する大きい課題として、ベトナム戦争におけるアメリカ批判へ向かっていったとき、日本では2つの公式組織がつくられていった。
 1つは「ラッセル平和財団日本協力委員会」であり、いま1つは、「日本バートランド・ラッセル協会」(1965年発足)であった。前者は吉野源三郎氏を委員長とし、哲学者久野収氏らを理事とする組織であり、「ラッセル平和財団」の政治的活動にまさに「協力」する意図で設立された。後者はその点ちがっており、「バートランド・ラッセルの思想の研究、理解、普及を目的とし、あわせて世界の平和、および人類の幸福に貢献しようとする・・・本会は学会であって、直接の政治活動を行わないものとする」のであった(規約第2条)。後者の初代会長は笠信太郎氏であり、間もなく谷川徹三氏に替ったが、理事の牧野力氏が終始事務局を熱意をもって担当された。だが前者の「ラッセル平和財団日本協力委員会」の方は、やや不幸な経過をたどった。本書の第I,第II部で指摘したように、「ラッセル平和財団」の理事となったR.シェーンマン(アメリカ国籍のユダヤ人)が問題のある人物であり、そのシェーンマンからくる連絡や指示がおかしいと考えた日本側は、同委員会の活動を早くから事実上、開店休業の状態においた(同様のことは海外でも起きており、ラッセル自身、シェーンマンに対する死の直前の決別文書において、その諸事実を確認している)
 それにかわって、「ラッセル平和財団」日本支部の仕事を事実上しつづけたのは、長崎大学の岩松繁俊氏であった。同氏は自分の(自宅)事務所を「バートランド・ラッセル平和財団日本資料センター」と称して、ラッセルの死にいたるまで同財団の声明その他を、忠実に邦訳して日本中へ流したのである。
 以上のような諸組織の日本での活動は、それぞれそれなりに、日本人とラッセルとのつながりを補強することに役立ったと思う。しかし最後に、ラッセルが始めたパグウォッシュ会議に、最初から後々までも本腰で参加しつづけた湯川秀樹氏の、ラッセル評を紹介しておきたい。

 湯川秀樹とラッセル

 いわゆる「ラッセル=アインシュタイン声明」(核兵器禁止の訴え)が出されたのは1955年夏であったが、そのとき支持署名をしていた湯川氏は、ラッセルと初めて直接のつきあいをもつことになった。この声明の結果として誕生した世界科学者会議(つまりパグウォッシュ会議)に、当然第1回から参加することになった湯川氏は、『本の中の世界』(岩波新書1963年刊)という著書のなかで、興味あるラッセル評をしておられる。
 1962年の夏から秋にかけて、湯川さん(公式に湯川氏などと書いてきたが、気軽にさんづけで語らせていただく)は律儀にも、イギリスのケンブリッジとロンドンであいついで開かれた第9回、第10回のパグウォッシュ会議に出席された。その投宿のあいだに、『ラッセル放談録』(ワイヤットによるラッセルとのインタヴューの記録で、英国BBCから4日以上にわたって1959年に放映されたもの)を愛読されたという。湯川さんのラッセル評はその本への感想から始まるわけだが、まず第1に、科学と哲学との関係についてのラッセル説に心から共鳴し、パグウォッシュ会議の成功もその辺に淵源があるのではないか、といわれる。
 またラッセルのいうことが、東洋の老荘思想に近いなどと、面白い指摘がつづくのだが、一転して湯川さんはこう結ばれるのだ。
「1962年9月のロンドン会議(パグウォッシュ会議)に姿を現わしたラッセル氏は、90歳とは見えない元気さであった。鋭さは消えて、もっと安定した英知が彼の風貌から感じられた。彼は「世界を理解するのが哲学の仕事だ」と定義した。しかし、皮肉にも彼は世界を理解しようとするだけでなく、それをより望ましい方向へ動かそうと、長い間、努力しつづけた。パグウォッシュ運動の発展は、彼の努力が空しくなかったことを、はっきりと示している。この点では、彼の心は老荘思想と全く反対の方向を向いていたのである。」(前掲『本の中の世界』pp.132-133)
*本書の第II部にのべておいたが、ラッセルはたしかに中国の老荘思想に(J. Legge の英訳を通して)深い感銘を受けていた。彼の著作『中国の問題』(1922年)の冒頭に、『荘子』内篇、応帝王第7の混沌説話が掲げられているだけではなく、ラッセルの他の著作(『自由への道』1918年)では、同じく巻頭に老子の句(「生而不有、為而不侍、長而不一宰」)の英訳が掲げられている。ちなみにこの老子の句の英訳を、現代日本語に翻訳すれば、「所有ということのない生産、自己主張ということのない行動、支配することのない成長・発展」となる。湯川さんはここで、「老荘思想」とは、主体的な変革行動をしないこと、であるかに語っておられるが、右にのべたようにラッセルは、老荘思想を利己的でない主体行動の主張と解していたようである。