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A.J.エイヤー(著).吉田夏彦(訳)『ラッセル』への「あとがき」

* 出典:A.J.エイヤー(著).吉田夏彦(訳)『ラッセル』(岩波書店,1980年1月刊 vii,209pp. 19cm./岩波現代選書、n.41)
* 原著:Russell, by A. J. Ayer, 1972.
*吉田夏彦(1928~2020)略歴

訳者あとがき

の画像  バートランド・ラッセルは、ほとんど1世紀になんなんとするほどの年数を生きた上、一生を通じて多方面で活躍し、ジャーナリズムをたえずにぎわしていた人であるから、我が国でもその名を知っていた人は多かったと思われる。しかし、死後10年たらずがたち、若い人などには、彼のことを知らない人も出てきたかも知れない。そういう人へのラッセル紹介として、また、すでにラッセルについて多少のことを知っている人には、あらためてその多彩で多産的な生涯についての概観をえるためのよすがとして、この本は役に立つのではないかと思う。簡潔ながら、ラッセルの多くの側面を手ぎわよくとらえ、その主要な著作についても要領のよい紹介をしてくれているからである。
 内容については、直接本文を読んで頂くのが一番で、ことごとしくここでつけ加えるべきことはあまりないと思われるが、ラッセルの哲学史上の位置について一言しておくのは、必ずしも蛇足にはならないかも知れない。それはつぎのようなことがあるからである。戦前は、日本の哲学界ではドイツ哲学の影響が強く、また、論理学の研究者が少かったこともあって、哲学者としてのラッセルは必ずしも正当に評価されていたとはいえないようだった。戦後、論理実証主義が輸入されるにおよび、この主義の師父とあおがれていたラッセルに一時関心が集ったかにみえたが、やがて後期ヴィトゲンシュタインの影響がアングロサクソンの哲学界で大きくなってくるにつれ、うつりぎな日本の哲学界はふたたびラッセルをみすてだしたように思われる。論理学の研究水準は、戦前とは比較にならないほどあがってきたが、技術的には、ラッセルの論理学上の業績は過去のものになっているので、論理学者でもラッセルの本をあらためてひもとく人は少くなっている。というわけで、ラッセルの哲学が、日本で脚光をあびる機会は、あまり多くなかったように思われるのである。
 ドイツ観念論は、たしかに、哲学史上、珍重するにたる、1つの変種であり、19世紀には、イギリスの哲学者もラッセルをふくめて、その影響下にあったほど、大きな勢力を諸国でふるっていたものではあった。しかし、哲学の正統がこの派の哲学のみにうけつがれていたとするのは短見である。むしろ、論理学と哲学との相互交渉を重視するという、古代ギリシヤ以来の伝統を考慮にいれるなら、ドイツ観念論は、必ずしも、哲学の主流にそったものではなかったとみることもできる。
 論理学の19世紀における革新は、やはりドイツ語圏で起きたものであるが、これは、ドイツ観念論やその後継者とは直接の関係はなく、むしろ、数学者に近い人々によっておこなわれた。この事件が持つ哲学的な意義をいちはやくみぬき、この革新の成果を吸収し、さらに自分も、論理学の発展に大きな力を貸したのが、ラッセルなのである。その上で、論理学の成果をつかって伝統的な哲学の問題を記述し、解決するという手法を、哲学界に導入したのも彼である。ラッセルのこの方面での活動があまりによく実をむすんだものだから、現在の人間には、かえってラッセルの仕事の意味がわかりにくくなってしまっている。たとえば、論理学は、ラッセルがその方面の研究をやめてしまった1930年代以後も長足の進歩をとげたので、現代風の論理学の教育を受けたものが、ラッセルの、哲学への論理学の応用をめざした著作をよむと、もたもたした感じにおそわれ、読みすすむのが面倒になってしまう。しかし、そんな感じを受けるほど、論理学がすすみ、また、哲学における論理学の応用がすっきりしたかたちになったのは、ほかならぬラッセルが、20世紀初頭、骨身をけずるような思(い)で精力をそそぎこんで、論理学およびその哲学との結合の研究をしておいてくれたからなのである。この本の著者は、幸い、論理学の尖端を研究している人ではないため、かえって、この、今となってはもたもたしている部分にも生き生きとした感じを与えながら、ラッセルのこの方面での貢献を紹介してくれているようであるが。
 とにかく、論理学との関係を重視するという方向に哲学の主流をみるかぎり、ラッセルは今世紀前半において、この主流を代表した大哲学者であったということができるのである。この見地から、彼をもっと評価する動きが、そろそろ日本においてもおきてもよい頃ではないかと思われる。
 著者エイヤーは、1910年生れで、イートン、オクスフォードの出身であり、1946年から1959年まで、ロンドン大学で哲学の教授をつとめた後、オクスフォードにうつり、1977年引退するまで、哲学の教授をつとめた。1936年、若くして、『言語・真理・論理』(拙訳が岩波書店からでている)と題する、論理実証主義的な傾向の書物を出したが、これは当時の伝統的な哲学に対するラディカルな批判をふんだんにふくんでいたために、彼に、アンファン・テリブル(恐るべき子供)というあだながつけられるもとになったといわれる。哲学界の外にこの本が有名になったのは、むしろ戦後のことで、当時若い人のあいだに流行しだしていた論理実証主義のバイブル的な地位をえていたようである。
 しかし、やがて1950年代、論理実証主義を手きびしく批判するいわゆる日常言語学派が、後期ヴィトゲンシュタインの影響のもと、オクスフォードを中心に勃興するにつれ、論理実証主義に近い立場を依然としてとりつづけていたエイヤーは、哲学界の中では孤立していったようにみえた。晩年のラッセルは、日常言語学派に同情がなく、そのために、過去の思想家あつかいされていたから、エイヤーとは気持がかよったのではなかろうか。
 アングロサクソンの哲学界では、ヴィトゲンシュタイン・フィーヴァーも、ようやく終(り)をつげたようである。神がかったいい方でもごもごものをつぶやくことよりも、明晰なスタイルで論証を提出し、その長所も弱点も正直にさらすといういきかたの方にふたたび人気がもどるなら、エイヤーにもまた、関心があつまるかと思われる。
 1976年春、日本をおとずれ、そのかざらない人がらは、彼と議論した哲学者達に、忘れられない印象を残したようである。なお、その時たしかめたところでは、彼の名は、「エァ」と仮名をあてた方がよいようであるが、「エイヤー」の方がとおってしまっているので、この訳でもそれにしたがった。  1979年12月 訳者