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追悼記事:「バートランド・ラッセル氏、人道主義貫-核時代の恐怖に警鐘」

* 出典:『朝日新聞』1970年2月3日付(夕刊)掲載.


 日本の知識人の間でも、深い信望を集めていた英国の哲学者、バートランド・ラッセル氏の死亡が伝えられた。白髪、ほりの深い顔。世界的哲学者であり、徹底した平和運動家としても知られたラッセル卿の死を惜しむ人は、日本にも数多い。

 最近ロンドンで発行された自伝第一巻などによると、ラッセル卿は1872年5月18日生れ。ラッセル家は、ヘンリー八世時代以来、ホイッグ党系の政治家を多く送り出している名家で、祖父ジョン・ラッセルは、ビクトリア朝の首相を二度務めた。
 十八歳から四年間、ケンブリッジで数学と哲学を学び、『数学原理』『西洋哲学史』など、日本でもなじみの、数多くの著作を残している。
 三十四歳で婦人参政を主張して国会議員に立候補、第一次世界大戦では反戦論を強く唱え、英国政府をも非難して投獄されたこともある。第二次世界大戦後は、ラッセル=アインシュタイン声明を発し、パグウオッシュ世界科学者会議を提唱。
 また一九五五年には、アインシュタイン博士とともに人道主義的な立場から、「核兵器禁止の国際運動」を始めた。この間に、一九五〇年には、数多くの哲学論文で、哲学者としては三人目のノーベル文学賞を受賞している。(松下注:ラッセルは哲学の論文でノーベル文学賞を受賞したわけではない。むしろ、『結婚論』や『西洋哲学史』等、一般向けの多数の著作が評価されたものである。)

 最近は午前八時ごろ起き、午前一時まで読書や自叙伝の執筆をする毎日(だった)。胃の一部が堅くわん曲して固形物を通さなくなっているため、食事はスープの流動食。健康法は歩くことで、昔は一日二十五マイルも歩いたという。
 ラッセル卿の思想を研究し、普及するために、日本でも五年前から故・笠信太郎氏(元朝日新聞論説主幹)らが日本バートランド・ラッセル協会をつくって活動を続けている。協会の会長、谷川徹三博士は、「偉大な人を失った。昨年卿に会ってきた人から近況を聞き、百歳まで生きるのではないかと期待していたのに・・・」とさびしそう。
 (また)「ラッセル氏は、二十世紀のボルテールだった。すぐれた見通しと多彩な活動で、核時代の恐るべき意味をいち早く認識し、運動の先頭に立った。十年前のアメリカの新聞のアンケートに対し、'人類は今二つの門、天国と地獄の門の前に立っている。どちらへ行くのかはわからない' と突っぱねたことを思い出す。なんとか天国の方へ向けようと九十歳の老躯で平和運動の先頭に立った英雄だった」、と同氏は言う。
 ラッセル氏は、百歳近くなった最近でも、ベトナムでの米国の戦争犯罪を国際的に裁く行動の先頭に立ち、またソ連のチェコ侵略を激しく批判するなど、徹底した平和運動を最後まで続けていた。

署名記事:市井三郎「(B.ラッセル)未来への強烈な闘士」