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バートランド・ラッセル『ラッセル自叙伝』第3巻への訳者(日高一輝)あとがき

* 出典:バートランド・ラッセル(著),日高一輝(訳)『ラッセル自叙伝』(全3巻)(理想社刊、1968-1973)
* 第1巻(1872-1914):1968年9月刊, 298+ 6pp.
* 第2巻(1914-1944):1971年8月刊, 358+44pp.
* 第3巻(1944-1969):1973年2月刊, 282+19pp.
* 原著:The Autobiography of B. Russell, 3 vols., 1967-1969.
* 日高一輝氏略歴


『バートランド・ラッセル自叙伝』第3巻(邦訳書への)訳者あとがき

 

 第二次世界大戦終結の前年、アメリカから帰国したラッセルが、(それ以後)九十七歳にしてこの世を終わるまでの間、何を思い、いかに活動し、どのような晩年を送ったかが、克明に書かれているのがこの第三巻である。

ラッセルとエディス(1952年12月結婚)の画像
Edith との結婚式当日
1952年12月15日  ラッセルは、(帰国後)ケンブリッジ大学に迎えられ、英国哲学界の代表的存在としてクローズアップされ、南欧、オーストラリア、米国の各大学にも特別講義に招待され、学者としても輝かしい栄誉が約束された。英国最高のメリット勲章を授与され、ノーベル文学賞をも受賞した。
 七十九歳(注:結婚したのは1952年12月なので、ラッセルは満80歳)で、熱烈に燃えた恋愛のすえ、ミス・エディス・フィンチと結婚した。四度目の結婚であり、北ウェールズのプラスペンリンの山荘で、彼の最後を見取ってくれた最愛の妻であった。エディス夫人は、以前は米国のブリン・マウアー女子大学の教師であり、知性的であるとともに、深い愛情に満ちたやさしい人であった。まろやかな、東洋的な感じの夫人であった。ラッセルのよき話し相手であり、いつも一緒に激しい活動の第一線に立ち、街頭行進でも、牢獄でも、つねに影の形にそう如くであった。ラッセルは、ほんとうに幸福だった。そして、心からエディス夫人に感謝していた。

< ラッセルは、齢八十に達してはじめて創作に着手した(注:それ以前に出版はしていなかったが、創作は初めてではない。The Collected Stories of Bertrand Russell, 1972 を参照)。『X嬢のコルシカ探険』、『郊外の悪魔』、『著名人の悪夢』等、つぎつぎに短篇集を世に出した。世評が良かったので、ラッセルは気をよくした。そして、それからの文筆活動を創作一本にしぼろうかとさえ考えたほどだった。それに、思想や主張を一般に伝え、理解させるには、創作の形をとるのが一番よいとも語っていた。

 こうして、ラッセルの晩年のコースも(→「は」)、平穏に定まるかに見えた。ところが、その瞬間、ラッセルの人生の海路に、突如として雷鳴がとどろき、暴風雨が襲った。そして、彼の生涯を波乱にみちたものにした。それはすなわち、ヒロシマ、ナガサキの原爆であった。それを契機として展開されていったのが、ラッセルの一連の世界的平和運動であった。核兵器を撤廃させるためのCND運動(注:Campaign for Nuclear Disarmament 核兵器撤廃運動)百人委員会(Commitee of 100)をひっさげての政府に対する不服従運動(注:市民的不服従運動)、国防省ならびに英国全土の軍事基地にたいする坐り込みデモ、街頭の平和行進、逮捕、二度目の投獄。世界政府実現のための国際会議や国会活動の指導。ラッセル・アインシュタイン宣言とそれに続くパグウォッシュ世界科学者会議(注:1995年にノーベル平和賞受賞)の提唱。
 それらと併行して、諸種の重要な国際問題の解決に寄与しようとするラッセルの尽力があった。キューバ危機、スエズ出兵、中印国境紛争等々。それに、現在の西独のブラント首相をはじめ、当時、不当に投獄されていた数々の政治犯を救出するための運動、ケネデイ大統領賠殺に関する真相究明のための運動等もあった。
 ヴェトナム問題の発生とともに、米国の侵略と、その残虐行為を非とするラッセルの猛烈な世界的運動が展開された。バートランド・ラッセル平和財団、大西洋平和財団、ヴェトナム・ソリダリテイ・キャンペーン、ヴェトナム戦争犯罪国際裁判等々。
 ソ連軍のチェコ侵入が強行されると、ラッセルは即刻、それに抗議する世界的活動を展開した。ストックホルム世界大会、ロンドン世界大会等々であった。

 II

 ラッセルの運動の目標は、きわめて簡明直截であった。「人類を滅ぼさないために!」であった。人類の存続こそすべてに優先する、と言っていた。「 Mankind should have a Future! 」がスローガンであった。そのためには、人類破滅の危険性をはらむ核兵器を廃絶すべきであるし、戦争を放棄しなければならないとした。そうしたラッセルの畢生(ひっせい)の主張をかかげた代表的な論著として自ら推薦したのが、『 Has Man a Future?(人類に未来はあるか)』であった。
の画像
From: B. Russell's The Good Citizen's Alpahbet,1953
 ラッセルは、どの国からでもいいから、卒先して核兵器を撤廃し、戦争否定の憲法をかかげるべきだとした。当然、彼は英国人として、それを英国政府に迫った。
 ラッセルは、平和の原則を、自由、平等、正義、人道においていた。その原則に立つ個人や国は同志であり、それに背反するものはことごとく非難された。偏見や感情から発するものではなかった。彼は、英国を愛する英国人でありながら、英米を痛烈に批判した。英米が、自らを自由の国と呼称しながらも、他国の自由を侵害する行為は非であるとした。同時に、ハンガリーやチェコに対するソ連の侵略行為をも非難した。自由諸国はもとより、共産諸国、中国にいたるまで、すべての国の核政策を非とした。英米を糾弾したからといって、反米闘争(をしているわけ)でも、共産主義(者)でもない。ソ連、中国を批判したからといって、反共運動(をしているわけ)でも、英米一辺倒でもない。
 ラッセルは、貴族の出でありながら、つねに貧しい者、虐げられた民族の味方であった。国内活動において、労働者、学生、大衆がつねに彼の同志であったとともに、国際的にも、ヴェトナム、インド、アラブ、アフリカ諸国の如く、白人の植民政策で病めつけられた後進民族(→後進国あるいは発展途上国の人々)のために挺身した。
 ラッセルは、事に当たって生命をかけた。信念に生き、志を遂げるのに、「生命(いのち)がけで!」というのが、彼の信条であった。「真実に生き、真理を求めて!」というのが、そのモットーであった。
 彼は、虚構と虚偽を排した。そして、どこまでも、廉直に、合理的に、その主張と行動を貫くことを念とし、権力にも迫害にも屈しなかった。こうした革命的な性格と実践が、ラッセルの反骨精神と行動の本質であったが、それと同時に、彼は、法治主義と遵法精神の尊重すべきことを説いてやまなかった。

 III

 ラッセルの終戦後の平和運動の基本理念と実践をみるとき、日本と深い縁で結ばれていることを思わないわけにはいかない。
 ラッセルは、ヒロシマ、ナガサキの直後、(英国)国会の上院で演説して、「人類の危機」を警告し、続いてBBC放送(注:「人類の危機 Man's Peril」)となり、世界連邦、世界科学者会議、核兵器撤廃等々の運動となって発展していくのである。彼は、日本の読者のためにと題して送ってくれたメッセージの中で、「ヒロシマ、ナガサキ(の投下)は、白人全体の罪であり、自分もその埒外(らちがい)ではない。その罪は、ただいたずらに慰霊祭をくりかえすだげで償えるものではない」と述べているし、彼が平和運動に挺身する心の奥底には、原爆の犠牲となった日本人への懺悔の気持が横たわっていたことは否めない。
 ラッセルは、日本憲法の前文の精神と、戦争放棄・軍備否定の第九条を高く評価し、これこそが、世界平和の基礎的要件であり、世界連邦への一里塚であるとも語っていた。
 「この意味で、日本はまさに、世界平和の先駆的役割を果たしている。その日本に敬意を表しないではいられない。自分は、英国政府にも、これを見ならわせようと思って努力してきたが、いまだに成功しない。労働党内閣こそと思って望みをつないできたが、それにも裏切られた。わたくしは、心から日本に希望を託している」と。
 ラッセルの周辺に最後に残ったのは、無名の青年たちだけであった。潔癖で純真なラッセルは、不純と妥協を嫌悪し、平和運動を'政治的に利用'したり、'売名の具'に供しようとした職業的運動家や政治家たちに失望し、自ら組織したCNDや百人委員会からすらもつぎつぎに離脱したほどであった。「青年は純真である。そして生命をかけることができる。自分が共に語ることのできるのは、青年たちだけである」と、しみじみと語っていたラッセルである。ラッセルが心から頼みとしたのは、こうした青年学生たちだけだった。
 だから、もし、日本の青年が、真にヒロシマ、ナガサキの意義を心にとめて、核兵器の廃絶、軍備撤廃、戦争放棄に挺身するならば、ラッセルの精神は、そこに共に生きつづけるのである。日本の憲法の平和精神、第九条には、ラッセルのたましいが寄せられている。だから、もし、日本の青年が、この平和憲法をどこまでも護持していくならば、そこにラッセルのたましいが生きつづける。もし、日本の青年が、地球人・世界市民の自覚に立ち、人類の生存と、世界連邦の実現に挺身するならば、ラッセルの理想は、日本青年の理念と実践のうちに成就されていくことになろう。(了)