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バートランド・ラッセルのポータルサイト


バートランド・ラッセル(著),日高一輝(訳)
『ラッセル自叙伝』全3巻(理想社刊、1968-1973)

* 第1巻(1872-1914):1968年9月刊, 298+ 6pp.
* 第2巻(1914-1944):1971年8月刊, 358+44pp.
* 第3巻(1944-1969):1973年2月刊, 282+19pp.

* 原著:The Autobiography of B. Russell, 3 vols., 1967-1969.
* 日高一輝氏略歴

第2巻(邦訳書)への訳者あとがき
(1969年3月、ヨーロッパにて、日高一輝)

 

「死はすこしも厭わない、恐れもしない」と、ラッセル卿は語る。
自分は、ペンを手にしながらでもいいし、壇上でスピーチをしながらでもいいが、ともかく仕事をしながら死につきたい」と、口ぐせのように言われた。「終わり良きはすべて良し!」を碑文として自分の墓石に刻みたいと、親しかったミス・ルシイに書き送ったり(1906年)(松下注:『ラッセル自叙伝』第1巻には、ラッセルが 妻アリスの親友である Lucy Martin Donnelly 宛に出した手紙が20通収録されている/右写真出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981)、自分で書いた死亡記事(松下注:Auto-obituary)を自ら発表したりした(1937年)
「それでも、ぼくにはさっぱりその時がやって来ないね」と、ひとごとのように語られる。プリンキピア・マテマティカの大著ととり組んでいた時は、苦悩の末、ケニングトンの歩道橋から、下を通る列車に身を投じようとしたり、また、乗っている飛行機(松下注:飛行艇)が北海の海上に落ちたこともあった。それでも死から見放されてきた。自分では常に死を意識しながらも、死の方が卿を敬遠している感じである。
 一昨年ロンドン邸でお目にかかっていた時は、胃の故障をうったえて、すこしく憔悴のていであられた。ところがこのたび来てみると、もうすっかりそれが全快している。「卿の身体はとても常識でははかられません。不思議な生命力です」と医師も言う。
 長寿の秘訣を卿におたずねすれば、「何も無い。自分の好きなように生きているだけだ。しいて言えば、自分の気にそわないことや、まがったことはしないというだけだ」と答えられる。今年で97歳――しかも、ただ生きているというだけの生き方でなく、矍鑠(かくしゃく)として平和運動の先頭に立っておられる。米国のヴェトナムにおける戦争犯罪を糾弾しつづけてきたラッセルは、ソ連のチェコ(スロバキア)侵略が始まると、いち早くそれに抗議するとともに、全世界の、特に社会主義者と共産主義者にアピールして、
「個人的にも集団的にも、ソ連大使館に向かって最も激しい抗議デモを展開すべきである。東欧諸国の基本的自由が、いまや脅威にさらされている。基本的自由の理念は、けっして社会主義と矛盾するものではなく、むしろその根本的要素である。ソ連のチェコ占領は、西側の、さらには全世界の反動勢力を強化させることになろう」
と叫んだ。そして今年度の運動目標として対ソ抗議の世界会議を提唱した。老齢にもめげず、その精力と情熱は、まさに超人というべく、ただただ驚嘆のほかない。しかも、その研究と論著の膨大さ、業績の輝かしさ、とても1人の人間の仕事とは思えないほどである。哲学、数学、論理学、社会思想、政治思想、文明批評、そのどれをとっても、それぞれ専門の学者が権威を認め、賛辞を惜しまない。「ノーベル文学賞1つだけでは事足りぬ存在だ」と、ロンドン・タイムズ紙もいう。学のいかなる分野に志す者にしろ、活動のどの方面に携わる者にしろ、ラッセルの生涯と実績から何かしら学びとるものがあるはずである。それがラッセルの名を世界的ならしめた理由であろうし、彼の魅力でもあろう。

 II

 自叙伝第1巻では、その生い立ち、青春期の悩み、恋愛と伝統との相剋、学問および政治と、理念および良心との葛藤等が述べられた。概していえば、自己内面の生長と苦悩の半生を告白したものだった。
 本書第2巻では、第1次世界大戦から第2次大戦にいたる間の変動期に、彼がいかに発言し、行動し、それがどのように自分にはねかえってきたか、すなわち、対外的実践とそのためにうけた迫害、苦難の半生を語っている。しかもこの間にこそ、かずかずその名声をはせるにいたった数々の大著が生まれるのであり、そのいきさつが、非凡なラッセルにふさわしく、興味深く描写されている。
 第1次大戦で反戦論を唱え、良心的参戦拒否者と行動を共にして、ケムブリッジ大学の教壇を追われ、投獄される。その獄中で、しかも参考書類の不自由な中で、『数理哲学入門』という数学原理の基礎に関する著述をする。
 「ロシア」の章では、見たままのソ連の実情を赤裸裸に述べる。ラッセルは、先に社会主義に共感をおぼえ、24歳にして処女作『ドイツ社会民主主義』を著わした。理論的には、唯物論の哲学的根拠をドイツ観念論的ドグマとして批判し、マルクシズムの弁証法的歴史観をうけいれ難いものとしていたが、歴史上の大部分の大きな動きの底には経済的原因があるというマルクスに同意し、資本主義経済にたいするその冷徹な分析を賞賛し、農民と労働者によせるその愛と正義感につよく共鳴していた。それがソヴィエトの実態にふれ、レーニン等に会って、ボルシェヴィキの権力イデオロギーと官僚独裁機構を鋭く批判するようになる。こうして生まれたのが、『ボルシェヴィズムの実際と理論』(1920年)である。共産主義の狂信、偏執、不寛容は、中世の教会と同様にドグマティックで、社会に害がある、「わたくしのように、自由な知性こそが人間進歩の手段であると信じているものは、ローマ教会にたいすると同様、ボルシェヴィズムにも反対せざるを得ない」と言う。ラッセルは、マルクシズムを宗教と呼んだ最初の人である
 「中国」の章では、米英の植民主義がいかに中国を毒しつつあるかを見て義憤を発する。中国の復興のため自ら実践に乗り出そうとし、若い世代の指導に情熱をもやす。しかしそれも、瀕死の重病にかかって中絶のやむなきにいたる。しかし最近の中国のありかたには批判的になっている。原爆の所有と実験にたいしては、「愚かなことをする」ともらしていたし、現状を目しては、「中国人が今日のような狂った気分でいるかぎりは、とうてい扱いかねる――とても文明人とは思われない」と語っている。
 中国旅行にひきつづいて日本を訪問する(1921年夏)。綜合雑誌「改造」社の招待講演に応じたものだった。その日本印象記はなかなか面白い。ごたごたの連続であったようだ。当時の日本では、非戦論者で社会改造論者のラッセルなど、とうてい、入国も難しかろうと危ぶまれていた。それも、著名な哲学者で、英国貴族であるというところから、外交上の考慮がはらわれて難無きを得る。神戸に入港すると、労働者の一団が手に手に赤旗をふり、「ラッセル卿歓迎」のプラカードをかかげて埠頭に行進して来る。それをラッセルは神戸造船所のストライキと見た。本書には、著名な外国人の歓迎ででもなければ警察がこのような行進を許可しないので、便法として自分の名を利用したと書いているが、それは誤りで、事実、神戸5万の労働者の歓迎だった。ただ、多数の構内入場が禁止されて、少数の代表者が許可されただけだった。もつれた大きな原因の1つに新聞誤報事件があった――中国滞在中すでに、「ラッセル卿病気のため北京において客死す」という大阪毎日新聞上海特電が日本の各紙に報道され、日本からさらにアメリカ、英国へとニュースが流れ、本人に多大の迷惑をかける。そのうえ、横浜では記者団の礼を失する振舞があり、ラッセルを激怒させてしまう(松下注:日本訪問時、ドラは妊娠していたため、フラッシュ撮影はやめてほしいとお願いしたが、聞き入れてもらえなかった。2人はフラッシュの集中砲火を浴び、ドラは流産の危険もあるということで、ラッセルは激怒し、ステッキで記者をけ散らした。)特高警察の尾行と監視も、ラッセルの心証を害し、彼を不快にさせる。「日本で親しめたたった1人の、若く美しい女性」と彼の言う伊藤野枝が、その夫君、大杉栄と共に無政府主義者として迫害されていたこと、そして後に関東大震災の日、甘粕憲兵大尉のために惨殺されたこと、それがどれほどラッセルを悲しませたかしれなかった。ラッセルに悪印象をあたえた数々の暗い要素は、日本人のひとしく反省すべきところであろう。
 けれども、ラッセルが今日もなお日本嫌いのままでいると憶測するのは当たらない。むしろ、平和憲法をかかげて進むいまの日本に好感をもち、激励してくれている。憲法の前文と第9条は、世界政府への道程の一里塚だ、あくまでもこれを保持してほしいと声援をおくっている。また、それこそが、世界にたいする日本の貢献であり、先駆的役割であり、誇りではないかと指摘している。広島、長崎の原爆ではことのほか日本に同情し、米国を徹底的に非難した。あれは、性能効果のテストのため、また、ソ連、中共およびアジア諸国への示威のために日本を犠牲にしたのだと論ずる。ラッセルはいう――
「あの原爆は、戦争を終わらせるために投下されたのではなかった。日本政府はそのまえすでに講和を申し出ていた。西洋諸国の政府はこのことを知っていた。広島と長崎の市民を大量虐殺したことは無法きわまる罪悪行為であった。西洋人の1人1人が責任があり、それと関係がある。なぜならば、それがわれわれの共通の名において行なわれたからである」
 「テレグラフ・ハウス」(第2巻第5章)というのは、ラッセルがその教育理想を実地に行なおうとして実験学校に使ったところ(建物)である。彼がどのように悪戯ざかりの児童たちを扱うか、どんなことで悩まされるか、興味津津たるものがある。ラッセルは、愛と知性、自由と人間性、創造性と世界性教育の基調とした。彼は言う――
「われわれは、わが子にたいする愛情からスタートして、1歩1歩と、哲学や政治という広い世界に連れ出される。愛情だけあって知性の伴わない教育は無力であるが、知性のみあって愛情の裏付けのない教育は破壊的である。愛と創造こそが教育の最高原理である。そして、世界性をもたせるためには、ヒューマン・ビイングとしての人間関係を根本として、恋愛も結婚も、国際政治も平和運動も、ユニヴァーサルに理解できるよう育て、世界的に実践するよう導かなければならない。「教育は新しい世界を開く鍵である」
 ラッセルはまた歴史教育の重要性を説いて、歴史はこれまでとかく権力の担い手たちによって歪められ、彼らに都合の良いように書き替えられたりしているから、そのようなまやかしを見破る力をつけるような教え方をすべきだ、と言う。偏狭なナショナリズムや、頑迷な英雄崇拝や、おろかな官尊民卑の感情を助長したり、それにつけいったりしてはいけない。それかといって、階級闘争の制約下に子弟をおくようでもいけない。歴史はつねに真実を伝えるものでなければならないし、国史よりも世界史に重きをおくべきだ、とする。そして、ラッセルが期待する人間像は、「聖者、予言者、詩人、学者、作曲家、美術家等のように、輝く美と素晴らしい光栄を創造する力、および平和をもたらす力を発揮する者」である。
 「アメリカ」の章では、自分の話したことや書いたことで、どんなにひどく罵詈(ばり)、讒謗(ざんぼう)をあびせられたか、どんなにひどく生活に窮したかを、恥も外聞もなく述べている。有名ないわゆる「バートランド・ラッセル事件」の全貌が語られている。ところが、いよいよ暮らしに困ってバーンズ博士に雇われるその講義の原稿から、ラッセル代表作の1つと激賞される快著、『西洋哲学史』が生まれるのである。

 III

 全巻を通じて脈脈としているラッセルのイメージは、一言でいえば、天衣無縫そのものといえる。貴族でありながら虚栄がない。学者でありながら衒学(げんがく)がない。思ったことを思った通り、あったことをありのままに書く。嘘が無い。隠しだてをしない。誤解をうけようと、不利になろうとすこしも意に介しない。世評も権力も全然恐れない。独立不覇(ふき)の意志をもって貫き、信念をもって行動する。最も嫌うのが不純と偽善であるが、それでいて自らはすこしも偏見をもたない。
 こうした人間味が、彼の廉直な知性と、合理的で普遍的な思想の基調をなしているといえよう。しかも、またその根底には、数学者、論理学者としての冷徹な分析と、哲学者としての真理探求への執念がひそんでいる。彼自身は、自分の哲学と、社会思想および実践との間には何ら必然的な関係が無いと言っているけれども、それは、哲学者としての自分と、社会思想家ならびに実践家としての自分との間には制約関係が無いという主観を言おうとするのであって、客観的にみれば、やはりその哲学の基本的特質が彼の社会思想および実践の基調でもあることは否めないようにおもう(松下注:というよりは、ラッセルは、自分の理論哲学と社会思想との間には、心理的な関係はあっても、論理的な関係は存在しない明言・公言している。)。彼の哲学は、論理実証主義の立場である(松下注:論理実証主義に好意的ではあるが、ラッセルは論理実証「主義」者ではない。)。ヒューム以来の英国経験主義の流れを汲み、へーゲルからシュペングラーにいたる、もしくはマルクスとなって展開するドイツ観念哲学の流れに批判的である。彼は、デモクリトスに傾倒し、それ以前の古代ギリシアの自然哲学を賞賛する。そして、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの流れを、あまりに人間中心にかたよると批判する(松下注:このあたりの記述は誤解を与えやすい。もちろん、ラッセルは、ソクラテスやプラトンを高く評価している。)。惑星の1つである地球の上の、しかも地中海周辺での解釈が、はたして神とか宇宙とかを説明できるものかどうかと椰楡する。そうして自分のことを、けっきょくは不可知論者というほかはあるまいとしている。彼は、推移と変化、歴史的事実と経験的内容を率直にとらえ、多元的、科学的に思考し、究明し、その知識を合理的に綜合する。自己という主体が、主体の責任においてまとめあげる、生きた人間としての自己こそが、統一のかなめであるとする。そこから、主体の基本的自由が要求される。自由を失っては主体性が無くなる。自由なるがゆえに懐疑が可能である、懐疑的に思索し、疑わしきはとことんまで疑う。疑いつつ探りつつ、はてしなく真理を求めて、厳しい科学的求道をつづける哲学なのである
 さらにその主体たる人間ラッセルの心の奥には、まぎれもなく、永遠なるもの、完全なるもの、美しきものへの憧憬と、彼の矢性といえる人間愛と、祖先からうけついだ社会正義感がもえている。彼はつねに自然を愛し、大自然の神秘にひかれるものをもっている。純化された宇宙信仰といったらいいか、自然宗教的感情といったらいいか――そういったものをひめている。クラシック音楽を楽しみ、詩を朗読してその韻に胸をときめかし、文学を好み、東洋の哲理に想いを寄せ、「山上の垂訓」にも真理があるという。真実の人生というのは、詩や宗教の素材となるような感動とか情緒とか、そういった人おのおのの経験のことをいうのだと語る。われわれはラッセルのうちに、崇高な知性と実践的情熱と芸術的素質とがかねそなわっていることを知る。理知と行動、学問と実践、思想家と運動家の統合を見る。世に情熱的思想家、科学的哲学者、哲学的実践家ともいわれる所以であろう。
 ラッセルの書くものの価値と興味は、こうした広範な情操と思想の内容と、その人生のスリルによることはもちろんであるが、それとならんで、彼独得の発想と、風刺、皮肉、ユーモアの絶妙な表現をあげないわけにはいかない。一刀両断、胸のすくような切れ味があるかとおもうと、読んでいてつい吹き出してしまうユーモアにぶつかる。「いかなる国家も、国内で人を殺せば殺人罪で罰するのに、国外にたいしては、殺人に反対するものを罰する」といったような人の意表をつく警句が随所に出てくる。かとおもうと、また、つぎのような場面も見せられる――神戸に上陸した時、共同会見を申し込む記者団にたいして、丁寧に1人1人に紙片を渡す。それにはこう書いてある――「ラッセルは死亡した。だからインタビューに応じるわけにはいかない」と。これは、ラッセル病死の誤報を世界に流した日本の新聞にたいする皮肉であるが、そういう辛辣さを平然とやってのけるところに底知れぬユーモアが湧いてくる。文は人なりという言葉があるが、ラッセルものにはこうした面白さがつきないのである。

 IV

 第2次大戦の末期(1944年)にアメリカから英国に帰ったラッセルは、彼本来の思索と講義と執筆の生活に落ち着きたいとおもった。ケムブリッジ大学の教壇にかえる。やがては上院にも議席をしめる。欧州、濠州の諸大学にも講演に招かれるようになる。ノーベル文学賞の栄誉にも輝く。専門の著述とならんで、フィクション(小説)にも手をそめる。短篇集『郊外の悪魔』、つづいて『著名人の悪夢』を世に出す。創作の前途も洋洋として見えた。
 ところが、ヒロシマ=ナガサキが、その後の彼の人生コースを険しいものにしてゆく大きな因素となっていた。原爆のすぐあとから水爆がくる――核戦争となれば人類は破滅する。黙視してはいられない。彼はまず上院で発言し、警告した。続いて、集会に、スピーチに、動くことがいそがしくなっていった。相つぐ原水爆の実験とその放射能がラッセルの生涯にも影響をおよぼすかのように、その度ごとに彼のアピールと運動が激しさを加えていった。はじめは、専門の研究や著述と併行してすすめられていたのに、いつの間にか、動くことの方が主体になっていった。運動も次第に組織的になっていった。
 こうして、いわゆるラッセルの本格的な平和運動が開幕することになる。CND(核兵器撤廃運動)を指導し、COH(百人委員会)を組織する。世界的オーソリティの確立を叫んで、世界連邦運動を推進し、国会委員会に力をいれる。科学の倫理を説いて、ラッセル=アインシュタイン声明を発し、パグウォッシュ世界科学者会議を提唱する。やがて、ピース・ファウンデーション(バートランド・ラッセル平和財団)を設立し、ヴェトナム・ソリダリティ運動を展開する。「これまでの80年の生涯を哲学に捧げてきたから、これからの80年は創作にささげることにする」と、楽しそうに諧謔をまじえて語っていたラッセルだったが、「核(兵器)」の登場はついにそれを彼に許さなかった。やがて彼をして、
「人類が滅亡するか、生きのびるか――ついにその分岐点に来た。どっちに転ずるかは全くわからない。しかし、人類ことごとくと、その文明の遺産を灰燼に帰してはならない。人類が生きのびること――それがすべてに優先する。自分は、残る全生涯をその一事に捧げる」
と叫ばせた。
 ラッセルはつくづくと述懐してこう言った――「成功するかしないかは自分も何とも言えない。ただ、たのみとするのは、自由と人道と平和にたいする人類の良心と、生きのびようとするその意志と行動だけだ。自分は、ワシントン、リンカーン以来の自由精神の国としてアメリカに望みをつなぎ、そのイメージを抱いてきたが、それが裏切られた。自分は、英国の伝統を愛し、自由の国としての誇りを感じてきたのに、それ裏切られた。他国の自由と独立を侵害して、それでも自由の国といえるか。祖先からの国で、しかも自分の生まれた土地で生きたいとねがっているものの自由を奪っても、それでも自由主義といえるか。自由の原則にそむくだけでなく、人道をふみにじる残虐行為くりかえしている。その罪は、人類の名において裁かれねばならない」と。彼は、米英をけっして自由諸国とは呼ばない。そして、彼の論告にたいする判決は、人類の良心がしてくれるという。
 百歳に垂ん(なんなん)とするまで燃えつづけるその反骨精神と、その生生しい苦闘の物語が、くわしく第3巻に叙述されることになる。とくに、「トラファルガー広場」の章をもうけて、シヴィル・ディスオビーデンス(政府に対する市民不服従運動)を指導し、逮捕される顛末の詳述は、まさに圧巻である。

 

 ラッセルは青年を愛する。「青年だけが頼りだ」とも言う。そのヤンガー・ジェネレーションがいまはどうだろうか。世界的現象になっている学生騒動には、ラッセルも深く心を痛めている。どうしたらいいと彼は考え――どうアドヴァイスしてくれているだろうか。
 ラッセルは語る――現代は価値の転換期だ。われわれは「核」の出現とともにニュー・エージに入った。戦争をしてはならない時代である。軍拡をしたり、戦争手段で欲求を遂げようとするのは時代逆行である。それをあえてするのは、所有衝動と権力支配の勢力、すなわち帝国主義的キャピタリストとミリタリストのしわざである。それを許してはならない。それに隷属してはいけない。それに関係のある機構は改革しなければならない。解決しなければならない矛盾がいたるところに残されている。学生青年の声から、時代の声を聴取する明知をもつべきである。ただ弾圧するだけでは片付かない。力で抑圧しおおせるものでもない。20世紀から21世紀への時代の流れは、それ自らの進路に向けて正しく流してやらなければならない。
 それには、教育と指導のもつ役割と責任が重要である。奔流が、その正しい進路を見失ったり、誤られたりして、勢の赴くままに岩を噛んだり、岩に激突したりしているのであるから、これにディレクション(方向)とディシプリン(規律)をあたえなければならない。
 学生青年自らは、現実を冷静に分析し、反省して、その正しい進路を見きわめなければなるまい。それには、社会革新の要件である自由精神、批判精神、抵抗精神とならんで、創造的な精神と普遍的な知性が不可欠である
 敵愾心や対決意識は平和と相容れない。善意と相互理解が平和の先決要件である。善意がつくり出されないようでは、社会は破壊され、人類は破滅のほかない。暴力によって平和を築くことはできない。
 ルールは尊重しなければならない。遵法精神の有無が、民主主義成否の鍵である。こういったラッセルの理念は、けっして評論として言うだけのことではなく、彼の運動に実証されていた。わたくしは、ラッセル卿の率いる「不服従連動」が最も激しく展開されていた当時、卿のところにあってじかにその実践にふれていた。彼は、青年たちの先頭に立って街頭に行進し、禁止区域に坐り込みをした。そして取り締り法規に抵触すると、当然のこととして逮捕され、拘禁され、処罰に服した。またそのように青年たちを導いた。違法行為に出ながら、処罰されまいとしてあがいたり、釈放を要求して新たな騒動を起こしたり、あるいは法廷に圧力をかけるようなことを全くしなかった。ましてや、暴力にうったえ、狼藉をはたらかせるようなことは絶無だった。
 ラッセルの実践は、力による対決ではない。ラッセルの不服従は、暴力による戦いではない。ラッセルの平和運動は、彼の言葉でいう「人間が、人間の良心と知性に訴える」運動である。アピールの運動である。
 ラッセルは、「青年は純潔だ。偽善がない。生命をかけることができる」と言って、青年を心の支えとしている。「青年は生きる力そのものだ。未来は青年のものだ」と言って、青年に明日を託している。
「自分は、人類存亡の解決がつかないうちに死んでいくだろう。この世は絶望というしかないか――それとも世界に希望があると言い遺すべきか。はたしてどちらを自分の最後の言葉として残したらいいか――わたくしにはわからない。人類存亡の解決は青年たちのものだ。」
こう語るラッセル卿は、いま、北ウェールズのペンリンダイドレスの丘の中腹にある山荘で、カーディガン湾を俯瞰しながら、「自分の時代に成しおおせなかったことを、次の時代の人々がやりおおせてくれるよう」と、祈るような気持ちで青年に期待をよせている。(1969年3月、ヨーロッパにて)

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