バートランド・ラッセル『ヴェトナムの戦争犯罪』訳者(日高一輝) - あとがき
* 出典:バートランド・ラッセル(著),日高一輝(訳)『ヴェトナムの戦争犯罪』(河出書房,1967年11月 328pp. 河出ワールド・ブックスn.16)* 原著:War Crimes in Vietnam, 1967, by Bertrand Russell
* 日高一輝氏経歴等
* 邦訳書目次(2008.05.08、大きな表紙画像追加
訳者のことば――人間性の叫び(日高一輝)
バートランド・ラッセルほど誤解をうけやすい人もめずらしい。
わたくしがイギリスにあって、つねにラッセル卿の声咳(注:謦咳が普通)に接し、その薫陶をうけ、その人間性をみつめていたのは、1959年夏から1962年春にいたる間であった。ラッセル卿が、核兵器の絶滅を叫んで、その運動のクライマックスに立っているときであった。
「人類が生き残ること――これがすべてに優先する。文明も繁栄も、また自由主義も社会主義も、それは人類の生存が前提である。だから、人類の生存を脅やかす核兵器そのものをなくすることが、すべての運動に優先しなければならない。今、自分の想いはこの一点にある。そして自分に残された生涯をこの一事にかける」そう語るラッセル卿であった。
卿は、CND(核兵器撤廃国民運動)の総裁であった。やがてその精鋭をひっさげて「百人委員会」を組織した。つづいて、シヴィル・ディスオビーディエンス(Civl Disobedience 英国政府にたいする市民不服従運動)を指導された。
ところが卿の発言の主たる目標が、1962年から、急ピッチでヴェトナム問題に向けられていった。
昨年の夏、そして今年の春、渡英して再び接するラッセル卿の運動の最高潮は、ヴェトナム・ソリダリティ・キャンペーンであり、ヴェトナム戦争犯罪裁判(注:というより「ラッセル法廷」)の構成であった。
「ヴェトナムで戦争犯罪行為を展開しているのはアメリカの支配者たちである。アメリカを支配しているのは、軍部と大工業家である。その頂点に立つジョンソン大統領は、かつてのダレスと同様、世界にとって最も危険な存在である。・・・。こうしてラッセルは、ヴェトナムという窓口から、世界の危機という奥の間に通じる道程をみつめている。
ヴェトナムにたいするアメリカの支配をゆるせば、その勢力は、アジアからアフリカ、そしてラテン・アメリカの3大陸に拡大される。この支配勢力と、それにたいして自由と独立を得ようとする民族群と血の抗争が激化する。世界戦争の危機が深まる。それはすなわち、核戦争――したがって世界の破滅につらなる。
したがって、世界破滅の危機を救おうとすれば、ヴェトナムにおけるアメリカの行動を許してはならない。アメリカをしてヴェトナムから撤退させなければならない」
いきおい攻撃の対象が大国ということになる。したがって、ラッセル批判が大国の側から起こる。ラッセルは共産主義者のいうことをうけうりし、その代弁者になっていると非難する。または、とりまくアシスタントたちがマルキストであって、ラッセルはそれにあやつられているともいう。
これは、今はじまったことではなく、すでに第1次世界大戦に際してとったラッセルの態度にたいしても同様であった。彼はその時、「非戦論」を唱え、「戦争反対」を叫んだ。そのために彼は、「ボルシェヴィスト」「敗北主義者」のレッテルをはられて、ケンブリッジ大学の教壇を追われ、投獄された。
ラッセル自身はどうか。彼は言う――
「わたくしの根本的立場は一貫している。マルキストでもなければ、コミュニストでもない」すでに1920年、「ボルシェヴィズムの実践と理論」を著わして共産主義を批判した。ソ連を訪れてレーニン、スターリンに会い、また革命の現実にふれてかれらを批判した。「あくなき権力欲。ツァーリズムと変わりない圧制。そして冷酷な狂信の支配」を感じとり、「個人の権力者、資本家のもっていた抑圧力を今度は残らず公務員にあたえるプロレタリア独裁の狂信性」をそこに発見した。レーニンの態度は「平和的でもなく、良識にも反していた……いたずらに民衆に憎悪心をうえつけ、天国の代わりに地獄をつくった」とも極言した。
のちにハンガリー事件がおこった。ソ連は赤軍の大部隊を送りこみ、自主独立を得ようとする民衆を弾圧して、ハンガリーをおさえこんだ。ラッセルは猛然とこれを非難した。こうしてラッセルが、ソ連および共産主義を批判している時、いまラッセルを罵倒している西側のジャーナリズム,すなわちニューヨーク・タイムズ、ルック、タイム、ニューズウィーク等は大いにラッセルを絶讃した。ライフ誌はこう述べた――
「この偉大な精神のもち主は、いまだにわれわれの時代を憂えてくれている。この世界にあって、彼ほどに優れた反共主義者の記録をもっている知識人はいないだろう」一方、左翼共産主義陣営からの反応はどうだろうか。先にラッセルが、1896年の処女論文『ドイツ社会民主主義論』で、マルクスの共産党宣言を激賞し、古来の政治文献中もっともすぐれたものの1つだとさえ言い、ツァーリズムに虐げられた被搾取階級に同情を寄せた時、かれらはラッセルを「同志」と呼んで讃えた。後に、核兵器撤廃を叫んで「全世界が共産主義によって征服される危険をおかしても、西側は一方的に、そして率先して撤廃を断行すべきである」と主張した時、そして今、ヴェトナムに関して、「まずアメリカ軍を撤退させなければならない。そのためには世界のすべての良識と民衆が、自由と独立の為に闘いつつあるヴェトナム民衆と連帯し、団結して、アメリカの帝国主義とその世界支配の脅威にたいして闘いつづけなければならない」と訴える時、かれらはラッセルを「平和の真の友」「世界の偉大な指導者」と呼ぶ。
ところがラッセルが、共産主義批判の論述をした時、スターリンの血の粛正を非難し、ハンガリー事件で厳しくソ連を攻撃した時、そしてまた、中国の核保有とその実験を評して「愚かなことをする」と言った時、かれらは、ラッセルを「裏切り者」「根はやっぱり英国貴族か」と罵ってはばからなかった。
ラッセルは英国をこよなく愛した。その伝統を誇りもしていた。そして、いまの王制で別にさしつかえないではないか、とも語っていた。
それでいて彼は、痛烈に英国の政策を批判してきた。「自由の国といいながら、アジア、アフリカの民衆の自由を奪ってきた。自由をまもる為という美名のもとに、あくなき侵略と支配をつづけてきたところの米国に荷担して、そのわけまえにあずかっている」「労働党は、そのような貪欲な保守党の政策を批判して、革新と解放を公約していながら、ひとたび政権につくとそれをうらぎって、保守党の遺産を相続することと、アメリカ帝国主義に追従することにあくせくしている」「英国は、他のどの国がしなくとも、まず自ら率先して核兵器を撤廃してその模範を示さなければならない」
そう叫んで彼は、トラファルガー広場に立ち、オックスフォード街を行進し、国防省玄関前に坐り込んで逮捕された。5万人を動員し、英国全土の米軍基地、核兵器基地に抗議する坐り込みデモを指導して、500人が投獄された。
ラッセルの身辺は大きな渦巻きだ。ラッセルに浴びせられる言葉は、賞讃があり非難があり、天才かと言い、狂人かと言い、貴族社会と自由主義からよせられるもの、左翼陣営とコミュニストからよせられるもの・・・嵐のように吹きすさぶ。けれどもそれは、見るものの解釈であり、利用しようとするもののあがきにすぎない。
ラッセル卿自身は、「人間性」の一大巨峰として聳え立っているだけである。その発言は人間性の叫びに他ならない。
ラッセルが、つねにわたくしたちに語った言葉は、「自分は、一哲学者として言うのではない。一英国人として言うのでもない。一箇の Human Being (人間)として Human Being (人間)に訴えるのだ」であった。
人間ラッセルにとって、人道にそむく行為は許されない。ヴェトナムにおけるアメリカの行為は非人道的である。これをしも(?)人類の良心は黙視できるのか、と叫ぶ。
かつてドイツは、600万のユダヤ人を虐殺した。毒ガスによる悲惨な殺し方であった。ラッセルはナチスを非難し、第2次世界大戦における英米を支持した。第1次大戦において反対にまわったラッセルが、第2次大戦においては支持する側に立った。矛盾に見えてけっして矛盾ではない。一貫しているのは、人道に背く方が非難されるということである。ニュールンベルグを人道と文明の裁判といって支持した(松下注:全面的に支持したわけではない)ラッセルは、それと同じ精神と権威によってヴェトナムにおけるアメリカを裁こうというのである。
人間ラッセルは、自由を尊重する。自由を蹂躙する権力、独裁、抑圧、支配を否定する。
「大きな宇宙から見れば、ほんの小さなけし粒のような極微の存在――そんな人間であっても、そこには無限の価値があり、その知性の可能性は、広大な空間、悠久の時間と等しく無辺である」と説く。
ラッセルは、人間の価値を、「人間性、精神の自由、動機の純潔」においている。「その階級、貧富、学歴の差によって評価をしない」と語る。
「ヴェトナムの民衆は、どうして生きる自由をすらも認められないのか。どうして自由と独立の国をもつことすらも許されないのか」と叫ぶ。自由を侵害したために、スターリンを、ヒットラーを、そして英国の政策を非難してきた。さらにいま、ヴェトナムでのアメリカを糾弾しつつあるのである。
人間ラッセルは、つねに平和の原則に立ち、平和のアピールをつづける。彼は、平和を口にしながら宗教戦争をあえてしてきたカトリックや、平和の為といいながら、実は資源の独占と経済支配をほしいままにしてきた大工業資本の横暴を非難する。経済支配はすなわち政権掌握、武力支配となって戦争を製造する。平和を破壊する。だからこそ、第1次世界大戦に非戦論を唱えたラッセルである。ナチス、朝鮮戦争、スエズ戦争、キューバの危機にたいして、戦争反対を叫んできたラッセルである。そしていま、ヴェトナムにおけるアメリカを、平和を蹂躙するものとして裁くのである。
人間ラッセルは、人間の平等を主張する。貴族の出身でありながら、貧しいもの、働く者、不遇なものの味方となって骨身を惜しまない。英国人でありながら、インド、ビルマ、ジャマイカ、ハイチ、ケニヤ、ガーナ、エジプト等植民地の民衆と、手をたずさえて進んできた。白人でありながら、つねに有色人種の為に発言してきた。
ラッセルは、白人の1人でありながら、「ヒロシマ、ナガサキは白人共通の罪である」と叫んでやまなかった。ラッセルは、人種差別、白人優越の意識と政策を真向からたたく。つねに植民政策を攻撃し、植民地解放を支持してきた。ニュールンベルグが(仮に)正しい法廷であったとするならば、あの時裁かれたナチスの残虐行為と同じことを行なっているアメリカも当然裁かれなければならない。アメリカなるが故にニュールンベルグを適用しないとするならば、それは人種差別の観念に根ざしているものである、と叫ぶ。
いまラッセルがみつめているのは、人類の生存の可能性についてである。そして、彼のねがいも発言も行動も、帰するところは「人類を滅ぼしてはならない」の1点である。
そのためにラッセルは、世界政府の構想を発表し、ワールド・オーソリティの確立を促進しようとした。そのためにラッセルは、ラッセル=アインシュタイン声明を発した。そのためにラッセルは、全世界のノーベル賞級の科学者に訴えて、パグウォッシュ会議という名の世界科学者会議を提唱した。
そして、核兵器撤廃の運動となり、ヴェトナムにおける戦争の終結を叫ぶこととなる。それは、世界戦にエスカレートし、人類の破滅に引火するおそれなしとしないからである。
バートランド・ラッセルは、20世紀の一大巨峰である。人間巨峰である。95歳の齢をかさね、ほとんど1世紀におよぶその生涯の間に、積み上げた業績はまさに超人的である。哲学者であり、数学者であり、記号論理学を創始し(松下注:創始したわけではない。確立というべきか)、数学基礎論を著わした。政治論、民主主義論、社会主義論、宗教論、教育論、結婚論、恋愛論、道徳論等、社会思想の分野における論著も枚挙にいとまがない。思想界においてと同様に、警世家、平和の実践者としての歩みも異彩をはなつ。
その偉大なラッセルの人と為りも、よくみればシンプルの一語につきると言えよう。あるがままの大自然の姿に似ている。自然の構造は、誰もが知るように複雑微妙、広大深遠である。巨峰というものは、秀麗な山容としての1つのイメージをあたえてはくれるけれども、その構造を近くから眺めると、まことに複雑怪奇であることがわかる。
ラッセルは、その業績と行動が、範囲においてあまりに広すぎ、内容においてあまりに深すぎるために、つかみどころのない感をあたえたり、変幻自在におもえたり、矛盾撞着に見えたりする。けれども、その人と為りはきわめてシンプルであり、その行動の動機は、実は終始一貫していたのである。
ラッセルは、純情家で、義憤にもえ、信念につよく、これぞと思うことには、いのちがけでうちこんでゆく。「青年の純潔と勇気を愛し」、革命家の献身的情熱と実践を賞讃する。
このラッセル卿も、よる年波には勝てないのか、昨年あたりから、とみに肉体の衰えをみせはじめてきた。大股に歩いていたのがやや小きざみになり、毅然としているように見えたのが腰をまげかげんにし、ステッキにたよらないことを自慢にしていたのが廊下の手すりに手をかけるようになった。胃のトラブルのため固形食をうけつけなくなったし、あのはりのある声もかすれるようになってきた。
それでもラッセルは、朝8時に起床して、夜10時すぎに床につくまで、英国人らしいパンクチュアルな生活をつづけている。会食、宴会、観劇等に外出することもなく、1日の時間をフルに執筆と、平和運動の指導にかたむけている。
趣味はとたずねると、「そんなものはない」と答える。東洋哲学の書をひもとくこと、クラシック音楽のレコードに耳をかたむけること、75年間愛用したパイプをたしなむこと、気のむくままに庭を歩かれること――それを趣味といえば言えるだろう。好き嫌いは、とたずねると、「そんなものはない」と答えられる。なるほど食べものについては好き嫌いはない。好きなものはと言えば、食事ごとに食卓におかれるレッド・ハックル・スコッチ・ウィスキーぐらいのものか。しかし、交際をゆるす人間、運動を共にする人間についての好き嫌いは、とても頑固なものがある。
祖父は、かつての大英帝国の大宰相、名付け親はジョン・スチュアート・ミル、薫陶をあたえた先輩は、ウィリアム・E.グラッドストーン卿(松下注:グラッドストーンには幼児の時、祖父の家に来た時にあっただけなので、薫陶を与えたとはいえない)――名門ラッセル家に生をうけ、伯爵を継ぎ、英国貴族の伝統に育ったラッセル卿ではあるけれども、卿はそれを誇りとするどころか、かえってそのアリストクラシーに反逆し、独自の道を思いのままに歩んできた。伝統の重圧をはねのけた。迷信的な宗教のドグマと習慣から脱け出て、知性と理性の世界に雄飛した。真の自由と平等、人道と平和を叫んで、権力と専横に挑戦してきた。偽善と狂信とは彼の最もいみ嫌うところである。
彼は、新興民族の独立と革命の闘いを心から尊敬する。ヴェトナムの為に叫ぶラッセルは、決して一片の感傷の徒ではない。自分自身の深い思想と信念から出発しており、ヴェトナム民衆の闘いを、アメリカを独立に導いたワシントン、ナチスの空爆下に毅然として抗戦しつづけたチャーチルにも比肩するものと称えた。ヴェトナム民衆は、憐れみをうけるようむ哀れな存在では決してない――世界の平和と正義のために、闘いつつある立派な戦士である。白人、有色人種を問わず、世界の民衆がひとしくこれにならい、連帯協力すべき模範的行為であると主張する。
わたくしは、ラッセルの叫びと実践のうちに、人種を超えた高いヒューマニズムと、「人間平等」の実践を見る。
一箇の「人間」として、世界の「人間」、人類の良心に訴えるラッセルの叫びは、まさに、「人間性の叫び」と言えよう。