バートランド・ラッセル『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ』(邦訳書)第1章 - 冒頭
* 出典:バートランド・ラッセル(著),勝部真長・長谷川鑛平(共訳)『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ-』(玉川大学出版部,1981年7月刊。268+x pp.)* 原著:Human Society in Ethics and Politics, 1954
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人間の生涯はいろいろな見方で見ることができるであろう。人間を哺乳類に属する一種属としてながめ,もっぱら生物学的な光のもとに考察することもできよう。この観点からすれば,人間の成功は圧倒的なものであった。人間はどのような気候風土のところでも,水のあるところなら世界中のどこにでもみな住むことができる。人間の数は次第に増加し,今なおその増加の速度をはやめつつある。人間が成功しえたのは,人間が他の動物から区別されるもの――言語・火・農耕・書字・道具,そして大規模な協力,のお蔭である。 協力作業という点では,人間は完全には成功していない。人間も,他の動物と同じく,衝動と情熱とに充ちているが,その衝動・情熱は,人間の出現の過程では,概して生き残るのに役立った。しかし,その知性のお蔭で明らかになったことは,情熱がしばしば自らの挫折をまねくものであること,そしてある種の情熱の領野をより小ならしめ,他の情熱のをより大ならしめれば,人間の欲望はより多く充足され,幸福が一層完全なものとなろうということである。人間はほとんどいつの時代にも,またどこにいても,自らを他の種と張り合う種とは見なしていなかった。人間は〔種としての〕人類にではなく,それぞれの人間どもに,関心をもった。そこで人間どもは,味方と敵とにはっきりと二分されることになった。時としてこの区分は,勝利者となった側のひとびとに役立った。たとえば,白人とアメリカン・インデイアンとの闘争の場合のように。しかし,知性と創意が社会組織を一層複雑にするにつれて,協同による利益はつぎつぎと拡大し,競争による利益は逐次に減少する。倫理と道徳綱領とが人間に不可欠なのは,知性と衝動との間に葛藤があるからである。もしただ知性だけであるならば,あるいは衝動だけであるならば,倫理のための余地はないであろう。 人間は情熱的で,強情で,かなり狂気じみている。その狂気によって人間は自らの上に,また他のひとびとの上に災害をもたらすのであるが,その災害たるや,すこぶる規模の大きなものにもなりかねない。しかし,衝動に駆られる生活は,危険ではあるが,人間の生存がもしその妙味を失うべきでないとすれば,どうしても温存しておいてやらなくてはならない。衝動と抑制という両極の間に,人間が幸福に生き得る拠りどころとしての倫理は,ぜひともひとつの中間点を見出さなくてはならない。人間の本性の奥底にこのような葛藤があればこそ,倫理学への希求が生まれるのである。 人間はその衝動と欲望とが他のどの動物よりも複雑であって,しかもその複雑さからもろもろの困難が生じている。人間は,アリやミツバチのように完全に群居的でもなければ,ライオンや虎のようにまったく孤立的というのでもない。人間は半群居的動物である。人間の衝動・欲望には,社会的なものもあれば孤立的なものもある。人間本性の社会的な面は,独房監禁が最も厳しい処罰形式であるという事実にあらわれており,もう一つの面は,プライバシーを好んで,見知らぬ人に話しかけたがらないところに,あらわれている。グレアム・ウォラス(Graham Wallas, 1858-1932:イギリスの政治学者,社会学者)は,そのすぐれた著書『政治における人間本性』(Human Nature in Politics, 1908)において,ロンドンのような過密地域に住んでいるひとびとは,不本意な過度の人間的接触から,自らを守ろうという社会的行動の防衛機構を発達させていると指摘している。バスや郊外電車で隣り合わせて坐るひとびとは,普通は,互いに話しかけない。しかし,空襲とか,ないし異常濃霧などの,何か警戒を要する事件が発生すると,とたんに見知らぬ者同士が互いを仲間と感じ始め,遠慮なく話し合い始める。このような行動は,人間本性が私的側面と社会的側面との間を揺れ動いていることの例証となる。われわれが完全に社会的であるとはいえないからこそ,われわれは,目的を示唆する倫理と,行為のルールを教示する道徳綱領とを必要とするのである。アリにはどうやらそんな必要はないようである,アリはつねにコミュニティの利益の命ずるままに行動するからである。 |
Men are passionate, headstrong, and rather mad. By their madness they inflict upon themselves, and upon others, disasters which may be of immense magnitude. But, although the life of impulse is dangerous, it must be preserved if human existence is not to lose its savour. Between the two poles of impulse and control, an ethic by which men can live happily must find a middle point. It is through this conflict in the inmost nature of man that the need for ethics arises. Man is more complex in his impulses and desires than any other animal, and from this complexity his difficulties spring. He is neither completely gregarious, like ants and bees, nor completely solitary, like lions and tigers. He is a semi-gregarious animal. Some of his impulses and desires are social, some are solitary. The social part of his nature appears in the excellence, one social, fact that solitary confinement is a very severe form of punishment; the other part appears in love of privacy and unwillingness to speak to strangers. Graham Wallas, in his excellent book Human Nature in Politics, points out that men who live in a crowded area such as London develop a defence mechanism of social behaviour designed to protect them from an unwelcome excess of human contacts. People sitting next to each other in a bus or a suburban train usually do not speak to each other, but if something alarming occurs, such as an air raid or even an unusually thick fog, the strangers at once begin to feel each other to be friends and converse without restraint. This sort of behaviour illustrates the oscillation between the private and the social parts of human nature. It is because we are not most of their acts are completely social that we have need of ethics to suggest purposes, and of moral codes to inculcate rules of action. Ants, it seems, have no such need: they behave always as the interests of their community dictate. |