バートランド・ラッセル『人類の将来-反俗評論集-』訳者あとがき
* 出典:バートランド・ラッセル(著),山田英世・市井三郎(共訳)『人類の将来-反俗評論集』(理想社,1958年6月。286pp.)* 原著:Unpopular Essays, 1950)
*(故)市井三郎氏略歴
「あとがき」で述べるべきことは、すでに巻頭の「凡例」で多く述べてしまったので、ここでは蛇足ながら、1、2の点に関して読者の方々の注意を喚起したいと思う。
本書に収められた諸論文は、さまざまに異なる時期に書かれているため、時事問題に言及してある場合には、各章末に附した発表年代を承知して頂くことが大切であろう。とくに原水爆や戦争と平和の問題に関して、本書第3章に見られるように、ラッセルはスターリン時代に「力を通じての平和」という考えを支持したことがあるのだが、最近の日本の新聞にもよく報道されるように、彼はその後その見解を改め、てっていした非武装平和論者として活動している(*注)。
(*注)雑誌『世界』には、この点についてのラッセルの諸論文が訳載されてきたが、たとえば同誌昭和25年12月号の「第3次大戦は不可避か」と、昭和30年3月号の「中立主義と世界平和」とは、ラッセルのこの間の見解の変化をよく伝えている。ついでながら訳者の一人(市井)は、このような変化の底を流れるラッセルの立場の一貫性を、雑誌『総合』昭和32年7月号「.ハートランド・ラッセルの思想」の中で論じた。このような個々の問題についての見解の変化は、もちろん方法論的に一貫した立場からなされているのであって、その立場とは経験主義である。わが国では「経験主義」というコトバが、「はいまわる」という形容詞をつけて軽べつげに用いられる向きがあるが、それは大別して2種類の経験主義が区別されていないからであろう。すなわち一方では、理性的洞察を欠いて、現象のめまぐるしい変化にそのつど無原則的に意見を変える、といった皮相な経験主義があり、他方には、みずからの思想に自己の生存をかけ、区々たる現象の変化にも首尾一貫してみずからの理性的洞察を守り抜き、現実の証拠が自説のきびしい論理的諸帰結と決定的な背反を示すにいたったときにのみ、そしてその場合はあらゆる虚栄をかなぐりすてて敢然と自説をひるがえす、という剛き(毅)な経験主義がある。
本書の第1章などでもラッセルが擁護している経験主議が、まさに右に述べた後者のタイプのものであることはいうまでもなかろう。とまれ蛇足はこのくらいで止め、反語や痛烈な諷刺に満ちながら透明そのものである本書を、読者みずからの判断におまかせすることとしよう。翻訳は凡例に述べた通り、あらかじめ用語法の協定をした上で、文字通りの責任分担でおこなった。 1958年4月 訳者