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バートランド・ラッセル『権威と個人』訳者(江上照彦)あとがき

* 原著:バートランド・ラッセル(著),江上照彦(訳)『権威と個人』(社会思想研究会出版部,1951年3月。227p.)
* 原著:Authority and the Individual, 1949
*(故)江上照彦氏略歴
*右下イラストは、1986年6月15日に松下宅で開催された第67回「ラッセルを読む会」の案内状より

訳者あとがき

 本書は Bertrand Russell: Authority and the Individual, 1949 の全訳である。それはまたラッセルがBBC(英国放送協会)の請いに応じて、1948年乃至1949年に放送したリース講演(Reith Lectures)の内容でもある。

 著者ラッセル(Russell, Bertrand Arthur William)は、元来英国名門の血統に連なる。すなわち祖父ジョン・ラッセル(John Russell)は、第6代ベッドフォード公の第3子であり、グレー内閣、パーマストン内閣閣僚、後には自ら首相ともなるというような、当時の最も輝かしい政治家の1人であった。B.ラッセルは、その孫として生まれた。
 ラッセルの経歴と特色とを簡単に抜書きすれば、かれはケンブリッヂのトリニチイ・コレッジ(Trinity College)に学び、卒業後、講師(lecturer)及び校友(fellow)となった。記号論理、数理哲学の研究家及び新実在論哲学者として漸く著名となったが、第1次大戦に際して、政府に反抗し、それが爲に罰せられて母校における地位を失った。彼は、自由主義者として、ボルシェヴィズ、全体主義等の専制主義に反対する。またフロイド理論を参酌(斟酌:しんしゃく)し、教育・結婚等の改革を主張する。文明社会の現在と未来に懐疑的、悲観的であり、良識と合理性の上に立つ対策を提示する、等々。講演と視察のため彼が旅行した地域は、アメリカ、支那、日本(大正10年)、ソヴイエット・ロシヤ等に亙る。(松下注:もちろん、ヨーロッパ大陸各国にも何度も行っている。1950年には、オーストラリアに講演旅行をしており、コアラを見に行っている。)

 ラッセルほど多方面で、かつ深い学識は、世界にも殆ど他に例を見ないであろう。あるいはかれを「合理主義者、不屈の不可知論者、政治科学者、社会学者、古い自由主義者、進歩主義者、天才的で光の閃めくよう独創的思想家…」と評し、更に「世界の眼に唾をはく者」とさえいう(The Times Literary Supplement, n.2542)いうゆえんは、彼がまたスウィフト(Jonathan Swift)のような辛辣極まる諷刺家・文明批評家でもあるということであろうか。

 われわれはラッセルの名を聞くこと既に久しい。しかもその理解は未だ余りにも貧しいようである。なるほどラッセルの名は最近、特に彼が1950年度ノーベル文学賞を授けられて以来、わが国ジャーナリズムの注目をひくにいたった。しかしその視角は、今までのところ、彼を西欧文化のバックボーンたらしめ、かつ、彼にソヴィエチズムに対する理論的堡塁(ほうるい)の役割を期待せんとするものの如くである。それは勿論結構であろう。ただし、それがそれかぎり、その場かぎりに畢る(おわる)ならば、いわば折角無限の宝庫の扉の前に立ちながら「開け胡麻」の呪文を忘れたカシムのように、宝物――ラッセルのいわゆる精神的財貨(mental goods)――は、ついにわれわれのものとはならないであろう。希望したいのは、こうした気運を契機として、ラッセルという思想界の金字塔に、われわれの真摯な探求の眼が向けられ、そのより広く深い理解への新しい努力が始められることである。

 ラッセルは単一であって、しかも偉大な天才の複合である。それは多面的立体に似ている。次に彼の、主な著述を掲げたが、それは如実に彼の広範な才能の領域を示すものであり、かつその広さにもかかわらず、各分野において、つねに最高の水準にあるということには、全く驚かざるをえない。例えば「記号論を基礎とする数理」(Mathematical logic as based on the Theory of Type, 1908/タイプ理論に基礎をおく数理論理学)は、一躍彼を英国経験主義哲学の第1人者たらしめた。また彼の中国旅行は、『支那問題』(The Problem of China, 1922)を結実したが、それはあまた(ある)中国論中の出色として、オウェン・ラチモア等のそれより遙かに高い地位を占めるものといわれる、等。こうしたラッセルの比類なく卓抜な多面性・複合性が、一方彼をわれわれに近づき難いものとし、他方その全体としての理解を困難ならしめているようである

(松下注:江上氏は、順不同にリストアップしている。)
German Social Democracy, 1896
Foundations of Geometry, 1897
Philosophy of Leibniz, 1900
Principles of Mathematics, 1903
Philosophical Essays, 1910
Principa Mathematica, 1910-1913
Problems of Philosophy, 1911(松下注:1912のまちがい)
Scientific Method in Philosophy, 1914
(松下注:これは後ろの方にある、Our Knowledge of the External World, 1914 のサブタイトル)
Principles of Social Reconstruction, 1916
Roads to Freedom, 1918
Mysticisn and Logic, 1918
An Introduction to Mathematical Philosophy, 1919
Practice and Theory of Bolshevism, 1920
Analysis of Mind, 1921
Analysis of Matter, 1927
An Outline of Philosophy, 1927
Marriage and Morals, 1929
The Scientific Outlook, 1931
Human Knowledge : Its Scope and Limits, 1948
History of Western Philosophy, 1946(松下注:1945のまちがい)
Our Knowledge of the External World, 1914
An Inquiry into Meaning and Truth, 1940
Education and the Social Order, 1932
In Praise of Idleness, 1935
Conquest of Happiness, 1930
Sceptlcal Essays, 1928
On Education, 1926
Freedom and Organization, 1934
Power: A New Social Analysis, 1938

 ラッセルの最近著『権威と個人』(Authority and the Individual, 1949)は、小冊子ではあるが個人主義者・民主主義者・自由主義者及び文明批評家としての彼の風貌をうかがうに格好のものである。その取扱う主題は、公的秩序と私的創意、換言すれば、統治と個性、政府と個人との相剋と調整という、古く(て)新しい問題である。彼は社会的及び反社会的行動の源を探り、統治体の支配の程度と密度との歴史を調べ、次いで芸術・科学及び道徳の領域における個性の役割を検討する。彼は政府に属し、あるいは個人または自発的組織に属すべき機能はいかなるものであるか、かつまた統治体自体内にいかにしてなるべく多くの個人的創意の余地を残すかを考察する。秩序と安全が保てる限り、彼は、最大限度の権限委譲と地方分権とを主張する。彼は大組織を支配する中央部への権力集中と、こうした迂遠な中央部にのみ責任を負う出先地方機関の設置とを、危険と考える。しかし彼は、結局私的創意と公的統制の調和は可能であり、重要であるとして、これを可能ならしむる原理と方法を説く。(右写真は、1949年にラッセルに授与された Order of Merit 勲章。日本でいえば文化勲章にあたるもの/出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981.)
 かかる論旨を骨格とすれば、全体主義・官僚主義の弊、民主主義の形骸化、学芸の凋落と科学の隷從、自然と人間、人間と技能、経済と資源、経営と労働、大工業と小工業、道徳と法律、目的と手段の対照又は対立等、今日の世界の重要な哲学的政治的及び経済的問題についての彼の見解が、短く鋭く、これに随伴てんめんしてその血肉をなしている。畢竟(ひっきょう)、ラッセルの眼にうつる現代文明の姿は暗い。それはあらゆる点で行き詰まっている。人間の築きげた文明は、巨大な組織制度と高度の科学技能(技術)の力で、反って人間生活の愉悦を奪い去り、これを破滅に導こうとしている。かれは匡救(きょうきゅう)の手段を、究極には世界政府を頂点とする帰納的分権性の樹立と個人創意の復活解放に求めんとし、こうした暗い世界の迷路にいくばくかの光を注がんとしているのである。ラッセルの引証は該博、行文は諷刺と機知に富み、一般思想書の叙述と異り、独特の魅力をもっている。

 ラッセルの本書執筆の動機と、われわれが特にこれに期待すべき点については、都立大学助教授関嘉彦氏の書評の一部を拝借しよう、曰く「その動機は、英国労働党の実験により、ともすれば失われんとする個人的自由について、世論を喚起せんとするにあると思うが、事情は異るとは云え、民主主義の名の下に自由を抑圧せんとする思想が横行している日本においても、本書は読まるべき十分の価値を有していると思う。」(『社会思想研究』v2,n.7)と。とまれ、それは英国においては、さきにBBCを通じ、許多(きょた)の聴衆を魅了し、次いで刊行以来非常な売れ行きを示しているという。翻訳権はまずドイツとわが国が取得した。民主主義のより深い、より現実的な理解の爲に、本書が一般に役立ちうれば幸甚(こうじん)である。
 訳文については、なお自ら不満を禁じえない。不備稚拙は私の魯鈍の致すところでいたしかたないが、ならばもう一段と反復推敲の時間的余裕が欲しかった。ただ幸に、関助教授の校閲を煩わし、多くの補正と助言を得たことは、真に心強くしあわせであった。たまたま同助教授は、ご静養中にもかかわらず、特にこのため労をとられたのであって、訳者はここに自らの無遠慮を詑びねばならぬ。更に、先輩土屋清氏、(雑誌)「あるびよん」長谷川覚氏のご配意を煩わした。各位の御厚志に対し、衷心から御礼を申上げたい。長谷川如是閑先生からラッセルについての文章を戴けたのは、真に有難かった。これは論文であり、また、随筆であるようだ。先生の枯淡酒脱の筆のうちに、おのずからラッセルの風貌と特徴が浮び、かつ、彼への批判の寸鉄が蔵されている。わが国において、ラッセルを解き語るに、先生を措いて、他により優った学識と人格は求め難いと思う。というのは、先生御自身も、ある程度、認めていられるように、ラッセルと如是閑との間には、相照し、相通ずるものが多いのである。両者の思想なり傾向なりがたまたまそうであり――但し、ラッセルは小説を書かず、如是閑は数学を嗜まない、と思う(松下注:周知のように、ラッセルは、1953年に Satan in the Suburbs を、1954年には Nightmares of Eminent Persons という短編小説集を出版している。また、ラッセル死後、1972年には、詩を含む、ラッセルの創作をまとめた Collected Stories of B. Russell が出版されている。)――そのためかどうかは分らないが、すでに30数年以前において、先生はラッセルに共感と興味をもたれたらしく、当時の「新人」ラッセルに対し、論評の筆をとられたのである(例えば、「ラッセルの社会思想と支那」、1921年刊の如是閑著『現代社会批判」収録)。こうした彼此共通点を個々に挙げてみることは、また他日に譲るとして、ます何より、各々英国と日本の思想界に、凛然として孤高屹立し、遙かに群峰を抜く風格を呈しているのは、まさに東西相似の偉観であるといえよう。こういう意味でラッセルの真の友であり、同時にわが思想界の耆宿(きしゅく)である如是閑先生により、ここにラッセルヘの手引が与えられたことは、全く訳者として望外の幸いであり、喜びであって、先生へ深甚の謝意を披歴したい。