バートランド・ラッセル『西洋哲学史』序論 - 冒頭
* 出典:バートランド・ラッセル(著),市井三郎(訳)『西洋哲学史-古代より現代にいたる政治的・社会的諸条件との関連における哲学史』全1冊版 (みすず書房,1961年1月,831+xxxiipp./改版:1969年10月,831+xxxiipp.)* 原著:A History of Western Philosophy, 1945
|
| |
われわれが「哲学的」と呼んでいるところの,人生や世界に関するさまざまな考えは,2つの因子の所産である。その1つは,受け継がれてきた宗教的,倫理的諸概念という因子であり,もう1つの因子は,もっともひろい意味で「科学的」と呼びうる種類の研究である。個々の哲学者は,これら2つの因子が彼らの哲学体系に入りこむ比率に関して,非常な相違があったが,とにかくなんらかの程度で,この2つがともに存在していることが,哲学を特徴づけているのである。 「哲学」という語は,あるひとびとはひろく,他のひとびとは狭く,というように,雑多なやり方で用いられてきた語である。わたしはそれを,ある非常にひろい意味で使うことを提案するのだが,これからその意味を説明してみることにしよう。 本書でわたしのいう哲学とは,神学と科学との中間に立つあるものである。神学と同じように哲学も,これまで明確な知識を主張し得なかったような事柄に関する思弁,というものから成り立つが,また哲学は科学と同じように,伝統という権威であれ,啓示という権威であれ,とにかく権威というものに訴えるよりは,人間の理性に訴えるものなのである。すべての明確な知識は科学に属し,明確な知識をこえる事柄に関するすべての独断は,神学に属している,とわたしは主張せざるを得ない。しかし神学と科学との間には,この両方からの攻撃にさらされている無人境がある。この無人境が哲学なのだ。思弁的なひとびとにとってもっとも興味ある問題のほとんどすべては,科学が解答を与え得ないようなものであり,神学者たちの自信に満ちた答えというものは,もはやかつての諸世紀におけるような説得力をもたないように思われる。 [(上記の松下試訳) 我々が「哲学的」(philosophical)と呼んでいるところの,人生や世界に関する諸概念は,2つの要因から産み出されたものである。1つは,過去から受け継がれてきた宗教的,倫理的概念という要因であり,もう1つは,最も広義の意味で「科学的」(scientific)と呼んでよい種類の研究という要因である。個々の哲学者は,これら2つの要因が彼らの哲学体系に入りこむ割合に関して,非常な相違があったが,とにかくなんらかの程度で,この2つがともに存在していることが,哲学を特徴づけているのである。 「哲学」という語は,ある者は広義な意味で,ある者は狭義の意味でというように,これまで多様な意味で使われてきた。私はそれを非常に広い意味で使うことを提案する。これからその説明を試みよう。 私がその言葉で理解したいところの「哲学」は,神学と科学との中間に位置するものである。神学と同様に,哲学も,これまで明確な知識を主張し得なかったような事柄に関する思弁から成り立っている。しかし,また,哲学は、科学と同様に,伝統という権威であれ,啓示という権威であれ,とにかく権威というものに訴えるよりは,人間の理性に訴えるものである。すべての明確な知識は,科学に属すると,私は主張せざるを得ない。明確な知識をこえる事柄に関するすべての独断は,神学に属している。しかし神学と科学との間には,この両方からの攻撃にさらされている未踏の領域がある。この未踏の領域が哲学である。思弁的な人々にとって最も興味ある問題のほとんど全ては,科学が解答を与え得ないようなものであり,神学者たちの自信に満ちた解答というものは,もはや過去何世紀に渡って持ち得たような説得力を有していないように思われる。] 世界は精神と物質とにわかれているのか? もしそうだとすれば,精神とは何であるか? 物質とは何であるか? 精神は物質に従属するものか? あるいは独立の力をもつものであるか? 宇宙はなんらかの統一あるいは目的をもっているか? それはなんらかの目標に向かって進化しているのか? 自然法則は本当に存在するものなのか? あるいはわれわれが,生得的に秩序を愛するが故に存在すると信じているものに過ぎないのか? 人間とは,とるに足りぬ小さい惑星の上を力なくはい回っているところの,不純な炭素と水分からなるちっぽけな塊まりだ,と天文学者には思えるのだが,それは本当であるか? それとも人間は,ハムレットがそうだと考えたようなものであるか? たぶんその両方であるのだろうか? 高貴な生き方というものが存在し,また卑しむべき生き方が存在するか? それともあらゆる生き方が無益であるに過ぎないのか? もし高貴な生き方が存在するのなら,それは何なのか? そしてわれわれはどのようにすれば,それを達成できるのであろうか? 善が価値あるものと考えられるに値するためには,それは永遠のものでなければならないか? それとも,宇宙がもし不可避的に死に向かって進んでいるとしても,なおかつ善は求めるに値するものであろうか? 知恵といったものは存在するか? あるいは知恵と見えているものは,愚かさの究極的な洗練に過ぎないのか? 以上のような疑問に対しては,実験室ではいかなる答えも得られはしないのである。さまざまな神学は,まったく明確な答えを与えたのだと自称してきた。しかしまさにそれが明確だと主張されることが,近代人をしてその答えに疑いをさしはさましめた。以上のようなさまざまの問題を解決することでなくとも,少なくともそのような問題を研究することが,哲学の仕事である。 ではなぜ,そのような解き得ない諸問題に時間を浪費するのか,と諸君は尋ねられることでもあろう。・・・。 |
(挿絵:1985年2月17日,松下宅で開催した第54回「ラッセルを読む会」案内状より)
THE conceptions of life and the world which we call 'philosophical' are a product of two factors: one, inherited religious and ethical conceptions; the other, the sort of investigation which may be called 'scientific', using this word in its broadest sense. Individual philosophers have differed widely in regard to the proportions in which these two factors entered into their systems, but it is the presence of both, in some degree, that characterizes philosophy. 'Philosophy' is a word which has been used in many ways, some wider, some narrower. I propose to use it in a very wide sense, which I will now try to explain. Philosophy, as I shall understand the word, is something intermediate between theology and science. Like theology, it consists of speculations on matters as to which definite knowledge has, so far, been unascertainable; but like science, it appeals to human reason rather than to authority, whether that of tradition or that of revelation. All definite knowledge- so I should contend- belongs to science; all dogma as to what surpasses definite knowledge belongs to theology. But between theology and science there is a No Man's Land, exposed to attack from both sides; this No Man's Land is philosophy. Almost all the questions of most interest to speculative minds are such as science cannot answer, and the confident answers of theologians no longer seem so convincing as they did in former centuries. Is the world divided into mind and matter, and, if so, what is mind and what is matter? Is mind subject to matter, or is it possessed of independent powers? Has the universe any unity or purpose? Is it evolving towards some goal? Are there really laws of nature, or do we believe in them only because of our innate love of order? Is man what he seems to the astronomer, a tiny lump of impure carbon and water impotently crawling on a small and unimportant planet? Or is he what he appears to Hamlet? Is he perhaps both at once? Is there a way of living that is noble and another that is base, or are all ways of living merely futile? If there is a way of living that is noble, in what does it consist, and how shall we achieve it? Must the good be eternal in order to deserve to be valued, or is it worth seeking even if the universe is inexorably moving towards death? Is there such a thing as wisdom, or is what seems such merely the ultimate refinement of folly? To such questions no answer can be found in the laboratory. Theologies have professed to give answers, all too definite; but their very definiteness causes modern minds to view them with suspicion. The studying of these questions, if not the answering of them, is the business of philosophy. Why, then. you may ask, waste time on such insoluble problems? ...
|