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バートランド・ラッセル(著),日高一輝(訳)『幸福論』への訳者解説

* 出典:バートランド・ラッセル(著),日高一輝(訳)『幸福論』 (講談社,1972年9月刊。204pp.)
* 原著: Bertrand Russell : The Conquest of Happiness, 1930
* バートランド・ラッセル 幸福論 (松下彰良 訳)

訳者解説「ラッセルの幸福論」

 人間だれしもが幸福でありたいと思う。そして幸福への道をさぐる。

 人生へのスタートにあたって、若い人はあれこれと幸福へのコースについて思う。さまざまの人が、これこそが幸福への道だといって若い人達に説く。中には、これだけが幸福になれる唯一の道だといって、実は誘惑しよう、利用しようとして迫るものもある。

 若いときに、これこそはと思って選んだ人生コースが、年老いてから、そのバランス・シートをながめて、予想通りだったと喜ぶ人もあるし、あてがはずれたといって悲しむ人もある。あてがはずれても人生はやり直しがきかない。人生は一回勝負である。それだけに人間は、その人生のスタート・ラインに立って、自分の生涯のコースを展望し、よくよく熟慮することが必要になってくる。

 何が幸福か――そして幸福になるにはどうすればいいか。それについての見解は、人おのおのもまちまちである。
 本能のおもむくままに享楽することが人生の幸福だというものがある。しかし、そのような人は、人間にそなえられた他の幸福の条件を見落とし、人間の性能をスポイルし、やがては不幸に陥るだろうと説く者もある。
 この世で名利を得ること、いわゆる立身出世をすることが、幸福なことだと勧めるものがある。しかし、人間が生きがいを感じるのは名利によってだけではない――愛に生きたいと願い、仕事に意義を見出したいと思う存在でもある、いくら名利を得ても、愛を失い、人生に空虚感をいだくようになれば、それは不幸である、と教えるものもある。
 幸福はこの神だけを信仰することにあり、この教団に入会することだけにある、といって勧誘にくる宗教がある。その神はつくりごとだ、その説くことは迷信だ、その教団は企業でやっている、真の救いと幸福はこちらだけにある、と宣伝する別の宗教がやってくる。

 さらには、幸福でありたいなどと望むその心が間違いである、幸福であろうなどということは神を冒涜する行為である、と説く哲学者、宗教家も存在する。

 ともあれ、幸福論は百花繚乱である古来、幸福についてほど論議がたたかわされ、言説が遺された例は少ない。それは、幸福が人間の本質にかかわるものであり、年齢、性別、人種を超えて、あらゆる階層にわたる共通普遍の問題だからである。
 こうして、わたくしは、幸福についていろいろ思いめぐらすとき、バートランド・ラッセルの幸福論を知ることの価値が、いかに大きいかを想うのである。


 ラッセルは、「真実を求め、真実に生き、真実を語る」ことを生涯のモットーとしていた。その語ることが真実でなければ、そこから学ぼうとする意味が無くなる。彼は真実を語るだけでなく、その日常の生活において自分を裏切らなかったし、自分の使命とする平和運動においても、投獄をも辞さない、権力の圧迫にも屈しない、どんな迫害をもものともしない、つねに生命をかけてという覚悟で挺身していた。
 わたくしは、幸いに、ラッセルという人間にじかに触れる機会にめぐまれ、運動を共にし、導かれ、薫陶をうけることができた。1959年から1962年までのロンドン滞在を通じてであったが、その後も毎年のように渡欧するごとに、ロンドンのハスカー・ストリート43番地のラッセル邸で、その謦咳に接して来た。ラッセルが、97歳でその生涯をとじる前年までつづいた。接すれば接するほど、知れば知るほど、一層その人間性の深さと偉大さを知らされるラッセルであった。
 ラッセルから学ぶことの意義の大きいことを説いた人にアインシュタイン博士がある。アインシュタインはこう言った――「われわれは、ラッセルを理解することができるようになるまでわれわれ自身の知性を高めなければならない。ラッセルはそれほど偉大な人類の英知である」と。ロンドン・タイムズ紙は、こうラッセルを讃えた――「ラッセルは、500年に1人出るか出ないかといわれるほどの偉大な人物である。もし、彼をけなすものがあるとすれば、それはラッセルを知らないからである」と。
 ラッセルは、数学者としては、『プリンキピア・マテマティカ』の大著によってその権威が認められ、論理学者としては、その記号論理学の創始によって専門の学者達に感謝され、科学者としては、その功績によって国連からカリンガ賞を贈られ、哲学者としては、その『西洋哲学史』や『西洋の知恵』等によって声価を高め、今世紀の英国哲学界の主流と仰がれた。さらには、その幸福、恋愛、結婚、道徳に関する諸論をはじめ、社会思想一般に関する論述の業績が評価されて、ノーベル文学賞を授与された。

 そのラッセルの説く幸福論が、いかに傾聴に値いするかがわかろう。しかも、ラッセルの言うことが、読む者、聴く者の胸に感動をおぼえさせ、万人にアピールするのは、彼の声が一人の「人間」としての叫びだからである。ラッセルはつねに語っていた――「わたくしは英国人として言うのではない。哲学者として言うのでもない。一箇の Human being(人間)として Human-being に呼びかけるのである」と(松下注:この言葉は、主として核兵器撤廃運動に関連してのもの)。ラッセルは英国人として、英国の伝統の中に生をうけていながら、インドやジャマイカやアフリカの黒人たちとも、何のわけ隔てなく交わった。ベッドフォード公爵という英国一流の家門の出で、伯爵を継承した貴族でありながら、つねに弱い者、貧しい者、虐げられた者の味方となって、かれらのために献身的に力を尽した。
 ラッセルの主張と行動のモチーフはヒューマニズムにあった。しかもその内奥にもえているのが愛であった。彼は、「愛がなければ何ものも人間の魂にふれることができない」と親友ギルバート・マレイに書いた。「世界が必要としているもの――それは愛である」と、米国コロンビア大学での講義(1951年)の最後の結びのことばとして言った。隣人を愛せよとキリストがいったような愛、慈悲の心と釈迦が説いたような compassion(慈悲)、生存のモチーフとしての愛、行動のガイドとしての愛、勇気の源泉としての愛、知的廉直のために絶対に必要な愛――そうした愛をこそもたなければならない、と説いた。「愛と創造こそが人間であることの本質であり、人間をつくる教育の最高原理でなければならない」と言った。
 ラッセルはそれを実践した。彼が第一次世界大戦に際して、非戦論を唱え、青年たちが徴兵にとられることに反対して徴兵拒否の運動を展開し、ケンブリッジ大学の教壇を追放され、罰金刑に処され、海岸地帯への立入りを禁じられ(=松下注:敵国ドイツとの通信を防ぐため)、けっきょくは6ヵ月間の投獄となったのも、「権力争奪のため仕組まれた戦争によって、青年たちが犠牲に供されないため……」、「愛する若人たちの生命をまもるため……」であった。第2次世界大戦後に展開した「戦争放棄――世界政府」の運動も、その後の「核実験反対――核兵器撤廃」の運動も、「人間の生命を損わないため…」、「人類を滅ぼさないために…」であった。「All humanity should have a Future. (全人類は未来を持つべきである――滅ぼしてはならない)」、さらにまた、「It is not acceptance of war, but resistance to it, which is imperative if we are to survive. (もし、われわれが生きのびようとするならば、どうしてもしなければならないことは、戦争をうけいれることではなくて、それに抵抗することである)」が、生涯叫びつづけた彼のスローガンであった。

 

 ラッセルは、自国の同胞をまもるためにという口実で、他国の同じ人間の生命を奪うことは許されない、と説いた。「たとえ国はちがっても、人間の生命を殺害した者が英雄として仰がれ、勲功あるものとして銅像にされ、神にも祀られるのは間違いである。人間に生の歓喜をもたらし、人間の平和と創造の本性を発揚させる人こそ、感謝され、讃えられなければならない」とした。英国に例をとれば、讃美されるべき人は、ネルソンやウェリントンではなくて、シェークスピアやダーウィンであるとした。ラッセルは「輝く美と、すばらしい光栄の世界を創造する力を発揮する者、そして平和をもたらす力を発揮する者、すなわち、聖者、予言者、詩人、学者、作曲家、画家等こそが理想的人間像である」とした。
 しかも、われわれは、ラッセルの所論もさることながら、波乱をきわめた彼の生涯そのもののうちから、幸福のあり方と、それを求める求め方を学びとることができると思う。そこにこそ、またラッセルの魅力があり、彼のライフの価値があるように思う。
 彼は、英国の最盛期、ヴィクトリア王朝の総理大臣を2期勤めたジョン・ラッセル伯を祖父として、幼少時代をその祖父母のもとで何不自由なく育った。しかし、2歳にして母を4歳にして父を亡くした。それが、彼に人生の暗さと冷たさと悲哀をもたらす因となった。ケンブリッジ大学に入学する前、クラマー(速成塾)にやられていた頃、「黄昏ちかくになると、ニューサウスゲートから野原に通じる一本道を歩いて、日没を見ながらよく自殺を考えていた」と自叙伝にあるように、事実、彼はいくたびか自殺しようとした。その彼を救ったのが「もう少し数学をやってみたい」という意欲であった。ラッセルは、こうした何かにそそぐ熱意というものが、幸福の扉を開く鍵であると言っている。

 最初の妻アリスとの婚約中のことである。ラッセルは、これから迎える結婚生活と、やがて生れてくるだろう子供のことなどを考え合わせたとき、'てんかん'だった父、発狂した叔父、自殺者を出した自分の血統について、悩み恐ろしい夢魔におそわれて眠れない夜もしばしばだった。「秘密の日記」という表題の彼のノートには、こう記された(松下注:秘密にしたいにもかかわらず、「秘密の日記」などという標題を書く人はいない。実際は、Greek Exercise(『ギリシア語練習帳』)というタイトルになっていた。)――「何かしら不吉な運命が、わが家にのしかかっているのを感じる。遺伝の恐怖が、わたしの心を圧迫する。わが家の幽霊の怖ろしさにとり憑かれている。それが、眼に見えない、しっとりとした冷たい手でわたしを捉える。わたしが、こうした陰惨な伝統からのがれようとすると、それがやにわに復讐してくるように思われる。ペンブローク・ロッジは、わたしにとって、狂える幽霊にとりつかれた地下納骨堂である…」と。そして、彼は、自殺によって自分を解放するほかはないと考えた。「プリンキピア・マテマティカ』の大著と取り組んでいた頃も、難解な抽象理論を扱うのには力が衰えすぎたと感じ、苦吟し、悲観し、それに、アリスとの不和がかさなり、死を思いながら、深夜、鉄道の上の歩道橋に立ったりした。そのラッセルをして、自殺を思いとどまらせたのは、「そのうちには、この『プリンキピア・マテマティカ』も完成できるかもしれない」という一縷の望みであった。ともかくこのように、取り組む仕事があるということが救いになるものであり、そこに幸福のいとぐちがある、と彼は説く。

 彼が、妻アリスとの別居生活中、オットリーン夫人(右写真参照)を心から愛し、それをアリスにうち明けた時、アリスは、嫉妬にかられて、スキャンダルとしてオットリーン夫人の名を公表すると云い張った。ラッセルは、愛するオットリーンに汚名を課したくない、彼女の名だけは出さないでほしい、とアリスに懇願した。それでも、アリスは聞き入れようとしなかった。その時、ラッセルは、最後にアリスにこう言った「あなたがいくらオットリーンの名を出して手続きしようとしても、それは不可能になる。ぼくが自殺するからだ」と。ラッセルは、「あのときは、本当に自殺するつもりだった」と日記に書いているし、アリスやオットリーンも、もちろんそう信じたし、ラッセルと親しかったウェッブ夫妻(フェビアン協会創始者)もホワイトヘッド博士(『プリンキピア・マテェマティカ』の共著者)夫妻も「ラッセルは本当に自殺しただろう」と言っている。ラッセルは、たとえ、自分の生命を失っても、愛する者の名を傷つけまいとすることに、幸福を見出していたわけである。
 それと同様に、彼は、一瞬の幸福のために、全生涯をかけても惜しまないという、強い情熱をもった人間でさえあった。ラッセルは、「私は何のために生きてきたか(What I have lived for)」の一文中で、こう述べている――「最初わたしは愛をもとめた。愛の喜びがあまりに大きいので、しばしば、わたしは、たった2,3時間の愛の歓喜のために、そのあとの全生涯を犠牲に供しようとしたほどである」と。

 投獄されるということは、普通の人なら不名誉なことであると考えるし、獄中にある苦痛に耐えかねて、何としてでも速く釈放されたいと望む。ところがラッセルは、平和と正義の行動のためにという信念から、投獄を、すこしも恥とも苦痛とも感じていなかったし、獄中にあっても、その生活態度は平常と変りなかったし、資料や参考書の思うにまかせないところで、『数理哲学序説』(An Introduction to Mathematical Philosophy)の貴重な著述を完成し、『精神の分析』(The Analysis of Mind)の執筆に着手した。それに、彼はきちんと日課をつくって、家庭にあるときと同じような几帳面な生活をつづけた。しかも、誰もが忌み嫌う刑務所内の暮しであるのに、それをかけがえのない自分の人生の一こまと思い、そこを仕事の場とし、同時に憩いの場ともし、その中に楽しみを見出したのである。彼は、兄フランクヘの手紙にこう書いた――「ここでの生活は、ちょうど外国航路の定期船の中と同じです。神経と意志の休息は、まさに天国のようです。刑務所というところは、カトリック教会よりも優っています」と。そして、愛人オットリーン夫人へは、こう書き送った――「牢獄にいても、いろいろの心象がおとずれてきます。早朝に、露の光のきらめく高原に牧草の芳香を放っているアルプス山中のイメージ。山から下りてきて最初に見えるガルーダ湖。濃藍の海。そして雷雨の地中海。はるか彼方の空に、日光に映えてそそり立つコルシカの山々。日没のシシリー島。それらは、あまりにも魅惑的で、とてもこの世のものとも思えない。スコットランド西部のスカイ島の或る沼のギンバイカの芳香。24年前、パリの街頭で、綺麗な緑の朝鮮薊(あざみ)を売っていた男の呼び売り声――それが、ちょうど昨日のことのようにぼくの耳に聞えてくる。このように心が自由であるのに、身体だけ獄中にしばりつけておいて何になろう。ぼくはこう解していても、心でチベットや中国やブラジルに行って来ている。ぼくは自由だ。そして世界もいまに自由になろう」と。

 普通の人から見れば、不幸の身の上として映ずるラッセルの獄中生活も、それが幸福でなかったとは誰も言えないわけである。

 ラッセルには、家庭的にも恵まれない寂しい人生の旅路がつづいた。アリス、ドーラ、パトリシアの3人の夫人とも、離婚の悲哀をくりかえさざるを得なかった。そして、晩年にいたるとともに、いよいよ悲愁が深まっていった。

「わたしの心の最も深い底にある感情は、いつも孤独のままだった。そして、ついぞ人間の世界に仲間を見いだすことができなかった。海、星、荒涼たる広野の夜風、そこに友を見出そうとしてさまよった」
と彼は述懐した。そのラッセルも、齢80歳にして、美しくやさしいミス・エディスと恋愛し、やがて結婚した。彼の人生もやすらぎと幸福にめぐまれ、最後を全うすることができた。彼はエディス夫人に、次のことばを贈った。(To Edith)
「今、老いて、そして人生の終わりにきて、わたしはあなたを知った。そしてあなたを知って初めて、法悦と平和を見いだした。あの長い寂しい年月を経て、わたしは、いま、ようやく安らぎを得ている。いま眠りにつくとすれば、わたしは、心満たされて眠ることだろう。」

 ラッセルは、幸福は自ら求め、努力して獲得するもの(The Cuquest of Happiness)とした。けっしてたなぼた式にむこうからころがりこんでくるものではないといった。ラッセルは、多くの人々が、幸福というものについて考え違いをしていたり、惑わされたりしているのを黙視することができないとして、幸福であるとはどういうことであるか、また幸福になるにはどうしたらいいか、つまり「幸福の秘訣」を説こうとした。それが1930年に書かれた The Conquest of Happiness (『幸福の獲得』)であった。あえてここに Conquest(征服)(松下注:「征服」というより、「努力して克服して獲得」)ということばを用いたのは,努力してかちとるという意味を表わしたかったからであった。人間は、不幸、病気、心理的なさまざまの悩みにおそわれるし、この世の中は、闘争、貧困、悪意等に満ちているので、そうした悪条件を克服して幸福にいたる道を発見するために、努力しなければならないわけである。それにはどうしたらいいか。それを、ラッセルは、この書において、順序だてて論述しているのである。
 その主なポイントここにかかげてみよう――

 まず、内向的、閉鎖的にならないで、できるだけ目を外界に向け、興味をできるだけ幅広いものにすることがたいせつである。そして、関心をもつ人や物にたいする反応を、敵対的ではなく、友好的なものにしなければならない。さらには、すべてに積極的な熱意をもつことが必要である。それによって、自分の心をうちこむ対象をつかめるし、また、人生をかけるほどの進取の気性が生まれてくる。
 愛しうる人、そして人から愛される人、すなわち、愛に生きることのできる人は幸福である。そこから、自信が生まれ、仕事へのはげみが湧き出てくる。その反対の人は、退廃的になり、憂鬱症に陥り、やがて空間恐怖症にとりつかれる。その反動で、他に危害を及ぼすような凶悪犯罪をすら、おかすようになる。
 創造的な活動をすること、そして、自分の仕事に喜びと意義を見出して、それに熱中することがたいせつである。幸福の泉がそこにある。そこに価値を発見した時、貧困もいとわなければ、迫害をも恐れない。芸術家の喜びもそこにある。革命家の献身も、こうして可能になる。しかし、愛も献身も、計算されたもの、功利的なもの、目的が他にあるようなものであってはならない。それは、けっきょく自らを惨めにするだけである。最後は不幸になる。
 真実でなければならない。自分に真実であるとともに、他(人)に真実でなければならない。真実のないところに幸福感は生れないし、他を幸福にしないではおのれの幸福もない。真実をこめて他の幸福を想い、他を幸福にするところにこそ、真の幸福がある。
 自分の生命の流れや、自分の住む環境を、わずか数十年の期間や、その期間に動く範囲だけに限ってはならない。幸福な人とは、自分の生命の流れを、自分の子からさらに子孫へつらなっているものとうけとり、悠久の過去から永遠の未来にわたって実在する宇宙をみつめることのできる人のことをいう。そして、住む世界を、小さな身辺、限られた国境にとらわれることなく、地球を単位とし、字宙を舞台として生きることのできる人のことをいう。自分を宇宙の市民と感得し、その賦与する展望と喜びとを、自由にエンジョイすることのできる人のことをいう。そのためには、知的独立性とともに、創造的知性世界的知性(=国際性)を培わなければならない。
 自分の生命を、普遍的生命の中へ融合させていけば、次第に、悩みにとらわれることからも、不安と無知の恐怖に苦しむことからも解放されるようになる。そして、さらには、人間の不幸を大きく支配している死の恐怖をも克服することができる。
 人間は、自然の創造物である。自然を離れて、人生はあり得ない。自然を理解し、自然を愛するところに、幸福の源泉がある。
 人間は精神的存在であるばかりでなく、動物でもあるわけだから、生理的関係を無視したり、蔑視してはならない。Vitality(生命力)が、すべての基礎であり、健康であることが幸福の第一義でなければならない。そして、本能的な健康生理的な幸福を劣等視してはならない。また、人生の幸福の大きな部分を占めるものに、趣味と嗜好がある。その楽しみは、それをもたないものには理解ができないが、それを楽しむ人間にとっては、深い幸福感の泉である。
 いたずらに、既成観念をおしつけたり、因襲的なモラルをふりかざして、生きた人間を支配してはならない。また、そのコンヴェンショナル(因襲的)なものに、盲従してもならない。立身出世をしたり、或は権力と財力をほしいままにすることが、幸福とはかぎらない。たとえ、表面は成功したかに見えても、実際は不幸に悩み、厭世自殺をはかったり、夢魔にうなされたりするものがあとを絶たない。
 家門や階級にとらわれて、幸福観をゆがめているものがある。哲学思想の立場から、幸福を独断的に概念づけているものもある。
 古のストア学派のごときは、禁欲主義を説き、幸福を下品なものとして非難した。幸福を説いたエピクロスが、豚の哲学だといって攻撃されたりした。マルクス・アウレリウスは、幸福を説いたからという理由で、キリスト教徒を迫害した。ドイツ観念論を継承する哲学者たちの間にも、この傾向をもつものが少なくなかった。英国のカーライルにしても、その亜流となって幸福を軽蔑し、神に祝福されるためには幸福を否定すべきだとした。
 一般に、倫理学者や道徳主義者は、幸福ということを、あまりに厳粛に考えすぎ、理論的に扱いすぎる。何か崇高な聖域のようなところを想定して、そこに到達しなければ幸福はあり得ないといった説き方をする。多分にドグマに陥りやすい。
 宗教の独断も同じである。たとえば、回教は、神はアラーだけ、その居るところはメッカだけ、それ以外に神はないと説く。だから、地中海沿岸の信徒には、東方に向って拝礼させ、インドやインドネシアの信徒には、西方に向って拝礼させる。ユダヤでは、唯一の神はヤーべ(エホバ)だけであり、エルサレムの神殿だけにしかいないと説く。ユダヤ人だけが、神の選民である。この両方の教えを客観的に眺めると、たった1人しかいないはずの神が、2人いることになる。どちらかが間違っているか、虚構ということになる。既成の宗教の多くは、こうしてドグマから発し、神をも、形式をも、制度をもつくり上げた。そして人々におしつけてきた。教団は、幸福はここだけにしかないと宣伝する。信徒も、幸福はそこだけにしかないと錯覚する。そして、そこにすがりつく。こうして、宗教企業が成り立つ。しかし、真の幸福は、そうした嘘と迷信と企業から解放され、自然の創造物としての人間の真実に生きるときに獲得できる。それから、幸福のためには、個人の生理的、心理的要因のほかに社会的要因も考慮しなければならない。すなわち、社会機構に関する問題、政治経済上の矛盾とその解決に関する問題、戦争と平和に関する問題等がある。その見地からすれば、人間の幸福に対する障害となる経済的独占をくい止めることや、軍備拡張、侵略、戦争を止めさせることや、解決しなければならない具体的な問題がいろいろある。しかし、ラッセルの『幸福の獲得』(The Conquest of Happiness, 1930)においては、そうした社会的な要因は、一応別の論著(松下注:Education and the Social Order, 1932: 鈴木訳『教育と社会体制』、明治図書)にゆずって、もっぱら個人の心理、生理、生活の観点からの幸福の追求が説かれている。
 ラッセルが、The Conquest of Happiness を書いたのは、彼の齢58歳の時で、その頃ラッセルは、教育の理想を実現しようとして、ビーコン・ヒル・スクール(松下注:Beacon Hill School という幼児学校)を経営していた。人間のあり方、幸福な人生への導き方、理想的人間像の形成に向って情熱をかたむけていたのであるが、他面、その教育方針に対する世の中傷、非難とも闘わなければならなかった。教育に精魂をつくしながらも、しかも同時に、その経営のための財政的困難とも闘わなければならなかった。彼は友人達に支援を懇請した。H. G. ウェルズに、無心の手紙を書いたのもこの頃であった。
 そうした事情もあって、ラッセルは、できるだけこの書をポピュラーなものにしたいと考えた。疑わしい概念や、学者的な用語は、つとめて避けた。誰もが読み、考え、理解することのできるものにしようとした。そして、年齢も、教養も、階級も異なる一人一人の人間が、最も身近なところで幸福をつかむつかみ方を、わかりよく説こうとした。人間性の極致、愛と悲しみの深さ、社会の矛盾とその解決等、ありとあらゆる人生問題と取り組んで円熟の境地に達したラッセルが、誠実こめて、一人一人を幸福の門に導こうとした。しかも、ラッセルをしてそうさせずにおかなかったのは、モラルの混迷にあえぐ大衆への同情であり、真実と幸福の人生を目指してスタートする若人たちえの深い思いやりであった。