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バートランド・ラッセル『結婚論』への訳者(後藤宏行)あとがき

* 出典:バートランド・ラッセル(著),後藤宏行/しまねきよし(共訳)『結婚論』(みすず書房,1959年8月刊。252+iv pp)
* 原著:Marriage and Morals, 1929
*(故)後藤宏行氏及び、しまねきよし氏略歴

 わたくしは、この書物を翻訳する際に、キリスト教用語の不明なものが多かったので、カトリック信者の友人を通じて、教会の神父に教えてもらおうと思い、仲介の労をたのんだが、その外人神父は
「なんですって、ラッセルのものを訳すんですか。小説や文学論ならまだしも、結婚や道徳などという、いちばんたいせつな問題を、そうかるがるしく論じるのは、もっとも恐ろしい罪になります。貴男はなぜ、ラッセルなんかを訳すお友だちを知っていながら、その罪をおかそうとするお友だちの行為を止めてあげないんですか・・・。」
 このひとことに、気の弱い我らが信者君は、それ以上頼みこめなくなって引き退ってしまったそうである。
 この神父氏のことばは、ラッセルがヨーロッパの因習的な道学者連中から、今(=1959年)なお、どのようなあつかいをうけているかを如実に物語っているようだ。すでに第1大戦中、参戦拒否運動のカドで投獄され、母校ケンブリッジ大学の講師の職を追われていたラッセルは、この書物の出版前にニューヨーク市立大学の教授の職が約束されていたにもかかわらず、ふたたびこの書物の急進的な主張のためにその実現がはばまれるにいたったという、いわくつきのエピソードをもっている。(松下注:1940年にニューヨーク市立大学教授のポストにつけなかったのは、1929年に出版されたこの Marriage and Morals が大きな原因の1つではあるが、その間に10年以上の開きがあり、「この書物の出版前にニューヨーク市立大学教授の職が約束されていた」というのは、後藤氏の勘違いと思われる。)その後のラッセルは、一貫して著述家としての生活をおくってきたが、彼の生涯や、さらに最近の動向については、このシリーズにも、第1巻の『自伝的回想』や、各巻の訳者たちによってものべられているので省略することにして、この書物から受けた私たち訳者の印象をつけくわえて、あとがきにかえたい。

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 この書物を翻訳するという仕事の過程のなかで、訳者の口から一様にでてきた嘆息は、ラッセルの主張にショックを受けたということである。この書物は初版が1929年、まだ訳者が母親の胎内に宿るよりも以前の話である。その頃すでにラッセルは、今なおあたらしい、そして未だに解決されていない数多くの問題を提出し、主張したのである。戦時中の教育を受けてきたわれわれは、ようやく戦後になってはじめて、ラッセルがここで提出しているような、数多くの問題点にぶつかり、ラッセルと同じような急進的な主張を私たちも持ちつづけてきたし、若い世代の名誉のためにも、肩を張って実行してきた。しかし、すでにわれわれが生れるよりも前に、今から30年も以前に、イギリスの穏健な(あえて私たちはこう言いたいのだが)一哲学者によって主張されていたという事実は、私たちにとっては驚異以上のものであった。しかし、こうした問題が、現在ようやく日本でとりあげられるようになったという現象は、何も日本社会の後進性の故ではなさそうである。日本でも早くから、すでに1900年前後に女子の高等教育機関が、次々に開設され、真新女性の解放運動が日ましに高まっていた時代を、過去にもっているのだ。たとえば明治33年(1900年)の『婦女新聞』に「枯葉女」と称する一女性が、
「わらはは、幸か不幸か御国ぶりの教へよりも、海のあなたの書どもを多く学びたりき。従ひて男女の関係につきても、こなたの古きならはしをいと飽かぬ事に思ふなり。妻は夫の所有物のやうにて、互の関係主従の如き奇観ありとは、かつて本社の社説にも見えたりし所にて、まことに、此一つは御国のためいともいとも口惜しき事に思ふものなり……到底楽しき家庭を作るべき見込なくして、漫りに結婚の大典をあぐることの一大不徳義なることも知れり…。」

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と投稿し、男性の横暴を正すためには、女性が結婚を拒否すべきだと主張している。もちろん、この主張に対して「不婚 は普遍的妥当性(アルゲマイネルギルチッヒヵイト)の徳義からは、民族を絶亡させる故罪なり」というよう奇妙な反論がだされ、『不婚論争』という特集シリーズが翌年まで続いている。また、わたくしは最近、平塚らいてうの『わたくしの歩いた道』を読んで、すでに女史と奥村博史とが大正2年(1914)、ラッセルの主張する婚外関係を、周囲のあらゆる反対と圧迫をはねのけて勇敢に、身をもって実行し、貫徹した誠実さに感激した。その時の決意を女史は、次のようにのべている。
「いうまでなく、私たちは愛するもの同志なので、日本婚姻法に定められているような夫と妻との関係ではありませんし、また、あってはならないのです。自分が納得しえない法律で自分たちの共同生活を承認し、また保証してもらわなければならないなんて、そんな矛盾した、不合理なことができるでしょうか。私は、もし私が結婚届けをだせば、それは現行の結婚制度を私が認めたということになると思ったのです。法律結婚をしないことが、この時代として可能な唯一つの抵抗であったので、私は最初から規制観念の伴う結婚ということばを使うことさえ避け、とくに共同生活といって、はっきりそれを区別したのでした。」
 こうした枯葉女史や平塚らいてうたちと同じような主張を、いまもなお、くりかえさねばならぬという事実は、私たちを悲しませずにはおかないだろう。現在のイギリスで、どのような性道徳や結婚観が社会的に認められているのかを、わたくしは知らない。しかし、ラッセルもふれているような同性愛にたいする社会的偏見が、法律の世界でのぞかれたのは、ごく最近の(それも、たしか去年の暮か今年のことだったと思うが)ことらしいから、イギリスにおいても、やはり日本とおなじような、古い偏見と因習がいぜんとして現在もなお、支配しているのではなかろうか。だれでもが一度は、青年時代に思想や人生についての深い関心をもつ時期を経験しているが、そうした関心の糸口になるものが、大部分は性や愛に関する事件をきっかけにして生じてくるものだ。ところが、ひとたび恋を獲得し、家庭が社会機構のなかに組み込まれるようになってしまうと、大部分の人たちは、そうした思想への関心を喪失してしまうし、またたとえ、青年時代のそうした関心を中年以後にも持ちつづけている人たちも、ひとたび性にかんする問題にでっくわすと、にわかに硬直して反動的な立場にたつことが多い。こうした傾向は専門の思想家や、進歩的な運動のリーダーといえども、ほとんど例外は少ないようである。思想や人生への案内者であった「性の問題」が、常にこうして裏切られているという事実は、いかに思想の肉体化が難しいかという、よい例ではなかろうか。

 ラッセルの主張が、いまなお、新しい生命をもっているということは、たとえ生活様式が和服から洋服へ、米食からハウザー食へ、昼からスマートなリヴィング・キチン・ルームに移行しても、また、テレビや電気洗濯機、冷蔵庫のたぐいが普及して、家庭のオートメ化がすすんでも、いぜんとしてそれらの物質文明をささえる思想や生活感情には、なんの進歩もないという事実を、如実にあらわしている悲しむべきバロメーターである。ラッセルの提案が意味をもつような社会は、せめて、わたくしたちの時代でおしまいにしてしまいたいものである。そして、枯葉女史や平塚らいてう、ラッセルたちの肩をはった、実践や主張がほほえましい語り草として、わたくしたちのこどもや孫たちに語りつぐような時代をつくるよう、私たちは読者のみなさんとともに、今いちどこの問題を考えなおしてみよう。(右:1956年に河出書房から出版された大場正史訳・編『現代社会と性』の表紙画像/ラッセルの『結婚論』の序論が収録されている。)
 ただひとつ、ラッセルに対する不満をのべておくと、彼の結婚観や性倫理の見通しが、あまりにも楽観的なことである。たとえば、彼は、これほど急進的な主張をしながらも、なお、子どものない夫婦は意味がないとまで断言してはばからない。しかし、われわれの世代の友人たちを見回してみると、結婚はするがこどもはうまないと宣言する人たちが、以外に多いことにおどろくのである。ラッセルは、子どものない男女は、本質的には社会にたいして責任を持てないと主張する。しかし、われわれの友人は、現代の社会状勢のもとでは、生れてくるこどもに責任を持てないと主張するのだ。(松下注:FAQのページに書いたように、後藤氏を始め、少なからぬ読者が誤読していると思われる。詳細は、FAQ回答を参照)現在のラッセルは、原水爆禁止運動の強力な推進者としても有名だが、そのラッセルが、1920年代の楽観的な立場とどうつながっているのかは、興味のある問題だが、しかし、責任を持てないから、子どもを生まないという論理は、ある意味で、明治の女性たちが、男性の横暴にたいして不婚宣言をしたように、ある種の消極的な抵抗の手段であるかもしれない。こうした考え方もまた、古い時代のほほえましい語り草にされてしまうような社会を、私たちはつくらねばなるまい、

 本書は、序文~第13章を後藤が、第14~21章をしまね・きよしが担当した。
 なお、私たちと編集部の間にたって、種々御心労をわずらわした市井三郎氏には、ここでお詫びをしておきたいと思います。もちろん、この仕事は氏のおすすめによるものです。
 最後に、キリスト教の諸行事については、牧師、伊藤啓次氏にいろいろと教えをいただいた。また、カトリックの行事については前述のカトリック信者の友人から種々の教唆をうけたことは、立場をこえた思想の理解につとめようとする、若い日本のキリスト者一般の名誉のためにも、つけくわえておかなねばなるまい。
 1959年7月 訳者