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バートランド・ラッセル(著)『教育論』への訳者(堀秀彦)解説

* 出典:バートランド・ラッセル(著),堀秀彦(訳)『教育論』(角川文庫,1954年7月。336pp.)
* 原著:On Education, especially in early childhood, 1926.
* (故)堀秀彦氏略歴
* 堀秀彦氏講演

訳者解説


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 これはバートランド・ラッセル『教育論』>(B. Russell, On Education, espacially in early childhood, 1926)の全訳である。45年も前に書かれた教育論をなぜ翻訳出版し、その一読をすすめるのか?


 もちろんその第1の理由は、この教育論がきわめて平明でわかりやすく、しかも教育ということについて根本的な問題とそれについての解答を随所に呈示しているからだ。そして第2には、今日私たちが教育の問題について右往左往していろいろな意味で混乱しているからだ。教育という問題は、きわめて日常的な事柄であり、それだけに地味で、一見興味のうすい問題のように思われる。その上、教育ということについては、誰も彼もそれぞれ一家言らしいものをもっている。言いかえれば、私たち普通の「おとな」は、教育とは一体どういうことなのか?、それをあらためて考えてみることもしないで、しかも自分では教育のことをある程度わかったつもりになっている。実際、今日しばしばとり上げられる「教育ママ」と呼ばれているわが子の教育にことのほか熱心な母親たちが、一度でも教育原理や教育学やあるいはさらに教育哲学の本を一読した上で、あんなに教育について熱をあげているのであろうか? とても、そんなふうには思えない。つまり、私たち「おとな」は、教育については、言うまでもなくアマチュア(素人)であるくせに、まるでエキスパート(専門家)のような口の聞き方を好んでしているのだ。だからこそ私は、ラッセルのこの『教育論』のような本を、できるだけすすめたいのだ。

 ところで、著者のB.ラッセルがどのような人物であったかということについて、読者がまるっきりなにひとつ知っていないなどということは考えられない。今世紀最大の哲学者のひとりであり、ノーベル賞の受賞者であり、しかも何よりも偉大な平和主義者として、昨年(1970年)の2月、98歳の高齢で亡くなるまで、核兵器撤廃運動のために、さまざまな方法で全世界に呼びかけ、実践的に行動した人物であるといったことについては、読者はすでに知っているにちがいない。その上、B.ラッセルについて書かれた本は、すでに、相当数、出版されている。その『自叙伝』(全3巻。日高輝一訳)も逐次刊行されている。あるいはまた、『自伝的回想』(Portraits from Memory and Other Essays,1956:邦訳書は、みすず書房刊)のような興味ぶかい本も出ている。さらに、彼の生涯と作品について包括的にまた正確にかかれた『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』(アラン・ウッド著、碧海純一訳、みすず書房刊)という本も出ている。この本はラッセルという「人とその思想」を知る上にこの上なく素敵な本だ。伝記としても、またその思想をかんたんに知るための本としても、この上なく巧みにかつおもしろくかかれている。その副題の「情熱の懐疑家」(a passionate sceptic)ということばも、ラッセルその人を最もよくとらえたものだと思われる。ついでにもう1冊、ラッセルの本でよみやすくかつラッセルの人柄や思想を端的に示している本として、『拝啓バートランド・ラッセル様、市民との往復書簡-宗教からセックスまで』(R.カスリルズ、B.フェインベルグ編、日高輝一訳、講談社刊)をすすめよう。これは世界中のさまざまな人々からラッセル宛に出されたいろいろな質問の手紙に対して、ラッセルがその思うところを率直に手短かに答えたものであり、ちょっと他に類例を見ない生き生きした本である。それにしても、この本をよみながら、見知らぬ人たちの勝手な質問に対していちいちこのように返事が書かれていることについて、私はあらためてラッセルに対して尊敬と驚きの思いをあらたにせざるをえない。
 ところで、この往復書簡集のなかで、13歳のアメリカの少年が、教育の目的とは何であるか?、という質問をしているのに対して、ラッセルは次のように答えている――
「わたしは、教育の主な目的は、これまで無論のことと思われてきたことにたいして、問いを発し、疑ってかかるように若い人たちを勇気づけることであるべきだと信じております。たいせつなのは心の自由です。(中略) たくさんのことを知るということはさほど重要なことではありません。それよりも、人間は、同意したくないことには同意しないという権利と、新しい思想を開発する義務とがあることを熱心に信ずるほうが、より重要であるとわたしは思います。」
 ここには教育についての彼の考え方がたいへんはっきりと示されている。知的な好奇心とあらゆるものについてまじめに問いを発する精神とそれを本当に身につけた人を育てることが教育だというのだ。この考え方は、自由主義の教育ということをきわめてはっきりと示したものといえる。なお、ラッセルのもう1つの教育関係の著書として、この『教育論』から6年後に刊行された『教育と社会秩序』(Education and Social Order, 1932 /黎明書房及び明治図書から出されている鈴木祥蔵訳では、右の画像のように『教育と社会体制』となっている)をあげておこう。

 さてこの「教育論」はどういう状況のもとでかかれたか? それについて説明しておく。彼は『自伝的回想』のなかでこう書いている。
「私の生涯は第1次大戦勃発の前と後という2つの時期にわかれる。この戦争は私から多くの偏見を振り落とし、あらたに多くの基本的問題について考えさせた。」
 大まかに言って1914年以前のラッセルは合理主義者であった。彼の青年時代から最も愛した知識は数学であった。数学のもつ,この上ない正確さに彼は魅了された。そして1910年に彼の代表作である『プリンキピア・マテマティカ』(「数学原理」)がホワイトヘッドとの共著で出版された。合理主義者であるということは、人間は合理的な存在であり、理論によって説得できる存在である、ということを信ずることである。かんたんに言えば、人間は理性的存在だと信ずることである。いま引いた文章のなかの「多くの偏見を振り落とした」という言葉は、人間が理性的存在だというのはいままで私の抱いていたひとつの偏見だという意味を、そのなかに含んでいるように思われる。人間がもし本当に理性的存在だとしたら、戦争などという愚かで悲惨な殺戮行為をするわけがない。戦争は人間のもつ狂信や熱狂や愚昧のあらわれではないか。人間が戦争をするということは、人間が理性的存在でないことを意味する。だとすれば、戦争をさけるためには、人間を非理性的な愚かさから離脱させねばならない、そしてそれをするためには教育より他にない。(注:人間が合理主義的でないということと、哲学における合理主義の立場とは、関係はあるとしても、イコールではない。)
 ラッセルは、1920年に大きな希望をもって、ソヴィエト・ロシアヘ行った。だが、「ロシアを訪問したとき、私はそこに自分の哲学とひどく違った哲学、憎悪と力と専制的権力に基礎づけられた哲学を見出した。――私はレーニンや彼の初期の仲間たちが人類のために尽そうと思って行動したことを確信しているが、心理学や政治理論の誤りのために、天国の代りに地獄を創ったのだと思う。このことは、よき結果が人間関係の組織のうちに達成されるためには、正しい思考と正しい感覚が必要だという、私にとってきわめて重要な実物教育であった」(ラッセル著『自伝的回想』)
 人間に、「正しい思考と感覚」をうえつけるためには、人間のこころのなかから、「憎悪、愚行、まちがった信念」をとりのぞかなければならない。人間からこれらの憎悪や嫉妬や偏見などをとりのぞくためには、なによりも、人間の教育において「自由」が尊重されねばならない。このようにして、ラッセルはロシア訪問のあと1年ほど中国に滞在し、帰国して、1921年に結婚した2度目の妻、ドラ・ウィニィフレッド(=Dora Russell)と共に実験学校ビーコン・ヒル・スクール」を創設した(1927年)。計算してみると、この学校に手をつける前年、すなわち1926年に『教育論』は刊行されている。してみると、『教育論』のなかで展開されているさまざま教育計画の何分の1かはこの学校で実験されたのかもしれない。
 ところで、この実験学校は成功したか? 失敗したのだ。失敗したのは、おそらく、生徒の自由を一切合財、野放しにみとめたことによるものであろう。ラッセルはこの学校の経営のために原稿をかき講演をしてまわっただけではない。「大変な時間をついやして幼い女児に食事のしかたや便器の使いかたを教えただけでなく、自分の用いた方法を詳細に記録して、この種の問題に関してきわめて有用な助言を与えたのは、古今の大哲学者中――ロックは唯一の例外かもしれぬが――ラッセルただひとりであると断言してよい」(アラン・ウッド著『バートランド・ラッセル』p.245)
 ラッセルは貴族の出身であり、彼自身ものちに爵位をもったのであるが、貴族の出であり、身だしなみのよい彼が、このように、女の子の食事や便器のことまで、みずから手をとって教えたということを知って、私はほほえみと尊敬の念を禁じえない。だが、結局において子供たちの無制限な自由をみとめながら、同時にその子供たちを教育することは、不可能に近いことだ。(松下注:妻ドラは放任主義の立場であるが、ラッセルは最低限の規律は必要と考えていた。ラッセルは学校経営のための資金稼ぎに忙しく、生徒の教育は、他の教師とともに、主にドラが行った。)子供の自由を抑えてはいけない、同時に子供の自由を全部容認することもできない――これは新しい教育理論が今日でも当面している厄介な問題だ。ラッセルは、罰というものを一切よくないと考えた。体罰はどんな場合にもなされてはならないと考えた。だとすれば、いま言ったような矛盾「自由と教育との両立困難の問題」をどうしたらいいのか。ラッセルはこの実験教育において失敗した。だから、教育についての後年の論文のなかで、子供たちの自由を制限すべき場合を次のようにはっきりと明示している。
「清潔にさせること。約束を守らせること。他人の財産を尊重させること。安心感が得られるに足るだけの毎日のきまった日課をやらせること」
 これは明白に道徳教育である。ところで、このような道徳教育をどういうふうにやったらいいのか。ラッセルはもっぱら「習慣によって」と答えているように見える。習慣をつくり上げていくためには、一挙に規律を押しつけることは無効である。子供の心理を理解した上で、習慣形成につとめるよりほかはない。ラッセルは、教育にとって児童心理学の知識がどんなに重要であるかを十分に知っていた。心理学的知識によってのみ、子供のうちによい習慣をつくり上げることができるだろう。「涙のない道徳」(Morality without tears)を身につけさせることができるだろう。
 そしてこのようなよい習慣形成をなしうるのは、幼年期においてのみである。教育の基礎は幼年期にきずかれていなければならない。だからこそ、この『教育論』は「特に幼年期における」という副題をもっているのだ。
「私は子供時代の完全な放任主義の信奉者ではない。子供は仕事のきまった日程――それを実行しない日はあるべきだが――を必要とすると思う。また、大人になったとき、社会に適合できるためには、自分が宇宙の中心ではなく、自分の望みがある情況の中で、一番重要な要素でないことがしばしばあることを、若いうちに学ばなければいけない」(『自伝的回想』)
 ラッセルの教育思想は、この意味できわめて良識的なものである。彼の教育論のなかで、良識的でないどころか、きわめて尖鋭というか先端的というべきものは、性教育に関する点だけである。とにかく、子供は幼いうちに訓練によってよい習慣をつけさせなければならない。幼いうちに野放図もない自由をあたえるならば、結局、子供たちの世界は弱肉強食の世界にしかならないだろう。ちょうど、国際間に戦争をなくすためには強力な国際的規約が必要であるのと同じように――彼はこのように言う。

 それならば、子供の自由を制限し子供によい習慣をつけさせるのは、誰のためか。また誰がそのような教育の権威(あるいは権力)をもつことを許されるのか。教育の権威について、ラッセルは、国家、宗教(教会)、教師、父兄など、つまりいままでの教育において権力の源とされたものを、ひとつずつ批判している。この問題については、ラッセルの論文集『懐疑論集』(Sceptical Essays, 1928。東宮隆訳、みすず書房。角川文庫『懐疑論』柿村峻訳)のなかの「教育の権威対自由」を参照してほしい。とりあえず、教育の権力源としての国家について、このエッセイのなかから一言二言紹介しておこう。国家は近代において普通義務教育を実施した。それというのも、普通義務教育によって子供たちの知能の啓発されることが、国家にとってたいへん役立つことを国家が知ったからだ。これは何も外国の場合に限らない。明治以降の日本の教育も、その1つの見事な歴史的な実例であった。ところで、英国の場合はどうか。英国における民主主義について、ラッセルは次のようにのべている。
「民主主義は、政治家が考えついたものとしてみれば、政治の1つの形式、言葉を代えていえば、国民が、自分自身の望んでいるものをやっているのだと思いこみつつ、実は国民の指導者の望んでいるものを、国民にやらせる、1つの方法である。そのために、国家教育は、ある偏りを帯びてきたのである。国家教育は、青年に(できるかぎりでの話だが)、現存制度を尊べと教え、当局者について根本的な批判はすべて避けよと教え、外国の国民は嫌疑と軽侮のまなざしで見よ、と教える。―」(『懐疑論集』p.203)
 このようにして、いままで、国家、教会、教師、父兄などのように、教育権力の源泉とされてきたものが、子供自身の幸福とは、本来なんのかかわりもないものであることを、ラッセルは指摘する。それならば、どうしたらいいのか。とにかく、政治にしろ、教会にしろ、あるいはまたなんらかの道徳思想にしろ、そのどれかひとつを正しいものとして教えるやり方は必ず悪い影響を子供たちにあたえる。なぜなら、そのどれかひとつを絶対に正しいものとして子供たちに教え込むとしたら、子供たちはもはや問いを発することができなくなるからだ。彼の知的好奇心や探究心はそこで窒息してしまうからだ。教育説は子供の知的探究心をどんなことがあっても第1に尊重しなければならない。その場合、子供はどこへたどりつくことになるか。この『懐疑論集』のなかからラッセルの教育の定義を紹介して、この問いに対する答えとしよう。
「教育は、真理への可能なかぎりの一番の近道に対してわれわれを備えるべきであり、このことをするために、教育は真実をつくすことを教えなければならぬ。わたくしの言う意味の真実をつくすとは、われわれの意見を証拠にもとづいて形成し、証拠が保証してくれる度合に応じてこの意見を懐くという習慣のことである。この度合いはいつも完全な確実性には達せぬであろうから、従って、われわれはいつも以前の信念に不利な新たた証拠を認めるだけの用意がなくてはならない。」(前掲書)
 つまり、知的な誠実さにもとづく知的な柔歎性をもつということ、ラッセルはこういう態度を教育に期待しているように見える。そしてもしいま言ったような人間の態度を、よい意味の懐疑主義と呼ぶとすれば、彼の期待する人間像はまさしくそのような意味で懐疑主義者だということもできる。ついでに、一言わたくしごとをさしはさむならば、私がこの世紀の哲学者を敬愛せずにおれないのは、このような懐疑主義的精神のためである。
 問いを発し疑ってかかるように青年たちを勇気づけることが教育の目的だという。つまり、教師も父兄も、「これは絶対にまちがっていない!」といったことばを口にしてはならないのだ。教育はそのかぎり教え込むことではなくして、考えさせることでなければならない。証拠にしたがって考えさせること、それは一口で言えば、最も正当な意味で、知的教育を重んずることである。あるいは知的誠実さともいうべき知性の道徳を重んずることである。この『教育論』を貫いている一本の太い線は、この意味で「インテレクテュアリズム」ということもできる。この『教育論』は文庫本で三百数十ぺージにも満たぬ小さな本でありながら、ナースリ・スクールの教育から大学教育にまで説き及んでいる。そしてさきほどもちょっとふれた性教育の問題にもふれている。性教育については、徹底的に、性についての一切のことを科学的に教えよというのであるが、この場合、ラッセルのひとつの忠告は申し分のないものだ。つまり、性についての科学的知識はこれを幼少期に教え込め、思春期になってしまえば、科学的知識をもはや冷静に、つまり感情抜きで学ぶことができないから、という理由のために。私自身、性教育について、ラッセルのように、科学的啓蒙一点ばりを信ずることはできない。けれどもラッセル自身、思春期ではもはや性知識を冷静にうけとめえないという場合、ラッセルもどこかで、科学的知識一点ばりではうまくいかないのではないかと、考えていたようにも、私には思われる。ラッセルは3度離婚し、4度結婚している。『自叙伝』には最初の妻アリス宛にかかれた手紙ものせられている。彼は情熱の人であった。愛の人であった。「愛し、かつ考えること――それこそ人間精神の真の生活だ」というヴォルテールのことばを、彼は『懐疑論集』の巻頭にかかげている。もし性教育ということのなかに、愛の教育を含ませるとしたら、――そしてまた含ませるべきだと思うのだが――性についての科学的知識だけを教えることで、性教育が完全になるとはいえないだろう(だがこのような問題は、「性教育」(sex education)ということばをどのように解するかということにかかわっている)

 さきほど紹介したビーコン・ヒル・スクールへ、ラッセルは彼自身の2人の子供を入れている。つまりこの『教育論』は、哲学者、文明批評家であると同時に、1個の父親として、書かれたものなのだ。その点で、ルソーの場合とはかなりちがう。御承知のように、ルソーは、自分の子供を次から次へと養育院へあずけてしまい、父親であることを拒否して、彼の教育論『エミール』を書いた。考えてみると、多くの教育論はしばしばこのルソーのような立場で書かれたのではなかったか。だからこそ、それらの教育論あるいは教育学には、なんとなくよそよそしい冷たさが感じられるように思われる。実際、教育学と名のつく本で本当におもしろいと思ったものは、こと私に関するかぎり、「エミール」をおいて他にはなかった。その点で、ラッセルのこの『教育論』には、暖かさがある。子供をダメにさせる最も強力なファクターは、子供に恐怖をあたえ、恐怖を通して教えることだとラッセルが言う場合、子供を、したがってまた人間を、幸福にさせることが教育の根本的な使命だという思想が最もよく示されているように思われる。この『教育論』の第2部「性格の教育」は、平易でありさまざま実例を入れながら、彼の理想とする「人間教育」をきわめて明快に論じたものだといえる。

 第3部第18章の「大学教育」に関する彼の論述は、ある意味ではもはや今日的でないと考えられるかも知れない。誰も彼も、猫も杓子も大学へ行ったほうがいいのだと今日では考えられているが、ラッセルははっきりと「大学は特殊な能力を持つもののための特権として考えられねばならない」と、いわばエリート教育の機関として、大学を考えている。おそらく「大学」というものについての観念がここ10年ほどの間にたいへん変わってしまったということが、この問題の原因をなしているのであろう。そして、私自身についていえば、古い時代の人間としてやはりある程度ラッセルに共鳴せざるをえない。
「大学教育においては、教育学上の技術はもはや重要ではない。重要なものは主題についての知識と、それからこの主題についていま研究されているところのことについての熱心さとである」
 彼はこのように言う。だが今日の大学生たちの間にこのような「熱心さ」――いわば学問的熱心さが十分にみとめられるであろうか。
「学生たちは、怠惰によるにしろ能力の欠如によるにしろ、その時間を浪費しつつあることが判った場合には学校に止まることを許さるべきではない」
 このことばは手きびしい。手きびしいがやはり本当だと思う。彼は大学生に向かって「勉強するという道徳」を強要すべきだという。実際、「勉強するという道徳」をもしもすべての学生が根本から否定してかかるとすれば、一体、大学はどういうものになるであろうか。「大学の教師は、学年の始めに、注意ぶかく読まれるべき書物のリスト」を学生に呈示すべきだという。けれども、そうやって呈示された書物を「注意ぶかく読む」どころか、まるっきり読もうとさえしない学生たちが過半数であるとしたらどうしたらよいのであろうか。いや、解説にことよせて、いまこんなことをここでかくのは不当なことだ。それにしても前にもかいたように、今日教育の世界は混乱している。中教審は右往左往し、朝令暮改とでもいうべきありさまだ。もういちど、根本的に人間の教育ということについて考え直すべき秋(とき)だ。
 子供の教育から大学生の教育まで、同じ教育ということばで呼ばれながら、その重点のおきどころが変わるのは、当然のことである。この点について、この本の「結論」(第19章)はきわめてはっきりと次のように言っている。
「学年の幼いうちは、生徒に対する愛は一ばん大切なものである。だが、学年の進むにつれて、授けられた知識に対する愛がいよいよ必要になってくる」
つまり、生徒に対する人間愛から、知識に対する知的な愛――これが教育のたどるべき大筋だというのである。
 この『教育論』は、ラッセルのたくさんな著述のなかで、「通俗的(popular)」と呼ばれている著作の一つである。たとえば、『幸福論』とか『怠惰への礼讃』とか『宗教と科学』とかいった一連の啓蒙的な著述と同じように。つまり、この『教育論』は毛頭、専門書ではない。それは両親と普通のおとなたちと教師に向かって書かれた一般書である。私の訳はけっして読みよくはない。誤訳もあるだろう。だが、一応、教育ということについて関心をもつすべての人々が、一読してよいものだと信じている。   1971年1月