湯川さん、車いすの出席-パグウオッシュ京都会議で開会あいさつ
* 出典:『朝日新聞』1975年8月28日付夕刊or29日朝刊?
* 「パグウォッシュ京都会議開く、完全核軍縮求めて科学者ら36人が参加」
* ラッセル=アインシュタイン宣言の着想
湯川さんの英語が一語一語、区切るように、高い天井の会議場に流れる。国の利害を離れ、人類の一員として参加した科学者の目と耳が注がれる。28日、国立京都国際会館で開幕した「第25回パグウオッシュ・シンポジウム」に、「あいさつだけは」と、病をおして開会式に出た湯川さんだった。
この会議のさきがけとなった20年前の「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名し、第1回会議(1957年)に参加した、日本開催のいわば'主役'である湯川さん。午前9時15分、スミ夫人、小川岩雄立教大学教授と車で会場へ。闘病中の無精ひげが長くのび、ツエを手に車からおりたった。会館が気を使って用意した車いすで控え室へ。終始、おだやかな笑みを絶やさない。
あいさつを終え、拍手に送られたが、さすがにその表情には疲労の色が。だが、念願の大役を果たしたという満足感もただよっていた。そばで見守るスミ夫人がそっと目頭を押さえた。湯川さんが入院したのは5月末。以来3ケ月近い闘病を'完全看護'で支えたのはスミさんだった。一時は、過労で7キロ以上も体重が減った。
退院したのは12日。それからパグウォッシュをめざし、体力の回復につとめた。一番の問題は食欲不振。なんとか食事をすすめようと、スミ夫人らのアイデアで小学校1年生のお孫さんと食べ比べ。お孫さんに目のない湯川さんは、「きょうはおじいちゃんの方がたくさんたべたよ」と、顔をほころばすこともしばしばだった。時間をかけて療養するのは、スミ夫人の心遣いからでもあった。「これまであちこちから講演を頼まれても断り切れず、休まる時はなかった。この機会に思い切り休ませてあげたい。」
庭を散歩するまでに元気を取り戻したが、数日前、庭を歩いていて倒れた。幸いたいしたことはなかったが、スミ夫人をひやりとさせた。
最悪の場合は、会議への出席は全く不可能とさえいわれたが、スミさんの献身的な努力は報われた。開会式の最中も終始、大儀さをこらえている表情だった。体の位置を右に左に動かし、参加者らの気をもませたが、式が終わって外国に参加者が車いすのまわりを囲み、見舞いの言葉をかけると、笑顔をつくった。ひげ面でやや青ざめた顔。やつれと疲れが見えるだけに、会議へのひたむきな気持ちとがんばりが、一同の胸を打った。ラッセル=アインシュタイン宣言以来の友人、ロートブラット・ロンドン大学教授はあいさつのなかで、「病気をおしてこの式に臨んでくださったあなたの不屈の勇気を尊敬します。あなたの精神を必ずこの会議に生かします。」とたたえた。