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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

バートランド・ラッセル『中国の問題』への訳者(牧野力)まえがき

* 出典:ラッセル(著),牧野力(訳)『中国の問題』(理想社,1970年9月刊。347+9pp.)
* 原著:The Problem of China, 1922.
*(故)牧野力氏略歴

 訳者(牧野力)による「まえがき」(1970年10月)

 「なぜ、約半世紀前に出版された本を今頃訳出するのだろうか。」と読者に疑問が浮かぶのも無理はない。事実、この本が世に出てから、世界は変わった。中国本土には共産主義国家が誕生した。
 しかし、その疑問に答える中に、この本の今日的意義がひそんでいるように思われる。1920年(大正8年)にラッセルは北京大学客員教授として哲学の講義を行なうようにとの招待をうけ、一ケ年中国に滞在した(注:日本経由で帰英/写真は、1920年、北京に到着した B. ラッセルとドラ・ブラック。出典: R. Clark's B. Russell and His World, 1981) 滞在中の印象と所見とを帰国後にまとめて、1922年に出版されたのが本書である。(初め出版された当時、日本の学者・知識人でこれを読んだ方もいたようだ。しかし、当時、国内は、本書に示されているように、チャンコロ式中国観が横行していた。だから、これら日本人読者の所見も極く一部の少数意見だったのかも知れない。)
 さて、どんな書評を本書が受けていたか、について、ラッセルの伝記として定評のある一書から、それを引用して、上述の読者の疑問にまず答えたい。
[B. Russell, a passionate sceptic, by Alan Wood, 1957/邦訳:碧海純一訳『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』,みすず書房刊,p.206参照]
・・・。ラッセルの極東訪問の成果が『中国の問題』(The Problem of China) あるが、これは観察の犀利な点においても,年月の経過によってその価値失わぬ点においても、前者『ボルシェヴィズムの実際と理論』(The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)(邦訳書:河合秀和訳『ロシア共産主義』)にまさるともおとらぬ名著である。中国に関する現代の最高権威のひとり、フィッジェラルド教授も、本書を評して、「いかなる基準から判定してもすぐれた労作」であり、「犀利にして眼光紙背に徹する」好著だと私に話してくれた。この本でラッセルが書いた重要なことがらの中で、今までに違っていたことがわかったのは、中国は一種の連邦政府をもつようになるだろうという彼の予言だけである。(松下注:最近のチベット自治区の状況を見ると、他民族国家中国は、中央集権的な国家ではなく、連邦制にしないと安定しないのではないかと思われる。)
 本書の特色としては、読めば明白であるが、総括的に言えば、次の諸点があげられる。

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(1)英国外務省をふくめて、英国政府当局の大部分が中国に全く関心を示そうとしなかった時代に、世界情勢に対する中国の将来の重要性を、早くも力説した。
(2)世界の列強はすべて、長期的にみて、中国人の福祉と相容れない利害関係をもつから、中国の真の独立には外国の善意に頼ることができない、と忠告した。
(3)中国の自立のためには、一時的に是非愛国主義と軍国主義が必要だが、自国の独立を保全するに足るだけの国力を蓄える過程において、中国人が帝国主義に走るに足る力を得る危険も大きいから、これに反省を求めた。
(4)東西文明の対比において、中国文明肯定の側に立ち、中国人の貧欲、腐敗、無神経さを指摘する以外は、中国人のもつ白人に劣らぬ美質を認め、将来の政治経済体制の中に新しい希望として、平和的で創造的な力を発揮することに期待をかけた。
 では、かく発言するラッセルに対して、当時の中国人はどう反応していただろうか。(新島氏による巻末解説を参照されたい。)
 彼の影響は絶大であった。ラッセルの来訪によって、中国人たちはイギリス帝国主義をあえて批判するイギリス貴族の声をはじめて耳にしたものであり、中国人の立場から中国の諸問題を考える外国人にはじめて接したのである。孫逸仙(孫文)はラッセルこそ今まで中国を理解した唯一のイギリス人だと言った、と伝えられ、北京大学の学生たちも熱狂して、彼の見解をひろめるために特別な『ラッセル雑誌』(松下注:『羅素月刊』)を発刊した。…前任者 J.デューイの影響のほうは、実のところ、主として国民党に限られていたように思われる。〔上掲訳書p.211〕
 今日、日本国民が中国と中国人にどう対接すべきかという問題は、広くかつ激しく論ぜられている。その中で、戦前派、戦中派、戦後派の如何を問わず、また、現時点で、中国を警戒するか、宥和するか、追従するかのちがい如何にかかわらず、均しく、客観的に公正な過去の資料に基づき、的確な判断を下し、自主的に前向きのヴィジョンに立って、一衣帯水の隣国と悔いなき友好関係を結ぶ必要を痛感しているはずである。そして、それにふさわしい自覚と努力を欠くとなれば、次の世代にまで及ぶ重大な禍根を再び残すことになろう。その意味で示唆的である本書を虚心坦懐に通読し、足らざるを反省し、日本人の立場や能力や将来への展望から、採るべき発想は、これを生かしたい。かつて、ナチスを一辺倒に信頼し、一夜明けて、独ソ不可侵条約締結の報に狼狽し、'複雑怪奇'の一語を造語し退陣した首相の轍を踏むことのない国でありたい。

 日本の運命を背負う、戦後に生まれた若い世代の人々が、明治維新から終戦までの日本人の考え方と歩みとについて知ってほしい点が多々ある。その一部を本書が語っている。(第十章参照)
 ラッセルが中国と中国人とについて語っているほぼ同じ時期(大正年間、1920年前後)に、日本の為政者は対外政策について、何をどう考えて、どう行動したかにもふれつつ、読んでほしい。(さりとて、政策をただあげつらえばよいと言うわけではない。)
 ラッセルの語る事実、ラッセルの物の見方や考え方には、戦中・戦前の世代もふくめて、われわれ日本人の隣邦に対する心構えについて示唆する点があるはずだからである。
 ラッセルの言うとおり、西欧文明吸収の優等生「日本」は富国強兵主義の波に乗って、己れの発想や癖を丸出しにして、大陸の人々に押し付けて、結局、反撃を喰った。
 個人の「業」にも似ている国民性はむずかしい問題であるが、今後、平和を念願して、国際社会に生きてゆく時、自己の立場を自主的に守ることの当然さを相手に認めさせるためには、彼我の差を深くわきまえなければなるまい。そして、それには、人類の歩み・時の流れを前向きに考えて、反省と洞察力に裏打ちされる必要があろう。
 約半世紀前の著述で今もってその価値を失わない本書を、われわれが改めて読む意味がここにもあるのではあるまいか。

 「まえがき」の冒頭に述べたように、本書が英国で刊行されたのは、1922年であった。訳者は早くからこの書の意義を重視して邦訳を志し、原(著)出版社に照会したところ、初版刊行後絶版状態という返事を得たので、初版本によって訳了したが、1966年になって本書の再版が(英国で)刊行された。著者は「本書は、1922年に書かれ、それ以来43年の間変わらないものはほとんどなかったけれども、変更を加えず」再刊されると前置きして、次のように再版への序言を記している。
・・・。本書の大半は時局的であり、本書がすっかり変わってしまうような改訂をすれば、初めて今日の状況に適合できることになろう。したがって、本書を今日に即するように改訂するのを断念する方がよいし、また、今や過ぎし日の色あせた希望や心配の数々の記録にすぎない程度の史的事実を残すのもよいようように思われた。私には時局的でないと思える部分は大体において正しい、と今でも私には思われる。それは、特に、伝統的な中国人の性格と西欧の列強諸国民の性格とを対比した部分のことを指している。しかし、当時の中国と今日の中国とでは大きいちがいがある。当時の中国は主として日本の野心によって脅威を受けたが、これらの野心は広島の原爆によって消え去った。今や他の爆弾が中国に脅威を与えているから、原水爆以外の防衛手段を中国人が講じなければならない。不運な経験を通じて己れを浄化され、自己の英雄的行動によって己れを救ったから、中国人は成功に値する。中国人の成功を祈る。

 1965年11月9日 プラス・ペンリンにて
 バートランド・ラッセル

 本書に出る中国の地名・人名・国情その他について、(早稲田大学の)新島淳良教授に教えて頂き、また、本書に関する解説を書いて下さったこと、同教授に深く感謝の意を表し、また、多忙な訳者の遅れ勝ちな訳出に対し寛容に事をすすめて下さった理想社社長・佐々木隆彦氏にお礼を申上げる次第である。
 昭和45年10月 牧野力