新島淳良「バートランド・ラッセルと中国」(『中国の問題』(理想社)巻末解説)
* 出典:ラッセル(著), 牧野力(訳)『中国の問題』(理想社,1970年9月刊。341+9 pp.)* 原著:The Problem of China, 1922.
* 新島淳良(にいじま・あつよし、1928~2002):早稲田大学政経学部教授(当時)
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ラッセル来華(訪中)の前年(1919年)4月から中国訪問中のジョン・デューイ(John Dewey)の北京における講演を「杜威(デューイ)五大講演」(1.社会哲学と政治哲学、2.教育哲学、3.思想の諸流派、4.現代における3哲学者(ジェームズ,ベルグソン,ラッセル)、5.倫理講演/のち晨報社単行本『杜威五大講演』1930年刊)というのにならって、ラッセルの北京での五大講演といえば、(1)数学論理、(2)物(質)の分析、(3)心の分析、(4)哲学問題、(5)社会構造論、ということになる。
現在(1970年)の日本のように、200万人にものぼる大学生がおり、国民の99%が初等教育を受けており、文字文化が完全に普及している社会で、このラッセルやデューイが長期にわたって滞在していた1919~1921年の中国の思想界の状況、さらにはラッセルやデューイの講演の影響力というものを想像することは非常に困難である。そこでは、まだ文字よりも「耳による」「音」の文化のほうが支配的な世界であった。民衆の90%以上は文盲であり、大学生数はせいぜい20万前後である。しかし、耳できく講演ならば、大学を出ていなくとも行って聴くことができたし、人伝えにその内容をきいて理解することができた―知的関心さえあれば。そして知的関心がひとつの社会的熱狂ともいえる状態にあったとしたら、当代の世界的にもっとも著名な哲学者がじかに中国へ来て講演をするということの影響力ははかりしれないほど大きくなるのもふしぎではなかった。
そのような知的関心の空前のたかまりが、実は、ラッセルの中国訪問のころに絶頂に達していたのであった。
ラッセルは中国からの帰途、日本にもたちよっているし、来日にさきだって日本では松本悟朗訳『社会改造の諸原理』も刊行されており、来日中に『改造』4巻8号に「中国文明と西洋」(Chinese civilizaiton and the West)を寄せている。しかし、その日本思想界にたいする影響は、中国におけるのと比べものにならない(デューイも訪華に先立って日本を訪問しているが、やはり日本の思想界に見るべき影響を残さなかった。)これは、日本がすでに、かなり文字文化が普及した社会であったことと、もう一つは、すでに近代国家としては壮年期に入っており、明治の30年代までのような青春期ではなかったからであろう。
これにたいして中国は当時、「五・四文化革命」とよばれる疾風怒濤時代(シュトルム・ウント・ドランク)で全知識界が湧きたっていたときであった。中国の精神界そのものが青春期にあった。ラッセルを北京大学で招聘するということも、この思想革命のなかでこそおこなわれたのである。
「五・四文化革命」とは、いうまでもなく、1919年5月4日の、北京学生の日本帝国主義に抗議するデモンストレーションを記念してそう呼ばれる。現在でも中華人民共和国で、この5月4日は「青年節」として祝われている。「五・四」の名はたしかに一種の政治運動から来ているが、しかし、学生・青年たちがおこなったのは、人々の精神の革命であった。それは一言でいえば、中国の伝統的なものの考え方(伝統思想)へのラジカルな批判の運動であり、その旗印は「デモクラシーとサイエンス」「孔家店(儒教)打倒」「婦人の解放」であった。
その背景については、さしあたって次のように要約してよいであろう。
清末に発生した新しい知識階級は、辛亥革命に深い失望を味わった。なぜなら、彼らが多大の希望をかけた新共和国(中華民国)は、衰世凱独裁体制のもとで、近代民主主義の一片をもゆるさず、反対派は片端から暗殺され、死体さえあがらないことが多かったし、国会は勝手に解散され、地方各省は、実力者である軍閥(都督という官位をもっていた)の手でほしいまま搾取がおこなわれ、官僚機構は汚職の巣窟(そうくつ)であった。そのうえに帝国主義列強は、はじめ衰政府、のちさまざまな地方軍閥を援助して内戦を挑発し、なかでも日本は、第1次世界大戦(1914~1918年)のために西欧列強が一時的に中国から退いたのを機に、独占的に中国を支配しようとし、1915年には、「対華二十一ケ条」要求をつきつけ、1918年にはシベリア出兵と関連して、日華共同防敵軍事協定をおしつけた。
中国の新興インテリゲンチァは、すでに辛亥革命を経験し、その失敗、失望からひとつの共通の反省的認識ともよぶべきものに達していた。それは、真の革命のためには、単に中国人の政府をつくったり、帝制を廃止したり、国会などの西欧の制度をとりいれたり、殖産工業にはげんだりするだけではだめであって、中国の「国民性の改造」こそまず第一に着手すべきことだ、ということであった。すなわち、一人一人の中国人の心の構造を変えねばならないのだ、という共通の認識に達していたのであった。現在の日本に生きるわれわれの目から見ると、それはとほうもないことである。第1に、一国のインテリゲンチァがひとしく時を同じくしてこのような共通の認識に達するということが不思議であり、第2には「国民性」といった漠然としたものを、変革しうるというオプティミズムという、その認識内容が奇妙である。だがインテリゲンチァが一国的規模で、このようなオプティミズムで見解を統一できたということ、そのことがとりもなおさず、'国家の若さ'なのだと思われる。精神は変えうるというオプティミズムは、明らかに個人においては青春期に特有のものであろう。五・四文化革命期に、中国の知識界が、老いも若きもこのような精神界の革命に熱中したということは、中国という新興の国家が青春期にあったというしか説明のしようがない。
1915年9月、まだ袁世凱の独裁体制の強固であったときに、五・四文化革命を代表するひとつの雑誌が、上海の租界(そこには袁の権力が及ばなかった)で誕生した。その名を『青年雑誌』といい、のち『新青年』と改称する。この雑誌をはじめた陳独秀(のち中国共産党の創立に参加し、初代委員長となる)、協力者蔡元培(北京大学学長)、胡適(北京大学教授、哲学者・文学史家)、李大釗(北京大学教授、のち中国共産党の創立に参加)、魯迅、周作人(魯迅の実弟、文学者)などは、いずれも年齢のうえでは30代であった。魯迅にしても1915年当時35歳である。彼らはのち、具体的にいえば自由主義者・蔡元培が北京大学学長に就任してから、あいついで迎えられて北京大学教授になったが、当時は在野の志士たちであった(魯迅だけは例外で教育部〔文部省〕の役人をしていた)。
彼らは西欧のあらゆる近代思想を紹介し、その観点をもって、中国の旧体制を撃った。前述のように、彼らは単なる制度の変更には絶望していたから、その攻撃は直接軍閥政府に向けられるのではなく、軍閥政府や帝国主義の侵略を支える旧倫理(儒教道徳、とくに婦人にたいする封建的圧制)、迷信、旧風俗、それらの総体とし国民性の解体をめざした。彼らははっきりと「時政を批評するはその主旨に非ず」と宣言しており、思想革命をはっきり意識していた。
――五・四文化革命を代表する文学者・魯迅が、「凶人日記」(『新青年』に1918年に発表)で儒教倫理の本質を「人間を食う」ことであり、旧中国世界とは「食人」の世界にほかならないことをえぐりだしたとき、当時の中国の若者たちは文字通りの衝撃をうけた。魯迅はその後も『阿Q正伝』などをつうじて、「病態の国民性」「中国国民の魂」をえがき、評論(当時『新青年』に随感録という欄があり、そこに多く発表された)や小説「故郷」(これも『新青年』に発表)で、知識人の内にもその同じ「病態の国民性」がひそんでいることをあばきだした。
魯迅の「狂人日記」は、表現形式の面からみても革命的であった。というのは、これがはじめて口語(中国語で「白話」という)で書かれた近代文学であるからである。(松下注:写真は、魯迅の第一作品集である『吶喊(とっかん)』の邦訳。「狂人日記」「阿Q正伝」などを含む。) これよりさき、胡適(この人と陳独秀とはともに辛亥革命以前から白話の新聞の主編者だったことがあり、口語運動の実践家であった)は、旧倫理の伝達手段たる文語の廃止を要求する書簡を『新青年』に寄せていた。その主張は「文学改良芻議」(『新青年』2巻5号)にまとめられたが、それはヨーロッパの近代民族語の形成史をふまえ、言語表現形式は各時代によって異なるべきであるとし、口語文学こそ今後の中国文学の本道であることを明確に指し示していた。『新青年』はこの主張をとりいれて1917年から全誌面を口語でうずめるようになった。1919年の学生運動の高揚のさいに、学生たちは無数のパンフレットをつくって大衆啓蒙に従事したが、当然のことながらそれらのパンフレットはすべて口語で書かれていたので、『新青年』が口火を切った口語の提唱はこのときから一挙に大衆化されることになった。「五・四運動」はまた、『新青年』をまねた「新思潮」を標榜する新しい雑誌・新聞を大量に出現せしめた。『毎週評論』(創刊1918.12。以下カッコ内は創刊年月)、『新潮』(1919.01)、『国民』(同上)、『晨報』副刊(1919.02)、『星期評論』(1919.06)、『覚悟』(同上)、『建設』(1919.08)、『少年中国』(1919.07)、『少年世界』(1920.01)、『星期日』(1919.11)、『少年世界』(1919.12)、『新生活』(1919.08)、『曙光』(1919.11)、『新社会』(1919.11)、『解放与改造』(1919.09)、『平民教育』(1919.10)……これらはいずれも北京のものを例示したのだが、地方にはたとえば、若き日の毛沢東の主編した『湘江評論』(1919年7月創刊)をはじめとして、ほとんどすべての省に、いずれも1919年から1920年にかけて新しい雑誌が輩出したのである。それらはいずれも短命におわり、あるいは共産党の機関誌・紙へ発展的解消をとげるが、このときは百花一時に花開く活況を呈した。当時の新雑誌の盛行は、ひとつには相互の交換をつうじて、居ながらにして全国の新知識・新運動を吸収する、という目的もあったと思われる(しばしばよい論文は相互に'転載'された)。また、『新社会』のように全国のYMCAの組織をつうじて配布された'社会主義'宣伝誌もある。このようなことがおこったのは中国の歴史でこのときがただ一度である。
これらの新思潮を求める諸雑誌(その背後には無数の小結杜があった)は、「国民性の改造」と「口語の使用」という総方向の一致のうえに、あとは目につくかぎりの西欧・日本の近代思想を紹介した。試みに『新潮』の3巻2号(「1920年名著紹介号」)にあげられている人々を列挙してみると、アインシュタイン、ウェルズ、デューイ、ベルグソン、ワトソン、ラッセル、ウェッブ、コールがおり、また李大釗の「ボルシェヴィズムの勝利」(『新青年』5巻5号、1918.02)をみると、10月革命の勝利を、人道主義・平和思想・正義・自由民主主義・社会主義の勝利であり、「赤旗の勝利、世界労働階級の勝利、20世紀新潮流の勝利である」といい、レーニン、トロッキー、コニンタイ、リープクネヒト、シャイデマン、マルクスの功業である、としている。レーニンは「20世紀新潮流」の1つであって、唯一の新潮流ではなかった。
しかし、あらゆる「20世紀新潮流」をとりいれるといっても、当然厚薄があり、とりいれる側の主観的好悪もある。そのなかでもっとも強い影響力をもったのはデューイ(1919年4月来華)、マルクス主義(『新青年』6巻5号がマルクス主義特集号である)、日本の「新しき村」と武者小路実篤(周作人が紹介)、そしてラッセルであった。ここには興味ふかい事実がみられる。すなわち、アメリカの哲学=プラグマティズム、十月革命の圧倒的な影響=ロシア・マルクス主義、大正期の白樺派の人道主義、およびイギリスのラッセルという1人の哲学者である。ここには近代中国でいやおうなしに直面しなければならなかったロシア・アメリカ・日本・イギリスのもっともよいものがとりいれられているといってよい。
――もっとも、私はここで日本をいれることには多少の躊躇を感ずる。というのはプラグマティズムやロシア・マルクス主義やラッセルの大きな影響に比して、日本の大正期人道主義の影響はあまりにも小さかったからであり、さらに、ラッセルにあったような、祖国の政府の帝国主義政策への痛烈な批判が、白樺派にはなかったからである。そのために、その影響は微弱で、あとに周作人1人しか残らなかった。(周作人は日中戦争中、日本占領下にとどまったため、戦後漢好として処罰せられた。)
ちがいはそのほかにもある。ソ連からはロシア・マルクス主義をたずさえて多くの人びとが来華した。ヨッフェ、マーリン、ヴォイチンスキー、ポロジンなどが、あるいはソ連政府代表として、あるいはコミンテルン代表として、孫文や中国共産党に招かれて来華した。デューイも招かれて各地で講演し、ラッセルも招かれて中国各地で講演した。しかし、日本の新しき村へは周作人が直接訪問しているだけである。日本人は、この五・四文化革命期に中国人から招かれなかった。中国の文化革命の担い手たちはきわめて自覚的に、みずからの知的関心に忠実に招くべき人間を選んだというべきである。
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ラッセルが北京大学から招かれたのは、1920年春であるが、上述のようにそれ以前からラッセルの思想と行動(第1次大戦中の反戦運動と訪ソ、訪ソ後のロシア批判)は新思潮派の雑誌・新聞によってかなりよく知られていた。(はじめラッセルは「羅塞爾」と表記され、のち「羅素」に統一された。なおバートランドは「百船」と表記された。)
ラッセル著作の中国語訳は、来華(訪中)以前にすでに次のようなものがあった。
社会改造原理(陳霆鋭・鄒恩潤訳) 『新中国』1-8~2-5(1919.12~1920.5)
哲学の問題(徐彦之訳) 『新潮』1-4(1919.4)
ボルシェヴィズム(何思源訳) (同上)
哲学の価値(張赤訳) 『晨報』(副刊 1919.10.2~10.3、『学灯』(1919.9.27)
社会主義下の科学と芸術(雁泳訳) 『解放与改造』1-8(1919.12)
夢と現実(張申府訳) 『晨報』1920.3.26~4.2
社会改造の原理(余家菊訳) 同上4.5~8.13、のち晨報社単行本
夢と現実(張崧年訳)
仕事と報酬(凌霜訳)
民主主義と革命(張崧年訳)
ロシア旅行の感想(雁泳訳)
哲学における科学的方法(張崧年訳)
*以上5篇、『新青年』8-2(1920.10)
国家(張赤訳) 『少年中国』1-7(1920.1)
仕事と報酬(梅思平訳) 『新社会』18号(1920.4)
自由への道摘要(傳銅・程振基) 『解放与改造』3-2(1920.10)
1920年のロシアのソヴエト政府(劉麟生訳) 同上3-2(1920.10)
社会主義と自由主義 『東方雑誌』17巻17-18号(1920.9)
学校と工業(徐甘棠訳) 『教育与職業』21号(1920.9)
政府と法律(張崧年訳) 『太平洋』2-4(1920.3)
このほか紹介記事として、陳国榘「ラッセルの未来世界改造観」「ラッセルの教育批判」(いずれも『国民』2-3(1920.10)),高一涵「ラッセルの社会哲学」(『新青年」7-5:1920.4)、張崧年「ラッセルと人口問題」(同上7-4:1920.4)、同「ラッセル」(同上8-2:1920.10)、同「哲学と数学の関係論文」(『新潮』1-2:1921.2)、同「数の哲理」(同1-4:1919.4)、同「ラッセルについて」(『晨報』副刊、1919.12.1)、同「ラッセル」(『学灯』1919.12.6)、同「ラッセルの新ロシア観」(『東方雑誌』17巻19-20号:1920.10)、「ラッセルの哲学研究法」(同20号)、紹虞「ラッセルの社会哲学の概要」(『晨報」副刊、1920.8.23)、デューイ講演「ラッセル(現代の三人の哲学者)」(『晨報』副刊1920.3.23~3.27)、張東孫「ラッセルの『政治理念』」(『解放与改造』1-1:1919.9)、雁沐「ラッセルの『自由への道』」(同1-7:1919.12)、頒華「ラッセルの社会改造の原理の首末両節を読みて」(同2-2:1920.1)、熊正理「ラッセルの国家権力の範囲の規準」(同2-3:1920.2)、程鋳新「ラッセルの『政治の理想』摘要」(同3-3:1920.10)、震瀛「ラッセルと労働者」(『労働界』11号:1920.10)、「ラッセルの『思想論』を読みて」(『新隴』2号:1920.6)、明権訳「ラッセルの哲学」(『学灯』1920.8.10)など、かなりの量にのぼる。若干の注釈を加えれば、このうち当時の世論をリードしていた雑誌は北京の『新青年』と『解放与改造』(のち『改造』と改称)であって、ラッセル来華以前に、もっとも質の高い紹介記事をのせていたのもこの両誌であった。ちなみに『新青年』はのちに中国共産党の準機関誌となるが、当時は中共成立以前であって、陳独秀以下、その執筆陣は李大釗や魯迅など、当時の戦闘的民主主義者を網羅していた。『解放与改造』は、主編張東孫、兪頒華、および梁啓超という顔ぶれからもわかるように、保守的な知識人の雑誌である。1920年12月、すなわちラッセル来華の2か月後、この雑誌は公然とマルクス主義に宣戦するにいたる。そのさいに、主筆張東孫が主として拠ったのがラッセルの中国における言論であった。
ラッセルの中国における活動、とくにその講演を多く掲載したのは、雑誌よりも新聞であったが、なかでも北京の『晨報』副刊と、上海の『時事新報』副刊の『学灯』および上海『民国日報』副刊の『覚悟』であった。上に掲げたリストによっても、これらの副刊はラッセルの来華以前にすでに多くの紹介論文や訳をのせている。副刊とは、日本の朝日・毎日・読売などの学芸欄、文化欄と思えばよいが、当時の中国では新聞は必ずしも大衆のものではなく、人口の一割にも満たない知識人のものだったので、あたかも独立の思想誌のように副刊に独自の編集者をおいていた。
『学灯』は1918年3月4日、上海『時事新報』の副刊として創刊され、はじめは週刊、同年5月から週2回刊、同年12月から週3回刊、1919年1月から日刊(日曜は休み)となった。この『学灯』の主要な責任者は、はじめ張東孫、のち匡僧を経て兪頒華、ついで郭紹虞、そして1920年1月から李石岑が主編となった(李は1921年7月末までその任にあった)。張、郭、兪、李は,いずれもラッセルの訳者または紹介者としてのち大いに活躍するひとびとである。こうみてくると、『晨報』副刊と『学灯』との関係は、『新青年』と『解放与改造』の関係にあたるといってよいであろう。
『覚悟』の本紙である『民国日報』は、孫文の中華革命党(1919年に中国国民党と改称)が、衰世凱に反対するため,1915年に創刊した新聞である。ラッセル来華のころ、この新聞は国民党の機関紙であったわけだが,おもしろいことに当時4大副刊といわれた『晨報』副刊、『京報』副刊、『学灯』、『覚悟』のなかでは、この『覚悟』がもっとも多くマルクス主義を宣伝していた(「五四時期期刊紹介」第1集)。1920年に『覚悟』は,上海の共産主義グループの影響下にあった。この傾向は1926年1月までつづく。このような傾向の『覚悟』で、張東孫の「社会主義論」にたいする批判が展開されたのもふしぎではない。前述のように張は、ラッセルのことばを引いて自説を弁護したので、のちに共産主義者は張とならんでラッセルをも敵として攻撃するにいたる。しかし、のちに顕在化するような対立は、ラッセル来華当時にはまだなかった。現に『新青年』8巻2号(1920年10月1日発行)は,表紙にラッセルの写真をかかげ、「近日中国を訪れる世界の大哲学者ラッセル氏、1914年撮影」と説明文をつけた。ラッセル来華後の『新青年』にはつぎのようにラッセル関係の紹介・訳がのっている。
8巻3号(1920.11.1)
ラッセル既刊著作目録初稿 張崧年
ラッセルの論理と世界観の概説 王星拱
つくることのできる世界(ラッセル) 李季訳
自叙( : ) 鄭振鐸訳
民主主義と革命( : )(承前) 張崧年訳
ラッセルのソヴエト・ロシア論 ハルトマン著 雁汰訳
8巻4号(1920.12.1)
ラッセル既刊著作目録初稿(続) 張崧年
ラッセルのソヴエト・ロシア論批判 震瀛訳
ラッセル-失望せる遊客 袁振英訳
8巻5号(1921.1.1)
ラッセルとゴリキー 震瀛訳
このうち、張崧年の著作目録は、ラッセルの16冊の著書、4点のパンフレット、75篇の論文、38篇の書評、その他4篇のリストであって、当時としてもっとも完備したものということができる。また、訳者の1人李季は、本書・本文(「中国の問題」)にしばしば名がでてくるが、のちトロツキストとなった。著書に「胡適中国哲学史批判」(1931)がある。同じく訳者鄭振鐸は、五四運動中『新社会』『曙光』などの雑誌を瞿秋白などとともに主編し、のちすぐれた文学史家、中華人民共和国で初代の文学研究所長となったひとであり、同じく訳者の雁泳(沈雁泳)は、上海の商務印書館からでていた当時唯一の新文学専門誌『小説月報』の編集長、のちの作家茅盾である。茅盾の長篇「子夜(夜明け前)」「腐蝕」「霜葉は二月の花より紅く」などは、いずれも日本で広く読まれており、中華人民共和国で初代の文化部長をつとめ、文化大革命後の現在も健在である。
新青年社からは、また、この年末にラッセルの2著――『哲学問題』(黄天俊訳)、『自由への道』(李季、黄天俊、雁泳訳)が、それぞれ新青年叢書の第3、第5巻として出版された。前者が The Problems of Philosophy, 1912, 後者が Roads to Freedom, 1918 の中国語訳である。同年に、晨報社から陳霆鋭・鄒恩潤訳で、「社会改造の原理」(Principles of Social Reconstruction, 1916)が刊行されている。ラッセルの中国での講演は次々に訳されて、雑誌・新聞に掲載された。掲載誌紙別にそれをかかげてみる。
『晨報』副刊
教育の効用 1920.10.24
アインシュタインの新説 10.31
ボルシエヴィキと世界政治(湘江少年記) 11.2~11.17
ボルシェヴィキの思想(廷謙記) 2.26~2.27
心の分析(幾伊記) 1919.11.26~1921.1.24
宗教の信仰(鉄岩記) 1921.1.9~1.10
物質の分析(廷謙記) 1.27~6.16
社会構造学(伏廬記) 2.21~3.18
中国の自由への道(品青記) 7.14~7.20
『覚悟』(上海『民国日報』副刊)
哲学知識の限界(衰弼訳)(『哲学の諸問題』の第10~14章) 1920.10.26~10.27
ボルシェヴィキと世界政治(湖南での講演、袁弼訳) 11.3,7~9
哲学の問題(北京での講演、伏記) 1920.11.12,14,22,28;12.5,12,22,28;1921.1.24,25;2.1,2,11,13
心の分析 1920.11.18,25;12.2,13,14,23,29;1921.1.20,21,27;2.3,21;3.1,8,14,24
ボルシェヴィキの思想(北京女高師学生自治会での講演) 1920.11.29
宗教の信仰 1921.1.19
社会構造学 1921.3.2,9,25;4.5,6
中国人の自由への道 1921.7.11
産業主義と私有財産 9.4~6,9,11
『学灯』(『時事新報』副刊)
南京中国科学社での講演 1920.10.27
ボルシェヴィキと世界政治(李済民・楊文冤記) 1920.11.3,4,6,11,13
哲学の問題(伏廬記) 11.12~14,19~21,29;12.13,21;1921.1.22~25;2.1~3,13,14;3.20
心の分析
(幾伊記)1920.11.16~18,22~24;12.3,16
(小峰記)12.26~28;1921.1.30,31
(幾伊記)2.1~3;3.20,27;4.3;5.1,8,15
ボルシェヴィキの思想(廷謙記) 1920.12.1
宗教の信仰(鉄岩記) 1921.1.14~15
物質の分析(王世毅・潘祖述記) 1921.1.17~1.19:2.12,20~23.28;3.1,27
社会主義(鉄岩記) 1921.2.21~22
社会構造学(趙元任訳、陳顧遠・羅敦偉記) 1921.2.26,27:3.2,3,14;4.3;6.12
中国人の自由への道 1921.7.12~13
とりあえず3つの副刊だけを挙げたが、このほか『東方雑誌』『星期日』『少年世界』『教育潮』『法政学報』『評論之評論』などの雑誌にも、ラッセルの中国でおこなった講演や、旧著の訳がのっている。これらをつうじて気がつくのは、当時の中国では、同一の講演が複数の刊行物に同時に発表されていることである。そこには今日の日本におけるようなむつかしい版権の問題がなかったこと、ラッセル流にいえば「所有の衝動」が稀薄であったことを知るのである。これはなにもラッセルの講演についてだけではない。ラッセル来華より1年早く、1919年の4月から中国に滞在中のジョン・デューイの講演についてもそうであって、やはり同一の講演を、のちに共産主義になる人々の雑誌も、のちに反共主義に走る人々の雑誌も、仲よく訳載していた。右にかかげたリストにも見えているように、訳者はべつにあって、記者が聞いたものをそのまままとめ、「某某記」としてのせている場合のほうが多いのである。ラッセルの思想はこのようにして、当時の中国の知識界の共有財産になってゆく。
このなかで、リストにある「ボルシェヴィキと世界政治」という講演の反響を紹介しておこう。これは1920年10月末にラッセルが長沙でおこなった講演だが、当時長沙の知識界をリードしていた若き日の毛主席がこれを聞いているらしい。毛沢東は、当時新民学会という進歩的知識人の結社をつくっていた(1918年創立)。この会の会員中14名が、フランスに留学中であったが、1920年7月に、「就学方法の研究、会務進行の検討、『個性批判』、および人生観・世界観について」討議する5日間の会議をひらいた。その会議で蔡和森をはじめとする革命派と蕭子昇をはじめとする改良派の間に激烈な討論がおこなわれた。会ののち、両派ともくわしい手紙を毛沢東に書き送り、毛沢東の意見を求めた。毛沢東の伝記作者・李鋭は、そのときのことをつぎのように書いている。
「毛沢東は1920年12月1日、蔡和森と在仏諸会友にあてて、長い手紙を書き送り、中国は社会主義の道、ロシアの道を行くべきだとする蔡和森の主張に『ふかい賛同の意を表し』、改良主義の方法には同意しなかった。毛沢東は、とくに長沙でおこった同様な事件をあげて、この問題を説明している。同年10月、ラッセルが長沙にきて、『共産主義(松下注:ラッセルの真意は、現代の用法では、「社会主義」/'communism' の意味が時代により変わっていることに注意)を主張するが、労農独裁には反対する。教育の方法でブルジョアジーを自覚せしめるべきであって、自由を拘束し、戦争をおこし、流血をみるような革命の方法であってはならない』と演説した。それがもとで、長沙の〔新民〕学会会員のあいだにも熱っぽい論議がはじまったのだった。毛沢東は、ラッセルのことばを、ひとことだけ批評する、とまえおきして、 '事実上、それは不可能だ'と述べている。なぜなら、教育には金と人と機関が必要だが、いずれも支配者の手ににぎられている。学校や新聞社を開いているものはすべて資本家・地主、あるいは資本家・地主の代理人だ。教育権が資本家・地主の手中にあるのは、まさにかれらが、議会、政府、法律、軍隊、警察、および銀行、工場を所有しているからであって、それによって自己の利益を守り、労働者・農民に反対している。だから、と毛沢東は考えた。共産主義者が政権を獲得せぬかぎり、教育権をにぎれるはずがない、と。教育の方法で革命するなど、断じて通用しない。しかも現世界の教育は資本主義一色の教育だ。歴史的に見て、資本家が共産主義を信ずるということはありえない。人の心が変えなければ、ものが下に落ちないようにするために手で支えるのと同じように、どうしてもより大きな力で抵抗しなければならない。」(玉川・松井訳「毛沢東,その青年時代」pp.197~198.)
さらに1921年1月、毛沢東は再度学会員との討論のなかで、ラッセルをつぎのように批判している(当時の発言記録)。
「温和な方法での共産主義、たとえばラッセルの主張する極端な自由、資本家の放任では、永遠に実現できないでしょう。激烈な方法での共産主義、すなわちいわゆる労農主義は、階級独裁の方法を用いますが、これは所期の効果を期待できるので、採用するのならこれがいちばんでしょう。」(「新民学会会務報告」、韶の紀念館所見)
当時のヤング・チャイナにとって、ラッセルがいかに無視すべからざるものであったかがこれらの記録からわかる。それと同時に、ラッセルが、「革命か改良か」という変革の方法をめぐる当時の問題意識(問い方)のなかで、改良派のチャンピオンとしてうけとられたことがわかる。
同じ問題意識は、実は、ラッセルが中国を去ったのちもつづく。ここでもうひとつ、1923年6月『季刊新青年』創刊号にのった懼秋日の「ラッセルの社会主義観を評す」を紹介しておこう。秋白は当時中国共産党の中央委員で、『季刊新青年』は、共産党の機関誌であった。なお懼秋白はその後、1927年夏、陳独秀のあとをついで中国共産党の書記長となり、1935年刑死した。
秋白の論文は、1922年7月7日から13日にかけて、『晨報』に掲載されたラッセルの先進国の社会主義観を批評したものである。秋白は、ラッセルが階級闘争を否定しながら国際的階級闘争がおこなわれている現状を非難しているのは矛盾だといっている。ラッセルは、憎しみを動力とする階級闘争を方法として否定しているのであり、国際的階級闘争という現実の存在することを指摘し、それを否定している。つまり両者の次元がちがうことをいっているのだが、しかし秋白は、国内階級闘争によってのみ、「アメリカ帝国主義にたいする信仰」や「イギリスを中心とするヨーロッパの帝国主義」(いずれもラッセルの言葉)を打破することができる。現実には国内の階級闘争によるしかないではないか、と問う。さらに秋白はイギリス労働党の国会内勢力がきわめて弱いことを指摘し、その弱小の勢力たる労働党が革命の方法によらず、階級闘争によらない「社会主義政策」を実行できるかと疑い、ブルジョアジーはそのようなことを許すはずがない、と断じている。
ラッセルは「アメリカの生産制度は、国家資本主義といってよいだろうが、それが社会主義と区別されるのはただ2点においてのみである。ひとつはそれが金持ちのためのものであること、ふたつには制度の運用が管理者の私的利益のためになされて、社会的利益のためでないことである。ボルシェヴィキがロシアで創造した制度(ラッセルはそれを国家社会主義とよんだ〕とも、この2点で異なるだけである。」といっている。これは今日の時点でみれば、アメリカとソ連の社会構造の類似性をみごとに洞察したものといえる。だが、当時の雰囲気のなかでこの言葉が理解される、それもコミンテルンの一支部である中国共産党の中央委員によって評価されることはありえなかった。秋白は、ラッセルのことばを引用しつつ、これはアメリカにすでに社会主義のための物質的条件が十分に成熟していることを示すものであり、アメリカ資本主義が崩壊しないのは、その矛盾のはけ口としての植民地があるからである。〔中国のような〕植民地の革命的労働平民がたちあがって、みずからの手で工業化をおこなうときにはじめて、アメリカ資本主義の弔鐘が鳴り、階級憎悪もそのときに消滅し、世界の経済的互助の可能性が生まれる、と説く。
この問題にかんするかぎり、ラッセルの射程のほうが長い先まで見とおしていたといいうるであろう。この両者の見方のちがいはどこからくるか。私は「革命」という概念の把握の差にすぎないと思う。秋白は言う。「ラッセルは革命を否認する。だが、ロシアの『人民的国家資本主義』ですら、まさに革命の産物であることを知らねばならぬ。」「政治的には『急激な変化〔突変〕』の価値あるを知らねばならぬ。社会主義の経済的完成にいたっては、依然として『漸進的変化』〔演変〕の過程内のことである。」「ロシアの現行の国家資本主義は、せいぜい経済上の過渡制度にすぎない。プロレタリアート独裁制もせいぜい政治上の過渡制度にすぎない。」
中国における教育の普及や工業化が、漸進的変化によってしか達成できず、また中国民衆の幸福がそれによってのみ達成されることを秋白は否定しない。しかし、それは中国労働者階級・人民が権力をとってからのことだというのである。さきの毛沢東のラッセル批判と同じである。
もちろん、秋白のこの論文には、当時の中国共産党中央の理論的未熟が反映されていて、「革命」の中国独自の形態――農民革命の重要性と武装革命の条件や、軍隊内での教育の画期的重要性などが考慮されていない。だが、これはまだ、当時の中国共産党が「革命」を一切不要とし、プロレタリアートと農民の独裁を一切否定する勢力との対決を主要課題としていたことからくるもので、やむをえない未熟さといえる。問題はその「革命」の概念であった。秋白のラッセル批判は、「突変」を「演変」と対立させることに熱心なあまり、「革命」を政治上の権力交代に意味を極限してしまっている。しかし、五・四文化革命は、そもそものはじめから「文化革命」「思想革命」をとなえ、その「革命」の概念は、政治以外の分野での、本質的には漸新的な変化、改良をふくむものであった。胡適がはじめ「文学革命」の語を用い、1か月後に「文学改良」をとなえ、さらに1か月後に陳独秀が、それをうけて「文学革命論」を書いた、という経緯は、五・四文化革命の担い手たちにとって、革命と改良が1つのものだったことを示す。こんにちの中国のプロレタリア文化大革命で、その革命の内容が主として「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣(四旧)」を打破し、「新思想、新文化、新風俗、新習慣(四新)」をうちたてる革命であり、人々の心のなかから「私心(個人的利益を社会的利益より上位におく衝動)」を追いはらうことを意味している(経済的土台や政治制度の変更はさしあたって目的とされていない)のは、ある意味で五・四の精神の継承であるということができる。秋白のラッセル批判はその意味で一面的であることを免れないであろう。
話がすすみすぎたようなので、ここで、ふたたび1920年当時にもどって、ラッセルの説いた何が、どのように当時のヤング・チャイナに訴えたかを考えてみる。
前述のように、ラッセルが中国知識界に迎えられたのは、「国民性の改造」のためであった。その点で、「人々の生活を形成するに当たって、意識的な目的よりは衝動というものが、より大きな影響を及ぼすという信念に基づいた、ある政治哲学を呈示」しようとした『社会改造の諸原理』が、このような目的に最もよく合致した書物ということができると思う。周知のように、ラッセルはこの著作で、さまざまな衝動を、所有衝動と創造衝動に大別し、「最悪の生活とは、その大部分が所有欲に発しているような生活である」「政治的諸制度は、男性や女性の気質に多大な影響を及ぼすものであり、したがってそれは、人々の所有欲を減殺して、創造性を喚起するような制度でなければならない」という観点から、国家、戦争、財産、教育、結婚と人口問題、宗教などを考察している。(『新青年』の張崧年論文「ラッセルと人口問題」などはこの著作の第六章の全面的な紹介である。)このような見方は、五・四文化革命期の知識人たちの共通の姿勢を要約したものだとさえ、私には思える。
この著作の終章「われわれは何をなしうるか」は、とくにひろく読まれ、論評されたが、そこには「思想の力というものは、長期的にみれば、他のいかなる人間の力よりも偉大である。」しかし「新思想はある種の知的超然さ、ある種の孤独なエネルギー、内面的に世界を支配する力と、世界が危険視するものの見方とを必要とする。みずから進んで孤独となるような態度がなければ、新しい思想は達成することができないのだ。しかももしその孤独が、民衆から浮き上がったものであり、他人との合一の願望が死滅していたり、あるいはまた知的超然さが他人への軽蔑を導くものであるとすれば、新思想はいかなる目的をも成就しないであろう」という一節などは、そのまま五・四の精神の要約のようだ。『新青年』の有力な寄稿者の一人で経済学者の陶履恭が、イプセンの「民衆の敵」を全訳して『新青年』にのせたことが思い起こされる。それはやはり、義のために「みずから進んで孤独となる」1人の男のドラマであった。また、ラッセルがこの著作で説いた、「われわれの個人生活、次には共同社会と世界の生活とが、個体性を犠牲にすることなく、統一あるいは統合される必要がある」ということこそ、当時の「若き中国(young China)」が求めている原理の方向と一致していた。そして特に、ラッセルが一切の論理の深層に「人間における成長原理」(第1章)をおいたことは、当時の中国知識人の思想と驚くほどに一致していた。たとえば、魯迅は「生命の道」を書いているし、李大釗も生命衝動をあらゆる人間的行動の根源と見ている。
五・四文化革命時代は、婦人の解放を熱烈に希求した時代であったが、その点でも、ラッセルの思想が強い共感を得た。『社会改造の諸原理』の第6章で、ラッセルは、「一つの政治制度としての結婚」を問題とし、権威主義的結婚制度をはげしく攻撃し、もっとも徹底した男女同権論を説いている。そのうえに、ラッセルは来華にさいして、妻ではないドラ・ブラックを同伴し、そのことによって在華宣教師たちの強い非難キャンペーンを受けた。このことがまた、当時の中国知識人の宣教師嫌い、宗教ぎらいの傾向(1922年には全国的な反キリスト教運動に発展する)に合致した。当時の中国では北京大学学長の蔡元培のような地位にある人が先頭に立って、『新青年』誌上をつうじて宗教など無用、「美育をもって宗教に代えよ」と主張していたのである(1917年8月)。ラッセルの宗教批判(同書第7章)が、このような傾向から歓迎されたのは当然である。『社会改造の諸原理』とならんで、ラッセルの来華前に全訳されて広く読まれていたものに、1912年の著作『哲学の諸問題』がある。この著作のなかでラッセルは、「この世のなかに、まともな人間なら誰も疑いえないほど確実な知識というものが果たしてあるであろうか」と問いかけている。この、ラッセルにとって生涯のものとなった懐疑主義は、中国知識人の伝統的性格のものであった。伝統的な中国の思想には、もともと論理的演繹に過度にたよるような傾向がなく、また西欧的意味における論理学なるものが、先秦時代の墨子以後、絶学となっていた。そこで西欧の哲学をとりいれるにあたっても、過度に論理的演繹を強調する哲学には戸惑いを感じたであろうことは想像に難くない。その点、ラッセルの'哲学'およびデューイの「経験主義」は、気質的に中国知識人に受容され易かったといえる(松下注:これはラッセルの社会思想・社会哲学について言えることであり、理論哲学についてはあてはまらないだろう。)。ついでにいえば、同じ理由から、中国では、日本と異なり、ついにドイツ観念論哲学は共鳴者を見いださなかったし(蔡元培は例外といえるが、彼も、上原専禄氏が書いていられるようにドイツ哲学者というよりも、伝統的中国倫理学者であった)、またマルクス主義の受容にあたっても、日本におけるようなマルクス「学問」は育たなかったし、へーゲル主義に無縁だった。時を同じくして来華していた2人の哲学者、デューイとラッセルのどちらが哲学上でより強い影響を中国の思想界に与えたかは興味あるテーマである。シュウォルツによれば、「ラッセルの影響は結局せまく、また一時的なものであったが、……デューイは中国思想に永続的な刻印をのこした」(『中国共産党史』)と評し、アラン・ウッドは、フィッジェラルドにしたがって「むしろデューイの影響のほうが、実のところ、主として国民党にかぎられていたように思われる」と書いている(『バートランド・ラッセル』)。だが私は思想史的には、はるかにラッセルのほうが大きな影響を与えたと信じている。
デューイが中国に与えたのは、その弟子で精力的な紹介者であった胡適の強調するように、新しい哲学的方法をもたらしたことであった。それにたいしてラッセルの哲学は、なんらかの特別な哲学的方法を要求する権利を放棄し、その哲学の手段によって獲得されるべき独特の品種の知識を放棄している(ラッセル「二十世紀の哲学」)。つまり、デューイの中国における弟子たちが、次々に新しい方法-経験主義によって、中国の伝統思想や伝統文学を再評価し、従来の伝統的な方法による成果とは異なった品種の知識を提供(胡適の『中国哲学史大綱』『先秦名学史』『中国白話文学史」など)したのにたいし、ラッセルは、哲学の任務は、経験の証拠がまだ欠けている仮説の形成にあると説き、新しい知識は、ただ「科学のこつこつとやる調査研究」によってのみ獲得される、と説いた。したがって、表面的にみればデューイの影響ははなばなしく、実を結んだように見え、ラッセルの影響は何も残らなかったようにみえるのである。しかし、注意してみればわかるように、デューイの弟子たちは、実験主義の方法と称するものを「科学」そのものとして宣伝し、それによって'科学を歪小化'したのにたいし、ラッセルの影響を受けた人たちは「哲学」に従属しない「こつこつとやる調査研究」にむかったのである。中国における科学の発展、とくに科学的社会調査(とくに毛沢東)にたいして、どちらが貢献したかは、中国革命の成長そのものが判定を下しているように思われる。
胡適の仕事について、もうすこし説明しておこう。胡適は、当時の時代思潮にしたがって、しきりと「科学」を説き、「客観的評価」を強調した。彼によれば、その方法とは、「疑問を発し、仮説を立て、考証する」ということで、これでは中国の伝統的な学問のあり方と何ら変わりはない。事実、胡適は清朝の一部の考証学者の方法はデューイの思考法に吻合しているといっている(野原四郎「胡適と儒教」)。これでは、伝統思想の再解釈はあっても、実在界についての新しい発見はありえない。デューイの影響は、これとは別に、教育界、とくに教育制度の改革に大きな影響をあたえた。しかし、中国思想史上におけるその遺産はきわめて貧弱なものにすぎなかったといえると思う。ラッセルが、哲学上で中国の知識界にあたえた真に革命的なものの一つは、アインシュタインの相対性原理の適用のしかたを教えたことである。上述のリストにもあるようにラッセルは中国での講演でアインシュタインの考え方をテーマにしている。ラッセルはこれによって西欧的「進歩の観念」についての根本的な反省をもとめた。こんにちのわれわれにとって、これはすでに常識に属することだが、これは当時の中国知識人にとってはまったく衝撃的な「事件」であった。「なぜなら、19世紀に中国が西欧の衝撃をうけて以来、改革者たちが一途に求めてきたものは、「進歩」であり、「進歩」こそ最大の価値であったが、その方向や各段階は一義的に決定されており、そのモデルは、西欧のそれだと思われていたからだ。武器、工業化や議会制度が「進歩」の達成の度合をはかる尺度と考えられ、しかもそれに何の疑いも抱かれていなかった。しかし、ラッセルは、アインシュタインを紹介しつつ、「時間秩序が思いのままに動かすことのできるものであるならば、時間を測定するにあたりどのような因襲を採用するかによって、進歩があるか退歩があるかすることになる」と説いた(松下注:これは論理の飛躍、あるいは読み過ぎ(誤訳?)であり、ラッセルの真意を曲解していると思われる。)。これは、胡適らが、もっぱら「全面的西洋化〔全盤的西化〕」を唱えたこととはっきり対立する。すなわち、デューイの弟子たちが、依然として前世代から引き継いだ考え方にしたがって、「進歩」についての尺度は1つであり、次々と、その新しい尺度をもって旧き尺度の否定をなしつつあったときに、ラッセルは、進歩、あるいは(一定の)時間とは、観察者の動きかた次第でどうにでもなる、主観的な観念であるとしたのである。」
当時の中国の唯物論者たちは、ラッセルの考え方を観念論としてしか評価しなかったようだ。しかし、中国の革命運動の進展は、毛沢東の一連の哲学論文を産みだすのだが、その著しい特色は、理論の実践への依存性の強調である。理論なるものが、その発見者(観察者)の動き次第で決定されるとする考え方は、あきらかにラッセルの考え方の延長線上にあって、デューイの考え方の延長線上にはない。中国の革命家たちは、胡適らの「理論」を検証するにあたって、まず胡適という「理論」家の動きかた、すなわち胡適の実践のしかたを問題としたのである。これは一見「イデオロギーによる外在的批判」のように見えるが、そうではない。胡適の思想が、「科学的」「客観的」ではなく、国民党の御用学者としての行動から生まれた相対的・主観的なものにすぎないことを批判したのである
ラッセルが中国で連続講演した「物質の分析」は、このようなラッセルの相対論を全面的に展開したものであった。同名の著書 The Analysis of Matter が出版されたのは中国訪問から帰ってから6年もたった1927年であるが、その大すじの構想は、中国滞在中にたてられたのである。ラッセルはこの講演のなかで、精神と物質の区別がほとんど無意味であることを説き、「中立一元論」を説いた。私は、この講演がなかったら、中国の思想界は、やはり西欧の伝統的な分け方にしたがって精神と物質、観念論と実在論にかんする混乱した考え方のうえに論争をつづけていたのではないかと思う。かつて私は別の論文で、毛沢東哲学の根本的な特長は、実践一元論ともいうべき考え方にあり、エンゲルスからレーニンにひきつがれ、唯物論か観念論かという問いのだしかたをしなかった点にある、と書いたことがある(『毛沢東の思想』勁草書房)。毛沢東によれば、人の思想意識は、「物質」の反映であるよりも、「実践」の反映なのであり、その「実践は」単に所与のものとして、一義的に明白なものとして考えられるべきものではなく、実践のしかた(工作方法・思想方法)如何によって、さまざまであり、正しい思想を得ようとするならば、実践のしかたを改めなくてはならない、としたのである。このことは、ラッセルのいう、2つの「できごと」のあいだには、いかなる観察者とも全く無関係に、それらの「できごと」のあいだの「期間」とよばれるある関係がある、という考え方と一致する。すなわち、当該思想という「できごと」と、その持ち主の行動という「できごと」の一定の関係こそ、この問題のすべてであるということである。
一言ことわっておくが、「存在」を具体的人間の社会的実践等と等置したのは、マルクス、エンゲルスであり(『ドイツ・イデオロギー』)、レーニンも、「物質」の概念を整理して、人の意識から独立のすべての客観的実在とした(『唯物論と経験批判論』)。したがって、マルクスもエンゲルスもレーニンも、その「物質」観は機械的唯物論者のそれではない。しかし、それにもかかわらず、その物質観の根本にはアインシュタイン以前の物理学的物質観が根深く残っていて、思想意識はあたかも鏡が物をうつすように、人の脳が外界を映したものだと考えていた。毛沢東がマルクス主義者としてははじめて、この旧反映論をのりこえることができたのは、若き毛主席が長沙でラッセルの講演をきいており、その中国での多くの講演を読んでいたことと無関係ではないであろう。レーニン哲学と毛沢東哲学の中間に、ラッセルの問いかけ(精神と物質という古来の二元論の崩壊)をおいてみることによって、レーニン哲学から毛沢東哲学への発展を、より説得的に開明することができるのではないかと思う。
3
ラッセルが現代中国の政治史に印した足跡は、反動的なものだと思われている。ベンジャミン・シュウォルツは書いている。「前衛知識人の多くは、中国の伝統文明に価値を認めようとするラッセルの傾向をつむじまがりだと考えて激昂した」(邦訳『中国共産党史』:Chinese Communism and Rise of Mao)。
また、「1920年の後半、バートランド・ラッセルと中国の一青年ジャーナリスト張東孫は、中国の悲惨さの原因はすべてその貧困と低生産性にあり、このふたつの点を改善する唯一の方途は工業化であって、決して、あれやこれやの『イズム』についての空虚な議論ではないこと、そして、倫理的理由にもとづく資本主義への反対論がいかにあろうとも、資本主義のみがこの種の工業化を可能にすることを説いて、はげしい論争をまきおこした。」(同上)
ことの経過は次のように進展した。張東孫氏は、ラッセルとの談話を全文発表するのではなく、自分の主催する『時事新報』に発表した「内地旅行で得た教訓」と題する短い文章の中で紹介した。中国はまず教育と工業をおこすべきであって、イズム(主義)について云々する資格はない、というのだが、よく読んでみると、その言葉は、ラッセルではなく教育学者の舒新城氏の言ったことのようで、工業化と主義とを対立させたのはラッセルではなく、張東孫であったことがわかる。しかし、これにたいして愛正(『正報』記者)、陳望道(のち中共党員、文学者)などはいずれもその区別をしていない。反論に立った張東孫は、意識的にラッセルと自分の意見が一致しているようにみせかける一文「誰もラッセル氏のわれわれへの忠告を銘記すべきだ」を書いている。張氏はここでラッセルがロシア労農政府から優遇されたにもかかわらず、ロシアのやり方が合理的でないと説いたことをもちだして、ラッセルこそ真に良心的な学者であり、彼の忠告――中国は第1に教育をおこし、第2に工業化をすべきで、社会主義など遅れてもさしつかえない――を聞いて、労農主義の採用を急いではならない、と主張した。
当時すでに、共産主義グループを組織して、共産党創立を準備中だった陳独秀は、この時点でラッセルに手紙をかいた。陳独秀はいう。
「……いったい旧来の資本主義の方法で、教育と工業を発展させるのか、社会主義の方法で、教育と工業を発展させるのか、それが問われているのです。私個人の意見ですが、資本主義はたしかにヨーロッパ、アメリカ、日本で、教育と工業を発展させることができましたが、同時にヨーロッパ、アメリカ、日本の社会を貧欲と欺瞞と刻薄と無恥に変えてしまいました。しかも今度の大戦および将来の経済大恐慌が、すべて資本主義の産物であることは周知のことです。さいわいわが中国は、現在やっと教育と工業を、資本制度の未発達のときに創造しはじめたところです。これは社会主義によって、教育と工業を発展させて、欧米日本のあやまった道をふまないようにする絶好の機会ではないでしょうか。ところが近ごろ、中国のブルジョア諸政党の機関紙が、しばしばあなたの主張 '中国は第1に教育を、第2に工業化をおこすべきで、社会主義を提唱すべきでない' を称賛しています。私どもはこのことばが本当にあなたが言ったのか、それとも他人がでっちあげたのか知りません。もし他人の捏造でしたら、中国人民の誤解を解くため、また進歩的中国人のあなたにたいする失望をひきおこさないようにするために、あなたが声明を発表してくれるよう望みます。」だが、これにたいしてラッセルの直接の返書はなかったらしい。その後張東孫の「高践四氏に答う」「長期の忍耐(兪頒華への手紙)」「再び頒華兄へ」「彼らと我ら」などをへて、楊端六氏が「ラッセルとの談話」を発表した。その問答を要約すると次のようになる。
問い 資本制度にあなたは反対しますか、もし反対するとすればいかにして反対しますか、どうしたら大きな危険なしに社会をよくすることができるでしょうか。この問答をみても、ラッセルがきわめてリアルに問題をみていたことがわかる。とくにさいごの問答で外国資本導入の危険をきわめて適切に警告している。しかし、張東孫はこれをさらに次のようにねじまげた。かれは陳独秀にむかって書いた。
ラッセル 工業を発展させること以外に社会をよくする道はありません。それには3つのやり方があります。第1は資本家によって工業を発展させる、第2は国家が工業を発展させる、第3は労働者階級自身が工業を発展させる。この3つの方法のうちいちばん良いのは国家による方法です。労働者階級による方法では、彼らの程度が低すぎてよい結果が得られないのではないかと思います。
問い しかし中国政府は現状では腐敗の極にある。これでは工業化が不可能だと思います。
ラッセル 国家がそんなに信頼できないとすれば、やはり結局資本家に頼るしかないでしょう。
問い そのばあい、外国の資本がよいか、中国の資本がよいか。
ラッセル 将来経済を平等にしようと思うのなら、外国資本が入っていると、処置がむずかしくなる。やはり中国資本のほうが協議しやすいでしょう。
問い 資本制度は畢竟良くないものではないでしょうか。
ラッセル それでは外国の労働者階級を輸入しますか。しかし中国の工業水準がかくも低い現在、入れるとしても中国の資本と連合しなければ受けいれることはできないでしょう。
中 略
問い 新しい銀行借款団が中国へ資金を貸すことについて。
ラッセル それは野心ある資本家どもが中国の政権を独占し、中国の政権を束縛し、中国の死活の権を握ろうとしているのです。これはまったく、将来やっかいなことになるでしょう……。
「…私は外国の資本主義が中国の貧困の唯一の原因であると確信します。したがって外国資本主義の打倒は必要です。しかし、国内資本主義の打倒を外国資本主義打倒の手段にすることが、どれほど適切であるかについては、断言いたしかねます。」(「独秀への手紙」)これはあきらかに問題のすりかえである。張は、「社会主義」を、国内資本主義をすぐ打倒することだとしたのである。これにたいして陳独秀は、次のように張ならびにラッセルに反論した。
「(1)同じ中国人でありながら、どうして政府と労働者階級は信頼できず、資本家だけが信頼できるのか。資本制度が制度として悪い制度だということをラッセル氏も認めているのに、氏は資本家は悪くないという。それでいて政府と労働者階級は頼りにならないというとき、個々の役人や労働者がよくないのであって、制度が悪いのではないという。個々の人は改造しにくく、制度はすぐに廃止するのはまずいという。いったいどうして、手段をつくして政府を改造するか、労働階級を訓練して新しい生産制度をおこなおうとは考えずに、ただちに資本家に頼ろうとするのか。…(中略)…陳独秀の反論はきわめて説得的である。張東孫とくらべて、あきらかに役者が上である。陳によれば、中国の労働者階級はまだ階級として形成されておらず、階級意識ももっていない。しかし、かれらは経済的搾取と政治的圧迫を強く受けているから、それに反抗して徐々に中国の主人公になるにちがいない。それにたいして、中国の資本家は、直接・間接に外国資本の買弁であり、外国資本をたすけて中国人を搾取している。たとい1世紀たっても、かれらによって外国資本を追いはらうことを期待することはできない。(以上、陳独秀「社会主義にかんする討論」、『新青年』8巻4号、による)。
(2)資本主義によって、漸進的に国民経済を発展させ、労働者の生活を改善して社会主義に到達するという方法は、英仏独米のように、すでに政治経済のすすんでいる独立の国家では可能であろう。しかし中国のように知識が幼稚で組織を欠く民族、しかも外からの政治的・経済的侵略が日一日と緊迫している民族にとって、急進的 Revolution の方策をとらずに、漸進的 Evolution の方策がとれるものであろうか?
(3)あなた方〔ラッセルと張東孫ら〕は、革命的手段で資本を集中して社会主義的生産制度を実行することに反対されています。しかし楊端六氏のいうところによると '中国の資本家は,資本を深く蔵してなかなか出さない'。あなた(張東孫)も '従来から(中国には)財産を資本にする習慣がない' 'その最大の原因は企業家の不道徳である。…投資を冒険と考えるから、資本は当然集中されない' といっています。そうしてみると、あなたがたが崇拝している資本主義なるものはやはり空中楼閣ではないでしょうか。しかも、あなた方は外国資本は歓迎しないという。それではいったいどうやって中国の工業を発展させるのでしょうか?…(後略)'
中国の資本家の主流が陳独秀のいうとおりであったことは、その後の中国革命史が証明している。しかし、ラッセルの楽観的な見とおしが全然まちがっていたわけではない。中華人民共和国が成立するにさいして、何千という「民族資本」が協力し、その政治的代弁者である民主同盟、中国国民党革命委員会、民主建国会、農工民主党、中国致公党、九三学社などの、いわゆる民主諸党派が、共産党とならんで新政権を構成し、かれらはまもなく国家資本主義に再編されてゆく。だが、この討論で、ラッセルは、不幸にして、あくまで社会主義に反対しようとする一群の人々にかつがれ、社会主義の敵として大衆に印象づけられたのである。
ここで、ラッセルが中国を去ってのち、どのような紹介・訳がおこなわれたかを見てみよう。
まずラッセル著作の華訳(中国語訳)だが、やはり『中国の問題』が多く訳されている。
『晨報』副鐫(1921.10.12~1924.12.31)には、次のようなラッセル著作の華訳が掲載された。
現代中国の概略(持夫訳) 1922.2.19~3.22
中国の高等教育(李小峰訳) 11.11~11.13
近世の中国(宗錫鈎訳) 11.17~11.21
中国問題の出発点(李小峰訳) 11.22~11.23
中国と西欧文化の比較(宗錫鉤訳) 11.24~11.26
中国の工業(李小峰訳) 12.6~12.8
性道徳(恵林訳) 1924.7.14
いかにして将来の戦争を防止するか(銭星海訳) 1924.9.18~9.23
この『晨報』副鐫というのは、前掲の『晨報』副刊の後身で4ページ建になっている。魯迅の不朽の名作「阿Q正伝」が連載されたのもこの紙上である。ラッセル著作の訳は、表題でもわかるように、明らかに大部分が『中国の問題』の各章の訳である。同紙にはこのほか次のような評論が載っている。
ラッセルと中国(徐志摩) 1921.12.3
「現代中国の概略」を訳しおえて(持夫) 1922.3.22
バートランド・ラッセルは宗教的か(江紹原) 1923.12.9
ラッセル氏は宗教的か? 江氏に答う(江震) 1923.12.4
"宗教"と"宗教的"についての対論(江紹原) 1923.12.7
ラッセルの態度について再論(江紹原) 1923.12.9
直感とベルグソンについてのラッセルの考え(汪震) 1924.3.9~3.14
また、『覚悟』には次のようなラッセル論、訳文が載っている。
ラッセルの「現代紊乱の原因」を読む(周仏海) 1921.3.4
ラッセルの不幸(漢胃) 1921.4.1
ラッセルはまちがっている(漢宵) 1921.4.14
ラッセル先生の別れのことばに見る、政治による経済支配策(費覚天) 1921.9.1~9.2
費覚天君の論文を読んで(C.T) 9.25
『改造』には、
ラッセルの進化主義哲学批判(小航訳)4-2 1921.10
ヨーロッパのインテリゲンチァに告げる(伝岩訳)4-7 1922.3
『学灯』には、
ラッセルをおもう(李石岑) 1921.3.29
ラッセルの『哲学の問題』を読んで論理について考える(銭穆) 1922.10.7
中国と西洋文化の比較(宗錫鈎訳) 1922.12.7~12.9
中国の将来(「中国の問題」終章) 1924.1.18,22
東西文明比較観(「中国の問題」より)(XY生訳) 1924.4.29
中国人の国民性(「中国の問題」より)(童侠訳) 1924.6.11
科学の社会制度にたいする影響(枢乾訳) 1924.7.22~7.24
アメリカ雑感(崔志徳訳) 1924.10.7
ラッセル研究(平陵) 1924.12.25~12.26
民主主義と帝国主義(祝修爵訳) 1925.7.3
ラッセルの「政治の理想」を読む 1925.8.4
その他めぼしいところを挙げておくと、
心理学と政治学の関係についてのラッセルの考え方(彰基相)『民鐸』7-4,1926.4.1
科学は迷信的か(張崧年訳) 同9-1、1927.9.1
教育と人生(張崧年訳) 同上
懐疑論の価値について(博任敢訳) 同10-3、1929.5
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「最近、ある人が充足理由の原理にかんする文章を書いた。充足理由の原理とは何か? 私は、充足理由の原理などというものはないと思う。異なる階級には異なる理由がある。どの階級にだって十分な理由があるではないか。ラッセルには十分な理由がないといえるか?〔十分ある。〕ラッセルは私に小さな本を1冊送ってくれた。翻訳したのを見ることができたが、ラッセルは現在、政治的には少しよくなった、反修(反修正主義)、反米であり、ベトナム〔人民〕を支持している。この観念論者もやや唯物論になった。これは言論上の行動である。」(新島編『毛沢東最高指示』p.67)毛主席がラッセルから送られた本が何であるかわからない。『武器なき勝利』(Unarmed Victory, )かとも思うが、ラッセル研究家の教示を得たいと思う。ここで使われている「観念論」「唯物論」の概念は、19世紀的な用法(エンゲルス「フォイェルバッハ論」)ではなく中国では現実変革の実践に参加する者を唯物論者というのである。なお「反修」とはいうまでもなく、ソ連のやり方(修正主義)に反対していることを指し、「反米」とはアメリカ帝国主義に反対していることを指している。中国におけるラッセルの評価が、この毛主席による再評価以後どのようになったかについてはまだ情報がない。
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ラッセルは、中国と中国人にたいして異常ともみえる好意をもっていたよう思われる。彼は中国を訪問する以前から、たとえば「夢と現実」のなかで、合理主義的な「謙遜」の技術が「隅から隅まで理解されているのは、〔全世界のなかで〕中国だけである」とかいている(もっとも、ラッセルはのちにこの講演を「懐疑論集」(松下注:Sceptical Essays, 1928)に収めるにあたって、「私の見た中国にはあてはまらぬであろう」と注記した。)。また、『自由への道』(1918年)では、巻頭に「老子」の「生而不有、為而不恃、長而不宰」'Production without possesion, action without self-assertion, development without domination' の句をかかげている。また、同書で「荘子」の馬蹄篇の冒頭の故事を引き、これを古代アナキズムとして称賛している。また中国の詩を、西欧の及ばざる境地に達していると評している。彼が、中国から招きを受けたとき、すでにトリニティ・コレッジからの(への)復籍がきまっていたにもかかわらず、わざわざ1年間の休暇を願い出て、中国へ旅立った背景には、このような彼の中国への愛着の心理があった。
現実の中国は、ラッセルの期待をうらぎらなかったようである。それは本書『中国の問題』に十二分に表現されている。アラン・ウッドの表現をかりれば、「ラッセルは中国で見聞したことをほとんどすべて称揚したのであって、かれが批判したことといえば、貧欲と腐敗、ある種の無神経さぐらいのものであった。かれの全般的な結論は一も二もなく中国文明肯定の側に傾いていたのであり、かれは 「中国および中国人は実に感じがよい」 と思ったのである。このことを分析する前に、ラッセルが、『中国の問題』以外でも、中国についてしばしば弁護していることに触れておきたい。
ウッドによれば、1922年のはじめに、ラッセルは日本びいきのベアトリス・ウェッブと論争したさい、「口をきわめて中国を激賞し、中国人が科学に無関心であることまで賞めた」という(碧海氏訳本p.220)。また、労働党の New Leader 誌のために書いた論文では、イギリスの中国政策の批判をおこなった。1935年に刊行された「懐疑論集」の序説でも(松下注:懐疑論集は、1928年に刊行されている。一部の Allen & Unwin 本に1935 と書いてあるための誤解と思われる。)、「政治と宗教の上での意見は、ほとんどいつでもと言ってよいほど、熱情的に抱懐されるものである。中国を除いて、人は、このような問題に強い意見を持っていないと、気の毒な人間と思われる」「中国は例外だが、どこの国でも、自分のことについて本当のことを言われたとき、これを許容する国はない。」と書いた(東宮氏訳本p.8, 11)。同書に収められた「東西の幸福の理想」では、ジョージ・ワシントンが今日の世界に生まれかえったら、中国でのみ「生命と自由と幸福の追求(ジェファーソンの独立宣言の中の句)を心に抱いている人に出会うだろう」といい、「中国人とわれわれ自身の大きなな違いを一言で要約しようとすれば、私は、中国人がだいたいにおいて楽しみを目指すのに対して、われわれはだいたい力を目指すと言いたい。」「中国を知るに及んでから、私は、怠惰をもって、人々のだいたい平気で持てる最上の性質の1つと見てきたことを、告白しなくてはならない。」「白人の国とくらべて中国には万人のための自由があり、ほんの少数の人びと以外は誰もかれもが貧しいことからみて驚くほどの幸福が、ある程度まで普及するに至った」(同上pp.113~115)といっている。ラッセルはこの評論の末尾で、中国の制度の重大な欠陥が一つあり、それは「この制度のために中国が喧嘩っぱやい国民に抵抗できぬ点である」といい、しかし中国は「民族的独立」を保持しようとして、ある程度まで「われわれの悪徳を真似せざるをえないであろう」と予言しているが、この予言をふくめて、その中国論は『中国の問題』と変わっていない。
当然のことながら、中華人民共和国が成立してから、ラッセルの中国観は変化する。が、それについてはここでは触れない。
ラッセルの戦前の中国観はかれの哲学とまったく調和している。かれの中国と中国人への称賛はかれの哲学からみちびきだされるものである。すでにみてきたように五・四文化革命当時のヤング・チャイナたちは、「国民性」とその改造(思想革命)ということを最も緊急の課題として意識していたが、ラッセルの哲学とこの課題意識とはぴったり合って、ラッセルの本書の第11章、第12章が書かれたと言いうる。ここでは、この両章について、ラッセルの中国観がどういうものであるかを見よう。
ラッセルは、第11章で、大昔の老子や孔子がすでに「現代中国の特質としてみなすべきものをすでに所有していた」と書いている。老子とその弟子荘子は、一種の自由思想家として評価され、万物それぞれ自らに適した「道」があり、万物がそれに従って生きれば世界に争いがなくなると説いた、とされている。孔子についても、「彼の主なる関心事はいろいろの場合に接してどういうふうに正しく行動すべきかを人々に教えることにあった」といい、その教義体系が「宗教的教義をまったく含まない純粋倫理の一つである」ことを評価し、だからこそそれは「強力な僧職制を生むことにもならなかったし、また迫害を引き起こしもしなかった」と言っている。
ラッセルは、中国の政治が、この儒教の教養をもつ「懐疑的な者」に握られていたので、若干の例外をのぞき、国民は幸福であった、と評価している。かれによれば、中国文明は、ヨーロッパ文明の3要素のうち「ギリシャに見られるものの大部分は見いだされるが、ユダヤ主義と科学とは全然発見できない、という。
こういう評価のしかたは、中国民衆の日常性のレベルでは絶対にうけいれることのできないものだったろう。現に、魯迅は次のように書いている。
「ところで、中国の固有文明を讃美する人々が多くなってきた。しかも外国人までがほめたてる。私はよく思うのだが、中国にやってきた人で、中国を憎み、考えただけでも頭が痛くなり顔をしかめたくなるといえる人があったら、私は心からその人に感謝を捧げるだろう。なぜなら、そういう人は決して中国人の肉を食うことを欲しない人にちがいないからだ。」
「もしも誰か外国人で、もはや御馳走によばれる資格を得た今日も、なおわれわれのために中国の現状を呪咀してくれる人があったとすれば、その人こそ本当に良心のある、ほんとうに敬服すべき人なのである。」
「外国人のうち、知らずに讃美しているものは恕(ゆる)せる。高位におり、賛沢に暮らしつけているために惑わされ、霊知がくもってしまって讃美するのも、まだ恕せる。しかしそのほかにまだ2つある。1つは、中国人は劣等人種であって、従来のままの有様でいるよりほかに能がないと考えるところから、故意に中国の古いものを賞める人々がある。もう1つは、自分の旅行の興味を増すためには、世界各国の人々がそれぞれ異なっていて、中国にくれば辮髪が見られる、日本に行けば下駄が見られる、朝鮮に行けば笠が見られる、という具合であるのが望ましく、もしも服飾が同じだとさっぱり面白味がないとあって、アジアの欧化に反対する人々である。これらはいずれも憎むべきである。ラッセルが西湖で、轎夫(かごかき)の微笑を見て、中国人を讃美したのは別に考えがあってのことかも知れない。しかし、轎夫がもしも轎に乗っている人に微笑を向けないでいられたら、中国もとっくに今日のような中国ではなくなっていたろう。」(1925年4月「灯火漫筆」、松枝茂夫訳による。)
魯迅はつとめて理性的に「別に考えがあってのことかもしれない」と留保をつけていっているが、この痛烈なことばには、ラッセルも一言もないであろう。ラッセルが中国人の魂に迫ることはできなかったことを、このことばは思い知らせる。
ただ、ここでは、魯迅が留保してくれた「別の考え」、つまり別のレベルでのことばに翻訳して、ラッセルの中国文化観を、私なりに整理してみよう。中国はつい最近まで、「絶対」の観念をもたなかった。だから「無常」、つまり「絶対」を否定することを主義とする仏教は受けいれたが、キリスト教的な宗教は育たなかった。毛主席の哲学もことごとに「絶対」を否定しているのがいちじるしい特色である(プロレタリア文化大革命中も通説とは逆に、毛主席は毛沢東思想の絶対化に強く反対している)。ラッセル哲学では、これは科学の発展にとってもっとも望ましい状態である。しかし、このような見方をラッセルのように一面的に強調すると、中国文明はバラ色一色となってしまい、その同じ儒教とその制度が現実に中国人民を抑圧している側面、とくに婦人にたいする抑圧(一方的な貞節の要求、寡婦主義)を軽視することになる。このことはラッセルが周知のような革命的な結婚観をもっていただけに、たいへんふしぎである。あるいは、ラッセルはそのことを知ってはいたが、ラッセルの周囲に集まってきたヤング・チャイナたちがいずれも婦人問題・結婚観にかんして、もっとも偏見のない人々であったので、ラッセルが中国におけるこの問題の重要性を軽視するようになったのかもしれない。(これは十分にありうることである。当時のヤング・チャイナたちは、胡蘭成氏の表現をかりれば「金童玉女」であって、まったく新しい原理に立って結婚・離婚の問題を処理していた。それは当時の多くの文学作品に反映されている。)
ラッセルの中国観が中国滞在中につきあった中国人の印象に主として依存していたことは、たとえばつぎの一句に示されている。「日本人と中国人とのちがいで注目に値する点は、中国が西欧欧から学ばんと念願するものが、富または軍事力を与えるものではなく、むしろ、倫理的かつ社会的な価値、あるいは純然たる精神的関心を充たすものである、ということである。」 なるほど、そのとおりであろう。しかし、もしラッセルが19世紀の末、あるいは辛亥革命以前に来華していたならば、これと全然逆の評価をしたかもしれないと思われる。さきにも述べたように、中国の知識人が全体として「倫理的かつ社会的価値」「純然たる精神的関心を充たすもの」をもっぱら求めたのは、五・四文化革命の時期に特有のことだったからである。
第12章「中国国民性」は、ラッセルのこのような偏りがもっとも露骨に出ているように思う。たとえばラッセルは、「典型的西欧人は、自己の環境の中で多くの変化を起こす主体とならんと願うが、これに対し、典型的な中国人は、できる限り多くかつ優雅に生を楽しみたいと願うのである。この差異は、中国と英語を話す世界との対照の底に横たわる文化のちがいである」「中国には…野心家が西欧より少ない」と書いている。しかし、私には、この説明はいささか神秘的に思える。当時の中国人が、各人それぞれ異なったやり方で生をたのしみたいとねがっていたとすれば、それは当時の中国が、科挙の廃止とナショナルな国民教育普及の中間期だった、ということから説明したほうがよいように思える。これがほんの十余年前だったら、中国の知識人はすべて科挙の受験勉強でまったく無味乾燥な同一のテキストによって教育されていたであろうし、さらに40年もたてば、全国画一的な初・中等教育が普及して、西欧とはちがうが全国民に共通の首尾一貫した価値観が形成され、その価値観から、「自己の環境の中で多くの変化を起こす主体とならんと願う」に至るからである。実際、当時の中国くらい価値の無政府状態――神々の共存の時代はその後にはない。歴史をさかのぼってみれば、先秦の百家争鳴時代がわずかに似ているだけである。さらにまた、当時の典型的な中国知識人が、「権力欲がなく」「優雅に生に楽しみたい」と思っていたとすれば、それはひとつには権力(国家権力)の腐敗・弱体がこの時代ほど甚だしかったことはなく、したがって権力がこの時代ほど魅力のなかった時代はなかったからである。(したがって1928年に、国民党の新政権ができて、国家権力に多少とも人を惹きつけるものが生まれると、五・四時代のヤング・チャイナたちの大部分が官位につき、権力を追求するようになる。)
さらにラッセルは、中国では、「原則として実際に、言論の自由や出版の自由にほとんど干渉していない」と書いているが、それこそ五・四文化革命期のこのごく短い一時期だけの話であって、その前の清朝末期と袁世凱時代、その後の蒋介石時代の言論弾圧ぶりはすさまじいものであった、と誰でも反論したくなるにちがいない。
これらの、ラッセルのいわば「ひいきのひきたおし」ともいうべき中国人への賛辞は、一言でいえば、ラッセルが中国の下積みの民衆のもつ、日常性の重みを感じ取れなかったということ示していよう。さきに紹介した魯迅の痛烈な批判も、つまるところ日常生活の重みから、それをいかにして軽くするかという、うめきのようなものから、発している。
だが、ラッセルの中国国民性論は、以上のような根本的な欠陥にもかかわらず、なお大きな意味をもち、同時代の日本人の書いたいかなる中国論よりもおもしろい。それはなぜかといえば、日本人の中国論・中国研究には、日本についての統一的なイメージがなく、とくに日本革命についての明確なイメージがないからではないかと思う。だからともすれば無味乾燥な「客観的」データの提示におわるか、いわゆる「中国ベッタリ」になる。これにたいして、ラッセルはあくまでイギリス人であり、イギリスの現実の全体像をもち、かつそれへの鋭い批判がある。たとえば、ラッセルは、中国国民性について次のようにいっている。「中国人はユーモアを解し、妥協を愛し、輿論にしたがう習慣のあるイギリス人を思い出させる。争いが極限的な残忍さにまで発展することは滅多にない。」すなわち、ラッセルが中国国民性の美点として見いだしたのは、ほかならぬかれの祖国イギリスのもっている美点、イギリス国民性と考えていたものであった。ラッセルの心の中にはよきイギリス、文化的実在としてのイギリスのイメージがはっきりしており、それを悪しきイギリス(=イギリス帝国主義)が蔽っていることを怒っているのである。思うに、ラッセルの中国人への愛着は、失われつつある,よきイギリス国民性への愛惜の念を核としているのであろう。私たちは、そこに1920年当時の中国人の性格の写真を見ようとしてはなるまい。そこに提示されているのはよき自由のイギリスをこよなく愛し、あしき抑圧のイギリスを強く排するラッセルという「できごと」と、精神革命の道を求めていたヤング・チャイナという「できごと」の邂遁の記録、否1つの詩なのである。
本書『中国の問題』のほかの各章についても同様である。ここでは1970年代の中国が、1920年の中国とどのようにちがっているかについて言をついやすことはもはや無用であろう。もし読者が中国についての「知識」を求めるのなら、その後おびただしく刊行されている内外の中国研究書について学ばなければならない。
中国の将来についての具体的なラッセルの評言について、言わずもがなの注釈を加えておけば、かれは期待する指導者の性格として、「知性をもち、かつ実際的であること」をあげ、その「2つの才能が1人の人間に体現される」ことを望ましいとしているが、中国革命はこれにあてはまる毛主席のような偉大な指導者を生みだし、ラッセルがとくに知的指導者として名を挙げている胡適はじつは知的指導者にもなれなかった。だが、ラッセルが本書の最後で予言していること
――「中国の革命家が、自衛能力を達成した暁にも、戦争防止の自制力を持ち得れば、さらに外国征服に自ら乗り出すのを抑止できれば、また、中国が国内の安全を保証できた時に列強の中国に強制する物質的諸活動から目を転じ、中国のもつ自由な力を科学、芸術およびより善き経済組織をスタートさせることなどに献げることができれば、その時こそ、中国は世界における中国に適した役割を果たせることだろうし、また、最も必要な瞬間に中国は、人類に全く新しい希望を与えてもくれよう。(本文p.282)」
この予言はうたがいもなく、現実のものになろうとしていると私には思われる。