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バートランド・ラッセル(著)『政治理想』への訳者あとがき

* 出典:バートランド・ラッセル(著).牧野力(訳)『政治理想』(理想社,1963年9月刊。115pp.)
* 原著:Political Ideals, 1917)
*(故)牧野力氏略歴

訳者あとがき(富士見高原にて、1963年8月13日)

 (米国では1917年に出版されたのにもかかわらず、)約半世紀たった1962年(松下注:1963年の誤記)に本書が英国で初めて出版されたことに本書の特質があらわれているといえよう。
 90歳のラッセル卿は、1917年の古い講演原稿を出版しなければならないほど執筆力は衰えていない(1963年5月に、キューバ事件と中印国境紛争事件とに関連して、国際政局と将来とを説いた「武装なき勝利」(Unarmed Victory, 1963)が出版されている)。
 卿は、1962年(ママ)の今日の世界にも、未だ本書の所説が普遍性と妥当性とを失っていないと信じたからであろう。
 俗に、床屋政談、という言葉がある。人間誰も、自分たちの生活のあり方について、めいめい願望と意見とが生まれるのは当然である。そして、その内容や性格は千差万別であろう。政治について、あれこれと理想が考えられ、語られる時も、それに賛同、批判、反対する時にも、高校生、大学生、社会人、学者と多種多様を極めることであろう。
 しかし、その際、個々の姿や絵図を重視する観点のほかに、政治理想としての性格ないし必要条件とでもいうような観点から考えることも必要であろう。
 本書は、政治理想を抱く時や批判する時、心得ておいてよい問題について述べられている。つまり、こうありたいと欲する要素(衝動)とあれを欲しいと望む対象物の要素(もの)とに分析し、その対蹠的な性格と反応とにふれている。さらに、理想郷(ユートピア)、あるいは、最良の制度について、完成された姿よりも、機能の面に注目して、われわれが陥りがちな着想の誤りをも指摘している。
 要するに、われわれが政治理想について云々する前に、論理上の誤りや無駄、発想法の後進的な幼稚さを避けたければ、本書の精読が何か役立つということである。特に、精読といったのは、本書が60余冊のラッセルの単行本に述べられた思想と解説との萌芽と考えられるからで、読者が最も現代的で、目新しさとすばらしさとに賛同するような最近の著作の内容は本書の展開であるといえそうだからである。ラッセルは信念と所論とにおいても、信念の表わし方と行動とにおいても、終始一貫しているといえるからである。『政治理想』(1917年)と『人間に未来があるか』(1961年)と対比すれば、わかろう。第1次大戦当時、反戦論的論文の執筆者(ケンブリッジ大学の教職を追われ、6ヵ月の獄中生活を送った)平和主義者たる彼は、1963年の今日でも、90歳の老齢にもかかわらず、核兵器反対運動の先頭に立って、1週間の禁固刑を受けても、今なお、所信を貫いている。

 さて、本書は全5章に分かれているが、各章の所説は第1章「政治理想」を概論として、その各論の観がある。現代人が自己の生活の周囲に眼をやれば、生活を支える経済面、給与とその体系、さらに遡れば、資本主義組織が対象になる(第2章、資本主義と賃金体系)。常識となってしまっている資本主義対策として考えられる社会主義はどうであろうか。いろいろの社会主義がある以外に、その実現手段・方法は絶対無視できない問題である。「手段と目的」の問題に敏感であれば、社会主義実現方法の明暗について盲目でありえない(ラッセル自身もギルド社会主義者であるとか聞く)。憧憬の念と尊敬とに胸をふくらませて、彼は1920年にレーニン始めソ連の幹部と面談した。帰国してから、彼は一貫して、反スターリン主義・官僚独裁主義反対を唱えて来た。ラッセルとしては、社会主義の盲点を説かざるを得ないのである(第3章、社会主義の落とし穴)。社会主義を否定するのでなく、より多く生かすための反省であるといえよう(この点、『民主主義とは何か』(1953年)でも、労働党の国営問題をとりあげて論じている)。しかし、資本主義と社会主義との関係に内在するものの1つは、個人を重視するか社会を重視するかの問題であり、さらに、それは個人の自由と公共の統制との問題にも通じている。自由と統制の問題は、人間個人の場合でも国家と世界との場合でも、関係ある問題である。先ず、本質論的に説いて(第4章、個人の自由と公共の統制)、次に、環境という実際面に適用すると、それは、国家と世界との関係になる(第5章、国家の独立と国際主義)。
 このように、人間誰も抱く「政治理想」は、内面的に、その要素として観ると、願望として(衝動と物)・生きる場として(組織と環境国家と世界)・方法として(自由と統制)などの諸要素の選択構成となろう。その諸要素の選択構成の巧拙良否がその政治理想の性格となろう。しかし、ラッセルが、「人間の作る制度に最終的目標などは全くありません。最良の制度とは、相互に進歩を助け合うような制度です」と機能的な面で考えていたり、「われわれの望まねばならないものは、仕上げの完了した理想郷ではなくて、想像力と希望とを生き生きと活発にするような世界でなければなりません」とユートピアの姿に着目するよりも、ユートピアとして要求される条件機能の面を重視しているのは注意すべきところであるまいか。いわゆるユートピア研究は姿の研究が多い。これはその中で、ユートピア研究の一視点を示唆しているともいえよう。
 ラッセル卿は、人間肯定の精神から、政治理想の根底を、個人の幸福の具現に終始させている。個性と創意とが集団と組織とによって窒息状態におかれ易い必然性を、現代生活が内包している。その対策として大幅の部内自治と民主化とをあげている。この点は注目すべき点であるまいか。「近頃の人間は、昔より、人物が小粒で、根性も気宇もない。……」という声をよく耳にする。その必然的な面を衝いて、さらに別な必然的な機能を持つ関係に進むことによって、この憤慨居士の善意は、達成されないものであろうか。 1963.08.13 冨士見高原(下記地図参照)にて訳者