バートランド・ラッセル(著),新井慶(訳)『哲学の諸問題』への訳者あとがき
* 出典:バートランド・ラッセル(著),新井慶(訳)『哲学の諸問題』(育成社,1946年10月刊。247+6 pp.)* 原著:The Problems of Philosophy, 1912
*(故)新井慶(?~?)
訳者あとがき(1946.9)
本書は、英国の哲学者でまた数理哲学者としてもすぐれているラッセルの著書『哲学の諸問題』(Bertrand Russell, 1872-, The Problems of Philsophy, London 1912)の翻訳である。
ラッセルの哲学的立場は新実在論と称せられている(*1)。然し新実在論にもいろいろなニュアンスがあるから、ラッセルの哲学にはまた彼独自の主張がある筈である(*2)。ラッセルが数理哲学者としても顕著な存在であることは、其著『数学の原理』(1903年)、『数学原理(Principia Mathematica)』(1910-1913年)、及び『数理哲学概論』(1919年)等によって明らかである。彼は、数学における厳密な方法を哲学に導入した点については「スピノザやデカルト等の近世哲学者と軌を一にしている。然し後者は単に数学的方法の明晰な性質を哲学の範としただけであり、従って哲学と数学との関係はいわば外面的であったのに反し、ラッセルにあっては、数学的論理的な思考方法が直ちに哲学に適用せられて独特の効果を挙げていることが注目される。このように数学やまた現代の理論物理学に関する彼の研究(*3)が、ラッセルの哲学に著しい影響を与えたことは当然の結果であり、これによって最近の科学理論と彼の哲学とが非常によく調和せられている理由もよく理解せられる。
*1.ラムゼーは、ラッセルの哲学は、観念論でもなければ実在論でもなく、寧ろ「論理的原子論」とでも呼ぶべきものだと言っている。
*2.ラッセルの哲学は、本書のほかにも、『外界に関する我々の知識』(1914年)及び『心の分析』(1927年)(松下注:1921の間違い)に展開せられている。然しその根本的傾向は――たとえ後には感官与件と感覚との区別を撤(廃)したというような多少の発展はあるにせよ、――既に本書に於て確立されている。
*3.ラッセルには『原子のABC』(1923年)、『相対性理論のABC』(1925年)、及び『科学展望』(1931年)等の著書がある。
元来、本書は『家庭大学文庫』(Home University Library)という叢書中の一篇として書かれたものであるから、その性質上叙述が極めて平易であり、恐らく哲学に関するかかる種類の書物としては最もすぐれた、また最高度の啓蒙的著作の一つに数えられるであろう。即ち我々が日常不断に経験している些細な事柄から説き起して、次第に物質の本性とか観念とか或は種々な知識というような、認識論的問題を論じ、遂に知識の真偽に関する究極的な問題の解決に終わっている。このように平易な書き方で哲学の諸問題を論じるということは、哲学に関する論述といえば、特にわが国では――著述及び翻訳を含めて――ひどく難解で一般の人々には到底歯が立たないというような印象を与えている事実に対する最も有力な反駁であろう。そこで本文の各章についての解説は格別必要がないと思われるから、ここではラッセルの哲学の特性を示しているような若干の点を指摘するにとどめたい。
第1は、ラッセルが観念論、特にバークリの主観的観念論に対する反対である。彼はかかる種類の観念論に通じる共通の誤謬は、思考の作用と思考の対象とを混同しているところにあると考えている。この点に於て、彼の哲学は、同じく哲学者にしてまた哲学者であったボルツァーノを想起させる。つまりラッセルは、知識というものは、心と心から独立した実在との間の関係によって成立すると言うのである。そこで更にこの関係を考究してみると、第2に、知識には直接知による知識と記述による知識とがある。前者は我々が感覚によって直接に知覚する『物の知識』であり、後者は物の知識から推論せられた『真理の知識』である。それだから真理の知識は結局、物の知識に還元せられる。他方に於て、直接知による物の知識は根本に於て、物的対象と呼ばれるところの――我々の感官与件とは異れる、また我々の心から独立せる――実在に依存している。第3に、この実在は、名詞や形容詞によって代表せられるものにのみ限られるのではなく、動詞や前置詞によって表現せられる『関係』もまたこれに属する。例えば、『エディンバラはロンドンの北にある』という命題についてみると、このなかの『の北に(in the north)』という語の意味は、エディンバラにもロンドンにも含まれていないし、さりとて我々の心が創り出したものでもない、それにも拘らず、なんらかの意味で存立している普遍概念である。尚、知識全体についてのラッセルの見解は第10章の終わりの方に総括的に述べてあるから、彼の哲学に興味をもたれる方は、自分で表でも作って概観して頂きたい。第4に真理と虚偽とについては、我々の確信に対応する事実が客観的に存在する場合には、その確信は真であり、またかかる事実が存在していないときには偽であるとして、この難問題を実在論的立場から片附けている。
本書の最後の2章は、哲学に関する一般的考察であり、これは寧ろ最初に読まれるべきものであろう。ラッセルは古来の哲学者がややもすれば壮大な哲学的或は形而上学的体系の建設を哲学の究極目的として追究しているが、然し斯学の任務はそのような思い上がった欲求ではなく、もっと謙虚なもの、即ち知識の批判であると主張する。彼は、力ントの観念論には部分的に反対しているが、哲学を批判主義と解する点では,一致していると言ってよい。特に最後の章では、彼は哲学に対する一般の誤解乃至疑惑の故なきことを弁じて、哲学は常識や本能に因由(松下注:原因由来)するせせこましい成見や因習の牢獄に囚はれている人達の縛を解き、これによって我々の心を次第に拡充し、ますます自由にするものだと述べている。然しここでも哲学は、非我即ち自己ならざる外界から出発して、この外的世界の偉大によって自己をも偉大にする、即ち、心は宇宙の無限に興ることによって、同じく無限者に興るものだという思想は、やはり実在論的である。
ラッセルの哲学は要するに彼自身のものであり、これを読む人は――彼とまったく立場と同じくしない限り、――固よりその全部を承認し得るものではない。訳者もまた彼の哲学に対していくつかの疑問をもたざるを得ない、例えばラッセルは、『心のうちに』という言葉を用いているが、これはまったく比喩的な表現であり、実際には心に内外表裏があるとは考えられない。また事実は心から独立に存在しているというけれども、事実が心から独立に存在しているということを認識するのは直接知によるのではない。そうだとしたらここに認識論上の難問が存し、そうたやすくこのように断言する訳にはいくまい。然し我々が実在論的或は観念論的或はまたその他の立場をとるにせよ、我々はひとしく物質とか現象或は実在、知識というような、同一の対象を思考するのであるから、お互いに人間として存在する限り、成心をもたずに思惟すればいかなる哲学的立場にも或る程度は共通なものがある筈である。それだから読者が本書を手引として、まず自分の頭で自分の問題を考えるという習慣をつけ、何事をも自主的に批判し判断するようになるならば、訳者の努力は十分に酬いられたと言ってよい。またラッセルが哲学は批判だという意味も、そのときにこそ実現せられるのである。
ラッセルは本書の最後に、
「哲学の基本的な知識を求めようと欲する人は、哲学の教本を捗猟(ほりょう)して、概論的な見解を得ようとするよりも、偉大な哲学者達の著作をいくつか読む方が一層容易でありまた有益でもある。次に掲げる諸著は、特に推奨せられるものである。」と前置きして、プラトンの『国家篇』、特にその第6及び第7篇、デカルトの『省察』、スピノザの『エティカ』、ラィプニッツの『単子論』、バークリの『ハイラスとフィロナスとの3つの対話』、ヒュームの『人間悟性論』及びカントの『プロレゴメナ』を挙げている。ラッセルのこの忠言は、哲学を学ぼうとする人にとって極めて適切である。哲学に於ても、本源の水は常に新鮮だからである。ラッセルは社会改良論者としても進歩的で且つ明晰な見解を懐き、就中『社会改造の原理』(1916年)と『自由への道』(1918年)とは、わが国の現状に鑑みて非常に有益である。両書とも、よい新訳が本書と同じ出版社から近く刊行せられる予定である(松下注:未刊に終わったのか?!)。本書の註は、※印を附したものは原註、また数字を以て示したものは訳者註である。 昭和21(1946年)9月