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バートランド・ラッセル落穂拾い003(詳細版)

* ラッセル関係文献「以外」の図書などでラッセルに言及しているものを拾ったもの

簡略版

* サティシュ・クマール(著),尾崎修(訳)『君あり,故に我あり-依存の宣言』(講談社学術文庫,2005年4月)(2009.12.20)
* サティシュ・クマール(1936~ ):9歳でジャイナ教の修行僧。E.F.シューマッハー(『スモール・イズ・ビューティフル』の著者で,経済学者)とガンジーの思想を継承し,イギリス南西部にシューマッハー・カレッジを創設。
(p.172)ヴィノーバとクリシュナムルティーは核兵器の恐怖について語っていたが,私と友人の E.P.メノンが世界横断の旅に出るきっかけになったのは,1961年のイギリスでのバートランド・ラツセルの逮捕だった。ラッセルは核爆弾反対運動のため逮捕された。齢90のラッセルが世界平和という大義のために投獄される覚悟があったのに,若者の私は何をしているのだろう? 当時,世界には4つの核保有国があった。ラッセルと連帯するため,私たちは世界の核の首都であるモスクワ,パリ,ロンドン,ワシントンヘと歩くことにした。ヴィノーバは私たちを祝福し,私たちの'徒歩旅行'はどんなお金も持たずに行われるべきだと助言してくれた。長い間考え,よく検討した後,私たちは勇気を奮って,見知らぬ世界に飛び込む僧侶のように出発した。私たちは自らの無事を人々と世界に委ねることにしたのだった。・・・。

(pp.179-181)「第十五章 合理主義と非暴力 -バートランド・ラッセルとの遭遇」
 ある命題が真であると裏づける根拠が何もない場合,
 その命題を信じることは好ましくない。
              バートランド・ラッセル
 西洋の偉大な思想家との初めての出会いは,'私の世界旅行の途中'に起こった。それはバートランド・ラッセルである。彼の勇気ある信念,明確な思想,人類の幸福への献身を私は尊敬していた。インドからイギリスヘの私たちの'徒歩旅行'はラッセルに刺激を受けたものだったので,それはまるで彼を訪ねる'巡礼の旅'のようだった。
 私の友人の E・P・メノンはラッセルと書簡のやりとりをしていたが,ラッセルは私たちをロンドンから彼が隠居している北ウェールズの町ペンリンム(注:プラス・ペンリンのこと)ヘ案内するよう,秘書のパット・ポトルに頼んだ。
 10月のある晴れた晩,私たちは車で北西へと出発した。「道の混み具合にもよりますが,(ロンドン市内から)だいたい5時間くらいのドライブになります」とパットはいった。パットは私たちのために,飲み物,パン,チーズ,果物,ナッツ,レーズンなどの詰まったバスケットを用意してくれていた。ラッシュアワーはほぼ終わっている時間だったが道路はまだ混雑しており,ロンドンから出るには時間がかかった。
バーミンガムで多少渋滞するかもしれません」とパットはいった。「でも,その後は大丈夫なはずです。もちろん,ウェールズの道は丘陵地帯なので曲がりくねっていますがね」
「心配しないで下さい,ゆっくり話す時間ができるというものです」と私はいい,こう尋ねた。「なぜラッセルは,ウェールズに隠居したのですか?」
「先ずは,ラッセルがウェールズの生まれだからです」とパットは答えた。「それに,ウェールズは今でも汚されていない静かな田舎です。公害や騒音もありません。暮らしはずっと快適だし,ラッセルは田舎の環境が好きなのです」
「その他に彼が好きなものは何でしょうか?」と私は聞いた。
「面白い質問ですね」とパットは満面の笑みを浮かべていった。少し考えてから,彼はいった。「ラッセルが愛するのは論理,平和,それともちろん,女性です」。今度は,パットは大声で笑った。「彼の今の奥さんは,彼の人生で4人目か5人目の女性でしょう。だから,女性への愛は優先順位が高いに相違ありません」
「彼は情熱家なのでしょう」と私はいった。「情熱と結びついた愛はとても力強いものです。しかし,情熱はあまり論理的なものではありません。彼はどうやって'情熱と論理のバランス'を取っているのでしょう?」
「あなたは,『ラッセルのパラドックス』と呼ばれるものに踏み込んでいます。ラッセル は,アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドと協力して完成させた有名な著書,『プリンキピア・マテマティカ』を執筆中に,このパラドックス理論に達しました」とパットはいった。(松下注:もちろんこれは,「論理的パラドクス」の問題ではない。しいて言えば「心理的パラドクス」である。)
「その本はラッセルに偉大な名声をもたらしましたね」と私は付け加えた。
「ええ,そのとおりです」とパットはいった。「ラッセルはノーベル賞を受賞しました」
「でも,私には彼の'乾いた論理'と'分析的な哲学'は,どちらかというと冷たいものに思えます」と私はいった。
「多くの人がそう感じます」とパットは認めた。「事実,ラッセル自身も『冷たい』という言葉を使いました。彼は,『数学は真理を含んでいるだけでなく,究極の美,彫刻のように冷たく厳粛な美を持っている』といいました。ですから,あなたのいうことはもっともです」
 ラッセルの数学理論に対しての不安感を思い起こし,私はこう聞いた。「数学への愛はラッセルに,すべての哲学,思考,倫理でさえも数学によって説明可能である,と宣言するに至らしめました。実際,ラッセルはあらゆる発見は数学的公式に置き換えることができると考えています。しかし,そんなことは可能でしょうか?」(松下注:ラッセルは,'倫理の問題'(命題など)を数学的公式で表現できるなどとは言ったことはない。)
 パットは答えた。「その点について,バートランド・ラッセルとルートウィヒ・ウィトゲンシュタインとの間には大きな意見の違いがありました。ウィトゲンシュタインは,数学的に公式化することはおろか,'言葉で表すことすら不可能な思考の領域'があると考えていました。これが彼のいう『沈黙の領域』であり,この点に関してウィトゲンシュタインはいわゆる東洋思想,特に仏教に近い立場です。ウィトゲンシュタインは,西洋哲学の冷徹な合理主義にそれほど囚われていません。しかし,ラッセルの興味深いところは,彼の論理と哲学が冷たいものであったとしても,彼の人生や行動,駆け引きのやり方などは情熱に溢れているということです」
「それはまるで彼が2つの,ともすれば'分裂的な人格'を持っているかのようですね」と私は率直にいった。パットは自分のボスに対するこのような批判的意見には慣れているようだった。
「そのとおりかもしれません」。パットはいった。「平和運動においての彼の記録を見て御覧なさい。第一次大戦時,ラッセルは平和主義者でした。彼は良心的兵役拒否者として投獄され,その信念のせいでケンブリッジ大学のトリニティ校(トリニティ・コレッジ)を免職されました。そして,第二次大戦時には彼は戦争を支持しました。(ラッセルは徴兵義務年令を越えていたので,ラッセル自身は良心的'兵役拒否'者ではない。あくまでも,良心的兵役拒否者を支持するという立場である。)なぜなら彼の論理的思考においてヒトラーは悪であり打倒すべきものだったからです」。パットは続けた。「ガンジーならそうはしないでしょう。ラッセルは,戦争と暴力はいかなる状況下でも罪悪であり本来間違っている,とは考えていないのです」
「つまり,そこが'矛盾'している点なのですね」と私はいい,こう尋ねた。「平和に対するラッセルの献身は道徳的あるいは倫理的な根拠に基づいているのではなく,実際主義的,数学的とすらいえる計算に基づいている,とおっしゃるのでしょうか?」
「分かりません」とパットはいった。「私はラッセルと一緒に仕事をしていますが,私にとって,そして他の多くの人にとっても,ラッセルは未だに謎です。いずれにせよ,かくも偉大な知性の持ち主が'平和の戦士'でもあるということは,私たちにとっては幸運なことです。その名声のお蔭で,彼はアインシュタインを平和宣言に署名させることができ,それが毎年多くの科学者が集まって開催するパグウォッシュ会議につながったのです」(注:アインシュタインが署名したのは,ラッセルが世界的に有名だからではない。アインシュタインとラッセルとはかなり交流があり,お互いに尊敬しあっており,核兵器に対しては同じ思いを持っていたからである。)
「パグウォッシュはどこにあるのでしょう?」と私は聞いた。
「カナダのノヴァスコシアです」とパットはいった。「今では,パグウォッシュ会議は世界のあちこちで開催されています」(注:周知のように,パグウォッシュ会議は,最近,ノーベル平和賞を受賞している。)
 話の合間,私たちはナッツをかじり,チーズを食べていた。自身も合理主義者である我が友人 E.P.メノンがいった。「倫理的根拠に基づくにせよ実際的根拠に基づくにせよ,平和と非武装と正義を達成できるなら,私は大満足ですよ。動機が何であるかは問題ではなく,結果が問題なのです」
「ラッセルもそう考えています」とパットはいった。「彼はCND(核兵器廃絶運動)では,キリスト教徒や社会主義者や保守派,その他たくさんの核兵器廃絶という一点について意見を同じくする人々と協力してきました」。活発な会話とバスケットの中の美味しい食べ物のお蔭で,私たちの道中はあっという間に過ぎた。夜遅くに私たちはペンリンム(プラス・ペンリン)に到着し,疲れを取り新鮮な気持ちで次の日の午後にラッセルと会うため,ゆっくりと寝ることにした。

 ラッセルは海の近くの,快適だが吹きさらしの田舎風コテージに幕らしていた。私たちは彼の家の居間でお茶を飲みながら座っていた。私は,部屋の壁にあるいくつかの印象的な絵から目を離すことができなかった。私は西洋に来てまだ間がなく,西洋美術についてあまり知らなかったが,科学者や哲学者だけでなく貴族の肖像画があるのは,ラッセルの経歴と関心を物語るものだった。
 ラッセルは,'もじゃもじゃの灰色の髪'をした痩せた'小柄な'男性だった。彼はカジュアルなズボンを穿いていたが,シャツにはしっかりとアイロンがかかっていた。ウールのベストにツイードのジャケット,赤いネクタイを締めた姿は,旧舎の環境の中ですっかりくつろいでいる都会的インテリの印象を与えた。
 91歳という年齢(注:ということは,1963年にサティシュは訪問か?)にもかかわらず,彼は非常に機敏だった。平和に対する彼の献身は揺るぎなく活発なものだった。しかし,私が予想したとおり,世界平和についての彼の原点は私のそれとは大きく異なっていた。「私が恐れているのは'世界の終末'だ。もし我々がこの恐るべき兵器を始末しなければ,兵器の方が我々を始末するだろう」と彼は力強くいった,彼は,戦争と平和やその他多くの問題を解決する手立てとして,合理的思考の力を信じていた。世界の問題を統御し整理するための客観的かつ論理的方法が存在する,と彼は考えていた。
「もし政治家が合理的な道,理性の道を辿ったなら,我々は公正で平和な社会を築くことができる」と彼は述べた。彼の確信は説得力のあるものだった。しかし,彼にとって平和とは,生き方というよりは政策的課題であり,達成されるべき目標だった。
「平和政策が軍備競争に終わりをもたらすことができる」と彼はいった。「我々全体にとって,とりわけ政治家にとって,選択肢は明確だ。'核兵器を廃絶するか,核兵器が人類を滅ぼすか'のどちらかだ」
「'政府の政策転換'と同時に,'心の変化'も必要だとは思われませんか?」と私は示唆した。「'政策の変更'と私たち個人の生活の変化が同時に起こらねばならないにちがいありません。平和のための政策だけでは十分ではないのです。地球への愛と'生命への畏敬'の念は,真の平和を築くための不可欠な土台です」
 ラッセルはいった。「人民の力と理性の力によって,政府を核兵器廃棄に追い込まなければならない。君がいっている'心の変化'が起こるのを待っている余裕はない。時間がないのだよ。'核の事故'は大災害をもたらしかねない。我々はこの狂気を今すぐ止めなければならないのだ」。ラッセルは断固として譲らなかった。彼はこう続けた。「我々が核兵器を選ぶことに固執するなら,我々の行く手にあるのは'世界の死滅'以外の何ものでもない」
 私はガンジー主義的視点をラッセルに提示したいと強く思った。「もし,人々が自分の中に平和を持ち,世界の資源の無制限な供給を必要としない,より'簡素な生活'を送る心構えがあるなら,核爆弾を製造する必要も,何かを巡って争うこともなくなるでしょう。人々が軍隊に加入しなければ軍隊はなくなり,私たちが正しい生活を実践するなら,兵器工場で働く人もいなくなるでしょう。平和の政策は,平和の経済や平和の文化と手を携えなければならないものです」と私はいった。
 バートランド・ラッセルとのこの会合は,CNDの絶頂期に行われていた。核爆弾には強い反対があったが,それは核兵器の問題のみに集中していた。そのため,私が「平和の文化」に言及したとき,バートランド・ラッセルはそれを理想論的で曖昧かつ非実際的なものと受け取った。
 ラッセルはいった。「もし,平和の主張をそのような'広い意味'に拡大してしまったら,議論を拡散させ,分散させ,鈍化させてしまう危険性がある。我々は'核武装の競争'を今すぐに止めることを求めている。現在問題とされているのはその一点のみだ
 短い沈黙の後,彼はいった。「私は,君の国のネルー首相とこの問題について率直な意見交換を行った。中立的立場の国の指導者を集め,核保有国に対して核兵器を廃棄するように圧力をかけるべきだと,私は彼に強く勧めた」
 '核兵器廃絶運動の効果'という意味では,ラッセルの意見は正しかったのだろう。
「しかし,核兵器は何もない所から現れたのではありません」と私は反論した。「核兵器の背景には社会的・政治的文化全体が存在しています。その文化と,その文化が持つ二元論的で物質主義的発想を問題にせずに核兵器だけを取り払ったとしても,同様に危険な何かが出現するでしょう」

 ラッセルとの短い面談は,幾分もどかしくもあったが刺激的だった。我が友メノンと私は,この問題についてラッセルの秘書と夜遅くまで議論した。私たちは彼の家に泊まっていたのだった。・・・。

 (この後の章でもところどころ(p.192),ラッセルに触れられているが,省略)