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ラッセル落穂拾い002(詳細版)
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(ラッセル関係文献「以外」の図書などでラッセルに言及しているものを拾ったもの)

  • 森昭(編著)『現代教育思潮』(第一法規,1969年3月/教育学叢書v,23)
    * 森昭(もり・あきら、1915‐1976):当時、大阪大学教授
    * 岡田渥美(おかだ・あつみ、1933〜 ):当時、大阪大学講師/後に京都大学高等教育教授システム開発センター長

    (pp.155-158)岡田渥美「新実在論の教育思想」の一部
     ・・・。ラッセルは、周知のごとく、ホワイトヘッドと並ぶ現代イギリス哲学界の巨峰であり、また熱烈な平和主義の社会思想家としても、百歳ちかい現在(1969年)なお、全人類に戦争の絶滅を訴え続けて活躍中である。彼の世界観は、イギリス経験論とくにヒュームのそれを、記号論理学を媒介として実在論的に再編成した「論理的原子論」である。この立場によれば、世界は無限に多くの「原子的事実」から構成され、しかも個々の原子的事実も相互に独立的である、とみる。その意味で、彼の思想は、哲学的にも、また社会的・政治的にも、ラディカルな「個人主義」をその特色とする。彼は言う。「究極の価値は、個々人のうちに求めるべきであって、全体(国家や集団)に求めるべきではない。よき社会は、これを構成する人々のためのよき生活への手段であって、それ自身で特別の優越性をもつものではない」(B. Russell, Authority and the Individual, 1949, pp.33-34)。「よいことのすべてが実現されうるのは、じつに個人においてであって、個人の自由な成長こそ、世界を再建すべき政治組織の究極の目的でなければならない」(B. Russell, Roads to Freedom, 1918/岡田氏は1949年版を参照)。しかるに、ラッセルによれば、現代人は、体制の圧力と権力の統制と生活の機械化とのために、個人として生き生きと創造的に生きることを忘却している。しかし、もし創造的活動の場が与えられ、自己の生をより完全に実現する機会に恵まれるならば、人間は生れかわったような喜びを味わいうる。そして、こうした人間性の再生を実現する「新しい世界への鍵」(the key to the new world)(注:B. Russell, On Education, 1926)となるものこそが、言葉の正しい意味における教育なのである。
     ラッセルは、'個人の自由'という立場から、最も魅力的な教育的著述をした人と評せられているが、彼が教育に深い関心を抱いた最初のきっかけは、第一次大戦の勃発にあった。そこに端なくも露呈された人間の狂気ないし「内なる暗黒」(darkeness within)を目のあたりにしたラッセルは、戦争の究極的原因を人間性に潜む闘争的・破壌的衝動に見出し、この戦争への衝動を止揚し浄化する教育の必要を痛感したのであった。かくして彼は、『社会再建の原理』(Principles of Social Reconstruction, 1916)で、「政治の武器としての教育」を批判し、ついで『教育論』(On Education, 1926)においては、「新世界を開く鍵」としての教育の本来的なあり方を探求し、最後に『教育と社会体制』(Education and the Social Order, 1932)においては、「人間を正気にする教育」を論じ、人間と社会に対する冷徹な洞察を踏まえた独自の教育思想を展開している。以下、これら三著を中心に、彼の教育思想を概括的に述べよう。

     ラッセルは、「個人」の特質として、認識と感情の調和、知と愛と力との調和、'考える'という特権ないし科学的精神の三つを挙げているが、彼の言う「個人」(the individual)とは、「社会」の対概念としてのそれではなく、創造性の欠如、権力ヘの黙従、発見的能力の喪失を特徴とする、現代国家における「市民」(the citizen)に対立する「個人」である。彼は、個人に内在するあらゆる可能性を開発し、人間が真の自己を実現することに期待しているのであるが、現代では、その個人のための教育が、権力や特定の信条に従順な市民を形成する教育によって圧倒されている事実に、彼は現代最大の危険を見、これに激しい警鐘を打ち鳴らしている。そして、イデオロギー的迷信や政治的宣伝に盲従する市民ではなく、「独力で知識を獲得し、健全な判断を自ら形成する精神的習慣」をもった「自已自身に依存するもの」としての「個人」の育成にこそ、現代教育の最も緊要を課題があると力説する。
     このような立場から、ラッセルは、前世紀以来発達してきた公教育制度について、仮借ない批判を加えた。彼によれば、本来、社会のより良き改造をその理念とすべき公教育が、その美名にかくれて、実は「若人の批判力を抹殺し」、権力の前に無批判に跪拝する人間を育て、「強欲な」(acquisitive)資本主義体制を維持・強化する「政治的道具」と化している。しかも、本来、正義の観念を養成し、知性の健全な発達を目的とすべき学校教育が、「虚偽の歴史、虚偽の政治、虚偽の経済、虚偽の道徳」を教えて、国民の魂に悪しきナショナリズムの毒を注入し、誤てる愛国心を鼓吹して戦争謳歌の風潮を助長してきた。このような国民教育においては、当然「自由な学習は阻止され」、生気溌剌たる「児童の天性は歪曲され」、健全な懐疑の精神は蝕まれ、真理に対する熱望は衰弱してしまう。これは、まさしく人間生命の発達法則に背馳するものであり、人間精神の自由な発達を助長すべき教育が、かえって、それの否定者・破壊者と堕していることを意味する。このように、帝国主義的ナショナリズムに基づく教育の害悪について厳しい弾劾を加えると共に、ラッセルはまた、国民教育が単に読み・書き・算と歪んだ国家的独善主義の注入のみに憂身をやつした結果、「知的萎縮症」(intellectual atrophy)の蔓延を招来したとして、次のような強い警告を発している。すなわち、知性を高く評価せず、または知性の発達を促さない教育は、やがてはその祖国を失うであろうと。そして、真の知性教育とは、自由の価値についての深い確信を、児童の知性を通じて確立することであり、「あらゆる問題を、知性をもって偏見に捉われることなく思考し、その結果としてならいかなる見解でも、これを素直に放棄できるように教育する」ことだと力説している。
     では、右のごとき現代教育批判の根底にある彼の理想的人間像は、いかなるものであろうか。この点に関してラッセルは、「相い集って理想的性格を形づくると考えられる四つの特質」として、生命力(vitality)、勇気(courage)、感受性(sensitiveness)および知性(intelligence)を挙げている。第一の「生命力」とは、単なる生理的特質としてのそれではない。身体的健全と精神的正常(sanity)とを同時に支えている人間の根源的生命力である。本来的に創造的であり、人間生活の改善の原動力となる生命力は、したがって決して抑圧さるべきものではなく、教育においては、これの保持と強化が先ず目指されねばならない。第二の「勇気」は、「自尊心」と「人生に関する非個人的な見方」との二要素から成る。ここにいう自尊とは、真に「自己の内部から生きること」(to live from within)であり、「理性が正しいと明示するところのものを」断乎主張する独立不羈(どくりつふき)の態度を意味する。また、「人生に対する非個人的な見方」とは、倭小な自我を超出した高次の生命や価値を肯定する人生態度である。それゆえ、ラッセルの説く勇気とは、戦場におけ剛勇などではなく、「知性的誠実」(intellectual probity)に基づく道徳的勇気と知約勇気との統合された精神特性と言ってよい。第三の特質たる「感受性」の一つは、まず社会的承認に対する感受性であり、生後半歳を経る頃から認められる徴侯であるが、これは生涯を通じて、人間相互の幸福を促進すべき積極的行動への強力な動機となる。いま一つの感受性は、他人の苦痛や悲惨、さらには世間の罪悪や災厄などに対する「共感」(sympathy)であり、知性の発達に伴い、より抽象的な刺激に対する共感が喚起されるようになる。したがって、この抽象的共感能力の育成は、次の知性の問題とも必然的に関連し、またやがては、人類同胞としての連帯性と国際協力のいきいきした感覚の育成にまでつながる。最後の「知性」とは、ラッセルによれば「真の知識と知識に対する受容性」とであるとされるが、それは具体的には、偏見に対置されるべき「捉れのない心」ないし「虚心」(open-mindedness)であると定義づけられている。自己の狭隘な主観や先入主を捨て、客観的事実を事実として探求してゆく精神的習性によって、人は正確を知識を得、かつまた独立的判断に達しうるが、知性とは、まさにその別名なのである。
     以上、生命力・勇気・感受性および知性について夫々簡述したが、これら四つの特質が一つに総合され、内的調和を形成するに至ったとき、そこに、真に創造的・独立的・建設的・平和的・探求的な個人の全体像が成立してくることは、多言を要すまい。ラッセルが、現代教育の最高課題として、「最も完全な個人的発達」を掲げた際、彼の胸裡に想い描かれていたのは、まさに右のごとき理想的人間像であったであろう。かくして、ラッセルは、次のように述べて、自己の内に潜在するあらゆる可能性を完全かつ調和的に実現してゆく自由な個人の教育に、「新しい世界を開く鍵」としての絶大な期待をかけているのである。すなわち、「教育が生み出しうる最高の限度にまで、生命力と勇気と感受性と知性とを具備した男女によって構成される社会は、かつて存在したいかなる杜会よりも、甚だ異なったものとなるであろう」と。